河野 齢蔵(こうの れいぞう、元治2年2月8日(1865年3… 河野 齢蔵(こうの れいぞう、元治2年2月8日(1865年3月5日) - 昭和14年(1939年)4月3日)は高山植物学の権威、教育家、山岳写真家の草分け。河野常吉は実兄、著述家の河野義行は孫娘の夫にあたる。 信濃国安曇郡犬飼新田村(現長野県松本市島内)に庄屋を務めた河野通重の四男として生まれる。1889年長野師範学校卒業。上水内学校訓導を命ぜられ、1890年に大町小学校長となる。 1897年長野師範教諭、同年長野高等女学校教諭、1902年下伊那高等女学校教諭などを経て、1906年長野県諏訪高等女学校、長野県松本女子師範学校などの教頭、1913年上伊那農学校校長、1916年長野高等女学校校長、1922年諏訪高等女学校校長などを歴任した。
荒木 栄蔵(荒木 榮藏、あらき えいぞう、旧姓・鍵岡、186… 荒木 栄蔵(荒木 榮藏、あらき えいぞう、旧姓・鍵岡、1865年3月5日〈慶応元年2月8日〉 - 1934年〈昭和9年〉9月24日)は、日本の商人(皮革商、皮革貿易商)、資産家、実業家。族籍は大阪府平民。 和歌山市生まれ。鍵岡惣四郎の三男。1881年、荒木栄蔵の養子となる。1913年に先代が逝去し、義弟栄典の後を襲い家督を相続する。 荒木商店という商号の下に家業を継承し、皮革貿易商に従事する。大阪皮革商同業組合組長、六甲製革取締役、西浜土地建物取締役・同社長、共榮合名会社代表社員などをつとめる。 また公共事業に尽力する。賞勲局総裁より褒章を、また日本赤十字社社長より有功章を下賜される。 『部落の人豪』によると「西浜部落の大資産家である」という。
加藤 公平(かとう こうへい、1865年3月4日(元治元年2… 加藤 公平(かとう こうへい、1865年3月4日(元治元年2月7日) - 1923年(大正12年)8月5日)は、戦前日本の政治活動家、実業家、教育者。 本名は加藤 正雄(かとう まさお)。石見国安濃郡(現・島根県大田市)出身。波根東村上川内本加藤家13代目当主。 明治期に石見地方で展開された自由民権運動において、明治自由党石陽部に加わり、小原鉄臣、堀哲三、米田和一らと活動を共にした。 波根八幡宮の偽党撲滅会は、社殿の中央に演台を設け壇上には緋毛布を敷き白地に赤文字で偽党撲滅怪社退治と記した幕を、社殿中は 一面に商燈を点じ聴衆数百人に演説を促がしたものであった。 『第一席には、多久礼造が偽党撹滅去の組合という題にて改進党が偽党であることを弁じ立憲改進党を撲滅するは今日の急務であると演じた。
安部 磯雄(あべ いそお、1865年3月1日〈元治2年2月4… 安部 磯雄(あべ いそお、1865年3月1日〈元治2年2月4日〉- 1949年〈昭和24年〉2月10日)は、日本の教師、牧師、経済学者、社会主義者、政治家。 キリスト教的人道主義の立場から社会主義を活発に宣伝し、日本社会主義運動の先駆者であった。また、日本における野球の発展に貢献し「日本野球の父」と呼ばれる。早稲田大学野球部創設者でもある。 福岡藩士岡本権之丞の次男として現在の福岡市に生まれる。安部姓を名乗るようになったのは徴兵忌避のためである。当時60歳以上の扶養家族がいれば徴兵免除の特典が与えられたため、60歳以上の老人のいる家を探して謝礼を支払い名義上安部家の養子となる。 小学校を卒業したのち附属小学校に進んで山座円次郎、不破彦麿、塚本道遠らと級友となり、1879年3月に優秀な成績で卒業したが、実家が貧しかったこと、付近に中学が設立されていなかったこともあり、地元の漢学塾に入門した。
井深 花(いぶか はな、1865年3月1日(元治2年2月4日… 井深 花(いぶか はな、1865年3月1日(元治2年2月4日) - 1949年(昭和24年)9月13日) は、明治時代の教育者。井深梶之助の後添えである。 1865年に備前国児島郡天城村(現・岡山県倉敷市)に天城藩士・大島協悠の5女として生まれた。兄の大島一雄も教育者。1884年に神戸英和女学校(神戸女学院)に入学。1886年に神戸教会で松山高吉から洗礼を受ける。 1889年に卒業し、鳥取女学校の英語教師になる。結婚に失敗し、1891年米国マウント・ホリヨーク大学に留学する。帰国後、1895年に神戸女学院理化学教授になる。1899年12月に教授を辞職して、1896年明治学院総理であった井深梶之助と結婚する。
白鳥 庫吉(しらとり くらきち、1865年3月1日(元治2年… 白鳥 庫吉(しらとり くらきち、1865年3月1日(元治2年2月4日) - 1942年(昭和17年)3月30日)は、日本の東洋史家。東京帝国大学(現:東京大学)教授、東洋文庫理事長を歴任した。専門は東洋史。文学博士。邪馬台国北九州説の提唱者として有名。 上総国長柄郡長谷村(現:千葉県茂原市)に、白鳥嘉一郎と徳の次男として生まれる。戸籍名は倉吉であるが、これは村役人が誤って登録した名前である。庫吉本人も本名は庫吉と語っていた。 1879年、千葉中学に入学。当時師範学校校長兼千葉中学校総理であった那珂通世や、物理と化学を教えていた三宅米吉に出会う。1883年、千葉中学を主席で卒業、1887年一高卒業、1887年帝国大学(のち東京帝国大学、現:東京大学)文科大学(現:東京大学文学部)史学科に入学。
