井口 貞夫(いぐち さだお、1899年10月18日 - 19… 井口 貞夫(いぐち さだお、1899年10月18日 - 1980年5月27日)は、日本の外交官。外務事務次官や在アメリカ合衆国特命全権大使を務めた。1969年勲一等瑞宝章。1980年正三位。 和歌山県生まれ。旧制徳義中学校、旧制和歌山中学校(のち和歌山県立桐蔭高等学校)を経て、旧制東京商科大学(一橋大学の前身)入学。 1921年に高等試験外交科試験合格し、1922年大学を中退し外務省入省。入省同期や前後期に田尻愛義、安東義良、西村熊雄らがいる。オックスフォード大学留学等を経て、1940年在アメリカ合衆国日本大使館一等書記官、1941年同大使館参事官、1942年太平洋戦争開戦に伴い交換船で帰国。 情報局情報官を経て、1943年情報局第三部長。
宮嵜 俊男(みやざき としお、1899年(明治32年)10月… 宮嵜 俊男(みやざき としお、1899年(明治32年)10月18日 - 1965年(昭和40年)4月7日)は、日本の海軍軍人。米駐在時代に情報活動に従事し、米国官憲に摘発され国外追放処分を受ける。太平洋戦争中、連合艦隊先任参謀に擬せられるが、山本五十六の戦死により実現しなかった。最終階級は海軍大佐。
阪本 勝(さかもと まさる、1899年(明治32年)10月1… 阪本 勝(さかもと まさる、1899年(明治32年)10月15日 - 1975年(昭和50年)3月22日)は、大正・昭和期日本の政治家、戯曲作家、美術評論家。衆議院議員(1期)、兵庫県知事(2期)を歴任。 1899年(明治32年)、兵庫県川辺郡尼崎町(現在の尼崎市)で眼科医の家に生まれる。家は尼崎藩の藩医の家柄であった。北野中学校・第二高等学校を経て1922年に東京帝国大学経済学部を卒業、学生時代は新人会(前期新人会)に属した。北野中学時代の同級生には、後に洋画家となった佐伯祐三がいた。 卒業後は福島県立福島中学校の英語教諭や大阪毎日新聞学芸部記者などを務めたが、水平社運動との関わりなどで1926年(大正15年)3月に大阪毎日新聞を辞し、1927年(昭和2年)に関西学院大学の講師となった。
町野 碩夫(まちの せきお、1899年10月15日 - 19… 町野 碩夫(まちの せきお、1899年10月15日 - 1971年2月6日)は、日本の産婦人科学者、鹿児島大学長。 山口県下関市豊田町大河内百合野出身。三豊小学校、旧制豊浦中学校、山口高等学校を経て九州帝国大学医学部卒業。1934年九州大学医学博士。論文の題は「子宮筋腫に対する硬レ線作用の臨床的並に組織化学的研究」 九州帝国大学助教授、鹿児島県立病院産婦人科部長を経て、1943年鹿児島医専教授。県立鹿児島医科大学創立と同大の国立移管につくした。1951年-55年県立鹿児島医科大学学長・医学部長。1968年-1969年鹿児島大学長。正心女子短期大学学長も務めた。
吉岡 範武(よしおか のりたけ、1899年10月15日 - … 吉岡 範武(よしおか のりたけ、1899年10月15日 - 1969年7月15日)は、日本の外交官。初代駐カンボジア特命全権大使。 熊本県熊本市出身。府立第四中学校(現東京都立戸山高等学校)、第三高等学校を経て、1923年東京帝国大学法学部政治学科卒業。1936年在中華民国大使館二等書記官。1940年外務省調査部第六課長。1945年在フランス大使館参事官。 同年から外務大臣官房儀典課長事務取扱を務め、帝国ホテルの犬丸徹三と相談し、連合国軍占領下の日本における連合軍将官宿舎の選定を進めた。 1946年終戦連絡京都事務局長。1948年京都連絡調整事務局長。1953年外務省参与。1954年駐カンボディア特命全権公使。
谷口 善太郎(たにぐち ぜんたろう、1899年10月15日 … 谷口 善太郎(たにぐち ぜんたろう、1899年10月15日 - 1974年6月8日)は、日本の小説家、政治家である。衆議院議員(6期)。小説家としては、ペンネームの須井一(すい はじめ)・加賀耿二(かが こうじ)で知られることも多い。愛称は「谷善(たにぜん)」。 石川県能美郡国造村和気(現在の石川県能美市和気町)出身。和気高等小学校卒業後、村の読書サークルに参加、谷口夢草の名前で短歌をつくる。その後上京、その後には京都で清水焼の労働をしながら労働運動に従事する。1928年の三・一五事件で検挙され、外出や執筆をしないという条件で仮釈放された。 しかし、1931年、東京から訪れた貴司山治のすすめにより、『須井一』のペンネームで執筆した「綿」が評判になる。
