越ノ海 東治郎(こしのうみ とうじろう、1906年7月1日 … 越ノ海 東治郎(こしのうみ とうじろう、1906年7月1日 - 1973年1月24日)は、新潟県西頸城郡根知村(現:新潟県糸魚川市)出身の元大相撲力士。本名は渡邊 東治郎(わたなべ とうじろう)(旧姓:加藤)。 1906年7月1日に新潟県西頸城郡根知村(現:新潟県糸魚川市)で生まれる。1925年1月場所で若藤部屋から初土俵を踏んだ。1931年5月場所で新十両昇進を果たすも1場所で幕下に陥落したが、1932年1月6日に勃発した春秋園事件によって、2月場所の改正番付では十両に格上げされ、1932年5月場所で新入幕を果たした。右四つからの上手投げは豪快かつ強力だったが、連敗癖のために幕内上位へは上がれなかった。
朱牟田 夏雄(しゅむた なつお、1906年6月29日 - 1… 朱牟田 夏雄(しゅむた なつお、1906年6月29日 - 1987年10月18日)は、日本の英文学者。東京大学名誉教授。
尾澤 喜雄(おざわ よしお、1906年6月29日 - 197… 尾澤 喜雄(おざわ よしお、1906年6月29日 - 1977年9月7日)は、日本の教育者・文学者(俳文学)。岩手大学名誉教授。俳号は白路(はくろ)。旧姓は片瀨(かたせ)。姓の「澤」は旧字体のため、新字体で尾沢 喜雄(おざわ よしお)とも表記される。 東京府立第二高等女学校教諭、埼玉県立久喜高等女学校教諭、長野県篠ノ井高等女学校教諭、長野市立中学校教諭、岩手師範学校教授、岩手大学学芸学部教授、岩手大学教育学部教授などを歴任した。 1906年6月、片瀨政十郞の二男として生まれたが、尾澤惠の養子となった。長野県北安曇郡七貴村出身。長野師範学校、旧制の松本高等学校の文科を経て、東京帝国大学に進学し、文学部の国文学科にて国文学を学んだ。
植田 義巳(うえだ よしみ、1906年6月28日 – 199… 植田 義巳(うえだ よしみ、1906年6月28日 – 1996年11月9日)は、東京都出身の日本のバスケットボール選手・指導者。 選手としては1928年から1934年まで東京商科大学(現一橋大学)に所属し、全日本選手権2度優勝。1959年からは日本オリンピック委員会(JOC)、国際バスケットボール連盟(FIBA)委員をそれぞれ1989年まで務め、アジアバスケットボール連盟(現・FIBAアジア)の設立にも関わった。 1960年ローマオリンピックでは全日本マネージャーを務めた。 2007年、日本人で初めてFIBA殿堂に表彰された。 この項目は、バスケットボール関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:BASKET)。
真田 南海夫(さなだ なみお、1906年(明治39年)6月2… 真田 南海夫(さなだ なみお、1906年(明治39年)6月28日 - 1999年(平成11年)2月15日)は、日本の経営者。扇興運輸(現:センコー)元社長。兵庫県西宮市在籍。 香川県高松市近くで生まれる。1913年(大正2年)兵庫県尼崎市に転居。1919年(大正8年)5月、同郷の富田正次(高松市出身)が創業した海運業者の富田商会(現:センコー)に入社。その傍ら1924年(大正12年)中之島商工学校を卒業。1946年(昭和21年)7月扇興運輸設立と共に常務に就任。1952年(昭和27年)7月専務を経て、1955年(昭和30年)2月社長に就任。1966年(昭和41年)11月(代表)会長に就任し、1972年(昭和47年)11月から相談役を務めた。
竹村 奈良一(たけむら ならいち、1906年6月27日 - … 竹村 奈良一(たけむら ならいち、1906年6月27日 - 1978年11月17日)は、日本の政治家、農民運動家。衆議院議員(日本共産党公認、1期)、日農統一派総本部書記長などを歴任。 奈良県高市郡金橋村(現・橿原市)出身。青年時代より農民運動に関わり、1929年に全農奈良県連争議部長に就任。1931年には、同県生駒郡片桐村満願寺での小作争議に連座した廉で検挙、懲役2ヶ月・執行猶予3年の判決を受ける。その後、全農が方針転換したことに伴い日本農民連盟へ移籍。 戦後は日本農民組合奈良県支部書記長に就任するが、1949年に組合が分裂した際は容共の統一派に属し、常任中央委員を経て書記長となる。この間1949年の衆院選に奈良県全県区から出馬し初当選。
峯村 光郎(みねむら てるお、1906年6月26日 - 19… 峯村 光郎(みねむら てるお、1906年6月26日 - 1978年2月18日)は、日本の法学者。慶應義塾大学名誉教授。 専門は法哲学、経済法、労働法。 長野県上水内郡水内村(現長野市)出身。旧制長野中学(長野県長野高等学校)を経て慶應義塾大学法学部卒。 慶應義塾大学助教授、1938年教授。1948年法学博士。のちに同大学法学部長。1972年定年退任、名誉教授、國學院大學教授。日本法哲学会理事長。 1976年勲一等瑞宝章叙勲。 1949年の公共企業体等労働関係法の施行以降には、公共企業体の労働関係問題に深く携わり、1956年からは公共企業体等労働委員会(中央労働委員会の前身)の会長代行、会長を務めた。
