江崎 真澄(えさき ますみ、1915年11月23日 - 19… 江崎 真澄(えさき ますみ、1915年11月23日 - 1996年12月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(17期)、総務庁長官、自治大臣、防衛庁長官などを歴任した。
1915年(大正4年)生まれ:569人
江崎 真澄(えさき ますみ、1915年11月23日 - 19… 江崎 真澄(えさき ますみ、1915年11月23日 - 1996年12月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(17期)、総務庁長官、自治大臣、防衛庁長官などを歴任した。
木村 瑞雄(きむら みずお、1915年11月23日 - 19… 木村 瑞雄(きむら みずお、1915年11月23日 - 1989年7月1日) は、日本の電気工学者。東北大学教授を経て、第4代東北工業大学学長を務めた。 1940年東北帝国大学工学部電気工学科卒業、東洋通信機入社。1941年東北帝国大学工学部通信工学科助手。1946年東北大学電気通信研究所助教授。1958年東北大学工学博士。信州大学工学部教授、東北大学工業教員養成所教授を経て、1968年東北工業大学教授。1969年日本音響学会東北支部長。1971年学校法人東北工業大学理事。1976年東北工業大学学長。1989年従四位勲三等瑞宝章。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
桜井 光堂(さくらい こうどう、1915年11月23日 - … 桜井 光堂(さくらい こうどう、1915年11月23日 - 没年不明)は、日本の国際法学者、駒澤大学名誉教授。 山口県宇部市生まれ。旧制松江高等学校を経て1941年東京帝国大学文学部国文科卒、同大学院に進む。1942年同法学部政治学科に入学し1944年卒業、1946年東北大学法学博士。 1953年九州大学助手、1955年北九州大学商学部助教授、1958年麗澤短期大学助教授、1961年国士舘大学政経学部助教授、1964年教授、1966年駒澤大学法学部教授、1992年定年退職。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
稲垣 清(いながき きよし、1915年(大正4年)11月23… 稲垣 清(いながき きよし、1915年(大正4年)11月23日 - 1941年(昭和16年)12月8日?)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として戦死した九軍神の一人。二階級特進により最終階級は海軍兵曹長。 三重県一志郡川合村(現・津市)生まれ。1934年(昭和9年)6月に広島県呉市の呉海兵団に入団し、同所での訓練修了後に駆逐艦「早苗」乗組。海軍水雷学校に入校、駆逐艦「呉竹」に着任。その後、海軍水雷学校高等科水雷術練習生課程を修了した。1941年(昭和16年)11月18日にアメリカ太平洋艦隊の根拠地であったハワイ真珠湾への特別攻撃隊員として潜水艦「伊24」に乗り込み、倉橋島を出撃する。
加藤 武德(かとう たけのり、1915年〈大正4年〉11月2… 加藤 武德(かとう たけのり、1915年〈大正4年〉11月21日 - 2000年〈平成12年〉2月9日)は、日本の政治家。位階は正三位。 岡山県知事(公選第6・7代)、自治大臣(第26代)、国家公安委員会委員長(第35代)、北海道開発庁長官(第40代)、参議院議員(5期)。剣道範士、全日本剣道連盟顧問。 弟に農林水産大臣の加藤六月、次男に自由民主党参議院議員の加藤紀文、義理の甥に自由民主党衆議院議員の加藤勝信、義理の兄に渡辺武次郎がいる。 岡山県笠岡市出身。旧制中央大学法学部を経て、内務省入省。1950年の参議院議員選挙に岡山県選挙区から自由党公認で出馬し初当選、当時の最年少参院議員だった。保守合同後、自由民主党に移り通算当選5回。
石田 正典(いしだ まさのり、1915年11月20日 - 2… 石田 正典(いしだ まさのり、1915年11月20日 - 2001年3月27日)は、日本の画家。 1915年11月20日、宮崎県で9人兄弟の5男として生まれる。父親が国鉄に勤務していたことから各地を転々としていた。幼少の頃からカリエスを患うなど病弱で、満足に学校に通うことがままならず、1937年に岡山二中を中退。その後、小林喜一郎の画塾「赤坂洋画研究所」に通い、絵の勉強を始めた。 小林指導の下、画力をつけていくが、二科展では一度も入選する事無く同塾に通っていた中田政夫の勧めで春陽会に出品、1941年に入選を果たす。その後は春陽会への作品出品を続け、1965年には同会の審査員として声がかかるようになった。
