半田 道玄(はんだ どうげん、大正4年(1915年)10月2… 半田 道玄(はんだ どうげん、大正4年(1915年)10月25日 - 昭和49年(1974年)4月13日)は、囲碁の棋士。広島県出身、鈴木為次郎名誉九段門下、日本棋院から関西棋院所属、九段。旧名は早巳。十段戦優勝、本因坊挑戦など。求道的な姿勢と、殿様碁とも言われた独特のゆったりした棋風で知られる。 広島県向島津部田生まれ、4歳で因島に移る。小学校入学頃に囲碁を覚え、1924年9歳で鈴木為次郎に入門するが、1か月で帰郷。1930年に大阪に移り、久保松勝喜代の研究会に参加するようになる。1934年入段し東京の大手合に参加。この頃、兄弟子の関山利一や、その弟子の梶原武雄らと研鑽する。1942年五段。1946年の第4期本因坊戦では予選を勝ち抜いて最終トーナメントに進出、初戦で藤沢庫之助八段に勝つが、2回戦で林有太郎七段に敗れる。
柴田 承二(しばた しょうじ、1915年〈大正4年〉10月2… 柴田 承二(しばた しょうじ、1915年〈大正4年〉10月23日 - 2016年〈平成28年〉7月12日)は、日本の薬学者(天然物化学・生薬学)。位階は正四位。勲等は勲二等。学位は薬学博士(東京帝国大学・1944年)。東京大学名誉教授、日本学士院会員、文化功労者。 東京帝国大学医学部助教授、東京大学医学部教授、東京大学薬学部教授、東京大学薬学部学部長、明治薬科大学薬学部教授などを歴任した。
入江 春彦(いりえ はるひこ、1915年(大正4年)10月2… 入江 春彦(いりえ はるひこ、1915年(大正4年)10月21日 - 1999年(平成11年)9月26日)は、日本の海洋生物学者。農学博士。専門は端脚類の分類。東京帝国大学農学部卒業。長崎大学名誉教授。元日本プランクトン学会長。勲三等旭日中綬章受賞。位階は正四位。 長崎県大村湾の調査、対馬暖流開発調査、日本湾岸水域の基礎生産力調査、国際黒潮調査(CSK)など日本国内外の研究調査に幅広く参画。特に1965年前後に大村湾において大規模に出現した赤潮発生機構の解明、被害調査に従事し、日本の赤潮研究で指導的な役割を果たした。
岡本 利三(おかもと としぞう、1915年10月20日 - … 岡本 利三(おかもと としぞう、1915年10月20日 - 2002年5月)は、大阪府出身のプロ野球選手(捕手、外野手)。
間宮 武(まみや たけし、1915年10月20日 - 200… 間宮 武(まみや たけし、1915年10月20日 - 2000年1月6日)は、日本の心理学者。横浜国立大学名誉教授。 神奈川県生まれ。東京文理科大学心理学科卒。東京府立桜町高等女学校教諭、東京都立第七中学校教諭、神奈川師範学校教授、1950年横浜国大助教授、1961年「性差に関する心理学的研究」で広島大学より文学博士の学位を取得。1962年教授、1981年定年退官、名誉教授、共立女子大学教授、1986年退職。1989年日本心理学会名誉会員。2000年1月6日、肺炎のため死去。 性差心理学専攻、純潔教育を推進した。
三樹 青生(みき せいき、1915年10月18日 - 200… 三樹 青生(みき せいき、1915年10月18日 - 2000年3月18日)は、日本の翻訳家、作家。本名は三樹 精吉。 米国サクラメント生まれ。1937年大阪外国語学校フランス語部卒業。毎日新聞、静岡新聞、第一新聞記者を経て、1949年より日本新聞協会勤務。英米文学翻訳家。1970年「終曲」で直木賞候補。国語審議会委員も務め、TBSブリタニカ監修部長、帝京大学文学部教授(1996年定年)。大学では社会教育学を指導した。 実子は編集者の三樹創作。
立津 政順(たてつ せいじゅん、1915年(大正4年)10月… 立津 政順(たてつ せいじゅん、1915年(大正4年)10月18日 - 1999年(平成11年)1月28日)は、日本の精神科医。沖縄県出身。統合失調症、一酸化炭素中毒、水俣病などを研究。松沢病院時代は終戦時の精神病療養所の死亡率を発表した。位階は正四位。 小学校時代は沖縄県今帰仁小学校に通学し、優等生であった。1936年旧制水戸高等学校を卒業、1940年3月東京大学医学部卒業。精神科入局(内村祐之教授)東京大学助手を経て1942年12月19日、東京都立松沢病院に勤務。1946年12月東京大学医学博士。論文の題は「本邦人の精神疾患負荷に関する研究」1954年3月医長に昇任。1961年4月1日、第4代熊本大学精神科教授。
