山田 晁(やまだ あきら、1884年(明治17年)11月12… 山田 晁(やまだ あきら、1884年(明治17年)11月12日 - 1973年(昭和48年)2月12日)は、日本の実業家。1924年(大正13年)、後にダイキン工業となる合資会社大阪金属工業所を設立、初代社長を務めた。フロン冷凍機技術とフッ素樹脂などを独自開発した事で知られ、ダイキンの主力となるエアコン開発の礎を築いた。位階は正五位。 1884年(明治17年)11月12日、山口県厚狭郡船木村(現:宇部市)に、かつて厚狭毛利家の家臣であった松田隆三の二男として出生したが、当時の松田家は裕福ではなかった。 船木尋常高等小学校高等科2年終了後、一時漢方医の書生となったが、小倉で紙箱製造販売をしていた3歳年上の兄松田隆亮の誘いで小倉へ移り、2年間の受験勉強ののち福岡県立小倉工業学校機械科に入学した。
辛島 篤(からしま あつし、1884年(明治17年)11月1… 辛島 篤(からしま あつし、1884年(明治17年)11月12日 - 1925年(大正14年)5月30日)は、日本の女性医師。大分県における女性医師の先駆者の一人。 大分県宇佐郡佐田村(現:宇佐市安心院町)に、医師の高木盛胤の三女として生まれる。16歳の時、宇佐郡駅館村(現:宇佐市)出身で大分市で歯科医を開業していた辛島汎と結婚した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
川崎 肇(かわさき はじめ、1884年〈明治17年〉11月1… 川崎 肇(かわさき はじめ、1884年〈明治17年〉11月11日 - 1948年〈昭和23年〉1月23日)は、日本の東京川崎財閥の実業家、ゴルファー。川崎銀行副頭取、川崎信託社長、東武鉄道取締役、阪和鉄道取締役などを歴任した。「駒沢育ち」を代表するゴルファーの一人。 初代川崎八右衛門の孫。八右衛門の娘なかとその婿の茨城県出身の川崎東作との長男で、叔父に2代目川崎八右衛門。弟の川崎甲子男は国華徴兵、日華生命、帝国火災、福徳生命の社長や明和銀行頭取などを務めた。妻のキヨは金子堅太郎の娘。 9歳で家督を相続。東京高等師範学校附属中学校(現筑波大学附属高等学校)を経て、1903年東京高等商業学校(現一橋大学)予科入学。
柴田 政太郎(しばた まさたろう、1884年(明治17年)1… 柴田 政太郎(しばた まさたろう、1884年(明治17年)11月10日 - 1953年(昭和28年)3月12日)は、日本の素封家、篆刻家、刀工、俳人。上記以外にも書、画、謡曲、大皷、鼓などで活動した。号は果(か)、紫陽花、木鶏。第二次世界大戦頃、一部の刀には光興と銘すると昭和町の歯科医である菅原鶴太郎は言及している。 印は犬養毅、張学良たちに愛用された。刀工としては国工の称号を持つ。日本刀鍛錬練習所所長の栗原彦三郎によって「聖代刀の暫定委列と標準価格」の中では神品の列に挙げられている。刀剣研究家の得能一男によって柴田は昭和元年から20年までの主要な刀工として、息子の清太郎は昭和の主要な刀工として挙げられている。
金沢 春友(かなざわ はるとも、1884年11月10日 - … 金沢 春友(かなざわ はるとも、1884年11月10日 - 1974年11月21日)は、日本の地方政治家、郷土史家。戦前に旧常豊村町長を1期務め、戦後には塙町町長を2期務めた。また、郷土史家としても、地元である福島県南部の古文書の掘り起こしや、水戸天狗党の研究などに業績を残した。 当時の福島県東白川郡石井村に生まれた。生家は、かつては名主の家柄であった。福島県立安積中学校(後の福島県立安積高等学校の前身)に学んだが、父の死によって1902年に学校を中退し、農業に従事した。その後、常豊村(後の塙町)に移り、酒造業を興し、さらに発電所建設などに携わった。1925年に常豊村村会議員となり、助役を経て、1937年11月14日から1941年6月30日まで常豊村長を務めた。
当真 嗣合(とうま しごう、1884年(明治17年)11月1… 当真 嗣合(とうま しごう、1884年(明治17年)11月10日 - 1946年(昭和21年)8月24日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、ジャーナリスト。
神原 甚造(かんばら じんぞう、1884年〈明治17年〉11… 神原 甚造(かんばら じんぞう、1884年〈明治17年〉11月10日 - 1954年〈昭和29年〉4月2日)は、日本の学者、裁判官、香川大学初代学長。法学士。 司法官試補、大審院判事などを務め、京都帝大・早稲田大学・中央大学で刑法・民法を教える。 昭和25年、香川大学初代学長となった。
小柴 博(こしば ひろし、1884年11月9日 - 1925… 小柴 博(こしば ひろし、1884年11月9日 - 1925年6月19日)は、日本のボーイスカウト運動の創始者のひとり。
