鶴田 義行(つるた よしゆき、1903年(明治36年)10月… 鶴田 義行(つるた よしゆき、1903年(明治36年)10月1日 - 1986年(昭和61年)7月24日)は、日本の水泳選手。1928年アムステルダムオリンピック並びに1932年ロサンゼルスオリンピックの男子200m平泳ぎの金メダリスト(競泳競技における日本人初の金メダリスト)。日本人初のオリンピック連覇者。男子200メートル平泳ぎの元世界記録保持者。鹿児島県鹿児島郡伊敷村大字上伊敷字飯山(現在の鹿児島市伊敷八丁目の一部)出身。 IOC(国際オリンピック委員会)が公認する記録
太刀若 峯五郎(たちわか みねごろう、1903年(明治36年… 太刀若 峯五郎(たちわか みねごろう、1903年(明治36年)10月1日 - 1988年(昭和63年)8月13日)は、三重県度会郡宇治山田町(現在の伊勢市)出身で高砂部屋(入門時は友綱部屋)に所属した大相撲力士。本名は馬場 米藏(ばば よねぞう)。身長178cm、体重98kg。得意手は左四つ、寄り。最高位は前頭6枚目(1937年1月場所)。 1917年(大正6年)に横綱・太刀山一行が伊勢に巡業に来た際に入門し、太刀山の内弟子として1918年(大正7年)1月場所に友綱部屋(前頭・海山太郎)から初土俵を踏んだ。この場所限りで太刀山が引退して年寄・東関を襲名して東関部屋を興したため移籍したが、1919年(大正8年)5月に行われた勝負検査役選挙での落選して廃業したため、高砂部屋(大関・2代朝潮)に移籍した。
西川 好次郎(にしかわ よしじろう、1903年10月 - 1… 西川 好次郎(にしかわ よしじろう、1903年10月 - 1990年)は、和歌山県日高郡寒川村(現:日高川町)出身の作詞家。大正・昭和時代に活動した。 1903年(明治36年)10月、寒川村の垣口家に出生。のち川上村の西川家で養子に迎えられた。 小学校高等科を卒業後は植林の仕事に就き、和歌山市を訪れた際に「紅葉渓納涼音頭」の公募に入選して懸賞金50銭を得た。尋常小学校の訓導であった1934年(昭和9年)、報知新聞社が皇太子(明仁)の生誕を記念して歌詞を一般公募した「皇太子殿下御降誕奉祝歌」において、全国から寄せられた約5,800編の中から西川の応募作が一等入選で採用され、東京音楽学校の作曲によりキングレコードから発売された。
榎本 栄一(えのもと えいいち、1903年10月 - 199… 榎本 栄一(えのもと えいいち、1903年10月 - 1998年10月12日)は、仏教詩人。 兵庫県淡路島三原郡阿万町(現南あわじ市)生まれ。五歳の時大阪に出て父母は小間物化粧品店を始める。高等小学校卒業の頃に父が死亡。19歳の頃から母と家業に精を出す。生田春月の『詩と人生』へ投稿。空襲で淡路へ逃れたのち大阪へ戻り知人の店舗化粧品部を担当。1950年東大阪市で化粧品店を開業。浄土真宗に帰依して念仏のうたと称する仏教詩を書く。1994年仏教伝道文化賞受賞。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
中村 能三(なかむら よしみ、1903年9月30日 - 19… 中村 能三(なかむら よしみ、1903年9月30日 - 1981年3月5日)は、日本の翻訳家(英米文学)。福岡県生まれ。日本における初期の職業翻訳家の一人。
加藤 建夫(かとう たてお、1903年(明治36年)9月28… 加藤 建夫(かとう たてお、1903年(明治36年)9月28日 - 1942年(昭和17年)5月22日)は、日本の陸軍軍人、戦闘機操縦者。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲三等功二級。北海道上川郡東旭川村(現:旭川市東旭川町)出身。旭川中学(現:北海道旭川東高等学校)、仙台陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校(専科)卒。 太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦時、戦隊長として「加藤隼戦闘隊」こと飛行第64戦隊を率い、一式戦闘機「隼」をもって活躍した、帝国陸軍(陸軍航空部隊)のみならず日本軍を代表するエース・パイロットの一人。 1903年(明治36年)9月28日、北海道上川郡にて屯田兵として京都綴喜郡から北海道に入植した父・鉄蔵、母・キミとの間に加藤家の末子(兄・農夫也、姉・貞)として誕生する。