金井 延(かない のぶる、1865年2月26日〈元治2年2月… 金井 延(かない のぶる、1865年2月26日〈元治2年2月1日〉 - 1933年〈昭和8年〉8月13日)は、日本の法学者・経済学者・社会政策学者。学位は、法学博士。日露戦争開戦に際し、強硬に主戦論を主張したことで知られる。戸水寛人らを含む「東大七博士」のひとり。 静岡県出身。東京帝国大学を卒業した後、ドイツへ留学し、グスタフ・フォン・シュモラー、アドルフ・ワグナーらに師事。帰国後は社会政策学会に参加しその中心メンバーになるとともに、東京帝国大学にて、法科大学教授。同大学で1919年に経済学部が新設されると、初代学部長。1925年まで教授を務めた。ドイツにて修得した経済学、社会政策の立場に基づき、帰国後社会政策学会に参加して中心メンバーとなり、自由主義経済への批判や、国家による労働者の保護および金銀複本位制度などの提唱を行った。
堀口 九萬一(ほりぐち くまいち、1865年2月23日〈元治… 堀口 九萬一(ほりぐち くまいち、1865年2月23日〈元治2/慶応元年1月28日〉 - 1945年〈昭和20年〉10月30日)は、日本の外交官(特命全権公使)、漢詩人、随筆家。号は長城。詩人・堀口大學の実父。 越後長岡藩の足軽(銃卒)堀口良次右衛門の長男として古志郡長岡城下に生まれる。北越戦争で旧暦明治元年6月に父が戦死、翌年2月に幼くして家督を相続した。 明治5年より手習師匠渋川金吾に就き、2年半ほど読み書きを習った後、藤野友徳の漢学塾及び阪之上小学校へ通学。数え15歳で小学校教員を務めながら、叔父・岩神澄海の菁莪塾で学んだが、小林雄七郎の「偉くなるには英語をやらなければ駄目だ」という助言に従い、1883年(明治16年)春に19歳で長岡中学校に入学。
張 二男松(ちょう におまつ、1865年(慶応元年)2月23… 張 二男松(ちょう におまつ、1865年(慶応元年)2月23日 - 1952年(昭和27年))は、日本の教育家。佐賀県師範学校及び長崎県女子師範学校元校長。元トヨタ自動車株式会社名誉会長・張富士夫の祖父。従五位勲五等。族籍は佐賀県士族。 唐津町出身。長崎県師範学校中等師範科卒業。卒業後、同校教諭、諫早中学、小城中学教諭を経て、1884年(明治17年)7月佐賀中学兼佐賀県師範学校教諭に就任。 1886年(明治19年)、教育令改正と共に師範学校教諭となり、1918年(大正7年)に長崎県女子師範学校、1921年(大正10年)に佐賀県師範学校校長となる。 1927年(昭和2年)5月、退職。
小川 正孝(おがわ まさたか、1865年2月21日(元治2年… 小川 正孝(おがわ まさたか、1865年2月21日(元治2年1月26日) - 1930年(昭和5年)7月11日)は、日本の化学者。東北帝国大学総長兼教授。 松山中学(現在の愛媛県立松山東高等学校)から東京大学に学ぶ。1890年6月から1896年8月にかけて、静岡県尋常中学校で数学・物理・化学の教員を務めた。ロンドン大学のラムゼー研究室に留学。 2年間の留学中、トリウム鉱石のトリアナイト(方トリウム石、ThO2)の中に新元素を探す研究を行った。1906年の帰国後も研究を続け、1908年、「原子量が約100の43番目の元素」を発見し、ニッポニウム (Nipponium: Np) と命名したと発表した。
田中 一寧(たなか いちねい、元治2年1月19日(1865年… 田中 一寧(たなか いちねい、元治2年1月19日(1865年2月14日) - 昭和20年(1945年)8月6日)は、日本の教育者。
内田 定槌(うちだ さだつち、1865年2月12日〈元治2年… 内田 定槌(うちだ さだつち、1865年2月12日〈元治2年1月17日〉- 1942年〈昭和17年〉6月2日)は、日本の外交官。駐ブラジル公使、駐スウェーデン公使、駐トルコ大使。 豊前国小倉(現在の福岡県北九州市)出身。1889年(明治22年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、外務省試補となった。翌年、上海副領事となり、漢城領事、ニューヨーク領事、同総領事を歴任した。1906年(明治39年)にブラジル弁理公使となり、翌年に特命全権公使となった。その後、スウェーデン公使に就任し、デンマーク公使、ノルウェー公使も兼ねた。1920年(大正9年)、トルコに派遣され、のち大使に昇格した。 退官後は日土協会会長、日土貿易協会顧問を務めた。
丸尾 光春(まるお こうしゅん、元治2年1月16日(1865… 丸尾 光春(まるお こうしゅん、元治2年1月16日(1865年2月11日) - 大正12年(1923年)4月2日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)。医師。 播磨国朝来郡生野町(現在の兵庫県朝来市)に福井又次郎の二男として生まれ、丸尾八右衛門の養子となった。1887年(明治20年)、兵庫県立神戸医学校を卒業。生野町会議員、朝来郡会議員、同議長、兵庫県会議員、同副議長に選ばれた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