萩野 昇(はぎの のぼる、1915年11月20日 - 199… 萩野 昇(はぎの のぼる、1915年11月20日 - 1990年6月26日)は、 日本の医師。イタイイタイ病の命名者。医師で詩人の萩野卓司は弟。 長崎県に、医師・萩野茂次郎の長男として生まれる。1940年に旧制金沢医科大学(現・金沢大学医学部)を卒業し、同病理学教室の研究生となる。同年10月に応召入隊。1946年中国より復員し、富山県婦中町(現・富山市)の実家の「萩野病院」を継ぐ。 萩野を待ち受けていたのは、苦痛のあまり「痛い!痛い!」と叫ぶ、原因不明の奇病に苦しむ多くの女性患者たちであった。足は何箇所も折れ曲がり、満足に歩くことができない。診断しようと腕を取っただけで骨折してしまう。「風土病」「業病」と恐れられ、やがて家族からも遠ざけられながら、脳は冒されないため意識だけは明瞭なままで、激痛に悶えながら衰弱死に至る。
庄野 英二(しょうの えいじ、1915年11月20日 - 1… 庄野 英二(しょうの えいじ、1915年11月20日 - 1993年11月26日)は、日本の児童文学者。元帝塚山学院大学学長。 父は帝塚山学院の初代校長・庄野貞一。桃山中学校の元教員で、1917年に帝塚山小学校が開校する際に弱冠30歳で校長に抜擢された。弟は作家の庄野潤三。山口県萩市に生まれ、生後まもなく大阪に移る。1936年関西学院専門部文学部哲学科卒業。在学中から創作をし、佐藤春夫、坪田譲治(びわの実学校)に師事する。 1937年入営、北満洲にいる時日中戦争がある。1940年負傷して帰還。1942年ジャワ俘虜収容所に勤め武田麟太郎、佐藤春夫と交友。敗戦時はマレーにあって一時抑留、1946年帰国。
李 浩根(イ・ホグン、朝鮮語: 이호근、1915年11月20… 李 浩根(イ・ホグン、朝鮮語: 이호근、1915年11月20日 - 1966年4月24日)は、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員、第8代慶尚北道知事を歴任した。 慶尚北道醴泉郡出身。日本大学専門部文科卒。大韓光復青年団醴泉郡支部長、大韓青年団醴泉郡団団長を務めた。36歳の時は1950年の第2代総選挙で醴泉郡選挙区から大韓青年団の候補として当選したが、1954年の第3代総選挙では自由党の公認をもらったものの落選した。民主党政権時代は第8代慶尚北道知事(1960年10月7日〜1961年5月23日)を務めた。1963年の第6代総選挙では民主党の公認を受けて立候補したが、再び落選した。 1966年4月24日、大邱市中区の自宅にて心臓麻痺により死去。
市川 崑(いちかわ こん、幼名:市川 儀一、1915年(大正… 市川 崑(いちかわ こん、幼名:市川 儀一、1915年(大正4年)11月20日 - 2008年(平成20年)2月13日)は、日本の映画監督。 娯楽映画からドキュメンタリー、さらにはテレビ時代劇ドラマまでを幅広く手がけ、長期間映画制作に取り組んだ。主な監督映画に『ビルマの竪琴』『炎上』『おとうと』『鍵』『東京オリンピック』『股旅』の他、『犬神家の一族』をはじめとする金田一耕助シリーズなどがあり、主なテレビドラマの演出作品に『木枯し紋次郎』がある。 1915年(大正4年)11月20日、三重県宇治山田市(現・伊勢市)に生まれる。呉服問屋の4人姉弟の長男末っ子として生まれたが、父親が急死し、後に呉服問屋も倒産したため、4歳から次女の嫁ぎ先である大阪市西区九条に母親と共に移り、母と次女、次女の娘と一緒に幼少生活を送る。
河野 典夫(こうの すけお、1915年11月19日 - 20… 河野 典夫(こうの すけお、1915年11月19日 - 2000年2月18日)は、日本の経営者。日立金属社長を務めた。 山口県出身。1940年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に日立製作所に入社。1956年10月に日立金属に転じ、1964年5月に取締役に就任し、1965年5月に常務、1969年5月に副社長を経て、1971年1月には社長に就任。1985年6月に会長に就任し、1989年6月から相談役を務めた。 1978年4月に藍綬褒章を受章し、1986年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2000年2月18日心不全のために死去。84歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