村井 満寿(むらい ます、1899年〈明治32年〉10月13… 村井 満寿(むらい ます、1899年〈明治32年〉10月13日 - 1988年〈昭和63年〉9月7日)は、日本のアルト歌手。北海道札幌市の札幌市時計台を題材とした楽曲「時計台の鐘」の歌い手として知られる。同曲の作曲者である高階哲夫は1人目の夫。2人目の夫はバリトン歌手にして日本初の腹話術師でもある澄川久(本名:村井武雄)であり、後夫との子にクラリネット奏者の村井祐児がいる。納豆の研究で知られる農学者の半澤洵は母方の叔父にあたる。 北海道札幌区(後の札幌市)で誕生した。旧姓は相沢。幼少時に、教会の宣教師の賛美歌に感銘を受けて、音楽の道を志した。また自宅の窓からは時計台が針まではっきりと見え、時計台に馴染んで少女期を送った。
松村 知勝(まつむら ともかつ、1899年(明治32年)10… 松村 知勝(まつむら ともかつ、1899年(明治32年)10月13日 - 1979年(昭和54年)5月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
東久世 通忠(ひがしくぜ みちただ、1899年(明治32年)… 東久世 通忠(ひがしくぜ みちただ、1899年(明治32年)10月13日 - 1962年(昭和37年)11月10日)は、日本の実業家、教育者、華族。貴族院伯爵議員。 伯爵・東久世通敏の長男として生まれる。父の死去に伴い1944年(昭和19年)8月15日、伯爵を襲爵した。1926年、早稲田大学政治経済学部を卒業した。 帝国在郷軍人会渋谷町分会評議員、同麻布支部参事、小西六日野分工場長、同社取締役、同社青年学校長、東京写真工業専門学校長、淀橋工場協会会長などを務めた。 1946年(昭和21年)5月9日、貴族院伯爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
佐藤一英(さとう いちえい、1899年(明治32年)10月1… 佐藤一英(さとう いちえい、1899年(明治32年)10月13日 - 1979年(昭和54年)8月24日)は、日本の詩人。 愛知県中島郡祖父江町に生まれ、萩原町高松(現・一宮市)に育つ。萩原尋常高等小学校卒業。愛知第一師範学校中退、早稲田大学英語科中退。「青騎士」など、いくつかの雑誌を主宰、編集。1931年から1932年に発行した『児童文学』は、宮沢賢治が童話「北守将軍と三人兄弟の医者」「グスコーブドリの伝記」を発表したことで知られる。木曽川高校をはじめ、郷里の小・中学校、高等学校の校歌の作詞も手掛けている。 1939年、『空海頌』で第1回詩人懇話会賞を受賞。1979年、民間人として最初の一宮市政功労者となった。
千島 喜久男(ちしま きくお、1899年10月10日 - 1… 千島 喜久男(ちしま きくお、1899年10月10日 - 1978年10月23日)は、日本の生物学者。医学博士。 岐阜県吉城郡上宝村(現・高山市)出身。盛岡高等農林学校獣医科卒。岐阜大学農学部教授(1953年就任、1963年退官)。正五位勲三等瑞宝章。 1963年から自らが「革新的医学・生物学理論」と称する「千島学説」を提唱して、「新生命医学会」を設立、普及活動を行った。 千島の発表論文は、例えば慶應義塾大学解剖学教室のOkajimas Folia Anatomica Japonicaなどに査読を経て掲載されている。 しかし千島学説の検証については、査読のある論文で千島学説を支持するものはない。
水野 良平(みずの りょうへい、 1899年10月9日 - … 水野 良平(みずの りょうへい、 1899年10月9日 - 1978年8月22日)は、日本の天文技官、プラネタリウム解説者、伝道者、教育者。 東京天文台報時課長などを経て天文博物館五島プラネタリウム学芸課長(初代)に就任し、天文の普及に尽力した。筆名に「光川ひさし」がある。日本天文学会終身会員。ほがらかで温厚な人柄で知られた。 1899年10月19日、神奈川県横須賀市に生まれる。父は海軍の軍人であった。のちに東京に移住し、主に麻布飯倉片町で育った。 1912年3月、麻布小学校を卒業(12歳)。1917年3月18日、麻布メソジスト教会(鳥居坂教会)で倉長巍牧師から受洗(17歳)。幼少のころから日曜学校に通っていた。
牛山 清人(うしやま きよと、1899年10月8日 - 19… 牛山 清人(うしやま きよと、1899年10月8日 - 1991年9月2日)は、日本の実業家。美容室、化粧品、美容学校などで知られるハリウッド (企業)グループの創業者。 長野県諏訪市豊田小川の長野県士族牛山克躬・さわの夫婦の長男として生まれる。生まれてすぐ母親を亡くし、旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を卒業後、1917年(大正6年)に父をたよって単身渡米、ハリウッド・ハイスクール卒業。ハリウッドで早川雪洲の弟子として働くも俳優としては芽が出ず、メイキャップ担当に転身。 滞米中に初代メイ牛山(牛山春子)と結婚し、1924年に帰国し妻とともに神田三崎町に美容室を開店、宣教師ポール・ラッシュの支援で開いた軽井沢店の成功で軌道に乗り、夫婦で銀座にハリウッド美容室、京橋に美容学校のハリウッド美容研究室(ハリウッド美容講習所)を開設。