大槻 文平(おおつき ぶんぺい、1903年9月27日 - 1… 大槻 文平(おおつき ぶんぺい、1903年9月27日 - 1992年8月9日)は、日本の実業家。三菱鉱業セメント社長、三菱鉱業会長、旧日経連(現経団連)会長を歴任した。宮城県名誉県民。 宮城県伊具郡丸森町に生まれる。第一高等学校を経て、1928年東京帝国大学法学部卒業。同年、三菱鉱業株式会社に入社。1950年同社取締役、1955年同社常務取締役、1959年同社副社長、1963年同社代表取締役社長。1973年三菱鉱業セメント株式会社代表取締役社長、1976年同社取締役会長、1986年同社取締役相談役。1992年三菱マテリアル株式会社最高顧問・相談役。 社外では、日本セメント協会会長(1975年 - 1990年)、日経連会長(1979年 - 1987年)、金曜会代表世話人(1979年 - )、日本弘道会理事(1984年 - )などを歴任した。
藤野 天光(ふじの てんこう、1903年〈明治36年〉9月2… 藤野 天光(ふじの てんこう、1903年〈明治36年〉9月27日 - 1974年〈昭和49年〉12月30日)は、日本の彫刻家。本名は藤野隆秋。号は当初舜正(しゅんせい)、後に天光に改めた。 群馬県館林町裏宿(現館林市城町付近)出身。千葉県市川市の地域文化発展に貢献。日展審査員を6回、さらに理事をつとめた。 戦後は文化運動者としても活動した。また師北村西望作の長崎平和祈念像の制作筆頭助手をつとめた。晩年は千葉県立美術館の建設促進に献身した。 1903年(明治36年)9月27日、藤野隆秋として群馬県館林市に生まれる。藤野家は旧館林藩士の家柄だった。 館林町立北尋常高等小学校(現・館林市立第一小学校)に学ぶ。
中澤 米太郎(なかざわ よねたろう、1903年(明治36年)… 中澤 米太郎(なかざわ よねたろう、1903年(明治36年)9月26日 - 1984年(昭和59年)2月5日)は、日本の教育者、政治家。岸和田市長を3期12年(1961年 - 1973年)務めた。 青年期には陸上競技(跳躍競技)選手として活躍し、棒高跳の日本記録をたびたび更新した。1928年アムステルダムオリンピックでは棒高跳と十種競技に出場、棒高跳で6位入賞を果たしている。 大阪府で生まれる。大阪府立岸和田中学校(現在の大阪府立岸和田高等学校)卒業。関西学院に在籍したのち、日本体育会体操学校(現在の日本体育大学)に進学卒業、東京高等師範学校研究科を卒業。 1922年(大正11年)、岸和田中学校5年次に日本陸上競技選手権大会に出場し、棒高跳で日本新記録(3m33)を樹立。
森 克己(もり かつみ、1903年9月26日 - 1981年… 森 克己(もり かつみ、1903年9月26日 - 1981年4月26日)は、日本の歴史学者。専門は対外関係史。中央大学文学部教授などを歴任した。 1903年、長野県下高井郡豊郷村(現:野沢温泉村)生まれ。旧制麻布中学校、第二高等学校を経て、1929年に東京帝国大学文学部国史学科卒業。 1941年から史料編纂官を務めた後、満洲建国大学助教授となり、1943年同教授。1945年敗戦により帰国。 1945年に『日宋貿易の研究』によって東京帝国大学文学博士号を取得。1947年から九州帝国大学法文学部教授を務めた。1952年からは横浜市立大学文理学部教授、1953年東京都立大学人文学部教授、1959年より中央大学文学部教授。
今井 忍(いまい しのぶ、1903年9月26日 - 1976… 今井 忍(いまい しのぶ、1903年9月26日 - 1976年)は、日本の会計学者。 島根県松江市出身。1931年東京商科大学卒。1962年「原価管理の基礎理論と生産技術との関連性に関する研究」で中央大学商学博士。1937年三菱化成工業勤務、1942年海軍省嘱託、日本原価計算協会常務理事、1946年物価庁参与、経済安定本部委員、1949年千葉工業大学教授、1951年中央大学教授、1963年成蹊大学教授。1975年退職。
田中 於菟弥(田中 於兎弥、たなか おとや、1903年9月2… 田中 於菟弥(田中 於兎弥、たなか おとや、1903年9月24日 - 1989年7月12日)は、インド文学者。
大沢 昌助(おおさわ しょうすけ、1903年9月24日 - … 大沢 昌助(おおさわ しょうすけ、1903年9月24日 - 1997年5月15日)は、昭和・平成の日本の洋画家。戦後二科会再建時の創立会員。80歳を過ぎてソフトライン、水平線シリーズなど簡潔で色彩豊かな独自の抽象絵画を確立した。東京都庁に壁画がある。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
久武 雅夫(ひさたけ まさお、1903年(明治36年)9月2… 久武 雅夫(ひさたけ まさお、1903年(明治36年)9月24日 - 2003年(平成15年)10月8日)は、日本の経済学者。専門は数理経済学。学位は、経済学博士(1958年)(学位論文「価格理論の基礎」)。一橋大学名誉教授。国際基督教大学第3代学長。 高知県生まれ。東京商科大学(現一橋大学)卒、同教授、一橋大学教授、1951年に佐藤信吉らと商業数学研究会(のちの日本経営数学会)を設立。1958年「価格理論の基礎」で経済学博士の学位を取得。1965年定年退官、名誉教授、1967年から69年まで国際基督教大学学長、名誉教授、駒澤大学教授、1981年定年。日本数理経済学会会長。2003年10月8日、急性呼吸不全のため川崎市川崎区の病院で死去。
