金森 虎男(かなもり とらお、1890年(明治23年)9月2… 金森 虎男(かなもり とらお、1890年(明治23年)9月26日 - 1957年(昭和32年)11月27日)は、日本の大正・昭和期における歯科医・医学博士。東京高等歯科医学校(現在の東京医科歯科大学)教授・東京大学教授・札幌医科大学教授。福井県出身。 1890年(明治23年)、福井県大野郡大野町(現大野市)に伊藤作四郎の四男として生まれ、1909年(明治42年)医師金森辰二郎の養子となった。1902年(明治45年)7月第四高等学校を卒業し、1916年(大正5年)12月東京帝国大学医科大学を卒業した。 養父辰二郎が東京帝国大学医科大学歯科学教室教授である石原久と大学同窓であったため石原に親しみ、虎男は歯科を志望し1916年(大正5年)12月大学卒業後同教室に入局した。
金 明植(キム・ミョンシク、1890年9月26日 - 194… 金 明植(キム・ミョンシク、1890年9月26日 - 1943年4月11日)は、朝鮮の独立運動家で、後に親日派へ転向した人物として知られている。号は松山(ソンサン、송산)。 済州島の名家に生まれる。日本へ留学して早稲田大学を卒業し、留学中にアジア地域の被圧迫国家の青年達によって構成された秘密結社である新亜同盟団で活動した。新亜同盟団は以後社会革命党に改編され、帰国した金明植は社会革命党と上海派高麗共産党(朝鮮語版)において活動し、労働運動団体である朝鮮労働共済会の創立に参加した。 上海派は民族主義勢力との広範囲な連帯をはかる統一戦線路線を歩んだが、1922年に金允植が死去した際、金允植の社会葬を推進した張徳秀の右派とこれに反対した金明植や兪鎮煕の左派が対立し、分離することとなった。
柳沢 七郎(やなぎさわ しちろう、1890年〈明治23年〉9… 柳沢 七郎(やなぎさわ しちろう、1890年〈明治23年〉9月25日 - 1978年〈昭和53年〉1月25日)は、元住友金属工業社長。 1890年宮城県大崎市の小松家に生まれ、のちに東京都の柳沢家の養子となる。宮城県古川高等学校、東北大学卒業。 1916年 住友製鋼所入社。1921年住友金属工業設立により住友金属工業に移籍。 1945年11月30日に専務取締役に就任し、1946年1月21日に取締役社長に就任、公職追放により1947年4月21日に取締役社長を辞任した。 1967年勲三等瑞宝章を受章。1978年に死去した。
早田 福蔵(はやた ふくぞう、1890年〈明治23年〉9月2… 早田 福蔵(はやた ふくぞう、1890年〈明治23年〉9月25日 - 没年不詳)は、日本の検事。朝鮮総督府官僚。弁護士。税理士。 長崎県上県郡佐須奈村(現在の対馬市)出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部独法科を卒業。大邱地方法院司法官補、同判事、平壌地方法院検事、平壌地方法院新義州支庁検事、京城地方法院水原支庁検事、同春川支庁検事、清津地方法院検事、大邱覆審法院検事、全州地方法院検事、京城地方法院検事、公州地方法院検事正、大田地方法院検事正、釜山地方法院検事正、大邱地方法院検事正を歴任。1943年(昭和18年)、朝鮮総督府法務局長に就任した。 戦後は弁護士および税理士を開業し、静岡地方裁判所、同家庭裁判所各判事、裁判所調停委員、保護司、静岡県保護司連盟会長を歴任した。
河辺 虎四郎(かわべ とらしろう、1890年(明治23年)9… 河辺 虎四郎(かわべ とらしろう、1890年(明治23年)9月25日 - 1960年(昭和35年)6月25日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は中将。富山県出身。 1890年(明治23年)9月、富山県礪波郡東野尻村大字苗加(東礪波郡東野尻村、砺波町を経て現砺波市)に河辺純三の四男として生まれる。河辺正三大将(陸士19期歩兵科)は兄、瀧田俊吾軍医大佐は弟である。1905年(明治38年)に正三、虎四郎兄弟は陸軍士官学校、名古屋陸軍幼年学校に合格している。兄弟は草鞋ばきでそれぞれの受験地金沢までの往復を共にした(草地貞吾著『将軍32人の「風貌」「姿勢」』p.42,43)。 その後、1912年(明治45年)5月に陸士第24期砲兵科を卒業。
松本 與作(まつもと よさく、1890年9月24日 - 19… 松本 與作(まつもと よさく、1890年9月24日 - 1990年3月9日)は、近代日本の建築家。 東京築地にあった工手学校卒業後、辰野葛西事務所所員として東京駅や東京京橋の第一相互館の設計を担当し、第一相互館竣工後、クライアントの第一生命創業者矢野恒太に誘われて第一生命保険初代営繕課長となり、代表作となる第一生命館を設計した。 その後も90歳を超えて第一生命の顧問技師として勤務した。 中央停車場の設計担当者として多くの証言を残しており、松本の半生は伊藤ていじが『谷間の花が見えなかった時』(彰国社、1982年)としてまとめている。 1890年9月24日、宮内省で京都御所の修繕などに携わっていた松本源次郎の長男として、現在の京都市上京区に生まれる。
