大島 弘夫(おおしま ひろお、1903年〈明治36年〉11月… 大島 弘夫(おおしま ひろお、1903年〈明治36年〉11月25日 - 1953年〈昭和28年〉10月4日)は、日本の内務官僚。官選青森県知事。 石川県金沢市長町出身。第八高等学校(現・名古屋大学)を首席で卒業。1925年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し新潟県属となる。 以後、富山県書記官・警察部長、軍事保護院事務局長、総力戦研究所員、内閣参事官などを歴任。 1944年8月、青森県知事に就任。戦時下の食糧増産に尽力。1945年4月、内務省管理局長に転任。内務省調査官、大臣官房調査部長を歴任。1946年1月に退官。その後、公職追放となった。
邦 創典(くに そうてん、1903年11月24日 - 198… 邦 創典(くに そうてん、1903年11月24日 - 1982年12月21日)は、日本の俳優。東京市深川区菊川(現:東京都墨田区菊川)出身。東京府島田町立実業補習学校(現:東京都立墨田工科高等学校)卒。極東映画、松竹、東宝、新東宝(現:国際放映)、エヌ・エー・シーなどに所属していた。本名は桑原 二郎。旧芸名は国 創典。特技は剣舞。 妻は女優の五月藤江(さつき ふじえ、1893年10月5日 - 1982年8月21日)。
大久保 武雄(おおくぼ たけお、1903年11月24日 - … 大久保 武雄(おおくぼ たけお、1903年11月24日 - 1996年10月14日)は、日本の政治家。労働大臣(第36代)、衆議院議員(7期)。俳人でもあり、俳号は大久保 橙青(おおくぼ とうせい)で、息子も俳人の大久保白村。 1903年、熊本城下西通町にある醤油屋の三男坊として生まれる。祖先の大久保八左衛門宗雅は、長水と号し近郊では有名な蕉門の俳人であった。 1928年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。在学中は、五高時代から親しんだ野球の主力として全国高等専門学校野球大会優勝を果たしている。逓信省に入省すると、先輩の富安風生の紹介で、東大俳句会に入り高浜虚子に師事。郷土熊本が橙の産地であることから橙の字を使い、俳号を橙青とつける。
中村健児(なかむら けんじ、1903年11月23日 - 19… 中村健児(なかむら けんじ、1903年11月23日 - 1984年7月30日)は、日本の生物学者(動物学・発生生物学・細胞生物学)。京都大学名誉教授。理学博士。 男爵中村雄次郎の六男。中村貫之の弟。 細胞分裂時の染色体に関する研究、爬虫類の分類学的研究を行った。
米山 美雄(よねやま よしお、1903年11月23日 - 1… 米山 美雄(よねやま よしお、1903年11月23日 - 1987年5月19日)は、日本の経営者。三井生命保険社長を務めた。 東京都出身。1927年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に三井生命保険に入社した。1947年7月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1963年5月に副社長に就任し、1965年5月には社長に就任。1971年5月に会長に就任し、1977年7月から相談役を務めた。 1970年に藍綬褒章を受章し、1976年に勲三等瑞宝章を受章。 1987年5月19日肺炎のために死去。83歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
志茂 源吉(しも げんきち、1903年 <明治36年> 11… 志茂 源吉(しも げんきち、1903年 <明治36年> 11月22日 - 1994年 <平成6年> 2月10日)は、日本の経営者、銀行家。奈良県出身。位階は従五位。 1928年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に日本銀行に入行。 華興商業銀行、東洋水産での勤務を経て、1951年8月には七福相互無尽(のちの阪神相互銀行)社長に就任。1973年5月に会長、1975年5月に取締役相談役を経て、1979年11¥2月には相談役に就任。 1968年9月に黄綬褒章を受章し、1974年11月に勲四等瑞宝章を受章を受章。 1994年2月10日老衰のために死去。90歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
岩片 秀雄(いわかた ひでお、1903年(明治36年)11月… 岩片 秀雄(いわかた ひでお、1903年(明治36年)11月22日 - 1970年(昭和45年)6月11日)は、昭和時代の電気工学者、通信技術者。 東京に生まれる。1927年(昭和2年)早稲田大学電気科を卒業後、1931年(昭和6年)早稲田大学助教授、1943年(昭和18年)教授となる。1942年(昭和17年)工学博士。早稲田大学では電気通信工学科主任教授を務めた。ほか、電気通信学会副会長、東京支部長などを歴任した。著書に『電磁界及空中線』、『無線工学原論』など。 戦前は主にアンテナおよびマイクロ波伝送回路について研究し、その応用研究の成果は軍用レーダーの開発に生かされた。戦後はファラデー効果をマイクロ波で実現する研究を行い、マイクロ波用の高性能フェライト材料を試作・開発。
