能勢 朝次(のせ あさじ、1894年〈明治27年〉4月1日 … 能勢 朝次(のせ あさじ、1894年〈明治27年〉4月1日 - 1955年〈昭和30年〉2月25日)は、日本の能楽研究者・日本文学者。専門は、中世・近世文学。奈良学芸大学学長等を歴任。能楽研究の分野では、膨大な史料を分析的に使う手法と卓抜した創見で斯界に一時代を画した。 1894年、京都府北桑田郡山国村(現京都市)に生まれた。1923年、京都帝国大学文学部国文科を卒業。 卒業後は、1924年より大谷大学教授となった。以降、京都帝国大学、東京高等師範学校、東京文理科大学(1949年に新制移行後東京教育大学、後筑波大学)などでも教鞭をとった。1947年に学位論文『能楽源流考』を東京文理科大学に提出して文学博士の学位を取得。
坂本 彌三郎(さかもと やさぶろう、1894年4月 - 19… 坂本 彌三郎(さかもと やさぶろう、1894年4月 - 1981年2月20日)は、日本の経済学者。専門は経済学史。神戸大学名誉教授。初代神戸大学経済学部長や、初代神戸学院大学経済学部長を務めた。 1894年、広島県尾道市で生まれた。尾道商業学校(現・広島県立尾道商業高等学校)、神戸高等商業学校(現・神戸大学)を経て、東京高等商業学校(現・一橋大学)専攻部貿易科に進んだ。1917年に卒業。 1919年、神戸高等商業学校教授に就いた。1929年より神戸商業大学(現・神戸大学)助教授兼神戸商業大学附属商学専門部教授。1930年に神戸商業大学教授に昇格。 新制大学への包摂に伴い、1949年からは神戸大学教授兼神戸大学神戸経済大学教授。
栗原 悦蔵(くりはら えつぞう、1894年〈明治27年〉3月… 栗原 悦蔵(くりはら えつぞう、1894年〈明治27年〉3月31日 - 1987年〈昭和62年〉9月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。太平洋戦争中に大本営海軍報道部長を勤めた。 群馬県勢多郡荒砥村西大室(現・前橋市西大室町)に生まれる。 旧制群馬県立前橋中学校より海軍兵学校第44期入校。平出英夫 海軍少将に代わり、海軍報道部第1課長に着任したが、早々に「竹槍事件」が発生。筆者である毎日新聞記者新名丈夫を守るべく陸軍との対応にあたった。また米内光政、井上成美、高木惣吉などの下、終戦工作に携わっている。 戦後は公職追放となり、その後は小松製作所に入社し小松フォークリフト社長に就任した。
上滝 基(こうたき もとい、1894年(明治27年)3月29… 上滝 基(こうたき もとい、1894年(明治27年)3月29日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 福岡県三井郡味坂村(現在の小郡市)出身。1917年(大正6年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学仏法科を卒業した。朝鮮総督府試補、同事務官を経て、1924年(大正13年)に全羅北道財務部長となった。1926年(大正15年)からは専売局庶務課長、同製造課長、同事業課長、殖産局鉱山課長・同商工奨励館長を歴任し、1930年(昭和5年)に欧米に出張した。帰国後、総督官房人事課長・中枢院書記官、鉄道局理事、官房審議室事務官を歴任した。1936年(昭和11年)に慶尚北道知事となり、内務局長を経て、1941年(昭和16年)11月に殖産局長に就任した。
岡部 楠男(おかべ くすお、1894年 <明治27年> 3月… 岡部 楠男(おかべ くすお、1894年 <明治27年> 3月27日 - 1972年 <昭和47年> 12月3日)は、日本の経営者。日本鉱業社長を務めた。位階は正五位。 徳島県徳島市出身。1918年に東京帝国大学採掘学科を卒業し、久原鉱業に入社。1939年5月に日本鉱業に転じ、1945年5月に取締役に就任し、1947年4月から1957年11月までに社長を務めた。 1960年に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1972年12月3日、肺化膿症で死去した。78歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
池内 信行(いけうち のぶゆき、1894年3月27日 - 1… 池内 信行(いけうち のぶゆき、1894年3月27日 - 1972年2月12日)は、日本の経営学者。関西学院大学名誉教授。経営学の方法論の研究で知られた。 兵庫県姫路市新在家生まれ。1914年東京外国語学校(現東京外国語大学)卒業。コロンビア大学大学院、ベルリン大学で学び、1924年関西学院高等商業学部教授、関西学院大学経営学部教授。1964年大阪経済大学教授、同経営研究所長。1950年「経営経済学の存在論的究明」で関西学院大学経済学博士。
