有沢 忠一(ありさわ ただいち、1905年(明治38年)4月… 有沢 忠一(ありさわ ただいち、1905年(明治38年)4月16日 - 1990年(平成2年)9月27日)は、元三菱瓦斯化学株式会社社長、同社会長、元日本瓦斯化学工業株式会社社長、元株式会社有沢製作所社長、同社会長 その他、沢製作所株式会社会長、東邦天然ガス株式会社取締役、三菱製紙株式会社顧問、天然ガス鉱業会顧問を歴任した。墓所は多磨霊園。
1905年(明治38年)生まれ:617人
有沢 忠一(ありさわ ただいち、1905年(明治38年)4月… 有沢 忠一(ありさわ ただいち、1905年(明治38年)4月16日 - 1990年(平成2年)9月27日)は、元三菱瓦斯化学株式会社社長、同社会長、元日本瓦斯化学工業株式会社社長、元株式会社有沢製作所社長、同社会長 その他、沢製作所株式会社会長、東邦天然ガス株式会社取締役、三菱製紙株式会社顧問、天然ガス鉱業会顧問を歴任した。墓所は多磨霊園。
黒田 秀俊(くろだ ひでとし、1905年4月15日-1989… 黒田 秀俊(くろだ ひでとし、1905年4月15日-1989年6月14日)は、日本のジャーナリスト、社会運動家。 静岡県下田市出身。明治大学政治経済学科中退、明治大学新聞高等研究科修了。 1938年中央公論社入社、42年南方派遣、のち「中央公論」編集長となり、44年横浜事件及び改造社、中央公論社解散に遭遇。 戦後は原水協事務局長、基地問題文化人懇談会事務局長、日本平和委員会常任理事などを務め、晩年は東京都中野区の教育委員準公選運動などに関わった。
水田 三喜男(みずた みきお、1905年〈明治38年〉4月1… 水田 三喜男(みずた みきお、1905年〈明治38年〉4月13日 - 1976年〈昭和51年〉12月22日)は、日本の政治家。位階は従二位。城西大学創立者。自由民主党政務調査会長(初代)。大蔵大臣を数度にわたり務めたほか、経済審議庁長官や通商産業大臣など経済閣僚を歴任した。戦後日本の代表的な財政家でもある。 千葉県安房郡曽呂村(現・鴨川市)出身。水田家は400年ほど前に讃岐(現在の香川県)の地から移住してきた家系とされる。祖父・竹蔵、父・信太郎はいずれも村長を務めた。旧運輸事務次官と日本航空副社長を務めた町田直は妻の実弟である。実家は、旧水田家住宅として保存されている。 旧制安房中学校(現・千葉県立安房高等学校)、旧制水戸高等学校(茨城大学の前身校)を卒業し、東京帝国大学を当初は志望したが、学生連合会の要請で親友の宇都宮徳馬とともに京都帝国大学(法学部)に入学した。
八百板 正(やおいた ただし、1905年4月12日 - 20… 八百板 正(やおいた ただし、1905年4月12日 - 2004年4月23日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院議員(11期)、参議院議員(2期)。日本社会党副委員長を歴任。 福島県伊達郡飯野村(飯野町を経て現福島市)に生まれる。福島中学校(現福島県立福島高等学校)を経て、早稲田大学専門部法科卒業。旧制中学の恩師だった阪本勝(後の衆議院議員、兵庫県知事)を頼り、安部磯雄らの日本フェビアン協会に参加。河上丈太郎、賀川豊彦、櫛田民蔵の知遇を得る。日本労農党、社会大衆党などに参加して無産政党運動をする。1929年に郷里に帰って東北新人会を結成、伊達郡を中心に小作争議を指導し度々投獄される。1933年に全国農民組合(全農)中央委員に選出。
浜田 禎介(はまだ ていすけ、1905年〈明治38年〉4月1… 浜田 禎介(はまだ ていすけ、1905年〈明治38年〉4月11日 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。熱海市議会議員。相模屋社長。伊豆山観光協会長。 新潟県・須山斌二郎の三男。1927年、早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業。東京大北電信会社に勤務。相模屋旅館・浜田三郎の養子となる。養父経営の相模屋旅館を継承する。1947年、熱海市議に当選。 教育委員長、早大稲門会会長、ユネスコ理事長に挙げられる。1948年、家業の相模屋を株式に改組と共に専務に就任。1955年、熱海商工会議所副会頭に就任。 宗教は真言宗。趣味は絵画、野球、乗馬、ゴルフ、カメラ、登山。住所は静岡県熱海市伊豆山。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
吉川 久衛(きっかわ きゅうえ、1905年4月10日 - 1… 吉川 久衛(きっかわ きゅうえ、1905年4月10日 - 1978年6月20日)は農業協同組合運動の推進者、衆議院議員。 長野県上伊那郡飯島村生まれ。赤穂村立公民実業学校(長野県赤穂高等学校)を経て、1932年に明治大学法学部英法学科卒業。同年農林省(現・農林水産省)に入省し大臣官房吏員、興農合作社中央会科長、中央農業会課長、戦時農業団秘書役などを歴任した。戦時中は満洲に5年間派遣された。 1947年の第23回衆議院議員総選挙を皮切りに長野県第3区から出馬し、断続的に計8回当選した。 衆議院では農林政務次官(第2次鳩山一郎内閣)、農林水産・決算・地方行政の各常任委員長などを歴任し、農業基本法・農業管理法の制定、農協共済制度・農林年金制度の確立などに功績があった。
