光吉 夏弥(みつよし なつや、1904年〈明治37年〉11月… 光吉 夏弥(みつよし なつや、1904年〈明治37年〉11月20日 - 1989年〈平成元年〉3月7日)は、日本の翻訳家、絵本研究家、舞踊評論家。本名・積男。 大阪府北区北野茶屋町で生まれる。1929年慶應義塾大学経済学部卒業。専門は児童文学・写真・舞踊。 1953年岩波書店で「岩波の子どもの本」絵本シリーズを石井桃子とともに創立する。ほか児童書の翻訳、バレエの入門書など多数がある。1990年『絵本図書館(世界の絵本作家たち)』で日本児童文学学会賞特別賞受賞。 岩波書店刊の絵本『ちびくろ・さんぼ』(1953年初版)の翻訳者として知られる。同絵本は、1988年に人種差別の指摘を受け、絶版となったが(いわゆるサンボ一斉絶版問題)、2005年に瑞雲舎からほぼそっくりそのままの形で復刊された。
松岡 辰郎(まつおか たつろう、1904年11月18日 - … 松岡 辰郎(まつおか たつろう、1904年11月18日 - 1974年8月12日)は、9代目東宝代表取締役社長、コマ・スタジアム代表取締役社長、松岡汽船代表取締役社長、映画団体産業連合会長、日本映画製作者連盟理事長、日本演劇興行協会会長、日本経済団体連合会常任理事、東京商工会議所常任委員。山梨県出身。 東宝の創業者・小林一三の次男として生まれる。1930年に慶應義塾大学を卒業と同時に松岡節子と結婚して松岡家に養子入りし、義理の父が松岡汽船の創業者・呉羽紡績の発起人役員松岡潤吉となる。松岡汽船の役員をはじめ、阪急百貨店の取締役を歴任。1951年に義父・潤吉が亡くなり松岡汽船代表取締役社長に就任。1957年3月25日には東宝の取締役に就任するも父・一三と兄の小林富佐雄が亡くなり阪急グループの総帥となる。
花岡 彌六(はなおか やろく、1904年 <明治37年> 1… 花岡 彌六(はなおか やろく、1904年 <明治37年> 11月18日 - 1986年 <昭和61年> 9月5日)は、日本の実業家。電気化学工業(現・デンカ)代表取締役社長を務めた。位階は正四位。 長野県諏訪郡湊村(現・岡谷市)出身。旧制諏訪中学(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、東京商科大学(現・一橋大学)卒業。1929年に藤原銀次郎の紹介で電気化学工業(現・デンカ)に入社、1955年同社取締役、1958年同社常務取締役を経て、1970年同社代表取締役社長。1980年アセチレンブラック事業の強化を目的にデンカシンガポール設立。1981年代表取締役社長退任。 1970年藍綬褒章、1980年勲二等旭日重光章受勲。
古賀 政男(こが まさお、1904年(明治37年)11月18… 古賀 政男(こが まさお、1904年(明治37年)11月18日 - 1978年(昭和53年)7月25日)は、昭和期の代表的作曲家であり、ギタリスト。国民栄誉賞受賞者。栄典は従四位、勲三等瑞宝章、紫綬褒章。明治大学商学部(旧制)卒業。本名は古賀正夫(読み同じ)。 少年時代に弦楽器に目覚め、青年期はマンドリン・ギターのクラシック音楽を研鑽しつつ、大正琴を愛した。その後は、プレクトラム音楽家の「古賀正男」から流行歌王の「古賀政男」になり、昭和期を代表する国民的作曲家としての地位を確立し、数多くの流行歌をヒットさせた。生涯で制作した楽曲は5,000曲ともいわれ、「古賀メロディー」として親しまれている。 1904年(明治37年)、福岡県三潴郡田口村(現・大川市)に8人きょうだいの6番目として誕生。
イサム・ノグチ(Isamu Noguchi、1904年11月… イサム・ノグチ(Isamu Noguchi、1904年11月17日 - 1988年12月30日)は、アメリカ合衆国ロサンゼルス出身の彫刻家、造園家、作庭家、インテリアデザイナー、舞台芸術家。日系アメリカ人。日本名は野口 勇(のぐち いさむ)。ニューヨーク建築協会金賞、アメリカ国民芸術勲章、京都賞思想・芸術部門受賞など、アメリカと日本はもとより世界で愛された。北海道札幌市のモエレ沼公園は彼の遺作にして金字塔でもあった。 1904年、日本人詩人の野口米次郎とアメリカ人作家のレオニー・ギルモアとの間に生まれる。1907年、ノグチが3歳の時に母レオニーと来日し、米次郎と同居する。そして米次郎は武田まつ子と結婚し、ノグチは野口勇として森村学園付属幼稚園に通園する。
渡邊 喜久造(わたなべ きくぞう、1904年(明治37年)1… 渡邊 喜久造(わたなべ きくぞう、1904年(明治37年)11月15日 - 1965年(昭和40年)8月28日)は、日本の大蔵官僚。元国税庁長官。元公正取引委員会委員長。静岡県出身。 東京国税局長、大蔵省主税局長、国税庁長官を歴任し、1957年(昭和32年)に退官。 その後、1963年(昭和38年)から1965年(昭和40年)に死去するまで公正取引委員会委員長を務めた。死後、従三位に叙され勲二等瑞宝章を授与された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
