金 正斗(キム・ジョンドゥ、朝鮮語: 김정두、1918年8月… 金 正斗(キム・ジョンドゥ、朝鮮語: 김정두、1918年8月2日 - 1985年4月5日)は、大韓民国の裁判官、弁護士、政治家。大邱弁護士会(現・大邱地方弁護士会)会長、第8代韓国国会議員、民権党総裁権限代行を歴任した。 本貫は慶州金氏。元ソウル高等法院院長の金東建(朝鮮語版)は娘婿、裁判官の潘侹佑は孫娘婿。 日本統治時代の慶尚北道高霊郡出身。京城第1高等普通学校(現・京畿高等学校)、1941年明治大学法科卒。1945年司法要員考試合格。1948年大邱地方法院(朝鮮語版)判事、1951年大邱高等法院(朝鮮語版)判事、大邱地方法院・ソウル高等法院(朝鮮語版)部長判事、1968年第21代大邱弁護士会(現・大邱地方弁護士会)会長、第8代国会議員、慶州金氏宗親会中央会副会長、崇恵殿陵保存会専務理事、新民党統一分科委員長・大邱東地区党委員長、民権党中央党事務総長・慶北第2地区党委員長・総裁代行を務めた。
石澤 夏郎(いしざわ なつろう、1918年8月1日 - 20… 石澤 夏郎(いしざわ なつろう、1918年8月1日 - 2003年3月21日)は、日本の経営者。日本酸素社長、会長を務めた。東京都出身。 1941年に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業し、同年に南洋拓殖に入社。 1942年に兵役主計中尉を経て、1946年に日本酸素に転じ、1968年に取締役に就任し、1972年に常務、1977年に専務を経て、1978年2月には社長に就任。1986年7月から1991年6月までに会長を務めた。 1983年4月に藍綬褒章を受章。。 2003年3月21日急性心筋梗塞のために死去。84歳没。
蜂谷 彌三郎(はちや やさぶろう、1918年(大正7年)8月… 蜂谷 彌三郎(はちや やさぶろう、1918年(大正7年)8月 - 2015年(平成27年)6月10日)は、日本のシベリア抑留経験者。釈放後にソビエト連邦の女性と結婚して約40年間居住の後、日本に帰国した。名前は蜂谷弥三郞とも表記される。 滋賀県草津市出身。1941年に結婚して妻および両親と朝鮮半島に移住し、陸軍の軍属として勤務する。この間に1女をもうけた。 朝鮮半島で太平洋戦争の終戦を迎える。翌1946年7月に、家宅捜索を受けてソ連の軍隊に強制連行され、裁判を受けてシベリアで強制労働に従事する。ソ連側からの容疑は身に覚えのないスパイ容疑であった。収容所内では理容とマッサージを修得することで、生き延びることができた。
金 振晩(キム・ジンマン、朝鮮語: 김진만、1918年7月3… 金 振晩(キム・ジンマン、朝鮮語: 김진만、1918年7月31日または1918年11月11日 - 2006年5月10日)は、大韓民国の政治家、実業家。第3・4・6・7・8・9・10代韓国国会議員、第9代国会副議長。本貫は江陵金氏(朝鮮語版)。号は東谷(トンゴク、동곡)。 日本統治時代の江原道三陟郡(現・東海市)出身。1936年に日本浪華商業学校を卒業し、1937年に同志社高等商業学校で修学した。その後は金融組合及び会社で勤務し、解放後は三陟開発北三化学工業所自治委員長・常務理事・理事長を務めた。 1954年の第3代総選挙で自由党所属で初当選し、国会議員を7期務めたほか、自由党三陟郡党副委員長、民主共和党党務委員、院内総務、財政委員長、国会商工委員長、国会副議長、アジア国会議員連合(APU)第9次総会議長、韓英議員協会会長を歴任した。
九鬼 喜久男(くき きくお、1918年(大正7年)7月31日… 九鬼 喜久男(くき きくお、1918年(大正7年)7月31日 - 2005年(平成17年)10月31日)は、日本の実業家、政治家。第12代四日市市長(1966年(昭和41年)1月22日 - 1972年(昭和47年)11月18日)。九鬼産業グループの経営者。三重県松阪市飯高町(当時の飯南郡波瀬村)の出身、四日市九鬼家の婿養子で、旧姓は田中。四日市公害(四日市ぜんそく)裁判の引き金を引いた政治家である。 飯南郡波瀬村の旧家(大山林地主)田中家で田中彦左衛門の二男として誕生する。婿養子として結婚する前の姓名は田中喜久男であった。三重県知事(1955年 - 1972年)を務めた田中覚とは同族で、遠戚関係にあった。
鈴木 光枝(すずき みつえ、本名:佐々木 光枝、1918年7… 鈴木 光枝(すずき みつえ、本名:佐々木 光枝、1918年7月29日 - 2007年5月22日)は、日本の女優。元劇団文化座代表。文化座創設メンバーの一人。昭和・平成期を代表する新劇女優として知られ、晩年は、新劇界の重鎮として重きをなした。