殿山 泰司(、1915年10月17日 - 1989年4月30… 殿山 泰司(、1915年10月17日 - 1989年4月30日)は、日本の俳優、エッセイスト。 兵庫県神戸市出身。中央区立泰明小学校、東京府立第三商業学校中退。終戦後の日本映画界において独特の風貌で名脇役として活躍した。ジャズとミステリーをこよなく愛し、趣味を綴った著書も多数残している。また、波乱万丈なその人生は、映画化もされている。 神戸の生糸商の長男として生まれる。幼名は殿山泰爾()である。父親は広島県生口島出身。6歳の頃に父親の事業が破綻して両親は別居。父とその愛人(泰司の義母となる)について上京し、東京府東京市中央区銀座で少年時代を過ごす。このとき父と義母が出したおでん屋が、銀座五丁目から移転し今も日本橋で営業をつづける「お多幸本店」である。
玉木 章夫(たまき ふみお、1915年10月16日 - 19… 玉木 章夫(たまき ふみお、1915年10月16日 - 1973年9月7日)は日本のロケット工学者。 1939年東京帝国大学理学部物理学科を卒業後、東京帝国大学航空研究所研究担当になり、1942年には東大助教授に任命された。1950年に東京大学生産技術研究所勤務となり、1951年に「境界層理論による熱電波の研究」によって工学博士の学位を得、翌年東京大学教授に昇進した。1965年以降は東京大学宇宙航空研究所に移り、1972年3月から1973年6月までは同研究所所長を務めた。 高速空気力学を中心として、航空宇宙工学に関する研究において基礎から応用に至る業績を上げた。 観測ロケットの開発研究にも携わり、戦後日本初の実験用ロケットであるペンシルロケットのノーズコーンや尾翼の設計は玉木が行っている。
筧 正典(かけひ まさのり、1915年10月12日 - 19… 筧 正典(かけひ まさのり、1915年10月12日 - 1993年1月14日)は、日本の映画監督、助監督。 長野県下諏訪町出身。旧制諏訪中学(現:長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)、京都帝国大学法学部卒業。1940年東宝入社、東宝映画(社長シリーズ)やウルトラシリーズを監督。1968年フリーランスとなる。仕事には厳格な人物であったとされる。 1989年、勲四等瑞宝章受章。
島谷 一美(しまや かずみ、1915年10月12日 - 20… 島谷 一美(しまや かずみ、1915年10月12日 - 2005年2月13日)は、日本の柔道家(講道館9段)、レスリング選手。 北海道歌棄郡種前村(現・寿都町)出身で、小学生であった13歳の時に函館市の本間武勝3段の元で柔道を始めた。以来、三田国衛8段や松代林太郎6段らに師事し、函館商業学校では主将として活躍して北海道中等学校柔道大会の個人戦で優勝を果たす傍ら、同時に商業学校卒業までの7年間は新聞配達を経験して、厳冬下セーターと法被1枚で1日10kmを走り込むなど足腰を中心に身体を鍛えた。 卒業後は強豪で知られた日魯漁業(現・マルハニチロ)ラグビー部に引き抜かれ、センターやスリークォーターバックとし活躍。
松尾 五郎(まつお ごろう、1915年10月11日 - 没年… 松尾 五郎(まつお ごろう、1915年10月11日 - 没年不明)は、昭和時代前期に活躍したプロ野球選手。
伏見 信子(ふしみ のぶこ、1915年(大正4年)10月10… 伏見 信子(ふしみ のぶこ、1915年(大正4年)10月10日 - 生死不明)は、日本の女優、歌手。本名は伏見 延子。別名は伏見 延江(ふしみ のぶえ)。 東京市浅草区小島町出身。同志社女学校(現・同志社女子中学校・高等学校)高等女学部卒業。父伏見三郎が新派の俳優で、早くから姉の直江と共に舞台の子役などで新派の舞台に出演。1926年(大正15年)、姉と帝国キネマに入社。 1927年(昭和2年)、姉の伏見直子=伏見直江と阪東妻三郎プロへ移籍し、同年11月、日活大将軍現代劇部に入社。時代劇部へと移り、「大地に立つ」、「小市民」に主演。 1928年(昭和3年)、同志社女学校高等女学部に入学。4年通学の傍ら「春または丘へ」の主役を務める。
太田 寛一(おおた かんいち、1915年(大正4年)10月1… 太田 寛一(おおた かんいち、1915年(大正4年)10月10日 - 1984年(昭和59年)11月13日)は、よつ葉乳業創業者。 元・士幌町農業協同組合(JA士幌町)組合長、元・ホクレン農業協同組合連合会会長、元・全国農業協同組合連合会(JA全農)会長。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