関屋 正彦(せきや まさひこ、1904年11月13日 - 1… 関屋 正彦(せきや まさひこ、1904年11月13日 - 1994年8月27日)は、日本の教育者、聖職者、官僚。立教英国学院校長、聖ヨハネ大学教授、普連土学園校長、日本聖公会の聖職者。 1904年、関屋貞三郎(第17代静岡県知事、貴族院議員)の長男として生まれる。 一高を経て、東京帝国大学法科を卒業後、内務省と進むも長野県庁出向時に辞職。 母親・キヌの影響で日本聖公会の信徒であったことから聖職者を志し、1930年にケンブリッジ大学ウエスト・コット・ハウス神学校(英語版)に留学。 1931年に満州事変がおこり、国は満州国建設と中国制覇に傾倒していくが、関谷は何が正しいかを考える青年の養成を志し、1932年に帰国すると東京北区滝野川に学生塾「一心塾」と開拓教会を開いた。
松崎 健吉(まつざき けんきち、1904年〈明治37年〉11… 松崎 健吉(まつざき けんきち、1904年〈明治37年〉11月12日 - 1988年〈昭和63年〉2月18日)は、日本の大蔵官僚。造幣庁長官。 埼玉県熊谷市に生まれる。旧制埼玉県立熊谷中学校(現埼玉県立熊谷高等学校)、旧制浦和高校(現埼玉大学)を経て、1929年に東京帝国大学法学部を卒業。 大学卒業後、大蔵省に入り熊本税務署長となる。1933年に満州国に転じ、財政部銀行科長、駐日財務官総務庁人事処規画科長、主計処一般会計科長を歴任。対満事務局監理課長、満鉄管理官預金部運用課長、理財局国庫課長、印刷局理事兼業務部長、名古屋財務局長を経て、1949年、造幣庁長官となる。 1951年に造幣庁長官を退官。
安西 正夫(あんざい まさお、1904年11月12日 - 1… 安西 正夫(あんざい まさお、1904年11月12日 - 1972年4月24日)は、日本の実業家。商学博士。 東京瓦斯会長を務めた安西浩の弟である。 この項目は、経済に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 経済学、プロジェクト 経済)。
川本 晴朗(かわもと せいろう、1904年〈明治37年〉11… 川本 晴朗(かわもと せいろう、1904年〈明治37年〉11月12日 - 没年不明)は日本の尺八奏者。七孔尺八の普及につとめたことで知られる。本名川本健二。 1904年(明治37年)に宇都宮警察署長の第一子として生まれる。9歳の時に琴古流逸童派川本家の養子となる。東京音楽学校卒業後は竹内寿太郎の考案した七孔尺八の実用化につとめ、1931年(昭和6年)には七孔尺八普及会を創立している。1934年(昭和9年)よりコロムビア専属として活躍した。
中島 文雄(なかじま ふみお、1904年11月11日 - 1… 中島 文雄(なかじま ふみお、1904年11月11日 - 1999年12月28日)は、日本の英語学者。
新庄 嘉章(しんじょう よしあきら、1904年11月10日 … 新庄 嘉章(しんじょう よしあきら、1904年11月10日 - 1997年8月26日)は、日本のフランス文学者。 広島県生まれ。早稲田大学仏文科卒、早稲田大学教授を務めるかたわら、アンドレ・ジッドなどを研究、数多くのフランス文学の翻訳をおこなった。定年退職後、名誉教授。1984年、『天国と地獄の結婚』で平林たい子文学賞受賞、1990年、日本芸術院賞・恩賜賞受賞、同年に日本芸術院会員。 仏文科教授在職中に、英文科出身の宮城谷昌光から同人小説冊子を送られ、読後、宮城谷を招き早稲田文学編集長だった立原正秋に推薦した。 1964年2月24日、東京中野の料亭「ほととぎす」で開催された「竹の会」の宴席で、木山捷平に暴行し右手薬指を負傷させた。
中島 賢蔵(なかじま けんぞう、1904年〈明治37年〉11… 中島 賢蔵(なかじま けんぞう、1904年〈明治37年〉11月5日 - 1968年〈昭和43年〉8月11日)は、日本の内務官僚、政治家。官選山梨県知事、初代天理市長。 東京府出身。中島浅次郎の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1927年(昭和2年)12月、高等試験行政科試験に合格。1928年(昭和3年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し埼玉県属となる。 以後、内務省大臣官房文書課勤務、秋田県事務官、内務省地方局事務官、内閣調査局調査官、企画院書記官、奈良県書記官・経済部長、厚生省住宅課長、内務省地方局行政課長、同大臣官房会計課長などを歴任。 1945年(昭和20年)4月、山梨県知事に就任。