角田 覚治(かくた かくじ、1890年(明治23年)9月23… 角田 覚治(かくた かくじ、1890年(明治23年)9月23日 - 1944年(昭和19年)8月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。テニアン島で戦死。 1890年(明治23年)9月23日、新潟県南蒲原郡槻田村字諏訪新田(現・三条市諏訪)で農家の父角田利八と母角田ソメの七人兄弟(兄1人妹2人弟3人)の二男に生まれる。1908年3月、旧制三条中学校(現:新潟県立三条高校)卒業。在学中に新潟港遠足に行った折見た海軍士官に憧れて受験し、1908年(明治41年)9月14日、海軍兵学校第39期生として入校した。入校時の席次は150人中102番。1911年(明治44年)7月18日、148人中45番の成績で卒業。
河井 昇三郎(かわい しょうざぶろう、1890年9月23日 … 河井 昇三郎(かわい しょうざぶろう、1890年9月23日 - 1973年9月18日)は、日本の実業家。住友本社常務理事。大阪建物社長。 静岡県掛川市出身。東京帝国大学政治学科を1915年に卒業し、住友に入る。総本店、伸銅所尼崎工場、別子銅山を経て1925年欧米留学。1927年製鋼所、以降本社総務部部長、人事部部長、常務理事兼経理部長などを歴任。この間住友各社の役員を兼務。1946年辞任。1949年大阪建物社長、1960年辞任。 静岡県掛川市出身の政治家河井彌八の血縁者。 神宮寺(静岡県掛川市仁藤65)敷地内墓地にある墓所にて一族と共に眠る。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
伊藤 康安(いとう こうあん、1890年(明治23年)9月2… 伊藤 康安(いとう こうあん、1890年(明治23年)9月23日 - 1965年(昭和40年)12月10日)は、臨済宗僧侶・仏教学者。 東京・北品川の沢庵宗彭ゆかりの臨済宗春雨寺に生まれる。1912年早稲田大学文学部和漢文学科卒。早稲田第一高等学院教授、高等師範部教授、1942年早大教授。61年定年退任、名誉教授。1941-59年早稲田大学仏教青年会会長。中世文学、仏教文学を教えた。のち春雨寺主管。
三浦 肆玖楼(みうら しくろう、1890年(明治23年)9月… 三浦 肆玖楼(みうら しくろう、1890年(明治23年)9月21日 - 1961年(昭和36年)10月4日)は、大正から昭和時代の日本の農学者。 島根県那賀郡井野村(現・浜田市三隅町)にて生まれる。島根県農林学校を経て、1917年(大正6年)東京農業大学を卒業。シンガポールの三五公司の社員となり、ゴムノキの芽接ぎ技術を完成、熱帯ゴム樹栽培の技術を確立した。1925年(大正14年)島根県邑智郡農会技師、1928年(昭和3年)岐阜高等農林学校勤務を経て、1931年(昭和6年)母校の東京農業大学講師となる。さらにアメリカのネブラスカ大学に留学。1934年(昭和9年)に帰国し、東京農業大学教授となり、同校の戦後復興に尽力。
永田 龍雄(ながた たつお、1890年〈明治23年〉9月20… 永田 龍雄(ながた たつお、1890年〈明治23年〉9月20日 - 1965年〈昭和40年〉9月29日)は、日本の舞踊批評家、歌人。 1910年、東京外国語学校英語科を卒業する。村井吉兵衛の秘書を務めたのち1921年(大正10年)に帝国劇場文芸部に入り、関東大震災での解散までそこに勤めた。部の解散後、舞踊批評家に転身する。 時事新報の嘱託も務め、西洋舞踊や邦楽の批評を執筆し、村松道弥らと音楽新聞も創刊した。西欧舞踊の黎明期から晩年まで多くの批評を残し、印象批評と独自な見解に定評がある。 スペイン語の永田寛定、詩人の永田助太郎を親族に持つ[要出典]。
大野 伴睦(おおの ばんぼく、本名:大野 伴睦〈おおの とも… 大野 伴睦(おおの ばんぼく、本名:大野 伴睦〈おおの ともちか〉、1890年〈明治23年〉9月20日 - 1964年〈昭和39年〉5月29日)は、日本の政治家。 典型的な党人政治家として知られ、「伴ちゃん」の愛称で親しまれた。東京市会議員を経て衆議院議員となり当選13回、衆議院議長、北海道開発庁長官、日本自由党幹事長、自民党副総裁を務めた。1955年の保守合同に際し三木武吉と協力し、自民党結成に尽力。1957年以降自民党副総裁を長く務めた。派閥の力関係を巧みに操る寝業師型の政治家とされる。 「政治は義理と人情だ」[要出典]「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」などの名言を残した。
安井 英二(やすい えいじ、1890年(明治23年)9月18… 安井 英二(やすい えいじ、1890年(明治23年)9月18日 - 1982年(昭和57年)1月9日)は、日本の内務官僚・政治家。岡山県知事・大阪府知事・文部大臣(第1次近衛内閣)・内務大臣兼厚生大臣(第2次近衛内閣)・神祇院総裁・貴族院議員などを歴任する。 判事安井重三の次男として東京に生まれる。母は小原中上家に生まれ玉置奉悦医師の養女となった芳野。宇都宮中学、愛媛県立松山中学校、一高を経て、1916年(大正5年)に東京帝国大学を卒業後、内務省に入省。1918年(大正7年)警保局事務官となり、南原繁とともに労働組合法の草案作りを行い、1923年(大正12年)から1年間ドイツで調査を行った。その後、内務大臣秘書官(大臣官房文書課長兼務)、地方局行政課長として地方自治改革にあたる。
