北沢 正啓(きたざわ まさひろ、1925年(大正14年)1月… 北沢 正啓(きたざわ まさひろ、1925年(大正14年)1月1日 - 2007年(平成19年)9月21日)は、日本の法学者。専門は会社法。学位は法学博士(東京大学)。名古屋大学名誉教授、中京大学名誉教授。中京大学元学長。叙正四位・授勲勲二等瑞宝章。弁護士。鈴木竹雄門下。弟子に浜田道代など。 著書などでは、略字も使われているが、「北澤正啓」が正しい[要出典]。 鈴木竹雄門下で、平出慶道によれば鈴木の最初の弟子にあたる(ジュリストの『座談会 鈴木竹雄先生の人間と学問』(有斐閣、1996)による)。 戦後まもなく商法に導入された株主代表訴訟制度につき、いち早くアメリカの制度を紹介する論文「アメリカ会社法における株主代表訴訟」を発表し、日本の株主代表訴訟制度研究における先駆的な論文と位置づけられている。
原 乙彦(はら おとひこ、1925年1月1日 - )は、日本… 原 乙彦(はら おとひこ、1925年1月1日 - )は、日本の実業家。「先祖は嵯峨天皇の第12皇子で光源氏の実在モデルの有力候補とされる源融(みなもとのとおる)にまで遡る(アーカイブ)」矢橋家・本家の出身。大日本紡績(ユニチカの前身)が第二次世界大戦後における海外進出の一番手として名乗りをあげた際にサンパウロ現地において準備にあたった。元ユニチカ通商 (現・ユニチカトレーディング) 社長。 1925年、美濃赤坂にて、父・矢橋次郎と母・絹の三男として生まれる。矢橋家は美濃赤坂の旧家・素封家で、一族で赤坂銀行(現・十六銀行赤坂支店)などを経営していた。乙彦は大垣中学校から関西学院大学予科へ進む。1948年関西学院大学商経学部卒業。
山野 正登(やまの まさと、1925年(大正14年)1月1日… 山野 正登(やまの まさと、1925年(大正14年)1月1日 - 2012年(平成24年)8月15日)は、日本の元官僚。科学技術事務次官。宇宙開発事業団理事長。通商産業省にて日本初の民間輸送機YS-11の開発事業等、航空機の開発行政に従事、科学技術庁にて宇宙開発委員会の発足・宇宙開発事業団の創設等、主に宇宙開発事業草創期の礎を築くとともに、宇宙開発事業団では自主技術である純国産大型ロケットH-IIの打ち上げ成功・国際宇宙ステーション計画の推進等、日本の宇宙開発を欧米先発国と肩を並べるまで導いた功労者のひとり。 広島県江田島市出身。呉第一中学校、旧制第六高等学校を経て、1944年(昭和19年)東京帝国大学第二工学部航空機体学科に入学、終戦により航空機体学科が解体されたため、1947年(昭和22年)物理工学科を卒業した。
住谷 一彦(すみや かずひこ、1925年〈大正14年〉1月1… 住谷 一彦(すみや かずひこ、1925年〈大正14年〉1月1日 - 2022年〈令和4年〉8月15日)は、日本の経済社会学者、立教大学名誉教授。 経済学者・住谷悦治の子として京都市に生まれる。弟は住谷磬。松山中学校、旧制松山高等学校を経て、1949年東京大学文学部心理学科卒業。名古屋大学法経学部助手、東京都立大学 (1949-2011)人文学部助手、1957年立教大学経済学部講師。助教授を経て、1965年立教大学教授。この間、1958-1960年ウィーン大学民族研究所に留学し、アレクサンダー・スラヴィク教授の指導を受ける。 1969年「共同体の史的構造論」で早稲田大学文学博士。1969-1970年ケルン大学客員教授、1976年ウィーン大学客員教授、1990年立教大学を定年退任、名誉教授、帝京大学教授、東京国際大学教授を務めた。
大泉 滉(おおいずみ あきら、1925年1月1日 - 199… 大泉 滉(おおいずみ あきら、1925年1月1日 - 1998年4月23日)は、日本の俳優・声優。身長165cm。血液型はO型。左利き。