天城 月江(あまぎ つきえ、1918年〈大正7年〉7月29日… 天城 月江(あまぎ つきえ、1918年〈大正7年〉7月29日 - 2005年〈平成17年〉)は、元宝塚歌劇団(元雪組・星組組長)の人物である。本名は古家 三保子。静岡県浜松市出身。宝塚歌劇団時代の公称身長は166cm。宝塚歌劇団時代の愛称はスロちゃん。宝塚歌劇団24期生。 1934年、宝塚音楽歌劇学校(現在の宝塚音楽学校)に入学し、宝塚少女歌劇団(現在の宝塚歌劇団)に入団。当時は学校と劇団は一体で、入学イコール入団であった。宝塚入団時の成績は90人中7位。初舞台は1935年である。 1950年 - 1951年、雪組組長。 1953年 - 1969年、星組組長。 1978年、宝塚歌劇団退団。 2014年、設立された『宝塚歌劇の殿堂』最初の100人のひとりとして殿堂入り。
天野 太郎(あまの たろう、1918年7月27日 - 199… 天野 太郎(あまの たろう、1918年7月27日 - 1990年11月15日)は、日本の建築家。フランク・ロイド・ライトに学び、工学院大学助教授、東京芸術大学教授で教鞭を歴任する中、吉原正、武藤章らと設計活動を行った。1990年従四位勲三等瑞宝章。 1918年広島県呉市生れ。第一早稲田高等学院を経て、1942年早稲田大学理工学部建築学科入学。在学中会津八一に師事し、大竹十一、小堀鐸二、円堂政嘉らと親交を持つ。卒業後に鹿島建設設計部に入社し、目白ヶ丘教会の設計のため遠藤新建築創作所に樋口清、吉原正らと出向する。遠藤新の薫陶を受け、1952年に遠藤の師であるライトの下に遊学する。その他に、鹿島建設に顧問でいた吉田鉄郎の影響も受ける。
山村 雄一(やまむら ゆういち、1918年7月27日 - 1… 山村 雄一(やまむら ゆういち、1918年7月27日 - 1990年6月10日)は、臨床免疫学者。 結核を中心とした免疫学・医学研究に貢献した。長男は東海大学医学部教授の山村雅一。孫は吉本新喜劇の信濃岳夫。 大阪府大阪市天王寺区生まれ。 1941年大阪大学医学部卒。海軍軍医学校軍医科69期14班班長を務めた後太平洋戦争中は日本海軍の軍医として転戦。1949年大阪大学医学博士。「結核菌の安息香酸代謝に就て」。1956年に国立刀根山病院内科医長、1957年に九州大学医学部生化学教授、1962年に大阪大学医学部教授、1967年に同大学医学部長、1979年から1985年まで大阪大学総長を務めた。 癌の免疫療法であるBCG-CWSを作る。
江口 英一(えぐち えいいち、1918年7月27日 - 20… 江口 英一(えぐち えいいち、1918年7月27日 - 2008年11月22日)は、日本の社会学者。中央大学名誉教授。社会福祉、社会保障、貧困や日雇い労働者の問題を研究した。 愛知県出身。1938年第八高等学校 (旧制)卒業。1941年東京帝国大学経済学部卒。1948年専修大学経済学部助教授、1956年北海道大学教育学部助教授、1959年日本女子大学文学部教授、1968年中央大学経済学部教授。1989年定年、名誉教授。1981年野呂栄太郎賞受賞。1982年「現代の「低所得層」―「貧困」研究の方法」で日本学士院賞受賞。1983年「現代の「低所得層」」で中央大学経済学博士。 なお、日本女子大学や中央大学の通信教育課程の社会政策担当も兼任した。
福永 光司(ふくなが みつじ、1918年7月26日 - 20… 福永 光司(ふくなが みつじ、1918年7月26日 - 2001年12月20日)は、日本の中国学者・中国思想史研究者。京都大学名誉教授。老荘思想・道教研究の第一人者として知られる。 1918年、大分県下毛郡鶴居村大字高瀬(現:中津市)の農家に生まれた。大分県立中津中学校(現:大分県立中津南高等学校)を卒業し、広島高等師範学校(現:広島大学)文科第一部で学んだ。1940年、京都帝国大学文学部哲学科に入学し、支那哲学史を専攻した。1942年9月に卒業し、同大学大学院に入学。しかし、同年10月には大学院を休学し、現役兵として野砲兵第6連隊補充隊(熊本)に入隊。1944年に陸軍砲兵少尉、1945年に陸軍砲兵中尉。