土屋 文明(つちや ぶんめい、1890年〈明治23年〉9月1… 土屋 文明(つちや ぶんめい、1890年〈明治23年〉9月18日〈戸籍上は1月21日〉 - 1990年〈平成2年〉12月8日)は、日本の歌人・国文学者。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 東大哲学科卒。伊藤左千夫に師事し、斎藤茂吉とともに歌誌「アララギ」の編集に参加。社会化された民衆の生活の内面を表そうとする歌風で、歌集に『往還集』(1930年)、『山谷集』(1935年)など。著述に『万葉集私注』(1949~56年)などがある。 群馬県群馬郡上郊村(現・高崎市)の貧しい農家に生まれる。祖父の藤十郎は賭博で身を持ち崩し強盗団に身を投じて北海道の集治監で獄死したと伝えられており、家族は村人たちから冷たい目で見られ幼い文明にとって故郷の村は耐えがたい環境であった。
小田嶋 定吉(おだじま さだきち、1890年(明治23年)9… 小田嶋 定吉(おだじま さだきち、1890年(明治23年)9月18日 - 1972年(昭和47年)12月19日)は、日本の実業家。日本経済新聞社元社長。 岩手県和賀郡岩崎村出身(現:北上市)。1916年に早稲田大学文学部英文科卒業。万朝報で記者としての勤務を経て、日経の前身である中外商業新報社に入社した。 常務を経て、公職追放を受けた小汀利得に代わり、1947年から日本経済新聞社代表取締役を務め、翌年には社長に就任した。 共同通信社理事会長、日本短波放送社長、日本教育テレビ代表取締役などを歴任し、1951年から55年まで日本新聞協会会長を務めた。1965年に勲二等旭日重光章を受章した。 1972年12月19日肺炎のために死去。
滝沢 浜吉(たきざわ はまきち、1890年〈明治23年〉9月… 滝沢 浜吉(たきざわ はまきち、1890年〈明治23年〉9月17日 - 1960年〈昭和35年〉4月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、群馬県多野郡八幡村長。 群馬県多野郡八幡村阿久津(現・高崎市阿久津町)に生まれる。群馬県立高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)に学ぶが、郷里の水害により中退。村の田畑・家屋の復旧に尽力し、1925年(大正14年)八幡村長に選ばれ、1938年(昭和13年)まで在職した。多野郡畜産業組合長、多野郡養蚕業組合長、多野郡農会長、烏川沿岸漁業会長、群馬県馬匹組合連合会副会長、群馬県町村会副会長となる。戦後も1946年(昭和21年)群馬県農業会長となり、同年から1年間八幡村長を務めた。
清水 謙一郎(しみず けんいちろう、1890年(明治23年)… 清水 謙一郎(しみず けんいちろう、1890年(明治23年)9月17日 - 1981年(昭和56年)10月30日)は、日本の教育者、詩人である。 長野県上水内郡水内村字里穂刈(現在の長野市信州新町)の生まれ。清水勘兵衛・ちよの長男として出生。明治38年(1905年)、南佐久郡臼田教員養成所に入所。1911年(明治44年)に長野師範学校卒業。長野県の尋常高等小学校訓導に任ぜられる。その後、内地留学のため休職する。 1914年(大正3年)に早稲田大学専門部に入学するが、中途退学し、1915年(大正4年)に国学院大学師範部に入学する。学監であった杉浦重剛から教えを学ぶ。 国学院大学卒業後小学校訓導となる。
森 於菟(もり おと、1890年〈明治23年〉9月13日 -… 森 於菟(もり おと、1890年〈明治23年〉9月13日 - 1967年〈昭和42年〉12月21日)は、日本の医学者。専門は解剖学。専門書の他に、父・森鷗外の回想記と随筆を著した。 1890年9月13日に東京府で、森鷗外と最初の妻・登志子(海軍中将赤松則良の長女)との間に長男として生まれた。その直後に両親が離婚、生まれて間もない授乳期の於菟は、数え年の5歳まで本郷森川町(現・文京区本郷6丁目辺り)のタバコ屋、平野甚三方(歌人平野万里の実家)に預けられた。森家に引き取られると、支配的な祖母の峰によって厳しく育てられ、父鷗外と同じように熱心な教育を受けた。1900年に生き別れた実母が病死、1902年に父鷗外が再婚し、新しい母ができたことを喜んだが、義母の志げは於菟に冷たかった。