四島 司(ししま つかさ、1925年〈大正14年〉1月1日 … 四島 司(ししま つかさ、1925年〈大正14年〉1月1日 - 2015年〈平成27年〉2月23日)は、日本の銀行家。位階は正五位。 福岡県福岡市出身。父は福岡無尽(後の福岡相互銀行、福岡シティ銀行、現・西日本シティ銀行)創業者の四島一二三。1949年(昭和24年)に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1951年(昭和26年)11月に一二三が経営する福岡相互銀行に入行した。 1956年(昭和31年)5月に取締役に就任し、1958年(昭和33年)5月に常務、1967年(昭和42年)5月に専務を経て、1969年(昭和44年)5月に一二三の後任として頭取に就任。2003年(平成15年)6月までに務めた。 1985年(昭和60年)11月に藍綬褒章を受章し、1995年(平成7年)4月に勲二等瑞宝章を受章。
若松 信重(わかまつ のぶしげ、1925年1月1日 - 20… 若松 信重(わかまつ のぶしげ、1925年1月1日 - 2005年7月27日)は、日本の実業家。東海テレビ放送社長を務めた。 愛知県海部郡佐屋町出身。1944年に彦根経済専門学校を卒業し、翌年に中部日本新聞社に入社した。名古屋本社編集局長、取締役、常務、専務を歴任した。、 1977年に東海テレビ放送監査役を兼任し、取締役、副社長を経て、1987年に社長に就任した。1997年6月から会長を務めた。東海ラジオ放送取締役、フジテレビジョン取締役、日本民間放送連盟副会長などを歴任した。 1993年に藍綬褒章を受章し、1998年に勲二等瑞宝章を受章した。 2005年7月27日肺炎のために死去。80歳没。
梶村 昇(かじむら のぼる、1925年1月1日 - )は、日… 梶村 昇(かじむら のぼる、1925年1月1日 - )は、日本の仏教学者、浄土宗僧侶、亜細亜大学名誉教授。 京都府福知山市生まれ。1950年大正大学文学部仏教学科卒。1953年同研究科修了。1952-1960年ニューヨークのユニオン神学大学に学び、1956年亜細亜大学経済学部講師、1962年助教授、1967年教授。1995年定年退任、客員教授、1997年退任、名誉教授。
中川 龍一(なかがわ りゅういち、1925年(大正14年)1… 中川 龍一(なかがわ りゅういち、1925年(大正14年)1月1日 - 2001年(平成13年)11月14日)は、日本の材料工学者。科学技術庁金属材料技術研究所(独立行政法人物質・材料研究機構の前身のひとつ)所長、静岡理工科大学学長などを歴任した。 石川県金沢市出身。東京帝国大学卒。1947年、当時の商工省機械試験所(独立行政法人産業技術総合研究所の前身のひとつ)に入所。以降、おもに、ステンレス鋼の冶金学的研究に従事した。1961年、「オーステナイト系耐熱鋼の冶金学的研究」により、東京大学から工学博士を取得。 1985年4月、「発明改良」の功により紫綬褒章を受章した。1989年6月27日付で、金属材料技術研究所所長を退任した。
中野 孝次(なかの こうじ、1925年〈大正14年〉1月1日… 中野 孝次(なかの こうじ、1925年〈大正14年〉1月1日 - 2004年〈平成16年〉7月16日)は、日本の小説家、ドイツ文学者、評論家。元國學院大學教授。 東大独文科卒。近代化と自己を冷静に分析したエッセイ『ブリューゲルへの旅』(1976年)、自伝小説『麦熟るる日に』(1978年)、愛犬の思い出を綴った『ハラスのいた日々』(1987年)で認められ幅広く活躍する。ほかに『清貧の思想』(1992年)など。 千葉県市川市の大工の子として生まれ、独学で旧制高校に進み、第二次大戦出兵を経て、東京大学独文科を卒業。1952年から28年間、国学院大学で教鞭を執る傍ら、フランツ・カフカ、ギュンター・グラスなど現代ドイツ文学の翻訳紹介に努めた。
古賀 義根(こが よしね、1925年1月1日 - 2014年… 古賀 義根(こが よしね、1925年1月1日 - 2014年9月23日)は、日本の技術者、実業家。東陶機器(現TOTO)社長や、日本セラミックス協会会長、九州・山口経済連合会(現九州経済連合会)副会長、北九州商工会議所会頭等を歴任した。正四位勲二等瑞宝章。藍綬褒章受章 佐賀県唐津市出身。1947年東京工業大学窯業学科卒業後、東陶機器(現TOTO)に入社し、衛生陶器の開発に従事。インドネシア進出担当役員等を経て、1987年からは社長を務め、アメリカ合衆国に子会社を設立するなど、国際化を進めた。1988年藍綬褒章受章。1992年に社長を退任し、同年から10年間北九州商工会議所会頭を務め、末吉興一市長とともに北九州都市圏の再興にあたった。