渡辺 護(わたなべ まもる、1915年10月9日 - 200… 渡辺 護(わたなべ まもる、1915年10月9日 - 2007年7月30日)は、日本の音楽学者、音楽評論家。東京大学名誉教授。 1915年、東京生まれ。1938年東京帝国大学美学科を卒業。1939年にドイツに渡り、ウィーン大学で学び1942年に卒業。ブルガリアのソフィア大学講師に就いた。1944年、第二次世界大戦の戦火を避けてスイスに滞在し、1946年に米国をへて帰国した。 帰国後、武蔵野音楽大学教授に就いた。1965年、東京大学文学部美学美術史学科助教授となり、1969年に教授昇格。1976年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は、在西ドイツ日本大使館公使、ケルン日本文化会館長を務めた。
森 清(もり きよし、1915年10月8日 - 1968年6… 森 清(もり きよし、1915年10月8日 - 1968年6月9日)は、日本の政治家。実業家。位階は正三位。 国務大臣総理府総務長官を歴任した。森矗昶の子。兄は森曉、衆議院議員を務めた森美秀は弟、森英介は甥。三木武夫の妻睦子は妹である。 千葉県に生まれる。父は昭和電工の創業者で衆議院議員の森矗昶。1938年(昭和13年)、京都帝国大学理学部地質鉱物学科を卒業。満洲鉱業開発勤務から、兄の森曉が社長となっていた日本冶金工業に入社し、取締役として兄を補佐する。父の創業した昭和火薬の社長も務めた。 1952年(昭和27年)、第25回衆議院議員総選挙に当時の千葉3区から立候補し初当選(当選同期に福田赳夫・大平正芳・黒金泰美・植木庚子郎・内田常雄・丹羽喬四郎・灘尾弘吉・宇都宮徳馬・加藤精三・山崎巌・今松治郎・重政誠之・町村金五・古井喜実など)。
金 南中(キム・ナムジュン、朝鮮語: 김남중、1915年10… 金 南中(キム・ナムジュン、朝鮮語: 김남중、1915年10月8日または1917年10月8日 - 1982年3月30日または1987年3月31日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、随筆家、コラムニスト、実業家、政治家。全南日報(現・光州日報)会長、第5代韓国国会議員(参議員)を歴任した。 本貫は光山金氏、号は南鳳(ナムボン、남봉)。 日本統治時代の全羅南道光州郡(現・光州広域市)に富農の次男として生まれた。1930年光州公立普通学校(現・光州瑞石初等学校)卒、1942年専修大学専門部中退あるいは卒業。同年から報知新聞(現・スポーツ報知)記者を務めた後、翌1943年に帰郷し、全南新報編集局社会部長・主幹、湖南新聞主筆・編集局長を経て朝鮮戦争中の1951年に全南日報を創刊し、発行者・主筆・社長・会長(~1980年)を務めた。
本間 一夫(ほんま かずお、 1915年(大正4年)10月7… 本間 一夫(ほんま かずお、 1915年(大正4年)10月7日 - 2003年(平成15年)8月1日)は、日本点字図書館の創立者。点字図書・録音図書の製作と貸出を主とする図書館事業に取り組み、視覚障害者の読書環境向上に貢献した。 北海道増毛町の商家丸一本間家に生まれる。1920年(大正9年)、脳膜炎にかかり視力を失う。1929年(昭和4年)、函館盲唖院に3年生として入学。点字を知る。琵琶の稽古を始める。1932年(昭和7年)、北海道弁論大会で2位を取る。演題は「明日の希望に生きよ」。1933年(昭和8年)、函館の組合教会で岩橋武夫の講演を聴く。東北・北海道弁論大会で1位を取る。演題は「聞け黎明に高鳴る響きよ」。
吉村 吉雄(よしむら よしお、1915年(大正4年)10月7… 吉村 吉雄(よしむら よしお、1915年(大正4年)10月7日 - 1997年(平成9年)9月9日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員。位階は正五位。 福島県安積郡、のちの郡山市で生まれる。1941年(昭和16年)国鉄中央教習所専修部を修了した。 日本国有鉄道郡山工場技術掛となる。その後、国鉄労働組合郡山市工場支部執行委員長、同仙台地方本部執行委員長、同中央執行委員、福島県労働組合協議会副議長、郡山市開発審議会委員、郡山市公平委員、福島県労働対策審議会委員などを務めた。 1960年(昭和35年)11月の第29回衆議院議員総選挙で福島県第1区から日本社会党公認で出馬し初当選。次の第30回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