北根 貞雄(きたね さだお、1905年4月10日 - 198… 北根 貞雄(きたね さだお、1905年4月10日 - 1987年9月19日)は、日本の経営者。兵庫県出身。 1927年に名古屋高等商業学校を卒業し、同年に愛知銀行に入行。 1955年に取締役に就任し、1958年11月に常務、1961年5月に専務を経て、1962年5月に中央信託銀行副社長に就任し、1965年12月には社長に昇格。1970年12月に会長に就任し、1975年12月に取締役相談役を経て、1978年6月に相談役に就任。 1975年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1987年9月19日呼吸不全のために死去。82歳没。
松尾 信人(まつお のぶと 、1905年〈明治38年〉4月9… 松尾 信人(まつお のぶと 、1905年〈明治38年〉4月9日 - 1990年〈平成2年〉9月19日)は、日本の政治家。公明党衆議院議員(2期)。 長崎県長崎市生まれ。1928年(昭和3年)、長崎高等商業学校(現・長崎大学経済学部)卒業。同年、長崎税関に入った。長崎税関総務部長、離島振興対策審議会委員を務めた。1969年(昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙で長崎1区に公明党から出馬し、初当選。以後連続2期務める。同年の選挙には立候補せずに引退した。 その他、創価学会副理事長や中央選挙管理会予備委員務めた。 1990年(平成2年)9月19日、心不全のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。
星 克(ほし かつ、1905年4月9日 - 1977年5月2… 星 克(ほし かつ、1905年4月9日 - 1977年5月25日)は、戦前の沖縄県の教育者で、沖縄群島政府、琉球政府及び沖縄県の政治家。沖縄県石垣市出身。 戦前の教職時代に沖縄民謡「安里屋ユンタ」を基に「新安里屋ユンタ」を作詞したことでも知られる。 1905年(明治38年)4月9日生まれ。1922年(大正11年)に石垣島の白保尋常高等小学校代用教員となる。戦前は教育界に身を置いた。 沖縄戦後は大浜町に就職し、収入役・助役・町長の三役を務めた後、八重山群島議会議員に就任。そして琉球政府発足後の第2回立法院議員総選挙で初当選した。 琉球政府立法院では、当時の保守政党であった沖縄自由民主党の重鎮として活躍する。
倭島 英二(わじま えいじ、1905年4月8日 - 1982… 倭島 英二(わじま えいじ、1905年4月8日 - 1982年4月6日)は、昭和時代の日本の外交官。 鳥取県出身。東京帝国大学法学部在学中の1928年(昭和3年)、外交官試験に合格。翌年外務省入省。米国、中華民国、興亜院、本省政務局勤務などを経て、1942年(昭和17年)11月、中華民国駐在大使館の1等書記官で赴任。1945年(昭和20年)2月、大臣官房会計課長。同年8月より終戦連絡中央事務局第4部長・名古屋事務局長等を務めた後、1948年(昭和23年)1月より本省管理局長として引揚げ推進のためGHQなどとの折衝に尽力した。 アジア局の復活に伴い1951年(昭和26年)12月、同局長。1953年(昭和28年)11月、特命全権公使に任命され、同年12月より日本・インドネシア国交樹立、賠償、その他懸案事項の処理交渉を行う。
ジョン・ムーア・アリソン(John Moore Alliso… ジョン・ムーア・アリソン(John Moore Allison, 1905年4月7日 - 1978年10月28日)は、アメリカ合衆国の外交官。駐日大使、駐インドネシア大使、駐チェコスロヴァキア大使を歴任した。
大野 勝巳(おおの かつみ、1905年4月6日 - 2006… 大野 勝巳(おおの かつみ、1905年4月6日 - 2006年9月1日)は、北海道浜中町出身の外交官。駐英大使、外務事務次官、帝国ホテル社長、日英協会理事長、日本国際問題研究所理事長など歴任した。勲一等瑞宝章受章。 北海道釧路支庁管内浜中町の貧しい酪農家で産まれる。旧制立教中学、東京外国語学校(東京外国語大学の前身)を経て、1929年(昭和4年)京都帝国大学経済学部卒。同年外務省に入省し、外交官補としてドイツに駐在。同期に朝海浩一郎(終戦連絡事務局長官、駐米大使)、山田久就(事務次官、駐ソ大使、環境庁長官)など。外相兼大東亜相秘書官・終戦連絡中央事務局賠償部長、外務省管理局長などを経て、1948年総務局長、翌年政務局長。