川島 金次(かわしま きんじ、1903年(明治36年)9月2… 川島 金次(かわしま きんじ、1903年(明治36年)9月23日 - 1956年(昭和31年)3月26日)は、日本の新聞記者、政治家。衆議院議員(6期)、大宮市名誉市民(さいたま市名誉市民)。 埼玉県北足立郡大宮町(のち大宮市、現:さいたま市)で生まれる。1918年、国鉄大宮機関区機関車乗務員となり1920年、上野機関区に移動。1925年、中央大学経済科を卒業。 1926年10月、京城府朝鮮醸造協会誌編集主任となった後、日本連合通信社政治部記者となる。1936年、夕刊大宮社を設立し主幹、社長に就任。埼玉新聞社の創設に参画し編集局長となる。1937年大宮町会議員、1940年埼玉県会議員当選。1944年、大宮第一冶金工業を設立し社長に就任。
倉沢 剛(くらさわ たかし、1903年9月22日 - 198… 倉沢 剛(くらさわ たかし、1903年9月22日 - 1986年9月4日)は、日本の教育学・教育史学者。 長野県小県郡川辺村(現上田市)生まれ。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を出て小学校の代用教員を務めたあと、1927年東京高等師範学校文科卒業。 同年、長野県上田高等女学校教諭。1933年東京文理科大学教育学部卒業、埼玉県女子師範学校教諭。1937年東京女子高等師範学校教諭ならびに同助教授。1944年東京女子高等師範学校教授ならびに同教諭。1952年東京学芸大学教授。1954年から1957年まで、東京学芸大学附属世田谷小学校校長。1957年「米国におけるカリキュラム研究の歴史的考察」で東京文理科大学文学博士。
和田 洋一(わだ よういち、1903年9月22日 - 199… 和田 洋一(わだ よういち、1903年9月22日 - 1993年12月20日)は、ドイツ文学者。新聞学者(ジャーナリズム/マス・コミュニケーション研究者)。同志社大学名誉教授。同大学長・和田琳熊の子。 1903年、京都府京都市で同志社大学元学長・和田琳熊の子として生まれた。同年、日本基督教団室町教会で受洗。第三高等学校を経て、京都帝国大学文学部独文学科へ進んだ。1930年に卒業。 卒業後の同年、同志社大学予科講師に就いた。1931年、予科教授に昇格。1932年、内村鑑三の姪・内村秋子と結婚。1935年、中井正一、新村猛、久野収らと共に月刊誌『世界文化』を刊行。雑誌『世界文化』を通してファシズムに対抗する論陣を張り、人間の自由と尊厳を援護し続ける人物として知られるようになった。
今泉 秀夫(いまいずみ ひでお、1903年 <明治36年> … 今泉 秀夫(いまいずみ ひでお、1903年 <明治36年> 9月22日 - 1987年 <昭和62年> 6月9日)は、日本の経営者。国鉄スワローズ (現・東京ヤクルトスワローズ) オーナー等を務めた。位階は従四位。 山形県出身。1928年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に鉄道省に入省。1948年に東京鉄道管理局長に就任し、1949年には国鉄理事に就任した。1950年から1959年までに国鉄スワローズオーナーを務め、球団社長、交通協力会会長なども務めた。 1973年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1987年6月9日急性心不全のために死去。83歳没。死没日付をもって正五位から従四位に進階した。
石垣 綾子(いしがき あやこ、1903年9月21日 - 19… 石垣 綾子(いしがき あやこ、1903年9月21日 - 1996年11月12日)は、日本の女性問題評論家、社会運動家。旧姓・田中。 陸軍幼年学校物理学教授田中三四郎の二女として東京(現在の東京都新宿区市谷加賀町)に生まれる。2歳のときに早稲田南町に転居した。転居先の近所には夏目漱石が居住しており、漱石の三女とは小学校で同級だった。4歳の時母親と死別し、父親の手で育つ。府立第一高女に学び、YMCAの英語クラス、バイブル・クラスに通って社会運動にふれる。卒業後は自由学園高等科に入学。自由学園卒業後。警察に検挙されたことをきっかけに、家族の勧めにより、1926年に外交官としてワシントンに赴任する姉夫婦とともに米国に渡り、反戦・社会運動に参加する。
正田 英三郎(しょうだ ひでさぶろう、1903年9月21日 … 正田 英三郎(しょうだ ひでさぶろう、1903年9月21日 - 1999年6月18日)は日本の実業家。群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)出身。