南 美江(みなみ よしえ、1915年〈大正4年〉10月5日 … 南 美江(みなみ よしえ、1915年〈大正4年〉10月5日 - 2010年〈平成22年〉8月6日)は、日本の女優。演劇集団 円所属。本名は南波 房江(なんば ふさえ)。 広島県広島市出身。神奈川県横浜市で育ち、横浜第一高等女学校(後の神奈川県立横浜平沼高等学校)を卒業後、宝塚音楽歌劇学校(後の宝塚音楽学校)に入る。 1933年、宝塚少女歌劇団(後の宝塚歌劇団)に入団し、『トウランドット姫』で初舞台を踏む。入団時の成績は76人中2位。23期生。 美空暁子の名で男役として活躍。愛称は「ナンちゃん」。 1941年、「戦時色が濃くなり、夢がなくなった」として退団。 かかり付け医が長岡輝子の知人だったことから、1942年に文学座研究生となり、南美江の名で、1944年に初舞台を踏んで以降、文学座で活動。
三宅 真助(みやけ しんすけ、1915年(大正4年)10月5… 三宅 真助(みやけ しんすけ、1915年(大正4年)10月5日 - 没年不詳)は、実業家である。第二次世界大戦中に従軍し、大日本帝国陸軍主計中尉となり、戦後はクラレ東京支社長、クラレ不動産取締役を務めた。岡山県高梁市出身。 1915年(大正4年)、現在の岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)で生れる。その後、1928年(昭和3年)に地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学した。1933年(昭和8年)に同校を卒業し、翌年、岡山市にある旧制第六高等学校へ進学する。その後、1937年(昭和12年)3月に同校を卒業し、同年、東京帝国大学経済学部へ進学する。1940年(昭和15年)3月、同大学の経済学部経済学科を卒業する。
牛丸 義留(うしまる よしと、1915年10月5日 - 没年… 牛丸 義留(うしまる よしと、1915年10月5日 - 没年不明)は、日本の厚生官僚。厚生事務次官を歴任。 佐賀県多久市出身。旧制小城中、旧制佐賀高校文科甲類を経て1939年東京帝国大学法学部政治学科卒。 内務省に入り、1948年厚生省に移る。薬事局長、社会局長を経て、1965年厚生事務次官に就任。退官後、1968年の参院選で佐賀県から無所属で出馬したが、落選した。その後、年金福祉事業団理事長を経て、1979年の佐賀県知事選に出馬したが落選した。その間、済生会中央病院の事務局長等顕職あったが2000年代から地元佐賀にて隠遁。その後体調悪化と共に子供の住む神奈川県真鶴町に転居。その後死去。 靖国神社へのA級戦犯の合祀に関し、厚生省援護局が1966年にA級戦犯の名簿を靖国神社に送ったことについて、当時厚生事務次官だった牛丸は「知らなかった」と証言している。
高間 直道(たかま なおみち、1915年10月5日 - 19… 高間 直道(たかま なおみち、1915年10月5日 - 1996年1月12日)は、日本の哲学者、評論家。 大阪府出身。1940年(昭和15年)早稲田大学文学部哲学科卒業、1941年(昭和16年)学徒出陣で入営。満州、北支などを転戦し、陸軍大尉。復員後、大阪商業大学助教授、1955年(昭和30年)東京医科大学教授。1986年(昭和61年)定年、名誉教授。若者向けの啓蒙書、顔診断の著作を多く執筆した。
河村 勝(かわむら かつ、1915年(大正4年)10月4日 … 河村 勝(かわむら かつ、1915年(大正4年)10月4日 - 2001年(平成13年)1月30日)は、日本の政治家。
山川 邦夫(やまかわ くにお、1915年10月4日 - 19… 山川 邦夫(やまかわ くにお、1915年10月4日 - 1966年10月24日)は、日本の内科学者、医学博士。専門は循環器病学。東京都生まれ。父は内科学者の山川章太郎。弟は生化学者で東京大学名誉教授の山川民夫。姪は科学ジャーナリストの大熊由紀子。義従弟(母の妹の長女の夫)は佐々学。
桑田 俊晴(くわた としはる、1915年10月3日 - 19… 桑田 俊晴(くわた としはる、1915年10月3日 - 1997年2月3日)は、日本の経営者。関西ペイント社長、会長を務めた。鳥取県出身。 1936年に山口高等商業学校を卒業し、同年に関西ペイントに入社した。1967年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1978年に社長に就任し、1983年から会長に就任した。 1986年に勲三等瑞宝章を受章。 1997年2月3日心不全のために死去。81歳没。