太田 三郎(おおた さぶろう、1905年4月5日 - 197… 太田 三郎(おおた さぶろう、1905年4月5日 - 1978年7月19日)は、日本の外交官、政治家。初代公選横須賀市長を経て、駐ビルマ特命全権大使、駐ポーランド特命全権大使、駐オーストラリア特命全権大使を歴任した。 茨城県出身。1925年第五高等学校文科甲類卒業。1928年東京帝国大学法学部卒業、外務省入省。1930年任外交官補、英国在勤。1931年在シドニー領事館補。1937年在ソビエト連邦大使館三等書記官。1940年外務省欧亜局第三課長。1943年外務省調査局第三課長。 1945年8月ポツダム宣言による終戦受諾により終戦連絡中央事務局第三部長、9月2日、ミズーリの艦上での降伏文書調印式では日本側全権団随員で参列した。
寺尾 威夫(てらお たけお、1905年4月5日 - 1974… 寺尾 威夫(てらお たけお、1905年4月5日 - 1974年5月25日)は、日本の実業家。大和銀行元頭取、会長。奈良県吉野郡十津川村出身。 1929年に東京帝国大学法学部を卒業し、野村銀行(のちの大和銀行、統合により、現在はりそな銀行となる。)に入行した。 1947年1月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1950年8月には社長に就任し、1951年11月からは大和銀行頭取を務め、1973年4月からは会長を務めた。頭取在職中に、1965年に大蔵省から行政指導により、信託業務を分離するように命令を受けたが、これを拒否し、信託併営を堅持した。 その一方で、関西経済同友会幹事、大阪商工会議所副会頭などを歴任した。
野村 正二郎(のむら しょうじろう、旧姓:杉村(すぎむら)、… 野村 正二郎(のむら しょうじろう、旧姓:杉村(すぎむら)、1905年4月4日 - 1975年1月15日)は、大阪府大阪市出身の科学者、大学教授およびサッカー選手。男爵。 父は杉村倉庫創業者の杉村正太郎、弟は阪急電鉄常務を務めた杉村正三郎であり、大阪商工会議所初代会頭の五代友厚が母方の祖父に当たる。 大阪府立天王寺中学校(現:大阪府立天王寺高等学校)を卒業後、早稲田大学に入学してア式蹴球部に所属。在学中の1927年に第8回極東選手権大会のサッカー日本代表に選出され、8月27日の中華民国代表で代表初出場を果たした。 男爵を叙爵した野村維章を祖とする野村家に大学を卒業する前に養子に入って野村姓に改名し、1928年2月2日に男爵を襲爵した。
神谷慶治(かみや けいじ、1905年4月2日 - 1998年… 神谷慶治(かみや けいじ、1905年4月2日 - 1998年10月26日)は、日本の農業経済学者。東京大学名誉教授。 静岡県掛川市生まれ。1931年東京帝国大学農学部農業経済学科卒、1932年同副手となり、1935年講師、1939年助教授、1948年教授となり、東京大学農学部教授、1962年農学部長を務め、1966年定年退官、名誉教授、東京農業大学教授、1976年退職。そのほか、1951年農林省農業綜合研究所長。1974-1979年大日本報徳社社長。日本農業経済学会会長、日本農村更生協会会長を務めた。日本学術会議会員。1960年「日本農業機械化の分析」(共編)で日経・経済図書文化賞、1968年日本農学賞受賞。
湊 顯(湊 顕、みなと あきら、1905年(明治38年)4月… 湊 顯(湊 顕、みなと あきら、1905年(明治38年)4月2日 - 1992年(平成4年)3月20日)は、日本の薬学者。薬学博士。専門は臓器薬化学。北海道薬科大学初代学長。千葉大学名誉教授。位階は従三位。 岩手県生まれ。1930年(昭和5年)東京帝国大学医学部薬学科卒業。同年、同医学部助手。1937年(昭和12年)東京薬学専門学校講師。1942年(昭和17年)千葉医科大学薬学専門部教授。1951年(昭和26年)千葉大学薬学部教授。1962年(昭和37年)同薬学部長。1974年(昭和49年)千葉大学停年退官。同名誉教授。北海道薬科大学初代学長に就任。1984年(昭和59年)北海道薬科大学退職。1992年死去。
福山 敏男(ふくやま としお、1905年4月1日 - 199… 福山 敏男(ふくやま としお、1905年4月1日 - 1995年5月20日)は、日本の建築史家。京都大学名誉教授。 1905年、福岡県山門郡城内村(現柳川市)で生まれた。第五高等学校を経て、京都帝国大学工学部建築学科に進学。1927年に卒業。 修了後は、内務省造神宮使庁嘱託に採用された。1939年、京都帝国大学から工学博士の学位を取得。1942年、文部技師に昇格として宗教局に勤務。のち教化局総務課勤務を経て、1943年11月1日付けで教学局文化課勤務。 1947年より東京国立博物館附属美術研究所(東京国立文化財研究所)に勤務。1951年より同所資料部長、1954年より同所美術部長。1959年、京都大学教授に転じた。