金 用茂(キム・ヨンム、朝鮮語: 김용무、1890年9月13… 金 用茂(キム・ヨンム、朝鮮語: 김용무、1890年9月13日または1891年 - 1951年9月12日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の政治家、法曹、弁護士。連合軍軍政期の大法院長、第2代韓国国会議員。 本貫は羅州金氏(朝鮮語版)。制憲国会議員を務めた金用鉉は弟。 現在の全羅南道務安郡夢灘面出身。中央大学法学部卒。高等文官試験司法科に合格した後は弁護士を開業し、抗日民族弁護士として無料弁論を引き受けた。1930年初に普成専門学校の委託講師として法律学の実務についての講義をした。1930年10月より東亜日報社取締役、強制廃刊までの10年間に民族言論の創達に貢献した。1935年に普成専門学校創立30周年記念事業会実行委員会常任委員、1939年に普専学会会員。
木村 チヨ(きむら チヨ、1890年(明治23年)9月12日… 木村 チヨ(きむら チヨ、1890年(明治23年)9月12日 – 1956年(昭和31年)7月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県宗像郡上西郷村(現:福津市)出身。1909年、私立技芸裁縫女学校卒。卒業後上京し政治経済研究所に勤める。結婚後は京都府相楽郡上狛町(現木津川市)に住む。 1946年の第22回衆議院議員総選挙では京都府から無所属で立候補し当選した。当選後、「福岡県立女学校卒業」という経歴が詐称であることが発覚した。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において京都2区から民主党公認で立候補したが落選した。1956年の第4回参議院議員通常選挙で京都府から無所属で立候補したが選挙中の7月2日に狭心症で死去した。
倉橋 尚(くらはし ひさし、1890年(明治23年)9月11… 倉橋 尚(くらはし ひさし、1890年(明治23年)9月11日 - 1976年(昭和51年)9月2日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1890年(明治23年)に富山市で生まれた。陸軍士官学校第24期卒業。区隊長は大島浩で、仁保進とは同じ区隊。原隊の歩兵第7連隊での勤務を経て、陸軍士官学校にて33期生の区隊長を担当。教え子に鈴木善康(のち陸軍大佐)がいる。その後は各地の配属将校を転々とし、1939年(昭和14年)8月1日に陸軍歩兵大佐進級と同時に第22師団兵器部長に着任。1940年(昭和15年)3月に歩兵第60連隊長(第13軍・第15師団・第15歩兵団)に就任し、南京の警備に任じた。
東郷 実(とうごう みのる、1890年(明治23年)9月10… 東郷 実(とうごう みのる、1890年(明治23年)9月10日 - 1962年(昭和37年)4月22日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。元帥海軍大将東郷平八郎の次男。 東京府出身。東郷平八郎・てつ夫妻の二男として生まれる。学習院中等科を経て、1912年(明治45年)7月、海軍兵学校(40期)を卒業。1913年(大正2年)12月、海軍少尉に任官し「香取」乗組となる。 1919年(大正8年)12月、「金剛」分隊長となり、「天龍」分隊長、「浦風」砲術長、「長門」「山城」「日向」の各分隊長などを経て、横須賀海兵団分隊長兼教官に就任。1925年(大正14年)12月、海軍少佐に昇進した。1927年(昭和2年)5月、「多摩」砲術長に転じ、海兵教官兼監事、「八雲」「榛名」の各運用長を歴任。
熊谷 一弥(くまがい いちや、1890年(明治23年)9月1… 熊谷 一弥(くまがい いちや、1890年(明治23年)9月10日 - 1968年(昭和43年)8月16日)は、福岡県大牟田市出身の男子テニス選手。旧漢字表記では 熊谷 一彌 と書く。 熊谷は日本テニス界の黎明期を築き、清水善造と共に日本人テニス選手の世界挑戦への道を開拓した選手のひとりである。1918年(大正7年)の全米選手権において日本人テニス選手として史上初のグランドスラムベスト4に進出した。 1920年(大正9年)のアントワープ五輪で男子シングルス、ダブルスともに銀メダルを獲得し、日本人初のオリンピックメダリストとなった。 英語文献では“Ichiya Kumagae”(イチヤ・クマガエ)と表記されることが多い。
三浦 義秋(みうら よしあき、1890年(明治23年)9月8… 三浦 義秋(みうら よしあき、1890年(明治23年)9月8日 - 1953年(昭和28年)12月23日)は、日本の外交官。駐メキシコ公使。 滋賀県出身。1916年(大正5年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、1919年(大正8年)、高等試験外交科に合格した。外務事務官、対支文化事務局事務官、アメリカ合衆国大使館三等書記官、中華民国公使館三等書記官、関東庁事務官・長官官房外事課長、上海領事、中華民国公使館二等書記官、廈門領事・台湾総督府事務官、中華民国公使館一等書記官、漢口総領事、ロンドン総領事、上海総領事、中華民国大使館参事官を歴任。1940年(昭和15年)、駐メキシコ公使に任命され、1943年(昭和18年)に退官した。