樫尾 俊雄(かしお としお、1925年(大正14年)1月1日… 樫尾 俊雄(かしお としお、1925年(大正14年)1月1日 - 2012年(平成24年)5月15日)は、日本の発明家。カシオ計算機創業メンバーの「樫尾四兄弟」の一人(次男)。四兄弟の役割分担では開発を担い、世界初の小型純電気式計算機「14-A」」、世界初のオートカレンダー搭載腕時計「カシオトロン」、電子楽器「カシオトーン」など数々のヒット商品の開発に貢献。カシオ計算機会長を務めた。 共同名義のものを含め、生涯で313件の特許を取得した。 東京府東京市京橋区(現・東京都中央区)出身。子どもの時から、じっと動かずにいつまでも考え事にふけっていることが多かった。算数が得意で、先生に教わっていない解き方を自分で考え出して、弟に教えていた。
伊藤 海彦(いとう うみひこ、1925年(大正14年)1月1… 伊藤 海彦(いとう うみひこ、1925年(大正14年)1月1日 - 1995年(平成7年)10月20日)は、放送作家、詩人。東京府出身。伊藤松雄の子。日本大学卒。NHK専属作家、のちフリー。放送詩劇で活動し、1958年「言葉と音楽のための三つの形象」でイタリア賞、65年「飛翔」で芸術祭賞受賞。『同時代』『地球』同人。
十津川 光子(とつがわ みつこ、1925年- 没年不明)は、… 十津川 光子(とつがわ みつこ、1925年- 没年不明)は、日本の作家。本名は臺野澄子。 北海道樺戸郡新十津川村(現在の新十津川町)生まれ。庁立滝川高等女学校(現在の北海道滝川高等学校)を戦後に卒業。旭川日赤高等看護学校中退後滝川の職業安定所に勤務ののち上京し慶應義塾大学医学部付属厚生女子学院(現・慶應義塾大学看護医療学部)を卒業、看護婦となる。農林省勤務の後日本油脂美唄工場へ転職し執筆活動を本格化させる。 小説を木々高太郎に師事し、1958年『コタンの春』を上梓(序文は木々)。1960年の『胎動期』は、東芝日曜劇場でテレビ放送され、三輪彰監督・新藤兼人脚本によって「胎動期 私たちは天使じゃない」として1961年に映画化された。
中岡 稔(なおおか みのる、1925年 - 2013年)は、… 中岡 稔(なおおか みのる、1925年 - 2013年)は、日本の数学者。大阪大学名誉教授。 大阪狭山市出身。東京文理科大学(中退)を経て、大阪大学理学部卒。大阪大学教授、プリンストン高等研究所員、大阪市立大学教授を歴任。 対称群のホモロジー群の分解定理および安定性定理を発見。無限対称群のコホモロジー環を決定。
宮本 高志(みやもと たかし、1925年 - )は元南海放送… 宮本 高志(みやもと たかし、1925年 - )は元南海放送・テレビ東京(旧:東京12チャンネル)のアナウンサー。 中国北平育ち、大阪外国語大学中国語学科卒業後、南海放送を経て、1962年に東京12チャンネルに入社。東京12チャンネル、テレビ東京時代はアナウンス部長・国際課長(1980年頃)も務めた。 宮本高志(1980年時点、国際課長兼務) / 高田晃 / 金子勝彦 / 近藤隆雄 / 久保田麻三留(2005年7月 - 2009年) / 板坂裕之(2009年 - 2011年3月) / 大岡優一郎(2011年4月 - 2015年3月) / 斉藤一也(2015年4月 - 2019年12月) / 柳川雅彦(2020年1月 - 2022年6月、総合編成局専任部長兼務) / 西山麻衣子(2022年6月 - 2024年3月、コンテンツ戦略局次長兼務) / 小高亮(2024年4月 - 、コンテンツ戦略局次長兼務) この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。