磯部 浅一(いそべ あさいち、1905年(明治38年)4月1… 磯部 浅一(いそべ あさいち、1905年(明治38年)4月1日 - 1937年(昭和12年)8月19日)は、日本の陸軍軍人、皇道派青年将校。 陸軍幼年学校、陸軍士官学校(38期)を経て陸軍歩兵将校となるが、中尉の時に経理部に転科した。陸軍一等主計の時に、陸軍士官学校事件により停職、「粛軍に関する意見書」配布により免官となった。二・二六事件において決起将校らと行動を共にし、軍法会議で死刑判決を受けて刑死した。 1905年(明治38年)4月1日、山口県大津郡菱海村(現長門市)河原に農業兼左官磯部仁三郎の三男として生まれる。 高等小学校、広島陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、1926年(大正15年)7月に陸軍士官学校(38期)を卒業する。
田岡 香逸(たおか こういつ、1905年4月 - 1992年… 田岡 香逸(たおか こういつ、1905年4月 - 1992年1月31日)は、日本の郷土史家。旧名を旭香という。 兵庫県生まれ。1924年、兵庫県立第一神戸中学校卒業。以後、家業の傍ら郷土史研究に努める。1939年、西宮史談会を再興し、幹事長となる。1946年3月から1951年4月まで西宮市立図書館嘱託。また、1947年、西宮市議会議員に当選。1951年、西宮文化協会理事長就任。1971年、西宮市民文化賞を受賞する。
椙杜 正太郎(すぎのもり しょうたろう、1905年(明治38… 椙杜 正太郎(すぎのもり しょうたろう、1905年(明治38年)4月 - 1977年(昭和52年)4月20日)は、商工省ないし通商産業省の官僚。東京帝国大学卒。72歳で没した。元アラビア石油常務。元石油鉱業連盟顧問。
村田 禎介(むらた ていすけ、1905年3月31日 – 19… 村田 禎介(むらた ていすけ、1905年3月31日 – 1969年12月22日)は、日本の実業家。村田機械創業者。旧姓:岩城。 明治38年(1905年)小浜市湯岡、岩城喜左衛門の3男として出生。大正8年 – 今富尋常高等小学校高等科卒業、嶋長商店入店。 大正9年 – 京都市 村田直商店入店。昭和8年 – 村田家入籍、同社専務。昭和10年 – 西陣ジャカード機製作所設立。 昭和14年 – 東亜機械製造株式会社設立。昭和20年 – 村田繊維機械株式会社、村田産業株式会社設立。 昭和37年 – 村田機械株式会社設立、京都商工会議所副会頭、会頭代行。 昭和42年 – 藍綬褒章受章、機械振興協会賞受賞。昭和44年(1969)- 12月22日死去、勲三等瑞宝章受章、京都南禅寺に葬る。
織田 幹雄(おだ みきお、1905年(明治38年)3月30日… 織田 幹雄(おだ みきお、1905年(明治38年)3月30日 - 1998年(平成10年)12月2日)は、日本の陸上選手、指導者。広島県安芸郡海田町出身。1928年アムステルダムオリンピック三段跳金メダリスト。 「日本人初のオリンピック金メダリスト」であり、アジア人初のオリンピック金メダリストでもある。織田の金メダルにより、日本陸上は一躍世界の第一線に躍り出たと言われる。当時英語で「ホップ・ステップ・アンド・ジャンプ」(現在はトリプルジャンプ)と呼ばれた競技名を「三段跳」と訳した。早稲田大学時代に競技会のプログラムを作る際、織田が「三段跳」と訳した。三段跳では、織田(1928年五輪)・南部忠平(1932年五輪)・田島直人(1936年五輪)と3大会連続で金メダルを獲得したことから、当時は、「日本のお家芸」とも言われた。
高橋 順吉(たかはし じゅんきち、1905年 <明治38年>… 高橋 順吉(たかはし じゅんきち、1905年 <明治38年> 3月30日 - 1985年 <昭和60年> 6月20日)は、日本の銀行家。十六銀行頭取を務めた。位階は正五位。 岐阜県出身。1928年に京都帝国大学経済学部を卒業し、1930年に赤坂銀行に入行。1942年5月に十六銀行に転じ、1948年6月に取締役、1953年4月に常務、1954年6月に専務を経て、1958年2月副頭取に就任し、1963年2月小寺勝昌頭取の急逝に伴い頭取に昇格。1984年3月に会長に就任。 1969年10月に藍綬褒章を受章し、1975年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1985年6月20日呼吸不全のために死去。80歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
巽 盛三(たつみ もりぞう、1905年 <明治38年> 3月… 巽 盛三(たつみ もりぞう、1905年 <明治38年> 3月30日 - 1990年 <平成2年> 11月8日)は、日本の経営者。山陽放送社長を務めた。位階は正五位。 広島県出身。1926年に和歌山高等商業学校を卒業。倉敷紡績、倉敷レーヨンでの勤務を経て、1953年4月に山陽放送常務に就任し、専務を経て、1965年5月には社長に就任した。1974年5月に会長に就任し、1977年6月に取締役相談役を経て、1981年6月に相談役に退いた。 1969年9月に藍綬褒章を受章し、1975年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1990年11月8日、呼吸不全のために死去。85歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