伊藤 永之介(いとう えいのすけ、1903年11月21日 -… 伊藤 永之介(いとう えいのすけ、1903年11月21日 - 1959年7月26日)は、日本の小説家。 秋田県秋田市西根小屋末町出身。父親の事業(菓子屋)失敗のため上級学校への進学はかなわず、中通高等小学校の補習科を出た後、日本銀行秋田支店で文書係をしながら雑誌投稿を始める。 1924年に同郷の金子洋文を頼って上京。その紹介で雑誌『文芸戦線』に評論を発表して、文筆活動にはいる。最初は評論を書いていたが、1928年『文芸戦線』に「見えない鉱山」を発表、プロレタリア文学の新進作家として注目を浴びる。『文芸戦線』誌の編集に携わりながら小説を発表し、『戦旗』に対抗する労農派の作家として、同誌を支えた。この時期の代表作として、「総督府模範竹林」(1930年)、「万宝山」(1931年)などの植民地に取材した作品がある。
谷 耕平(たに こうへい、1903年11月20日 - 198… 谷 耕平(たに こうへい、1903年11月20日 - 1989年12月6日)は、日本のロシア文学者。長野県小県郡県村(現東御市)生まれ。本名は宮坂 好安。 旧制上田中学(長野県上田高等学校)を中途退学、東京府立青山師範学校本科、第一早稲田高等学院を経て、1932年早稲田大学文学部露文科卒業。戦前からロシア文学者として活動し、善隣外事専門学校でロシア語の教授、戦後は早稲田大学教授を務めた。1974年定年、名誉教授。
大田 洋子(おおた ようこ、1903年〈明治36年〉11月2… 大田 洋子(おおた ようこ、1903年〈明治36年〉11月20日 - 1963年〈昭和38年〉12月10日)は、日本の小説家。本名、大田 初子。 広島県山県郡原村(現・北広島町)生まれ。6歳のとき父母が離婚したので親戚の大田家の籍に入る。その後母が再婚し、佐伯郡玖島村(現・廿日市市)で育つ。進徳実科高等女学校(現在の進徳女子高等学校)研究科卒業。小学校の裁縫教師として江田島に赴任したが1年で退職。小学校在職中に地元紙の芸備日日新聞に小説を発表、新進作家の扱いを受ける。21歳で結婚したが一児を残して出奔。尾道や大阪などで女給として働きつつ小説を書く。のち上京し、1929年、『女人芸術』に「聖母のゐる黄昏」を発表、これが文壇デビューとなる。
早川 三郎(はやかわ さぶろう、1903年11月20日 - … 早川 三郎(はやかわ さぶろう、1903年11月20日 - 1983年1月10日)は、日本の経営者。藤沢薬品工業(現・アステラス製薬)社長、会長を務めた。 滋賀県出身。1931年に東京帝国大学経済学部を卒業し、1932年6月に東洋レーヨンに入社。1942年に藤沢友吉商店(のちの藤沢薬品工業、現在のアステラス製薬)に転じ、1950年6月に取締役に就任し、1963年7月に常務、1961年11月に専務を経て、1967年5月には社長に就任した。1978年1月には相談役に就任。 1978年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1983年1月10日、脳幹部腫瘍のために死去。79歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
吉本 元輔(よしもと もとすけ、1903年11月20日 - … 吉本 元輔(よしもと もとすけ、1903年11月20日 - 没年不詳)は、日本の実業家。日本ダイナースクラブ(現・三井住友トラストクラブ)元会長・社長、日本交通公社元理事。 東京出身。1927年、立教大学商学部(現・経済学部、経営学部)卒業。 大学卒業後、日本交通公社へ入社。1946年2月、初代社員組合長に就任。1949年、日本交通公社は、国鉄手数料停止という非常事態に直面したが、打開策の一つとして本社機能の再構築が行なわれ、新たに旅行課、海運課、審査課からなる「旅行部」が設置され、初代部長に就任。国内旅行営業推進の中核としての職務を担った。 その後、同社理事に就任。 1960年、財団法人日本交通公社および富士銀行等の出資によって日本で最初の多目的クレジットカード会社として株式会社日本ダイナースクラブ(後のシティカードジャパン株式会社、現・三井住友トラストクラブ株式会社)が設立され、社長に就任。
小島 威彦(こじま たけひこ、1903年11月19日 - 1… 小島 威彦(こじま たけひこ、1903年11月19日 - 1996年12月1日)は、日本の哲学者。明星大学名誉教授。 実業家・政治家の深尾隆太郎は妻の父。兄に海軍少将の小島秀雄。 神戸出身。1928年、京都帝国大学文学部哲学科卒業。1930年、同大学院修了。1932年、中華民国に留学。1936年、英国・フランス・ドイツに学ぶ。 1930年、仲小路彰らと科学アカデミアを創立。同人に、佐々弘雄・三枝博音・飯島正・冨澤有爲男・唐木順三・渡辺一夫・服部之総らがいた。1938年、国民精神文化研究所所員となって以降、右翼思想を喧伝。国家学者の大串兎代夫や教育学者の伏見猛彌と共に精研三羽烏と呼ばれる。 出版社の世界創造社、および編集プロダクション兼文化サロン「戦争文化研究所」を創設。