守屋 栄夫(もりや えいふ、守屋 榮夫、明治17年(1884… 守屋 栄夫(もりや えいふ、守屋 榮夫、明治17年(1884年)11月8日 - 昭和48年(1973年)2月1日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士、歌人。衆議院議員、宮城県塩竈市長。宮城県平民。 元駐アフガニスタン公使守屋和郎の兄。元防衛事務次官守屋武昌の父。 明治17年(1884年)、宮城県遠田郡に生まれた。守屋徳郎の長男。宮城県古川高等学校卒業。二高を経て、 明治43年(1910年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業。文官高等試験に合格。 内務省に入省。千葉、愛知各県理事官、内務監察官、内務省参事官、朝鮮総督府秘書官、同秘書課長、同庶務部長、内務省社会局社会部長を歴任。1925年(大正14年)3月、社会局第二部長を務めていた際に、第7回国際労働会議政府代表に前田多門とともに選出。
鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1884年(明治17年)1… 鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1884年(明治17年)11月8日 - 1958年(昭和33年)6月27日)は、日本の内務官僚。官選府県知事、錦鶏間祗候。 山形県南置賜郡米沢芳泉町(のち南原村大字芳泉町、現米沢市)出身。元米沢藩士・鈴木幸松の長男として生まれ、母方の祖父・鈴木伊和太の養子となる。第一高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1910年、内務省に入り、石川県警部に任官した。 1910年12月、愛媛県警視となる。以後、岩手県事務官、神奈川県理事官、島根県警察部長、台湾総督府警視兼参事官、内務書記官、地方局市町村課長などを歴任した。
海野 清(うんの きよし、1884年〈明治17年〉11月8日… 海野 清(うんの きよし、1884年〈明治17年〉11月8日 - 1956年〈昭和31年〉7月10日)は、工芸家(彫金)、日本芸術院会員、人間国宝。 全日本工芸美術家協会会長、日本彫金家会会長、日本美術刀剣会常任審査員などを兼任し、彫金界の長老として長年に渡り要職を務めた。 海野勝珉の三男として東京に生まれる。1911年(明治44年)、東京美術学校金工科卒。父および加納夏雄に師事。1919年(大正8年)母校東京美術学校助教授、1928年(昭和3年)、帝展特選、1929年(昭和4年)から帝展、新文展審査員を務める。 1932年(昭和7年)母校教授に就任、のち同校在外研究員としてフランス留学し1934年(昭和9年)、帰国。
松本 信一(まつもと しんいち、1884年11月7日 - 1… 松本 信一(まつもと しんいち、1884年11月7日 - 1984年8月1日)は、日本の医学者、皮膚科医。京都帝国大学名誉教授、元大阪医科大学学長。福島県会津若松市生まれ。 再感染免疫をスピロヘータを使用した実験等、病理組織学や細胞免疫学の各方面から梅毒の研究を行う。1917年5月14日、医学博士の学位を受けた。1966年文化功労者、1976年勲一等瑞宝章。主著に『皮膚病学』等。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
高橋 明(たかはし あきら、1884年(明治17年)11月5… 高橋 明(たかはし あきら、1884年(明治17年)11月5日 - 1972年(昭和47年)3月12日)は、日本の医学者。新潟医科大学(現・新潟大学医学部)および東京帝国大学(現・東京大学)教授・日本医師会会長・学校法人獨協学園理事長などを務めた。泌尿器科学が専門。 1884年11月5日に愛知県渥美郡泉村(現・田原市)に生まれる。旧制第一高等学校を経て京都帝國大学福岡医科大学(現・九州大学医学部)に入学した。1909年11月に同校を卒業し、翌月東京帝国大学(現・東京大学)大学院に入学。皮膚病学会を創設した土肥慶蔵教授に学ぶ。1913年9月に大学院を退学し、ベルリン大学に留学して泌尿器疾患の研究を行なう。
楠山 正雄(くすやま まさお、1884年11月4日 - 19… 楠山 正雄(くすやま まさお、1884年11月4日 - 1950年11月26日)は、日本の演劇評論家、編集者、翻訳家、児童文学者。主に大正時代から昭和時代戦後初期にかけて活動した。 東京府京橋区新橋竹川町(現在の銀座)で、小売と卸売を兼業し、印刷業の写真画問屋も営む楠山秀太郎の子として生まれる。祖父で幕臣の楠山孝一郎は、同じく幕臣で編集者の成島柳北の兄にあたる。俳優・森繁久弥とも縁戚にあたる。 しかし3歳になった1886年2月15日、父秀太郎が急死。後に母親が再婚するが、再婚相手の起こした不祥事から会社が倒産して苦しい家計に追われることになり、親戚の家を盥回しにされるなど、多難な少年時代を送る。