山田 珠一(やまだ しゅいち、元治2年1月15日(1865年… 山田 珠一(やまだ しゅいち、元治2年1月15日(1865年2月10日) - 昭和9年(1934年)4月17日)は、日本の衆議院議員(帝国党→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会→憲政会)。熊本市長。 豊後国国東郡草地村(現在の大分県豊後高田市)出身。少年時代から漢学を修め、秀才の評判が高かった。済々黌に入学、教師や生徒の間から「今度大分から来た山田は非常に秀才だ。」と喧伝されていた。済々黌で生涯の畏友となる安達謙蔵と出会い、ドイツ語を学び、その学才を佐々友房から高く評価された。卒業後は在学中から手伝っていた九州日日新聞社に入り、主筆を経て、1899年(明治32年)に社長に就任した。また熊本市会議員、市会議長も務め、1902年(明治35年)の第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
金子 銓太郎(かねこ せんたろう、元治2年1月15日(186… 金子 銓太郎(かねこ せんたろう、元治2年1月15日(1865年2月10日) - 昭和12年(1937年)11月18日)は、日本の文部官僚、教育者。 東京府出身。1889年(明治22年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。一年志願兵として、1891年(明治24年)に陸軍歩兵少尉となり、1895年(明治28年)に陸軍歩兵中尉に昇進し、さらに日露戦争に出征して陸軍歩兵大尉に昇進した。その間、大分県尋常中学校校長、大阪府第一尋常中学校校長を経て、1899年(明治32年)に陸軍教授となり、さらに文部省図書審査官、大阪府視学官、学習院教授を務めた。 その後、高知県立第一中学校校長、愛知県立第一中学校校長などを経て、1910年(明治43年)に第六高等学校校長に就任した。
岩佐 新(いわさ あらた、1865年2月10日(慶応元年1月… 岩佐 新(いわさ あらた、1865年2月10日(慶応元年1月15日)– 1938年(昭和13年)10月24日)は、日本の華族、医師。貴族院男爵議員。 明治天皇の侍医を務めた男爵岩佐純の長男として福井に生まれる。大学予備門で学んだ後、1884年(明治17年)に大山巌欧州使節団、郷誠之助、松平康荘らとともに渡欧し、ウィーンを経て、1885年冬学期にミュンヘン大学に学籍登録し、1892年(明治25年)にフライブルク大学より医学博士の称号を得た。翌年からはミュンヘン大学で内科助手を務めた。ミュンヘン時代に画家の原田直次郎、陸軍軍医の森林太郎(森鷗外)と3人で映った写真が『新潮日本文学アルバム 森鴎外』(1985年刊)に収録されている。
飯塚 春太郎(いいづか はるたろう、1865年2月6日(慶応… 飯塚 春太郎(いいづか はるたろう、1865年2月6日(慶応元年1月11日)- 1938年(昭和13年)1月8日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 上野国山田郡、のちの群馬県山田郡広沢村(現桐生市広沢町)で、賀茂神社祠官・飯塚二葉の長男として生まれる。群馬県中学校(現群馬県立前橋高等学校)を卒業し、1882年(明治15年)家督を相続。1890年(明治23年)東京法学院(現中央大学)英語法科を卒業した。 広巾輸出絹織物製造業を営む。桐生織物同業組合長、渡良瀬水電取締役、日本絹撚取締役、両毛整織社長などを務め、桐生の織物業の近代化に貢献した。 政界では、1893年(明治26年)群馬県会議員に選出され2期在任した。
小田 堅立(おだ けんりゅう、1865年2月5日(元治2年1… 小田 堅立(おだ けんりゅう、1865年2月5日(元治2年1月10日) - 1944年(昭和19年)5月26日)は、日本の教育者。 1865年(元治2年)、備中国下道郡岡田村(現・岡山県倉敷市)出身。幼名は三宅武助。小田家を再興するに際し堅立と改名。 同志社英学校を卒業後、渡米してオハイオ州のオーバリン大学を卒業。1887年に帰国し、岡山県尋常中学校、1896年福岡県立尋常中学修猷館の教諭・教頭を経て、1898年岡山県商業学校の初代校長に就任する。「商業に国境なし」の信念のもとに、修身にかえて倫理を原書で教え、実用英語の講座を開くなど、世界に通用する商人の教育に努めた。1902年に岡山市立岡山商業学校が創立すると、1909年までその校長を兼任した。
足立 正(あだち せい、元治2年1月10日(1865年2月5… 足立 正(あだち せい、元治2年1月10日(1865年2月5日) - 昭和22年(1947年)10月29日)は、日本の教育者、郷土史家、政治家。きよしこの夜の訳詞者由木康の実父。実業家足立荘の実兄。 坪井正五郎、喜田貞吉、沼田頼輔など一流の学者と親交を持ち、西伯耆を中心とする考古学、歴史学の研究と資料収集にその生涯を捧げた。元境町長。 島根県松江師範学校卒業後は上道小学校で教員となり、1888年(明治21年)からは上道の弓浜高等小学校に12年間務めた。 1900年(明治33年)からは西伯郡淀江町今津の養良高等小学校の校長に就任した。20年以上の在職中には1903年(明治36年)設立の養良農業補習学校での業績を評価され、表彰もされている。