水野 祐(みずの ゆう、1918年7月25日 - 2000年… 水野 祐(みずの ゆう、1918年7月25日 - 2000年8月28日)は、日本の古代史学者。早稲田大学名誉教授。 1918年、東京生まれ。本名・水野正圀。石坂家の長男として生まれるが、母方の水野家の養子に入る。 東京府立第二中学校(現・東京都立立川高等学校)、第一早稲田高等学院を卒業。早稲田大学文学部史学科国史専攻で日本古代史と文化人類学を学び、1941年に卒業。1946年4月、復員。 1972年、文学博士。早稲田大学文学部教授を経て、1989年、定年、名誉教授となる。日本古代史について一般向け著書を多くなした。著作集全10巻がある。 門下生に金鉉球など。 『日本古代王朝史論序説』(1952年初版、1954年増訂版)において万世一系を否定し、日本の古代王朝は単一王朝ではなく、古王朝(先王朝と崇神王朝(崇神 - 仲哀))・中王朝(仁徳王朝(応神 - 雄略)と後仁徳王朝(飯豊))・新王朝(継体王朝)の三王朝が交替した、とする、いわゆる「三王朝交替論」を提唱した。
蛭田 禎男(ひるた さだお、1918年(大正7年)7月25日… 蛭田 禎男(ひるた さだお、1918年(大正7年)7月25日 - 2020年(令和2年)8月3日)は、日本の教育者、歴史家である。長年教諭を務め、小学校校長を務めた後、有漢町教育委員会指導員となり、有漢町の歴史を編纂した人物。岡山県高梁市出身。 1918年(大正7年)、岡山県上房郡高梁町川端(現:高梁市)で出生する。1930年(昭和10年)に上房郡有漢村(後の有漢町)の蛭田傳助の養子となる。岡山県師範学校(現:岡山大学教育学部)を卒業する。 有漢中学校や有漢東小などで教師を40年務める。小学校の校長を務めた後、地元の有漢の歴史や伝承の編纂を行う。1991年(平成3年)には、「有漢点描」として全9巻出版し、明治、大正の動乱を中心に有漢の歴史をまとめている。
中川 幸夫(なかがわ ゆきお、1918年7月25日 - 20… 中川 幸夫(なかがわ ゆきお、1918年7月25日 - 2012年3月30日)は、日本の前衛いけばな作家。華道家、芸術家。代表作に「花坊主」「魔の山」などがある。香川県出身。 敗戦直後の日本で勃興し、数年間の隆盛ののちに収束した「前衛いけ花」の活動家として知られる。この頃には中川のほかに勅使河原蒼風、小原豊雲、中山文甫らが同様の活動をしていた。この極めてアーティスティックな花の表現運動は「流派」という大きな流れを頂点とするいけ花界ヒエラルキーをどのように維持してゆくかに執着する動きにはあわず、「古典のみなおし」という建前によって後退、収束を余儀なくされた。中川は「流派」に属さず「流派」を持たないことで、唯一「前衛いけ花」作家でありつづける事を貫いた。
島 比呂志(しま ひろし、1918年7月23日 - 2003… 島 比呂志(しま ひろし、1918年7月23日 - 2003年3月22日)は、日本の小説家。本名 岸上薫(きしうえ かおる)。 香川県観音寺市出身。旧制香川県立三豊中学校、東京高等農林学校獣医学科卒業。 1940年(昭和15年)東京高等農林学校卒業後、満洲国立大陸科学院獣疫研究所に勤務。1943年(昭和18年) 東京高等農林専門学校(現 東京農工大学)助教授に就任。 1947年(昭和22年)6月、ハンセン病を発病し、国立療養所大島青松園に入所。1948年(昭和23年)6月、国立療養所星塚敬愛園へ転園。1958年(昭和33年)より、同人雑誌『火山地帯』を主宰。1990年(平成2年)6月、エイズ裁判原告赤瀬範保から「癩患者はなぜ怒らないのか?」という手紙を受け取る。
丸濱 徹郎(まるはま てつろう、1918年(大正7年)7月2… 丸濱 徹郎(まるはま てつろう、1918年(大正7年)7月22日 - 詳細不明)は、実業家である。三菱スペース・ソフトウエア(現:三菱電機ソフトウエア)取締役となり、郵政省電波技術審議会専門委員、鉄道通信協会副会長を務めた。岡山県高梁市出身。 1918年(大正7年)、岡山県川上郡成羽町(現・高梁市)に生れる。その後、1931年(昭和6年)に地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学した。1936年(昭和11年)に同校を卒業し、同年、岡山市にある旧制第六高等学校へ進学する。その後、1939年(昭和14年)3月に同校を卒業し、京都帝国大学理学部へ入学する。1942年(昭和17年)に同校物理学科を卒業した。
日方 一夫(、1918年〈大正7年〉7月21日 - 没年不詳… 日方 一夫(、1918年〈大正7年〉7月21日 - 没年不詳)は、日本の元俳優。東京市日本橋区出身。中央学院大学中央高等学校卒。本名は松永 亥太郎()。 東宝の専属俳優として、ジャンルを問わず多くの作品に出演。目元と口元が特徴である。 1971年、専属俳優一斉解雇の際に俳優を引退。 同じ専属俳優の加藤茂雄によると、東宝専属廃止の際に組合リーダーとして会社側と談判したが、継続希望の加藤たちとは違い、退職金目当ての立場だったという。