鹿子木 員信(かのこぎ かずのぶ、1884年(明治17年)1… 鹿子木 員信(かのこぎ かずのぶ、1884年(明治17年)11月3日 - 1949年(昭和24年)12月23日)は、日本の哲学者、海軍軍人。最終階級は海軍機関中尉。
渡辺 節(わたなべ せつ、1884年(明治17年)11月3日… 渡辺 節(わたなべ せつ、1884年(明治17年)11月3日 - 1967年(昭和42年)1月21日)は、近代日本の建築家。元鉄道院技師。古典主義をベースとした様式建築を自在に設計し、近畿を中心に商業ビルの秀作を多く残した。門下に村野藤吾がいる。 東京府麹町区(現東京都千代田区)生まれ。天長節(のちに明治節。明治天皇の誕生日)に生まれたことから「節」と名づけられた。父は相馬藩士、後に陸軍中将。 旧制二高を経て、東京帝国大学建築学科を卒業。鉄道院に入り、京都駅(後に焼失)などを設計。1916年(大正5年)に独立、大阪に設計事務所を開設。1920年(大正9年)~1921年(大正10年)には欧米を視察。
石橋 理一(いしばし りいち、1884年〈明治17年〉11月… 石橋 理一(いしばし りいち、1884年〈明治17年〉11月3日 - 没年不明)は、日本の商人(畳表商)、醸造家、広島県多額納税者。 広島県人・石橋喜助の二男。1917年、家督を相続する。酒造業を営み直接国税1110円を納め、広島県多額納税者に列する。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は広島県呉市泉場町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
川越 丈雄(かわごえ たけお、1884年11月1日 - 19… 川越 丈雄(かわごえ たけお、1884年11月1日 - 1966年3月11日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。大蔵次官、法制局長官。 鹿児島県出身。川越武助の長男として生まれる。加治木中学、第一高等学校を経て、1910年10月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験に合格し大蔵省に入省。専売局書記兼大蔵属・専売局長官官房兼理財局勤務となる。 1918年6月、大蔵省主計官・主計局予算決算課に配属され、以後、大蔵書記官、主計局司計課長、同決算課長、同予算決算課長、預金部長などを歴任。1934年5月、銀行局長に就任。対満事務局次長を経て、1936年3月、大蔵次官となる。1937年2月、林内閣の法制局長官となり同年6月まで在任した。
五十嵐 敬之助(いそあらし けいのすけ、1884年11月1日… 五十嵐 敬之助(いそあらし けいのすけ、1884年11月1日 - 1964年2月12日)は、現在の千葉県印西市出身で勝ノ浦部屋に所属した力士。本名は宮澤 啓助(旧姓椎名)。7代勝ノ浦。164cm、83kg。最高位は西前頭4枚目。 染物屋に奉公していたが、元力士の兄の世話で入門した。1902年5月新序、1909年1月十両昇進、2場所連続好成績で1910年6月滝ノ音の四股名で入幕を果たす。入幕2場所目に前頭4枚目まで昇進したがそれ以降は幕内下位に甘んじた。小兵だったが小手投げ、押しを得意とし、櫓投げや内無双もあった。1911年に後援者の名から五十嵐に改名。1914年には師匠の御舟潟の名を継ぎ、幕下に陥落した1917年5月に引退し、7代勝ノ浦を襲名、年寄として一時部屋も経営し、44年間在職し1961年1月に定年制実施で76歳で退職した。
栗山 徳蔵(くりやま とくぞう、1884年〈明治17年〉11… 栗山 徳蔵(くりやま とくぞう、1884年〈明治17年〉11月 - 没年不明)は、日本の政治家(東京目黒区会議員、碑衾町会議員)、地主。 東京府・栗山万之丞の長男。1918年、家督を相続した。農業を営み、地主であった。目黒区会議員に推された。宗教は日蓮宗。住所は東京目黒区緑ヶ丘。 目黒区古民家(目黒区指定文化財)は、緑ヶ丘一丁目の栗山重治の旧宅であった。江戸時代に「年寄」という村の重要な役職を務めた旧衾村(ほぼ現在の環七通り西側)の栗山家の主屋を、竹林が生い茂る「すずめのお宿緑地公園」内に移築・復元(昭和59年4月に開設)し、保存・公開している。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