大下 大蔵(おおしも だいぞう、1894年(明治27年)3月… 大下 大蔵(おおしも だいぞう、1894年(明治27年)3月27日 - 1979年11月6日)は、日本の実業家。フマキラー創業者。 広島県安佐郡祇園町(現・広島市安佐南区祇園)出身。力三郎の二男。 1923年、殺虫剤「強力フマキラー液」を創製、翌1924年、祇園町に「大下回春堂」(現・フマキラー)を創業。同年専売特許に成功し、戦前までに国内のみならず欧米諸国にも市場を拡げ、上海に工場を設置するなど同社を躍進させた。戦後1950年、一子・俊春の社長就任で会長に退いた。 趣味は碁、茶道、書画、骨董。宗教は真宗。 広島市の老舗百貨店「福屋」や、大下学園(大下学園女子短期大学・大下学園祇園高校)も一族の経営であった。
竹田 儀一(たけだ ぎいち、1894年3月24日 - 197… 竹田 儀一(たけだ ぎいち、1894年3月24日 - 1973年4月30日)は、日本の弁護士、実業家、政治家。位階は従三位。 大阪市会議員、衆議院議員(4期)、地方財政委員会委員長(初代)、厚生大臣(第16代)、神鋼商事株式会社社長などを歴任した。 石川県出身。1918年、京都帝国大学法科大学法律科を卒機後、鈴木商店に入社し、支配人金子直吉の秘書を務めた。その後弁護士となり、さらに大阪市会議員となる。また樺太ツンドラ工業、大聖寺商業等各社の社長を歴任する。 1930年の第17回衆議院議員総選挙に旧大阪府第2区から立憲民政党公認で立候補し当選。以後、18、22、23回総選挙に当選。戦前は、同郷である拓務大臣の永井柳太郎の下で大臣秘書官などを務めた。
吉田 甲子太郎(よしだ きねたろう、1894年〈明治27年〉… 吉田 甲子太郎(よしだ きねたろう、1894年〈明治27年〉3月23日 - 1957年〈昭和32年〉1月8日)は、日本の翻訳家、英文学者、児童文学者。筆名に朝日壮吉、吉田夏村などがある。 群馬県北甘楽郡小野村(現・富岡市)生まれ。東京芝桜田小学校高等科、旧制立教中学校を経て、早稲田大学英文科卒業。 大学卒業後、母校、旧制立教中学校の英語教師となる。大学在学中より山本有三に師事。朝日壮吉などの筆名を用い、中学教師のかたわら、『新青年』などに探偵小説を翻訳するが、1927年ころから児童文学に移行し、少年小説を書く。1932年、新設された明治大学文藝科で、科長となった山本の推薦で教授となる。戦後は明大文学部文学科長を務め、児童雑誌『銀河』の編集にも携わる。
岸 要(きし かなめ、1894年3月23日 - 1982年1… 岸 要(きし かなめ、1894年3月23日 - 1982年10月1日)は、日本の実業家。住友電気工業社長、会長を務めた。 大阪府泉佐野市出身。1918年に京都帝国大学法学部を卒業し、住友銀行での勤務を経て、1937年に住友電気工業の前身である住友電線製造所に転職。 総務部長、経理部長、取締役、常務を経て、1947年から1956年11月までに社長を務め、1956年11月から1962年6月までに会長を務めた。1962年以降は相談役を務めた。 日本電気取締役、関西テレビ放送監査役なども歴任した。 1965年春に勲三等瑞宝章を受章した。 1982年10月1日、呼吸不全のために大阪市の住友病院で死去。88歳没。
山内 義雄(やまのうち よしお、1894年3月22日 - 1… 山内 義雄(やまのうち よしお、1894年3月22日 - 1973年12月17日)は、日本のフランス文学者。早稲田大学などで教鞭を執りながら、多くの訳業を遺した。日本芸術院会員。 1894年(明治27年)、父通義、母テウの次男として、東京市牛込区(現在の東京都新宿区)市谷田町に生まれた。父は陸地測量部長を経て初代の陸軍砲工学校長を務めた陸軍工兵大佐であった。暁星小学校・同中学校を経て、1911年、東京外国語学校仏語科に進んだ。中学時代、永井荷風と上田敏の訳詩によりヴェルレーヌやボードレールを知り、原書を輸入して読み、また、作歌・詩作も試みた。 1915年(大正4年)、東京外国語学校を卒業し、家庭の事情で、希望の京都帝国大学文学部でなく、[要出典]法学部に入って、文学部上田敏教授の講義をその急逝までの1年余聴いて、直接の薫陶も受けた。
藤田 敬三(ふじた けいぞう、1894年3月22日 - 19… 藤田 敬三(ふじた けいぞう、1894年3月22日 - 1985年11月29日)は、日本の経済学者。大阪経済大学学長(第3代)、同理事長を歴任。大阪市立大学経済学博士、同名誉教授。日本経済政策学会名誉会員。 大阪市立大学名誉教授で元大阪経済法科大学学長の藤田整は子息。 香川県三野郡本山村(現 三豊市豊中町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第三高等学校を経て、1921年京都帝国大学経済学部卒業、同大学院に進み河田嗣郎に師事。1922年より文部省在外研究員として欧州に留学。羽仁五郎、大学同窓の三木清らと同時期にドイツ・ハイデルベルク大学で学び交流をもった。 1924年彦根高等商業学校教授、1927年京都帝国大学農学部農林経済学科講師。