村井 正誠(むらい まさなり、明治38年(1905年)3月2… 村井 正誠(むらい まさなり、明治38年(1905年)3月29日 - 平成11年(1999年)2月5日)は、明治 - 平成時代の洋画家。岐阜県大垣市出身。新宮市名誉市民。武蔵野美術大学名誉教授。閉校した文化学院および文化学院芸術専門学校(埼玉県庄和町)講師。元日本美術家連盟理事長。 抽象絵画の草分けの一人として活躍した。作品にシリーズ「URBAIN」などがある。 岐阜県に生まれ、村井昌澄と、とみゑの次男。眼科医のであった父の転勤によって、幼少期を和歌山県東牟婁郡新宮町(現・新宮市)で過ごす。新宮第一尋常小学校3年生の頃にスケッチをしている西村伊作(後に入学する文化学院の創設者)に出逢う。西村の作品を後ろから覗き見た経験が美術に対して興味を持つきっかけの一つになる。
上野 次郎男(うえの じろうお、1905年 <明治38年> … 上野 次郎男(うえの じろうお、1905年 <明治38年> 3月29日 - 1971年 <昭和46年> 8月25日)は、日本の経営者。積水化学工業社長、積水ハウス産業代表取締役を務めた。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 鹿児島県川内市(現在の薩摩川内市)出身。1927年に東京帝国大学経済学部を卒業。報知新聞社での勤務を経て、日本窒素肥料に転じた。1947年に取締役に就任し、1951年2月に再び取締役に就任し、同年9月に積水化学工業社長に就任し、1960年8月に積水ハウス産業代表取締役に就任した。その一方で、讀賣テレビ放送取締役、関西経済連合会理事も務めた。 1957年に紺綬褒章を受章し、1963年に藍綬褒章を受章した。
藪田 嘉一郎(やぶた かいちろう、1905年3月28日 - … 藪田 嘉一郎(やぶた かいちろう、1905年3月28日 - 1976年1月13日)は、日本の編集者・歴史家。出雲国風土記偽書説など大胆な新説を唱え、松本清張が師事した在野の古代史家として知られる。 京都市生まれ。1924年京都市立第一商業学校専修科卒業。1925年京都帝国大学文学部史学科選科入学、1928年中退。 1928年至誠堂に入社し、1932年飛鳥園、1933年日出芸林社と転籍し、書籍の編集者として活躍する。1934年株式会社便利堂に入社し、1950年同社取締役に就任。1951年に退社。同年、自ら綜芸舎(綜芸種智院に因む)を創立する。この間、文献、美術、石造文化財などの史資料を使った古代史研究や能楽研究、易学研究の著作・論文を公刊した。
大久保 泰(おおくぼ たい、1905年3月28日 - 198… 大久保 泰(おおくぼ たい、1905年3月28日 - 1989年1月29日)は、日本の洋画家、美術評論家。愛知県出身。早稲田大学卒。山本鼎に油絵を学び、1931年、ヨーロッパ留学。帰国後国画会展、春陽会展に出品。1939年以後、独立展に出品、「裸婦」で岡田賞を受賞。風景画を得意とした。
秋田嶽 由藏(あきただけ よしぞう、1905年3月27日 -… 秋田嶽 由藏(あきただけ よしぞう、1905年3月27日 - 1940年11月27日)は、秋田県横手市出身で春日野部屋に所属した元大相撲力士。本名は松岡 由蔵。最高位は十両4枚目。 春日野部屋に入門し、1925年1月初土俵を踏む。番付を上げ、1932年1月には幕下上位に上がった。番付発表直後に起きた春秋園事件で大量の幕内十両の脱退者が出たため、その穴埋めのため東十両7枚目に昇進した。新十両の場所とその翌場所はともに3勝止まりと振るわず、幕下に落ちた。1933年1月に再十両で6勝5敗と初めて勝ち越した。3場所連続十両にいて、一度幕下に落ちるが1935年1月に十両に復帰、4場所連続在位した。その後再び幕下に落ち、「千雄山」と改名したが、1939年1月に廃業。
三宅 宗悦(みやけ むねよし、1905年(明治38年)3月2… 三宅 宗悦(みやけ むねよし、1905年(明治38年)3月26日 - 1944年(昭和19年)11月6日)は、日本の人類学・考古学者。医学博士。 1905年(明治38年)3月26日、京都府京都市東山区で三宅宗淳・男依の4男として生まれる。京都府立第二中学校、旧制山口高等学校(のち山口大学文理学部、現同大学人文学部)を卒業後、京都府立医科大学に入学。考古学に興味を持ち、京都帝国大学考古学教室に出入りするようになる。濱田耕作や清野謙次などから考古学・人類学の薫陶を受け、1929年(昭和4年)には同教室による須玖遺跡(福岡県春日市)の発掘調査に参加している。 1930年(昭和5年)に同医科大学を卒業後、京都帝国大学医学部助手に任命される。