彭瑞麟(ほう ずいりん、Peng Ruey-lin,1904… 彭瑞麟(ほう ずいりん、Peng Ruey-lin,1904年11月4日 − 1984年2月3日)は、台湾の写真家。日本統治下で活動し台湾における写真家の先駆的な存在であったが、中国復帰と国民党による統治下で写真家としての活動を終え長く幻の写真家と言われていた。 新竹県出身。台北師範学校で石川欽一郎の下で水彩画を学び、1928年に東京写真専門学校(現東京工芸大学)に進学。写専在学中に東京写真研究会のコンクールに入選し、皇族の写真撮影にも携わった。 1931年に首席で卒業すると台北市太平町(現大同区延平北路)にアポロ写真館を開業。写真技師として生計を立てながら後進の指導にもあたる。1938年には大阪毎日新聞主催の日本写真美術展で「太魯閣の娘」が入選、また写真印刷でも業績を残した。
高橋 梵仙(たかはし ぼんせん、1904年11月2日 - 1… 高橋 梵仙(たかはし ぼんせん、1904年11月2日 - 1987年6月19日)は、日本の僧侶、歴史学者。本名は北小路貞和。 岩手県奥州市江刺地域出身。大東文化大学教授。真言宗智山派金剛寺住職、大東文化大学名誉教授。日本経済史、社会経済史、人口史専攻。1960年「近世諸藩の人口と人口増加政策」により、専修大学から経済学博士の学位を授与される。また、1961年には「かくし念仏の歴史と教義・教団組織とに関する一研究」により東洋大学から文学博士の学位を授与される。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
田村 太郎(たむら たろう、旧姓・牧野、1904年(明治37… 田村 太郎(たむら たろう、旧姓・牧野、1904年(明治37年)11月 - 1984年(昭和59年)1月2日)は、日本の実業家。尼崎造船社長・興亜海上火災運送常監・大阪曹達監査を務めた。 大阪府出身。牧野太吉の二男に生まれ、田村家の死跡を相続した。1930年、京都帝国大学法科を卒業した。趣味は柔道、読書。宗教は真宗。住所は兵庫県尼崎市難波通、大阪市北区中之島。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
面谷 誠(おもだに せい、明治37年(1904年)10月31… 面谷 誠(おもだに せい、明治37年(1904年)10月31日 - 昭和46年(1971年))は日本の実業家。銘酒暁山醸造元、面谷合名会社代表社員。元境港商工会議所会頭、顧問。 鳥取県境港市出身。米子中学校(現米子東高校)卒業後、東京大蔵省醸造試験所に入所。翌年、試験所の課程を修了すると、帰郷して家業に従事する。 昭和19年(1944年)面谷合名会社の代表社員に就任。鳥取県酒造組合理事、鳥取県醤油工業協同組合理事を歴任。酒造業界の発展に尽力。 昭和23年(1948年)境港商工会議所会頭に就任。 境町学務委員をはじめ、境高等学校水産教育振興会会長も務め、教育会でも活躍した。 酒面谷酒類醤油醸造場として、明治4年(1871年)創業、昭和17年(1942年)根平、面谷支店、生中各店の権利を譲り受ける。
土井 武夫(どい たけお、1904年(明治37年)10月31… 土井 武夫(どい たけお、1904年(明治37年)10月31日 - 1996年(平成8年)12月24日)は、日本の航空機設計者。山形県山形市香澄町出身。
吉永 武男(よしなが たけお、1904年〈明治37年〉10月… 吉永 武男(よしなが たけお、1904年〈明治37年〉10月28日 - 1978年〈昭和53年〉5月1日)は、日本の銀行家。長崎県長崎市出身。 熊本県立玉名中学校(1922年卒業)、第五高等学校を経て、東京帝国大学経済学部を卒業した。 大学卒業後に三十四銀行に入る。1933年に三十四銀行は他の銀行との統合により、三和銀行となる。1952年に東京事務所長に就任し、以後、経理部長、神戸支店長、取締役、常務取締役などを歴任した。 1963年三和銀行退任後、日本火災海上保険に取締役副社長として入り、1969年に取締役会長に就任。1974年、勲四等旭日小綬章を受章。 1978年5月1日、閉塞性黄疸のため東京都文京区本駒込の宮入外科病院で死去。
長尾 薫(ながお かおる、1904年〈明治37年〉10月28… 長尾 薫(ながお かおる、1904年〈明治37年〉10月28日 - 1982年〈昭和57年〉2月22日)は、日本の神職。橿原神宮宮司。劔神社宮司、御上神社宮司、橿原神宮権宮司を歴任し、また滋賀県神社庁参事、奈良県神社庁長、神社本庁常務理事などを務めた。 明治37年(1904年)10月28日、岡山県勝田郡豊並村(現奈義町)大字関本に生まれた。 大正10年(1921年)4月1日、皇典講究所神職養成部(現國學院大學)乙種に入学。大正12年(1923年)3月30日、皇典講究所國學院大學神職養成部乙種を卒業し、同時に雅楽部を修了した。 大正12年(1923年)7月12日、橿原神宮に奉職して出仕となり、八級俸を受けた。