足立 一平(あだち いっぺい、1906年6月26日 - 19… 足立 一平(あだち いっぺい、1906年6月26日 - 1957年11月27日)は、日本の教育者、政治活動家。岩津農商学校(現・愛知県立岩津高等学校)の創立者として知られる。 愛知県額田郡広幡町(現・岡崎市)に生まれる。岡崎市立広幡尋常高等小学校、愛知県岡崎中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)、大阪外国語学校ドイツ語科を卒業。文部省在外研究員としてドイツに留学。ベルリン大学卒業後、ソビエト連邦、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、スウェーデン、中華民国などを視察した。また、フランスのニースで開かれた国際新教育会議に日本代表として出席した。 1933年(昭和8年)に帰国し、神戸高等商船学校教授に就任。
鄭 甲柱(チョン・ガプチュ、朝鮮語: 정갑주、1906年6月… 鄭 甲柱(チョン・ガプチュ、朝鮮語: 정갑주、1906年6月26日または6月27日 - 1963年9月8日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の校長、警察署長、政治家。第3代韓国国会議員。 号は南荷(ナマ、남하)。 慶尚南道泗川郡(現・泗川市)出身。三千浦公立普通学校(現・三千浦初等学校(朝鮮語版))、普成専門学校法科、中央大学法学部卒。日本統治時代は朝鮮学生研究会幹部、新幹会学生部長、光州学生事件普専学生代表、国際学生友交会朝鮮学生代表、東京朝鮮キリスト教青年会理事、東京留学生英語会会長を歴任した。光復後は韓国民主党中央執行委員、東莱韓国キリスト教青年会理事、国際韓国反共会韓国代表、学校法人普興義塾傘下の三千浦中学校・三千浦高等学校・三千浦女子中学校・三千浦女子高等学校の校長、大田警察署長、清州警察署長、警察専門学校教授、泗川教育会会長、三千浦水利組合創立委員長、財団法人普興義塾初代校長・理事長・終身名誉校長、自由党所属の国会議員を務めた。
大槻 武二(おおつき たけじ、1906年6月26日 - 20… 大槻 武二(おおつき たけじ、1906年6月26日 - 2004年9月10日)は、日本のキリスト教伝道者。福音主義信仰を基軸にし、聖イエス会を創立した。 1936年、日本ホーリネス教会 (きよめ教会) の伝道師であった大槻武二は奉天 (後の瀋陽市、当時関東軍の拠点の一つ) での開拓伝道の任命を受け、奉天聖潔教会に赴任。1938年1月9日、鮮明な聖霊のバプテスマを体験し、キリストの内住を確信するに至る。以降、大槻の祈りによって活発に聖書に書かれているような神癒 (病の癒し) が起こるようになった 。1942年日本に帰国し各地のキリスト教会から招聘を受け巡回伝道を続けたが、1946年聖霊の導きにより聖イエス会を創立。
金澤 覚太郎(かなざわ かくたろう、1906年(明治39年)… 金澤 覚太郎(かなざわ かくたろう、1906年(明治39年)6月23日 - 1970年(昭和45年)9月15日)は、日本の放送人、放送研究家である。岡山県高梁市出身。姓は常用漢字体で「金沢」とも表記される。 岡山県高梁市に生まれる。1919年(大正8年)、地元の旧制岡山県立高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に進み、同期に石川達三などがいた。1924年(大正13年)に旧制第六高等学校文科乙類に進み、1927年(昭和2年)に卒業する。東京帝国大学へ進学し、1930年(昭和5年)に東京帝国大学法学部を卒業した。 1933年(昭和8年)に満洲電信電話に入り放送に従事、新京中央放送局長、満州放送総局副局長などを務めた。
小澤 武(こざわ たけし、1906年(明治39年)6月23日… 小澤 武(こざわ たけし、1906年(明治39年)6月23日 - 1985年(昭和60年)3月28日)は、日本の剣道家。段位は範士八段(全日本剣道連盟)。北辰一刀流剣術宗家(日本古武道協会認定)、新田宮流抜刀術継承者。 佐賀市生まれ。旧姓は中島。京都の大日本武徳会武道専門学校に入学し内藤高治に剣道を学ぶ。 1929年(昭和4年)、武道専門学校を卒業し、茨城県師範学校及び水戸商業高等学校の教諭に赴任。小澤家の婿養子となり[要出典]、水戸東武館第4代館長を務める。1932年(昭和7年)、武道専門学校研究科を卒業。 1953年(昭和28年)、太平洋戦争中の水戸空襲で焼失した水戸東武館を再建。1966年(昭和41年)、茨城県剣道連盟会長に就任。