仲町 貞子(なかまち さだこ、1894年3月22日 - 19… 仲町 貞子(なかまち さだこ、1894年3月22日 - 1966年6月16日)は、日本の作家。本名、柴田オキツ。 長崎県南高来郡大三東村(後の有明町、現在の島原市)に生まれる。1907年長崎県立長崎高等女学校に入学し、三宅古城に和歌を学ぶ。卒業後すぐに結婚してしばらく京都に住んだ後、別府に移住。1925年詩人の北川冬彦と知り合い、東京へ出奔する。1929年『詩神』に「託児所風景」を発表して新進女流作家として注目される。1931年『磁場』創刊に参加し、宮本のりの筆名で「鎌」を発表する。翌年、『麵麭』創刊に参加し、筆名を仲町貞子とする。1936年小説『梅の花』を出版。その間北川と別れ、文芸評論家の井上良雄と結婚。
青木 武三(あおき たけぞう、1894年(明治27年)3月2… 青木 武三(あおき たけぞう、1894年(明治27年)3月21日 - 1982年(昭和57年)8月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山口県出身。岩国中学校(現山口県立岩国高等学校)を卒業し、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第21連隊付となる。1919年(大正8年)5月、操縦術を修了し、同年12月、航空第2大隊付となる。航空第3大隊付を経て航空第3大隊中隊長に就任し、1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵に転じ航空兵大尉となる。以後、明野陸軍飛行学校教官、陸軍航空本部員、第2飛行集団司令部員、同参謀、飛行第33戦隊長を歴任し、1939年(昭和14年)3月、航空兵大佐に昇進した。
荒川 豊藏(あらかわ とよぞう、1894年3月21日 - 1… 荒川 豊藏(あらかわ とよぞう、1894年3月21日 - 1985年8月11日)は、昭和を代表する美濃焼の陶芸家。岐阜県多治見市出身。桃山時代の志野に陶芸の原点を求め、古志野の筍絵陶片を発見した可児市久々利にある牟田洞古窯跡のある大萱に桃山時代の古窯を模した半地上式穴窯を築き、古志野の再現を目指して作陶を重ねた。終には「荒川志野」と呼ばれる独自の境地を確立した。'''斗出庵'''、'''無田陶人'''と号す。 豊蔵が古志野筍絵陶片を発見した当時多治見陶磁試験場に勤務していた土師萌は、豊蔵が古志野の破片を発掘した話を聞いて、豊蔵の投宿先に破片を見に来る。また、1924年(大正13年)、豊蔵と共に久尻清安寺境内の古窯跡を発掘。
村野 次郎(むらの じろう、1894年3月19日 - 197… 村野 次郎(むらの じろう、1894年3月19日 - 1979年7月16日)は、歌人、実業家。 東京府北多摩郡多磨村(府中市)に生まれる。家業は江戸時代より続く酒問屋。詩人の村野四郎は弟。 多摩尋常小学校卒業後、府立第二中学校(現・東京都立立川高等学校)に入学。文学熱を憂慮した父の助言で早稲田実業学校へ転校、1913年、同校卒業。1919年、早稲田大学商学部卒業。 北原白秋に師事し、「朱欒」「地上巡礼」に参加。1918年、白秋のもとを離れ、「秦皮(とねりこ)」を創刊。1923年、「香蘭」を創刊し、白秋を顧問に迎える。 1924年、白秋、前田夕暮、古泉千樫、土岐善麿が創刊した「日光」に参加。1932年、日本歌人協会を設立、評議員となる。
原 随園(はら ずいえん、旧字体: 原 隨園、1894年〈明… 原 随園(はら ずいえん、旧字体: 原 隨園、1894年〈明治27年〉3月19日 - 1984年〈昭和59年〉3月25日)は、日本の西洋史学者。 愛知県名古屋市出身。第八高等学校卒、東京帝国大学卒。姫路高等学校 (旧制)教授、1924年東北帝国大学助教授、1933年京都帝国大学文学部西洋史教授。同年「テセウス伝説考」で京大文学博士。京都大学図書館長、文学部長。1957年定年退官、名誉教授、立命館大学教授。1964年退職。専門は古代ギリシア史。
米澤 菊二(よねざわ きくじ、1894年(明治27年)3月1… 米澤 菊二(よねざわ きくじ、1894年(明治27年)3月19日 - 1983年(昭和58年)11月9日)は、日本の外交官。駐ポルトガル公使。 石川県能美郡(現・能美市)出身。1918年(大正7年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等試験行政科に合格した。農商務省に入省し、福岡鉱務署に鉱務監督官として勤務。のち外務省に転じ、事務官・条約局第三課勤務、イギリス大使館三等書記官、同二等書記官、安東領事、満州国大使館一等書記官、外務書記官・大臣官房電信課長、カルカッタ(現在のコルカタ)総領事、外務省調査部長を歴任。1939年(昭和14年)、駐ポルトガル公使に就任し、1941年(昭和16年)に退官した。