木村 鉱二郎(きむら こうじろう、1903年9月21日 - … 木村 鉱二郎(きむら こうじろう、1903年9月21日 - 1995年2月18日)は、日本の経営者。日本冷蔵(現在のニチレイ)社長、会長を務めた。東京府出身。 1926年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に合同毛織に入社。日本水産を経て、1945年12月に日本冷蔵取締役に就任。 1951年に社長に就任し、1968年3月には会長に就任。1979年3月に相談役に就任。 1962年に藍綬褒章を受章し、1975年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1995年2月18日心不全のために死去。91歳没。
大河原 一次(おおかわら いちじ、1903年(明治36年)9… 大河原 一次(おおかわら いちじ、1903年(明治36年)9月20日 - 1988年(昭和63年)3月7日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員。 福島県岩瀬郡長沼町(現須賀川市)で生まれる。1921年(大正10年)錦城中学校(現錦城学園高等学校)卒を経て、早稲田大学高等師範英文科を修了した。 1927年(昭和2年)古河鉱業(現古河機械金属)に入社し好間鉱業所に配属された。1930年(昭和5年)に退社し労働運動、農民運動に加わる。1945年(昭和20年)の終戦を迎えて常磐地方で日本社会党の支部と労働組合の結成に尽力し、日本炭鉱労働組合常磐地方本部執行委員長に就任し8期在任した。その他、福島県労働対策審議会委員などを務めた。
勝木 新次(かつき しんじ、1903年9月19日 - 198… 勝木 新次(かつき しんじ、1903年9月19日 - 1985年1月27日)は、日本の労働衛生学者。弟は生理学者の勝木保次。 石川県出身。旧制小松中学、旧制第三高校を経て、東京帝国大学医学部卒業、1934年医学博士。大原記念労働科学研究所に勤め、所長、出版部。明治生命厚生事業団体力医学研究所。
石井 健一郎 (いしい けんいちろう、1903年9月19日 … 石井 健一郎 (いしい けんいちろう、1903年9月19日 - 2001年4月29日)は、元大同特殊鋼社長。同社名誉会長。元日経連副会長。愛知県経営者協会元会長。香川県高松市出身。 1924年(大正13年)第一回選抜高校野球大会において、母校である高松商業の監督を務め優勝に導く。(大同特殊鋼 創業100周年特設サイト 選抜発祥の地) 1926年(大正15年)、名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業後、大同製鋼(現大同特殊鋼)に入社。モータリゼーション時代の到来を予見し、特殊鋼一貫製造拠点の知多工場を建設。また、巧みな手腕で業界再編成を推進。同社の礎を築き、同社“中興の祖”と称されている。
親泊 朝省(おやどまり ちょうせい、1903年(明治36年)… 親泊 朝省(おやどまり ちょうせい、1903年(明治36年)9月18日 - 1945年(昭和20年)9月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。沖縄県出身。大本営陸軍部報道部部長、内閣情報局情報官。 1903年(明治36年)9月18日、沖縄県に父・親泊朝擢と母・ウシの間に生まれる。浦添朝満(尚維衡)の後裔に当たる。親泊朝晋は弟。 沖縄県立第一中学校、熊本陸軍地方幼年学校(1918年入学)を経て、1925年陸軍士官学校騎兵科首席卒業(1921年入学、37期)。37期の同期に加藤建夫、山縣有光、毛利元道、井本熊男、杉田一次、種村佐孝、大蔵栄一、村中孝次など。 1928年、陸軍中尉。1931年の満州事変の際には古賀伝太郎中佐の下、騎兵第27連隊第1中隊第3小隊長として出陣。
美作 太郎(みまさか たろう、1903年9月17日 - 19… 美作 太郎(みまさか たろう、1903年9月17日 - 1989年7月3日)は、昭和期の編集者、出版会社経営者、出版学研究者。 熊本県熊本市生まれ。1927年東京帝国大学法学部卒業後、日本評論社に入社。東大で教わった師の河合栄治郎の著作『トーマス・ヒル・グリーンの思想体系』『ファッシズム批判』『学生に与う』『学生叢書』などの出版を担当する。 1938年、河合栄治郎事件が起こり、河合著の『ファッシズム批判』などが発禁となる。自身は1944年に横浜事件により逮捕される。両事件により、日本評論社は相当な被害を被る。戦後は同社に復帰し、編集局長、専務取締役になる。1951年退社し、1952年に新評論社(のち新評論)を創立し、社長、のち会長となる。