長野 泰一(ながの やすいち、1906年〈明治39年〉6月2… 長野 泰一(ながの やすいち、1906年〈明治39年〉6月22日 - 1998年〈平成10年〉2月9日)は日本のウイルス学者。東京大学教授。元日本ウイルス学会会長。三重県尾鷲市出身。 1954年、生体における抗ウイルス免疫の研究中にウイルス増殖を抑制するサイトカインであるインターフェロンを、世界に先駆けて小島保彦とともに発見した。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
牧野 佐二郎(まきの さじろう、1906年6月21日 - 1… 牧野 佐二郎(まきの さじろう、1906年6月21日 - 1989年8月6日)は、日本の細胞遺伝学者。癌や染色体の研究で優れた業績を残した。北海道大学名誉教授。 千葉県成田市出身。1930年(昭和5年)北海道帝国大学農学部染色体学科卒業。 1932年(昭和7年)7月、自分の体に縄をつけて船上から倶多楽湖に潜り、エゾサンショウウオの幼形成熟個体を採集した。エゾサンショウウオの幼形成熟は1919年に発見されていたが、標本が残っておらず、牧野が獲たものが2020年の再発見まで唯一の標本となっていた。 1940年(昭和15年)「ハツカネズミ属の細胞学的研究」で理学博士。1947年(昭和22年)北海道帝大教授となり、山階鳥類研究所研究員、のち国立遺伝学研究所研究員を兼任。
名和 統一(なわ とういち、1906年<明治39年>6月18… 名和 統一(なわ とういち、1906年<明治39年>6月18日 - 1978年<昭和53年>7月8日)は、日本の経済学者。大阪市立大学名誉教授。 1906年に兵庫県に生まれる。父はキリスト教徒の株屋。京都帝国大学を卒業し、大阪商科大学(現大阪市立大学)教授となる。1943年に大阪商大事件で追放されるも、戦後復帰し、大阪市立大学教授となる。1951年に「国際価値論研究」で、京都大学から経済学博士の学位を取得する。1971年に定年退官し、大阪市立大学名誉教授、岐阜経済大学学長となる。マルクス経済学による貿易理論を展開した。門下に三辺信夫がいる。
神崎 武雄(かんざき たけお、1906年6月18日 - 19… 神崎 武雄(かんざき たけお、1906年6月18日 - 1944年9月17日)は、日本の小説家。孫は漫画家の押切蓮介(神崎良太)。 福岡県門司市(現・北九州市門司区)出身。早稲田大学中退後、都新聞(東京新聞の前身紙)に入社。1940年に新鷹会に入会し、『オール讀物』1942年11月号に掲載された「寛容」は第16回直木賞を受賞した。 その後、海軍報道班員として南方やシンガポールに派遣された。その最中の1944年6月に妻が出産後間もなくして亡くなったとの訃報が届き、海軍省から帰還命令が出て、空母「雲鷹」に便乗したが、9月17日に南シナ海でアメリカ軍潜水艦の雷撃を受けて沈没し、戦死した。 国柱会の信者であった。
藤本 智董(ふじもと ちとう、1906年(明治39年)6月1… 藤本 智董(ふじもと ちとう、1906年(明治39年)6月12日 - 1984年(昭和59年)4月13日)は、日本の哲学者、倫理学者。福岡教育大学教授。福岡大学教授。
志田 延義(しだ のぶよし / えんぎ、1906年6月10日… 志田 延義(しだ のぶよし / えんぎ、1906年6月10日 - 2003年8月3日)は、日本の国文学者。専門は日本古代歌謡。学位は、文学博士(東京大学・論文博士・1957年)。鶴見大学名誉教授、山梨大学名誉教授。勲三等旭日中綬章受章。 富山県富山市出身。志田義秀の次男。富山中学校、甲南高等学校を経て、1930年東京帝国大学国文科卒。学問で久松潜一、短歌で佐佐木信綱に師事する。 神奈川県立の中学校教諭の後、1932年国民精神文化研究所助手、1937年同研究員として『国体の本義』研究、二度の中国への出張などの戦争協力を行う。戦後、公職追放。1952年から日本大学などで講師、1953年鶴見女子短期大学教授、1955年山梨大学教授、1957年歌謡研究で東京大学より文学博士の学位を取得、1966-1969年学芸学部長・教育学部長、1966-1981年国語審議会委員、1972年山梨大定年退官、名誉教授、鶴見女子大学文学部長、1977年辞職、鶴見大学名誉教授、勲三等旭日中綬章受章。
有泉 亨(ありいずみ とおる、1906年〈明治39年〉6月1… 有泉 亨(ありいずみ とおる、1906年〈明治39年〉6月10日 - 1999年〈平成11年〉12月20日)は、日本の法学者。専門は労働法。学位は法学博士(東京大学・論文博士・1962年)。東京大学名誉教授。弁護士。我妻栄門下。位階は正四位。 山梨県中巨摩郡白根町(現在・南アルプス市)出身。1928年、第一高等学校 (旧制)卒業。1932年、東京帝国大学法学部法律学科卒業。 1933年、同大学法学部助手。1940年、京城帝国大学法文学部助教授、1944年同法文学部教授、1946年本土に引揚げ後、法政大学法学部教授。1947年、東京大学社会科学研究所助教授。1948年、教授。1955年、所長。1962年、東京大学より法学博士の学位を受く。