浅沼 美智雄(あさぬま みちお、1915年11月19日 - … 浅沼 美智雄(あさぬま みちお、1915年11月19日 - 2001年、浅沼 美知雄〈あさぬま みちを〉とも)は、日本の政治活動家、右翼活動家。大日本愛国団体連合・時局対策協議会(時対協)副代表・最高顧問。防共新聞社編集長・主幹。大日本愛国党参与・最高顧問。防共挺身隊隊長・顧問。学生運動純正同盟顧問。全日本愛国者懇親会世話人。大日本愛国団体連合第二代代表。嶽南義塾顧問。言論同志会顧問。皇道民族連盟代表。 東京都八丈島出身。三宅村出身の浅沼稲次郎は遠縁に当たる。日本大学専門部を中退し、読売新聞社記者を経て、戦後、日本社会党に入り杉並区議会議員を1期務める。 1952年、社会党右派から右翼に転向した。
前田 直典(まえだ なおのり、1915年11月18日 - 1… 前田 直典(まえだ なおのり、1915年11月18日 - 1949年9月18日)は、日本の東洋史学者(モンゴル史・元朝史を研究)。京都市上京区生まれ。闘病・夭逝のため研究生活は短いものであったが、鈔法を始めとする元朝に関する実証的な研究、また中国史における新たな時代区分論を提唱したことで知られる。
中村 末男(なかむら すえお、1915年11月18日 - 1… 中村 末男(なかむら すえお、1915年11月18日 - 1996年3月9日)は、日本の物理学者、物性学者。鹿児島大学第4代学長・名誉教授、大分大学(旧)第5代学長、鹿児島女子大学(志學館大学)第3代学長。理学博士。専門は固体物性学。 長崎県出身。広島文理科大学(広島大学の前身)理学部物理学科へ1939年春に入学し、1941年12月に卒業。勝山小学校訓導兼旧制長崎県立長崎中学校物理学非常勤講師を経て、1944年、旧制第七高等学校造士館教授に就任。勤労動員で長崎の三菱工場へ行って、原子爆弾に被爆し、偶然トンネルに入っていたため自身は一命をとりとめる。 学制改革により、1950年3月31日、新制鹿児島大学文理学部助教授に就任。
楠 恭(くすのき きょう、1915年11月17日 - 200… 楠 恭(くすのき きょう、1915年11月17日 - 2000年4月8日)は、浄土真宗の僧、仏教研究者。 富山県小矢部市出身。1942年大谷大学宗教学科卒。寺僧を務めながら妙好人について研究。東京本願寺学院教授。1999年仏教伝道文化賞受賞。
小阪 三郎(こさか さぶろう、1915年11月16日 - 1… 小阪 三郎(こさか さぶろう、1915年11月16日 - 1992年12月5日)は、三重県出身のプロ野球選手(内野手)。
内山 正太郎(うちやま しょうたろう、1915年11月16日… 内山 正太郎(うちやま しょうたろう、1915年11月16日 - 2003年7月23日)は、日本の経営者。フジテックの創業者。大阪府出身。 1935年に関西大学専門部商科を卒業し、戦前戦中は東洋オーチス・エレベータに勤務。独立後、1949年2月に富士輸送機工業(のちのフジテック)を設立し、社長に就任。1992年6月に会長も兼任し、1998年4月には社長の座を大谷謙治に譲り、会長に専任。 2003年7月23日肝不全のために死去。87歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
森須滋郎(もりす じろう、1915年11月16日-1995年… 森須滋郎(もりす じろう、1915年11月16日-1995年11月25日)は、日本の食味評論家。 福島県生まれ。本名・八巻千秋。東京帝国大学文学部美学美術史科卒。 1975年より料理季刊誌『四季の味』の編集長をし、日本全国の名店・名物料理を紹介。旨いものを知らしめる味の批評家として有名であっただけでなく、自身も家庭では包丁を握って客をもてなす家庭料理の達人であった。娘に八巻元子(1944-『四季の味』編集長)。[要出典]
片野 饗一(かたの きょういち、1915年(大正4年)11月… 片野 饗一(かたの きょういち、1915年(大正4年)11月16日 - 2002年(平成14年)2月24日)は、日本の銀行家。北都銀行取締役相談役、秋田あけぼの銀行頭取を歴任した。 秋田県湯沢市出身。東京商科大学(現一橋大学)卒業後、三菱商事入社。 1949年(昭和24年)には、父である片野重脩が設立を主導した秋田無尽に入社。その後、秋田相互銀行社長に就任した。 社長在任時は、1976年(昭和51年)の事務センターの開館、翌年にはオンラインシステムの稼動開始など事務のOA化を促進し体制の整備にあたった。また、1982年(昭和57年)には現在の北都ビルディングにあたる「新本店ビル」の竣功にこぎ着けた。