大岡 忠綱(おおおか ただつな、1894年(明治27年)3月… 大岡 忠綱(おおおか ただつな、1894年(明治27年)3月17日 - 1948年(昭和23年)5月4日)は、大正から昭和期の銀行家、政治家、華族。貴族院子爵議員。 子爵・大岡忠明の息子として生まれる。父の死去に伴い、1905年(明治38年)2月16日に子爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、1919年(大正8年)京都帝国大学法学部政治学科卒業。1921年(大正10年)朝鮮銀行に入行し、その後、同行東京支店支配人代理を務めた。 1932年(昭和7年)11月5日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して活動し、1946年(昭和21年)5月9日に辞職するまで2期在任した。この間、鈴木貫太郎内閣・陸軍参与官、司法省委員、産業設備評価中央委員会委員などを務めた。
松本 秀治(まつもと ひではる、1894年3月17日 - 1… 松本 秀治(まつもと ひではる、1894年3月17日 - 1983年5月1日)は、大日本帝国陸軍の軍人・軍医。最終階級は陸軍軍醫少将。 東京帝国大学医学部(のちの東京大学医学部)卒業。陸軍士官学校、陸軍軍医学校教官などを経て、第23軍軍医部長となる。形成外科医の他、疫病の研究や口腔外科医として戦地にて活躍した。 父は長州藩の武士・医者・官軍である松本 三省(まつもと さんせい)(別名、源 道秀)。親戚に日本画家の松林桂月がいる。 明治27年(1894年)3月17日、山口県に生まれる。東京帝国大学医学部卒業後、陸軍軍医学校に入校。軍医として文部省歯科病院で修業し、三内多喜治主幹のもと陸軍軍医学校教官となる。
村山 長挙(むらやま ながたか、旧字体:村山長擧、1894年… 村山 長挙(むらやま ながたか、旧字体:村山長擧、1894年3月16日 - 1977年8月7日)は、日本の新聞経営者。朝日新聞社社長、社主。 旧岸和田藩主・岡部長職の三男として東京府東京市(現在の東京都)に生まれる。 1919年3月、京都帝国大学法学部政治経済学科を卒業。同年10月、朝日新聞社初代社主の村山龍平の長女・藤子と結婚し、村山家の婿養子となった。翌1920年6月、朝日新聞社に取締役・計画委員長として入社。大阪・東京両朝日新聞の計画部長、航空部長、大阪朝日新聞印刷局長、朝日ビルディング初代社長を歴任し、1933年12月朝日新聞社会長に、1940年5月社長に就任した。 しかし主筆として社長を凌ぐ声望を持つ代表取締役緒方竹虎に反感を持ち、東京本社派の緒方に対する大阪本社派の代表取締役専務取締役原田譲二や、緒方の出身の政治部、経済部の「硬派」に対する社会部出身の「軟派」で、東京本社編集総務から名古屋支社長兼編集局長に転出させられ、さらに傍系の出版局長にさせられたことで反緒方となった常務取締役鈴木文四郎らと結ぶようになった。
大原 博夫(おおはら ひろお、1894年〈明治27年〉3月1… 大原 博夫(おおはら ひろお、1894年〈明治27年〉3月15日 - 1966年〈昭和41年〉1月11日)は日本の政治家、医師。衆議院議員(2期、社会革新党)。広島県会議員、同議長。広島県知事(第48、49、50代)。広島県医師会長、日本医師会理事、 三女は参議院議長を務めた藤田正明の妻。広島県知事を務めた藤田雄山は孫。 広島県豊田郡大河村(後の河内町、現東広島市)出身。医師・大原弥八の長男。1913年、広島県立広島中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)卒業。1920年、東京慈恵会医院医学専門学校(現東京慈恵会医科大学)卒業。父の医業を継ぎ、自宅で開業する。 県会議員を5期務めた。1943年、県医師会長に選出された。
青木 誠四郎(あおき せいしろう、1894年3月15日-19… 青木 誠四郎(あおき せいしろう、1894年3月15日-1956年12月9日)は、日本の児童・教育心理学者。
南波 松太郎(なんば まつたろう、1894年〈明治27年〉3… 南波 松太郎(なんば まつたろう、1894年〈明治27年〉3月15日 - 1995年〈平成7年〉7月3日)は、日本の船舶工学者、海事史研究者、古地図蒐集家。本業は船舶工学だが、余技であった海事史研究でも多くの業績を残した。日本有数の古地図コレクターとしても知られており、そのコレクションの多くは神戸市立博物館に寄贈されている。 1894年(明治27年)3月15日、大阪に生まれる。 大阪府立今宮中学校在学中の同級生に、のちに地理学者となる秋岡武次郎がおり、終生にわたり親交を結んだ。 1916年(大正5年)6月、第三高等学校二部甲類卒業。9月、東京帝国大学工科大学船舶工学科入学。1919年(大正8年)7月、卒業、三菱造船神戸造船所に技師として入社。