瀬川 功(せがわ こう、1905年3月26日 - 1984年… 瀬川 功(せがわ こう、1905年3月26日 - 1984年11月2日)は、日本の小児科医師、陶磁器研究家、医学博士、医療法人瀬川小児病院第3代院長、社団法人日本陶磁協会 第4代理事長。常陸宮正仁親王と清宮貴子内親王の元主治医。旧姓:加瀬。
中山 義夫(なかやま よしお、1905年(明治38年)3月2… 中山 義夫(なかやま よしお、1905年(明治38年)3月26日 - 1986年(昭和61年)11月17日)は、日本の民俗舞踊家。民俗舞踊の第一人者。 1905年(明治38年)3月26日、北海道旭川市にて生まれる。法政大学専門部政治経済科に入学し、在学中に、亡命ロシア人の舞踊家エリアナ・パブロバに師事し、バレエダンサーの草分けとして活動する。1929年(昭和4年)に法政大学を卒業し、卒業後、海外を回るうちに民俗舞踊にひかれるようになる。また、新京で満州舞踊学校長などを務める。 戦後、中山民俗舞踊研究所を設立し、毎年のように海外公演を行う。1978年(昭和53年)に勲五等双光旭日章、1979年(昭和54年)にギリシャ政府文化功労章を受章する。
薗田 香勲(そのだ こうくん、1905年〈明治38年〉3月2… 薗田 香勲(そのだ こうくん、1905年〈明治38年〉3月25日 - 1969年〈昭和44年〉4月9日)は、日本のドイツ文学者・仏教学者、浄土真宗本願寺派の僧。大阪府立大学教授。ゲーテ、親鸞を研究した。 1905年、和歌山県和歌山市で浄土真宗本願寺派の妙慶寺に生まれた。1916年に得度。京都帝国大学文学部独文科で学び、1927年に卒業。 卒業後は、同1927年より龍谷大学講師。1931年、大阪商科大学(現:大阪市立大学)教授となった。1951年からは浪速大学教授、校名変更で大阪府立大学教授。 宗門においては、1926年より妙慶寺住職(1969年まで)。1947年から1951年まで、浄土真宗本願寺派和歌山教区長兼鷺森別院輪番をつとめた。
片柳 真吉(片柳 眞吉、かたやなぎ しんきち、1905年3月… 片柳 真吉(片柳 眞吉、かたやなぎ しんきち、1905年3月25日 - 1988年6月8日)は、日本の農林官僚、政治家。参議院議員(1期)、農林中央金庫理事長。 東京府出身。1928年に東京帝国大学法学部を卒業し、農林省に入省した。貿易庁輸入局長、食糧管理局長官を務めたのちに、1948年、農林次官に就任。 1950年に農林省を退官し、同年に実施された第2回参議院議員通常選挙で緑風会所属として立候補し、当選。1956年の第4回参議院議員通常選挙で落選し議席を失ってからは、全国漁業協同組合長、農林中央金庫理事長といった職を歴任した。 1975年(昭和50年)秋の叙勲で勲一等瑞宝章受章(勲四等からの昇叙)。
松野 孝一(まつの こういち、1905年3月25日 - 19… 松野 孝一(まつの こういち、1905年3月25日 - 1967年7月29日)は、日本の政治家、台湾総督府及び農林官僚。参議院議員(3期)。衆議院議員(1期)。 現在の大館市出身。菅原精一の二男に生まれ、能代港町(現能代市)の松野一也の養子となる。1927年高等文官試験行政科と司法科に合格。翌1928年に東京帝国大学法学部を卒業し、台湾総督府へ入庁。台北州海山郡守、台中州勧業課長、総督府米穀、農務、特産各課長、食糧部長、逓信部長を歴任の後、終戦で農林省へ転籍し開拓局第一部長、東京農地事務局長、仙台農地事務局長を務める。この間、1947年には請われて宮城県本吉郡入谷村(現南三陸町)村長に就任した。
黒崎 義介(くろさき よしすけ、1905年3月25日-198… 黒崎 義介(くろさき よしすけ、1905年3月25日-1984年8月12日)は童画画家。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
楠見 義男(くすみ よしお、1905年3月24日 - 199… 楠見 義男(くすみ よしお、1905年3月24日 - 1996年2月2日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)。農林次官。 兵庫県出身。 1925年第六高等学校 (旧制)文科甲類卒、1928年東京帝国大学法学部政治学科卒。同年農林省に入る。大臣官房秘書課長、同調査課長、満洲国産業部参事官兼理事官、同総務庁企画処長、農林省総務局長、資材局長、食糧管理局長官、農林次官などを歴任する。1947年の第1回参議院議員通常選挙において全国区から無所属で立候補して当選した(のち緑風会に入る)。国会内では農林委員長を務めた。1953年の第3回参議院議員通常選挙でも再選されたが、栃木県佐野市の投票所においてこの選挙で次点となった平林剛(左派社会党)の所属政党が誤って「日本共産党」と表示されたため、翌1954年9月に楠見ほか下位当選者6名の当選が取り消された。