竹中靖一(たけなか やすかず、1906年6月9日-1986年… 竹中靖一(たけなか やすかず、1906年6月9日-1986年12月19日)は、日本の経営学者。 1906年(明治39年)大阪府大阪市に生まれる。1929年(昭和4年)京都帝国大学経済学部卒。1932年(昭和7年)山口高等商業学校(旧制)講師、1934年(昭和9年)同校教授。1946年(昭和21年)同校を退職後、有邦建設取締役に就任。1949年(昭和24年)近畿大学教授。 1960年「石門心学の経済思想」で大阪大学経済学博士。1977年定年、名誉教授。石田梅岩の石門心学を研究し、1955年心学の講舎明誠舎を復活させた。1964年「石門心学の経済思想」で日本学士院賞受賞。 1984年(昭和59年)勤務先の近畿大学構内で脳梗塞のため倒れ、以降、自宅静養を余儀なくされ、大阪市から吹田市へ転居した。
八田 一朗(はった いちろう、1906年6月3日 - 198… 八田 一朗(はった いちろう、1906年6月3日 - 1983年4月15日)は、日本のレスリング選手・指導者、政治家である。日本レスリング界の父であり、参議院議員も務めた。また、1964年東京オリンピック招致にも尽力した。広島県安芸郡江田島町(現・江田島市)出身。
米澤 嘉圃(よねざわ よしほ、1906年6月3日 - 199… 米澤 嘉圃(よねざわ よしほ、1906年6月3日 - 1993年7月29日)は、日本の中国美術史学者。 東京大学名誉教授、武蔵野美術大学名誉教授。本名は芳男。 秋田県鹿角郡生まれ。父は鉱山技師の米澤萬陸。旧制暁星中学校、福岡高等学校を経て、1931年に東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業。1935年東方文化学院東京研究所所員、1949年東京大学東洋文化研究所教授、1950年文化財専門審議会委員、『国華』主幹などを務め、1967年定年退官後、武蔵野美術大学学長。1962-66年美術史学会代表。墓所は多磨霊園。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
大村 はま(おおむら はま、本名:大村 濱(読み同じ)、(英… 大村 はま(おおむら はま、本名:大村 濱(読み同じ)、(英文:Ohmura Hama)1906年(明治39年)6月2日 - 2005年(平成17年)4月17日)は、日本の国語教師、国語教育研究家。西洋中世哲学、ドイツ哲学、キリスト教神学の研究者大村晴雄は実弟。 横浜市出身。父親は大村益荒、北海道の尋常師範学校の教師を経て、ミッションスクールである共立女学校(現横浜共立学園)の幹事から教頭になっていた。母親はくらといい、北星女学校を卒業していた。両者クリスチャンという関係で結婚した。母くらは、後に「婦人の友」となる「家庭の友」の創刊号からの読者であり、父は潔癖さが強く、不器用であり、うそが嫌いであったという。
橋本 龍伍(はしもと りょうご、1906年(明治39年)6月… 橋本 龍伍(はしもと りょうご、1906年(明治39年)6月2日 - 1962年(昭和37年)11月21日)は、日本の大蔵官僚、政治家。衆議院議員(6期)。位階勲等は正三位勲一等瑞宝章。称号は法学士。 大日本麦酒の常務を務めた橋本卯太郎の五男で、第82代・第83代内閣総理大臣の橋本龍太郎および高知県知事を務めた橋本大二郎の父、衆議院議員橋本岳の祖父である。 少年の頃に結核性の腰椎カリエスに罹って11年に及ぶ闘病生活を送り、生涯杖を離せない身体となった。苦学して第一高等学校、東京帝国大学法学部を卒業、大蔵官僚や内閣官房次長を経て吉田学校の一員として文部大臣、厚生大臣等を歴任した。 1906年6月2日、東京府荏原郡目黒村に大日本麦酒(現・サッポロビール)社員の橋本卯太郎・マツの五男として生まれた。
権 泰夏(クォン・テハ、ごん たいか、1906年6月2日 -… 権 泰夏(クォン・テハ、ごん たいか、1906年6月2日 - 1971年10月10日)は、朝鮮半島出身の陸上競技選手。1932年ロサンゼルスオリンピック 男子マラソン代表。明治大学卒業。ロサンゼルスオリンピック当時、朝鮮半島は日本に併合されていたため、6位に入賞した金恩培と共に日本代表として出場した。 忠清道の清州出身。裕福な家の出身で、京城(現:ソウル)にある徽文高等普通学校(内地の中学校に該当)に入学したが中退し、内地の立命館中学校に留学、卒業後明治大学法学部に入学した。明治大学時代は1927年からは毎年箱根駅伝に出場。4区を走った1928年と7区を走った1930年には区間新記録で区間賞を獲得している。
松本 鼎一(まつもと ていいち、1906年(明治39年)5月… 松本 鼎一(まつもと ていいち、1906年(明治39年)5月31日 - 1986年(昭和61年)12月7日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院男爵議員。 本籍・大阪府。華族・松本春造の長男として生まれる。父の隠居に伴い、1927年(昭和2年)6月15日、男爵を襲爵した。 1931年(昭和6年)3月、京都帝国大学法学部を卒業した。同年、三井生命保険に入社。その後、日産自動車、自動車統制会(参事)、日産重工業で勤務した。 1946年(昭和21年)6月29日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
