柴田 栄(しばた さかえ、1900年11月12日 - 198… 柴田 栄(しばた さかえ、1900年11月12日 - 1982年9月23日)は、日本の政治家、農林官僚。参議院議員(3期)、林野庁長官(第3代)。 愛知県川中村大字福徳(現名古屋市北区福徳町)に生まれる。第八高等学校を経て、1928年に東京帝国大学農学部林学科を卒業。 大学卒業後、白沢営林署長、真室川営林署長、青森営林署長、秋田営林局長などを歴任した。真室川営林署長時代にはスキー大会を発案及び主催。真室川町秋山スキー大会の始まりだった。 1952年9月3日、林野庁長官に就任。1954年12月11日にインドで開催された第4回世界林業会議に日本代表として出席した。1955年11月19日、同長官を退任。
三浦 辰雄(みうら たつお、1900年〈明治33年〉11月1… 三浦 辰雄(みうら たつお、1900年〈明治33年〉11月12日 - 1989年〈平成元年〉3月17日)は、昭和期の農林技官及び官僚、政治家。参議院議員(1期)、林野庁長官。 福島県出身。1925年(大正14年)東京帝国大学農学部林学科を卒業した。 農商省に入省し、営林局技師、農林技師を務めた。1947年(昭和22年)12月、林野局長官に就任し、1949年(昭和24年)6月、林野局が林野庁に改称され引き続き長官に在任し、1950年(昭和25年)3月に退任した。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。この間、緑風会建設部会長、同風水害対策特別委員長などを務めた。
中平 昌(なかひら さかん、1900年(明治33年)11月1… 中平 昌(なかひら さかん、1900年(明治33年)11月12日 - 1985年(昭和60年)3月8日[要出典])は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。 中平藤吉の長男として高知県安芸郡川北村(現・安芸市川北)に生まれる。1920年(大正9年)1月、高知税務署に奉職するが、のち職を辞し明治大学法科専門部に入り、1925年(大正14年)3月に卒業し、同年11月に高等試験行政科に合格する。 翌年渡台し、台湾総督府財務局税務課勤務を皮切りに台南州税務課長、新竹郡守、台南州内務部地方課長、台北州内務部地方課長を経て、1936年(昭和11年)10月に台中州警務部長に就任。ついで台湾総督府事務官財務局税務課長、専売局参事庶務課長、同局総務課長を経て、1943年(昭和18年)3月に台湾総督府食糧局長に就任した。
安藤 常次郎(あんどう つねじろう、1900年(明治33年)… 安藤 常次郎(あんどう つねじろう、1900年(明治33年)11月11日 - 1994年(平成6年)9月28日)は、日本の国文学者。 福岡県生まれ。俳号・安藤のりを。福岡県立中学修猷館を経て、1926年早稲田大学文学部国文科卒業。 早稲田大学教育学部教授、71年定年退職、名誉教授。武蔵野女子大学教授。能狂言を専門とした。
出原 信造(いずはら のぶぞう、1900年11月11日 - … 出原 信造(いずはら のぶぞう、1900年11月11日 - 1991年12月27日)は、日本の経営者。大同生命保険社長を務めた。 大阪府出身。1925年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に大同生命保険に入社。1947年7月に取締役に就任し、1950年6月に常務、1961年1月に専務を経て、1963年1月に社長に就任。1973年1月に会長に就任し、1978年4月に取締役相談役を経て、1986年7月には相談役に就任。 1991年12月27日老衰のために死去。91歳没。
横関 英一(よこぜき ひでいち、1900年(明治33年)11… 横関 英一(よこぜき ひでいち、1900年(明治33年)11月11日 - 1976年(昭和51年)1月16日)は日本の地図考証家。江戸、東京の名のある坂道について研究し、『江戸の坂 東京の坂』を著した。 1900年(明治33年)11月11日、埼玉県入間郡川越町(現・川越市)で肥料商の家に生まれた。1924年(大正13年)早稲田大学商学部卒業、同年東京府立第五中学校(現・東京都立小石川中等教育学校)に事務職として勤務した。大学時代から文学に凝り、私小説を著した。1929年(昭和4年)に結婚した時にはすでに坂に熱中しており、江戸地誌、切絵図、陸軍参謀本部地図を持って坂を渡り歩いた。1937年(昭和12年)、真山青果の研究助手となり、演劇の時代考証を手伝う傍ら、『浮世絵界』誌上に江戸の坂等について記事を発表した。