近藤 綸二(こんどう りんじ、1899年10月8日 - 19… 近藤 綸二(こんどう りんじ、1899年10月8日 - 1982年4月12日)は、日本の弁護士、裁判官。東京高等裁判所長官などを務めた。 東京市生まれ。父は駿河台病院の創立者として知られる近藤次繁であった。兄弟には作家の近藤経一や東京女子医科大学教授の近藤台五郎がいる。1923年に東京帝国大学法学部を卒業した。 1924年に弁護士登録をし、原嘉道の事務所に入った後にフランスへ2年ほど留学した。帰国後は、有馬忠三郎の事務所に入ったが、後に独立し、帝人事件の弁護なども担当した。この間、1947年に、第一東京弁護士会の副会長となり、司法修習制度と弁護士法制定をめぐってGHQと折衝を重ねた。同年には、海野普吉らとともに自由人権協会を創設し、以降、専務理事や副理事長などを務めた。
石井 謙三(いしい けんぞう、1899年(明治32年)10月… 石井 謙三(いしい けんぞう、1899年(明治32年)10月7日 - 没年不明)は、日本の政治家。広島県松永市(現・福山市)長(2期)。 広島県松永町(のち松永市、現・福山市)出身。1918年(大正7年)旧制広島県立福山中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)卒業。旧制第六高等学校を経て、1925年(大正14年)東京帝国大学文学部英文学科卒業。翌年広陵中学校(現・広陵高等学校)教諭を経て、熊本県立中学済々黌(現・熊本県立済々黌高等学校)教諭、1929年(昭和4年)佐賀県立武雄中学校(現・佐賀県立武雄青陵中学校・武雄高等学校)、同佐賀中学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)、山口県立豊浦中学校(現・山口県立豊浦高等学校)各教諭を経て、1942年(昭和17年)山口県立萩中学校(現・山口県立萩高等学校)校長となる。
古野 清人(ふるの きよと、1899年10月6日 - 197… 古野 清人(ふるの きよと、1899年10月6日 - 1979年3月1日)は、日本の宗教社会学者。 1899年、福岡県生まれ。1921年(大正10年)3月、第三高等学校卒業。1926年、東京帝国大学文学部宗教学科を卒業。卒業後は、1928年11月から翌2月まで東京帝国大学付属図書館嘱託となる。1929年3月からは帝国学士院事務嘱託として勤務していたが、1940年10月に南満州鉄道東亜経済調査局嘱託となる。1943年1月18日に勅令第20号「民族研究所官制」によって民族研究所が文部省傘下の研究施設として設立されると移籍し、第3部(中部・西部アジア)・第5部部長(東南アジア・インド太平洋圏)を兼任した。
兎束 武雄(うづか たけお、1899年(明治32年)10月6… 兎束 武雄(うづか たけお、1899年(明治32年)10月6日 - 1969年(昭和44年)9月18日)日本の音楽家、教育者。バイオリニストで元東京芸術大学教授の兎束龍夫は実弟。 長野県上田市松尾町の銀行家兎束鐘一郎の長男として生まれる。1912年(大正元年)3月上田尋常小学校卒業。1919年(大正8年)3月旧制東京芝高輪中学校卒業、4月旧制青山学院入学。在学中に東京楽器研究所入所(山田耕筰主宰)セロ科3年修了。その後も山田耕筰のもとで学ぶ。東洋音楽学校(現東京音楽大学)中退。 1921年(大正10年)志願兵として高田輜重大隊入隊。1922年(大正11年)関東大震災で山田耕筰のオーケストラが解散となり上田へ帰郷。
林田 哲雄(はやしだ てつお、1899年(明治32年)10月… 林田 哲雄(はやしだ てつお、1899年(明治32年)10月6日 ‐ 1958年(昭和33年)2月14日) は、大正から昭和期の農民運動家・政治家。衆議院議員。 愛媛県周桑郡小松村新屋敷(小松町新屋敷を経て現西条市小松町新屋敷)で、明勝寺住職・林田孝純の二男として生まれた。幼くして父が死去し母に養育された。小松小学校、西条中学校(現愛媛県立西条高等学校)を経て大谷大学に進学。1922年(大正11年)全国水平社創立大会に参加し、大学を中退して帰郷し水平運動を起こした。 1922年設立の日本農民組合に1923年(大正12年)に加わり農民運動を推進し、1925年(大正14年)別子銅山大争議を支援した。
国会図書館(学術機関ポジトリデータベース) 杉平 顗智(すぎ… 国会図書館(学術機関ポジトリデータベース) 杉平 顗智(すぎひら しずとし、1899年(明治32年)10月5日 - 1984年(昭和59年)5月1日) 1899年(明治32年)10月5日 山梨県東山梨郡等々力村1582番地にて出生、父は了英、母はます。1984年(昭和59年)5月1日 山梨県東八代郡一宮町の病院にて85歳で死去。 京都大谷大学にて英文学など教える(英文学) 名古屋同朋大学(英文学) 1899年(明治32年)、山梨県勝沼町真宗大谷派仙光寺にて出生。 大正10年(真宗大谷大学専修科1年)の時 初秋 鈴木大拙博士に師事 1923年(大正12年)、大谷大学卒業。 1927年(昭和2年)、東京大学文学部英文科卒業。