曾山克巳(そやま かつみ、1918年7月21日 - 2006… 曾山克巳(そやま かつみ、1918年7月21日 - 2006年4月15日)は、日本の郵政官僚。郵政事務次官などを務めた。 鹿児島県鹿児島市出身。1938年第七高等学校造士館(現:鹿児島大学)文科卒業。東京帝国大学法学部政治学科在学中に高等試験に合格。東京帝大法学部政治学科を卒業し、1941年逓信省入省。 郵政省郵務局国際業務課長、郵務局次長、名古屋郵政局長。 1963年7月10日東京郵政局長。1964年5月27日 人事局長。1966年7月11日郵務局長。1969年11月21日郵政事務次官。1971年7月2日退官。 1974年日本電気(NEC)に入社し、常務、専務、副社長を歴任。1982年日本電気システム建設取締役会長。
宮崎 孝一(みやざき こういち、1918年〈大正7年〉7月2… 宮崎 孝一(みやざき こういち、1918年〈大正7年〉7月21日 - 2008年〈平成20年〉8月31日)は、日本の英文学者。 群馬県吾妻郡沢田村(現・中之条町)出身。1938年群馬師範学校卒業。東京高等師範学校を経て、1943年東京文理科大学英文科卒業。1950年コロラド大学へ留学し、文学修士取得。1970年ロンドン大学に留学。1973年「ディケンズ後期の小説の内面構造」で東京教育大学文学博士。 1946年桐生工業専門学校嘱託を経て、1949年から群馬大学助教授。1952年日本女子大学助教授となる。1956年成城大学助教授を経て、1961年同教授。1985-91年学長、名誉教授。専門は18-19世紀の英国小説。
吉野 照蔵(吉野 照藏、よしの てるぞう、1918年〈大正7… 吉野 照蔵(吉野 照藏、よしの てるぞう、1918年〈大正7年〉7月19日 - )は、日本の経営者。清水建設9代目社長。 群馬県佐波郡境町(現・伊勢崎市)出身。旧制群馬県立太田中学校、旧制水戸高等学校、東京帝国大学工学部建築学科卒業。 1942年(昭和17年)、株式会社清水組(現・清水建設)に入社。 戦時中はセレベス島(現・スラウェシ島)のケンダリで第753海軍航空隊として勤務し、後に海上保安庁長官となる栃内一彦は上官であった。 1970年(昭和45年)、清水建設取締役に就任。 1981年(昭和56年)6月に清水建設社長に就任。 在任中は前社長野地紀一の積極経営路線を継承し、TQCを基盤とするEC(エンジニアリング・コンストラクター)化と国際化を推進し、請負体質からの脱却を図った。
近藤 久(こんどう ひさし、1918年7月19日 - 197… 近藤 久(こんどう ひさし、1918年7月19日 - 1975年5月25日)は、愛知県出身のプロ野球選手。ポジションは投手。
井川 正雄(いがわ まさお、1918年 <大正7年> 7月1… 井川 正雄(いがわ まさお、1918年 <大正7年> 7月19日 - 1992年 <平成4年> 10月27日)は、日本の経営者。岐阜県不破郡垂井町出身。位階は正五位。 1942年に名古屋工業大学工学部機械工学科を卒業し、海軍技術士官を経て、1948年に東洋レーヨン(のちの東レ)に入社。 1964年12月に生産管理部長に就任し、名古屋工場長、取締役、常務、副社長を経て、1980年6月に社長に就任した。翌年6月から取締役相談役を務めた。 1982年に藍綬褒章を受章。 1992年10月27日急性肺炎のために死去。74歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
石田 達郎(いしだ たつろう、1918年(大正7年)7月18… 石田 達郎(いしだ たつろう、1918年(大正7年)7月18日 - 1990年(平成2年)7月19日)は、日本の実業家。ニッポン放送・フジテレビジョン社長を務めた。北海道札幌市出身。 札幌一中(現:北海道札幌南高等学校)、慶應義塾大学経済学部を卒業。 鐘淵紡績、映画プロデューサーを経て、1954年(昭和29年)ニッポン放送に入社。74年社長、85年相談役。この間、フジテレビ社長、産経新聞代表取締役を兼任したほか、パシフィック音楽出版(PMP、現:フジパシフィックミュージック)、ポニー、キャニオンレコード(現:ポニーキャニオン)、ディノス(現:DINOS CORPORATION)といった、フジサンケイグループで非放送・新聞事業の中核となる企業を設立した。