矢野 橋村(やの きょうそん、1890年(明治23年)9月8… 矢野 橋村(やの きょうそん、1890年(明治23年)9月8日 - 1965年(昭和40年)4月17日)は、日本画家。愛媛県越智郡(現今治市)出身。本名一智、別号「知道人」。晩年、日本南画院の設立に関わった。 1890年(明治23年)9月8日、愛媛県越智郡に生まれる。大阪陸軍造兵廠にて勤務中に左手首切断の負傷を負う。その後南画家を志し永松春洋へ師事し、右手一本で創作活動を行う。 1914年(大正3年)、第8回文展にて「湖山清暁」が褒章を受賞。1919年(大正8年)、直木三十五、福岡青嵐らと「大阪文化の抜本的改革を提唱する美術・文学・哲学などを文化総体として捉えた研究団体」として主潮社を結成、毎年東京と大阪で個展を開催する。
田村 剛(たむら つよし、1890年〈明治23年〉9月7日 … 田村 剛(たむら つよし、1890年〈明治23年〉9月7日 - 1979年〈昭和54年〉9月4日)は、日本の造園家・造園学者・林学者。日本の国立公園、海中公園制度の確立と発展に尽くす。岡山県生まれ。 妻は日向利兵衛の娘。国際自然保護連合名誉会員。日本自然保護協会初代理事長、日本造園学会会長など、要職を多数歴任。 倉敷市で次田家に生まれ、まもなく田村家の養子となる。兄は国文学者の次田潤。旧制岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)から第六高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学農科大学林学科に進学。高等学校時代の1911年(明治44年)、新聞社が募集していた立山登山に参加。1915年(大正4年)に大学を卒業し、2年間、明治神宮造営局で神宮内外苑の造営に携わる。
杵淵 直都(きねぶち なおと、1890年9月7日 - 196… 杵淵 直都(きねぶち なおと、1890年9月7日 - 1964年10月6日)は、日本のピアノ調律師である。 1890年、長野県埴科郡松代町(現・長野市)に生まれる。共益商社の研修生として日本楽器製造で技術を学び、NHK、宮内省、各ホールなどでコンサートチューナーとして活躍するなど、大正時代から昭和初期にかけて評価が高かったピアノ調律師の一人。 1930年に誕生した全国ピアノ技術者協会の創設時の中心人物の一人でもあり、発足時には広田米太郎、中谷孝男らと常任委員に名を連ねる。
綾部 健太郎(あやべ けんたろう、1890年〈明治23年〉9… 綾部 健太郎(あやべ けんたろう、1890年〈明治23年〉9月6日 - 1972年〈昭和47年〉3月24日)は日本の政治家。位階は正三位。勲等は勲一等。衆議院議員(7期)、衆議院議長(第53代)、運輸大臣(第29・30代)。香川県出身(出生地および選挙区は大分県)。杵築市名誉市民。 戦前は立憲政友会に所属。1939年の政友会分裂に際しては正統派(久原房之助総裁)に与した。大政翼賛会発足による政党解消後は翼賛議員同盟、翼賛政治会、大日本政治会に所属した。 終戦後の1945年11月、旧日政会系の日本進歩党結党に参加。日政会を母胎にしたとはいえ進歩党所属議員の大半は政党解消以前は立憲民政党・政友会革新派・政友会統一派に所属しており、政友会正統派に所属していた議員で進歩党結党に参加した者は綾部以外では猪野毛利栄、西川貞一、依光好秋、高畠亀太郎、中井一夫、三善信房の6名のみである。
及川 恒忠(おいかわ つねただ、1890年〈明治23年〉9月… 及川 恒忠(おいかわ つねただ、1890年〈明治23年〉9月6日 - 1959年〈昭和34年〉1月10日)は、大正・昭和の中国政治史学者・中国経済学者・翻訳家。慶応義塾大学法学部教授(後に部長)であり、私立武蔵高等工科学校(現在の東京都市大学)創立にも関わった。 本籍は岩手県花巻市だが、当時の住所であった東京市荏原郡駒沢町上鳥に生まれる。祖先には、花巻で儒学の学問所「豊水亭」を開いた及川華山(祐忠)がいる。 1908年(明治41年)3月、宮城県立仙台第二中学校を卒業、翌月に慶應義塾大学部予科第一学年に入学した。1913年(大正2年)3月に慶應義塾大学部政治科を卒業、翌月、そのまま同大学の助手となった。
永野 護(ながの まもる、1890年9月5日 - 1970年… 永野 護(ながの まもる、1890年9月5日 - 1970年1月3日)は、日本の実業家、政治家。位階は正三位。 運輸大臣、衆議院議員(2期)、参議院議員(2期)を歴任。戦後揃って政経財界で活躍した「永野六兄弟」の長兄。 瀬戸内海、広島県下蒲刈島三之瀬、浄土真宗本願寺派の弘願寺が本家に当たる。父・法城は寺を継ぐことを嫌い、裁判官となって中国地方の裁判所を転々とするが、最初の赴任地、現在の島根県浜田市で生まれたのが護である。その後、松江市で生まれたのが永野重雄(のち新日本製鐵会長、日本商工会議所会頭)、現在の山口県岩国市で生まれたのが永野俊雄(のち五洋建設会長)、現在の山口市で生まれたのが伍堂輝雄(のち日本航空会長)。