山口 華楊(やまぐち かよう、1899年〈明治32年〉10月… 山口 華楊(やまぐち かよう、1899年〈明治32年〉10月3日 - 1984年〈昭和59年〉3月16日)は、山口華楊は日本画家。早くから動物画・花鳥画で知られ、戦後の京都画壇で中心人物の一人となった。 山口は1899年(明治32年)に京都市中京区で本名・米次郎として生まれた。父(安之助)は江戸時代からつづく友禅染めの彩色職人で、母親(なを)は京都市内で成功した絵具屋の娘だった。幼いころから絵を描くことを好み、5歳上の兄・松之助も後に玲熙(れいき)と号して菊池芳文に支持、帝展に入選を果たしている。 山口は1912年(明治45年)に京都市立格致尋常小学校を卒業すると、当時の日本画壇の大家だった西村五雲の画塾に入門する。
黛 治夫(まゆずみ はるお、1899年10月2日 - 199… 黛 治夫(まゆずみ はるお、1899年10月2日 - 1992年10月29日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。ビハール号事件におけるBC級戦犯として禁錮刑に処された。 1899年10月2日、群馬県北甘楽郡富岡町(現富岡市)で、養蚕製糸業を営む父・治良と母・かよの長男として生れる。姉・邦子は後に内田市太郎(最終階級は海軍大佐)と結婚している。富岡中学校、横浜一中を経て、1919年10月、海軍兵学校(47期)を卒業し、少尉候補生として練習航海に出発。1920年8月1日、海軍少尉に任官。1925年11月、海軍砲術学校高等科を卒業、「伊勢」分隊長となる。1926年11月、海軍砲術学校教官兼分隊長に任命。
松本 重治(まつもと しげはる、1899年〈明治32年〉10… 松本 重治(まつもと しげはる、1899年〈明治32年〉10月2日 - 1989年〈平成元年〉1月10日)は、日本のジャーナリスト。財団法人「国際文化会館」(東京都港区六本木)の専務理事。理事長。アメリカ学会の会長。
川口 松太郎(かわぐち まつたろう、1899年(明治32年)… 川口 松太郎(かわぐち まつたろう、1899年(明治32年)10月1日 - 1985年(昭和60年)6月9日)は、日本の小説家、劇作家。本名を松田松一とする資料もある。東京市浅草区生まれ。芸道物、明治物、時代物、現代風俗物と広く執筆。巧みな筋立てと独自の話術で庶民情緒を描いた大衆小説で多くの読者を獲得した。また、松田昌一の名で映画・演劇脚本も手がけ、大映専務などを務めた。特に、新生新派の主事として自作小説の脚色や演出を担当、昭和期の新派に欠かせない人気作家となり、作品の多くは新派の代表的演目となった。第1回直木賞受賞者で、映画化され大流行した『愛染かつら』の作者としても知られる。芸術院会員。文化功労者。
野口 弥太郎(のぐち やたろう、野口 彌太郎、1899年10… 野口 弥太郎(のぐち やたろう、野口 彌太郎、1899年10月1日 - 1976年3月23日)は、日本の洋画家、日本芸術院会員。 東京本郷区生まれ。その後朝鮮の仁川、東京、長崎県諫早市、神戸と移り住む。1920年、関西学院中学部卒後、川端画塾に学び、1922年、二科展で初入選。1926年、「一九三〇年協会」会員となる。1929年、フランスに渡り、サロン・ドートンヌに出品。1933年、帰国、独立美術協会会員となる。戦後、1949年から日本大学芸術学部教授。以後独立展に出品を続け、1962年、国際形象展同人。1964年、「セビラの行列」で毎日芸術賞受賞、1970年、日大を辞める。1972年、紺綬褒章受章。
佐方 繁木(さかた しげき、1899年(明治32年)10月1… 佐方 繁木(さかた しげき、1899年(明治32年)10月1日 - 1954年(昭和29年)4月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 熊本県出身。熊本中学校(現熊本県立熊本高等学校)卒業を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第19連隊付となる。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業した。 1929年(昭和4年)8月、騎兵大尉に昇進し騎兵第23連隊中隊長に就任。1930年(昭和5年)8月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員)、参謀本部員を務め、1935年(昭和10年)8月、騎兵少佐に進級。
