原島 保(はらじま たもつ、1913年 <大正2年> 1月1… 原島 保(はらじま たもつ、1913年 <大正2年> 1月1日 - 1989年 <平成元年> 3月31日)は、日本の経営者。日本セメント社長、会長を務めた。東京都出身。位階は正四位。 1936年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に浅野セメント(のちの日本セメント)に入社。1964年12月に取締役に就任し、1969年12月に常務、1972年12月に専務を経て、1974年12月には社長に就任。1982年7月には会長に就任。 1986年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1989年3月31日脳出血のために死去。76歳没。死没日付をもって正四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
加藤 正明(かとう まさあき、1913年1月1日 - 200… 加藤 正明(かとう まさあき、1913年1月1日 - 2003年3月11日)は、日本の医学者・精神科医。 東京出身。東京医学専門学校(現東京医科大学)卒。国立国府台病院医長、国立精神衛生研究所部長、1974年東京医科大学教授、1977年国立精神衛生研究所長。のち富士心身リハビリテーション研究所理事長。専門は薬物乱用やアルコール関連障害、自殺などの社会精神医学的研究。1956年の『異性ノイローゼ』はベストセラーになった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
近藤 鏡ニ郎(こんどう きょうじろう、1913年 - 197… 近藤 鏡ニ郎(こんどう きょうじろう、1913年 - 1975年)は、日本のアイヌ音楽研究家。アイヌ民族の歌謡や文化の記録・研究に尽力した。本名は近藤善兵衛。 宮城県古川市(現・大崎市古川)に生まれる。宮城県立古川中学校(現・宮城県古川高等学校)卒業後、朝日新聞社に入社。戦時中に海軍に応召され、復員後に郷土芸能・アイヌ歌曲の採譜に尽力した。1957年に「ピリカ・ピリカ」の採譜・編曲により芸術祭文部大臣賞、1960年にユーカラ劇「コタンの森」で北海道芸術新賞を受賞。その他、松前神楽の保存活動・研究にも当たった。1969年、北海道文化団体協議会事務局長に就任。 近藤がアイヌ音楽研究家として活動した時期、日本は高度経済成長期にあり、伝統文化や少数民族の文化保存の重要性が再認識されていた。
井上 栄一(いのうえ えいいち、1913年 - 1992年)… 井上 栄一(いのうえ えいいち、1913年 - 1992年)は、日本の実業家。赤城乳業の設立者。 「味覚の天才」といわれていた。 埼玉県大里郡深谷町(現在の深谷市)に生まれる。1930年、旧制熊谷中学校を卒業した。 1938年、父である井上徳四郎が始めた合資会社広瀬屋商店を継承する。 広瀬屋商店は天然氷を商いとしており、特に夏場の氷の需要が多かった。栄一は、天然氷の商いにとどまらず、1949年には冷菓製造に乗り出し、1960年には合資会社赤城乳業と社名を変更した。1961年には組織変更して株式会社赤城乳業を設立した。 1964年、『赤城しぐれ』を開発した。 1961年から1987年まで社長を務めた。
岡田 晟(おかだ あきら、1913年 - 没年不詳)は、日本… 岡田 晟(おかだ あきら、1913年 - 没年不詳)は、日本の漫画家。主に絵本・漫画・挿絵を専門とし、戦後は漫画、紙芝居作家から貸本漫画の表紙絵を担当。つげ義春の『白面夜叉』『涙の仇討』『愛の調べ』の表紙は岡田の手によるもの。山梨県甲府市出身。つげ義春の「義男の青春」の「田山先生」のモデルとして知られる。昭和初期のモダニズムの影響を強く受けた生活ぶりであった。