麻生 観八(あそう かんぱち、1865年2月5日(元治2年1… 麻生 観八(あそう かんぱち、1865年2月5日(元治2年1月10日) - 1928年(昭和3年)8月2日)は、大分県出身の実業家である。 1865年2月5日(元治2年1月10日)、日田豆田町で酒造業を営む草野家に五男として誕生するが、12歳の時に家が破産。1880年(明治13年)に玖珠郡で「舟来屋」の屋号で酒造業を営んでいた麻生家に養子に入る。当時、麻生家の初代麻生東江、2代麻生豊助は家業の傍ら、私財を投げうって井路の整備に力を注いていたが、完成には至らず、麻生家は家財や山野を失い、酒造の権利も手放すことになる。 しかし、1885年(明治18年)、観八は酒造免許を取得し舟来屋・麻生酒造場(現在の八鹿酒造)を再興。
郷 誠之助(ごう せいのすけ、1865年2月3日(元治2年1… 郷 誠之助(ごう せいのすけ、1865年2月3日(元治2年1月8日) - 1942年(昭和17年)1月19日)は、日本の実業家。日本商工会議所会頭・日本経済聯盟会会長・東京電燈会長・東京株式取引所理事長などを歴任。貴族院男爵議員。 元治2年(1865年)1月8日、大蔵官僚郷純造の次男として美濃国黒野村(現:岐阜県岐阜市)で出生。義兄に郷温がいる。 平河小学校(現・千代田区立麹町小学校)卒業後、官立東京英語学校(のち一高)、さらに尺振八が塾長であった浜町河岸の共立学舎に通い、明治10年(1877年)から12年(79年)まで県立仙台中学(1886年廃止)にて学ぶ。帰京した明治13年(1880年)には中島行孝の塾通いと共に家庭教師が就き英語・漢学を学ぶ。
入沢 達吉(いりさわ たつきち、1865年1月31日(元治2… 入沢 達吉(いりさわ たつきち、1865年1月31日(元治2年1月5日) - 1938年(昭和13年)11月8日)は、明治から昭和期にかけての内科医。学位は、医学博士。東京帝国大学教授、東京帝国大学附属医院長・同大学医学部長・宮内省侍医頭等を歴任、日本の内科学確立に貢献する。 入沢達吉は1865年1月31日(元治2年1月5日)に越後国新発田藩藩医入沢恭平の長男として、南蒲原郡今町(現新潟県見附市)に生まれた。1870年(明治3年)1月寺子屋にて手習いを覚え、1876年(明治9年)10月、叔父池田謙斎の勧めで上京し私塾に通う。1877年(明治10年)11月東京大学医学部予科に入学する。1883年(明治16年)東京大学医学部本科に進級、1889年(明治22年)1月31日東京帝国大学医科大学(学制変更により改名)を卒業し、ベルツ(Erwin von Bälz)に師事し内科無給助手となる。
河野 徹志(こうの てつし、元治2年1月4日(1865年1月… 河野 徹志(こうの てつし、元治2年1月4日(1865年1月30日) - 昭和15年(1940年)10月23日)は、日本の衆議院議員(正交倶楽部)。産婦人科医、小児科医。 薩摩国薩摩郡高江村(現在の鹿児島県薩摩川内市)出身。1885年(明治18年)、大阪医学校(現在の大阪大学医学部)を卒業し、東京慈恵医院において高木兼寛・実吉安純のもと実地経験を積んだ。1891年(明治24年)、渡米してペンシルベニア大学に入学し、卒業の後医学博士の学位を得た。その後、ジョンズ・ホプキンス大学で学び、さらにオーストリアのウィーン大学でも学んだ。帰国後は大阪医学校助教諭や吉田病院副院長を務めた。1899年(明治32年)に河野病院を開業し、1912年(大正元年)には大阪市医師会議長に就任した。
西沢 喜太郎(にしざわ きたろう、旧字体: 西澤 喜太郞、慶… 西沢 喜太郎(にしざわ きたろう、旧字体: 西澤 喜太郞、慶応元年12月13日〈1865年1月29日〉 - 1941年〈昭和16年〉2月25日)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の銀行経営者である。長野県長野市の人物で、家業である書籍商を営みつつ長野市を拠点とする長野商業銀行・長野農工銀行・長野貯蓄銀行で頭取を務めた。「喜太郎」を襲名する前の名は喜三郎。 慶応元年12月13日(新暦:1865年1月29日)、堀内鍋作(士族)の次男として生まれる。出身地は信濃国埴科郡屋代町(現・長野県千曲市)。1882年(明治15年)勉学のため上京し、1885年(明治18年)陸軍教導団へ入隊。翌年一等軍曹に任ぜられたが、1888年(明治21年)病を得て除隊した。
巽 孝之丞(たつみ こうのじょう、元治元年12月29日(18… 巽 孝之丞(たつみ こうのじょう、元治元年12月29日(1865年1月26日) - 昭和6年(1931年)6月11日)は、戦前日本の財政家。横浜正金銀行ロンドン支店支配人、日仏銀行創立委員・取締役。中村啓次郎の実兄。小泉信三の祖父小泉文庫はいとこにあたる。息子に英文学者の巽豊彦、孫に米文学者でSF評論家の巽孝之がいる。 紀州藩士・吉川流砲術師範役であった吉川定之進の長男。幼名は豊吉。紀伊国那賀郡山崎村中野黒木十八番地に生まれる。 巽家を相続し、藩費留学生となり上京し慶應義塾に入学。同門に親戚の小泉信吉など。卒業後に小泉信吉の口利きで横浜正金銀行に入行する。以来、取締役、常務となるまで30年間、英国ロンドンで在任した。