赤司 貫一(あかし かんいち、1890年9月3日 - 195… 赤司 貫一(あかし かんいち、1890年9月3日 - 1954年8月22日)は、日本の都市計画家、土木技師。 福岡県生まれ。1919年京都帝国大学工学部土木工学科卒業。在学中の1917年9月から1919年7月まで、京都市の私立京都商工学校土木科で講師を務める。 その後三井鉱山を経て、1922年から1926年まで埋築技師として熊本県海面埋築事務所勤務。県営新地の干拓事業に従事。 1926年(大正15年)から内務省に転じ、1936年(昭和11年)まで、都市計画地方委員会富山地方委員会技師。1931年から富山県都市計画課技師を兼任、1928年に決定された富山市都市計画立案と施行の責任者となる。 主な実績に、東岩瀬港から富山駅北までの富岩運河開削で掘ったときの土砂で神通川の廃川地埋立て、廃川地処分を運河新設と同時に行う新市街地造成計画立案など。
川村 松助(かわむら まつすけ、1890年(明治23年)9月… 川村 松助(かわむら まつすけ、1890年(明治23年)9月1日 - 1961年(昭和36年)6月28日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員(2期)。吉田派。 岩手県紫波郡徳田村(現・矢巾町)に川徳創業者の川村徳松の息子に生まれる。岩手県立盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)卒。陸軍に入り、除隊後盛岡に松屋百貨店(現存せず)を創業する。盛岡市会議員、盛岡商工会議所会頭、花巻温泉、花巻電鉄の各社長となる。このほか東北六県織物商業組合理事長、全日本繊維商業協同組合、盛岡観光協会、岩手県貿易振興協会各会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月第1回参議院議員通常選挙岩手県選挙区から無所属で出馬、落選。
井上 庚二郎(いのうえ こうじろう、1890年(明治23年)… 井上 庚二郎(いのうえ こうじろう、1890年(明治23年)8月30日 - 1969年(昭和44年)11月13日)は、日本の外交官。駐ハンガリー公使。海軍司政長官。 井上喜代松の二男。神奈川県出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。外交官補、領事官補、イギリス大使館三等書記官、外務事務官・亜細亜局第三課勤務、廈門領事・台湾総督府事務官、ポーランド領事、シドニー総領事、外務書記官・商工書記官・通商局第一課長、ドイツ大使館参事官、外務省欧亜局長を歴任した。1939年(昭和14年)、駐ハンガリー公使に就任した。その後、外務省職員訓練所長を経て、1942年(昭和17年)から1944年10月まで海軍司政長官・ボルネオ民政部長官を務めた。
寺尾 進(てらお すすむ、1890年(明治23年)8月30日… 寺尾 進(てらお すすむ、1890年(明治23年)8月30日 - 1958年(昭和33年)11月21日)は、日本の商工官僚。実業家。
田中 亮一(たなか りょういち、1890年(明治23年)8月… 田中 亮一(たなか りょういち、1890年(明治23年)8月29日 - 1945年(昭和20年)12月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)、佐賀県神埼郡千歳村(のち千代田村→千代田町、現・神埼市)長。 佐賀県出身。1915年早稲田大学政治経済科卒。卒業後は佐賀県に戻り農業を営む傍ら千歳村長、同農会長、神埼郡会議員、同農会長、佐賀県会議員、同参事会員、肥前麺業(株)社長、肥筑軌道取締役などを経て、1928年の第16回衆議院議員総選挙で立憲政友会公認で立候補して初当選。1930年の第17回衆議院議員総選挙で落選したが、1932年の第18回衆議院議員総選挙で復帰して以来4回連続当選した。1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では非推薦で立候補して当選した。
阿部 賢一(あべ けんいち、1890年(明治23年)8月28… 阿部 賢一(あべ けんいち、1890年(明治23年)8月28日 - 1983年(昭和58年)7月26日)は、日本の経済学者・ジャーナリスト。第8代早稲田大学総長。 徳島県板野郡大山村大字神宅村(現在の上板町)生まれ。1903年(明治36年)から1908年(明治41年)までの5年間を同志社普通学校で学ぶ。同窓には湯浅八郎がいた。同志社を出た後早稲田大学大学部政治経済学科に進学。1912年(明治45年)同学科を首席卒業。同年専門学校令により設立された同志社大学に講師として赴任し、さらに1916年から2年間アメリカに留学する。 1922年、田中穂積に請われて早稲田大学に移籍。立教大学商学部(現・経済学部、経営学部)教授も務め、財政学を講じた。
稲田 昌植(いなだ まさたね、1890年(明治23年)8月2… 稲田 昌植(いなだ まさたね、1890年(明治23年)8月28日 - 1968年(昭和43年)11月28日)は、大正時代から昭和時代の農学者、政治家。稲田家17代当主。男爵。北海道帝国大学初代総長佐藤昌介の子で、稲田家16代当主稲田邦植の養子。妻は有馬頼寧の次女久米。