松田 銑(まつだ せん、1913年 - 2002年)は、日本… 松田 銑(まつだ せん、1913年 - 2002年)は、日本の翻訳家、編集者。岡山県岡山市出身。 1913年(大正2年)岡山県岡山市に生まれる。旧制岡山第一中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、旧制第六高等学校を経て、1939年(昭和14年)東京帝国大学経済学部を卒業する。実家の家業を手伝うが、戦時下、上京して農業関係の団体に就職。横浜正金銀行、日本銀行、ワシントンD.C.の世界銀行、メルボルンのオーストラリア放送協会、『リーダーズ・ダイジェスト』日本語版編集長などを務め、翻訳家となる。アレックス・ヘイリー『ルーツ』の翻訳で知られる。 映画監督の内田吐夢の甥にあたる。
真野 さよ(まの さよ、1913年 - )は、日本の小説家、… 真野 さよ(まの さよ、1913年 - )は、日本の小説家、詩人。 高知県出身。1955年、広島県立高等女学校(現広島県立広島皆実高等学校)卒業、1958年、日本女子大学国文学部中退。 戦後、河井醉茗の塔影社に入り創作活動を開始し、1977年、詩集『葡萄祭』出版。小説『蜂』にて婦人公論新人小説賞受賞。 読売新聞「人生案内」の回答者として活躍するほか、各地で「伊勢物語」「枕草子」などの古典文学や女性問題などの講義を重ねた。
吉田 義三(よしだ よしぞう、1913年 - 1992年)は… 吉田 義三(よしだ よしぞう、1913年 - 1992年)は、日本の経済学者・大阪市立大学教授。専攻は景気変動論、経済政策論。 大正2年、兵庫県に生まれる。1936年大阪商科大学卒。大阪市立大学教授。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
池田 正一郎(いけだ しょういちろう、1913年 - 201… 池田 正一郎(いけだ しょういちろう、1913年 - 2017年9月)は、日本の歴史家。 兵庫県武庫郡御影町(現神戸市)に生まれる。1932年大阪箕面の梅路見鸞武禅道場に入門。京都帝国大学文学部支那文学語学専攻卒。東京帝国大学大学院在籍。応召しジャワに上陸、東南アジア各地を転戦。1947年夏帰国。新制中学、高等学校に勤める。退職後、自宅道場内で弓道指導に励む。海老名市文化財保護委員、市史編纂審議会長、環境保全審議会長、相模国分寺跡保存整備委員、海老名市弓道協会会長などを務めた。104歳で死去。
山本新(やまもと しん、1913年 - 1980年)は、日本… 山本新(やまもと しん、1913年 - 1980年)は、日本の文明学者。兄は牧師の山本和。 岡山県生まれ。1937年京都帝国大学哲学科卒。1960年「文明論」で法政大学文学博士。のち神奈川大学教授。在職中に死去。 はじめラインホルト・ニーバー、のちアーノルド・J・トインビーの影響を受けた。
副島 廣之(そえじま ひろゆき、1913年 - 2007年)… 副島 廣之(そえじま ひろゆき、1913年 - 2007年)は、昭和・平成時代の神職、政治活動家。明治神宮権宮司。「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」の両団体の初代事務総長を務め、日本会議に連なる保守運動に挺身した。 広島県広島市生まれ。佐賀藩の須古鍋島家の家臣の副島家に生まれる。父親の副島知一は副島家第13代に当たる。1934年、國學院大學神道部を卒業した。 熊野那智大社、坐摩神社に勤めたのち、1940年に明治神宮に入った。1945年4月の空襲で本殿が焼失すると、戦後、御社殿の戦災復興募金活動や御社殿の復興に尽力したとされる。明治神宮の権宮司をつとめるとともに明治神宮崇敬会の事務局長、理事長、副会長として組織の発展に貢献した。
伊沢 凡人(いざわ ぼんじん、1913年 - 2008年4月… 伊沢 凡人(いざわ ぼんじん、1913年 - 2008年4月)は、漢方医、薬物療法学者。 山梨県生まれ。本名・光三。東京帝国大学医学部・生薬学教室選科卒。1960年「ダイオウの薬理学的作用機転に関する実験的研究」で徳島大学医学博士。鍼灸師。日本大学講師、東京都嘱託などを経て、都下の医療用植物資源調査のかたわら、いざわ漢法ビル2Fクリニックを開く。同顧問、漢法科学財団代表理事、東洋医学国際研究財団評議員、東京都生薬協会相談役などを務め、福島県安達太良山山麓に薬草園も設営。息子の伊沢和光は順天堂大学医学博士、いざわ漢法クリニック代表。