松田 昭美(まつだ あきよし、1925年(大正14年)- )… 松田 昭美(まつだ あきよし、1925年(大正14年)- )は、日本の農業気象学者。鳥取大学名誉教授。農学博士(九州大学)。 1925年、岡山県に生まれる。3歳から13歳までブラジル・サンパウロで育つ。旧制岡山県立新見農林学校(現・岡山県立新見高等学校)卒業、1955年大阪府立大学農学部卒業。九州大学大学院農学研究科修士課程修了。九州大学助手、農林水産省試験場勤務を経て、鳥取大学農学部助教授、同教授。 1983年から1989年まで、鳥取大学農学部附属砂丘利用研究施設(現・乾燥地研究センター)の施設長を務めた。 1990年、鳥取大学を停年退官。名誉教授となる。1994年、鳥取女子短期大学(現・鳥取短期大学)教授、1996年から2002年まで学長。
大野 透(おおの とおる、1925年 - )は、日本語学者。… 大野 透(おおの とおる、1925年 - )は、日本語学者。 第一高等学校理科から東京大学理学部物理学科へ進学。 『漢文法の溯源的研究I』で1985年に九州大学より、『万葉仮名の研究』で1987年に國學院大學より、それぞれ文学博士号を取得した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
鶴谷 寿(つるたに ひさし、1925年 - )は、日本のアメ… 鶴谷 寿(つるたに ひさし、1925年 - )は、日本のアメリカ文学研究者、米国移住者、竹久夢二研究者である。日本英文学会会員。アメリカ学会会員。長崎県生まれ。
田辺 徹(たなべ とおる、1925年-2020年 )は、日本… 田辺 徹(たなべ とおる、1925年-2020年 )は、日本の美術史学者。成安造形大学名誉教授。 1925年、石川県金沢市生まれ。父・田辺孝次も美術研究者で、父のフランス留学帰国に伴って東京市へ移った。京都大学文学部哲学科美学美術史専攻で学び、1949年に卒業。 1949年に平凡社に入り、平凡社第一編集部長、『太陽』編集長などとして1985年まで勤務。月刊『太陽』編集長時代には、廃刊寸前だった同誌を復活させた。同時に、1954年から1985年まで財団法人朝倉彫塑館評議員、監事をつとめた。退社後は、1990年から1991年までドイツ国立エッセン大学造形芸術学部特別研究員。1993年、成安造形大学教授に就いた。
東久保 勝彦(とうくぼ かつひこ、1925年-)は日本の農学… 東久保 勝彦(とうくぼ かつひこ、1925年-)は日本の農学者、化学者、京都大学名誉教授、学位は農学博士。専攻は植物栄養化学。 大正14年(1925年)広島に生まれる。旧制広島高等学校を経て京都大学農学部農芸化学科を卒業。その後京都大学教授、退官後同大名誉教授。 趣味が多彩で研究の余暇に、文学・絵画・音楽に親み、音楽に対する造詣は深く、管楽器以外は何でもこなす。ギターが得意。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
仲村 祥一(なかむら しょういち、1925年 - )は、日本… 仲村 祥一(なかむら しょういち、1925年 - )は、日本の社会学者、大阪女子大学名誉教授。 京都大学文学部卒。熊本大学人文学部教授、大阪女子大学教授、87年定年退官。
松井 孝爾(まつい たかじ、1925年 - 2014年)は、… 松井 孝爾(まつい たかじ、1925年 - 2014年)は、日本の生物学者。京都府出身。 京都工芸繊維大学卒業。京都市動物園勤務などを経て日本両棲爬虫類研究所研究部長を務めた。両生類及び爬虫類に関する著書があり自ら挿絵も手がけた他、学研の図鑑の監修も務めた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
木村三生夫(きむら みきお、1925年 - )は、日本の小児… 木村三生夫(きむら みきお、1925年 - )は、日本の小児医学者。慶應義塾大学医学部教授・東海大学医学部教授を経て、東海大学名誉教授。 東京都出身。慶應義塾大学医学部卒、同大学院医学研究科(小児科学専攻)修了。1958年医学博士。慶大医学部教授を経て東海大学医学部教授(小児科)。東海大学名誉教授。社会福祉法人信泉会理事、介護老人保健施設とわだ施設長。