丸山 学(まるやま まなぶ、1904年(明治37年)10月2… 丸山 学(まるやま まなぶ、1904年(明治37年)10月26日 - 1970年(昭和45年)2月27日)は、日本の英文学者、民俗学者。小泉八雲の研究、九州の民俗学の研究において知られる。 熊本県和水町に生まれる。熊本県立中学済々黌に進学し、国文学者の蓮田善明とは親友であった。英語英文学を専攻し、広島文理科大学文学科英語英文学専攻を卒業後、広島文理大学助手、広島高等師範学校教授。広島文理大学在学中よりコンラッド研究に励み、1932年(昭和7年)には『文学研究法』を出版し、研究者・教育者としての地位を確固としたものにする。翌1933年(昭和8年)には柳田國男を訪ね、これ以降は徐々に民俗学に転じ、1936年(昭和11年)に『小泉八雲新考』、『英吉利年中行事の研究』を出版。
原 彪(はら たけし、1904年10月26日 - 1954年… 原 彪(はら たけし、1904年10月26日 - 1954年1月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。土浦市長(2期)。 本籍は茨城県新治郡土浦町。明治37年、日本統治時代の台湾台北市生まれ。県初の国務大臣・原脩次郎の長男である。母・久子。8人兄妹。1930年、東京帝国大学経済学部商学科卒業後に三井物産に入る。のち朝日組取締役、賀田組取締役、霞ヶ浦造船所常務取締役を歴任。 1945年6月、第3代の土浦市長に就任する。翌1946年6月再任され、郷土の自治に貢献した。 1947年の第23回衆議院議員総選挙で茨城3区から民主党公認で立候補して初当選。父君の地盤を引継ぎ衆議院議員を3期(23、24、26)務め、この間に衆議院文部委員長、運輸委員長などを歴任し、松戸以北の常磐線電化促進についても深く関わった。
金子 泰藏(かねこ たいぞう、1904年(明治37年)10月… 金子 泰藏(かねこ たいぞう、1904年(明治37年)10月23日 - 1987年(昭和62年)5月17日)は、日本の商学者、教育者、通訳者で一橋学院、東京国際大学の創立者である。1973年に勲三等旭日中綬章受章。 1904年10月23日、東京の浅草で生を受ける。旧制府立三中に進学し、卒業後、東京商科大学(現・一橋大学)に入学した。在学中に後の国連大使・加瀬俊一と知り合い、同じ語学クラブとして英語を学ぶことになる。大学卒業後、東京商工会議所に就職し、外国課長として貿易業務を行いながら、新設されたばかりの上智大学にて教授として英語を教えていた。1941年太平洋戦争が開始されると、三菱、三井と共に軍需産業を行っていた日本鉱業の海外課長となり、海外調査の業務全般を行う。
細井 倞(ほそい りょう、1904年10月23日 - 198… 細井 倞(ほそい りょう、1904年10月23日 - 1987年10月18日)は、日本の経営者。同和火災海上保険社長、会長を務めた。北海道出身。 1929年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年4月に神戸海上火災保険に入社。1944年3月に同和火災海上保険に転じ、1950年6月に取締役に就任し、1958年6月に常務、1962年12月に専務を経て、1968年6月には社長に就任。1978年7月から1979年7月までに会長を務めた。 1978年7月に藍綬褒章を受章し、1979年9月に勲四等旭日小綬章を受章。 1987年10月18日心不全のために死去。82歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
関谷 勝利(せきや かつとし、1904年〈明治37年〉10月… 関谷 勝利(せきや かつとし、1904年〈明治37年〉10月20日 - 1987年〈昭和62年〉7月6日)は、日本の実業家、政治家。自由民主党・衆議院議員(11期)。元参議院議員関谷勝嗣の父。 1922年(大正11年)松山中学校卒業。海運業、土木建築請負業に従事。 伊予運送、松山商興、伊予造船各取締役。柳瀬座興行、松山港湾荷役作業、松山港運、勝山土建各社長。愛媛機帆船海運組合理事長。三津浜町会議員、愛媛県会議員、日本進歩党幹事を歴任。 1946年(昭和21年)初当選以来11期30年間衆議院議員を務め1976年(昭和51年)引退。党交通部会長、衆院内閣委員長などを歴任。運輸族として活躍、「陰の運輸大臣」といわれた。