國方 秀男(くにかた ひでお、1913年 - 1993年)は… 國方 秀男(くにかた ひでお、1913年 - 1993年)は、日本の建築家。富山県生まれ。
佐藤 公一(さとう こういち、1913年(大正2年) - 1… 佐藤 公一(さとう こういち、1913年(大正2年) - 1991年(平成3年))は、日本の農業技術者。元農林省技官。日本で初めて柑橘水耕栽培を行った。農学博士。静岡市出身。 安倍郡美和村(現在の静岡市)に生まれる。静岡県立静岡中学校を経て、旧制静岡高等学校卒業。東京帝国大学卒業。農林省園芸試験場(興津)見習生終了後、1938年(昭和13年)、静岡県、山形県、山梨県農業試験場を経て、1946年(昭和21年)、米軍水耕農場の管理に雇用される。1947年(昭和22年)、農林省園芸試験場東海支場(興津)。1950年(昭和25年)、農業技術研究所園芸部(平塚)に転出、果樹部長を経て、1967年(昭和42年)、園芸試験場興津支場長。
堤 清(つつみ きよし、1913年(大正2年) - 没年不明… 堤 清(つつみ きよし、1913年(大正2年) - 没年不明)は日本の実業家。父は実業家・政治家の堤康次郎。 1913年、当時早稲田大学の学生であった堤康次郎(後の西武グループ創業者)の長男として生まれる。母は、当時康次郎が経営していた日本橋蛎殻町の三等郵便局に勤務していた事務員・岩崎ソノで、康次郎とソノは未入籍であった。 父・康次郎は清を自らの後継者として育てようとしていたが、清は東京帝国大学卒業後に母・ソノの不用意な発言を理由に、廃嫡とされる。廃嫡後、近江鉄道の社長に就任するも一族のもとから去り、その後の経歴については不明な点が多い。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
吉田 健一郎(よしだ けんいちろう、1913年 - 1991… 吉田 健一郎(よしだ けんいちろう、1913年 - 1991年)は、日本の外交官。外務省賠償部長、駐ハンガリー特命全権大使、駐シンガポール特命全権大使、駐ニュージーランド特命全権大使。 愛媛県出身。1933年第一高等学校文科甲類卒業。1936年東京帝国大学法学部政治学科卒業、外務省入省。1948年連絡調整中央事務局第一部連絡課長。1949年連絡調整中央事務局第一部総務課長。同年外務省政務局情報部文化課長。1952年在ロスアンゼルス日本政府在外事務所所長。1952年在ロサンゼルス日本国総領事館総領事。同年外務省情報文化局第一課長。外務省情報文化局外務参事官を経て、1957年外務省アジア局賠償部調整課長。
安藤 武伯(あんどう たけのり、1913年(大正2年) - … 安藤 武伯(あんどう たけのり、1913年(大正2年) - 2010年 <平成22年> 9月19日)は、日本の建築家。位階は正五位。 仙台高等工業学校(現・東北大学工学部)卒業後の1938年(昭和13年)から宮内省に奉職、内匠寮匠生に採用され、1939年(昭和14年)に宮内技手を拝命。その後招集、復員を経て、宮内庁に勤務した。 1956年(昭和31年)に宮内庁管理部工務課建築第一係に所属、1957年(昭和32年)からは宮殿造営調査室積算主任、そして係長となる。1963年(昭和38年)には臨時皇居造営部造営課の課長績佐、および総括課長補佐をつとめる。1969年(昭和44年)から管理部工務課に戻り課長補佐、および宮殿造営記録編集員として勤務、1973年(昭和48年)に工務隷長。
塩田 紀和(しおた のりかず、1913年〈大正2年〉 - 没… 塩田 紀和(しおた のりかず、1913年〈大正2年〉 - 没年不詳)は、日本の国語学者。1938年東北帝国大学文学部国文科卒、1941年東京帝国大学大学院修了、聖学院中学校教諭、府立武蔵高等女学校教諭、文部省国語課専門員、星美学園短期大学教授、東京キリスト教短期大学教授。