北沢 清(きたざわ きよし、1903年〈明治36年〉9月17… 北沢 清(きたざわ きよし、1903年〈明治36年〉9月17日 - 1980年〈昭和55年〉3月15日)は、日本オリンピック委員会 (JOC) 名誉委員、日本体育協会会賓、新聞記者。現在の東京都中央区[要出典]出身。 東京農業大学在学中は陸上部に所属し、1928年の日本学生陸上競技連合立ち上げに参加する。1929年に大学を卒業すると大阪毎日新聞社へ入社し運動部員として社が主催していた自転車ロードレースの運営に関わるようになり東京日日新聞へ移動すると日本自転車連盟の立ち上げにも参加し創設者の一人となる。その後1941年には当時の文部省体育局運動課長に就任し、第二次世界大戦後には全国中等学校野球大会再開に尽力するが、直後に公職追放となる。
男女ノ川 登三(みなのがわ とうぞう、1903年9月17日 … 男女ノ川 登三(みなのがわ とうぞう、1903年9月17日 - 1971年1月20日)は、茨城県筑波郡菅間村(現在のつくば市磯部)出身で佐渡ヶ嶽部屋(入門時は高砂部屋)に所属した大相撲力士。第34代横綱。本名は坂田 供次郎(さかた ともじろう(きょうじろう))。 1903年9月17日に茨城県筑波郡菅間村(現在のつくば市磯部)で農家を営む一家に三男として生まれる。元々は屋根の修理屋で働いていたが、ある時修理中の屋根を踏み抜いてしまい、その力の強さに驚いた周囲の勧めで地元の相撲大会に出場するといきなり優勝してしまった。そのまま筑波郡大会・茨城県大会でも優勝し、自信を持って力士を志すようになった。そんなある日、偶然茨城県へ巡業に来ていた阿久津川高一郎を訪ねて入門を志願するものの、最初は厳しい稽古の話に終始したため諦めて戻るが、力士を目指す気持ちが全く揺るがなかったために4度訪問して、ようやく入門を許可された。
石村 英雄(いしむら ひでお、1903年(明治36年)9月1… 石村 英雄(いしむら ひでお、1903年(明治36年)9月16日 - 1963年(昭和38年)4月24日)は、昭和期のジャーナリスト、労働運動家、実業家、政治家。衆議院議員(4期)。 山口県吉敷郡大歳村出身。1926年(大正15年)東京帝国大学経済学部経済学科を卒業した。 中外商業新報社に入社し記者として勤務。経済部に所属して、国内外の経済や財政金融の調査研究を行った。記者と並行して労働運動に身を投じ、日本俸給生活者組合評議会執行委員として会社員の生活向上に尽力した。1928年(昭和3年)中外商業新報社を退職、その後もときには触法行為となりながらも労働運動を続けた。山口に帰郷、山口県燃料配給統制組合理事長、山一燃料取締役社長、山口県地方労働委員会委員、中日文化研究所理事などを務めた。
浅見 篤(あさみ あつし、1903年9月15日 - 1975… 浅見 篤(あさみ あつし、1903年9月15日 - 1975年)は、日本のフランス文学者。浅見淵の実弟。 梶井基次郎らの『青空』に参加した。梶井の『ある心の風景』の"病気の話"や"朝鮮の鈴の話"は浅見からきいた話によるものと、中谷孝雄は述べている。『新青年』にアガサ・クリスティーの『通りすがりの男』や、ダシール・ハメットの『緑色のネクタイ』の邦訳を掲載したこともある。 1930年に京都帝国大学文学部仏文科を卒業。 その後、天理大学、関西大学、京都外国語大学で教授を務めた。 酒好きで、贅沢屋で、異国趣味のところが梶井基次郎と気が合い、毎晩のように祇園石段下のカフェ『レーヴン』で飲んでいた[要出典]。
佐藤 勇二(さとう ゆうじ、1903年9月15日 - 197… 佐藤 勇二(さとう ゆうじ、1903年9月15日 - 1977年12月4日)は、日本の実業家。三菱自動車工業初代社長。 広島県福山市出身。山口高等商業学校を経て、旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。 三菱造船勤務、水島航空機製作所業務部長、水島機器製作所営業部長、三菱重工業副社長などを経て、1970年三菱自動車工業初代社長に就任。クライスラーとの提携を実現。合弁事業を行い、アメリカへの進出を進め、1971年には北米のクライスラーチャンネルでコルトギャランの発売を開始。 1977年12月4日世田谷区の橋本病院で肝硬変のため死去。享年74。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小杉 義男(、1903年〈明治36年〉9月15日 - 196… 小杉 義男(、1903年〈明治36年〉9月15日 - 1968年〈昭和43年〉3月12日)は、日本の俳優。叔父に日本画家の小杉放庵、長女は元女優の小杉公子。栃木県出身。 栃木県上都賀郡日光町生まれ。日本館にいた石井漠に舞踊、松島詩子にコールユーブンゲンを習い、浅草オペラの歌手として活躍する。その後は、伊庭孝の新星歌舞劇団を経て新劇協会に入り、帝国ホテル演芸場での『桜の園』のヤーシャで認められる。 1925年、築地小劇場に入り、『どん底』の靴屋のアリョーシカで認められ、これを持ち役とし、以降はこわもての風貌を武器に脇役として個性的な演技で活躍。映画初出演は、1927年に築地小劇場の座員と共に出演した『黎明』。