水野 清一(みずの せいいち、1905年3月24日 - 19… 水野 清一(みずの せいいち、1905年3月24日 - 1971年5月25日)は、日本の考古学者。学位は、文学博士(京都大学・1962年)(学位論文「雲岡石窟系譜」)。京都大学名誉教授。 1905年、兵庫県神戸市で生まれた。京都帝国大学文学部史学科に入学し、濱田耕作の下で学んだ。1928年に同大学を卒業。卒業後は、東亜考古学会の留学生として1940年4月より北京に留学した。 1961年に帰国し、同年1月より東方文化学院京都研究所に研究員として勤務した。1938年に学院が改組されると、東方文化研究所助教授。研究所では、中国彫塑芸術の研究をテーマとして、引き続き濱田耕作の指導を受けた。また、同僚の長廣敏雄らと共に研究所が1936年から終戦まで華北で進めた龍門石窟、山西省大同市での雲崗の発掘調査などに従事した。
佐野 博(さの ひろし、1905年3月24日 - 1989年… 佐野 博(さの ひろし、1905年3月24日 - 1989年4月4日)は、日本の社会主義運動家、評論家。田中清玄とともに、いわゆる「武装共産党」時代の日本共産党(第二次共産党)の指導部を組織した。佐野学の甥で、共産党系演劇人で革命歌「インターナショナル」訳詞者の佐野碩、社会学者鶴見和子・哲学者鶴見俊輔姉弟は従妹弟にあたる。 1905年、大分県速見郡杵築町(現・杵築市)に生まれる。旧制第七高等学校在学中に、学生サークル「鶴鳴会(かくめいかい)」に参加。1923年(大正12年)9月、鹿児島港にソ連の船が入港した折に佐野を含む鶴鳴会のメンバー数人は手漕ぎのボートで接近、「インターナショナル」を歌って乗船を許され、身振り手振り(メンバーにはロシア語に通じたものがいなかった)で船長と意思疎通を図り、パンフレットなどを渡されて戻るという事件を起こす。
明本 京静(あけもと きょうせい、1905年3月23日 - … 明本 京静(あけもと きょうせい、1905年3月23日 - 1972年10月17日)は、日本の作詞家、作曲家。本名は明本 教成。 青森県黒石市出身。旧制青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)を経て、旧制弘前高等学校卒業。東京帝国大学工学部中退。 近衛秀麿に師事し、新交響楽団(NHK交響楽団の前身)でベートーヴェンの「第九」のテナー独唱者となる。 その後、しばらく鳴かず飛ばずの時代が続いたが、昭和14年(1939年)、朝日新聞社が募集した「皇軍感謝の歌」の当選作、「父よあなたは強かった」の作曲依頼が日本コロムビアに依頼され、専属作曲家12人の競作になり、採用されたのは最も無名に近かった明本の曲であった。
亀岡 勝雄(かめおか かつお、1905年3月23日 - 19… 亀岡 勝雄(かめおか かつお、1905年3月23日 - 1945年11月14日)は、日本の元アマチュアボクシング選手。ロサンゼルスオリンピックフェザー級日本代表。福島県桑折町出身。 日本大学卒業。 1930年、全日本アマチュア拳闘連盟主催の全日本アマチュア拳闘選手権大会にフェザー級で優勝を収めた。この大会には帝国ホテル所属選手として出場した。 1932年、ロサンゼルスオリンピックにフェザー級の日本代表として出場したが、1回戦でこの大会の銅メダリストとなるアラン・カールソン(英語版)(スウェーデン)と対戦し、ポイント負けとなった。 この項目は、ボクシング関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJボクシング/PJキックボクシング)。
三上 卓(みかみ たく/たかし、1905年〈明治38年〉3月… 三上 卓(みかみ たく/たかし、1905年〈明治38年〉3月22日 - 1971年〈昭和46年〉10月25日)は、日本の海軍軍人、政治活動家、国家主義者。最終階級は海軍中尉。号は大夢。 佐賀県出身。第二次世界大戦以前の五・一五事件、および戦後の三無事件の双方に参加した人物として知られる。『青年日本の歌』(昭和維新の歌)の作詞者。著名な弟子に野村秋介がいる。 佐賀県佐賀郡本庄村(現・佐賀市本庄町)出身。父は北鮮日日新聞社長の三上新。佐賀中学校在学中は野球部に所属しており、チームメートには伊丹安広(のち早大監督、野球殿堂入り)や山口猛彦(画家)、小林竜二郎(東京製綱社長)などがいた。1926年(大正15年)3月に海軍兵学校を卒業(54期)。
井上 徳治(いのうえ とくじ、1905年3月22日 - 20… 井上 徳治(いのうえ とくじ、1905年3月22日 - 2002年5月21日 )は、日本の経営者。鐘淵化学工業社長、会長を務めた。 大阪府出身。1928年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に鐘紡に入社。1949年に鐘淵化学工業に転じ、1950年2月に取締役に就任し、1956年11月に常務、1962年11月に専務を経て、1968年5月に副社長に就任し、1969年5月には社長に昇格。1974年11月に会長に就任し、1978年6月から相談役を務めた。 1968年3月に藍綬褒章を受章。 2002年5月21日老衰のために死去。97歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