倉内 大次(くらうち だいじ、1913年 - 生没不明)は、… 倉内 大次(くらうち だいじ、1913年 - 生没不明)は、日本のフィールドホッケー選手。 東京商科大学出身。1936年ベルリンオリンピックホッケー競技に出場した。 伊藤赳夫 | 伊藤通弘 | 上野安夫 | 大津敏雄 | 菊池信 | 倉内大次 | 酒井義雄 | 杉山益男 | 武知治 | 田中昇 | 浜田駿吉 | 村岡敏 | 柳武彦 | 脇坂貞夫 | 監督: 石川周策 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
丸杉 孝之助(まるすぎ こうのすけ、1913年〈大正2年〉 … 丸杉 孝之助(まるすぎ こうのすけ、1913年〈大正2年〉 - 没年不詳)は、日本の農業技術者。元農林省技官。元琉球大学教授。沖縄農業の数少ない権威者と評された。農学博士。静岡県出身。 静岡県藤枝市に生まれる。静岡県立静岡中学校に学ぶ。1937年(昭和12年)、北海道帝国大学農学部卒業。1949年(昭和24年)、農林省開拓研究所東北支所長。1961年(昭和36年)、山梨県農業試験場長。1967年(昭和42年)、総理府琉球模範農場管理責任者(那覇市)。1972年(昭和47年)、熱帯農業センター沖縄支所長(石垣市)。1974年(昭和49年)、琉球大学農学部熱帯農学研究施設教授(竹富町西表)。同年、『亜熱帯における畑作経営方式に関する研究』で、日本熱帯農業学会賞受賞。
服部 慎吾(はっとり しんご、1913年 - 1995年)は… 服部 慎吾(はっとり しんご、1913年 - 1995年)は、元アメリカンフットボール選手。戦後にアメリカンフットボールの復興に尽力し、日本アメリカンフットボール協会理事長を務めた。日本アメリカンフットボール殿堂顕彰者。 立教大学予科を経て、1935年に立教大学に入学。予科在学中からアメリカンフットボールを始め、アメリカンフットボール部のセンターとして活躍。1939年、立教大学卒業。 1940年に応召し、札幌の歩兵部隊に従軍する。 終戦後、関東地区のフットボールの復興に戦前からの仲間とともに尽力。戦後再来日したポール・ラッシュとともに、チームの復興を進め、グラウンドの手配や防具の準備など、運営の中心人物として活躍する。
水谷 盛光(みずたに もりみつ、1913年(大正2年) - … 水谷 盛光(みずたに もりみつ、1913年(大正2年) - 1998年(平成10年))は、愛知県小牧市出身の郷土史家。 1913年(大正2年)、愛知県西春日井郡北里村に生まれる。北里村立北里小学校卒業後、小牧中学校に進む。このとき、後に郷土史家となる市橋鐸に学ぶ。1930年(昭和5年)、名古屋市役所に採用される。港区・中村区・中区などの区長を歴任した。港区長在任中には、当地の古老からの聞き取りを元にした『港区のおいたち聞き書き』を物している。退職後、郷土史家として本格的に活躍。代表的な成果に青松葉事件の研究があり、これは城山三郎の『冬の派閥』執筆の際に参考資料として用いられたとされる。1998年(平成10年)没。
蓬郷 巌(ほうごう いわお、1913年 - 1998年)は、… 蓬郷 巌(ほうごう いわお、1913年 - 1998年)は、岡山県津山市河辺出身の官吏、郷土史家。 1913年岡山県で生まれる。本籍地は、津山市河辺である。1930年、金川中学校(現・金川高校)卒業後、岡山県職員となる。 以後、警察官、兵隊、県広報主幹、県民課長などを歴任し、1969年、退職。 1969年から、県政史、県議会史の編纂を嘱託され、その後、岡山県郷土史に関する数多くの著書を出版する。 また、岡山市半田町に在住し、半田町元町町内会の初代会長を務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
堀 豊次(ほり とよじ、1913年 - 2007年)は、富山… 堀 豊次(ほり とよじ、1913年 - 2007年)は、富山県井波町(現:南砺市)出身の川柳家。 詩集「天馬 (1), (2),(3), (4) , (5), (6), (7), (8) , (10 ), (11), (12)」 国立国会図書館所蔵 天馬発行所1956- この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