斎藤 巍洋(さいとう たかひろ、1903年(明治36年)9月… 斎藤 巍洋(さいとう たかひろ、1903年(明治36年)9月14日 - 1944年(昭和19年)9月5日)は、昭和時代戦前の競泳選手。1924年パリオリンピック日本代表。 大阪府に生まれる。岸和田中学校を経て、立教大学に入学。在学中、背泳ぎと短距離自由形で、何度か日本新記録を更新した。また、1924年パリオリンピックに日本代表として出場し、男子100m背泳ぎで6位に入賞した。ほか、1923年(大正12年)に開催された第6回極東選手権競技大会では100ヤード背泳ぎで優勝した。 1927年(昭和2年)大学を卒業して、大阪毎日新聞社に入社。運動部記者を務める傍ら、毎日の浜寺水泳学校の教師も務めた。 1934年(昭和9年)12月17日、ブラジルより請われ水泳コーチとして1年の契約期間で遠征し、現地で海軍生徒や関係者に日本独特の泳法を指導した。
龍口 直太郎(たつのくち なおたろう、1903年9月14日 … 龍口 直太郎(たつのくち なおたろう、1903年9月14日 - 1979年8月1日)は、日本のアメリカ文学研究者。早稲田大学名誉教授。 「瀧口直太郎」「滝口直太郎」と名前が誤記されることもある。 スタインベック、コールドウェル、カポーティなどの作品を数多く翻訳。また英国文学でもモームの翻訳が多く、日本モーム協会に参加。英文解釈や作文などの教科書も数多く執筆した。 東京府生まれ。聖学院中学校(現聖学院高等学校)卒業後、東京外国語学校英語科に進学、卒業。アメリカ文学を専攻し、早稲田大学教育学部教授を長年務め、退職後は名誉教授に就いた。 早稲田大学での教え子に角野栄子がいた。 その他共編、改訂で教科書、参考書が多数にのぼる。
花房 満三郎(はなぶさ まんさぶろう、1903年(明治36年… 花房 満三郎(はなぶさ まんさぶろう、1903年(明治36年)9月14日 - 1968年(昭和43年)3月20日)は、日本の実業家、編集者。文藝春秋元編集長、文藝春秋新社(現・株式会社文藝春秋)元取締役、新有社元専務。 1903年、内閣官僚を務めた花房直三郎の三男として生まれる。1927年、立教大学文学部卒業。 文藝春秋社に入社し、文藝春秋編集長(1939年‐1942年、1943年‐1944年)を務めた。 1946年、文藝春秋新社(現・株式会社文藝春秋)常任監査役に就任し、取締役を歴任。1948年、新有社専務に就任した。 妻・春子は、洋画家で日本初のカフェとされる「カフェー・プランタン」を創業した松山省三の長女で、歌舞伎役者の五代目河原崎國太郎の妹。
田中 楢一(たなか ならいち、1903年9月13日 - 19… 田中 楢一(たなか ならいち、1903年9月13日 - 1973年7月25日)は、日本の内務官僚。兵庫県出身。 第一高等学校および東京帝国大学法学部を経て、1929年に内務省に入省。全国の特別高等警察の総元締めである警保局保安課に勤務し、その後は特高官僚としてのキャリアを歩んだ。 第二次世界大戦後は、大阪市警察本部長、日本住宅公団大阪支所長、大阪府副知事を歴任。
柳沢 米吉(柳澤、やなぎさわ よねきち、1903年〈明治36… 柳沢 米吉(柳澤、やなぎさわ よねきち、1903年〈明治36年〉9月12日 - 1995年〈平成7年〉1月31日)は、昭和時代の土木工学者。内務官僚。実業家。海上保安庁長官。群馬県安中市出身。 群馬県碓氷郡安中町上野尻(現・安中市安中)に生まれる。旧制群馬県立高崎中学校、旧制第八高等学校を経て、1927年(昭和2年)に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業後、内務省に入る。 1943年(昭和18年)運輸通信省港湾局建設課長、1946年(昭和21年)港湾局計画課長、1948年(昭和23年)中国海運局長兼広島海上保安本部長、1951年(昭和26年)海上保安庁長官に就任。同年、不正入出国に関する件で衆議院行政監察特別委員会に証人喚問された。
鈴木 清(すずき きよし、1903年9月12日 - 1967… 鈴木 清(すずき きよし、1903年9月12日 - 1967年10月6日)は、日本の陶芸家。同じく陶芸家の鈴木卓司は次男。 京都府京都市東山区に生まれる。京都市立第二工業学校卒業。人間国宝であった富本憲吉に師事。1939年、国画会賞を受賞。1941年、第4回新文展に「茄子の図大鉢」を出品して特選を受賞。1942年、国画会会員となる。1947年、新匠美術工芸会立ち上げに参画。1957年、日本工芸会正会員となる。1967年10月6日、狭心症のため京都市内の病院で死去。