島津 亮(しまづ りょう、1918年7月18日 - 2000… 島津 亮(しまづ りょう、1918年7月18日 - 2000年3月1日)は、俳人。 香川県出身。旧制大阪外国語学校(現・大阪大学外国語学部)蒙古語学科卒。1946年、応召先の天津から引揚げ、句作開始。鈴木六林男らの「青天」を通じて西東三鬼に会い師事する。1948年「雷光」創刊同人(1950年廃刊)。1951年「梟」創刊同人。1957年「夜盗派」同人(1960年終刊)。1960年「縄」同人。1962年「海程」創刊同人。1968年「ユニコーン」創刊同人。代表句に「怒らぬから青野でしめる友の首」など。この句は金子兜太が『今日の俳句』(1965年)で取り上げて広く知られるようになった作品で、同性愛的な趣があるとも評されている。
角戸 正夫(かくど まさお、1918年7月17日 - 200… 角戸 正夫(かくど まさお、1918年7月17日 - 2005年1月14日)は、日本の化学者。大阪大学蛋白質研究所所長、姫路工業大学学長を歴任。 兵庫県出身。甲陽中学校(15回卒)を経て、大阪帝国大学卒。大阪大学工学部教官などを任官したのち、1971年8月15日から1982年4月1日まで大阪大学蛋白質研究所所長を務めた。1982年10月に姫路工業大学学長に就任。 解析化学を専門とする。関西6GeV-SR計画世話人会代表などを務め、関西への科学研究施設誘致に活動していた。
柴田 武(しばた たけし、1918年7月14日 - 2007… 柴田 武(しばた たけし、1918年7月14日 - 2007年7月12日)は、日本の言語学者、国語学者。東京大学名誉教授、埼玉大学名誉教授。 1918年、愛知県名古屋市で生まれた。東京帝国大学文学部言語学科で学び、1942年に卒業。 同1942年10月、東京帝国大学文学部副手に採用された。1943年7月、中華民国ならびに蒙疆地域に出張。2か月にわたって同地で蒙古語を教えると同時に、民俗学研究所から奨学金を受給して蒙古語、ウイグル語、キルギス語、サラール語、タングート語などを調査。1944年3月、陸軍臨時嘱託として参謀本部にも勤務することとなり、終戦までトルコ語の暗号解読に従事した。1945年4月、東京帝国大学講師助手に昇格。
太田 善麿(おおた よしまろ、1918年7月13日 - 19… 太田 善麿(おおた よしまろ、1918年7月13日 - 1997年1月31日)は、日本の国文学者。東京学芸大学名誉教授。上代文学・近世国学が専門。 東京府出身。東京帝国大学文学部国文科卒。東京学芸大学助教授、1966年同教授、1973年同学長。1982年定年退官、同名誉教授、上智大学教授。 「古代日本文学思潮論」により1967年日本学士院賞受賞。妻の父は辻善之助。
栗原 益男(くりはら ますお、1918年7月13日 - 20… 栗原 益男(くりはら ますお、1918年7月13日 - 2000年9月8日)は、日本の東洋史学者。上智大学名誉教授。 1918年、埼玉県川越市で生まれた。1940年に東京帝国大学文学部東洋史に入学し、1942年に卒業。唐五代の藩鎮に関心を持ち、同大学大学院に進んだが、間もなく陸軍に応召。 終戦直前に玄界灘で機上艦が魚雷に接触し、脊椎骨折の重傷を負った。療養中に敗戦を迎えた。 1946年に東京大学大学院に復学。しかし、腹膜炎や結核を患い、療養生活と研究生活を送った。上智大学文学部助教授となり、後に教授昇格。在職中の1987年4月に自宅で倒れたが、10月に復帰。1988年3月に上智大学を定年退任し、名誉教授となった。
有住 直介(ありずみ なおすけ、1918年7月11日 - 2… 有住 直介(ありずみ なおすけ、1918年7月11日 - 2007年12月6日)は、日本の気象技官。気象庁長官を務めた。 東京都出身。1942年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業し、同年に気象庁に入庁。1973年に福岡管区気象台長、1974年に観測部長を経て、1976年から1978年までに長官を務めた。1980年に芝浦工業大学講師、1984年に宇宙開発事業団理事を歴任。 2007年12月6日に虚血性心疾患のために死去。89歳没。
人見 鐵三郎 (ひとみ てつさぶろう、1918年(大正7年)… 人見 鐵三郎 (ひとみ てつさぶろう、1918年(大正7年)7月10日 - 2008年(平成20年))は、日本の外交官、翻訳家。 昭和16年(1941年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年外務省に入省。 1953年ユネスコ臨時総会政府代表団、1955年ハンブルク領事、1958年在スイス大使館一等書記官、1960年法務省入国管理局資格審査課長、1962年外務省移住局振興課長、1965年在ケニア大使館参事官、在アイルランド大使館参事官などを経て、1968年ボンベイ総領事。 その後、駐コスタリカ・グアテマラ・フィンランド特命全権大使などを歴任。日本翻訳家協会・日本翻訳文化賞記念会会長。仏教徒。