安部 三代治(あべ みよじ、1899年〈明治32年〉10月1… 安部 三代治(あべ みよじ、1899年〈明治32年〉10月1日 - 1973年〈昭和48年〉)は、日本の俳人、実業家。号は東水。 鳥取県西伯郡車尾村(現・米子市車尾)出身。安部亀次郎の三男。1914年、高等小学校を卒業し、坂口平兵衛本店に勤務する。1920年、坂口合名会社に入社し、理事・支配人となる。 島根水産、三光冷蔵、米子交通各社長、坂口木材、山陰石油、日ノ丸総本社、日ノ丸自動車、大同木材工業、山陰スバル各取締役、米子電車軌道、米子林産各監査役、鳥取県経営者協会副会長、鳥取県地方労働委員会委員、米子市危険物保安協会会長などをつとめた。 趣味は読書、旅行、俳句。宗教は曹洞宗。住所は米子市久米町。
大島 新一(おおしま しんいち 1899年(明治32年)10… 大島 新一(おおしま しんいち 1899年(明治32年)10月1日 - 1979年(昭和54年)9月25日)は日本の政治家。石川県会議員(3期) 1899年10月鳳至郡櫛比村に生まれた。1914年3月櫛比尋常高等小学校高等科を卒業後、1915年1月輪島区裁判所門前出張所所属になり、1919年1月金沢地方裁判所所属の司法書士となった。1925年5月櫛比村会議員選挙に当選。1931年9月立憲民政党に属して石川県会議員選挙に当選、1935年再選され参事会員に選任されていた。1941年11月には副議長となった。副議長には1946年までつとめ県会議員としては1947年までその任にあたった。この間、1941年6月より門前町長として町政をとり1942年10月からは門前花業会長でもあった。
根岸 東一郎(ねぎし とういちろう、1899年〈明治32年〉… 根岸 東一郎(ねぎし とういちろう、1899年〈明治32年〉10月 - 1970年〈昭和45年〉)は、日本の元俳優、元映画監督、元脚本家である。本名同じ。 1899年(明治35年)10月、群馬県前橋市紅雲町に生まれる。 1917年(大正6年)旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒。明治学院から早稲田大学商学部へ進学して、卒業後は新劇団金星座に入り初舞台を踏む。1925年(大正14年)2月、日活京都撮影所に入社。同年、同撮影所第二部で製作された村田実・三枝源次郎共同監督による現代劇のサイレント映画『法を慕ふ女』に出演して映画デビューした。同社では現代劇俳優であった。 1928年(昭和3年)4月、マキノ・プロダクションに移籍。
引田 重夫(ひきた しげお、1899年(明治32年)10月 … 引田 重夫(ひきた しげお、1899年(明治32年)10月 - 没年不詳)は、日本の内務・厚生官僚。最後の官選岩手県知事。 北海道出身。引田楳太郎の二男として生まれる。第一高等学校を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し大分県属となる。 以後、大分県速見郡長、同県社会課長、秋田県学務課長、同地方課長、福島県地方課長、同庶務課長、京都府庶務課長、宮崎県経済部長、厚生省職業部紹介課長、同業務課長、同職業局総務課長、長野県内政部長などを歴任。 1947年1月11日、岩手県知事に就任。県議会議員選挙、知事選挙などを執行して同年4月12日に知事を退任。
宮崎 謙太(みやざき けんた、1899年(明治32年)10月… 宮崎 謙太(みやざき けんた、1899年(明治32年)10月 - 1959年(昭和34年))は、日本の内務・文部官僚。官選佐賀県知事。 福岡県出身。第一高等学校を卒業。1923年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。同年12月、高等試験行政科試験に合格。東京市に勤務した。 1926年、内務省に転じ石川県事務官となる。以後、愛知県事務官、神奈川県事務官、栃木県書記官・学務部長などを歴任。1939年4月、文部省に転じ同書記官・普通学務局学務課長に就任。その後、文部省大臣官房文書課長を務めた。さらに、岩手県書記官・総務部長、東京都官房長、同長官官房財務課長を歴任した。 1944年8月1日、佐賀県知事に就任。
大橋 理祐(おおはし りすけ、1899年(明治32年)10月… 大橋 理祐(おおはし りすけ、1899年(明治32年)10月 - 1954年(昭和29年)4月4日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧名・理三。 京都府京都市で西陣織物業・大橋理八の二男として生まれる。同志社大学経済科で学んだ。1925年(大正14年)家督を相続し理祐に改名した。 1923年(大正12年)陸軍歩兵少尉に任官し同中尉に昇進。退役後、家業の西陣織物業を営む。1930年(昭和5年)洋服部蝶屋商会を創業。その他、京都商工会議所副会頭、西陣織物工業組合理事長、全日本絹織物工業組合連合会理事、綾部製作所社長、(株) 三星取締役、京和商事取締役などを務めた。 日中戦争に出征し、留守第16師団副官、同司令部附、参謀本部調査事務嘱託などを務めた。