上林山 榮吉(かんばやしやま えいきち、1904年10月18… 上林山 榮吉(かんばやしやま えいきち、1904年10月18日 – 1971年8月10日)は、日本の政治家。衆議院議員、防衛庁長官を務めた。 現在の鹿児島県指宿市生まれ。鹿児島実業学校出身。関西大学専門部法律学科中退後、1928年日本大学法律科を卒業、鹿児島毎夕新聞社記者、鹿児島県庁勤務を経て、1936年鹿児島市会議員補欠選挙に当選。1939年からは鹿児島県会議員を務める。1946年第22回衆議院議員総選挙で日本自由党から旧鹿児島1区にて立候補し初当選する(当選同期に小坂善太郎・二階堂進・江﨑真澄・小沢佐重喜・石井光次郎・坂田道太・水田三喜男・村上勇・川崎秀二・井出一太郎・早川崇・中野四郎など)。
森山 豊(もりやま ゆたか、1904年10月18日 - 19… 森山 豊(もりやま ゆたか、1904年10月18日 - 1988年11月19日)は、日本の産婦人科医。
熊谷 洋(くまがい ひろし、1904年10月17日 - 19… 熊谷 洋(くまがい ひろし、1904年10月17日 - 1992年11月11日)は、昭和・平成期の医師、薬理学者。 東京大学医学部教授。東京大学医学部長。日本医師会副会長。日本医学界会長。東京大学薬学科薬品作用学教室の初代教授。医学界や薬理学界の多くの人材を育てた。旧姓 瀬水。 新潟県長岡市出身。旧制新潟県立長岡中学校卒。旧制新潟高校卒業。1930年(昭和5年)東京帝国大学医学部医学科卒業。1943年(昭和18年)薬理学教室講師のままジャカルタに赴任し、日本占領下のオランダ領東インド・ジャカルタの医科大学(ジャワ高等医学校)で医学の教授にあたる。1946年(昭和21年)復員、同年から1957年(昭和32年)まで東京大学医学部薬学科薬品作用学教室の初代教授を兼任。
荒井 勝三郎(あらい かつさぶろう、Lucas Katsus… 荒井 勝三郎(あらい かつさぶろう、Lucas Katsusaburo Arai、1904年10月17日 - 1990年7月25日)は、日本のカトリック高位聖職者。横浜司教区第6代教区長及び第4代司教。洗礼名はルカ。 栃木県宇都宮市出身。東京の暁星中学校を経てフランスに留学し、パリのサンスルビス神学大学哲学神学部を卒業後、1930年に当地で司祭に叙階された。 帰国後は東京大司教区の千葉教会、本郷教会、麹町教会担当及び大司教館付を歴任。 1949年には松戸教会の建設用地を確保し、1950年に定礎式を司式している 1951年5月に引退した脇田浅五郎司教の後任として同年12月9日に司教に任命され、1952年2月24日に司教に叙階された。
長谷 健(はせ けん、1904年10月17日 - 1957年… 長谷 健(はせ けん、1904年10月17日 - 1957年12月21日)は、日本の小説家、児童文学者。 福岡県山門郡東宮永村下宮永北小路(現・柳川市下宮永町)生まれ。ちなみに、東宮永小学校は琴奨菊関の母校でもある。旧姓は堤、本名は藤田正俊。1925年(大正14年)福岡師範学校卒業。柳川の城内小学校教師をしたのち1929年(昭和4年)に上京、神田区の芳林小学校に勤務。このころからペンネームを長谷健とする。1932年(昭和7年)浅草区浅草小学校に転勤。1934年(昭和9年)に同人誌『教育文学』を創刊し、1936年(昭和11年)には『白墨』を創刊する。小学校教師として教育にあたり、文学者としても活動を行う。
是枝 恭二(これえだ きょうじ、1904年10月16日 - … 是枝 恭二(これえだ きょうじ、1904年10月16日 - 1934年6月10日)は、日本の戦前の政治運動家。 鹿児島県鹿児島郡谷山村(現鹿児島市)生まれ。父は鉄道管理局建設事務所に勤める官吏であった。鹿児島県立第一鹿児島中学校から宮崎県立宮崎中学校に転校、4年修了で第七高等学校へ進学。 七高在学中の1922年に村尾薩男、喜入虎太郎らと社会科学研究会を創設し、また学生や鹿児島県下の青年に対する啓蒙活動を行なった。1923年東京帝国大学文学部社会学科に進学、新人会、学生連合会、学生社会科学連合会の中心的指導者の一人であった。 1925年10月、共産主義者グループに参加し、志賀義雄、村尾薩男と3人で学生運動に対するフラクションを構成した。
團 勝磨(だん かつま、1904年10月16日 - 1996… 團 勝磨(だん かつま、1904年10月16日 - 1996年5月18日)は、日本の発生生物学者。東京都立大学名誉教授。理学博士。 東京府(現・東京都)生まれ。男爵團琢磨の次男。團伊能の弟。長姉・めいは三井鉱山の社長を務めた牧田環に、三姉・スミは日本石油(現・ENEOS)の社長を務めた小倉房蔵に嫁いだ。父からは跡継ぎに望まれていたが、親の七光りと言われることを嫌い、旧制中学の時に読んだ丘浅次郎『進化論講話』に触発されて生物学の道に進む。 旧制青山学院中学部(現・青山学院中等部・高等部)から旧制第一高等学校入試に失敗、1年浪人後、旧制水戸高等学校理甲に入学。1929年、東京帝国大学理学部動物学科卒業後、発生学の権威ハイルブラン(英語版)を頼ってペンシルベニア大学大学院に留学。