小野 留嘉(おの とめよし、1900年11月10日 - 19… 小野 留嘉(おの とめよし、1900年11月10日 - 1987年5月31日)は、国営競馬ならびに日本中央競馬会 (JRA) の騎手で、京都競馬場→栗東トレーニングセンターに所属していた調教師。 北海道・小樽市出身、1928年に相羽仙一厩舎の騎手見習となり、1930年に騎手となるが、1938年にいったん騎手を廃業している。 戦後、繋駕速歩競走の復活に備え、1954年に助手として鈴木甚吉厩舎に復帰し、翌1955年3月1日に速歩競走の騎手免許を再取得した。当時54歳であった。 その後は、大久保亀治厩舎の所属となり、中央競馬で速歩競走が廃止される1968年まで騎手を務め、1969年より調教師へ転向した。
高木 翔之助(たかぎ しょうのすけ、1900年〈明治33年〉… 高木 翔之助(たかぎ しょうのすけ、1900年〈明治33年〉11月9日 – 1980年〈昭和55年〉)は、昭和のジャーナリスト・文筆家・出版業者。満洲・華北でジャーナリストとして活動し、日本による満洲国・冀東防共自治政府の樹立などを擁護した。その一方で、関東軍による出版弾圧にも激しく抵抗したことで知られる。戦後は地元・群馬県の地方ジャーナリストとして活動した。 群馬県佐波郡采女村(現・伊勢崎市)に生まれる。1923年(大正12年)、早稲田大学専門部政治経済科を中退。1925年(大正14年)5月、横浜市で週刊新聞『日本実業新報』を創刊・主宰した。1927年(昭和2年)9月に同紙を廃刊すると満洲に渡り、雑誌『海外之日本』大連支局主任となる。
境 一雄(さかい かずお、1900年(明治33年)11月8日… 境 一雄(さかい かずお、1900年(明治33年)11月8日 - 1983年(昭和58年)9月17日)は、大正・昭和期の労働運動家、実業家、政治家。衆議院議員。 北海道小樽区(現小樽市)で生まれる。1920年(大正9年)小樽中学校(現北海道小樽潮陵高等学校)を卒業。その後、早稲田大学政経科で学んだが中退した。割箸製造販売業を営む。その後、岸鉄工所庶務課長、小樽物産取締役、北海道配電小樽支店経営協議会委員などを務めた。 1926年(大正15年)日本労働組合評議会北海道地方評議会議長に就任。同年5月1日、北海道初のメーデー実行委員長を務めた。 1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で北海道第1区から日本社会党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
塚越 賢爾(つかこし けんじ、1900年11月8日 - 19… 塚越 賢爾(つかこし けんじ、1900年11月8日 - 1943年7月7日以降)は日英ハーフの飛行家、航空機関士。1937年に朝日新聞社主催の神風号訪欧飛行により、同僚の飯沼正明操縦士とともに一躍日本の空の英雄となったが、太平洋戦争で軍務中に消息を絶った。 賢爾は群馬県碓氷郡烏淵村(後の高崎市)出身の弁護士・検事、塚越金次郎と英国人のエミリー・セイラ・ボールドウィンの長男。1900年(明治33年)11月3日、東京市麹町区で生まれた。父は倉渕村から上京し、明治法律学校卒業を経て弁護士資格を取得。1898年からイギリスに留学し、その最中に看護婦をしていたエミリーと知り合い結婚した。 2人は帰国後、賢爾が産まれる直前に婚姻届を提出。
藤林 敬三(ふじばやし けいぞう、1900年11月8日 - … 藤林 敬三(ふじばやし けいぞう、1900年11月8日 - 1962年9月15日)は、日本の経済学者。専門は労働経済論。 大阪市南区出身。1926年慶應義塾大学経済学部を卒業、経済学部助手に就任。1929年11月~32年2月の間に慶應義塾派遣留学生としてドイツ(ベルリン大学・ライプツィヒ大学)・フランス・イギリス・アメリカに留学し、心理学・産業心理学を学ぶ。1932年慶大経済学部助教授、1934年教授。1937年11月~39年8月の期間、看護兵として中支各地の病院に勤務した。1945年「労働者政策ト労働科学ニ就イテ」で慶大経済学博士を取得。その後も労働経済論・経済心理学を研究し、1959年には慶應義塾大学産業研究所初代所長に就任する。