原 弘(はら ひろむ、1899年〈明治32年〉 9月29日 … 原 弘(はら ひろむ、1899年〈明治32年〉 9月29日 - 1974年〈昭和49年〉8月14日)は、日本の経営者。清水銀行頭取を務めた。 静岡県出身。1926年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1930年3月に駿州銀行(のちの清水銀行)に入行。 1940年7月に常務、1947年2月に専務を経て、1971年4月には頭取に就任。 1974年8月14日に膵臓炎のために在任中に死去。74歳没。
小島 徹三(こじま てつぞう、1899年9月29日 - 19… 小島 徹三(こじま てつぞう、1899年9月29日 - 1988年1月10日)は、弁護士、日本の政治家。法務大臣。帝国弁護士会理事、 第一東京弁護士会常議員。位階は正三位。 自由党衆議院議員(1946年から10期)。日本自由党では政務調査会理事、司法部部長、民主党では総務委員、政務調査会理事、議員運営部部会長を務めた。自民党では芦田均派→岸信介派→福田赳夫派に所属した。 兵庫県養父郡八鹿町(現・養父市)出身。造り酒屋の小島久右衛門の三男として生まれる。八鹿小、豊岡中、第一高等学校、東京帝国大学法学部仏法科卒業。 1922年(大正11年)、高等文官試験外交科及び行政科に合格。その後弁護士を開業。 1946年(昭和21年)、第22回衆議院議員総選挙に兵庫2区から初当選。
尾島庄太郎(おじま しょうたろう、1899年〈明治32年〉9… 尾島庄太郎(おじま しょうたろう、1899年〈明治32年〉9月28日 - 1980年〈昭和55年〉3月24日)は、英文学者、早稲田大学名誉教授。 富山県出身。早稲田大学英文科卒。オックスフォード大学卒。早稲田大学助教授、1949年教授。1952年「イギリス文学におけるセルト的要素」(鷲尾 1952)で早大文学博士。1970年定年退任、名誉教授、立正大学教授、明星大学教授。アイルランド文学、イェーツを研究。日本イェイツ協会初代会長。
曺 奉岩(チョ・ボンアム、そう ほうがん、朝鮮語: 조봉암、… 曺 奉岩(チョ・ボンアム、そう ほうがん、朝鮮語: 조봉암、1899年9月25日または1898年9月 - 1959年7月31日)は、朝鮮の独立運動家、のちに韓国の政治家。本貫は昌寧曺氏(朝鮮語版)、号は竹山(チュクサン、죽산)。社会民主主義者で、第一共和国時代における革新政党である進歩党の委員長を務めた。 妻は活動家の金祚伊。姓の「チョ」は真ん中の部分が曲の「曹」ではなく由の「曺」。 京畿道江華郡(現在の仁川広域市)出身。農業補習学校を卒業し江華郡庁の職員として働くが、三・一独立運動に参加して投獄される。釈放後の1921年に日本へ留学し、正則英語学校を経て中央大学で一年間政治学を学び、朴烈らと共に在日朝鮮人による社会主義団体「黒濤会」を結成した。
堀 豊彦(ほり とよひこ、1899年9月24日 - 1986… 堀 豊彦(ほり とよひこ、1899年9月24日 - 1986年4月9日)は、日本の政治学者。東京大学名誉教授。日本基督教団の会員。オランダ通詞・堀達之助の曾孫。子に倫理学者・英学者の堀孝彦がいる。 山口県赤間に村田豊作、ナリの三男として生まれる。1912年に母方の姓の堀になる。1913年鹿児島のバプテスト教会で青木澄十郎から洗礼を受ける。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)および第七高等学校造士館 (旧制)卒業。1924年東京帝国大学法学部を卒業する。1926年よりイギリスのオックスフォード大学とドイツに留学し、1929年帰国後に台北帝国大学教授に就任する。 1942年より九州帝国大学教授になる。
三井 義夫(みつい よしお、1899年9月22日 - 195… 三井 義夫(みつい よしお、1899年9月22日 - 1959年1月2日)は、日本の彫金家。号は為楽。帝展・新文展・日展で活動し、日本芸術院賞を受賞した。 東京府東京市中根岸に生まれる。初め彫金家土田勝業に学び、のち海野家の門をたたき、さらに海野清に師事した。 東京美術学校金工科選科彫金部に学び、1928年に卒業した。 1927年、第8回帝展に「楽園之図手箱」が入選し、以後も帝展・新文展などに継続して出品した。 昭和初期から戦後にかけて彫金界で活動し、工芸諸展にも作品を発表した。1956年、第11回日展出品作「彫金象嵌花器」により日本芸術院賞を受賞した。 また、光風会工芸部会員としても活動した。