岩崎 昶(いわさき あきら、1903年11月18日 - 19… 岩崎 昶(いわさき あきら、1903年11月18日 - 1981年9月16日)は、日本の映画評論家で映画製作者、ドイツ文学者。 啓蒙的批評家の一人であり左翼陣営の戦闘的映画人と目される。スポーツマンで良き家庭人であったという。 息子に学習院大学文学部フランス語圏文化学科名誉教授の岩崎浩がいる。 東京生まれ。東京府立一中から第一高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学独文科在学当時よりシナリオや独映画の評論を書いている。後の東宝社長である森岩雄は、この早熟の青年を気に入り日活の企画会議「金曜会」の助手として傍においていた。 1927年に大学を卒業すると洋画の輸入会社、田口商店に勤めるが、そこで独の大手製作会社ウーファの代理人であった川喜多長政と邂逅する。
味田 順三郎(みた じゅんざぶろう、1903年11月18日 … 味田 順三郎(みた じゅんざぶろう、1903年11月18日 - 1992年9月21日)は、日本の銀行家。阿波銀行頭取を務めた。京都府出身。 1925年に大阪高等商業学校を卒業。 日本銀行での勤務を経て、1955年に阿波商業銀行(のちの阿波銀行)副頭取に就任し、1961年11月には頭取に昇格。1967年11月に会長を経て、1975年12月には相談役に就任。 1971年10月に藍綬褒章を受章し、1977年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 1992年9月21日老衰のために死去。88歳没。
神西 清(じんざい きよし、1903年11月15日 - 19… 神西 清(じんざい きよし、1903年11月15日 - 1957年3月11日)は、日本のロシア文学者、翻訳家、小説家、文芸評論家。 1903年、内務省の官吏の息子として東京市に生まれる。1910年、麹町の番町小学校に入学。父の転勤に伴って日本国内各地を転々とした末、父は台湾へ赴任。清も台湾の日本人学校に学ぶ。内向的で孤独な少年だった。1912年、父をマラリアで失う。 1916年、東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)に入学。このころ、母方の伯母を頼って北村家に同居。従兄の北村寿夫の影響で文学に親しむ。中学で、終生の友人竹山道雄と知り合う。 1920年、旧制第一高等学校に入学。堀辰雄と知り合う、親交は終生続き、堀の没後には全集の編集を担当した。
松田 壽男(まつだ ひさお、1903年〈明治36年〉11月1… 松田 壽男(まつだ ひさお、1903年〈明治36年〉11月15日 - 1982年〈昭和57年〉3月10日)は、日本の東洋史学者・歴史地理学者。早稲田大学名誉教授。 1903年、熊本県士族の松田好生、松田富子を母として、東京市牛込区新小川町三丁目19番地(現在の東京都新宿区新小川町)で出生。暁星小学校を経て、成蹊中学校に入学。中学では、毎日の日課になっている座禅、夏期は越前永平寺にこもって禅僧生活、箱根仙石原でキャンプを行う等の日々を送った。 新潟高等学校(現:新潟大学人文学部及び理学部)を経て、東京帝国大学文学部東洋史学科に入学。1927年(昭和2年)8月に「北魏書」西域伝の北魏朝の使者の報告に偽作里数が使われていることを発見する。
星野 立子(ほしの たつこ、1903年(明治36年)11月1… 星野 立子(ほしの たつこ、1903年(明治36年)11月15日 - 1984年(昭和59年)3月3日)は、昭和期の俳人。高浜虚子の次女。虚子に師事し、初の女性主宰誌『玉藻』を創刊・主宰した。虚子一族で特に評価の高い人物。女性俳人では同時期に活躍した中村汀女・橋本多佳子・三橋鷹女とともに四Tと称された。星野立子の名を冠する俳句賞として、星野立子賞・星野立子新人賞が設けられている。 東京府麹町区富士見町(現・東京都千代田区)に生まれる。父高浜虚子、母いとの次女。7歳のとき鎌倉に移る。1924年、東京女子大学高等学部卒業。1925年に作家で『文学界』主宰星野天知の息子、鎌倉彫職人の星野吉人と結婚、『ホトトギス』発行所および文化学院に就職する。
二見 秀雄(ふたみ ひでお、1903年(明治36年)11月1… 二見 秀雄(ふたみ ひでお、1903年(明治36年)11月15日 - 1986年(昭和61年)6月10日)は、日本の建築学者。 ラーメン構造の構造力学研究と50余年にわたる教職を通して、人材育成、委員会の収締め役として貢献した。とくに初代南極観測建築委員長として観測建物の製作指導や、高層ビルの高さ制限の調停などがあげられる。東京工業大学名誉教授。