瓜谷 良平(うりたに りょうへい、1918年7月9日 - 1… 瓜谷 良平(うりたに りょうへい、1918年7月9日 - 1993年12月1日)は、日本のスペイン語学者。拓殖大学教授を歴任。 兵庫県出身。東京外国語学校スペイン語科卒。拓殖大学助教授、教授。1989年定年、名誉教授。子は瓜谷望(1952- )スペイン語学者、拓殖大学教授。
飯塚 毅(いいづか たけし、1918年(大正7年)7月8日 … 飯塚 毅(いいづか たけし、1918年(大正7年)7月8日 - 2004年(平成16年)11月23日)は、日本の実業家、公認会計士、税理士。TKC創業者。日本会計研究学会太田賞受賞。鹿沼市名誉市民。TKC全国会名誉会長。 栃木県上都賀郡鹿沼町(現鹿沼市)生まれ。鹿沼町立鹿沼尋常高等小学校(現鹿沼市立鹿沼中央小学校)、栃木県立鹿沼農商学校(現栃木県立鹿沼商工高等学校)を経て、1939年福島高等商業学校(現福島大学経済経営学類)卒業。1943年東北帝国大学法文学部法科(現東北大学法学部)繰り上げ卒業。大日本帝国陸軍主計少尉を経て、日本の降伏後、1946年計理士登録。1952年税理士登録。1963年紺綬褒章受章。
清水 秀雄(しみず ひでお、1918年7月8日 - 1964… 清水 秀雄(しみず ひでお、1918年7月8日 - 1964年3月23日)は、島根県出身のプロ野球選手。ポジションは投手、一塁手、外野手。
市川 慶三(いちかわ けいそう、1918年7月8日 - 20… 市川 慶三(いちかわ けいそう、1918年7月8日 - 2003年4月13日)は、日本の銀行家。 石川県羽咋郡志雄町(現宝達志水町)出身。1938年に早稲田大学専門部商科を卒業し、同年に朝鮮殖産銀行に入行。 1945年12月に宇部信用組合を経て、1952年6月には西日本相互銀行に転じ、1970年5月に取締役に就任。1973年7月に常務、1975年12月に専務を経て、1978年2月に副社長に就任し、1982年10月には社長に昇格。1984年4月には普通銀行に転換した西日本銀行頭取に就任。1988年6月に会長に就任し、1995年6月に常任相談役を経て、1996年6月には相談役に就任。 1988年4月に勲三等旭日中綬章を受章。
芦原 義信(蘆原、あしはら よしのぶ、1918年 <大正7年… 芦原 義信(蘆原、あしはら よしのぶ、1918年 <大正7年> 7月7日 - 2003年 <平成15年> 9月24日)は、日本の建築家。ソニービル、東京芸術劇場などの作品で知られる。『街並みの美学』で、いち早く都市景観の重要性を述べた。位階は従三位。 東京府(現・東京都)生まれ。府立一中(現・東京都立日比谷高等学校)、旧制成城高校を経て、1942年(昭和17年)東京帝国大学工学部建築学科卒業、技術士官として海軍に入る。 1945年(昭和20年)、坂倉準三のアトリエ系建築設計事務所に入所。1953年(昭和28年)、ハーバード大学大学院で修士号(M.Arch.)取得後、マルセル・ブロイヤーの事務所に入所。
近江 俊郎(おうみ としろう、1918年7月7日 - 199… 近江 俊郎(おうみ としろう、1918年7月7日 - 1992年7月5日)は、東京都出身の歌手、作曲家、映画監督である。本名大蔵 敏彦(おおくら としひこ)。兄は新東宝、大蔵映画社長を務めた大蔵貢、姉はコロムビア専属歌手となった香取みほ子。孫にアイドルグループ「エレクトリックリボン」の元メンバー、ericaがいる。 正則中学校卒業。武蔵野音楽学校在学中に教授と進級試験の方法を巡って対立し、1936年(昭和11年)に退学した。タイヘイレコードから鮫島敏弘の芸名で「辷(すべ)ろよスキー」でレコードデビュー。ポリドール・レコード専属になるまで、マイナーレコードを転々とし、その間に大友博(リーガル)、大久良俊(アサヒ)など改名を重ねるが、ヒットに結びつく作品はなかった。
堀田 善衛(ほった よしえ、1918年〈大正7年〉7月7日 … 堀田 善衛(ほった よしえ、1918年〈大正7年〉7月7日 - 1998年〈平成10年〉9月5日)は、日本の小説家、評論家。
上坂 昇(こうさか のぼる、1918年〈大正7年〉7月6日 … 上坂 昇(こうさか のぼる、1918年〈大正7年〉7月6日 - 2013年〈平成25年〉7月2日)は、日本の政治家。 福島県いわき市出身。磐城中学校(現・福島県立磐城高等学校)を経て、早稲田大学政治経済学部を卒業。日本水素(現・日本化成)に入社し、労働組合書記長、同委員長、平市議会議員、福島県議会議員等を経て、1972年(昭和47年)の第33回衆議院議員総選挙で、旧福島3区より日本社会党公認で初当選。連続6回当選し1990年(平成2年)の総選挙では立候補しなかった。その後、いわき市長選に立候補するが、岩城光英に敗北する。 1989年4月の春の叙勲で勲二等に叙され旭日重光章を受章する。 2013年7月2日、肺炎のため死去。