柴垣 和三雄(しばがき わさお、1906年5月30日 - 2… 柴垣 和三雄(しばがき わさお、1906年5月30日 - 2001年5月1日)は日本の数学者、九州大学名誉教授、学位は理学博士。専攻は数学。 1906年金沢市生まれ。1929年に東京大学理学部物理学科卒業。 1941年に「n変数の一つの実函数の此等変数のm(<n)個の方程式によって定義さる超曲面上におけるクルチカルポイントについて」で東京大学より理学博士号を取得。その後九州大学、東京理科大学理学部教授を歴任。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
佐々木 清野(ささき きよの、1906年〈明治39年〉5月2… 佐々木 清野(ささき きよの、1906年〈明治39年〉5月27日 - 没年不明)は、大正・昭和戦前期の日本の映画女優。群馬県藤岡市出身。 声優の野沢雅子は姪。女優引退後、佐々木は子役時代の野沢のマネージャーをしていたとされる。 1906年(明治39年)群馬県多野郡藤岡町(現・藤岡市)に生まれる。1924年(大正13年)、日本女子大学附属女学校を卒業し、同年松竹蒲田撮影所へ入社。1927年(昭和2年)、準幹部に昇格するが、翌1928年(昭和3年)に松竹蒲田撮影所を退社する。 1931年(昭和6年)、キヨノ教育映画社を設立し、教育・宣伝映画などの製作に取り組む。 1939年(昭和14年)、新興キネマに入社し、数本の映画に助演したのち引退。
井上 智勇(いのうえ ちゆう、1906年(明治39年)5月2… 井上 智勇(いのうえ ちゆう、1906年(明治39年)5月26日 - 1984年(昭和59年)6月5日)は、西洋史学者、浄土真宗の僧侶。 兵庫県出身。1930年京都帝国大学卒。第三高等学校教授、1943年京都帝大助教授。1948年「ローマ経済史の研究」で)文学博士、同年京都大学教授。1970年定年退官、名誉教授、奈良教育大学学長。西洋古代史が専門。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
鈴木 平三郎(すずき へいざぶろう、1906年(明治39年)… 鈴木 平三郎(すずき へいざぶろう、1906年(明治39年)5月26日 - 1984年(昭和59年)2月2日)は、日本の政治家、医師。東京都三鷹市長(5期)。名誉三鷹市民。 東京府北多摩郡三鷹村(三鷹町を経て、現三鷹市)出身。1930年日本大学医学部を卒業。三鷹市で産婦人科医院を開業する。戦時中は軍医として中国大陸に派遣された。戦後は社会党に入党。1937年三鷹村議、1940年三鷹町議、1948年三鷹町公安委員長を経て1955年三鷹市長に就任する。市長在任中は下水道事業に取り組み、1973年に普及率100%を達成させた。市職員を百貨店で研修させたり、庁舎内を禁煙化させるなど独創的な政策を打ち出した。
麻生平八郎(あそう へいはちろう、1906年5月25日 - … 麻生平八郎(あそう へいはちろう、1906年5月25日 - 1998年11月15日)は、日本の商学者。商学博士(明治大学)。元明治大学総長。従四位勲二等旭日重光章。千葉県出身。 この他、東京農業大学、立正大学、法政大学、中央大学、福岡大学などで兼任講師。 石井常雄『人物点描 麻生平八郎先生の追憶』(紫紺の歴程 4号、2000年)
角田 喜久雄(つのだ きくお、1906年5月25日 - 19… 角田 喜久雄(つのだ きくお、1906年5月25日 - 1994年3月26日)は日本の小説家。伝奇小説と呼ばれる時代小説、探偵小説で活躍した。 神奈川県横須賀市に生まれ、父は佐倉藩士の家系で、海軍工廠印刷部創設要員だったが、翌1907年に浅草で印刷業を始めて一家で移転する。小学生の頃から、俳句、短歌、新体詩の投稿をしており、滝沢馬琴、山東京伝、黒岩涙香を愛読、中学時代はトルストイ、ドストエフスキーなどを愛読していた。 東京府立三中時代の1921年(大正10年)に『現代』誌のスポーツ小説の懸賞に応募して二等となる。英語教師からシャーロック・ホームズの話を聞いて探偵小説に興味を持ち、翌1922年に『新趣味』に「毛皮の外套を着た男」を発表してデビュー。
岩田 久二雄(いわた くにお、1906年(明治39年)5月2… 岩田 久二雄(いわた くにお、1906年(明治39年)5月25日 - 1994年(平成6年)11月29日)は、日本の昆虫学者・生態学者。 学位は理学博士(京都帝国大学、1944年)。 常木勝次とともに日本における昆虫の行動研究の草分けであり、ハチ類の習性研究をほぼ生涯の課題とした。高校生(旧制)時代から孤独性の狩り蜂や花蜂の習性研究を行い、特に狩り蜂の習性研究を発展させた。岩田の業績で特筆されるのは、個々の種の習性(行動 behaviour の連鎖たる habit )の記述のみでなく、繁殖習性の要素を5つの単位習性に分類し、種間の習性を普遍的に比較できる方法を提示したことであり、これによってこの分野は近代的な進化生態学・動物行動学に進む道筋の一つを得た。