三橋 一也(みつはし かずや、1925年〈大正14年〉 - … 三橋 一也(みつはし かずや、1925年〈大正14年〉 - 2010年〈平成22年〉7月 )は、日本の造園家。 高崎市生まれ。日本造園修景協会理事、東京都職員(オリンピック施設建設事務所造園課長)として駒沢オリンピック公園などを手がけた。 千葉大学園芸学部の前身千葉農業専門学校に入学し、在学中に青山霊園の設計に関わり、1949年卒業。昭和37年にオリンピック施設建設事務所造園課長。 昭和46年に北部公園緑地事務所長をへて、西部公園緑地事務所長を務めた。 「駒沢オリンピック公園の計画意図と事後評価」で、昭和38年度第3回日本都市計画学会石川賞計画設計部門受賞(堀内亨一、川本昭雄、加藤隆らと)。 1988年第10回日本公園緑地協会北村賞受賞。
白羽 祐三(しらは ゆうぞう、1925年-2005年)は、日… 白羽 祐三(しらは ゆうぞう、1925年-2005年)は、日本の法学者・弁護士。専門は民法。学位は、法学博士(中央大学・1983年)(学位論文「現代契約法の理論」)。中央大学名誉教授。静岡県出身。 1948年司法試験合格。1950年中央大学法学部卒業。同法学部助手。1955年同法学部助教授。1962年同法学部教授。1965年ドイツ・アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルクに留学。1968年中央大学法学部長(~1973年)。1968年中央大学大学院法学研究科委員長(~1969年)。1969年中央大学評議員(~1992年)。1972年学校法人中央大学理事(~1973年)。1972年中央大学大学院法学研究科委員長(~1973年)。
秋岡家栄(あきおか いえしげ、1925年(大正14年) - … 秋岡家栄(あきおか いえしげ、1925年(大正14年) - )は、日本の作家、元新聞記者。 元朝日新聞社北京支局長、朝日中国文化学院創設者兼初代院長、日中友好99人委員会創設者兼総代表。中国の文化大革命期に中国政府から国外退去を命じられずに中国に残った9人の外国人記者のうち、ただ1人の日本人記者である。 1943年、上海東亜同文書院に公費留学生として留学。 1967年11月 - 1972年11月、朝日新聞社北京支局駐在。
青山 恒雄(あおやま つねお、1925年 - )は、日本の水… 青山 恒雄(あおやま つねお、1925年 - )は、日本の水産学者。元東京大学海洋研究所教授・水産大学校校長、水産大学校名誉教授。農学博士。 東京大学農学部卒業。東京大学海洋研究所教授。1985年(昭和60年)、水産大学校校長。水産大学校名誉教授。水産海洋学会に所属した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
大林 順一郎(おおばやし じゅんいちろう、1925年 - )… 大林 順一郎(おおばやし じゅんいちろう、1925年 - )は、日本の都市計画家。公務員として都市政策、建築行政に携わる。 愛媛県出身の一人っ子で、岡山の旧制第六高等学校理科に入学するが理科を選択したのは兵役の延期または免除を期待してのものであったが、機械学科のような理科の細かいことをやる気はなく、文化的なものを探して建築史があると知り、建築学科に進学した。 東京帝国大学第一工学部(現・東京大学大学院工学系研究科・工学部)に1945年に入学して1947年に研究室に配属され、1948年春に大学を卒業したが在学中は丹下健三の下で指導を受け、卒業論文は「国土計画の方法論に関する研究」を提出し卒業後、建設省に入省し、当初は戦災復興院技術研究所、のちに住宅局建築指導課に配属される。
杉浦 克美(すぎうら かつみ、1925年- )は、日本の建築… 杉浦 克美(すぎうら かつみ、1925年- )は、日本の建築家。石本建築事務所、日建設計工務で活動。愛知県出身。 1948年、東京大学卒業。
関口直甫(せきぐち なおすけ、 1925年-2020年)は、… 関口直甫(せきぐち なおすけ、 1925年-2020年)は、日本の天文学者。 1925年東京生まれ。1948年東京大学理学部天文学科卒業、東京天文台(現在の国立天文台)に入台。学位論文「地球の外套部と核との間の強い結合について」で理学博士(東京大学)。その後、東京大学教授に昇任し、1986年定年退官。 専門は地球自転の運動理論で、極運動に関する多数の論文を書いた。また、月のクレータや、月食の暗さと色に関する研究も行った。天文学に関する一般向けの著書と教科書も多い。多数の銅鐸について、それら上部にうがたれた4つの小孔の向きを調べ、銅鐸は春分の日を知るための天文観測装置であるとする説を唱えた。2020年死去