原 泰一(はら たいいち、1884年(明治17年)11月 -… 原 泰一(はら たいいち、1884年(明治17年)11月 - 1977年(昭和52年)7月23日)は、貴族院勅選議員、日本赤十字社副社長。救護法の大家であり、方面委員(現在の民生委員制度)を考案した。旧姓・大藪。 江戸南町奉行所与力・原胤昭の養子。岐阜県安八郡大藪の庄屋青木松三郎の長男として生まれる。1908年(明治41年)に慶應義塾大学理財科を卒業後、三井銀行に入社。1921年(大正10年)に米国留学。 1923年(大正12年)に欧米を視察し、1924年(大正13年)以降司法省事務嘱託、少年保護司、内務省社会局事務嘱託、保険調査会委員、中央社会事業委員会委員、軍事保護院専門委員等のほか、中央社会事業委員会理事、東京盲人会副会長、国際社会事業会議日本委員会常任理事等となり、社会保険制度調査会委員、日本赤十字社副社長となる。
藤原 咲平(ふじわら さくへい、「ふじはら」「さきへい」表記… 藤原 咲平(ふじわら さくへい、「ふじはら」「さきへい」表記もある、1884年〈明治17年〉10月29日 - 1950年〈昭和25年〉9月22日)は、日本の気象学者。学術論文などでのアルファベット表記(日本語のローマ字表記)は「Sakuhei Fujiwhara」を使用した。親族の証言によると本来は「ふじはら」姓で、本人のこだわりからFujiwhara表記をしたという。 長野県諏訪郡上諏訪町(現在の諏訪市)生まれ。高島尋常小学校・諏訪高等小学校(後の諏訪市立高島小学校、2021年4月以降は諏訪市立上諏訪小学校)を卒業。高島尋常小学校・諏訪高等小学校では陸軍中将の永田鉄山と同級であり、また同じく諏訪出身で岩波書店の創立者である岩波茂雄らとは生涯にわたって交友があったとされる。
田中 良(たなか りょう、1884年10月29日 - 197… 田中 良(たなか りょう、1884年10月29日 - 1974年12月31日)は、日本の舞台美術家・画家。 東京府麹町区生まれ。東京帝国大学農科大学教授・田中宏(1859年鹿児島県高麗町生まれ)の長男として生まれ、学習院中等部在学中に太平洋画会研究所に通う。東京美術学校(後の東京藝術大学美術学部)西洋画科で5年間学んだ時期は大伯父の奈良原男爵邸に同居している。1910年(明治43年)4月に卒業。同期生に九里四郎、近藤浩一路、長谷川昇、藤田嗣治など。 帝国劇場の背景部に所属して舞台の背景を手がけたほか、伯父・奈良原三次設計による奈良原式1号機の製作を手伝っている。1919年(大正8年)にはヨーロッパ諸国、アメリカ合衆国を視察する。
畔上 賢造(あぜがみ けんぞう、1884年10月28日 - … 畔上 賢造(あぜがみ けんぞう、1884年10月28日 - 1938年6月25日)は、内村鑑三門下(無教会派)のキリスト教独立伝道者。 農村伝道に従事し、またミルトン、カーライル、ブラウニング等の英文学を積極的に翻訳・紹介した。 1884年、長野県上田町(現上田市)に生まれる。1902年、旧制上田中学(長野県上田高等学校)卒業、早稲田大学予科入学。1904年、内村鑑三の門下生となる。1906年、早稲田大学文学部哲学科を卒業し、千葉県立千葉中学校の英語教師となる。1909年に同じ内村門下であった、成沢むつと結婚。1911年、千葉中学校を辞職。千葉県東金町の農村をベースに独立伝道を開始、また執筆・出版活動を行う。
高須 四郎(たかす しろう、1884年10月27日 - 19… 高須 四郎(たかす しろう、1884年10月27日 - 1944年9月2日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校35期。最終階級は海軍大将。 1884年10月27日、茨城県稲敷郡桜川村(現・稲敷市)に生まれる。旧制土浦中学校(現・土浦第一高等学校)を経て、1907年(明治40年)11月20日、海軍兵学校35期を172名中10位で卒業。1917年(大正6年)12月1日、海軍大学校甲種学生(17期)。 1923年(大正12年)6月1日、在イギリス大使館付武官補佐官。 1932年(昭和7年)5月15日、五・一五事件発生。高須は軍令部出仕兼海軍省出仕として、この事件の海軍側関係者を裁く軍法会議の判士長を務めた。
松山 基範(まつやま もとのり、1884年10月25日 - … 松山 基範(まつやま もとのり、1884年10月25日 - 1958年1月27日)は、日本の地球物理学者・古地磁気学者。山口大学初代学長。能楽師。京都大学名誉教授。理学博士(1918年)取得。1929年に世界で初めて「地球の磁場逆転現象」説を提唱したことで知られ、258万~77万年前の逆磁極期は「松山逆磁極期」と名付けられている。 大分県宇佐郡駅館村大字上田(駅川町を経て現宇佐市)の曹洞宗の寺院雲栖寺の住職であった墨江天外と末原コウの間に出生。当時は、僧職の妻帯は認められていなかったため母の姓を名乗り、1896年に父が山口県豊浦郡清末村(現下関市)の高林寺の住持になると、姓を父方に改めた。少年期を過ごし両親の墓も存在する同地には現在顕彰碑が建てられている。