浅野 勝三郎 (あさの かつさぶろう、1915年10月1日 … 浅野 勝三郎 (あさの かつさぶろう、1915年10月1日 - 没年不明)は、阪急軍に在籍したプロ野球選手(投手)。旧名・山田勝三郎。
島田 正郎(しまだ まさお、1915年9月29日 - 200… 島田 正郎(しまだ まさお、1915年9月29日 - 2009年11月23日)は、日本の東洋史学者・法制史学者。学位は、法学博士(明治大学・論文博士・1951年)(学位論文「遼令の研究」)。元明治大学総長。東京市麹町区生まれ。 旧制明治中学校(現:明治大学付属明治高等学校)を卒業し、1939年に東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業。北京に留学し、41年に帰国。 1942年、東方文化学院(東京研究所)研究員。1947年、東京大学東洋文化研究所所員。1948年、明治大学専門部法律科講師。明治大学専門部法律科助教授。1951年、明治大学法学部教授。同年、「遼令の研究」で法学博士(明治大学)の学位を取得。
毛利 圭太郎(もうり けいたろう、1915年9月29日 - … 毛利 圭太郎(もうり けいたろう、1915年9月29日 - 2009年5月19日)は、日本の気象技官。気象庁長官を務めた。 兵庫県神戸市出身。1938年に東京帝国大学理学部天文学科を卒業し、同年に気象庁に入庁。1970年に札幌管区気象台長、1973年に予報部長を経て、1974年から1976年までに長官を務めた。1976年には国立国会図書館専門調査員に就任。 2009年5月19日に老衰のために死去。93歳没。
江崎 惇(えざき あつし、1915年9月28日 - 1995… 江崎 惇(えざき あつし、1915年9月28日 - 1995年1月8日)は日本の小説家。 静岡県出身。慶應義塾大学を卒業後、放送局勤務を経て作家活動に入る。主に時代小説の分野で活躍した。
浜崎 忠治(はまざき ただはる、1915年9月28日 - 没… 浜崎 忠治(はまざき ただはる、1915年9月28日 - 没年不明)は、広島県呉市出身のプロ野球選手(投手、二塁手、三塁手)。パ・リーグ審判。
藤田 五郎(ふじた ごろう、1915年9月28日 - 195… 藤田 五郎(ふじた ごろう、1915年9月28日 - 1952年12月7日)は、日本の経済史学者。 広島県広島市生まれ。日本史学者・藤田精一の五男。1939年3月、東京帝国大学経済学部商業学科卒業。1940年福島高等商業学校助教授、翌年教授。戦後は福島大学商学部助教授になり、1951年には広島大学助教授に転じる。マニュファクチュア論を引き継ぎ、日本における封建制から資本主義への意向を論じた。1952年に「日本封建社会の経済的構造」により、東北大学から経済学博士の学位を授与されるが、同年に37歳で死去した。没後1953年『封建社会の展開過程』で毎日出版文化賞を受賞。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
坂東 文夫(ばんどう ふみお、1915年(大正4年)9月28… 坂東 文夫(ばんどう ふみお、1915年(大正4年)9月28日 - 2006年(平成18年)5月2日)は、日本の彫刻家。元徳島大学教授。徳島県鳴門市出身。東京美術学校彫刻科(現在の東京藝術大学)卒業。 東京美術学校彫刻科(現在の東京藝術大学)卒業。徳島大学教授を歴任。徳島県の彫刻に大きな発展を貢献したとされ、1985年(昭和60年)に徳島県文化賞を受賞。 2006年(平成18年)5月2日に急性心不全のため徳島市の病院で死去。享年90。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
原 静枝(はら しずえ、1915年9月27日 - 1934年… 原 静枝(はら しずえ、1915年9月27日 - 1934年1月8日)は、日本の女優である。本名は原田 静枝(はらだ しずえ)。サイレント映画の時代、新興キネマの女優であった。京都駅跨線橋転倒事故に巻き込まれ、満18歳で事故死した。 1915年(大正4年)9月27日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる。大阪府大阪市に移り、旧制・大阪市愛日尋常高等小学校(のちの大阪市立愛日小学校、1990年廃校)を卒業後、市内の旧制・相愛高等女学校(現在の相愛高等学校)に進学する。同校卒業後は、大阪・真砂町(現在の西天満2丁目)の堂島ビルヂングにあった堂ビル洋裁学院に進学し、洋裁を学んだ。 1932年(昭和7年)、前年に設立された映画会社・新興キネマに入社する。