金 光俊(キム・グァンジュン、朝鮮語: 김광준、1915年1… 金 光俊(キム・グァンジュン、朝鮮語: 김광준、1915年11月15日 - 1971年2月24日または3月)は、大韓民国の警察公務員(警監)、政治家、弁護士。第3代春川警察署長、制憲・第2・5代韓国国会議員を歴任した。 本貫は義城金氏(朝鮮語版)。元国会議員の金命潤は弟、呉俊碩は妹の夫。 日本統治時代の江原道(現・慶尚北道)蔚珍郡平海出身。中央大学専門部法科卒。朝鮮弁護士試験合格、総督府普通文官試験合格、日本高等文官試験司法科・行政科合格。全羅南道道属・警務課長、第3代春川警察署長(1946年7月18日~1947年10月25日)、弁護士、無所属の国会議員、国会内務治安委員、憲法起草委員、高試司法行政両科委員、自由党党員、民主党所属の国会議員、民政党結党全党大会副議長を務めた。
中沢 洽樹(なかざわ こうき、1915年11月15日- 19… 中沢 洽樹(なかざわ こうき、1915年11月15日- 1997年6月18日)は、日本の聖書学者。立教大学名誉教授。 高知県生まれ。1938年東京帝国大学文学部宗教学科卒業。1950年から1952年までニューヨークのユニオン神学校に留学。1954年立教大学文学部キリスト教学科助教授、のち教授。1962年「第二イザヤ研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。1980年定年退任、名誉教授。
桜庭 信之(さくらば のぶゆき、1915年11月15日 -2… 桜庭 信之(さくらば のぶゆき、1915年11月15日 -2011年10月25日)は、日本の英文学者、東京教育大学・国際短期大学名誉教授。櫻庭信之が正しい表記。 中華民国・ハルビン市生まれ。秋田県で育つ。1937年東京高等師範学校英語科卒業。1943年(旧制)東京文理科大学英文科卒業。1945年東京文理科大学大学院修了後、1946年東京高等師範附属小学校教諭。1948年東京文理科大学附置東京高等師範学校教授。1952年東京教育大学文学部助教授。1954年ロンドン大学留学(1955年まで)。1967年1月「絵画と文学 ホガース論考」で東京教育大学で文学博士取得。1967年4月東京教育大学文学部教授。
常松 之典(つねまつ ゆきのり、1915年11月14日 - … 常松 之典(つねまつ ゆきのり、1915年11月14日 - 1980年5月10日)は、日本の微生物学者。東京大学医科学研究所の教授として、主にトキソプラズマの研究で知られている。医学博士。東京大学名誉教授。 1915年11月14日東京に生まれる。父は東京帝国大学を卒業し三菱重工で活躍した造船技師の常松四郎である。武蔵高等学校に学び、水泳部に所属していた。東京帝国大学医学部を卒業し整形外科に入局するが、胸を患ったことで予防を志し伝染病研究所で研究の道に就いた。 もともと伝染病研究所の第7研究部において髄膜炎菌や淋菌の研究に携わっていたが、1952年ごろから部長である長谷川秀治が着手したトキソプラズマの研究の中核を担った。
串田 孫一(くしだ まごいち、1915年11月12日 - 2… 串田 孫一(くしだ まごいち、1915年11月12日 - 2005年7月8日)は、日本の詩人、哲学者、随筆家。 1915年、東京市芝区生まれ。駿河台や永田町や一番町に育つ。暁星中学校で学び、中学時代から登山を始めた。1932年、旧制東京高等学校文科丙類に入学し、1935年に卒業。東京帝国大学文学部哲学科で学び、1938年に卒業した。同1938年には、処女短編集『白椿』(初見靖一名義)を刊行した。 卒業後は、上智大学で教鞭をとる。戦後、1946年に『永遠の沈黙 パスカル小論』を上梓し、『歴程』同人となる。旧制東京高等学校で教鞭をとり、1955年、最初の山の本『若き日の山』を上梓、1958年、尾崎喜八らと山の文芸誌『アルプ』を創刊、1983年に終刊するまで責任編集者を務めた。
久保田 実(くぼた みのる、1915年11月11日 - 19… 久保田 実(くぼた みのる、1915年11月11日 - 1997年2月10日)は、日本の経営者。長野県長野市出身。 1934年に長野商業学校を卒業し、1940年に八十二銀行に入行。1971年11月に取締役に就任し、1975年12月に常務を経て、1979年6月には三協精機製作所社長に就任。1984年6月には会長に就任。 1984年11月に藍綬褒章を受章。 1997年2月10日心不全のために死去。81歳没。