田辺 寿利(たなべ すけとし(または「じゅり」)、1894年… 田辺 寿利(たなべ すけとし(または「じゅり」)、1894年3月15日 - 1962年1月25日)は、日本の社会学者。 北海道釧路市出身。1921年東京帝国大学社会学科選科中退。建部遯吾に師事。1927年に尾高豊作・尾高朝雄兄弟により設立され、大塚金之助が所長に就任した東京社会科学研究所の常務理事となる。日本大学講師などを経て、38年モンゴル・蒙疆学院副院長。戦後は東洋大学・東北大学・金沢大学各教授などを務めた。フランス社会学、特にオーギュスト・コントとデュルケームの研究・紹介に尽くした。また、言語社会学研究の分野においても先駆的な役割を果たした。主著に『言語社会学叙説』(1943年)、『フランス社会学成立史』(1965年)、訳書にデュルケーム『社会学的方法の規準』(1942年)など。
伊藤 忍(いとう しのぶ、1894年(明治27)3月15日 … 伊藤 忍(いとう しのぶ、1894年(明治27)3月15日 - 1995年(平成7年)11月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸軍運輸部内で上陸作戦の専門家として認められた人物。 宮城県仙台市出身。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第49連隊付となる。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業し、参謀本部外国戦史課などで勤務した。 1937年(昭和12年)8月、近衛師団参謀に就任。1938年(昭和13年)7月、歩兵大佐に進級し、同年7月、第17師団参謀長に転じ日中戦争に出征。宜昌作戦などに参戦した。1940年(昭和15年)8月、第14師団司令部付となり満州に赴任。
金児 杜鵑花(かねこ とけんか、1894年3月14日 - 1… 金児 杜鵑花(かねこ とけんか、1894年3月14日 - 1938年2月21日)は大正-昭和時代前期の俳人。本名は農夫雄(のぶお)。新興俳句の命名者とされているが、その言葉は、彼が私淑した河東碧梧桐が先に著書『新興俳句への道』(昭和4年)の題名で使っていたものを、山口誓子、水原秋櫻子らの運動に当てたものである。 1894年(明治27年)3月14日、北海道余市郡(現余市町)生まれ。札幌師範を卒業後、堺小学校教諭となったが、1918年上京して新潮社に入社。1920年、素人社を設立。山口誓子の処女句集『凍港』を出版。雑誌「現代文芸」「俳句月刊」「俳句世界」などを発行、主宰。俳句は河東碧梧桐に私淑し新傾向風の俳句をつくるが、晩年は定型句に転じた。
木下 郁(きのした かおる、1894年3月13日 - 198… 木下 郁(きのした かおる、1894年3月13日 - 1980年6月19日)は、日本の政治家。元衆議院議員(1942年 - 1945年、1952年 - 1955年)、元大分市長(官選)(1945年 - 1947年)、元大分県知事(1955年 - 1971年)。大分県知事としては、官選も含めると第41 - 44代、公選のみでは第3 - 6代にあたる。 大分県宇佐郡安心院村(現宇佐市)出身。旧制宇佐中学校(現宇佐高校)、旧制第五高等学校を経て、1918年に東京帝国大学法科を卒業。三井物産、兵役、英語教師(旧制大分中学校(現大分上野丘高校))、イギリス・ドイツ留学を経て、1926年に弁護士となる。 太平洋戦争下の1942年に行われた第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)において、翼賛政治体制協議会の推薦を受け当選。
植村 甲午郎(うえむら こうごろう、1894年(明治27年)… 植村 甲午郎(うえむら こうごろう、1894年(明治27年)3月12日 - 1978年(昭和53年)8月1日)は、昭和初期から後期(1920年代 - 1970年代)の財界人、官僚。札幌オリンピック組織委員会会長。 経済団体連合会(現:日本経済団体連合会)創設に加わり事務局長となるも、公職追放となる。解除後、第3代経済団体連合会(経団連)会長(1968年(昭和43年) - 1974年(昭和49年) )。 東京府東京市に植村澄三郎の長男として生まれる。父の仕事の関係で、幼少期を札幌で過ごす。札幌区創成尋常小学校、慶應義塾幼稚舎、東京府立一中、第一高等学校を経て1918年(大正7年) 東京帝国大学法学部政治学科を卒業。