神戸 寅次郎(かんべ とらじろう、元治元年12月27日(18… 神戸 寅次郎(かんべ とらじろう、元治元年12月27日(1865年1月24日) - 昭和14年(1939年)5月17日)は、日本の法学者。専門は民法。慶應義塾大学法学部の育ての親。 静岡県庵原郡松野村出身。静岡県松野小学校、県立静岡中学校、静岡英学校を経て1887年慶應義塾正科に入学。1890年に新設された慶應義塾大学部法律科に入学し、ハーバード大学から派遣されたジョン・ヘンリー・ウィグモア教授のもとで学ぶ。同科を卒業した翌年の1892年に同教員となる。 慶應義塾第一回留学生に選ばれ、1899年8月から1902年12月にかけベルリン大学およびハレ大学で学ぶ。学位論文「日本の合名会社」にてハレ大学からドクトル・ユーリスの学位を授与される。
上島 長久(うわじま ながひさ、1865年1月23日〈元治元… 上島 長久(うわじま ながひさ、1865年1月23日〈元治元年12月26日〉- 1918年〈大正7年〉5月18日)は、日本の衆議院議員(憲政会)。ジャーナリスト。号は笠山。義兄に検事総長の春木義彰。 大和国平群郡法隆寺村(現在の奈良県生駒郡斑鳩町)に中宮寺門跡家司で勤王家の上島掃部の子として生まれる。 1885年(明治18年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業。裁判所書記、釧路十勝共同汽船会社社員、函館商業学校嘱託教員を経て、『函館新聞』記者となった。1895年(明治28年)、報知新聞社に入り、主筆を務めた。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
中山 秀三郎(なかやま ひでさぶろう、1865年1月21日(… 中山 秀三郎(なかやま ひでさぶろう、1865年1月21日(元治元年12月24日) - 1936年(昭和11年)11月19日)は、明治から昭和時代の土木工学者、内務技師、逓信技師、東京帝国大学名誉教授。工学博士。 中山善之進の三男として、三河国額田郡奥殿村(現・愛知県岡崎市奥殿町)にて生まれる。1912年(大正元年)7月、兄の眞琴の跡を継ぐ。1888年(明治21年)帝国大学工科大学土木科を卒業し、関西鉄道会社技師として2年の実務経験を経て、1890年(明治23年)同大助教授。 1896年(明治29年)河海工学研究のため欧米へ留学し、帰国後、1898年(明治31年)同大教授。この間、帝国経済会議、学術研究会議、土木会議等会員を歴任。
大村信行(おおむら のぶゆき、1865年1月17日〈元治元年… 大村信行(おおむら のぶゆき、1865年1月17日〈元治元年12月20日〉 - 没年不明)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。従四位勲三等功四級 1865年1月17日(元治元年12月20日)長州藩大村久兵衛の次男として生まれる。父久兵衛はかつて、奇兵隊と常備軍の小郡付近での戦闘において常備軍側に加わり戦闘に参加した。明治の初め頃には少年を集めて郷勇隊を編成し、武術の鍛錬などを行っていた。
新井 石禅(あらい せきぜん、俗名:石井仙太郎、元治元年12… 新井 石禅(あらい せきぜん、俗名:石井仙太郎、元治元年12月19日(1865年1月16日) - 1927年(昭和2年)12月7日)は、日本の曹洞宗の僧侶。總持寺独住5世、第11代管長(大陽真鑑禅師)。号は穆英。 陸奥国伊達郡梁川村(現福島県伊達市)の石井家の三男に生まれ、12歳の時に出家、菩提寺の興国寺住職新井如禅の弟子となる。曹洞宗専門本校(現、駒澤大学)に学び、わずか3年で卒業。畔上楳仙、森田悟由らに参禅した。 善徳寺、浄春院、大栄寺、雲洞庵、護国院、最乗寺などに歴住し、曹洞宗大学林学監兼教授、教学部長、永平寺副監院となり、總持寺西堂を経て大正9年(1920年)に独住5世、曹洞宗第11代管長となる。
3代岩崎 清七(いわさき せいしち、1865年1月15日(元… 3代岩崎 清七(いわさき せいしち、1865年1月15日(元治元年12月18日) - 1946年(昭和21年)4月11日)は、明治期の実業家。磐城セメント(住友大阪セメント)を創業した。 下野国都賀郡藤岡村(現・栃木県栃木市藤岡町藤岡)で2代・清七の長男として生まれる。家は代々醤油醸造と米穀肥料商を生業とする。小学校卒業後、郷里の鴎村学舎で漢学を修め、1880年東京に出て岡千刃の塾で漢学を修める。この塾で片山潜と知り合い、生涯親交した。1882年より片山のいた攻玉社で数学を専修し、1883年9月慶應義塾に入学。1884年2月慶應義塾の斡旋で渡米し、1885年6月コーネル大学で政治経済を学ぶが性に合わず、ニューヨーク領事の高橋新吉から実業家に役に立つ法科を勧められ、1887年6月、イェール大学で法律学を専修し学位を得て1889年に帰朝する。