村瀬 幸子(むらせ さちこ、1905年〈明治38年〉3月21… 村瀬 幸子(むらせ さちこ、1905年〈明治38年〉3月21日 - 1993年〈平成5年〉10月9日)は、日本の女優。東京市本所区(現在の東京都墨田区)出身。本名は北村 さだ(旧姓:松井)。芸名を藤真 みや子としたこともある。夫は演劇家の北村喜八(1960年死別)。 東京府立第二高等女学校(現在の都立竹早高等学校)卒業、東京女子大学を中退。 1925年に築地小劇場に研究生として入った。1929年の劇団分裂後は劇団築地小劇場に参加。解散後の1931年、松竹蒲田撮影所に入社し、映画に出演した。1937年に北村喜八とともに芸術小劇場を結成した。同劇場は1943年に解散した。 1944年に千田是也、東野英治郎、東山千栄子、小沢栄太郎らとともに俳優座結成に参加し、以後劇団の中心人物として活動した。
柴田 文三(しばた ぶんぞう、1905年3月20日 - 19… 柴田 文三(しばた ぶんぞう、1905年3月20日 - 1989年5月20日)は、日本の経営者。青森県出身。 1929年に東北帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に高砂熱学工業に入社。1947年に取締役に就任し、1955年に常務、1965年に専務を経て、1967年に副社長に就任し、1968年6月には社長に昇格した。1976年8月から相談役を務めた。 1989年5月20日心不全のために死去。84歳没。
氏原 大作(うじはら だいさく、1905年〈明治38年〉3月… 氏原 大作(うじはら だいさく、1905年〈明治38年〉3月20日 - 1956年〈昭和31年〉12月31日)は、日本の小説家、詩人、教育者。山口県阿武郡篠生村(のちの阿東町、現在の山口市)篠目出身。氏原大作は筆名で、本名は原 阜()。 尋常小学校高等科を卒業後、故郷の小学校の代用教員などを務めながら、同人誌を発行するとともに、短歌などを発表。1936(昭和11)年に雑誌『少年倶楽部』に投稿した『見たか青空』が同誌に掲載されたのを契機に、同誌の常連作家となる。1938(昭和13)年に、主婦の友社の懸賞小説で『幼き者の旗』が一等に当選、のちに同作が映画化するなど、注目を集めた。 1905(明治38)年3月20日、山口県阿武郡篠生村篠目の農家に生まれる。
松田 ふみ子(まつだ ふみこ、1905年3月19日 - 没年… 松田 ふみ子(まつだ ふみこ、1905年3月19日 - 没年不明)は、日本の女性ジャーナリスト。奈良県出身。梅花女子専門学校(梅花女子大学の前身)から、九州帝国大学文学部に進み、1930年に卒業。1937年、中央公論社に入社し、『婦人公論』の編集を担当。1944年、毎日新聞社に移り、『サンデー毎日』の記者として活躍。1961年、退社。1966年 - 1975年、労働省婦人少年局審議会委員。1980年 - 1993年、エリザベス・サンダースホーム理事長。
沢 宏靱(さわ こうじん、明治38年(1905年)3月18日… 沢 宏靱(さわ こうじん、明治38年(1905年)3月18日 - 昭和57年(1982年)9月24日)は、日本画家、秋野不矩と結婚するが後に離婚。日本画団体「創造美術」設立に関与した。 沢宏靱は、明治38年(1905年)3月18日に滋賀県坂田郡長浜町神戸(現滋賀県長浜市元浜町)で、洋品雑貨商の父喜代吉と母民の次男として生まれ、日露支(ひろし)と名付けられた。大正9年(1920年)に、京都画壇の重鎮西山翠嶂の内弟子となり、東京の美術展での入選を目指し大正13年(1924年)上京し、昭和2年(1927年)に初めて帝展(現日展)に出展するが落選した。京都に戻り、西山翠嶂が主催する画塾『青甲社』に入塾し秋野不矩と出会う。
町田 義雄(まつだ よしお、1905年3月18日 - 没年不… 町田 義雄(まつだ よしお、1905年3月18日 - 没年不詳)は、日本のゴルフ場設計者。造園技術者。 1905年(明治38年)大阪府に生まれる。東京農業大学林学科に入学し造園研究を行う。1924年(大正14年)にゴルフ場設計者であるチャールズ・ヒュー・アリソンに師事する機会に恵まれ、東京ゴルフ倶楽部のコース造成現場の担当者となる。1929年(昭和4年)東京ゴルフ倶楽部の責任者。1934年(昭和9年)宮内省に入庁。内匠寮に所属し、当時、吹上御所に存在したゴルフコースの管理を担ったと見られている。 第二次世界大戦後は再び民間に転じ、1949年(昭和24年)宝塚ゴルフ倶楽部コース造成担当に就任。1951年(昭和31年)加古川ゴルフ倶楽部取締支配人。