葉山 嘉樹(はやま よしき、1894年(明治27年)3月12… 葉山 嘉樹(はやま よしき、1894年(明治27年)3月12日 - 1945年(昭和20年)10月18日)は、日本の小説家。本名嘉重。 福岡県京都郡豊津村(現・みやこ町)出身。早稲田大学高等予科文科中退。労働運動に従事し、職を転々とする傍ら、「文芸戦線」に発表した『淫売婦』で注目され、作家生活に入る。『セメント樽の中の手紙』や長編『海に生くる人々』などで労働者階級の生活と反抗と連帯感を描き、初期プロレタリア文学の代表的存在となった。その後開拓団員として満洲に渡り、敗戦後、引揚げの車中で病没した。農民小説も書いた。 士族の家庭に生まれる。旧制豊津中学(現:福岡県立育徳館高等学校)から1913年に早稲田大学高等予科に進学するも、学費未納により除籍。
浅見 與七(浅見 与七、あさみ よしち、明治27年(1894… 浅見 與七(浅見 与七、あさみ よしち、明治27年(1894年)3月12日 - 昭和51年(1976年)11月6日)は、大正・昭和期の園芸学者。東京大学名誉教授。農学博士。園芸学会会長、学術会議委員などをつとめた。岐阜県恵那郡岩村町出身 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
桑田 時一郎(くわた ときいちろう、1894年 <明治27年… 桑田 時一郎(くわた ときいちろう、1894年 <明治27年> 3月12日 - 1991年 <平成3年> 7月5日)は、日本の経営者。日本化成工業社長を務めた。位階は正四位。 兵庫県姫路市出身。1918年に東京帝国大学理学部応用化学科を卒業し、同年に旭硝子に入社。1940年5月に日本化成工業(のちの三菱化成)に転じ、1943年9月に取締役に就任し、1946年12月に常務を経て、1950年6月には社長に就任。1958年3月にから1959年9月に会長を務めた。 1964年4月には科学技術学園理事長に就任。 1961年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲二等瑞宝章を受章。 1991年7月5日肺炎のために死去。
土岐 銀次郎(とき ぎんじろう、1894年(明治27年)3月… 土岐 銀次郎(とき ぎんじろう、1894年(明治27年)3月11日 - 1976年(昭和51年)4月1日)は、日本の内務官僚。官選県知事、東京新聞副社長。旧姓・三宅。 和歌山県出身。三宅進一郎の二男として生まれ、1916年に土岐嘉平の養子となる。第一高等学校を卒業。1917年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し岡山県属となる。 以後、東京府属、内務属、栃木県河内郡長、岐阜県理事官、東京府理事官、帝都復興院事務官、静岡県学務部長、愛知県書記官・学務部長、三重県書記官・警察部長、復興局書記官、復興事務局書記官、山梨県書記官、山形県書記官・内務部長、大阪府部長・総務部長などを歴任。
小畑 虎之助(こばた とらのすけ、1894年(明治27年)3… 小畑 虎之助(こばた とらのすけ、1894年(明治27年)3月11日 - 1955年(昭和30年)4月20日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、兵庫県会議長。「宍粟のトラ」と称された。 兵庫県宍粟郡神戸村安積(一宮町を経て現宍粟市一宮町安積)で、小畑彦太郎の長男として生まれる。小学校を卒業した。 1927年(昭和2年)兵庫県会議員に選出され、1935年(昭和10年)まで在任。1933年(昭和8年)県会議長となり、阪本勝副議長とのコンビで県会に新風を吹き込んだ。1936年(昭和11年)2月の第19回衆議院議員総選挙で兵庫県第4区から立憲政友会公認で出馬して初当選し、1937年(昭和12年)4月の第20回総選挙でも再選された。
楢錦 政吉(ならにしき まさきち、1894年3月10日 - … 楢錦 政吉(ならにしき まさきち、1894年3月10日 - 1973年7月16日)は、秋田県仙北郡南外村(現在の大仙市)出身で湊川部屋(入門時は追手風部屋)に所属した力士。本名は佐藤 政吉(さとう まさきち)。171cm、86kg。最高位は西前頭筆頭。得意手は右四つ、押し。 入門する前は盛岡高等農林学校で相撲選手として活躍していたが、郷里の地主と父に勧められて追手風部屋へ入門、1914年1月場所で初土俵を踏む。1916年に湊川部屋独立に際して移籍、1918年5月場所十両昇進。1923年1月場所に入幕、勝率4割程度ながら筆頭まで進んだ。前捌きのうまさが知られていた。1927年の師匠の死去により、部屋の後継候補にも目されたがかなわず、1927年10月場所限りで廃業した。