伴 吉夫(ばん よしお、1918年7月6日 - 没年不明)は… 伴 吉夫(ばん よしお、1918年7月6日 - 没年不明)は、愛知県出身のプロ野球選手(二塁手、三塁手)。
望月潤一(もちづき じゅんいち、1918年7月6日 - 19… 望月潤一(もちづき じゅんいち、1918年7月6日 - 1993年10月10日)は、東京府出身のプロ野球選手(投手)。
小尾 知愛(おび ともちか、1918年7月5日 - 201… 小尾 知愛(おび ともちか、1918年7月5日 - 2014年12月31日)は、日本の経営者。大分銀行頭取を務めた。 山梨県出身。1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に日本銀行に入行した。1971年10月に大分銀行専務に就任し、1973年6月には頭取に昇格。1984年6月に会長に就任し、1992年4月には特別顧問に就任。日銀政策委員も務めた。 1981年11月に藍綬褒章を受章し、1992年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2014年12月31日、老衰のために死去。96歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
和田 英夫(わだ ひでお、1918年7月4日 - 2001年… 和田 英夫(わだ ひでお、1918年7月4日 - 2001年3月10日、82歳没)は、日本の法学者。専攻は、憲法・行政法。 第3代駿河台大学学長、明治大学名誉教授、駿河台大学名誉教授。 1918年に山形県西村山郡河北町で生まれる。旧制寒河江中学校(現:山形県立寒河江高等学校)を経て、東京帝国大学(現:東京大学)法学部政治学科を卒業。 1946年に北海道大学農学部副手、1948年講師、1950年北海道大学法文学部助教授、1954年から明治大学教授を務める。1989年に、設立準備委員として参画していた駿河台大学法学部教授となった。同大学では法学部長、1991年比較法研究所初代所長、法学研究科長を歴任した後、1994年に第3代学長となる(在任 : 1994年-1999年)。
八木 一夫(やぎ かずお、1918年(大正7年)7月4日 -… 八木 一夫(やぎ かずお、1918年(大正7年)7月4日 - 1979年(昭和54年)2月28日)は日本の陶芸家である。戦後復興期に前衛陶芸家集団「走泥社」を結成、器としての機能を持たない「オブジェ焼」と呼ばれる作品を発表し、現代陶芸に新分野を確立した。陶芸家八木一艸の長男。長男は陶芸家の八木明。 京都市五条坂に陶芸家八木一艸の長男として生まれる。1937年京都市立美術工芸学校彫刻科卒業の後、商工省設置の国立陶磁器試験所の伝習生となり、沼田一雅の「日本陶彫協会」に入会し陶彫を学んだ。1939年兵役で南支広東方面へ派遣されたが、病気のため翌年除隊。帰国後、日本画の前衛団体「歴程美術協会」などと関わりを持つなかでシュルレアリスムや抽象美術などの西洋の最先端美術への親しみを深めるが、戦時下の社会で前衛を否定して古典回帰を求める風潮が高まり、八木もまたしばらくは陶芸を中断して神戸や京都で教員として生活した。
堀 文子(ほり ふみこ、1918年7月2日 - 2019年2… 堀 文子(ほり ふみこ、1918年7月2日 - 2019年2月5日)は、日本画家。東京市麹町区平河町(現・東京都千代田区麹町)生まれ。 洋画家の内海信彦は甥である。 アルビレックスチアリーダーズに2003年から2010年まで所属していた堀文子は、同姓同名の別人である。 永田町小学校(現・千代田区立麹町小学校)、東京府立第五高等女学校(現・都立富士高等学校)、女子美術専門学校師範科日本画部(現・女子美術大学芸術学部美術学科日本画専攻)を卒業。府立第五高等女学校時代に自宅近くで二・二六事件に遭遇した。 在学中の1939年に第2回新美術人協会展入選。1940年に女子美術専門学校を卒業し、新美術人協会会員。