村上 朝一(むらかみ ともかず、1906年(明治39年)5月… 村上 朝一(むらかみ ともかず、1906年(明治39年)5月25日 - 1987年(昭和62年)2月13日)は、日本の裁判官、検察官、司法・法務官僚。第6代最高裁判所長官。 東京帝国大学法科(現・東京大学大学院法学政治学研究科・法学部)卒業。大阪地裁、京都地裁、東京地裁などで裁判官生活を送り、1938年に司法省民事局に勤務。戦時中に陸軍司政官になりジャカルタに派遣されたが、敗戦のため抑留生活をした。復員後に再び司法省民事局に勤務し、民法の改正作業に携わった。その後、1948年から法務庁民事局長(後に法務省民事局長)を10年務めた。1952年4月19日に法務府民事局長として「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」と題する通達を出した(これによりサンフランシスコ平和条約が発効した同年4月28日に在日朝鮮人と在日台湾人は平和条約国籍離脱者として外国人となった)。
小澤 太郎(おざわ たろう、1906年(明治39年)5月24… 小澤 太郎(おざわ たろう、1906年(明治39年)5月24日 - 1996年(平成8年)2月16日)は、日本の政治家。山口県知事(2期)、衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)。 1906年(明治39年)山口県萩市にて生まれる。再興旧制官立山口高等学校を卒業し、1930年(昭和5年) 東京帝国大学法学部英法科を修了。のちに台湾総督府に勤務。総督官房文書課長、同人事課長、警務局警務課長などを歴任する。 1948年(昭和23年)山口県副知事に就任。1953年(昭和28年)山口県知事に初当選を果たす。1957年(昭和32年)山口県知事に2期目当選。 1960年(昭和35年)知事任期途中で辞職し、第29回衆議院議員総選挙に旧山口2区から自由民主党公認で立候補し当選(4期)。
島津 久大(しまづ ひさなが、1906年(明治39年)5月2… 島津 久大(しまづ ひさなが、1906年(明治39年)5月24日 - 1990年(平成2年)12月9日)は、日本の外交官。位階は正三位。初代迎賓館長。 1906年(明治39年)5月24日、公爵島津忠済・田鶴子夫妻の次男として東京に生まれる。父忠済は島津久光の七男で貴族院議員、宮内省宗秩寮審議官などを務めた。 1930年(昭和5年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、外務省に入省する。戦前はイギリス書記生(オックスフォード大学留学)、イギリス在勤、中華民国在勤、外務大臣秘書官、ラングーン総領事などを歴任。戦後、1948年(昭和23年)から賠償庁次長、1949年(昭和24年)から外務省政務局長。1951年から1952年、および1955年から1956年の2回、外務省大臣官房長を務める。
瀬戸口 寅雄(せとぐち とらお、1906年5月23日 - 1… 瀬戸口 寅雄(せとぐち とらお、1906年5月23日 - 1987年3月24日)は、日本の作家。 鹿児島県生まれ。ペンネーム・瀬木俊郎。日本大学法科卒。東京毎日新聞で警視庁記者、司法記者をへて、吉本興業文芸部長兼秘書課長。サトウ・ハチローに講談社の編集者野間律太を紹介され、探偵実話、裁判実話を執筆。 第二次世界大戦中は、自ら演劇人を引き連れ戦地を訪れ、出征将兵慰問活動を行っていた。 戦後から時代小説を書く。映画「東海遊侠伝」のほか、美空ひばり主演映画の原作を多く書いた。 肺炎のため新葛飾病院(東京都葛飾区)で死去した。
田万 広文(廣文、たまん ひろふみ、1906年(明治39年)… 田万 広文(廣文、たまん ひろふみ、1906年(明治39年)5月17日 – 1986年(昭和61年)5月9日)は、昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員。 香川県仲多度郡、のちの善通寺市中通で生まれる。1930年(昭和5年)京都帝国大学法学部を卒業。 1930年、高等試験司法科試験に合格し、有馬忠三郎事務所で研修した。1932年(昭和7年)丸亀市で法律事務所を開業した。高松弁護士会副会長、全日本農民組合香川県支部連合会顧問、日本弁護士連合会司法制度調査委員などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に香川全県区から日本社会党公認で出馬して初当選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙に香川県第2区から出馬して落選。