遠山 清(とおやま きよし、1903年〈明治36年〉11月1… 遠山 清(とおやま きよし、1903年〈明治36年〉11月15日 - 1963年〈昭和38年〉6月10日)は、日本の教育者、画家。 サンサシオン同人、広井尋常小学校教員、名古屋市立第一高等女学校教員、光風会会員、愛知県立愛知工業高等学校教員、社団法人光風美術会会員、社団法人日展会員、社団法人日展審査員などを歴任した。 愛知県名古屋市出身の洋画家である。広井尋常小学校、名古屋市立第一高等女学校、愛知県立愛知工業高等学校に教員として勤務する傍ら、光風会展、帝展、日展に出品を続け、光風賞や岡田賞を受賞している。光風会や日展の会員となり、のちに日展の審査員も務めた。 1903年(明治36年)11月15日、大日本帝国の愛知県名古屋市にて生まれた。
八木 芳信(やぎ よしのぶ、1903年(明治36年)11月1… 八木 芳信(やぎ よしのぶ、1903年(明治36年)11月14日- 1993年(平成5年)6月5日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。最後の官選三重県知事。 京都府出身。京都府立京都第一中学校、第三高等学校を卒業。1926年12月、高等試験行政科試験に合格。1927年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し、千葉県属となる。 以後、長野県経済部長、神奈川県警察部長、神奈川県内務部長などを歴任。戦時中は海軍司政官に転出した。 1947年3月、前任の佐伯敏男が知事選に出馬のため辞任したことに伴い三重県知事に発令された。知事選挙などを執行して同年4月に退任。 その後、経済安定本部高松地方安定局長、帝国産業株式会社(現テザック)社長、同会長を歴任。
竹内 良一(たけうち りょういち、1903年11月13日 -… 竹内 良一(たけうち りょういち、1903年11月13日 - 1959年1月18日)は、日本の俳優。本名は外松 良一(とまつ りょういち)。旧芸名は竹内 良作(たけうち りょうさく)。女優岡田嘉子の元夫。実妹は舞台女優の竹内京子。祖父は外松孫太郎。男爵・外松亀太郎の長男。 1903年、陸軍大尉男爵・外松亀太郎(とまつ かめたろう, 明治8年生まれ、外松孫太郎長男)と混血の声楽家で日本女子大教師の大山たま子(明治10年生まれ、明治43年離縁)の長男として東京市赤坂区青山に生まれる。1911年、学習院初等科入学。学習院中等科を経て、1922年に学習院高等科を卒業。1924年6月、築地小劇場の演技研究生となり、千田是也たちと共に演劇を学び、竹内良作の芸名で舞台に立つ。
荊木 一久(いばらぎ かずひさ、1903年(明治36年)11… 荊木 一久(いばらぎ かずひさ、1903年(明治36年)11月13日 - 1952年(昭和27年)1月4日)は、衆議院議員(日本進歩党→民主党)、弁護士。 新潟県中頸城郡春日村(現在の上越市)出身。荊木久三郎の長男として生まれた。1927年(昭和2年)に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1929年(昭和4年)に高等試験に合格した。原法律事務所に勤務の後、1931年(昭和6年)に高田市に事務所を開いた。春日村会議員、新潟県会議員、同参事会員に選出された。 戦後の1946年(昭和21年)、第22回衆議院議員総選挙で当選。第23回でも再選された。その間、日本進歩党常議員、同監察副部長、同部長、民主党政務調査会理事を歴任した。
八田 元夫(はった もとお、1903年11月13日 - 19… 八田 元夫(はった もとお、1903年11月13日 - 1976年9月17日)は、日本の演出家。父は元旧制新潟高等学校初代校長の八田三喜。弟は教育者の八田亭二。 東京出身。東京大学文学部美学科卒業。戦前は丸山定夫らに同行し、桜隊の覆面演出家をしていた。昭和20年8月6日の広島原爆の報を受け、槙村浩吉と共に広島に駐屯していた桜隊を探しに広島に出かけた。しかし、広島市は焼野原で桜隊の寮も跡形もなかった。しかし、そこで珊瑚隊が立てた立札を頼りに厳島の存光寺を訪ねる。そこで珊瑚隊と再会し、行方不明の丸山から「鯛尾島にいる」とのメモが届いたことを知り、槙村とともに鯛尾に赴く。しかし、丸山は小屋浦国民小学校に移送された後だった。
三宅 孝雄(みやけ たかお、1903年 <明治36年> 11… 三宅 孝雄(みやけ たかお、1903年 <明治36年> 11月13日 - 1978年 <昭和53年> 4月11日)は、日本の経営者。安藤建設社長を務めた。位階は正五位。 山口県出身。1924年に東京商科大学専門部を卒業し、同年に日本綿花に入社。1955年5月に取締役に就任し、1958年に常務、1959年に専務、1960年11月に副社長を経て、1964年12月に安藤建設専務に就任し、1965年5月に副社長を経て、1969年10月から1976年6月までに社長を務めた。 1974年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1978年4月11日尿毒症のために死去。74歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