浜田 善弥(はまだ ぜんや、1925年 - )は、日本の劇作… 浜田 善弥(はまだ ぜんや、1925年 - )は、日本の劇作家。 ニュー・セントアンドリュースゴルフクラブ・ジャパン(栃木県大田原市)の創設者としても知られる。 東京都出身。東京大学文学部印度哲学梵文科中退。全日観光㈱社長。鎌倉カントリークラブ取締役理事。土浦国際カントリークラブ理事。水郷カントリークラブ取締役理事。浜田善弥劇場(東京都港区)を開設し、前衛劇を公演していた。 イギリスのセントアンドリュースにある桜は、寄贈者である浜田の名前から「HAMADA CHERRIES」と呼ばれている。 1960年代後半に、浜田は「日本にセント・アンドリュース オールドコースを造る」と、ニュー・セントアンドリュースゴルフクラブ・ジャパン (NSAJ) を設立する。
早川 正夫(はやかわ まさお、 1925年- 2013年)は… 早川 正夫(はやかわ まさお、 1925年- 2013年)は、日本の建築家。1962年に早川正夫建築設計事務所を設立する。数寄屋建築の第一人者であり、茶室の設計や歴史的建築物の復元や改修を数多く手がけている。また木材の接合部に金物を使用しない「カンザシ工法」の開発者であり大規模な現代木造建築を手がけている。 建築家・堀口捨己の高弟であり、堀口の設計体制を継承している。 茨城県生まれ。東京大学第一工学部建築学科を昭和23年に卒業。辰野金吾賞受賞。坂倉準三建築研究所に勤務。昭和26年明治大学工学部の助手として堀口捨己教授の研究室に入る。昭和37、明治大学助教授を退職し早川正夫建築設計事務所を設立する。
宮地誠哉(みやち せいや、1925年- )は、日本の教育学者… 宮地誠哉(みやち せいや、1925年- )は、日本の教育学者。元國學院大學教授。 大連生まれ。1949年東京大学文学部教育学科卒。
高村 智(たかむら さとる、1925年 - 1998年)は、… 高村 智(たかむら さとる、1925年 - 1998年)は、日本のフランス文学者。東京都立大学教授。 1925年(大正14年)、東京生まれ。東京外国語学校(現 東京外国語大学)仏語科、早稲田大学仏文科卒業。のち東京都立大学教授に就任。 1953年(昭和28年)、宮城県気仙沼市出身の詩人、梶原しげよと結婚。 フランスの詩人、ポール・エリュアールやピエール・ルヴェルディ著書の翻訳を主に行い、またジュール・シュペルヴィエルの研究をした。 1998年(平成10年)に逝去。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
古川 清行(ふるかわ きよゆき、1925年(大正14年) -… 古川 清行(ふるかわ きよゆき、1925年(大正14年) - )は、日本の社会科教師。東京生まれ。1950年東京文理科大学史学科卒業。東京学芸大学附属竹早小学校教諭、豊島区教育委員会指導主事、東京都教育委員会指導主事、72年東京都立教育研究所主任指導主事、80年東京都中央区立城東小学校校長。教育活性化センター代表。文部省学習指導要領「社会科」作成協力者、社会科指導書作成委員、道徳指導書作成委員。
金子 治司(かねこ はるじ、1925年 - 1980年)は、… 金子 治司(かねこ はるじ、1925年 - 1980年)は、日本のジャーナリスト、文筆家。 台湾生まれ。大倉高等商業学校(東京経済大学の前身)卒、1950年東京新聞に入り、社会部記者、次長。1967年中日新聞東京本社に移り、編集委員。多くの一般向け雑学書などを書いた。