石原 吉郎(いしはら よしろう、1915年(大正4年)11月… 石原 吉郎(いしはら よしろう、1915年(大正4年)11月11日 - 1977年(昭和52年)11月14日)は、日本の詩人。シベリア抑留の経験を文学的テーマに昇華した、戦後詩の代表的詩人である。
辻 光典(つじ みつのり、1915年11月11日 - 199… 辻 光典(つじ みつのり、1915年11月11日 - 1992年9月17日)は、日本の漆芸家。日展参事。日展出品作「装飾画、雲連作の六『クノサス』」により日本芸術院賞を受賞した。 旧満洲ハルビン市に生まれる。青山学院を経て、1939年に東京美術学校工芸科漆工部を卒業した。在学中の1938年、春台美術展に「文庫」、光風会展に「花器」で初入選した。翌年には実在工芸展に出品し、新工芸運動にも参加した。 1940年に東京都工芸展「蛾の踊り」で知事賞を受賞し、1943年には光風会会員となった。戦後は1948年に型々工芸、1950年には洋和会を主宰し、建築物と結びついた壁面装飾に漆工家としての新しい方向を求めた。
湊 正雄(みなと まさお、1915年11月10日 - 198… 湊 正雄(みなと まさお、1915年11月10日 - 1984年4月16日)は、日本の地質学者。北海道大学名誉教授。
西村 恒三郎(にしむら つねさぶろう、1915年11月10日… 西村 恒三郎(にしむら つねさぶろう、1915年11月10日 - 1996年7月11日)は、日本の経営者。住友重機械工業社長、会長を務めた。 東京都出身。1939年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に住友機械工業(現在の住友重機械工業)に入社した。1965年5月に取締役に就任し、1967年1月に常務、1969年6月に専務、1971年7月に副社長を経て、1973年11月に社長に就任。1983年6月に会長に就任し、1987年6月から相談役を務めた。 1977年11月に藍綬褒章を受章し、1992年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1996年7月11日、肝不全のために死去。80歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
13代坂田 泥華(13だい さかた でいか、1915年11月… 13代坂田 泥華(13だい さかた でいか、1915年11月10日 - 2010年2月24日)は山口県長門市深川にて代々継承されている萩焼の伝統名跡名家陶芸家の名。本名を一平。山口県長門市出身。萩商卒。12代坂田泥華(本名:浩三)の長男。 坂田家は萩焼の始祖である李勺光(りしゃくこう)の流れをくむ家柄で、深川萩四家の一つ。(深川萩四家とは現在、坂田泥華窯の他、坂倉新兵衛窯、田原陶兵衛窯、新庄助右衛門窯の四窯元がある)1950年(昭和25年)萩焼深川(ふかわ)窯の当主13代泥華を名のる(窯は長門市深川にある)。戦後の昭和萩陶芸史を語る上で、萩焼を担う中心人物の一人で特に井戸茶碗に研鑽を積み、「泥華井戸」と称されるおおらかで伸びのある独自の優雅な作風を確立。
上野 豊(うえの ゆたか、1915年(大正4年)11月9日 … 上野 豊(うえの ゆたか、1915年(大正4年)11月9日 - 2016年(平成28年)3月6日)は、日本の実業家。海運・石油輸送大手の上野トランステック名誉会長、横浜エフエム放送会長。元横浜商工会議所会頭、横浜エフエム放送社長。神奈川県横浜市出身。長男は上野トランステック社長の上野孝。 1937年、旧制横浜高等商業学校(現横浜国立大学)を卒業し、合名会社上野運輸商会に入社。渡辺輝一ゼミ出身。終戦時は陸軍大尉として広島に赴任。被爆するが一命を取り留める。1966年、上野運輸商会社長に就任。1975年株式会社上野運輸商会社長。石油輸送の上野グループを国内大手に育て上げ、石油メジャーのロイヤル・ダッチ・シェルとのつながりも深く、本国のシェル上層部と直接話のできる数少ないひとりと言われた。
岩田 次男(いわた つぎお、1915年11月6日 - 没年不… 岩田 次男(いわた つぎお、1915年11月6日 - 没年不明)は、愛知県出身のプロ野球選手。 名古屋市立第三商業学校(現・名古屋市立桜台高等学校)から早稲田大学(中退)を経て、1936年名古屋軍に入団。 1936年9月23日、甲子園球場で行われた名古屋金鯱軍戦にて内藤幸三からプロ野球初の満塁本塁打を放った。 1937年秋季東京セネタース、1941年朝日軍に移籍。1942年を最後に兵役のため引退。 戦後はプロ野球に復帰せず、社会人野球の東邦ガスで選手兼任監督として活動した。