中野 邦一(なかの ほういち、1884年(明治17年)10月… 中野 邦一(なかの ほういち、1884年(明治17年)10月25日 - 1965年(昭和40年)4月13日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士。官選県知事、衆議院議員。位階は正四位。 旧佐賀藩士・木村清の長男として佐賀県佐賀郡西与賀村(現:佐賀市)で生まれる。母が中野方蔵の姪という関係から中野家の養嗣子となった。佐賀中学校、山口高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、内務省に入り警視庁警部となる。 以後、警視庁警視、芝西久保警察署・本郷駒込警察署・浅草南元町警察署の各署長、高知県・愛知県の各理事官、香川県警察部長、岡山県警察部長、宮城県警察部長、京都府警察部長、愛媛県内務部長、秋田県書記官・内務部長などを歴任。
白梅 文治郎(しらうめ ぶんじろう、1884年10月25日 … 白梅 文治郎(しらうめ ぶんじろう、1884年10月25日 - 1936年1月31日)は、群馬県山田郡(現在の桐生市)出身で峰崎部屋(入門時は白玉部屋)に所属した大相撲力士。最高位は西張出前頭18枚目。現役時代の体格は身長164cm、体重86kg。得意手は右四つ、投げ。 7代白玉(最高位:幕下二段目、現役名:淀川)の弟子となり、初め小枩谷の四股名で取り進んだ。序二段の1903年1月場所で白梅と改名。1907年5月場所で新十両となったが、病気がちで幕下に陥落した場所もあったものの、1912年1月場所で5勝2敗1分2休の成績を挙げると、翌5月場所に入幕して幕尻格(前頭18枚目格)の張出前頭となるが、2勝8敗と大負けして1場所限りで十両陥落。
高橋 直行(たかはし なおゆき、1884年10月24日 - … 高橋 直行(たかはし なおゆき、1884年10月24日 - 1969年2月17日)は、日本の経営者。日本酸素社長を務めた。 東京都出身。1935年に大倉高等商業学校を卒業。1924年に日本酸素支配人に就任し、取締役、常務を経て、1943年から1963年までに社長を務めた。 1955年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲三等瑞宝章を受章。 1969年2月17日老衰のために死去。84歳没。
原 孝吉(はら こうきち、1884年(明治17年)10月24… 原 孝吉(はら こうきち、1884年(明治17年)10月24日 - 1968年(昭和43年)9月22日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 福島県安積郡小原田村(小原田村大字小原田を経て現郡山市)で、原五郎八の三男として生まれる。実家が貧しかったため、幾多の困難を乗り越えて畳製造販売業を営んだ。 実業界では、東北木工社長、福島県土木建築職種別組合協議会長、同畳商工業協同組合理事長、郡山商工会議所常議員などを務め、1947年(昭和22年)全国畳商工会長に就任した。 政界では、郡山市会議員(5期)、同第5代議長(1945年6月8日から1947年4月30日まで)、福島県会議員(3期)を務めた。1947年4月、第23回衆議院議員総選挙で福島県第1区から民主党公認で出馬して当選した。
松平 穆堂(まつだいら ぼくどう、1884年(明治17年)1… 松平 穆堂(まつだいら ぼくどう、1884年(明治17年)10月22日 - 1962年(昭和37年)10月15日)は、日本の書家。以文会(現・致道博物館)理事、松平武右衛門家10代当主。黒崎研堂門下では吉田苞竹と双璧をなした。 1884年(明治17年)10月22日、塚原権平の子として、山形県東田川郡松ヶ岡(現・鶴岡市羽黒町)に生まれる。松平武右衛門家9代当主・松平久彰の養子となる。その後、黒崎研堂の門下生となり、書と詩を学ぶ。 1907年(明治40年)山形師範学校を卒業し、最上郡鮭川村小学校に勤務。1908年(明治41年)教員試験に合格し中等教員習字科の免許を取得する。1912年(明治45年)酒田高等女学校(現・山形県立酒田西高等学校)教諭。
森 矗昶(もり のぶてる、1884年〈明治17年〉10月21… 森 矗昶(もり のぶてる、1884年〈明治17年〉10月21日 - 1941年〈昭和16年〉3月1日)は、日本の実業家、森コンツェルンの創業者、衆議院議員(3期)。位階は従五位勲四等。 弟は元衆議院議員の岩瀬亮。息子に政治家の森曉(長男)、森清(四男)、森美秀(五男)、娘婿に安西正夫(長女・満江の夫)、三木武夫(次女・睦子の夫)、田中覚(三女・三重子の夫)がいる。孫に森英介(五男・美秀の息子)、安西孝之(長女・満江の息子)、高橋紀世子(次女・睦子の娘)、松崎哲久(三女・三重子の息子)がいる。 少年時代から実学で知識と技術を体得し、時にヤマカンとよばれる事業に対する嗅覚によって化学工業の先達となった叩き上げの実業家であった。