松前 ピリカ(まつまえ ピリカ、1913年 - 1976年)… 松前 ピリカ(まつまえ ピリカ、1913年 - 1976年)は、北海道平取町出身の民謡歌手。本名、平村花子。 ピリカ(pirka)はアイヌ語で「美しい」「良い」という意味。 平取小学校を卒業後、17歳で芸能の道を志し、旅芸人の一座に参加し、ピリカ花子と名乗った。20歳から松前ピリカを名乗った。家族については詳しい記録が限られるが、民謡歌手の初代浜田喜一に関する伝記的記述では、浜田が二代目玉子と結婚する際に「松前ピリカ夫妻」が仲人を務めたとされる。この記述からは配偶者の存在がうかがえる。美声で知られ、「松前ピリカ一座」を主宰し数十名の団員を引き連れ、各地を巡業し、一世を風靡した。また、津山洋子・高樹一郎らの後輩を養成した。
片岡 誓(かたおか ちかい、1913年 - 1997年)は洋… 片岡 誓(かたおか ちかい、1913年 - 1997年)は洋画家、二紀会同人、サロン・ド・パリ委員、日本美術家連盟会員。 1913年岡山県真庭郡中和村(現:真庭市)で片岡家の7人兄弟の末っ子として生まれる。幼少より県の絵画展などで特賞を取るなどし、将来、画家を目指そうと幼心に決意。 姫路師範学校(現:神戸大学)で教師の資格を得、教鞭をとる一方で、二紀会の田村孝之介に師事する。抽象画に新たな表現法を見出し、神戸二紀会の有望若手画家として活躍。毎年東京で個展を開催し高い評価を得る。 その後、イタリア・ローマ美術院館長の招聘により渡欧、ほどなくパリに下宿しモンパルナスのアカデミー・グランショミエールに学び、西洋絵画の本場で学ぶうちに後期印象派、とり分けアンリ・マティスに惹かれ、色彩豊かな画風を確立していった。
鎌田 正蔵(かまた まさぞう、1913年 - 1999年)は… 鎌田 正蔵(かまた まさぞう、1913年 - 1999年)は、日本の洋画家、シュールレアリズム(超現実主義)運動画家。 福島県立美術館、郡山市立美術館、小野町ふるさと文化の館美術館
神澤 康夫(かみざわ やすお、1913年 - 没年不明)は日… 神澤 康夫(かみざわ やすお、1913年 - 没年不明)は日本の歯学者(歯科理工学)。東京医科歯科大学名誉教授。
九里 正(くのり ただし、1913年 - 1944年)は、日… 九里 正(くのり ただし、1913年 - 1944年)は、日本の元アマチュア野球選手。父は日本の洋画家・九里四郎。祖父に海軍主計大監・貴族院議員の南郷茂光。伯父に海軍少将・南郷次郎、南郷三郎がいる。
太田 祐一(おおた すけかず、1913年 - 1998年)は… 太田 祐一(おおた すけかず、1913年 - 1998年)は日本の自動車技術者・自動車デザイナー。1957年(昭和32年)に日本内燃機と合併するまで存在していた日本の自動車メーカー・オオタ自動車工業の創業者・太田祐雄の長男である。 父・祐雄が巣鴨郊外に個人経営の「太田工場」を開業、教材用の小型発動機、模型飛行機、オートバイ部品製造に着手した翌年に出生。少年時代から父の仕事を手伝い、府立実科工業学校機械科在学中も、教師の許可を得て製図の時間に父の描いた図面のトレースを行っていた。 父の町工場が三井財閥の出資で、資本金100万円の「高速機関工業」に改組された翌年の1936年(昭和11年)、同社に入社。
石上 良平(いしがみ りょうへい、1913年 - 1982年… 石上 良平(いしがみ りょうへい、1913年 - 1982年11月9日)は、日本の政治学者。専門は社会思想史、特にイギリス政治思想研究。1949年に開設された創立期の成蹊大学で丸山眞男らと共に政治経済学部教授を務めた。 旧制静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校文科甲類を経て、1936年、東京帝国大学経済学部卒業。河合栄治郎門下生。1949年、成蹊大学政経学部教授。政治学概論と社会思想史を担当した。1967年、退職。