前田 豊(まえだ ゆたか、1915年9月25日 - 1997… 前田 豊(まえだ ゆたか、1915年9月25日 - 1997年1月11日)は、日本のバレーボール選手(日本代表)、指導者。バレーボール日本男子代表監督、バレーボール日本女子代表初代監督、日本バレーボール協会副会長、国際バレーボール連盟(FIVB)副会長、アジアバレーボール連盟会長、日本体育協会理事、日本文化出版創業・社長など多くの要職に就き“バレー界の天皇”とも言われた。戦後日本のバレーボールの、国際舞台での活躍と底辺の広がり、両輪の発展に大きな役割を果たしたバレーボール指導者、日本のバレーボール育ての親。広島県佐伯郡廿日市町地御前(現廿日市市)出身。 全国家庭婦人バレーボール連盟(ママさんバレー)名誉会長を務めた前田琴子は妻、JOCマーケティング副委員長などを務めた元電通社員・前田実は長男、イトーヨーカドープリオール監督などを務めた前田健は三男。
三門 順子(みかど じゅんこ、1915年〈大正4年〉9月25… 三門 順子(みかど じゅんこ、1915年〈大正4年〉9月25日 - 1954年〈昭和29年〉4月4日)は、栃木県佐野市出身の歌手。本名:富山 静子。 長唄を習い、18歳の時、NHKのオーディションを受け合格。NHK文芸部、久保田万太郎の推薦でキングレコードに入る。 1935年(昭和10年)7月にキングレコードから「水兵節」でデビューしこの年から専属制度を設けたキングレコードの第一号歌手となる。1937年(昭和12年)「さくら道成寺」「祇園絵日傘」、1939年(昭和14年)「暁の決死隊」、1941年(昭和16年)「筑紫の明月」、1947年(昭和22年)「それで良いのよ」などがヒット。1938年(昭和13年)に児玉好雄と吹き込んだ「愛馬行」(愛馬進軍歌のB面)が大ヒットする。
小菅 孝一郎(こすげ こういちろう、1915年9月24日 -… 小菅 孝一郎(こすげ こういちろう、1915年9月24日 - ?)は日本の実業家。伊勢丹元常務取締役、同社監査役、同社相談役。株式会社東京カナダドライ元社長。 東京出身。1936年高千穂高等商業学校(現高千穂大学)卒業。 松屋勤務の後、1940年伊勢丹に入社し総務部企画課、庶務課等の各課勤務。営業部用達課長、企画営業部第二各部次長を経て、1957年3月販売部長となり同年6月取締役に就任する。 1961年伊勢丹常務取締役、1979年伊勢丹監査役、1989年伊勢丹相談役に就任した。
小谷 守(こたに まもる、1915年(大正4年)9月23日 … 小谷 守(こたに まもる、1915年(大正4年)9月23日 – 2008年(平成20年)11月20日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。 鳥取県出身。1933年(昭和8年)米子中学校、1936年(昭和11年)関西大学大学専門部法科を卒業した。1940年(昭和15年)から神戸市の旧制中学校で教員を務めた。 戦後すぐに教職員組合の結成に取り組み、神戸市教職員組合の役員を務めた。1950年(昭和25年)日本社会党に入党。同党兵庫県本部書記長、同委員長、同顧問を歴任。1951年(昭和26年)兵庫県議会議員に選出され5期在任した。 1971年(昭和46年)6月の第9回参議院議員通常選挙に兵庫県地方区から社会党公認で出馬して初当選。
鄭 憲柱または鄭 憲株(チョン・ホンジュ、朝鮮語: 정헌주、… 鄭 憲柱または鄭 憲株(チョン・ホンジュ、朝鮮語: 정헌주、1915年9月23日 - 1999年5月21日)は、大韓民国の実業家、教育者、政治家。交通部長官、国務院事務処長、第2・4・5・8・9代韓国国会議員を歴任した。 本貫は晋州鄭氏(朝鮮語版)。金大中夫人李姫鎬の甥の1人は娘婿である。 慶尚南道固城郡出身。1935年徽文高等普通学校(現・徽文高等学校(朝鮮語版))卒、1941年中央大学法学部卒。中央大学同窓会委員長に選ばれたことがきっかけに独立運動を展開したが、検挙され投獄された。