武石 浩玻(たけいし こうは、1884年(明治17年)10月… 武石 浩玻(たけいし こうは、1884年(明治17年)10月20日 - 1913年(大正2年)5月4日)は日本の飛行家。日本の民間飛行家として最初の航空事故による犠牲者でもある。本名は道之介。 茨城県那珂郡勝田村大字勝倉(現在のひたちなか市勝倉)出身。武石家は水戸佐竹藩の家老職を務めた家柄であったが、水戸徳川家では庄屋に任じられていた。 1902年(明治35年)3月、茨城県尋常中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)の卒業試験を終えるなり卒業式には出ずに、横浜港から海外へ飛び出し、商船のボーイを務めながらヨーロッパへ渡り、更に翌1903年(明治36年)には郷土の代議士・根本正からの紹介状を得て渡米した。
薬師寺 主計(やくしじ かずえ、1884年(明治17年)10… 薬師寺 主計(やくしじ かずえ、1884年(明治17年)10月20日 - 1965年(昭和40年)3月11日)は日本の建築家。 岡山県出身。1909年東京帝国大学工科建築科を卒業後、陸軍省の技師として勤務する一方で、郷里の有力者であった大原孫三郎の依頼により第一合同銀行倉敷支店(現:中国銀行倉敷本町出張所)の設計に携わった。 1926年の陸軍省退職後、大原孫三郎に招かれ倉敷絹織(現:クラレ)の取締役に就任し、その経営に参画しながら大原美術館本館や倉紡中央病院(現:倉敷中央病院)、第一合同銀行本店(現:中国銀行)などの大原家の関わる施設を中心に多くの建築を手がけた。 1884年(明治17年)、岡山県賀陽郡刑部村(現:総社市刑部)に生まれる。
西 済(西 濟、にし いつき、1884年 <明治17年> 1… 西 済(西 濟、にし いつき、1884年 <明治17年> 10月18日 - 1981年 <昭和56年> 4月27日)は、日本の経営者。十條製紙社長を務めた。位階は従四位。 長崎県平戸市出身。1906年に東京高等工業学校機械科を卒業し、同年に鈴木機械製作所に入社。 1910年に王子製紙に転じ、1941年に取締役を経て、1949年8月には十條製紙社長に就任。1957年11月に会長を経て、1968年5月には相談役に就任。 1960年に藍綬褒章を受章し、1965年11月には勲三等瑞宝章を受章。 1981年4月27日、心不全のために死去。96歳没。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
結城 安次(ゆうき やすじ、1884年(明治17年)10月1… 結城 安次(ゆうき やすじ、1884年(明治17年)10月17日 - 1977年(昭和52年)3月4日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。参議院議員。 結城萬蔵の二男、結城堅の弟として茨城県取手町(現取手市)に生まれる。1911年(明治44年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、三井物産に入り、本店、上海、大阪各支店にて勤務する。1924年(大正13年)清浦内閣の時、逓信大臣秘書官に任ぜられた。実業界では早川電力、東京電力、大井川鐵道などの重役、自動車鋳物、大井川電力各社長、三河水力電気、伊豆水力電気、上毛電力、東京湾電気、寸又川水力電気各取締役などを歴任した。
沢田 権左エ門(さわだ ごんざえもん、1884年〈明治17年… 沢田 権左エ門(さわだ ごんざえもん、1884年〈明治17年〉10月16日 - 1959年〈昭和34年〉1月9日)は、日本の政治家。釜石市長(2期)。 岩手県南閉伊郡釜石村(のち釜石町、現・釜石市)に生まれる。早稲田大学法科卒。電友社を経て、東京朝日新聞社に入る。その後、帰郷し、1911年(明治44年)釜石電気会社を設立する。ほか、運送倉庫会社や製氷会社などを興し、その経営に当たる。 政治面では1917年(大正6年)から1925年(大正14年)まで釜石町会議員を2期務めた。1931年(昭和6年)12月20日、岩手県会議員補欠選挙に上閉伊郡選挙区から立憲政友会公認で立候補して、初当選を果たした。同月22日に就任した。
霜山 精一(しもやま せいいち、1884年(明治17年)10… 霜山 精一(しもやま せいいち、1884年(明治17年)10月15日 - 1975年(昭和50年)3月12日)は、日本の司法官僚、弁護士。大審院長、最高裁判所判事、貴族院議員。従二位勲一等。 1910年(明治43年)に東京帝国大学を卒業。1912年(大正元年)12月に判事に任官。司法省参事官も務め、1924年(大正13年)1月に大審院判事、1934年(昭和9年)5月に札幌控訴院院長になった時は51歳で全国控訴院長のうち最年少であった。この後、広島控訴院長を経て、1939年(昭和14年)に東京控訴院長と昇進。1942年(昭和17年)に控訴院判事人事は部長会議(分科会)の合議で決めることになっていたが、霜山院長の独断で代理部長の人事を決めた際に、法律違反だとして若手判事らが徒党を組んで抗議して撤回を迫られるという控訴院分科会事件が発生した。