寺田 治郎(てらだ じろう、1915年(大正4年)11月4日… 寺田 治郎(てらだ じろう、1915年(大正4年)11月4日 - 2002年(平成14年)3月17日)は、日本の裁判官。第10代最高裁判所長官。位階は従二位。 愛知県出身。旧制姫路高等学校を経て、1938年(昭和13年)東京帝国大学法学部を卒業。 司法官試補となるも、すぐに大日本帝国陸軍に召集され、法務大尉として終戦を迎えた。復員後は1947年(昭和22年)に京都地裁に勤務した後、1949年(昭和24年)に最高裁民事局勤務、最高裁事務総務局長、大津地裁所長、東京高裁判事を経て、1974年(昭和49年)に最高裁事務総長に就任。1976年(昭和51年)5月に日本共産党スパイ査問事件が国会で取り上げられた時には国会に呼ばれ、「国政調査権が確定判決の当否、事実認定、罪刑の当不当などを調査するのは司法権介入になるか」とただしたのに対し、寺田は1948年(昭和23年)の最高裁裁判官会議の議決から「確定判決の当否を調べるため、国会が証人喚問を行うようなことは的確ではない」と答弁した。
白木 一二(しらき かずじ、1915年11月3日 - 194… 白木 一二(しらき かずじ、1915年11月3日 - 1944年?)は、兵庫県出身のプロ野球選手(外野手)。
白 亨南(ペク・ヒョンナム、朝鮮語: 백형남、1915年11… 白 亨南(ペク・ヒョンナム、朝鮮語: 백형남、1915年11月3日 - 1950年)は、日本統治時代の朝鮮の教員、校長、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。本貫は水原白氏。 全羅北道益山郡黄登面(現・益山市)出身。咸羅公立普通学校(現・咸羅初等学校)、全州新興中学校を卒業後、日本大学文学部に入学した。これについて、3年次に中退したとも、修了したとも言われている。完州郡鳳東面私立永興学校の教員、黄登私立ケドン学校の教員と校長を務めたほか、黄登殉国青年同盟委員長、大韓独立促成国民会黄登支会副委員長、韓国光復青年会全北監察委員長と益山郡委員長、大同青年団益山軍団長、黄登軍団長などを務めた。1948年の初代総選挙に大同青年団の公認で益山郡甲選挙区から当選し、国会議員を1期務めた。
芹沢 常行(せりざわ つねゆき、1915年11月2日 - 2… 芹沢 常行(せりざわ つねゆき、1915年11月2日 - 2005年11月21日)は、日本の警察官。 静岡県三島市出身。中央大学法学部二部卒。昭和35年(1960年)に施行された検視官制度において、日本初の検視官3名のうちの一人。 1939年警視庁巡査となる。警邏係、警務係を経て、1948年愛宕警察署捜査係長、1956年本所警察署刑事課長、警視庁刑事部鑑識課現場鑑識係長、同捜査第一課係長を経て、1960年日本で初めての検視官となる。検視官として、臨場した変死体は、15年間で約3,000体。その仕事ぶりからいつからか、「スッポンの芹さん」というあだ名が付けられる。その後、調布警察署長、警視庁刑事部地方課長、警視庁刑事部鑑識課長、板橋警察署長、警視庁刑事部検死官室長(刑事部理事官)を歴任。
林 清一(はやし せいいち、1915年10月31日 - 19… 林 清一(はやし せいいち、1915年10月31日 - 1990年5月23日)は、愛知県出身のプロ野球選手(外野手)。
木下 祝郎(きのした しゅくお、1915年 <大正4年> 1… 木下 祝郎(きのした しゅくお、1915年 <大正4年> 10月31日 - 2011年 <平成23年> 3月19日)は、日本の農芸化学者、経営者。農学博士。協和発酵工業(現在の協和キリン)社長を務めた。位階は正四位。 京都府久美浜町(現京丹後市)出身。第八高等学校を経て、東京帝国大学に進み、1941年に同大農学部農芸化学科を卒業し、台湾総督府工業研究所に入所。同年12月開戦とともに徴兵され中国大陸南部に出兵、1946年5月に復員・帰国して協和産業(後の協和醗酵工業)に入社した。同社では、ペニシリンの量産化、ストレプトマイシン生産技術の導入などに取り組んだ。その後、同社東京研究所で、発酵によるアミノ酸製造技術(アミノ酸発酵)を発明した研究開発チームを主導した。