山東 永夫(さんとう ながお、1904年10月16日 - 2… 山東 永夫(さんとう ながお、1904年10月16日 - 2000年10月30日)は、日本の経営者。紀陽銀行頭取を務めた。和歌山県出身。 1927年に和歌山高等商業学校を卒業し、同年に紀陽銀行に入行。 1948年に取締役に就任し、1956年に常務、1964年に専務を経て、1970年10月に頭取に就任。1981年4月に会長を経て、1985年6月から相談役を務めた。 南海電気鉄道、テレビ和歌山各監査役も務めた。 1975年11月に勲四等瑞宝章を受章し、1986年4月に勲三等瑞宝章を受章。 2000年10月30日肺炎のために死去。96歳没。
田中 香苗(たなか かなえ、1904年(明治37年)10月1… 田中 香苗(たなか かなえ、1904年(明治37年)10月15日 - 1985年(昭和60年)10月13日)は、日本のジャーナリスト、実業家。毎日新聞社社長、日本国際連合協会理事長。東亜国内航空会長。 香川県大川郡白鳥町(現・東かがわ市)生まれ。 東亜同文書院卒業後、大阪毎日新聞社に入社。満洲事変や西安事件報道などを手掛け、戦中は東亜部長を務め、敗戦後は海外特派員の引揚げ業務を担当した。その後、ラジオ東京(現・TBSラジオ)など放送事業畑で活躍し、同郷の政治家平井太郎が民間放送を設立する際、協力し、1953年(昭和28年)にラジオ四国(現・西日本放送)が開局している。 西部本社代表を経て、1956年(昭和31年)に取締役に選任され、代表取締役・編集主幹、代表取締役会長・主筆を経て、1974年11月から76年2月までに社長を務めた。
宇田 耕一(うだ こういち、1904年(明治37年)10月1… 宇田 耕一(うだ こういち、1904年(明治37年)10月15日 - 1957年(昭和32年)12月30日)は、昭和期の日本の政治家、実業家。経済企画庁長官(第3-4代)、科学技術庁長官(第2-3代)、衆議院議員(3期)。旧姓は六田。 高知県出身。大阪市西区で六田橘太郎、ウタ夫妻の六男として生まれる。1917年(大正6年)土佐中学校・高等学校の創立者でもある海運業者で衆議院議員(憲政会)も務めた宇田友四郎の養子となる。幼少期は高知県香美郡岸本町の伯父の家で育ち、岸本尋常小学校から高知県立第一中学校(現高知県立高知追手前高等学校)、高知高等学校(現高知大学)を経て、京都帝国大学法科に入学。1929年(昭和4年)卒業後、ヨーロッパ視察、兵役を経て、1930年(昭和5年)南満洲鉄道に入社。
仲村 清栄(清榮、なかむら せいえい、1904年(明治37年… 仲村 清栄(清榮、なかむら せいえい、1904年(明治37年)10月15日 - 1958年(昭和33年)5月27日)は、昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 沖縄県那覇区垣花町(現那覇市垣花町)で、清水泡盛醸造元の仲村家に生まれる。1923年(大正12年)那覇市立商業学校を卒業。その後上京して、1927年(昭和2年)、早稲田大学法律科を卒業。 帰郷して家業に従事。その後、沖縄酒造組合連合会代議員、同評議員、那覇商工会議所議員、首里無尽社長などを務めた。 1941年(昭和16年)沖縄県多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に選出され、同年9月20日に就任し交友倶楽部に所属したが、1942年(昭和17年)12月14日に議員を辞職した。
宮川 善造(みやかわ ぜんぞう、1904年(明治37年)10… 宮川 善造(みやかわ ぜんぞう、1904年(明治37年)10月14日 - 1985年(昭和60年)12月11日)は、日本の地理学者。満州の建国大学で教鞭をとった。 青森県弘前市出身。京都大学地理学教室を卒業。大学院を経て東北の東北学院高等学校の教授となる。その後、1938年、作田荘一が指導する満州の建国大学へ着任する。戦後はチェレンホーボ炭鉱に抑留され、1947年に日本に帰国した。1949年に東北大学の講師、翌年に教授となった。 太平洋戦争中の彼の論文「大東亜地政学と満洲の地位」によれば、大東亜共栄圏について大東亜という広い地域のなかでの日本を中核とした国家連合を想定した。その大東亜の範囲について、日本を中心に、内核には日本、満州、中国を、中間圏にタイ王国やフィリピン、極東のシベリアなど、外側にはオーストラリアやアリューシャン列島などを想定する。