佐藤 陽二(さとう ようじ、1925年 - 2012年)は、… 佐藤 陽二(さとう ようじ、1925年 - 2012年)は、日本の牧師、神学校教師。神学博士。 福島県伊達郡伊達町(現伊達市)に生まれる。1943年、海軍兵学校75期生として学ぶ。1953年、日本基督神学専門学校に入学しながら、日本基督教団浅草橋教師の副牧師を勤める。1955年に結婚し、日本基督教団神楽坂伝道所を設立する。1966年に東京神学大学大学院を卒業する。1966年より1968年までアメリカン・バプテスト西部神学大学院に留学する。1974年、再渡米して、コビナ日系人教会を設立する。1983年に帰国する。カリフォルニア神学大学院を卒業する。 牛込キリスト教会牧師、カリフォルニア神学大学院日本校総長を務めた。
小山 智士(こやま ともじ、1925年 - )は、日本の農業… 小山 智士(こやま ともじ、1925年 - )は、日本の農業官僚、農業経済学者。 広島県尾道市生まれ。1947年東京農業大学卒。1948年農林省入省、1972年農政調査委員会国内調査部長、85年理事。1987年「現代農業・農村の高齢化問題に関する政策的研究」で東京農業大学農学博士。
吉永 正義(よしなが まさよし/せいぎ、1925年 - )は… 吉永 正義(よしなが まさよし/せいぎ、1925年 - )は、日本の神学者。東京府生まれ。東北大学理学部卒、日本ルーテル神学大学卒、立教大学文学部組織神学博士課程、コンコーディア神学大学、ベテル神学校に学び、1973年「バルト神学とその特質」で立教大学神学博士。飯能ルーテル教会牧師、日本ルーテル神学大学教授。 この項目は、キリスト教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:キリスト教/PJ:キリスト教)。
家田 正之(いえだ まさゆき、1925年 - 1999年)は… 家田 正之(いえだ まさゆき、1925年 - 1999年)は、名古屋大学名誉教授。電気学会会長。 昭和24年3月名古屋大学工学部電気学科卒業。工学博士。愛知工業大学教授、名古屋大学名誉教授、日本学術会議会員を歴任。平2年放電グループ会長。91年電気学会会長。平成11年従三位。
渡辺 位(わたなべ たかし、1925年 - 2009年)は、… 渡辺 位(わたなべ たかし、1925年 - 2009年)は、日本の児童精神科医。元国立精神・神経センター国府台病院児童精神科医長。旧日本統治領朝鮮江原道生まれ。 日本医科大学卒。登校拒否問題の黎明期から、様々な子どもたちと接する中で、当初は「学校に行かれるようにしなければ」と考えていたが、「子どもが学校に行かないのはそれなりの理由がある」ということに気付き、登校拒否を「悪いこと」と考えるのではなく、子どもが様々な可能性を発展させていく契機となると主張するようになった、と語る。 フリースクール「東京シューレ」及び主催者の奥地圭子との関わりも深く、国府台病院を定年退職後は東京シューレを中心に登校拒否・教育問題に関わる執筆・講演などで精力的に活動した。
相見 とし子(あいみ としこ、1925年 - 2005年)は… 相見 とし子(あいみ としこ、1925年 - 2005年)は、日本の小説家。 京都府竹野郡間人町(現・京丹後市)生まれ。二人兄妹であったが、兄は第二次世界大戦で戦死した。 日本女子大学国文学部卒業。 後に同志社大学教授(現・名誉教授)となった相見志郎と結婚し、創作活動に入る。ドイツ文学者・前田敬作が京都大学助教授時代に出していた同人誌『集団55』に発表した初創作の『魔法瓶』で1957年(昭和32年)上半期の芥川賞、直木賞の女性としては初めての同時候補となる。 執筆活動を続けながら、1973年(昭和48年)から平成初め頃まで20年間ほど、左京区の自宅敷地内で文化人の集う居酒屋「木の目会」を実質経営。
佐藤 定幸(さとう さだゆき、1925年 - 2015年)は… 佐藤 定幸(さとう さだゆき、1925年 - 2015年)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。一橋大学経済研究所長や、大東文化大学学長等を歴任。専門は多国籍企業論、アメリカ経済論で、日本で先駆け的に多国籍企業の研究を行うなどした。多国籍企業学会名誉会員。 東京生まれ。旧制芝中学校を経て、1943年旧制東京商科大学(現一橋大学)予科入学。1945年陸軍機甲整備学校に特甲幹(特別甲種幹部候補生)として入学。終戦後復学し、1948年大学学部卒業。高橋泰蔵ゼミ出身。大学在学中は日本共産党シンパの学生らで組織された民主主義科学研究会(民研)に、岡稔(のちに一橋大学教授)、本間要一郎(のちに横浜国立大学名誉教授)、韮沢忠雄(のちに日本共産党赤旗編集局長)などとともに主要メンバーとして参加。