橋本 梧郎(はしもと ごろう、1913年 - 2008年8月… 橋本 梧郎(はしもと ごろう、1913年 - 2008年8月26日)は、ブラジルの生物学者(植物学)、博物学者。勲等は勲五等。学位は名誉博士(静岡県立大学)。称号は小笠町名誉町民。サンパウロ博物研究会顧問。 1913年生まれ。静岡県小笠郡小笠町出身。 静岡県立掛川中学校卒業。 1934年、単身ブラジルに渡る。ブラジルの農学校を卒業して以来、博物館職員や学校教師としての活動のかたわら植物採集を続けた。生涯をかけて集めた標本は10万とも15万ともいわれ、個人が所蔵する植物標本としては世界最大である。1950年、植物愛好家らを組織化しサンパウロ博物研究会を設立した。 ブラジルに帰化し、サンパウロ州サンパウロ市にて植物研究を続けていたが、2008年、多臓器不全により死去。
河野 扶(かわの たすく、1913年(大正2年)- 2002… 河野 扶(かわの たすく、1913年(大正2年)- 2002年(平成14年)8月14日)は、日本の洋画家。
浅井 得一(あさい とくいち、1913年 - 2003年)は… 浅井 得一(あさい とくいち、1913年 - 2003年)は、日本の地理学者(地理教育)・軍人。 東京生まれ。旧制武蔵高等学校文科甲類を経て、1936年(昭和11年)京都帝国大学文学部地理学専攻卒。大学卒業後、すぐに旧制立教中学校の専任教員となり、1941年(昭和16年)まで地理と歴史を教えた。 小牧実繁らの大東亜地理学派の一人。戦時下の1942年(昭和17年)12月、南方軍情報官としてビルマに赴任、陸軍司政官となる。1944年(昭和19年)4月25日、南方軍ビルマ方面軍・磯村武亮参謀副長の示唆を受け、ビルマ国国家主席・バー・モウの暗殺を企てるが、ビルマ兵の警戒により失敗、逮捕されるも日本へ帰される。
李 永浩(イ・ヨンホ、朝鮮語: 이영호、1913年 - 19… 李 永浩(イ・ヨンホ、朝鮮語: 이영호、1913年 - 1988年6月15日)は、大韓民国の実業家、政治家。第7代韓国国会議員。 黄海道出身。中央大学法学部卒。株式会社黄海社社長、海州市民会会長、東洋塗料株式会社取締役社長、農林(豊林)建設株式会社取締役会長、全国シルム協会会長、黄海道道民会長、民主共和党京畿道支部事務局長・中央党紀委員、第7代国会全国区国会議員を務めた。 1988年6月15日、ソウル大病院で老衰により死去。享年75。
金 用鉉(キム・ヨンヒョン、朝鮮語: 김용현、1913年また… 金 用鉉(キム・ヨンヒョン、朝鮮語: 김용현、1913年または1914年2月18日 - 没年不詳)は、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。 本貫は羅州金氏(朝鮮語版)。第2代国会議員を務めた金用茂は兄。 全羅南道務安郡夢灘面出身。ソウル校洞国民学校(現・ソウル校洞初等学校(朝鮮語版))卒。ソウル中央中学校(朝鮮語版)4年修了。中央大学法科卒。故郷で農業に従事した後、1948年の初代総選挙で国会議員に当選し、韓国民主党務安郡党委員長を務めた。 朝鮮戦争の際、北朝鮮に拉致され以後消息不明。
窪田 志一(くぼた しいち、1913年〈大正2年〉 - 19… 窪田 志一(くぼた しいち、1913年〈大正2年〉 - 1984年〈昭和59年〉4月1日)は、鹿児島県日置郡伊集院町(現:日置市)出身の歴史家、政治運動家 彼の歴史研究は、祖母の福永ウメより、家伝の『かたいぐち記』『異端記』という古文書を渡されたことに始まる。。この『かたいぐち記』『異端記』に、記されていた岩屋梓梁(いわやしんりょう)の業績調査のため南九州各地をまわり、その後研究結果を自家出版した。 彼の著作中、祖母の福永ウメから受け継いだ『かたいぐち記』『異端記』のことは、まとめて「易断史料」と呼ばれていることが多い。この「易断史料」については、最後まで公開が行われず、また著書の中でも、原文らしきものがほとんど引用されていないことから、その実在自体も疑われる。
田中 久夫(たなか ひさお、1913年(大正2年)- 199… 田中 久夫(たなか ひさお、1913年(大正2年)- 1997年(平成9年)7月12日)は、日本の歴史学者。専門は日本仏教史、鎌倉仏教。 東京生まれ。1936年東京帝国大学文学部国史学科卒業。国民精神文化研究所、千葉師範学校女子部勤務を経て、千葉大学教育学部教授。1977年定年退官、名誉教授。