中西 敏憲(なかにし としかず、1894年(明治27年)3月… 中西 敏憲(なかにし としかず、1894年(明治27年)3月9日 - 1982年(昭和57年)10月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、南満州鉄道理事、武生市長。位階は従四位。勲三等旭日中綬章。 福井県出身。1918年(大正7年)高等試験行政科試験に合格。翌1919年(大正8年)東京帝国大学法学部(英法)を卒業。南満州鉄道に入り、地方課長、地方、総務の各部長を経て、理事となる。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では郷里の福井県から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。小磯内閣で大東亜参与官となった。 戦後、推薦議員や南満州鉄道理事のため、公職追放となる。1951年(昭和26年)に追放解除となる。
倉田 政嗣(くらた まさつぐ、1894年(明治27年)3月8… 倉田 政嗣(くらた まさつぐ、1894年(明治27年)3月8日 - 1932年(昭和7年)10月16日)は、日本の作詞家。秋田県出身。 1894年3月8日、秋田県平鹿郡沼館町(現、横手市雄物川町)に生まれ、幼時に生家の小沢家から仙北郡横沢村(現、大仙市太田町)で酒造業を営み、親戚でもあった倉田亦五郎へ養子に入った。幼少期を横沢村で過ごして秋田師範学校に入学、師範学校では剣道に熱中した。1913年(大正2年)に師範学校を卒業し、県下雄勝郡西馬音内(にしもない)小学校及び秋田市中通小学校で教諭をつとめた。中通小学校勤務時代には、秋田市商業学校の体操講師も務めている。1920年(大正9年)に病気(結核)のため退職、神奈川県茅ヶ崎市で療養したのち郷里にもどった。
舟崎 由之(ふなざき よしゆき、1894年3月7日 - 19… 舟崎 由之(ふなざき よしゆき、1894年3月7日 - 1966年12月2日)は、新潟県出身の実業家、政治家。日本金属の創業者。三国鋼帯株式会社取締役、舟崎鋼業合資会社代表社員。 新潟県佐渡郡金丸村生まれ。旧制佐渡中学校(現在の新潟県立佐渡高等学校)を経て、1917年に早稲田大学理工学部機械科を卒業する。東京銅板技師、高砂鉄工所技師長、三船商事・日本特殊鋼材・日本航空機工業・日本ペニシリン製薬の各社長を歴任した。 1946年から2回、新潟1区から衆議院議員に当選(日本進歩党)。戦後、萩野由之(東京帝国大学教授)の遺した蔵書を高額で買い取り、母校新潟県立佐渡高等学校に寄付した。舟崎文庫の名で保存されている。
棚橋 真作(たなはし しんさく、1894年3月7日 - 19… 棚橋 真作(たなはし しんさく、1894年3月7日 - 1946年2月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。終戦時に自決。 1894年(明治27年)3月7日、現在の岐阜県大垣市に生まれる。旧制中学を卒業後、陸軍士官学校28期で入学した。卒業後には歩兵第35連隊に配属され、シベリア出兵を経験する。後に歩兵第36連隊付き配属将校として旧制三国中学校へ赴任する。歩兵第7連隊第三大隊長も歴任する。第7連隊時代には、上海付近及び南京付近の戦闘に参加し、武功抜群により上海派遣軍司令官である松井石根大将より個人感状を授与され、金鵄勲章を叙勲される。 1940年(昭和15年)8月には陸軍大佐に任ぜられ、1941年(昭和16年)3月には歩兵第112連隊(丸亀連隊)連隊長を拝命する。
小川 晴暘(おがわ せいよう、1894年3月7日 - 196… 小川 晴暘(おがわ せいよう、1894年3月7日 - 1960年3月18日)は日本の写真家。奈良を中心に各地の仏像を撮り、1922年(大正11年)、美術史家で書家・歌人としても名高い會津八一の勧めを受けて飛鳥園を創業。文化財写真の草分けとして知られる。美術史家小川光暘は次男、写真家小川光三は三男。 平成29年、晴暘が生前、朝鮮半島で撮影した写真の原版が飛鳥園で発見された。
米山 耕造(よねやま こうぞう、1894年(明治27年)3月… 米山 耕造(よねやま こうぞう、1894年(明治27年)3月6日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 神奈川県愛甲郡林村(現・厚木市林)に生まれる。 1914年(大正3年)3月、奈良県丹波市町(現・天理市)の私立天理中学校を卒業し、1919年(大正8年)9月に台湾総督府に奉職する。高雄州属、府属を経て、1939年(昭和14年)3月、地方理事官に進み、高雄州旗山郡守に就任した。
沢田 謙(さわだ けん、1894年3月6日 - 1969年1… 沢田 謙(さわだ けん、1894年3月6日 - 1969年12月4日)は、日本の評論家、伝記作家。 鳥取県出身。東京帝国大学卒。東京市政調査会、太平洋協会などに務め、文筆家となる。 「雄弁」「少年倶楽部」「少女倶楽部」などに偉人伝を連載、戦後も子供向けの偉人伝を多く書いた。 歴史著述家の沢田洋太郎は長男。また沢田三兄弟(沢田節蔵・廉三・退蔵)は鳥取県岩美の同族。