鍋島 弘蔵(なべしま ひろぞう、1903年11月13日 - … 鍋島 弘蔵(なべしま ひろぞう、1903年11月13日 - 没年不詳)は、大正から昭和時代に活動した日本の新聞記者、詩人、コラムニスト、映画監督。元富山新聞社社長。富山県出身。 旧名は豊朔(ほうさく)で、1954年(昭和29年)に改名した。号は太守庵(たいしゅあん)で、作詞家としてのペンネームに名部島 春(なべしま はる)がある。漫画家の藤子不二雄Ⓐは甥。 1903年(明治36年)、富山県東礪波郡(現在の砺波市)に生まれる。日本大学美術科を中退後、北陸タイムス(北日本新聞の前身の一つ)を経て北國新聞系列の越中新聞へ入社し、高岡支局長となる。越中新聞では「太守庵」のペンネームで主として時事に関するコラムを執筆し、社外では1935年(昭和10年)に自主映画『輝く孝道』の監督を務めた。
筒井 直久(つつい なおひさ、1903年(明治36年)11月… 筒井 直久(つつい なおひさ、1903年(明治36年)11月12日 - 2002年(平成14年)11月10日)は、日本の公吏、政治家、実業家。松本市長。 長野県東筑摩郡神林村(現松本市)で、筒井浜十郎、きん の五男として生まれた。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)、旧制松本高校文科甲類を経て、1930年(昭和5年)京都帝国大学法学部卒業。 1932年(昭和7年)東京府公吏となり、東京市社会局、麻布区総務課長などを務めた後、1945年(昭和20年)退職し帰郷。1946年(昭和21年)8月から1947年(昭和22年)3月まで松本市助役・市長代理に就任した。 同年4月に施行された、初の公選による松本市長選挙に当選。
木部 シゲノ(きべ シゲノ、1903年(明治36年)11月1… 木部 シゲノ(きべ シゲノ、1903年(明治36年)11月12日 - 1980年(昭和55年)7月29日)は、日本の女性パイロットの草分けのひとりである。NHKの連続テレビ小説『雲のじゅうたん』のモデルのひとりといわれる。 福岡県築上郡八屋町上町久保(後の豊前市)出身。3歳のときに一家で朝鮮の平安南道鎮南浦(後の北朝鮮南浦特別市)に移住し、父は海産物商を営んだ。シゲノは幼少から男まさりの気性であったとされる。 女学校を卒業後、1923年(大正12年)に上京しシゲノは、蒲田にあった日本自動車学校の航空科で航空力学や発動機学を学んだのち、同年5月5日に神奈川県橘樹郡潮田町(後の横浜市鶴見区)で開校した第一航空学校に入学。
伊勢野 重任(いせの しげたか、1903年(明治36年)11… 伊勢野 重任(いせの しげたか、1903年(明治36年)11月11日 - 1982年(昭和57年)4月7日)は、日本の脚本家である。名の読みは「しげとう」とも。映画で2度リメイクされたオリジナル脚本『國士無双』の作者として知られる。 1903年(明治36年)11月11日、鳥取県に生まれる。 愛媛県松山市に移り、1922年(大正11年)3月、旧制・愛媛縣松山中學校(現在の愛媛県立松山東高等学校)を卒業し、東京に移って、東京府東京市麹町区有楽町(現在の東京都千代田区有楽町)にあった東京市役所に務める。中学校の同級生に重松鶴之助(1903年 - 1938年)がおり、先輩には伊藤大輔(1898年 - 1981年)、伊丹万作(1900年 - 1946年)、中村草田男(1901年 - 1983年)がおり、伊藤・伊丹を頼り、映画界に入る。
溝上 泰子(みぞうえ やすこ、1903年11月11日 - 1… 溝上 泰子(みぞうえ やすこ、1903年11月11日 - 1990年10月11日)は、日本の教育者、人類生活者。 広島県御調郡市村生まれ。広島県三原女子師範学校、奈良女子高等師範学校、東京文理科大学卒業。 実践女子専門学校教授、東京家庭学園教授、京都女子大学教授を経て、1951年島根大学教育学部教授。1958年に「日本の底辺―山陰農村婦人の生活」を刊行し、「底辺」の生活に光をあてる。1967年に島根大学を退官後は、全国の小学6年生に「生きる・生活する」と題する授業をつづけた。聖カタリナ女子短期大学教授、本州大学教授、上田女子短期大学教授を務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
永田一脩(ながた いっしゅう、1903年11月11日 - 1… 永田一脩(ながた いっしゅう、1903年11月11日 - 1988年4月9日)は、日本戦前期の、前衛美術系およびプロレタリア美術系の画家、写真家、グラフィックデザイナー。演劇にも携わる。本名永田一脩(ながた かずなが)。 福岡県門司市生まれ。1927年東京美術学校洋画科卒。労働美術家連盟、前衛芸術家同盟、ナップに参加。1929年国際文化研究所に入り、『国際文化』を編集。1930年ナップの一斉検挙にあい、保釈後フリーで活動する。1941年東京日日新聞社入社、毎日新聞となり1958年まで勤務。 写真に関しては、1930年代に、写真評論などを『フォトタイムス』誌に執筆し、実作品も制作した。写真作品としては、フォトモンタージュを利用したシュルレアリスム的な作品が多い。