兼頭 吉市(かねとう よしいち、1925年(大正14年) -… 兼頭 吉市(かねとう よしいち、1925年(大正14年) - )は、日本の裁判所調査官、青森大学名誉教授。愛媛県生まれ。広島文理科大学卒業。東京家庭裁判所主任調査官(科学調査室長)、山形家庭裁判所・横浜家庭裁判所次席調査官、富山家庭裁判所首席調査官、青森大学社会学部教授。1996年定年、名誉教授。交通事故、少年非行などについて著述がある。
杉山 茂雄(すぎやま しげお、1925年(大正14年)- )… 杉山 茂雄(すぎやま しげお、1925年(大正14年)- )は、日本の法学者。国際法専攻。法政大学名誉教授。財団法人国際法学会評議員、財団法人防衛学会及び防衛法学会理事、特殊法人北方領土問題対策協会研究委員。 1925年(大正14年)静岡市に生まれる。1943年(昭和18年)陸軍予科士官学校入校、翌年に予科士官学校卒業、同年に陸軍士官学校入校(59期)、在校中に終戦を迎えた。 1949年(昭和24年)法政大学法学部を卒業し、同助手(国際法専攻)。1952年(昭和27年)国立国会図書館調査立法考査局員(国際法担当)を務めながら、法政大学講師も兼任する。1968年(昭和43年)国立国会図書館調査立法考査局外務課長を辞任し、同年に法政大学教授に就任(国際法・法学担当)。
土井 輝夫(どい てるお、1925年 - )は、日本の法学者… 土井 輝夫(どい てるお、1925年 - )は、日本の法学者。専門は国際私法。学位は、Ph.D(ハーバード大学留学の際、取得)。早稲田大学名誉教授。 1925年生まれ。中央大学専門部を中退。1951年、法政大学法学部卒業。1957年、早稲田大学大学院法学研究科修士課程修了。修了後、ハーバード大学留学をし、博士号取得。帰国後、早稲田大学教授。早稲田大学法学部長なども務めた。1926年、早稲田大学名誉教授。著書は多数に上るが、共著で下記のものは最高水準のものである。 学部は法政だが大学院は早稲田であり、しかも当時の法学の世界でハーバードで学位を得るものはよほど優秀でないと無理であった。早稲田から帰国後すぐに就任要請がありすぐに引き受けた。
日高 浩耀(ひだか こうよう、1925年 - )は西洋画家。… 日高 浩耀(ひだか こうよう、1925年 - )は西洋画家。台湾生まれ。立命館大学卒業後、現在の武蔵野美術大学に入学。 中学時代より塩月桃甫に師事し、画家としての修行を積んだ。日本表現派同人、同展奨励賞受賞。 作品「原爆忌」が広島平和祈念館に、「惨火」が大阪府平和祈念戦争資料室に永久保存されている。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
原田 実(はらだ みのる、1925年 - )は、日本の美術評… 原田 実(はらだ みのる、1925年 - )は、日本の美術評論家。東京国立博物館資料課長。日本近代美術史。 神奈川県平塚市生まれ。1953年、明治大学文学部卒業。
加藤 礼子(かとう れいこ、1925年 - )は、日本の元フ… 加藤 礼子(かとう れいこ、1925年 - )は、日本の元フィギュアスケート選手。日本フィギュアスケーティングインストラクター協会名誉会員。大東文化大学名誉教授。早稲田大学文学部卒業。大阪府出身。 大阪府出身。早稲田大学文学部卒業。 1948年の第16回全日本選手権で丹羽芳子、生田艶子に続き3位に入った。1951年の第19回全日本選手権で4位となり、このシーズンで引退し、プロフィギュアスケータとなった。1953年11月には、現在も欧米を中心に人気を博しているプロフィギュアスケートショー「ホリデー・オン・アイス」に入団し、東洋人としてはじめてプリンシパルとして参加した。 1954年1月からはアイスショーの欧米巡業に参加し、1955年1月に帰国。