林 歌子(はやし うたこ〈戸籍名ウタ〉、1865年1月11日… 林 歌子(はやし うたこ〈戸籍名ウタ〉、1865年1月11日〈元治元年12月14日〉 - 1946年〈昭和21年〉3月24日)は、日本の教育者、キリスト教の社会事業家。 越前国大野(現在の福井県大野市)に、大野藩士林長蔵の長女として生まれる。 1877年(明治10年)に石川県(現在の福井県)第三女子師範学校(後に石川県第三女子小学師範学校と改名)に第1期生として入学する。明治天皇の巡幸の折は名代として来校した大隈重信参議の前で日本外史の一節を講義し、金一封をもらう。1880年(明治13年)に卒業後、大野町の有終小学校で勤務する。 小学校教員時代に歌人布川正沖に和歌を学ぶ。当時あこがれの女性は下田歌子だった。
五代目 坂東 蓑助(ごだいめ ばんどう みのすけ、1865年… 五代目 坂東 蓑助(ごだいめ ばんどう みのすけ、1865年1月11日〈元治元年12月14日〉 - 1910年〈明治43年〉9月10日)は、日本の歌舞伎役者。養父は十二代目守田勘彌。 元治元年12月14日(1865年1月11日)、三河国の東海道にある池鯉鮒宿の旅籠、巴屋こと林寅吉の次男として生まれた。本名は鉄三郎。母は碧海郡東境村の泉正寺の生まれである。 理由は定かでないが、母親とともに巴屋を出て旅役者となり、女優の中村仲吉に預けられた。10歳の時に東京に向かい、坂東喜知六を頼って坂東利喜松(りきまつ)と名乗った。新富座で踏んだ初舞台が認められて坂東喜知六の養子となった。 1889年(明治22年)に京都の祇園座がこけら落としを行った際、九代目市川團十郎一座に招かれて出演し、非凡な才能を見せつけた。
栗原 宣太郎(くりはら せんたろう/のりたろう、元治元年12… 栗原 宣太郎(くりはら せんたろう/のりたろう、元治元年12月12日〈1865年1月9日〉 - 1943年〈昭和18年〉12月8日)は、明治から昭和時代前期の政治家。神職。衆議院議員(2期)。指揮者のスマイリー小原は一族。 相模国大住郡今泉村(神奈川県大住郡南秦野村、中郡南秦野村、南秦野町を経て現秦野市)の村社・白笹稲荷神社祠職の家に生まれ、同社社掌となる。権田直助に国学を、小笠原東陽に漢学を学ぶ。のち日本大学に入り法学を修めた。1897年(明治30年)から翌年まで南秦野村長、1898年(明治31年)から1902年(明治35年)までの2期、神奈川県会議員、同議長を務めた。ほか、国文雑誌、政治雑誌の編集に従事した。
富田 愿之助(とみた げんのすけ、1865年1月1日(元治元… 富田 愿之助(とみた げんのすけ、1865年1月1日(元治元年12月4日) - 1927年(昭和2年)3月8日)は、衆議院議員(政友本党)、医師。 肥前国彼杵郡広田村(現在の長崎県佐世保市)出身。1888年(明治21年)、東京帝国大学医科大学別科を卒業。佐世保で医院を開業し、村会議員となり、市制施行後は市会議員、さらに市会議長として1914年(大正3年)までその職にあった。その後、県会議員、県参事会員に選ばれた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、西部合同瓦斯株式会社・五島電灯株式会社・有川電灯株式会社取締役、壱岐電灯株式会社監査役を務めた。
西松 喬(にしまつ たかし、1865年(慶応元年) - ?年… 西松 喬(にしまつ たかし、1865年(慶応元年) - ?年)は、明治・大正・昭和前期の経営者、実業家。綿花を扱う西松商店の創業者。美濃国安八郡大藪町出身。実業家西松龍一の父親。 18歳のときに京都に出て、慶応義塾・別科に入り、1887年、卒業する。その後洗濯業を開業するも失敗する。その後、苦しんでいるときに中上川彦次郎に出会い、中上川の紹介で第三十三銀行就職、山陽鉄道会計課に就職。1889年、24歳のとき、中上川が山陽鉄道を去るに当たり、同行し、武藤山治、和田豊治とともに三井銀行に入る。 慶応義塾草創期の功労者である。 『三井銀行案内』1895年。
鹿野 清次郎(かの/しかの せいじろう、1865年(慶應元年… 鹿野 清次郎(かの/しかの せいじろう、1865年(慶應元年) - 1941年(昭和16年))は、日本の会計学者。東京商科大学(現一橋大学)附属商学専門部教授。 山形県山形市肴町出身。山形師範学校を経て、1893年高等商業学校(現一橋大学)卒業。同じ肴町出身の先輩に新関善八第5代山形市長がいる。大阪府師範学校教諭、京都商業学校教諭を経て、1897年新潟市立新潟商業学校長。 1899年鹿児島市立商業学校長。1902年滋賀県商業学校長。1903年母校東京高等商業学校教授に就任。星野太郎、下野直太郎らと簿記・商品学を講じた。1906年から2年間イギリス、アメリカ合衆国に留学し会計学研究に従事。 1917年には専修大学に計理科を設置し計理学研究会を設立。
岩崎 吉太郎(いわさき きちたろう、1865年 - 1935… 岩崎 吉太郎(いわさき きちたろう、1865年 - 1935年2月)は、神奈川県愛甲郡小鮎村飯山(現・厚木市)生まれの実業家。実家の雑貨店から分家し、厚木町で雑貨・食料品店を経営。片田舎の商人に満足せず、家業を家族に任せて材木業に従事。その後、水力発電事業に着目し、南豆電気㈱、河津川水力電気㈱、相模水力電気、厚木電気㈱、三浦電気、君津電気、東総電気、山田川水力、興津川水力等に出資。昭和9年、静岡県賀茂郡南中村下賀茂(現・南伊豆町)で温泉掘削。晩年、下賀茂に別邸を構え余生を過ごした。 参考文献:伊豆半島電気事業沿革史/前田実(伊豆新聞連載記事) この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