中村 星湖(なかむら せいこ、1884年(明治17年)10月… 中村 星湖(なかむら せいこ、1884年(明治17年)10月14日 - 1974年(昭和49年)4月13日)は、日本の文学者。星湖は筆名で、本名は中村 将為(なかむら まさため)。 山梨県南都留郡河口村(後の旧同郡河口湖町、現富士河口湖町)に生まれる。8人兄弟の長男。河口村は河口湖に面し、江戸時代から富士参詣者への宿坊を提供する御師の町で、中村家も御師業を営みつつ農業や養蚕を行っていた。 1890年(明治23年)に村立河口小学校へ入学する。両親の影響で幼少時から文学に親しみ、回覧雑誌などを製作している。1897年(明治30年)中学進学のため一時上京するが、翌年に甲府の山梨県立尋常中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)に入学。
小山 鞆絵(おやま ともえ、1884年(明治17年)10月1… 小山 鞆絵(おやま ともえ、1884年(明治17年)10月14日 - 1976年(昭和51年)12月3日)は、大正・昭和時代の哲学者。ヘーゲル哲学の研究者。東北大学名誉教授。 1884年(明治17年)10月14日、埼玉県北足立郡鴻巣宿で生まれた。東京帝国大学文科大学哲学科で、ドイツ哲学を中心とした西洋哲学をラファエル・フォン・ケーベルについて学んだ。同期生には、安倍能成、伊藤吉之助、宮本和吉らがいた。1909年(明治42年)、同大学を卒業。 卒業後は、海軍大学校、慶應大学、東北帝国大学理学部などで講師を務めた。1915年(大正4年)3月5日、板垣退助伯爵の五女、良子と結婚。1921年(大正10年)、ヨーロッパへ留学。
宮島 綱男(みやじま つなお、1884年(明治17年)10月… 宮島 綱男(みやじま つなお、1884年(明治17年)10月13日 - 1965年(昭和40年)3月26日)は、日本の経済学者・大学経営者。日仏交流にも長年尽力した。 1884年、愛知県丹羽郡池野村(現・犬山市)の素封家の家に生まれる。 1904年、名古屋英和学校を卒業。1908年、早稲田大学商科の外交部を首席で卒業。1911年、早大在外研究員としてヨーロッパに留学、シャルル・ジイド(ノーベル賞作家アンドレ・ジイドの叔父)の下で金融経済学を学ぶ。1913年、早大教授となるも、1917年早稲田騒動で早大を去る。その後、山岡順太郎(大阪商工会議所会頭)の個人秘書となる。 1921年、関西大学教授となる。
町永 三郎(まちなが さぶろう、1884年10月13日 - … 町永 三郎(まちなが さぶろう、1884年10月13日 - 1966年9月1日)は、日本の実業家。神戸製鋼所社長と尼崎製鉄社長を務めた。 新潟県出身。1913年に大阪高等工業学校機械部機械科を卒業し、神戸製鋼所に入社した。1944年に取締役に就任し、1946年に公職追放を受けた浅田長平に代わり、社長に就任した。浅田長平が復帰した1952年を機に副社長に就任し、1955年には尼崎製鋼所社長も兼任し、1958年に尼崎製鉄社長に就任した。 1965年11月には勲三等旭日中綬章を受章した。 1966年9月1日敗血症のために死去。81歳没。
毛内 效(もうない いさお、1884年10月12日 - 19… 毛内 效(もうない いさお、1884年10月12日 - 1936年5月16日)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 青森県青森市出身。弘前藩士毛内嘉胤の三男として生まれる。兄は陸軍少将毛内靖胤。弘前中学(現・青森県立弘前高等学校)、海軍兵学校(33期)、海軍大学校を経て、海軍大学校教官を務めた。佐世保海軍艦船部長、武蔵特務艦長、天龍、那珂、陸奥、尻矢、大泊艦長などを歴任した。航海術の権威で昭和7年(1932年)侍命となった。退役後は太平洋漁業会社顧問として、北洋漁業に関わった。 1936年(昭和11年)5月16日死去。同月18日に行われた葬送の際には、勅使が邸宅に訪れ幣帛が下賜された。