千 炳圭(チョン・ビョンギュ、朝鮮語: 천병규、1918年7… 千 炳圭(チョン・ビョンギュ、朝鮮語: 천병규、1918年7月1日 - 1993年7月19日)は、大韓民国の金融官僚、外交官、政治家、実業家。韓国銀行副総裁、第14代財務部(現・企画財政部)長官、第10代韓国国会議員。本貫は潁陽千氏。号は東栢(トンベク、동백)。日本名は千田 圭一。 元検察総長、法務部長官の呉鐸根は妻の兄弟。 慶尚北道安東に生まれた。1931年に大邱公立普通学校を卒業し、1936年大邱高等普通学校(現・慶北高等学校)を修了した。1939年に大阪商科大学(のちの大阪公立大学)予科を卒業し、1941年に大阪商科大学を卒業した。1942年に朝鮮銀行に入行し、1950年に韓国銀行初代東京支店長を務め、その後は大阪、香港の支店長および外務部長、調査部長を務めた。
西河 克己(にしかわ かつみ、1918年〈大正7年〉7月1日… 西河 克己(にしかわ かつみ、1918年〈大正7年〉7月1日 - 2010年〈平成22年〉4月6日)は、日本の映画監督。鳥取県出身。 西河が生まれたのは鳥取県東部の土師村 で現在の智頭町。父親の就職で一家が東京へ移るまで、4年余りをこの地で過ごした。小説家志望であったが、次善の途として映画監督を志し、松竹大船撮影所に監督助手として入社。当時は日本映画の第1期黄金時代ともいえる時代だった。 大学を卒業したのが日中戦争真っ只中であったため、松竹入社後1年を経ずして召集(結局2度応召した)されて旧満州やビルマへ出征、捕虜収容所生活も経験した。戦後復員して1946年(昭和21年)復職。原研吉、渋谷実、中村登らの名匠に師事し、1952年(昭和27年)助監督待遇のまま『伊豆の艶歌師』(主演:佐田啓二)を初監督。
久野 昌輝(ひさの まさてる、1918年(大正7年)7月1日… 久野 昌輝(ひさの まさてる、1918年(大正7年)7月1日 - 1989年(平成元年)9月21日)は、日本の経営者。テレビ西日本元社長。 東京都出身。1944年に早稲田大学法学部を卒業し、1951年に文化放送に入社した。1961年にフジテレビジョンの総務部長に就任し、取締役、常務、専務を歴任した。 1973年にテレビ西日本の専務に就任し、1979年から1985年までに社長を務めた、1985年以降、取締役相談役、顧問、フジテレビジョン監査役を歴任した。日本民間放送連盟副会長も務めた。 1983年に藍綬褒章を受章し、1989年に勲三等旭日中綬章を受章した。 1989年9月21日腎不全のために死去。
中瀬 正幸(なかせ まさゆき、1918年(大正7年)7月1日… 中瀬 正幸(なかせ まさゆき、1918年(大正7年)7月1日 - 1942年(昭和17年)2月9日)は、大日本帝国海軍の軍人、海軍航空隊戦闘機搭乗員。最終階級は一等飛行兵曹、2階級特進により、飛行特務少尉。いわゆるエース・パイロットと呼ばれる撃墜王(撃墜数18)。 1918年(大正7年)、徳島県徳島市生まれ。1934年(昭和9年)6月1日、「第5期飛行予科練習生」(乙飛)を志願し横須賀海軍航空隊に入隊。 1938年(昭和13年)3月、飛行練習生課程を修了し三空曹昇進、大村海軍航空隊に配属された。同年末、第14航空隊に配属。日中戦争(支那事変、日華事変)に出動するが空戦の機会はなかった。その後横須賀航空隊に移る。
關屋 實(せきや みのる、1918年〈大正7年〉6月29日 … 關屋 實(せきや みのる、1918年〈大正7年〉6月29日 - 1996年〈平成8年〉1月29日)は、日本の薬学者(薬品製造化学)。勲等は勲三等。学位は薬学博士(東京大学・1950年)。静岡薬科大学名誉教授、社団法人日本薬学会有功会員。姓の「關」は「関」の旧字体、名の「實」は「実」の旧字体のため、関屋 實(せきや みのる)、關屋 実(せきや みのる)、関屋 実(せきや みのる)とも表記される。 武田化学薬品株式会社、和光純薬工業株式会社を経て、神戸女子薬科大学薬学部助教授、静岡薬科大学薬学部教授、静岡薬科大学学長事務取扱などを歴任した。 薬品製造化学を専攻する薬学者である。蟻酸アンモニウムによる還元反応の研究では、日本における先駆者とされている。
松本 旭(まつもと あさひ、1918年6月29日 - 201… 松本 旭(まつもと あさひ、1918年6月29日 - 2015年10月30日)は、日本の俳人、俳句研究家、国文学者、作詞家。埼玉大学名誉教授、城西大学女子短期大学部教授。従四位。 埼玉県大石村(現・上尾市)出身。本名の読みは「あきら」。東京文理科大学卒業後、埼玉県立浦和高等学校で教鞭を執った。埼玉大学教育学部助教授、教授、1972年から1975年まで埼玉大学教育学部附属小学校校長兼任。1983年定年退官、名誉教授、城西大学女子短期大学部教授。 加藤楸邨、角川源義に師事して俳句を詠み、1978年俳誌『橘』を創刊、主宰。妻も俳人の松本翠。「村上鬼城研究」で俳人協会評論賞受賞。連歌・近代俳句の研究家でもあった。