杉田 勇次郎(すぎた ゆうじろう、1900年11月6日 - … 杉田 勇次郎(すぎた ゆうじろう、1900年11月6日 - 1984年8月31日)は、京都市出身の日本画家。号は遊子。おもに水彩画や油彩画を手がけ、洋画の技法を取り入れた作品が多い。 京都市下京区に生まれた杉田は、長じて京都市立絵画専門学校(京都市立美術大学の前身)に学び、在学中の1920年に「海近く」で国画創作協会展に初入選した。1922年に卒業した後も、入江波光に師事しながら。その後も国画創作協会展などに出品し、1926年には国画創作協会会員に推されたが、同会日本画部は1928年に解散してしまう。そこで、新樹社に参加するが、1931年には脱退する。 1934年に満州へ渡って美術教師となり、旅順高等公学校や大連の芙蓉高等学校で教鞭を執った。
四代目豊島 半七(よんだいめとよしま はんしち、1900年〈… 四代目豊島 半七(よんだいめとよしま はんしち、1900年〈明治33年〉11月6日 - 1962年〈昭和37年〉1月21日)は、愛知県中島郡一宮町(現・一宮市)出身の実業家。出生名は鈴木 孝三(すずき こうぞう)であり、1921年に豊島家の養嗣子となると、1937年4月に四代目豊島半七を襲名した。株式会社山一商店代表取締役、豊島株式会社社長、東海紡績株式会社社長。一宮市名誉市民。 天保12年(1841年)、初代豊島半七は尾張国の中島郡一宮村で綿花の仲買人の商売をはじめ、「綿屋半七」の商号を掲げた。農家から糸を購入して問屋に売っていたが、幕末には自身が問屋を構えるまでに成長した。1868年(明治元年)には長男の善七が家督を継いで、二代目豊島半七を名乗った。
柿崎 守忠(かきざき もりただ、1900年(明治33年)11… 柿崎 守忠(かきざき もりただ、1900年(明治33年)11月5日 - 1977年(昭和52年)8月)は日本の政治家。青森県青森市長。 青森県青森市出身。青森県立青森中学校(現・青森県立青森高等学校)を経て、1933年、東京高等師範学校を卒業する。卒業後は青森中学、青森県女子師範学校各教諭、県視学官、青森市立高等女学校(現・青森県立青森中央高等学校)、青森中学、青森青年師範学校各校長などを歴任した。 1945年7月28日、青森市長に就任。市長就任当日に青森空襲が起こり、市内は焦土と化した。翌月に終戦を迎え、青森市に米軍が進駐、柿崎は進駐軍との折衝に当たらなければならなかった。市役所は空襲で焼失し、市公会堂を庁舎と使用していたが、進駐軍に接収された。
吉川 潔(きっかわ きよし、1900年〈明治33年〉11月3… 吉川 潔(きっかわ きよし、1900年〈明治33年〉11月3日 - 1943年〈昭和18年〉11月25日)は、日本海軍の軍人。戦死後、二階級特進して海軍少将。広島県広島市段原町出身。海兵50期。 父は漢学者。七男四女のうち、四男。旧制広陵中学(現・広陵高等学校)を卒業後、海軍兵学校を受験するが身長と胸囲不足で不合格。口惜しさから器械体操と陸軍被服廠での積荷作業で体を鍛え上げた。翌1919年(大正8年)兵学校(海兵50期)に合格。兵学校時代は成績も下の方で「寡黙の吉川」といわれるほど目立たなかった。「量も大切だが最後を決するのは質と精神だ」を口癖としていたという。 1922年(大正11年)6月1日、海軍兵学校を卒業し、同日附で少尉候補生。
山脇 義勇(やまわき よしとし、1900年11月3日 - 1… 山脇 義勇(やまわき よしとし、1900年11月3日 - 1987年7月14日)は、日本の経営者。ダイセル化学工業社長、会長を務めた。高知県出身。位階は正四位。 1922年に山口高等商業学校を卒業し、同年に岩井商店に入社。1940年5月にダイセル化学工業に転じ、1946年12月に取締役に就任し、1949年1月に常務、1955年1月に専務を経て、1961年1月に副社長に就任し、1964年1月には社長に昇格。1971年1月に会長に就任し、1972年2月には相談役に就任。 1967年に藍綬褒章を受章し、1972年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1987年7月14日肝臓癌のために死去。86歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