篠田 統(しのだ おさむ、1899年9月21日 - 1978… 篠田 統(しのだ おさむ、1899年9月21日 - 1978年8月10日)は、日本の食物史学者。東アジア食物史の開拓者として知られる。栄養生理学から食物史研究に転じた。 大阪府出身。1923年京都帝国大学理学部化学科卒業、同大学院動物学科に入学。1926年から1928年までユトレヒト大学(オランダ)、ミュンヘン大学(ドイツ)、ナポリ水族館(イタリア)に留学。1928年ユトレヒト大学から学位授与。1929年、京都帝大講師、同年「昆虫の腸の分泌に就て」で京大理学博士。1938年、関東軍防疫技師として従軍し、1940年には北支軍軍医部所属として昆虫防疫に従事。1945年8月まで北京衛生試験所技師を勤め、同年12月に引き揚げた。
武田 一郎(たけだ いちろう、1899年9月21日 - 19… 武田 一郎(たけだ いちろう、1899年9月21日 - 1973年12月23日)は、日本の教育学者、教育行政家。 北海道出身。東京文理科大学卒。奈良女子高等師範学校教授、戦後は文部省視学官となり教育行政に携わる。のちお茶の水女子大学附属小学校長、1964年定年退官、お茶の水女子大学名誉教授、北海道学芸大学学長、十文字学園女子短期大学学長。
坂本 武(さかもと たけし、1899年(明治32年)9月21… 坂本 武(さかもと たけし、1899年(明治32年)9月21日 - 1974年(昭和49年)5月10日)は、日本の俳優。本名は永石 武平。 松竹蒲田撮影所で軽妙な脇役として活躍し、斎藤寅次郎監督らによる短篇喜劇映画に多く出演した。小津安二郎監督作品にも常連出演し、『出来ごころ』『浮草物語』などの「喜八もの」では主人公の喜八を演じて人気を得た。上記以外の出演作品に『カルメン故郷に帰る』『煙突の見える場所』など。 1899年(明治32年)9月21日、兵庫県赤穂郡坂越村(現在の赤穂市坂越)に、漁師の父・安吉と母・ます江の5人兄弟の長男として生まれる。坂越尋常高等小学校卒業後、大阪の時計店に勤めるうち、松旭斎天勝一座の奇術を観に行き、舞台からの呼びかけに奇術の相手として飛び入り出演する。
木村 岳風(きむら がくふう、1899年9月20日-1952… 木村 岳風(きむら がくふう、1899年9月20日-1952年7月1日)は、日本の吟道家。本名は松木 利次(まつき としつぐ)。日本詩吟学院の創設者で、近代吟詠の祖と称される。著書に『皇漢名詩の吟じ方』などがある。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)生まれ。高島小学校を経て、旧制諏訪中学中退。上諏訪町役場ので勤務している際に、上司の上原栄から朗吟を習った。1922年に上京するが、関東大震災に際しての材木販売などで失敗するなど、商売での失敗が続いた。 一方で、教育者の伊藤長七が木村の吟詠の才能を見出し、伊藤が校長を務める東京府立第五中学校(現・小石川中等教育学校)の全校生徒の前で詩吟の講習を開かせたり、芸名を「嶽風」から「岳風」に改めさせた。
池見 茂隆(いけみ しげたか、1899年(明治32年)9月1… 池見 茂隆(いけみ しげたか、1899年(明治32年)9月18日 - 1973年(昭和48年)12月19日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県糟屋郡仲原村(現粕屋町)で、実業家・池見辰治郎の長男として生まれる。幼少期に福岡市博多柳町に転居した。福岡市立福岡商業学校(現福岡市立福翔高等学校)を経て、早稲田大学商科で学んだ。 その後、家業の池見合資会社社員、酒精会社重役となる。その他、大日本酒精監査役、大日本酒類醸造取締役、文化味噌社長、池見(合)代表社員、九州製作所社長なども務めた。 政界では福岡市会議員に在任した。1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙で福岡県第1区から民主自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
小笠原 道生(おがさわら みちなり、1899年(明治32年)… 小笠原 道生(おがさわら みちなり、1899年(明治32年)9月16日 - 1955年(昭和30年)11月27日)は、文部官僚。 和歌山県出身。小笠原誉至夫の長男として生まれた。旧制和歌山中学時代には野球部員として第1回および第2回の全国中等学校優勝野球大会に出場している。第四高等学校を経て東京帝国大学医学部に進み、1925年(大正14年)卒業。文部省に入り、体育官兼体育研究所技師、大臣官房体育課長を経て、体育局長となる。体育研究所長となり、戦時中に退官した。 戦後は大映監査役、同取締役、文部省厚生振興会会長、横綱審議委員を務めた。