吉田 正俊(よしだ まさとし、1913年 - 1998年11… 吉田 正俊(よしだ まさとし、1913年 - 1998年11月8日)は、日本の英文学者。 東京生まれ。1940年東京文理科大学英文科卒。福原麟太郎に師事。共立女子大学助教授、教授、1984年定年、名誉教授。フランス文学者・吉田城は息子。
斎藤 錬一(さいとう れんいち、1913年 - 1983年1… 斎藤 錬一(さいとう れんいち、1913年 - 1983年10月31日)は、日本の気象学者。理学博士。 1913年、静岡県生まれ。旧制静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校理科甲類、東北帝国大学理学部物理学科卒業。札幌気象台予報課長・観測課長、気象庁海上気象課長、気象庁統計課長、気象庁予報課長、福岡管区気象台長、気象庁観測部長、気象庁予報部長、気象大学校講師。(判明分) この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
森友 三治(もりとも さんじ、1913年〈大正2年〉 - 1… 森友 三治(もりとも さんじ、1913年〈大正2年〉 - 1940年〈昭和15年〉3月22日)は、日本の官僚。1932年7月に設立された満州国の官吏養成機関である大同学院第一部第九期生である。大同学院は、満州国の現職中堅官吏の補足養成機関であり、6ヶ月乃至1年間同一寮内にて寝食を共にして研究に励んだと言われている。 大正2年、福岡県田川郡勾金村(現・福岡県田川郡香春町)に生まれる。1934年〈昭和9年〉3月、鳥取高等農業学校(現・鳥取大学農学部)卒業後、中央省庁を経て、満州帝国大同学院第一部第九期生として同学院を修了、満州国龍江省明水県の参事官となる。1940年〈昭和15年〉3月に起きた五原事件によって27歳の若さでこの世を去ることとなった。
森田 武(もりた たけし、1913年 - 1994年9月28… 森田 武(もりた たけし、1913年 - 1994年9月28日)は、日本の国語学者、広島大学名誉教授。 1934年、広島高等師範学校卒業。1936年、広島文理科大学文学科卒業。朝鮮総督府大邱師範学校、広島高等師範学校教諭を経て、広島大学皆実分校教授に就任。広島大学教養部、広島大学総合科学部の教授を歴任した。1961年「長崎版日葡辞書の研究」で広島大文学博士。1976年、定年退職、名誉教授、安田女子大学教授。
大旗 正二(おおはた しょうじ、1913年 - 没年不詳)は… 大旗 正二(おおはた しょうじ、1913年 - 没年不詳)は、日本の建築家。 宮島町庁舎(昭和43年コンペ一等当選、昭和44年)、酔心ビル本店(昭和46年)、宮島町立宮島中学校体育館(昭和46年)、般舟寺(昭和44年)社会保険中京病院と「光庭」(昭和45年)岡山済生総合病院(昭和46年)など。この他、タシュケント・オペラ劇場の壁面装飾デザイン、広島市中央公園噴水の台座(モニュメント共作、北村西望と大旗正二)や平和の時計塔(1967年10月28日広島鯉城ライオンズクラブにより建立)ほか。
大沢 寛三(おおさわ ひろみ、1913年 - 2001年12… 大沢 寛三(おおさわ ひろみ、1913年 - 2001年12月8日)は、日本の美術史家、翻訳家。 東京生まれ。早稲田大学仏文科卒。朝日新聞記者。女子美術大学講師。1978年、ひろしま美術館副館長。千葉そごう美術館館長。
金 相道(キム・サンド、朝鮮語: 김상도、1913年または1… 金 相道(キム・サンド、朝鮮語: 김상도、1913年または1914年8月19日または1917年 - 1986年12月5日)は、大韓民国のシルム選手、実業家、政治家。初代慶尚北道議会(朝鮮語版)議員、第3・4代韓国国会議員を歴任した。 日本統治時代の慶尚北道永川郡(現・永川市)出身。嶠南学校2年修了または中退、早稲田大学法文学部校外生・講義録修了。嶺南体育会理事、慶北果物同業理事、慶北織物同業理事、大韓武術会副会長、慶北食糧対策委員、慶尚北道議会議員、琴湖学園理事長、第3・4代国会懲戒資格委員会委員長、第4代国会馬山事件調査特別委員会委員長、自由党永川甲区党委員長・慶尚南道党組織部長・中央監察部長、民衆党慶北第14地区党委員長を務めた。