石田 信次(いしだ のぶじ、旧姓:高野、1884年10月11… 石田 信次(いしだ のぶじ、旧姓:高野、1884年10月11日 - 1960年10月31日)は、明治・大正・昭和時代の日本の教育者。 新潟県三島郡与板町岩方(現長岡市)出身。三島郡立与板高等小学校(現長岡市立与板小学校)を経て1906年新潟師範学校卒業後、小学校教諭となり新潟県内各校に赴任した。 1922年、開校して間もない新潟市立万代尋常小学校(現新潟市立万代長嶺小学校)校長に就任した。学習以前の問題が根深く存在していた当時の同校に於いて、7年間にわたって能力別編成による授業などの「万代教育」といわれる教育活動に取り組み、大正期の新教育実践者として知られた。その後は現在の新潟市立沼垂小学校、新潟市立白山小学校校長を務めた。
今村 正美(いまむら まさみ / まさよし、1884年(明治… 今村 正美(いまむら まさみ / まさよし、1884年(明治17年)10月11日 - 1945年(昭和20年)2月22日)は、日本の検察官、内務・警察官僚、弁護士。官選滋賀県知事。 香川県丸亀市出身。今村信美の二男として出生。明治大学、日本大学の各法科を卒業。1905年11月、判事検事登用第1回試験に合格。1906年7月、司法官試補・和歌山区裁判所及同検事局事務修習となる。以後、大阪、岡山地方の各検事、山口県理事官、富山県警察部長、北海道庁警察部長、高知県書記官・内務部長、熊本県書記官・内務部長などを歴任。1927年5月、熊本県内務部長から滋賀県知事に就任(在任期間:昭和2年5月17日~昭和3年6月29日)。
小杉 繁安(こすぎ しげやす、1884年(明治17年)10月… 小杉 繁安(こすぎ しげやす、1884年(明治17年)10月7日 - 1963年(昭和38年)4月29日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 山形県東村山郡天童町(現天童市)で小杉繁治の長男として生まれる。1919年(大正8年)東京帝国大学経済学部経済学科を卒業した。 日本鉱業開発取締役、沢藤電機取締役、東北振興精密機械専務取締役、北日本産業社長、日生鉱業社長、東北農機社長、協栄興業社長、大船産業監査役などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に山形県地方区から無所属で出馬して当選し、自由党に所属して参議院議員に1期在任した。その間、参議院両院法規委員長などを務めた。
田中 義麿(たなか よしまろ、1884年10月6日 - 19… 田中 義麿(たなか よしまろ、1884年10月6日 - 1972年7月1日)は、日本の遺伝学者、育種学者。九州大学名誉教授。 長野県東筑摩郡片丘村(現塩尻市)生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、東北帝国大学農科大学(現・北海道大学農学部)在学中、動物学教室でウィリアム・ベイトソンの『メンデルの遺伝の法則』をに感銘を受け遺伝学を志す。1911年に同大助教授となり、1913年、日本で初めて遺伝学を講義する。1917年、「蚕の遺伝学的研究」で農学博士号を得る。欧米留学後の1924年には九州帝国大学農学部教授となる。 安藤広太郎らと7名で1915年、日本育種学会(1920年に日本遺伝学会に改組)を創設、1939年日本遺伝学会会長、1949年には国立遺伝学研究所の第一部長に就任した。
秋山 孝之輔(あきやま こうのすけ、1884年10月5日 -… 秋山 孝之輔(あきやま こうのすけ、1884年10月5日 - 1970年10月23日)は、日本の経営者。栃木県栃木市出身。 1905年に慶應義塾大学法学部政治科を卒業し、1910年に大日本製糖に入社。常務、専務、副社長を経て、1949年6月には日本専売公社総裁に就任し、1953年5月までに務めた。慶應義塾大学理事も務めた。 1964年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1970年10月23日心不全のために死去。86歳没。
村田 正太(むらた まさたか、1884年10月5日 - 19… 村田 正太(むらた まさたか、1884年10月5日 - 1974年12月20日)は、日本の医師、医学研究者。梅毒血清反応「村田法」の創始者。ハンセン病研究者。エスペランティスト。1926年から1933年まで大阪府外島保養院院長を務めたが、外島事件で辞任した。患者を一人の人間として対等に「キミ」と呼び、遇したのは当時としてはたいへん珍しい。その後職に就かず、神奈川県二宮町で個人的研究生活に入る。 法律を勉強していた時に知った女性がらいに罹患し、生涯らいに尽そうと決意した。光田健輔を紹介され、同氏の指示をうけ、医学の道に進む。東京伝染病研究所では、梅毒血清反応を研究。村田反応を創設した。大阪府外島保養院院長席が空席をなり、村田が起用された。
辻 潤(つじ じゅん、1884年10月4日 - 1944年1… 辻 潤(つじ じゅん、1884年10月4日 - 1944年11月24日?)は、日本の翻訳家、思想家である。日本におけるダダイスムの中心的人物の一人とされる。画家、詩人の辻まことは長男である。