砂野 仁(いさの まさし、1899年9月15日 - 1979… 砂野 仁(いさの まさし、1899年9月15日 - 1979年6月30日)は、日本の実業家。川崎重工業社長、会長を務めた。 京都府与謝郡加悦町出身。1926年に京都帝国大学経済学部を卒業し、1927年に川崎造船所に入社した。主に労務畑に携わり、1954年に川崎航空機副社長に就任し、同社の再建に尽力し、1959年に川崎重工業取締役に就任し、1961年12月に社長に就任した。1969年12月から1973年11月までに会長を務めた。 1969年6月から1976年11月までに神戸商工会議所会頭と日本商工会議所副会頭を務め、日本ルーマニア経済委員会会長、ソ連東欧貿易会会長、関西経済連合会常任理事なども歴任した。
岡本 忠雄(おかもと ただお、1899年(明治32年)9月1… 岡本 忠雄(おかもと ただお、1899年(明治32年)9月15日 - 1956年(昭和31年)12月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 広島県出身。1924年東京帝国大学英法科卒。札幌逓信局庶務課長、熊本逓信局経理課長、満洲国郵政総局副局長、同北安省次長、同総務庁地方処長を経て、運輸通信省海運総局総務局長、東京逓信局長、総裁官房考査室主査、参議院運輸委員会専門員となる。 1952年の第25回衆議院議員総選挙において広島3区で自由党公認で立候補して落選。翌1953年の第26回衆議院議員総選挙で当選した。1955年の第27回衆議院議員総選挙では日本民主党から立候補したが落選した。1956年12月18日死去、57歳。
赤木 鉄夫(あかぎ てつお、1899年〈明治32年〉9月14… 赤木 鉄夫(あかぎ てつお、1899年〈明治32年〉9月14日 - 没年不明)は、昭和時代前期の逓信官僚。陸軍司政長官。 伊勢次郎の三男として岡山県に生まれる。旧制岡山中学、旧制六高を経て、1924年(大正13年)に東京帝国大学法学部独法科を卒業する。逓信省に奉職し、同省経理局主計課勤務、釧路郵便局長、中央電話局府加入課長、札幌逓信局規画課長、広島逓信局監督課長、地方海員審判所審判官、東京地方逓信局海事部長、東京都市逓信局監督課長、中央航空研究所総務部長、貯金局総務課長、逓信書記官・逓信官吏練習所長を経て、1942年(昭和17年)8月、陸軍司政長官に就任した。1944年(昭和19年)8月、名古屋逓信局長に就任した。
野口 弥吉(のぐち やきち、1899年9月14日 - 200… 野口 弥吉(のぐち やきち、1899年9月14日 - 2002年2月23日)は、日本の作物学者、東京大学名誉教授。
坂本 幸男(さかもと ゆきお、のち改名して坂本日深(にちじん… 坂本 幸男(さかもと ゆきお、のち改名して坂本日深(にちじん)、1899年(明治32年)9月12日 - 1973年(昭和48年)2月10日)は、日蓮宗系の仏教学者、僧侶。 1899年、岡山県津島生まれ。日蓮宗不受不施派の家系。東京帝国大学文学部印度哲学科を卒業する。卒業後は東洋大学教授となる。1948年より立正大学仏教学部教授となり、翌1949年には学部長を務める。1954年、「慧苑の華厳教学の研究 特に教判論を中心として」で東北大学より文学博士の学位を取得。身延山久遠寺第84世・深見日円の弟子となり日深と改名。1966年立正大学に法華経文化研究所を設立して所長となる。1968年、立正大学学長に就任。
宮木 広大(1899年〈明治32年〉9月12日 - 没年不明… 宮木 広大(1899年〈明治32年〉9月12日 - 没年不明)は、昭和時代前期の拓務官僚、農商務官僚、台湾総督府官僚。 東京市に生まれる。第二高等学校を経て、1923年(大正12年)3月に東京帝国大学経済学部を卒業し、農商務省に入省し商務局属となる。翌年11月、高等試験行政科に合格。農商務省鉱山監督局書記官、商工事務官、拓務事務官、拓務書記官、拓務局事業課長、同局南洋課長、ブラジル赴任を経て、1940年(昭和15年)5月に新竹州知事に就任し、1942年(昭和17年)7月に台南州知事に転じた。1943年(昭和16年)退官した。 その後、台湾拓殖理事を務めた。戦後、公職追放となった。
牛山 栄治(うしやま えいじ、1899年9月12日 - 19… 牛山 栄治(うしやま えいじ、1899年9月12日 - 1979年2月11日)は、日本の教育者、歴史家。山岡鉄舟の研究の第一人者。 1899年、埼玉県に生まれる。16歳の頃から小倉鉄樹の薫陶を受けた。東京高等師範学校、次いで日本大学で日本史を専攻、卒業後は教育者として中等教育に従事する傍ら、山岡鉄舟の研究に打ち込み多数の著作を残した。 1947年(昭和23年)、東京都中学校長会が発足すると1957年まで副会長を務めたほか、1949年(昭和24年)には文化庁による第1期国語審議会の委員を務めるなど公的な組織にも参加した。 1966年(昭和41年)、日本大学豊山女子高等学校が開校すると初代学長に就任、1970年(昭和45年)まで務めた。