杉村 沖治郎(すぎむら おきじろう、1890年〈明治23年〉… 杉村 沖治郎(すぎむら おきじろう、1890年〈明治23年〉8月25日 - 1955年〈昭和30年〉10月17日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員。 埼玉県賀美郡丹荘村元阿保(現:児玉郡神川町)で、杉村権治郎、トラ夫妻の五男として生まれる。1922年(大正11年)、日本大学法律科を卒業し弁護士となり、人権擁護、労働問題を中心に活動した。 司法行政中央監察委員会委員、労働者災害補償審査委員会委員、労働者災害保険審査委員会委員、東京地方裁判所調停委員、東京弁護士会常議員、日本弁護士協会理事、人権擁護委員会委員長などを歴任。 1929年(昭和4年)、四谷区会議員に当選した。戦後、日本社会党埼玉県連合会の結成に加わり副委員長となり、1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で埼玉県第3区から出馬したが落選。
植村 環(うえむら たまき、1890年8月24日 - 198… 植村 環(うえむら たまき、1890年8月24日 - 1982年5月26日)は、日本で2番目の女性の牧師で、婦人運動家である。戦後再建された日本キリスト教会の指導者でもある。 1890年(明治23年)、日本基督教会の指導者植村正久・季野夫妻の三女として、東京市麹町区で生まれる。クリスチャン実業家渡辺荘の長女渡辺貞子と1年近く早天祈祷を続け、1905年(明治38年)に富士見町教会で正久より洗礼を受けた。1910年に女子学院専門部を卒業し、1911年に医師になるために渡米した。途中で哲学に転向し、1915年(大正4年)6月にウェルズリー大学を卒業して帰国した。帰国後は津田英学塾、女子学院の教師をつとめた。
河井 寛次郎(かわい かんじろう、1890年(明治23年)8… 河井 寛次郎(かわい かんじろう、1890年(明治23年)8月24日 - 1966年(昭和41年)11月18日)は、日本の陶芸家。陶芸のほか、彫刻、デザイン、書、詩、詞、随筆などの分野でも作品を残している。河井 寬次郎とも表記される。 当時の島根県安来町(現在の安来市)の大工の家に生まれる。旧制島根県立松江中学校(現・島根県立松江北高等学校)を経て1910年、東京高等工業学校(現東京科学大学)窯業科へ入学する。寛次郎には師と仰ぐ者がなく、師弟関係を重んじる陶工の世界にあって、学校という教育機関にて指導を受けた新しい世代の陶工となる。東京高等工業学校では、陶芸家の板谷波山の指導を受けたほか、窯業の科学的研究を行った。
小林 清貞(こばやし きよさだ、1890年8月24日 - 1… 小林 清貞(こばやし きよさだ、1890年8月24日 - 1968年4月21日)は、日本の学者、弁護士。元東京外国語学校教授、正四位・勲四等・独法学者。旧姓加藤。 愛知県立第一中学校、第八高等学校を経て1917年(大正6年)3月 東京帝国大学卒業。卒業後、朝鮮総督府検事補となる。 1922年(大正11年)2月に朝鮮総督府検事退官し、従四位勲四等を贈られる。同年3月に名古屋地方検事局弁護士名簿登録される。 東京外国語学校教授となったあと、1923年(大正12年)9月に名古屋三大商家・桑名屋の娘である小林初子と結婚し、小林家に入婿した。 1925年(大正14年)6月1日から1927年(昭和2年)12月15日の間、ドイツやアメリカに留学した。
河野 節夫(こうの せつお、1890年(明治23年)8月21… 河野 節夫(こうの せつお、1890年(明治23年)8月21日 - 1940年(昭和15年)1月3日)は、朝鮮総督府官僚。 広島県沼隈郡田島村(現在の福山市)出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。朝鮮総督府試補、事務官、忠清北道第一部地方課長・審査課長、警察官教習所教授、江原道警察部長、全羅北道警察部長、慶尚北道警察部長、臨時国勢調査課長、黄海道内務部長、平安南道内務部長を歴任した。 退官後、朝鮮金融組合理事・事業部長、朝鮮石炭組合聯合会理事長を務めた。 1940年(昭和15年)1月3日、病気療養中に死去、49歳。
三浦幸平(みうら こうへい、1890年(明治23年)8月19… 三浦幸平(みうら こうへい、1890年(明治23年)8月19日 – 1975年(昭和50年)6月7日)は、日本の教育者。教育功労者。従四位旭日中綬賞。妻は山田橋衛の長女愛子。 東京物理学校(現・東京理科大学)理化学科を首席で卒業。愛知県立第一中学校(現旭丘高校)の嘱託教員、名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)の助教授を経て、1938年に工業技術教育を実現するため名古屋第一工学校を創立。1945年に名古屋大空襲により名古屋第一工学校が全焼。1950年愛知常磐女子高等学校と合併し常磐高等学校を設立し校長兼財団法人常磐学園理事長となる。1951年に学校法人三浦学園に名称変更。1964年に中部工業大学(現中部大学)を設立し学長に就任。