林 塩(はやし しお、女性、1904年〈明治37年〉10月1… 林 塩(はやし しお、女性、1904年〈明治37年〉10月14日 - 1992年〈平成4年〉5月8日)は、昭和期の看護師、政治家。参議院議員(1期)、日本看護協会会長。 兵庫県神戸市奥平野で、弁護士の林松柏、千万(ちま)の第9子、五女として生まれる。1912(大正元年)9月に父が死去したため、兵庫中道通の中尾家の養女となるが、奥平野の山田家に預けられた後、1916年(大正5年)夏に淡路島洲本在住の母のもとに戻った。1919年(大正8年)3月、洲本尋常高等小学校を卒業し、地元の鐘淵紡績(のちカネボウ)の工場に事務員として就職した。 1922年(大正11年)4月、日本赤十字社大阪支部病院(現大阪赤十字病院)救護看護婦養成所(のち大阪赤十字看護専門学校)に入学(14回生)。
石橋 英樹(いしばし ひでき、1904年10月13日 - 没… 石橋 英樹(いしばし ひでき、1904年10月13日 - 没年不詳)は、日本の実業家、電気技術者。 石橋茂樹の長男として、福岡県に生まれる。1922年福岡県立中学修猷館、1925年3月旧制福岡高等学校理科甲類を経て、1928年九州帝国大学工学部電気工学科を卒業。 1928年三菱電機神戸製作所に入社。同年から1930年まで米国ウェスティングハウス社に留学。1954年技術部長、1958年神戸製作所長を経て、1960年11月取締役となる。1963年11月電子事業部長を委嘱される。1966年11月退任。 1967年5月三菱プレシジョン副社長を経て、1969年5月社長に就任。
吉満 義彦(よしみつ よしひこ、1904年〈明治37年〉10… 吉満 義彦(よしみつ よしひこ、1904年〈明治37年〉10月13日 - 1945年〈昭和20年〉10月23日)は、日本の哲学者。日本における最初のキリスト教哲学者。 鹿児島県奄美群島徳之島の亀津(現大島郡徳之島町)出身。鹿児島一中、第一高等学校文科丙類(仏語)を経て、1928年東京帝国大学倫理学科卒。在学中、岩下壮一に出会いプロテスタントからカトリックに改宗。フランスでジャック・マリタンに師事。1931年上智大学講師、東京公教神学校講師。雑誌『創造』、『カトリック研究』などに寄稿。また、戦時中の「近代の超克」企画に参画した。
万沢 遼(まんざわ とおし、1904年10月13日 - 19… 万沢 遼(まんざわ とおし、1904年10月13日 - 1993年8月11日)は、日本の文学者、翻訳家。 北海道出身。1927年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒、獨協学園高等学校教諭、獨協大学教授。1975年定年、名誉教授。ドイツ語、英語などの翻訳を行った。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
茂田井 教亨(もたい きょうこう、1904年10月12日 -… 茂田井 教亨(もたい きょうこう、1904年10月12日 - 2000年5月11日)は、日蓮宗の僧、仏教学者。 東京市(現東京都中央区)出身。立正大学文学部国文科卒、同助教授、教授、立正大学日蓮教学研究所所長。1975年名誉教授。1989年「観心本尊抄研究序説 宗学体系化への試み」で立正大学より文学博士の学位を取得。東京杉並堀之内の妙法寺山主、八王子の最教寺住職を務めた。 清水龍山に師事。日蓮を宗教哲学の観点からとらえた。
萩原 淳(はぎわら きよし、1904年〈明治37年〉10月1… 萩原 淳(はぎわら きよし、1904年〈明治37年〉10月11日 - 1987年〈昭和62年〉12月14日)は、将棋棋士。棋士番号5。九段。日本将棋連盟会長。土居市太郎名誉名人門下。兵庫県尼崎市出身。日本将棋連盟の創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人。 1922年土居市太郎に入門。兄弟弟子に金子金五郎、加藤博二、大内延介らがいる。1924年四段昇段。 史上初の実力制名人を決める第1期名人戦(八段者によるリーグ、1935 - 1937年)の最中、将棋界の分裂事件(神田事件)が発生。欠員を補充する形で萩原は1936年に八段昇段し、リーグに参加。 1941年、オール八段戦優勝。
城 義臣(じょう ぎしん、1904年(明治37年)10月11… 城 義臣(じょう ぎしん、1904年(明治37年)10月11日 - 1976年(昭和51年)9月21日)は日本の政治家、実業家。参議院議員(1期)。 1904年(明治37年)、熊本県に生まれる。1928年(昭和3年)に法政大学法文学部哲学科を卒業し、1929年(昭和4年)に早稲田大学政治経済学部を卒業する。 法政大学社会学研究室助手・講師、九州日報編集局員、日本ピアノ輸入・帝國土地建物・甲南航空工業・天産航空部品・城興産・竜門木材工業各取締役、私塾城山学舎舎主、福岡文化学園理事長兼校長を歴任する。 1948年の参議院熊本県選挙区補欠選挙に日本自由党から出馬し、当選する。第3次吉田内閣で行政管理政務次官に就任し、自由党政務調査会副会長、同党顧問を務める。