遠藤 要(えんどう かなめ、1915年10月31日 - 20… 遠藤 要(えんどう かなめ、1915年10月31日 - 2010年6月20日)は、日本の政治家。 宮城県議会議員を経て、参議院議員を4期務め、法務大臣や自由民主党参議院議員総会長などを歴任。 学歴は、白石高等小学校(現在の宮城県白石市)卒業。 1947年(昭和22年)、宮城県議会議員選挙に立候補し初当選し、同県議会議員に就任した。以後通算7回当選し、1971年(昭和46年)には同議会議長に選出された。 1974年(昭和49年)の第10回参議院議員通常選挙に、自由民主党公認で立候補し当選、参議院議員に転身した。以後通算4回当選し、自由民主党内では田中派、竹下派(経世会)を経て、小渕派(平成研究会)に所属した。
安井 吉典(やすい よしのり、1915年(大正4年)10月3… 安井 吉典(やすい よしのり、1915年(大正4年)10月30日 - 2012年(平成24年)11月6日)は、日本の政治家(日本社会党)。位階は正三位。勲等は勲一等。 衆議院副議長(第57代)、衆議院議員(11期)を歴任。 1915年(大正4年)、北海道東神楽村(現東神楽町)にて生まれる。1940年(昭和15年)に東北帝国大学法学部を卒業し、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)に入社、秋田県の尾去沢鉱業所に勤務した。1944年(昭和19年)に吉田貞次郎衆議院議員(元上富良野村長)の娘の弥生と結婚。1945年(昭和20年)、父で東神楽村長代理助役だった安井吉太郎の死去を受け、翌1946年(昭和21年)に家業の農業を継ぐため退社。
森 昭(もり あきら、1915年10月30日 - 1976年… 森 昭(もり あきら、1915年10月30日 - 1976年12月17日)は、日本の教育学者、教育哲学者、文学博士、大阪大学教授。 大正4年(1915年)10月30日鹿児島県姶良郡隼人町(現霧島市)で生まれる。 鹿児島県立第一中学校 (旧制)および旧制第七高等学校造士館 (旧制)(理科乙から文科乙に転科)を経て京都帝国大学文学部哲学科卒業、同大学院教育学専攻修了。京都学派第一世代である田邊元に哲学を師事し、西田幾多郎門下の木村素衛の下で大学院において教育学を修める。 森は京都学派第二世代でこの学派の教育学領域において傑出した業績を残した。ドイツ留学以前、カントやヘーゲル等のドイツ観念論哲学・ハイデッガーやヤスパース等のドイツ系の実存主義哲学を基礎に、戦後新教育の思想的背景となったジョン・デューイの経験主義教育哲学の解釈に努めた。
池田 松次郎(いけだ まつじろう、1915年10月28日 -… 池田 松次郎(いけだ まつじろう、1915年10月28日 - 1983年7月8日)は、日本の実業家。総合商社の丸紅の第7代社長。京都府出身。 彦根高等商業学校(現 滋賀大学経済学部)卒業後、大同貿易に入社。若年期から海外拠点に赴任し、戦時統合による大建産業期を経て丸紅へ転籍した。戦後は北米での勤務・経営経験を積み、米国丸紅会社の副社長を務めたのち帰国。帰国後は海外営業の統括や本部長職を歴任し、丸紅の代表取締役社長に就任した。 戦前から海外赴任が多く、商社生活45年のうち17年を海外で過ごし、戦後も北米での経営経験を持ち、現場実務と海外ビジネス双方に通じた経営者と評価されている。 社内では、穏やか、筋を通す、正直、プロフェッショナルといった評価が語られ、無理を避けつつも、商社としての拡大路線を堅持する現実的な経営姿勢を持っていた。
亀岡 孝彰(かめおか たかあき、1915年10月28日 - … 亀岡 孝彰(かめおか たかあき、1915年10月28日 - 2003年11月20日)は、日本の経営者、元住友銀行 (現三井住友銀行)副頭取、元朝日麦酒 (現アサヒビール)会長。大阪府出身。官立旧制和歌山高等商業学校(現:和歌山大学経済学部)卒業。
小池 善吉(こいけ ぜんきち、1915年〈大正4年〉10月2… 小池 善吉(こいけ ぜんきち、1915年〈大正4年〉10月27日 - 2001年〈平成13年〉2月20日)は日本の社会学者。群馬大学名誉教授。 群馬県吾妻郡中之条町に生まれる。1933年(昭和8年)旧制前橋中学校を卒業。旧制新潟高等学校を経て、1943年(昭和18年)東京帝国大学文学部社会学科を卒業。卒業と同時に兵役につき、1945年(昭和20年)に復員。 郷里に帰ると1946年(昭和21年)吾妻青年同志会を創設。1947年(昭和22年)から群馬青年師範学校に勤務する。1949年(昭和24年)に群馬大学学芸学部助教授となり、1967年(昭和42年)には群馬大学教養学部教授に就任。社会学を担当し、1981年(昭和56年)群馬大学を退官。