佐々木 哲蔵(ささき てつぞう、1906年5月15日 - 1… 佐々木 哲蔵(ささき てつぞう、1906年5月15日 - 1994年5月25日)は宮城県出身の裁判官、弁護士。裁判官時代は訴訟の進め方、公費出張に関するルーズな態度などが取り沙汰され、2度にわたり裁判官訴追委員会の調査を受け、「裁判官の中で”特異な存在”だった」と評されている。「実の姪を妻にした破廉恥判事」とも呼ばれた。 宮城県宮城郡塩竈町(現・塩竈市)生まれ。1930年、東京帝国大学法学部独法科卒。1931年に裁判官として任官。 1938年、奈良地裁から満州新京(現・長春市)の満州国司法部に移り、新京高等法院に赴任し、四平地方法院次長、ハルビン高等法院廷長を経て、1943年に退官し新京法政大学教授となったが、関東軍に召集されて軍務につき、敗戦後ソ連に抑留され、2年半を過ごす。
細川 碧(ほそかわ みどり、1906年〈明治39年〉5月15… 細川 碧(ほそかわ みどり、1906年〈明治39年〉5月15日 - 1950年〈昭和25年〉8月21日)は、日本の作曲家。東京府出身。男性。 東京牛込に生まれる。「さるやんごとない方の落とし子」「さる帝(明治天皇ではない)のご落胤」(ごらくいん)であったとされる。 東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)在学中、梁田貞に作曲を学んだ。1922年4月、東京音楽学校予科に入学。同校本科声楽部(バリトン)に進学し、ハンカ・ペツォールト、マルガレーテ・ネトケ=レーヴェに声楽を、信時潔に作曲を師事し、1926年3月に卒業。進んで同校研究科作曲部で引き続き信時に師事し、1929年3月に修了した。 1929年、同校研究科卒業と同時に文部省在外研究員としてウィーン市国立音楽芸術単科大学に5年間留学する。
乾 信一郎(いぬい しんいちろう、1906年5月15日 - … 乾 信一郎(いぬい しんいちろう、1906年5月15日 - 2000年1月29日)は、日本の小説家、翻訳家。 米国シアトル生まれ。本名・上塚貞雄で、本名での著作もある。 1912年、母とともに父母の郷里熊本県甲佐町早川に戻り、現在の甲佐町立白旗小学校に通った。その後上京し、青山学院高等部を卒業した。 同商科在学中の1928年、翻訳が『新青年』に採用される。1930年卒業後、博文館に勤務し、『新青年』に探偵小説を書く。1935年『講談雑誌』編集長、1937年『新青年』編集長。1938年フリーとなり、文筆に専念。 戦後「青いノート」「コロの物語」などNHK連続放送劇の脚本を手がける。ユーモア小説、動物小説を多く書いたが、探偵小説やミステリー小説などの翻訳も数多く手がけた。
西宮 弘(にしみや ひろし、1906年5月14日 - 200… 西宮 弘(にしみや ひろし、1906年5月14日 - 2003年11月22日)は、日本の官僚、政治家。陸軍司政官。 茨城県水戸市出身。東京帝国大学法学部卒。内務省、戦後に自治省係長、岩手県出納長、宮城県副知事、日本社会党所属の衆議院議員。 岩手県出納長を経て、1956年10月に新たに宮城県知事に就任した大沼康の副知事に任命される。1959年3月、大沼の急逝を受けて知事選に立候補したが、落選。翌1960年の第29回衆議院議員総選挙に日本社会党公認で宮城1区から出馬し初当選。1963年に再度、宮城県知事選に立候補するが落選。同年の第30回衆議院議員総選挙に再出馬し当選した。 全金本山労働組合争議では、支援共闘会議議長を担う。
左近 義慈(さこん よししげ、1906年5月13日 - 19… 左近 義慈(さこん よししげ、1906年5月13日 - 1990年2月18日)は、日本の牧師・聖書学者。青山学院神学部元教授、東京神学大学名誉教授。 青山学院神学部元教授左近義弼は父。東京神学大学元学長左近淑は義理の息子。 1906年、左近義弼・まつの次男として米国・ニューヨークで生まれる。青山学院中等部、専門部を経て渡米し、南カリフォルニア大学を卒業。 ニュージャージー州マディソンにあるドルー大学神学大学院に進み、旧約聖書学を専攻。1935年に修士課程を修了し、修士号を取得。特別奨学金を得てエルサレムにあるアメリカ東洋研究所(W. F. Albright Institute of Archaeological Research)の特別研究員としてウィリアム・オルブライトの下で聖書考古学およびセム語を研究。
井上 薫(いのうえ かおる、1906年(明治39年)5月13… 井上 薫(いのうえ かおる、1906年(明治39年)5月13日 - 1993年(平成5年)4月18日)は、日本の銀行家。第一銀行頭取、第一勧業銀行初代会長を務めた。千葉県我孫子市出身。妻・光子は渋谷米太郎の長女。 開成中学、一高を経て、1929年に東京帝国大学経済学部を卒業。同年に第一銀行に入行。調査部長、審査第一部長等を歴任。 1954年に取締役に選任。常務、専務、副頭取を経て、1962年に頭取に就任し、1966年に会長に退いた。しかし、当時第一銀行と三菱銀行の合併話が進んでいたことから、酒井杏之助相談役と共に合併反対派の領袖として、当時頭取で合併推進派だった長谷川重三郎と対立する。結局合併は破談となり、その責任を取って長谷川が頭取を辞任したため、1969年に頭取に復帰した。