川井 清一郎(かわい せいいちろう、1894年3月6日 - … 川井 清一郎(かわい せいいちろう、1894年3月6日 - 1930年5月17日)は、日本の教育者。大正自由教育運動への弾圧事件である川井訓導事件の当事者として知られる。 長野県東筑摩郡松本町(現・松本市)生まれ。父は旧松本藩士であったが幼い頃に亡くなり、小学校准教員であった母のもとで育つ。長野県師範学校を卒業し、小学校勤務を経た後、広島高等師範学校学校教育学科に学び、1920年に松本女子師範附属小学校の訓導となる。1924年9月5日、いわゆる川井訓導事件により休職を命じられ、退職願により退職。その後、旧制中学校教師の資格を取るため広島高等師範学校研究科で再度学び、広島県内の女学校の教頭などを務める。
長谷川 伝次郎(はせがわ でんじろう、1894年3月3日 -… 長谷川 伝次郎(はせがわ でんじろう、1894年3月3日 - 1976年1月15日)は、日本の写真家。日本人として初めてヒマラヤを撮影した。名は傳次郎とも書く。
山田 午郎 (やまだ ごろう、1894年〈明治27年〉3月3… 山田 午郎 (やまだ ごろう、1894年〈明治27年〉3月3日 - 1958年〈昭和33年〉3月9日)は、福島県安達郡二本松町 (現:二本松市)出身のサッカー選手、サッカー指導者。「サッカージャーナリストの草分け」と呼ばれる人物。 高等小学校を卒業し地元の小学校で代用教員を務めた後、東京府青山師範学校に入学しサッカーを学んだ。1917年(大正6年)に青山師範を卒業して小学校の教員として勤務する傍ら、内野台嶺の勧誘により東京蹴球団に入団。1921年(大正10年)の第1回全国優勝大会(現在の天皇杯)決勝では右のHBとして出場し優勝に貢献した。 1925年(大正14年)の第7回極東選手権では日本代表監督を務め、その年には少年向けの指導書「ア式フットボール」を出版したが、翌年に教員を辞して朝日新聞社に入社し運動部記者となり、1939年(昭和14年)から1941年(昭和16年)まで運動部長を務めた。
村田實(むらたみのる、1894年3月2日 - 1937年6月… 村田實(むらたみのる、1894年3月2日 - 1937年6月26日)は、大正・昭和初期の日本の映画監督、脚本家、俳優。日本映画監督協会初代理事長。
渡辺 甲一(わたなべ こういち、1894年3月2日 - 19… 渡辺 甲一(わたなべ こういち、1894年3月2日 - 1968年11月11日)は、日本の陸軍軍人、医師。最終階級は、陸軍軍医中将。 埼玉県比企郡松山町(現東松山市)出身。旧制埼玉県立熊谷中学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学医科大学卒業。1930年、医学博士(東京帝国大学)。 1921年、東京陸軍兵器支援診療所主治医となる。1923年、陸軍三等軍医正。1926年、陸軍一等軍医。1945年、陸軍軍医学校長、陸軍省医務局長となる。第二次世界大戦後、復員局医務部長となり戦後処理にあたる。 復員局を退職後、東京都中野区で開業し地域医療に尽くした。
浅尾 新甫(あさお しんすけ、1894年3月1日 - 197… 浅尾 新甫(あさお しんすけ、1894年3月1日 - 1972年2月22日)は、日本の実業家。従三位勲一等瑞宝章。 父は衆議院議員を務めた浅尾長慶。妻の父も衆議院議員を務めた樋口秀雄。衆議院議員、環境大臣の浅尾慶一郎は孫。駐イタリア大使、国際交流基金理事長を務めた浅尾新一郎は長男。元駐ニュージーランド大使井口武夫(井口貞夫元外務事務次官の子)の妻・捷子は長女。次男の浅尾浩二は日本銀行松本支店長を経てリーガロイヤルホテルの常務を務めた。三男の浅尾雄輔の妻は山下汽船元横浜支店長の黛千尋の長女で、雄輔の義兄は作曲家の黛敏郎。 長男・新一郎の妻は侍従長だった三谷隆信の三女で、その姉は日産自動車創業者鮎川義介の長男・鮎川弥一に嫁いだ。
藤森 秀夫(ふじもり ひでお、1894年(明治27年)3月1… 藤森 秀夫(ふじもり ひでお、1894年(明治27年)3月1日 - 1962年(昭和37年)12月20日)は、日本のドイツ文学者、童謡作家。別名に藤太彦。
槙原 覚(まきはら さとる、1894年(明治27年)3月1日… 槙原 覚(まきはら さとる、1894年(明治27年)3月1日 - 1942年(昭和17年)5月8日)は、日本の実業家。青年期に岩崎久弥(岩崎弥太郎の長男、三菱財閥3代目総帥)から奨学金を受け、その後三菱商事に入社し水産部長とロンドン支局長を歴任した。財閥解体前の三菱最後の社長であり、再編後の最初の社長となった高垣勝次郎のライバルであった。岡山県新見市出身。 岡山県哲多郡神代村(現:新見市)出身。小作農槙原柳太郎の二男として生まれる。14歳で親戚を頼って上京し下働きなどをしていたが、岩崎弥太郎設立の本郷竜岡町(現・文京区湯島4丁目)の学寮「雛鳳館」の寮生に選ばれたことにより金銭的苦労がなくなり、東京高等商業学校在学中は学業とともにテニスに熱中した。