坂井 誠一(さかい せいいち、1915年10月27日 - 2… 坂井 誠一(さかい せいいち、1915年10月27日 - 2004年3月30日)は、日本の日本史学者。 富山県生まれ。1938年東京帝国大学文学部国史学科卒。1977年「加賀藩改作法の研究」で法政大学文学博士。1950年富山大学助教授、1964年教授、1979年定年退官、名誉教授、上越教育大学教授。弟に名古屋高裁長官・坂井芳雄(1920-1998)。 1988年、勲二等瑞宝章受章。
芳 即正(かんばし のりまさ、1915年10月26日 - 2… 芳 即正(かんばし のりまさ、1915年10月26日 - 2012年1月13日)は、日本の歴史学者。鹿児島県立図書館館長、鹿児島県立短期大学教授、鹿児島純心女子短期大学教授、尚古集成館館長等を歴任した。 鹿児島県鹿児島市生まれ、本籍大分県宇佐市(父が明治末~大正初期頃に鹿児島県に移住)。小学校から旧制中学1年まで大分県日田市の祖父母に預けられて育つ。旧制大分県立日田中学校(現大分県立日田高等学校)入学。2年生のときに鹿児島へ戻ることになり、当時新たに開校する私立の旧制鹿児島中学校(現鹿児島高等学校)が第2学年の募集もしていたため編入学。鹿児島中学校から進学して、1935年旧制第七高等学校造士館文科卒業。
武田 誠三(たけだ せいぞう、1915年10月26日 - 1… 武田 誠三(たけだ せいぞう、1915年10月26日 - 1996年10月26日)は、日本の農林官僚。日本中央競馬会理事長を務めた。東京都出身。 1939年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に農林省に入省。1965年6月に食糧庁長官、1966年7月に農林事務次官、1971年2月に農林漁業金融公庫総裁を歴任し、1978年6月に日本中央競馬会理事長に就任し、1983年10月には日本銀行政策委員に就任。1987年2月に第2次臨時行政改革推進審議会委員に就任。 1987年11月に勲一等瑞宝章を受章した。 1996年10月26日膀胱癌のために死去。81歳没。
朝吹 四郎(あさぶき しろう、1915年〈大正4年〉10月2… 朝吹 四郎(あさぶき しろう、1915年〈大正4年〉10月26日 - 1988年〈昭和63年〉9月18日)は昭和時代の日本の建築家。日本建築家協会会員。 1915年(大正4年)10月26日、実業家朝吹常吉・磯子の四男として東京市築地明石町に生まれた。慶應義塾幼稚舎で学童期を過ごし、1933年(昭和8年)、慶應義塾普通部を卒業した。その後イギリスにわたってケンブリッジ大学で建築学を学び、1938年(昭和13年)には同大学を卒業して「建築学士」の称号を得た。帰国後の1939年、千代田設計事務所を開設した。1949年(昭和24年)、朝吹設計事務所開設、1951年には朝吹一級建築士事務所を東京に創設して、その代表となった。
石田 光彦(いしだ みつひこ、1915年10月25日 - 1… 石田 光彦(いしだ みつひこ、1915年10月25日 - 1980年)は、山口県出身のプロ野球選手(投手)。ノーヒットノーランを2度達成している。 軟式野球の東京リーガル協会から阪急軍のテストを受け、重松通雄とともに入団。 打者を「幻惑」するために、以下のように多彩な変則投法を繰り出し、千葉茂に「チャップリン投法」と評された。 1937年7月16日のセネタース戦で球団初のノーヒットノーラン、16勝を挙げた1940年には2度目のノーヒットノーランを達成した。1941年に南海軍へ移籍。1943年に大和軍へ移籍。1946年にゴールドスターにプロ復帰して球団最初の開幕投手を務めたが、同年に引退した。 1946年を最後にプロ野球界から離れたが、1948年(昭和23年)の第19回都市対抗野球に、北関東代表の山藤クラブ(前橋市)の投手として出場している。
増田 順司(ますだ じゅんじ、1915年10月25日 - 1… 増田 順司(ますだ じゅんじ、1915年10月25日 - 1989年5月25日)は、日本の俳優、声優。本名・吉野 順二(のち増田順二)。東京市麹町区(現・東京都千代田区)出身。旧芸名・別名は増田 順二。息子は劇団NLTの演出家。 増田家の次男として生まれ、吉田家の養子となる。 四谷第三尋常小学校を経て東京府立農芸学校に入り修了後、32年に第一外国語学校英語科に入り34年卒業。同年シナリオ·ライターをめざして日本大学専門部文科に進み、大演劇ワークショップに加入し北村喜八、青山杉作らに師事。36年に創作座へ入り、翌37年3月に大学中退するも同年春、創作座は解散し、38年末、文学座に入る。 1937年、日本大学専門部芸術科演劇科卒業。