村井 武生(むらい たけお、男性、1904年10月11日 -… 村井 武生(むらい たけお、男性、1904年10月11日 - 1946年2月1日)は、日本の詩人。本名=邑井武雄。 1904年(明治37年)石川県石川郡美川町(現:白山市)にて生まれる。幼少期に一家は金沢に移り、武雄は文学に興味を持つようになり、室生犀星、木山捷平など多くの詩人と交流し、雑誌を発行する。東京や大阪に転居したが、1934年(昭和 9年)に金沢へ移り、 粟崎遊園の少女歌劇の舞台監督、脚本などに関わる。1940年(昭和15年)中国の太原で新聞局員となり、終戦後、1946年(昭和21年)帰国前に北京にて客死。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
榎本 健一(えのもと けんいち、1904年(明治37年)10… 榎本 健一(えのもと けんいち、1904年(明治37年)10月11日 - 1970年1月7日)は、日本の俳優、歌手、コメディアンである。当初は浅草を拠点としていたが、エノケンの愛称で広く全国に知られていった。「日本の喜劇王」とも呼ばれ、第二次世界大戦期前後の日本で国民的喜劇俳優として活躍した。 東京市赤坂区青山(現在の東京都港区青山)で生まれる。幼少期に母を亡くし、その家系の祖母が引き取るが、その祖母も死去。父親の元で育てられるものの、生来のやんちゃな性格が仇となり、学校から親が呼び出されることもしばしばあった。小学校時代の通信簿に「修身」で「甲乙丙丁」の落第点である「丁」をつけられて、鉛筆で上手に丁の字に線を書き加えて「甲」に見せかけて父親に見せたが、すぐに見破られて大変叱られたエピソードがある。
武藤 俊之助(むとう としのすけ、1904年(明治37年)1… 武藤 俊之助(むとう としのすけ、1904年(明治37年)10月9日 - 1973年(昭和48年)11月18日)は、日本の物理学者。専門は原子核物理学。東京大学物性研究所第2代所長。東京大学教授。九州大学教授。理学博士。 岐阜県出身。1928年(昭和3年)、東京帝国大学理学部物理学科卒業。1年間の大学院生活を経て、1930年(昭和5年)、理化学研究所(石田義雄研究室)研究員。1938年(昭和13年)、理学博士。1939年(昭和14年)、九州帝国大学に理学部が設置されるのに伴い、九州帝国大学理学部物理学第一講座初代教授に就任。1940年(昭和15年)、プリンストン高等研究所留学。戦後、1946年(昭和21年)、東京大学理工学研究所教授。
斎藤 銀次郎(さいとう ぎんじろう、1904年〈明治37年〉… 斎藤 銀次郎(さいとう ぎんじろう、1904年〈明治37年〉10月7日- 1979年〈昭和54年〉12月15日)は、元将棋棋士。1966年に日本将棋連盟を退会、連盟在籍時は石井秀吉七段門下。 1904年、東京府城東区(現:東京都江東区)大島町で生まれる。 1927年に二段で石井秀吉に入門。1929年(昭和4年)に四段。 1937年(昭和12年)に八段。第2期名人戦(1937年 - 1940年)から八段リーグに参加し、第1期順位戦(1947年)ではA級に参加。1965年(昭和40年)に引退。 引退後の1966年8月20日に、「一身上の都合」により日本将棋連盟を退会した。退会に際し、日本将棋連盟は将棋雑誌に「お知らせ」を掲載した。
森川鹿次(もりかわ しかじ、1904年10月7日 - 198… 森川鹿次(もりかわ しかじ、1904年10月7日 - 1981年2月20日)は、日本のヤクザ。森川組初代。四代目山口組舎弟・矢嶋長次は、娘婿。愛媛県川之江町(現:四国中央市)出身。 明治37年(1904年)10月7日、愛媛県川之江町(現:川之江市)で生まれた。生家は士族の旧家だったが、すでに没落していた。幼少期には、メンコに熱中した。 その後、森川鹿次は、松山市に出て、呉服屋に丁稚奉公した。 大正14年(1925年)、森川鹿次は、妹・悦子と妹婿の檜垣信太郎とともに、満州大連に移り住んだ。森川鹿次と檜垣信太郎は、クリーニング屋を隠れ蓑にして、大連で拳銃を買い集め、大阪に密輸した。森川鹿次は、税関吏・宮内を買収していた。
瀬沼 茂樹(せぬま しげき、1904年10月6日 - 198… 瀬沼 茂樹(せぬま しげき、1904年10月6日 - 1988年8月14日)は、日本の文芸評論家、翻訳家。本名は鈴木忠直。 東京府生まれ。1929年、東京商科大学(現一橋大学)卒。金子鷹之助ゼミでノヴァーリスを学んだ。在学中伊藤整と知り合い終生の親友となる。出版社に勤め、1930年、伊藤の『文芸レビュー』同人となり、谷川徹三の知遇を得て評論活動を始める。1932年、イポリット・テーヌの『文学史の方法』を翻訳、岩波文庫から刊行。唐木順三、藤原定らと季刊『理論』を創刊、1933年、最初の著書『現代文学』を上梓、1934年、埼玉県立商業学校教師、1935年、川越中学校教師、1937年から化粧品会社に勤め、執筆活動を一時休止。