出獄後は朝鮮陶器社長、大韓独立促成国民会副支部長、釜山韓洋貿易株式会社社長、三千浦中学校(朝鮮語版)・三千浦女子中学校校長(1948年〜1950年)、南陽学園理事長(1951年)、第2代国会憲法起草委員会委員・法制司法委員会常任委員・国防委員会常任委員、第4代国会内閣責任制改憲案起草特別委員会委員長、第二共和国憲法起草委員長、民主党慶尚南道党副委員長・泗川郡党委員長・中央常務委員・政策委員、民主党張勉内閣の交通部(現・国土交通部)長官(通算第10代、1960年8月~9月)、第10代国務院事務処長(1960年9月12日~1961年5月18日)、新民党慶尚南道党委員長、民主党政策審議会議長、新民党政務委員・政策審議委員会議長・選挙対策本部次長兼企画室長・党務委員、第28回UN総会韓国代表、第61回IPU韓国代表理事、新民党全党大会議長(1976年)、民主化推進協議会指導委員(1985年〜1988年1月)を務めた。
川合 武(かわい たけし、1915年9月21日 - 1991… 川合 武(かわい たけし、1915年9月21日 - 1991年1月15日)は日本の内務・自治官僚・政治家。元衆議院議員(1期)。 神奈川県出身。横浜一中、水戸高卒業。1940年、東京帝国大学法学部卒業後、内務省入省、長野県特高課長などを務めた。総理秘書官、自治省官房調査官を経て消防庁次長を務める。その後、日本消防協会常任顧問。1952年第25回衆議院議員総選挙(日本自由党公認)、1953年第26回衆議院議員総選挙(無所属)、1958年第28回衆議院議員総選挙(無所属)で神奈川県第1区(中選挙区。横浜市全域が選挙区)から立候補するも落選し、1971年横浜市長選挙に自民党推薦で立候補し現職の飛鳥田一雄に敗れたが、1976年、第33回衆議院議員総選挙で神奈川県第4区から新自由クラブから立候補し、初当選。
二十二世本因坊秀格(にじゅうにせいほんいぼう しゅうかく、1… 二十二世本因坊秀格(にじゅうにせいほんいぼう しゅうかく、1915年9月21日 - 1986年11月26日)本名:高川格(たかがわ かく)は、日本の囲碁棋士。本因坊戦9連覇の功績により名誉本因坊として高川秀格(たかがわ しゅうかく)と号し、後に二十二世本因坊を贈られる。和歌山県出身、光原伊太郎名誉八段門下。本因坊位の他にも、名人、十段等タイトル多数の、昭和を代表する名棋士の一人。「流水不争先」を信条とし、平明流とも言われる、合理的で大局観に明るい棋風。 和歌山県田辺町(現在の田辺市)生まれ。6歳頃に父の影響で碁を覚え、1925年に9歳で棋士を目指して上京し日本棋院に通うが、事情により2か月で帰郷する。
高橋 孝吉(たかはし こうきち、1915年9月20日 - 1… 高橋 孝吉(たかはし こうきち、1915年9月20日 - 1987年1月24日)は、日本の実業家、工学博士。神戸製鋼所社長、会長を務めた。兵庫県神戸市出身。 1915年9月20日熊本県で生まれる。1938年に大阪帝国大学理学部を卒業し、同年に神戸製鋼所に入社した。1966年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1977年10月から社長に就任した。1983年6月から会長に就任した。 日本溶接棒工業会、日本伸銅協会、日本産業用ロボット工業会、軽金属溶接構造協会の各会長、中東協力センター、造水促進センターの各理事長なども歴任した。 1977年11月に藍綬褒章を受章し、1985年に製鉄功労賞を受章した。
海蔵寺 弘司(かいぞうじ こうじ、1915年9月20日 - … 海蔵寺 弘司(かいぞうじ こうじ、1915年9月20日 - 生死不明)は、広島県安芸郡府中町出身のプロ野球選手。 広陵中学校では1935年の第12回選抜野球大会にセンターとして出場し、準優勝メンバーとなる。 慶應義塾大学を経て1938年秋に南海軍へ入団。翌年のシーズン終了後に退団。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
高橋 忠介(たかはし ちゅうすけ、1915年9月20日 - … 高橋 忠介(たかはし ちゅうすけ、1915年9月20日 - 2001年9月6日)は、日本の経営者。ロイヤルホテル社長、会長を務めた。愛媛県出身。 1940年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に住友銀行に入行した。1966年に取締役に就任し、1969年に常務、1974年に専務、1977年に副頭取、1983年に副会長を経て、1985年4月にロイヤルホテル社長に就任。1988年6月から1995年6月までに会長を務めた。 2001年9月6日急性心筋梗塞のために死去。85歳没。