大場 俊助(おおば しゅんすけ、1906年5月13日 - 1… 大場 俊助(おおば しゅんすけ、1906年5月13日 - 1970年11月30日)は、日本の日本文学研究者。 静岡県出身。東京文理科大学国文科卒。1936年中央大学予科教授、1939年中央大学文学部教授。国語教育が専門だが、近世文学などに業績があり、小林一茶のセックスについて研究したことで知られる。
土屋 尹直(つちや ただなお、1906年(明治39年)5月1… 土屋 尹直(つちや ただなお、1906年(明治39年)5月13日- 1979年(昭和54年)9月24日)は、昭和期の実業家、宮内官、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・堤、旧名・忠雄。 華族・堤雄長の三男として生まれ、子爵・土屋正直の養子となる(剱沢小屋雪崩事故で正直の嫡男土屋秀直が死亡した事による)。1938年(昭和13年)12月28日、尹直と改名した。養父の死去に伴い、1939年(昭和14年)1月16日に子爵を襲爵した。 1930年(昭和5年)、東京商科大学を卒業し、三井物産本社に入社。以後、三輪銀行常任監査役、同頭取、式部官兼主猟官、兼内大臣秘書官などを務めた。 1945年(昭和20年)10月25日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
兪 鎮午(ゆ ちんご、ユ・ジノ、1906年5月13日 - 1… 兪 鎮午(ゆ ちんご、ユ・ジノ、1906年5月13日 - 1987年8月30日)は、日本統治時代の朝鮮と大韓民国の小説家、法学者、教育者、政治家。号は玄民。初期はプロレタリア作家、中期は純粋文学、そして後期は親日派として時代に翻弄された[疑問点 – ノート]。解放後は、韓国において法学者、政治家として活動した。大韓民国憲法の起草者でもある。 1906年5月13日、ソウル嘉会坊斉洞に生まれる。杞渓兪氏(朝鮮語版)。1914年、斉洞公立普通学校に入学、1919年、京城高等普通学校に入学し、教育を受ける。京城高等普通学校を卒業後、1924年、京城帝国大学予科に入学する。この年、朝鮮人学生団体「文友会」を組織し、機関紙『文友』の発刊に携わった。
山下 勝治(やました かつじ、1906年 <明治39年> 5… 山下 勝治(やました かつじ、1906年 <明治39年> 5月12日 - 1967年 <昭和42年> 12月5日)は、日本の会計学者。学位は、経営学博士(神戸大学・論文博士・1951年)。位階は従三位、勲等は勲三等旭日中綬章。 岡山県笠岡市出身。笠岡商業学校(現岡山県立笠岡商業高等学校)を経て、1927年大分高等商業学校卒、愛知県豊橋市立商業学校教諭、1932年神戸商業大学(現:神戸大学)卒。1934年同研究科修了。平井泰太郎研究室出身。1934年彦根高等商業学校講師、1936年教授、1944年神戸経済大学助教授、1951年大阪大学法経学部教授併任、1951年「損益計算制度の発展」で神戸大学より経営学博士の学位を取得。
小場瀬 卓三(おばせ たくぞう、1906年5月12日 - 1… 小場瀬 卓三(おばせ たくぞう、1906年5月12日 - 1977年11月12日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。(旧)東京都立大学名誉教授。 兵庫県生まれ。1927年甲南高等学校文科卒業、1930年東京帝国大学文学部仏文科卒業、1936年から1938年までパリに留学。東京都立大学教授、日本フランス語フランス文学会会長などを歴任。 ディドロ、モリエールを研究、16世紀から18世紀のフランスの思想・演劇について研究、ほかアラゴンの翻訳を含め、多くの著書訳書を著した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
塩飽 玉男 (しわく たまお、1906年5月12日 – 19… 塩飽 玉男 (しわく たまお、1906年5月12日 – 1990年12月15日)は、日本の陸上競技選手。専門は長距離走・マラソン。1936年ベルリンオリンピックに日本代表選手としてマラソンに出場した。 当時大規模な入浜式塩田を擁していた坂出周辺では、「浜子」と呼ばれる塩田労働者が塩田内で仕事として終日走る生活を送っていた。1919年にはマラソンへの関心に火がつき、地元出身で1920年アントワープオリンピック陸上競技代表選手となった大浦留市(東京高等師範学校)が、帰国後に郷里で開かれたロードレースで2人が自分より上位に入ったことを評価・激励したこともそれを後押しした。1928年アムステルダムオリンピックのマラソンに「浜子」出身の山田兼松が4位入賞を果たし、それを追う形で楠好蔵や塩飽も陸上競技に進んだ。