庄司 浅水(しょうじ せんすい、1903年11月10日 - … 庄司 浅水(しょうじ せんすい、1903年11月10日 - 1991年9月7日)は、日本の書誌学研究家、ノンフィクション作家。ミズノプリンティングミュージアム名誉館長。日本出版学会、日本ペンクラブ、グロリアクラブ、各会員である。 元京都外国語大学専任講師。書物研究の傍ら、世界の奇談を紹介した。 宮城県仙台市出身。本名は喜蔵。三田英学校(現在の錦城学園高等学校)卒業。1925年、南葵音楽文庫に勤務。 1929年に「ぐろりあそさえて」から実質的な処女作『書籍装釘の歴史と実際』を刊行。1930年に装釘同好会を結成。1931年に佐々木幸四郎、斎藤昌三らと雑誌「書物展望」を創刊。また、書誌出版を志してブックドム社を設立。
吉田 秀雄(よしだ ひでお、1903年11月9日 - 196… 吉田 秀雄(よしだ ひでお、1903年11月9日 - 1963年1月27日)は、日本の実業家。電通の経営者で、「鬼十則」を作るなど広告の鬼と呼ばれていた。 1903年(明治36年)渡辺勝五郎の次男として、福岡県小倉市(現・北九州市)に生まれる。勝五郎は市内の鉄工所で働いていたが、秀雄が小学校に上がるころに解雇されてしまう。そこで父は家族のことを考え、1910年(明治43年)、単身台湾に渡ることを決意する。翌年、母親サトは幼い子供を連れて勝五郎に続く。秀雄は小学校2年生、兄は小学4年生、妹は5歳と3歳のときであった。しかし、生活が向上することはなく、1913年(大正2年)、勝五郎一人を残して再び小倉に戻る。
吾妻 光俊(あづま みつとし、1903年11月9日 - 19… 吾妻 光俊(あづま みつとし、1903年11月9日 - 1973年4月21日)は、日本の法学者。専門は民法・労働法・社会保障法。一橋大学名誉教授。末弘厳太郎門下。弟子に蓼沼謙一、横井芳弘など。 東京で横田秀雄(大審院院長・民法学者)の子として生まれる。1925年第一高等学校卒業。1928年東京帝國大學法学部法律学科卒業。同法学部助手。1930年東京商科大学附属商学専門部専任講師。1935年東京商科大学附属商学専門部教授。1936年東京商科大学商学部助教授。1936年労働法研究のためドイツ・イタリア・アメリカ合衆国に留学( - 1939年)。1940年東京商科大学学生主事( - 1941年)。1941年東京商科大学商学部教授。
森 シノ(もり シノ、1903年〈明治36年〉11月9日 -… 森 シノ(もり シノ、1903年〈明治36年〉11月9日 - 2015年〈平成27年〉8月23日)は、インターネット放送局・天草テレビのアナウンサー。世界最高齢の女子アナウンサーとして知られた。 熊本県、現在の上天草市松島町で、8人兄弟の3女として生まれた。24歳の時に2歳年上の、地元の男性・森秋義と結婚し、5人の子供をもうけたが、32歳の時に夫は病死する。夫の死後は農業を営みながら、女手一つで子供達を育てた。 2006年(平成18年)6月、102歳で天草テレビの3代目女子アナとしてデビュー。お天気コーナーなどを担当した。2008年(平成20年)12月には麻生太郎首相(当時)と対談も行っている。
山口 好一(やまぐち こういち、1903年11月8日 - 1… 山口 好一(やまぐち こういち、1903年11月8日 - 1969年3月19日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(7期)。弁護士。 栃木県栃木町(現:栃木市)に生まれる。旧栃木中、旧制一高を経て、1927年東京帝国大学法学部法律学科(英法)卒。卒業後は栃木商業学校教諭となり、1935年に高等試験司法科試験に合格し、弁護士となった。この他明治大学、日本大学の各講師を務めた。 戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙において栃木県(全県1区)から日本自由党公認で立候補して初当選。以来当選7回。在職中は衆議院地方行政委員長、同懲罰委員長、同科学技術振興対策特別委員長、第3次吉田内閣法務政務次官などを歴任した。
塩谷 太郎(しおや たろう、旧字体: 鹽谷 太郞、1903年… 塩谷 太郎(しおや たろう、旧字体: 鹽谷 太郞、1903年〈明治36年〉11月8日 - 1996年〈平成8年〉)は、日本の翻訳家、児童文学者。本名・相馬 一正(そうま かずまさ)。 群馬県桐生市生まれ。群馬県立桐生中学校出身。東京外国語学校(現・東京外国語大学)ドイツ語科を卒業。商社勤務を経て翻訳家になる。ドイツ語圏、英語圏の児童文学・ノンフィクションなどを日本語に翻訳した。最初の訳書はおそらく1941年のテオドル・シュトルム『少女ローレ』(改造社)。(ヴィツキー・バウムの長篇 Das große Enimaleins を訳出したが、出版に至っていない。)1962年、『ハウフ童話全集』でサンケイ児童出版文学賞を受賞。