梅根 悟(うめね さとる、1903年9月12日 - 1980… 梅根 悟(うめね さとる、1903年9月12日 - 1980年3月13日)は、日本の教育学者。専門は西洋教育史。東京教育大学名誉教授・和光大学初代学長。 福岡県生まれ。東京高等師範学校を経て、(旧制)東京文理科大学卒業。1936年から埼玉県内の中学校に数校勤務し、1946年埼玉県川口市助役。1948年、東京文理科大学助教授、翌年東京教育大学教授。1966年定年退官、名誉教授[要出典]、和光大学を創設して初代学長に就く。 戦後、石山脩平とともにコアカリキュラム連盟(現、日本生活教育連盟)を主宰し、和光学園を実験校とした。1951年に日教組の教研集会講師を務めて以来、長年にわたって日教組の教育研究運動に協力した。
清水 みのる(しみず みのる、本名:清水 實、1903年(明… 清水 みのる(しみず みのる、本名:清水 實、1903年(明治36年)9月11日 - 1979年(昭和54年)12月10日)は、日本の作詞家。主に昭和初期から中期にかけて活躍した。 静岡県浜名郡伊佐見村(現在の浜松市中央区伊左地町)生まれ。少年期は水泳に熱中した。 旧制浜松中学(現・浜松北高校)を経て、京都の予備校へ数ヵ月通った後、山陽中学校(現・山陽高等学校)への編入を経て、立教大学文学部英文学科卒。立教大学では水泳部に入り、主将として、短距離自由形で全日本ベスト5に入る好記録をマークした。詩人のサトウハチローは立教の先輩であり、レースが始まると必ず神宮プールの玄関に来てみのるを呼び出したという。
大蔵 栄一(おおくら えいいち、1903年(明治36年)9月… 大蔵 栄一(おおくら えいいち、1903年(明治36年)9月11日 - 1979年(昭和54年)1月29日)は、日本の陸軍軍人。二・二六事件当時の革新派青年将校の中心的人物。 大分県日田市に生まれる。福岡県立中学修猷館に入学するが、修学半ばの1918年(大正7年)に、軍人の道を志して熊本陸軍地方幼年学校に進学(22期)。熊本幼年学校の同期には、後の同志となる菅波三郎・香田清貞・朝山小二郎がいる。1923年(大正12年)、陸軍士官学校予科を卒業。士官候補生として朝鮮羅南の歩兵第73連隊に配属され、同年9月に陸軍士官学校本科に入学。1925年(大正14年)7月、陸軍士官学校を卒業(37期)し、同年8月、歩兵少尉として歩兵第73連隊に復帰。
山之口 貘(やまのくち ばく、1903年〈明治36年〉9月1… 山之口 貘(やまのくち ばく、1903年〈明治36年〉9月11日 - 1963年〈昭和38年〉7月19日)は、沖縄県那覇区(那覇市)東町大門前出身の詩人である。本名は、山口 重三郎(やまぐち じゅうさぶろう)。197編の詩を書き4冊の詩集を出した。 上京後、職を転々としながら放浪生活を送る。金子光晴の知己を得て詩誌「歴程」に参加。生活苦を風刺的にユーモアを交えてうたった。第1詩集『思弁の苑』(1938年)のほか、『鮪に鰯』(1964年)など。 人生の様々な場面を純朴で澄んだ目線で描いた。『妹へおくる手紙』『生活の柄』『自己紹介』『結婚』『頭をかかえる宇宙人』『年越の詩』『思ひ出』では上京して金に苦労した時の自伝。
松崎 朝治(まつざき あさじ、1903年〈明治36年〉9月1… 松崎 朝治(まつざき あさじ、1903年〈明治36年〉9月10日 - 1964年〈昭和39年〉3月31日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 埼玉県大里郡熊谷町(現:熊谷市)で生まれる。旧制熊谷中学を経て、1925年(大正14年)、早稲田大学政治経済科を卒業した。 その後、松崎製糸社長、埼玉繊維工業社長、丸佐生糸取締役、日本輸出生糸保管監査役、日本製糸協会常任幹事、ジャパン・シルク・アソシエーション理事などを務めた。 1933年(昭和8年)5月、1937年(昭和12年)5月、1942年(昭和17年)7月の3回、熊谷市会議員に選出されている。またこの間、1939年(昭和14年)5月15日から1942年(昭和17年)7月20日まで第3代同副議長を、1944年(昭和19年)6月1日から1945年(昭和20年)4月25日まで第5代同議長を務めた。
野田 卯一(のだ ういち、1903年(明治36年)9月10日… 野田 卯一(のだ ういち、1903年(明治36年)9月10日 - 1997年(平成9年)1月29日)は、日本の政治家、大蔵官僚。池田勇人・福田赳夫とともに、「大蔵省の3田」と呼ばれた。 岐阜県岐阜市出身。野田繁吉の五男として生まれる。岐阜中学校(現在の岐阜県立岐阜高等学校)、第一高等学校を経て、1927年(昭和2年)3月に東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業した後、大蔵省に入省(大臣官房文書課属)。在学中の1926年(大正15年)11月に高等試験の行政科試験と司法科試験に合格した。 浜松税務署長、松戸税務署長、為替局総務課長、興亜院経済部第四課長、大蔵省総務局総務課長、門司海運局次長、大蔵省金融局次長、外資局長、主計局長、専売局長官などを歴任し、1948年(昭和23年)3月に大蔵次官に就任した。