富井 周(とみい しゅう、1890年(明治23年)8月17日… 富井 周(とみい しゅう、1890年(明治23年)8月17日 - 1959年(昭和34年)1月23日)は、日本の外交官。駐カナダ公使、駐アルゼンチン大使。男爵。
鷹野 つぎ(たかの つぎ、女性、1890年(明治23年)8月… 鷹野 つぎ(たかの つぎ、女性、1890年(明治23年)8月15日 - 1943年(昭和18年)3月19日)は、大正・昭和時代の小説家。本名は次(読み同じ)、旧姓は岸。 1890年(明治23年)8月15日、静岡県浜名郡浜松町下垂19番地(現・浜松市中央区尾張町)にて、父・岸彌助と母・なをの間に、次女として生れる。家は燈油などを売る、中流の商家であった。長兄の信太郎、次兄の梅三郎、姉の重がおり、後に三女の留子、四女のたか、五女の艶子が生れた。祖父は有徳と号して俳句や歌を嗜み、祖母は浜松藩の殿中で姫に仕えていた人物であった。 1897年(明治30年)、浜松町立尋常高等小学校に入学。つぎは幼い時から手帳へ鉛筆で絵を描くことが好きで、小学校へ上ってからは、短い作文の下書きを幾通りも書いていたが、「そのうちに先生には見せないで、虫のことや雨ふりのことや、おつかひに行くのがいやな日のことを、書いてみたりするやうになつた」という。
大屋 霊城(おおや れいじょう、1890年8月15日 - 1… 大屋 霊城(おおや れいじょう、1890年8月15日 - 1934年6月10日)は、日本の造園家・都市計画家。都市における公園および緑地の計画に多くたずさわったほか、大阪・藤井寺の宅地開発、都市生活の研究、児童の遊び場および公園遊具の研究でも知られる。 1890年(明治23年)福岡県柳川市出身。養福寺住職の三男として生まれる。長兄は、仏教学の分野で旧仏教、新仏教の呼称を定着させた大谷大学の仏教学者大屋徳城。1909年(明治42年)に第五高等学校 (旧制)に進学、農学を志す。1915年(大正4年)に東京帝国大学農科大学農学科卒業、明治神宮造営局に奉職。同年、大阪府史蹟名勝天然記念物調査委員。 1917年(大正6年)、大阪府立農学校(旧大阪府立大学生命環境科学域・大学院生命環境科学研究科、現大阪公立大学農学部・大学院農学研究科)の教諭に赴任する。
林 五一(はやし ごいち、1890年8月15日 - 1992… 林 五一(はやし ごいち、1890年8月15日 - 1992年3月7日)は、日本の篤農家、実業家。「五一わいん」で知られる林農園創業者。長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)生まれ。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
江原 万里(江原 萬里 えばら ばんり、1890年(明治23… 江原 万里(江原 萬里 えばら ばんり、1890年(明治23年)8月14日 - 1933年(昭和8年)8月7日)は、東京帝国大学教授、新渡戸稲造及び内村鑑三の門下生で無教会伝道者であった。 岡山県北部の津山に生まれる。父は津山藩士、母方の祖父は赤穂藩士であった。 第一高等学校に在学中、無教会派の伝道者でもあった内村鑑三の講義を聞き、キリスト教に入信する。東京帝国大学政治学科に在学中に、内村鑑三の弟子らによる集まりである柏会に参加する。帝大卒業後1915年(大正4年)に、住友総本店に入社する。1918年(大正7年)に、柏会での友人黒崎幸吉(聖書学者)の妹・黒崎祝と結婚する。 1921年(大正10年)に住友を退職して、東京帝国大学経済学部教授になる。
山田 清(やまだ きよし、1890年(明治23年)8月14日… 山田 清(やまだ きよし、1890年(明治23年)8月14日 - 1942年(昭和17年)12月28日)は、日本の政治家、医師。衆議院議員(立憲民政党)を務めた。 千葉県市原郡高滝村(現在の市原市)出身。1915年(大正4年)、東京慈恵会医院医学専門学校(現在の東京慈恵会医科大学)を卒業し、山田病院を開業した。東京市会議員、同参事会員、東京府会議員を歴任した。 1937年(昭和12年)、第20回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第21回衆議院議員総選挙でも再選された。 その他、日本医師会顧問、東京タクシー運送事業組合顧問、全国自動車業連合会長を務めた。
岩木山 孫平(いわきやま まごへい、1890年8月13日 -… 岩木山 孫平(いわきやま まごへい、1890年8月13日 - 1934年6月25日)は、現在の栃木県宇都宮市出身(出生地は福島県白河市)で清見潟部屋に所属した大相撲力士。本名は横越 孫平(旧姓兼子)。7代清見潟。171cm、87kg。最高位は東前頭6枚目。 1906年1月初土俵、1910年6月新十両昇進。一時幕下に陥落していたが、1912年1月に十両に復帰した後、1915年1月に十両優勝を記録し、1915年6月に新入幕。土俵度胸が良く、立ち合いからの駆け引きもうまく、上突っ張りから右四つ、寄りの速い取り口を得意とした。いつもニコニコして、力士仲間からは「孫さん」と言われ親しまれた。二枚鑑札となった1920年5月に引退し、その後は木戸部長を務めて1930年に廃業した。