岩倉 久米雄(いわくら くめお、1865年(慶応元年) - … 岩倉 久米雄(いわくら くめお、1865年(慶応元年) - 1923年(大正12年))は明治時代の日本の陸軍軍人。父は加賀藩士の岩倉頼信(与力、200石)。母は同藩士松川清之丞の娘寿々。 「九、はだし詣り或日の夕方、東京から電報が着くと父と母とは真青になって驚いたが翌日の夕方から父は毎夕うら寒い晩秋の土を踏んで洗足で何処へか出掛けた。私はその理由が分らず、屡々母にたづねたが、一向教えてはくれなかった。後で聞けば士官学校入校中の兄が急性肺炎で衛戍病院に入院中の所到底快復の見込みがないとの通知があったので、父が七日間、兄の氏神である神様に願掛けに出たのであった。兄の氏神というのは金沢の東北端浅野川の小橋付近に在る俗に「タイの天神」という社神である。
中本 範治(なかもと はんじ、1865年〈慶応元年〉 - 没… 中本 範治(なかもと はんじ、1865年〈慶応元年〉 - 没年不明)は、日本の会社役員、地主、名望家、篤農家、政治家。鳥取県西伯郡県村長。古豊千村、八幡村組合村長。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡県村(現・米子市)出身。宇平の嫡男。村夫子に従い漢籍、句読、習字、算数の術を学ぶ。 1890年、自由党に入党する。政友会の組織が成立すると、その会員となる。町村制実施と共に村役場書記となり、1894年に郡書記に栄転する。 1898年、県村長に推される。郡立病院監事、米子農業倉庫監事、尾高井手水利組合管理者等を兼ねる。大山自動車取締役、県報徳社理事、保証責任製糸信用販売購買利用組合理事をつとめる。郡会議員、郡参事会員、その他の公職に就く。
石井 品子(いしい しなこ、旧姓:内埜(うちの)、1865年… 石井 品子(いしい しなこ、旧姓:内埜(うちの)、1865年(慶應元年) - 1895年(明治28年)9月12日)は、石井十次の最初の妻であり、社会事業家である。岡山県出身。 岡山県生まれ。1881年に同い年の石井十次(16歳)と品子(15歳)は結婚した。十次は品子と結婚した頃には教職や巡査の職に就いており、結婚後、十次の出身地である宮崎から品子の実家のある岡山へ活動拠点を移す。 その後、十次は医師を志すようになる。その間、品子は京都に機織の勉強に行き、岡山に帰ってからは、1885年(明治18年)高梁の順正高等女学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学している。品子がキリスト教の洗礼を受けるのは、この高梁の地である。
若生 国栄(わこう こくえい、1865年 - 1943年7月… 若生 国栄(わこう こくえい、1865年 - 1943年7月26日)は、日本の僧侶。高等中学林教授、曹洞宗円通寺第43世、永平寺監院などを歴任。号は形山。 慶応元年、摂津国川辺郡(現兵庫県)生まれ。加古川曹洞宗専門支学校、曹洞宗大学(現: 駒澤大学)卒業。漢学を三島中洲に学ぶ。高等中学林教授、台湾軍隊慰問使兼従軍布教使、韓国布教総監、丹波円通寺第43世、1915年に永平寺監院などを務める。 著書に『寒山詩講義』『禅学正門単刀直入』『活禅談: 通俗平易』など。 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 宗教/ウィキプロジェクト 宗教)。
大庭 寛一(おおば かんいち、1865年(元治元年12月) … 大庭 寛一(おおば かんいち、1865年(元治元年12月) - 1916年(大正5年)3月)は、日本の内務・朝鮮総督府官僚。官選愛媛県知事。 長門国阿武郡萩で長州藩士の家に生まれる。父親は画家の大庭学僊(1820-1899)。1887年7月、帝国大学法科大学を卒業。1888年11月27日、内務省試補となり県治局に配属された。 以後、内務属・警保局勤務、群馬県参事官、兵庫県参事官などを歴任。1895年、李氏朝鮮の招聘を受け内務顧問官に就任。1897年まで務め、その後、佐賀県書記官、静岡県書記官を歴任。 1898年12月22日、愛媛県知事に就任。愛媛県農学校、松山・宇和島・今治の三高等女学校の設立など、中等教育の振興に尽力。
真水 英夫(まみず ひでお、1865年 - 1938年)は埼… 真水 英夫(まみず ひでお、1865年 - 1938年)は埼玉県出身の建築家。旧帝国図書館を設計したことで知られる。夏目漱石が東大予備門時代の仲間で作った十人会の一人。 埼玉県士族・齋藤歲寧の二男。1865年8月29日(慶応元年7月9日)武蔵国に生まれ、第一高等中学校を経て1892年(明治25年)7月に東京帝国大学工科大学の建築科を卒業。卒業前年の1891年夏には、同期生の伊東忠太らと共に各地の古い建築物を訪ねる見学旅行を行った。1887年(明治20年)3月に東京の真水こよの養子となり、1894年(明治27年)3月家督を相続。三菱に務めた後、文部省に入り建築課の技師として腕を振るった。 1897年(明治30年)4月には帝国図書館官制が公布され、上野公園内に新館の建設が決まる。