八田 卯一郎(はった ういちろう、1903年9月10日 - … 八田 卯一郎(はった ういちろう、1903年9月10日 - 1989年4月20日 )は、大阪府大阪市出身の裁判官、サッカー選手。
神野 太郎(かみの たろう、1903年9月9日 - 1983… 神野 太郎(かみの たろう、1903年9月9日 - 1983年9月24日)は、愛知県渥美郡牟呂村(現・豊橋市)出身の実業家。中部瓦斯(現在のサーラエナジー)社長。豊橋市名誉市民。 神野新田を開発した初代神野金之助の孫であり、豊橋市名誉市民である神野三郎の長男である。西春日井郡清洲村の旧家に生まれた三郎は、18歳の時に新田開発を行うために渥美郡にやってきて、1898年(明治31年)に義兄神野金之助の三女りきと結婚した。 1903年(明治36年)9月9日、神野太郎は愛知県渥美郡牟呂村大字牟呂字松島44番地(現・豊橋市神野新田町)に生まれた。1908年(明治41年)には豊橋市大字花田字城海津の借家に転居し、1910年(明治43年)に豊橋市立狭間尋常小学校(現・豊橋市立松山小学校)に入学した。
牛島 辰弥(うしじま たつや、1903年9月9日 - 197… 牛島 辰弥(うしじま たつや、1903年9月9日 - 1975年7月16日)は、日本の鉄道官僚。 牛島辰五郎の三男横浜二中、一高を経て昭 3.3 東京帝国大学法学部法律学科(仏法)卒 3.10 高等試驗行政科試験合格 4.4 鉄道属・大臣官房勤務 4 . 6 鉄道局書記・東京鉄道局勤務・大崎駅助役 5.5 新橋運輸事務所運輸課庶務掛勤務 7.4 水戸運輸事務所営業 神奈川県横浜市出身。1925年に東京帝国大学法科を卒業し、同年に鉄道省に入省。大崎駅助役。 鉄道省業務局総務課長、名古屋鉄道局長、運輸通信省鉄道総局職員局長、運輸省自動車局長などを経て、1952年1月から1954年8月3日まで運輸事務次官を務める。
石田 磊(いしだ らい、明治36年(1903年)9月8日 -… 石田 磊(いしだ らい、明治36年(1903年)9月8日 - 昭和62年(1987年))は、日本の商工官僚・実業家。通産省鉱山局長。 鳥取県米子市明治町出身。石田悦の長男。 大正14年(1925年)、文官高等試験行政科に合格。昭和2年(1927年)東京商科大学(現一橋大学)卒。商工省に入省。 昭和15年(1940年)博覧会主任官として渡米、昭和16年(1941年)より満州国政府招聘、昭和20年(1945年)商工省復帰、鉱山局長、大阪商工局長を歴任。 昭和24年(1949年)退官、同年平仙レース(株)顧問、大日実業(株)取締役、昭和28年(1953年)カナダ国トロント市国際見本市に参加、欧米各国を歴訪した。
大島 一郎(おおしま いちろう、1903年9月8日 - 19… 大島 一郎(おおしま いちろう、1903年9月8日 - 1985年4月21日)は、日本の実業家。中日新聞社社主、東海テレビ放送会長、東海ラジオ放送会長を務めた。愛知県東春日井郡小幡村(守山町→守山市を経て現在の名古屋市守山区)出身。 東海テレビ放送、東海ラジオ放送の創業者。 1927年(昭和2年)に早稲田大学政治経済学部を卒業し、時事新報を経て1929年(昭和4年)に祖父の大島宇吉が興した新愛知新聞社へ入社。傘下の國民新聞総務局長を経て1935年(昭和10年)に伯父の大島慶治郎が死去した後を受けて新愛知支配人となり、1941年(昭和16年)より同社社長に就任。翌1942年(昭和17年)には戦時下の新聞統制を受けて競合紙の名古屋新聞との合併により発足した中部日本新聞社の初代社長に就任し、名古屋新聞総務局長の小山龍三(小山松寿の娘婿)を副社長に迎える。
島木 健作(しまき けんさく、1903年9月7日 - 194… 島木 健作(しまき けんさく、1903年9月7日 - 1945年8月17日)は、日本の小説家。本名は朝倉 菊雄(あさくら きくお)。高見順・中野重治・徳永直・林房雄らとともに、転向文学を代表する作家の1人。 農民運動に加わり、投獄され転向。この体験を元にした『癩』(1934年)を発表して注目された。『生活の探求』(1937年)は、当時の若者たちに多大な影響を与えた。遺作に『黒猫』(1945年)、『赤蛙』(1946年)などがある。 現在の北海道札幌市中央区生まれ。2歳で父と死別、母に育てられる。家計を助けるために高等小学校を中退、銀行の給仕・玄関番などをしながら苦学した。 旧制北海中学校(現・北海高等学校)卒業。