楊井 克巳(やない かつみ、1903年11月8日 - 199… 楊井 克巳(やない かつみ、1903年11月8日 - 1997年9月14日)は、日本の経済学者、東京大学名誉教授。 1903年、山口県生まれ。旧制山口高等学校を経て、東京帝国大学経済学部に進む。大学では矢内原忠雄に師事した。 太平洋戦争後、東京大学経済学部教授となり、経済学部長をつとめた。1959年、「アメリカ帝国主義史論」を提出して経済学博士号を取得。1964年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後も日本大学教授、立正大学教授、帝京大学教授として教鞭をとり、1990年に退職した。
村山 籌子(むらやま かずこ、1903年〈明治36年〉11月… 村山 籌子(むらやま かずこ、1903年〈明治36年〉11月7日 - 1946年〈昭和21年〉8月4日)は、日本の児童文学作家。動物や野菜などを主人公とした、ユーモアとウイットにあふれる童話を多数執筆した。夫は村山知義、息子は児童劇作家の村山亜土。 1903年(明治36年)、父・岡内徳次郎、母・寛(ゆたか)の長女として香川県高松市に生まれる。家業は祖父の岡内喜三が創業した漢方薬を製造販売する岡内千金丹本舗で、全国的にも名の知られた商家であった。1916年(大正5年)、香川県立高松高等女学校に入学。水泳を得意とし在学中に高松藩の游泳術である水任流を身につけ、その一方、婦人之友社の雑誌『新少女』に和歌で入賞するなど、熱心な読者投稿者でもあった。
東海林 稔(しょうじ みのる、1903年〈明治36年〉11月… 東海林 稔(しょうじ みのる、1903年〈明治36年〉11月7日 - 1967年〈昭和42年〉10月1日)は、日本の地方公務員(群馬県庁職員)、政治家。日本社会党衆議院議員(4期)。 新潟県岩船郡瀬波町(現・村上市)出身。旧制新潟県立村上中学校(現・新潟県立村上高等学校)を経て、1927年(昭和2年)に北海道帝国大学農学部農業経済学科を卒業。 農林省に入り、台湾総督府技師・陸軍ジャワ司政官となり、ジャカルタ州経済部長となる。この時妻子を台湾に残した。戦後の1946年(昭和21年)に帰国。翌1947年(昭和22年)に群馬県庁に入り農地部長・経済部長などを歴任した後、1956年(昭和31年)に退職。
吉沢一郎(よしざわ いちろう、1903年11月6日 – 19… 吉沢一郎(よしざわ いちろう、1903年11月6日 – 1998年1月22日)は、日本の登山家。一橋大学山岳部出身。1977年、吉沢が総指揮を取った日本登山隊はK2登頂を試みて成功し、これが世界で2番目のK2登頂成功例となった。 麹町小学校卒業後、旧・明治中学校(現明治大学付属明治高等学校・中学校)中退を経て、1928年旧制東京商科大学(現一橋大学)卒業。電通映画社専務取締役。 元社団法人日本山岳会副会長。望月達夫、深田久弥、諏訪多栄蔵らとともに日本のヒマラヤ研究の第一人者であった。英国山岳会会員でもある。1980年には公共広告機構(現:ACジャパン)のCMに起用された。
今 日出海(こん ひでみ、1903年(明治36年)11月6日… 今 日出海(こん ひでみ、1903年(明治36年)11月6日 - 1984年(昭和59年)7月30日)は、日本の小説家、文芸評論家、舞台演出家。 初代文化庁長官を務めた。 北海道函館市に生まれた。3人兄弟の末子で、長兄は小説家で天台宗僧侶の今東光である。 日本郵船の船長であった父武平の転勤により、1911年(明治44年)に神戸市の小学校へ入り、1917年(大正6年)神戸一中へ進んだが、病気休学し、翌年東京の暁星中学へ移った。1922年(大正11年)、五年制中学の四年修了で旧制浦和高校に合格した。 1925年(大正14年)、東京帝国大学仏蘭西文学科へ入学し、辰野隆・鈴木信太郎らに学んだ。同期に小林秀雄・三好達治・中島健蔵らが、一年下に佐藤正彰・武田麟太郎らがいた。
今井 丈夫(いまい たけお、1903年11月6日 - 197… 今井 丈夫(いまい たけお、1903年11月6日 - 1971年3月18日) は、日本の水産学者。東北大学名誉教授。カキの養殖を研究し、紫綬褒章受章。 山形県出身。1927年東北帝国大学理学部卒業。副手、助教授を経て、1944年教授。1962年東北大学水産実験所所長。カキの養殖法を開発するなどし、1967年、紫綬褒章を受章。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
原 泰良(はら やすよし、1903年(明治38年)11月5日… 原 泰良(はら やすよし、1903年(明治38年)11月5日 - ?)は、日本の実業家。 神戸電気鉄道社長、大阪神鉄交通社長、有馬土地開発社長、神鉄交通社長、有馬興業社長、神鉄観光社長、有馬温泉掘鑿社長などを務めた人物。神戸電気鉄道企業集団(現:神戸電鉄グループ)の発展に大きく貢献した。 兵庫県姫路市別所町別所で生まれた。1922年(大正11年)兵庫県立姫路中学校を卒業した春、地元姫路の第三十八国立銀行(のちに神戸岡崎・五十六・高砂・灘商業・西宮・姫路と合併して神戸銀行〈現:三井住友銀行〉)に入行、網干支店長、検査部長、姫路支店長、取締役を歴任した。 倒産寸前で神戸市への身売りやバス転換を検討していた神戸電気鉄道(現:神戸電鉄)の経営再建を図るべく、1959年(昭和34年)11月24日に同電鉄の副社長に転身、小林秀雄社長が退任した1960年(昭和35年)5月25日からは第10代代表取締役社長に就任した。