尼子 四郎(あまこ しろう、慶應元年(1865年)- 昭和5… 尼子 四郎(あまこ しろう、慶應元年(1865年)- 昭和5年(1930年)7月7日)は、日本の医学者、出版・編集者。字は信久、石筍と号す。 1865年、安芸国山県郡戸河内村本郷(現在の広島県安芸太田町)生まれ。家系は尼子氏の流れを組み、代々庄屋をつとめた。しかし維新の社会的変動で庄屋職の父は没落、母は四郎出産後死亡し、不遇な環境で育った。 12、3歳の頃、広島に出て漢学を学ぶ。1887年、広島医学校(現・広島大学医学部)を首席で卒業。同級に富士川游ら。一年研修の後1888年、新設された東京帝国大学医科大学選科・青山内科に入った。しかし1890年、腸チフスに罹って中退。離京して島根県益田市で静養した後、郷里・戸河内村や山口県下松市で開業するが、カリエスに罹患するなどで医院を畳み、再び東京に出る。
沢村 繁太郎(さわむら しげたろう、旧字体: 澤村 繁太郎、… 沢村 繁太郎(さわむら しげたろう、旧字体: 澤村 繁太郎、1865年 - 1905年4月22日)は、日本の外交官、通訳官、教育者、実業家、ジャーナリスト。 台湾総督府調査諜報員、大日本帝国陸軍通訳官、照暗女学校(現・平安女学院)第4代校長。台湾総督府では厦門や上海から迅速かつ質の高い情報を届けるなど、外交官や諜報員として活躍し、勝海舟とも交流したほか、教育者として厦門東亜書院を設立した。その他、上海時報の記者や、実業家として横浜正金銀行北京支店副支配人を務めた。英語のほか、中国語の大家として知られた多言語話者である。 1865年、近江国彦根藩士、澤村益二郎の長男として生まれる。 1879年(明治12年)頃、東京・築地の立教学校(立教大学の前身校の一つ)で学ぶ。
松岡 好一(まつおか こういち、1865年 - 1921年6… 松岡 好一(まつおか こういち、1865年 - 1921年6月29日)は、日本のジャーナリスト。 信濃国安曇郡二木村(長野県安曇野市)生まれ。幼少時に両親を亡くし叔父に育てられた。伊那郡飯田町(同県飯田市)で漆器店に丁稚奉公した後、15歳で上京し榊原鍵吉に入門する。母方の従兄にあたる松沢求策の自由民権運動に従い、東洋自由新聞や八丈島での事業を手伝い、小笠原諸島で小学校の教諭となる。 その後、三菱高島炭鉱で働いた時の坑内労働者酷使の実情を、1888年に雑誌『日本人』に告発し大きな反響を呼んだが、犬養毅が『朝野新聞』でこれを否認したため論争となった。この頃、朝鮮から亡命中の金玉均とも交わった。 1891年、外務大臣榎本武揚の意を受け、日本の人口過多問題解決のため、南方移民推進政策を取り、軍艦「比叡」に乗組んで南洋を航海した。
永松 為治郎(ながまつ ためじろう、1865年 (慶応元年)… 永松 為治郎(ながまつ ためじろう、1865年 (慶応元年) - 1939年 (昭和14年) )は、日本の実業家、官僚。 1865年、豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡駅館村に生まれる。 1886年、熊本県庁に奉職。1897年、大蔵省煙草専売局に入省。専売支局長に任じられた後、大蔵省本局勤務となる。その後退官し、実業界へ転ずる。 1907年、大日本共同運輸会社 (同社発起人に日比谷平左衛門、平沼専蔵、村井吉兵衛、福澤桃介) 専務取締役に就任。 1913年、ラサ島燐礦 (現ラサ工業) の創立とともに監査役に就任。また当時、精製糖におけるシェア第2位の名古屋製糖取締役、第5位の横濱製糖 (現DM三井製糖ホールディングス) 支配人も務めた。
松本 新吉(まつもと しんきち、1865年 - 1941年5… 松本 新吉(まつもと しんきち、1865年 - 1941年5月3日)は、日本のピアノ調律師で楽器製造者である。 1865年(慶応元年)上総国周淮郡常代村(現・千葉県君津市常代)で生まれる。1887年(明治20年)に横浜へ移住すると、叔父西川虎吉に弟子入りして、西川風琴製造所に勤務するが、数年で解雇される。この解雇は叔父が1894年(明治27年)1月発刊の音楽専門誌『音楽雑誌』の裏表紙広告に逸話として使った。 2年後の1895年(明治28年)には起業して東京新湊町でオルガン製造を始めると、翌1896年(明治29年)に「ピアノ調律師 松本新吉『風琴製造と販売』」の広告を出す。 1900年(明治33年)に単身で渡米すると、半年ほどニューヨークのブラッドベリー・ピアノ工場で研修生を務める。
浅川 範彦(あさかわ のりひこ、1865年 - 1907年1… 浅川 範彦(あさかわ のりひこ、1865年 - 1907年1月10日)は、明治時代の細菌学者、医学博士。北里柴三郎に師事し、ジフテリアや破傷風などの血清研究に功績を残した。生前は日本の免疫学の第一人者であり、丹念に追求していくその研究手法は「探偵的研究」とも呼ばれた。日本細菌学会賞の一つに、その功績を記念する浅川賞がある。 1865年(慶応元年)1月に、土佐国土佐郡秦村に生まれる。中江兆民の従兄弟。旧高知藩士。県立医学校で医学を学び、卒業後上京して、済生学舎で造詣を深めた。1889年に郷里に戻って開業、1890年に高知病院に招かれ、副院長となる。 1894年に再び上京して、北里柴三郎に師事。1896年に、浅川丹毒治療法と呼ばれる丹毒の治療法を開発。