藤堂 明保(とうどう あきやす、1915年9月20日 - 1… 藤堂 明保(とうどう あきやす、1915年9月20日 - 1985年1月2日)は、日本の漢学者。 三重県阿山郡(のちの上野市、現伊賀市域)生まれ。家系は津藩伊賀上野城代の藤堂家。父の赴任により大連で育つ。1938年、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学文学部支那哲学科卒業後、外務省研修員として北京へ留学する。そのまま応召し、1941年に現地で除隊、さらに通訳として軍務に従事する。敗戦を南京で迎え、その翌日には軍命でハノイへ飛び、1947年に中国経由で復員する。 帰国後は第一高等学校教授を経て、1950年に東京大学文学部専任講師、1954年に同助教授、1963年に同教授。東大紛争で全共闘支持を表明し、1970年、強行排除に抗議して辞職、その直後から『11PM』に出演して「女へんの漢字」を解説したり、1971年からはNHKテレビの『中国語講座』講師を担当するなど、マスコミでも活躍した。
藤山 楢一(ふじやま ならいち 1915年9月17日 - 1… 藤山 楢一(ふじやま ならいち 1915年9月17日 - 1994年5月5日)は、日本の外交官。駐英国大使。
鯨岡 兵輔(くじらおか ひょうすけ、1915年(大正4年)9… 鯨岡 兵輔(くじらおか ひょうすけ、1915年(大正4年)9月15日 - 2003年(平成15年)4月1日)は、日本の政治家である。正三位勲一等旭日大綬章。 福島県石城郡四倉町(現・いわき市)出身。4歳の時に東京都足立区千住に転居。早稲田大学商学部卒業後召集され、陸軍航空大尉で終戦を迎えた。戦後、父の経営する鯨岡製袋に入り、1947年足立区議、1955年東京都議を経て、1963年旧東京10区から衆議院議員に初当選。連続12回当選した。鈴木善幸内閣の環境庁長官として、日中渡り鳥保護協定への調印や水俣病患者との対話を行った。1993年に非自民・非共産連立政権が誕生し土井たか子が衆議院議長に選出された際には、衆議院副議長として政治改革に協力した。
中牟田 喜一郎(なかむた きいちろう、1915年9月15日 … 中牟田 喜一郎(なかむた きいちろう、1915年9月15日 - 2008年10月18日)は、日本の実業家。岩田屋の創業家で、社長・会長を務めた。妻は元テニス選手の加茂純子。日本テニス協会会長。 福岡県福岡市にて岩田屋百貨店創業者2代目中牟田喜兵衛の長男として生まれた。福岡商業学校、山口高等商業学校を卒業後、現在の神戸大学の前身となる神戸商業大学へ入学、テニス選手として3年時には3年の全日本ランキングで男子シングルス20位、ダブルス9位に名を連ねた。 大学卒業後の1940年に岩井産業(現双日)に入社、1945年岩田屋に入社し、2年後社長に就任、1985年まで務めた。その後会長に就任したが、2002年に経営不振より伊勢丹の傘下に入ったのをきっかけに会長の座から退き、特別顧問となっていた。
松尾 均(まつお ひとし、1915年9月15日 - 1994… 松尾 均(まつお ひとし、1915年9月15日 - 1994年9月23日)は、日本の労働経済学者・社会福祉学者。 佐賀県武雄生まれ。佐賀高等学校卒、1940年東京帝国大学法学部政治学科卒、産業組合中央会職員、1941年内閣企画院第三部嘱託、1946年国民経済研究協会研究員、1958年日本女子大学文学部社会福祉学科教授、64年同家政学部教授、83年定年、名誉教授。
松平 千秋(まつだいら ちあき、男性、1915年9月13日 … 松平 千秋(まつだいら ちあき、男性、1915年9月13日 - 2006年6月21日)は、日本の古代ギリシア文学者・西洋古典学者。多数のギリシア文学原典訳を行った。学位は、文学博士(京都大学・1962年)(学位論文「イーリアス第二歌の研究」)。京都大学名誉教授。 1915年、岐阜県生まれ。静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校を経て、1938年、京都帝国大学文学部文学科言語学専攻卒業。1941年、同大学大学院を修了、同大講師。1947年から助教授。1958年、京都大学教授。1962年、「イーリアス第二歌の研究」で京都大学より文学博士の学位を取得。1979年、停年退官、名誉教授。その後も光華女子大学や京都産業大学で教鞭を執った。