亀沢 善次郎(かめざわ ぜんじろう、1903年11月5日 -… 亀沢 善次郎(かめざわ ぜんじろう、1903年11月5日 - 1987年3月27日)は、日本の経営者、銀行家。東京都出身。 1927年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1943年に第四銀行に入行。 1957年11月に取締役に就任し、1960年11月に常務、1964年11月に専務を経て、1970年5月には頭取に就任。1972年11月には相談役に就任。 1975年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1987年3月27日急性心不全のために死去。83歳没。
横山 實(よこやま みのる、1903年(明治36年)11月5… 横山 實(よこやま みのる、1903年(明治36年)11月5日 - 1974年(昭和49年)8月14日)は日本の政治家。青森県青森市長(4期)。 青森県青森市出身。1923年、青森県師範学校卒。卒業後は小学校に勤務した。1936年、青森市会議員となり、1939年には青森県会議員に当選した。1944年に青森市助役となり、翌年まで務めた。その後、進歩党青森県支部幹事長となったが、1947年、青森市長選挙に立候補して当選、連続4期務めた。 市長在任中は、青森県体育協会会長、全国市長会理事、同副会長、東北六県市長会副会長、青森県市長会会長、青森市物産協会会長、青森県漁港協会会長などを歴任した。 1963年に市長を退任、同年藍綬褒章を受章。
日高 孝次(ひだか こうじ、1903年11月4日 - 198… 日高 孝次(ひだか こうじ、1903年11月4日 - 1984年8月15日)は、日本の海洋物理学者。弟は歴史学者の日高次吉。 1903年に宮崎県宮崎郡広瀬村(現在の宮崎市)で出生。旧制宮崎中学を経て第七高等学校造士館を卒業後、東京帝国大学理学部物理学科に進学し、1926年(大正15年)に同大学を卒業。その後すぐに中央気象台に入庁、海洋気象台で勤務した。この間、転倒温度計(英語版)に関する日高公式を作成した。 1934年(昭和9年)に「湖沼の振動及び海流に関する海洋物理学的研究」で理学博士。同論文で帝国学士院から学士院賞を受賞した。1941年(昭和16年)、他の日本の海洋学者らとともに日本海洋学会を設立し、自身も1948年(昭和23年)から1966年(昭和41年)まで同会会長を務めた。
藤松 正憲(ふじまつ まさのり、1903年11月4日 - 1… 藤松 正憲(ふじまつ まさのり、1903年11月4日 - 1997年7月29日 )は、日本の経営者。足利銀行頭取を務めた。 佐賀県出身。1927年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に日本銀行に入行した。1956年5月に監事を経て、1958年5月に足利銀行に転じ、副頭取に就任し、同年10月には頭取に昇格した。1972年5月に会長を経て、1982年6月には相談役に就任。 1940年に勲五等双光旭日章、1961年に紺綬褒章、1969年4月に藍綬褒章、1981年4月に勲三等旭日中綬章をそれぞれ受章。 1997年7月29日、心不全のために死去。93歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
毛利 菊枝(もうり きくえ、1903年〈明治36年〉11月3… 毛利 菊枝(もうり きくえ、1903年〈明治36年〉11月3日 - 2001年〈平成13年〉8月20日)は、日本の女優。本名は森 キク(旧姓:小林)。夫は美術史家の森暢。 杉村春子、山本安英らと同世代の新劇女優であり、岸田國士に師事。幾つかの劇団を経て、京都市に劇団くるみ座を創設し、長く代表をつとめた。戦後は映画やテレビドラマにも多く出演し、老け役で活躍した。 1903年(明治36年)、群馬県利根郡沼田町(現沼田市)に生まれる。群馬県立高崎高等女学校(現群馬県立高崎女子高等学校)中退。 1925年(大正14年)、岸田國士主宰の新劇研究所に第1期生として入る。1929年(昭和4年)、喜劇座『御意に任せて』で初舞台を踏む。
日野原 節三(ひのはら せつぞう、1903年〈明治36年〉1… 日野原 節三(ひのはら せつぞう、1903年〈明治36年〉11月3日 - 1991年〈平成3年〉12月4日)は、昭和時代の実業家。昭和電工社長時代に「昭電疑獄」の中心人物となった。山梨県東八代郡出身。 1927年、東京帝国大学法学部独法科卒業。昭和化成や秩父木材工業などの役員を務めた後、第二次世界大戦後に日本水素工業の社長となる。1947年、芦田均の支援者でもあった妻の兄菅原通済の推薦によって社長の森暁が公職追放となった昭和電工の社長に迎えられた。社長就任後、会社再建のために復興金融金庫から巨額の融資を受けようと考え、GHQを含む関係者に贈賄や政治献金を行った。これが国会で問題視されて、1948年に日野原は逮捕され、芦田内閣も総辞職に至った。