大谷 贇雄(おおたに よしお、1900年11月2日 - 19… 大谷 贇雄(おおたに よしお、1900年11月2日 - 1970年12月23日)は、日本の政治家。名古屋市会議員(2期)、参議院議員(3期)。愛知県教育委員長(初代)、農林政務次官、参議院懲罰委員会委員長などを歴任した。位階勲等は従三位勲二等。 明治33年(1900年)11月2日、学校法人桜花学園の創立者である大渓専の長男として、鹿児島県に生まれる。鹿児島市出身。2歳になるまでを鹿児島、姫路にて過ごした後に、父の郷里である愛知県幡豆郡横須賀村(後の吉良町、西尾市)で育つ。大正8年(1919年)3月に旧制尾張中学校(現・名古屋大谷高等学校)を卒業した。 大正14年(1925年)3月に慶應義塾大学文学部を卒業すると、桜花高等女学校(現・桜花学園高等学校)で教鞭をとった。
石井 秋穂(いしい あきほ、1900年(明治33年)11月2… 石井 秋穂(いしい あきほ、1900年(明治33年)11月2日 - 1996年(平成8年)8月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。 第16師団参謀、北支那方面軍参謀などを経て、陸軍省軍務局軍務課高級課員となり、日米開戦前の政策立案などにあたる。陸軍きっての理性派として避戦を望んだが、日米交渉の失敗で戦争政策を進めることになる。 1900年(明治33年)、山口県豊浦郡豊西村(現下関市)で石井友三郎の五男として生まれる。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校本科を経て、1922年(大正11年)7月、陸軍士官学校(34期)を秩父宮を除き4番の成績で卒業。なお石井は、陸幼と陸士卒業時の2度に亘り恩賜の銀時計を拝受している。
美濃部 洋次(みのべ ようじ、1900年11月1日 - 19… 美濃部 洋次(みのべ ようじ、1900年11月1日 - 1953年2月28日 52歳)は、日本の商工官僚。
内田 敏雄(うちだ としお、1900年〈明治33年〉11月1… 内田 敏雄(うちだ としお、1900年〈明治33年〉11月1日 - 没年不詳)は、昭和期の政治家、華族。貴族院男爵議員。位階は正四位。 海軍士官・内田正敏の養子・栄(矢部善作の二男)の長男として生まれる。養曽父・正敏の死去に伴い、1922年(大正11年)6月2日、男爵を襲爵した。 1926年(大正15年)4月、京都帝国大学法学部政治経済学科を卒業。1927年(昭和2年)東京市社会局嘱託となる。その後、南洋拓殖人事課長、同参事などを務めた。 1946年(昭和21年)5月11日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。 1977年(昭和52年)時点でのインタビューが残っている。
杉村 勇造(すぎむら ゆうぞう、1900年11月1日 - 1… 杉村 勇造(すぎむら ゆうぞう、1900年11月1日 - 1978年9月29日)は、中国美術学者。号は「丁父」。大東文化大学名誉教授。 1900年、東京市深川区亀住町(現・東京都江東区深川)で生まれた。1919年、無窮会漢学研究生として中華民国・北京に留学。1924年、無窮会会長・平沼騏一郎の斡旋により3年間北京に留学。金石学を馬衡(中国語版)に、書誌学を徐鴻宝(中国語版)の下で学んだ。 1927年、北京東方文化事業総委員会の図書籌備員となり、人文科学研究所図書館の設立にあたった。 1932年、満州国立図書館、国立奉天博物館の開設準備に携わった。1933年10月に満日文化協会が発足すると、常務理事、満州芸文協会理事となった。
土井 直作(どい なおさく、1900年(明治33年)11月1… 土井 直作(どい なおさく、1900年(明治33年)11月1日 - 1967年(昭和42年)6月26日)は、大正・昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員。 石川県鳳至郡剱地村(門前町剱地を経て現輪島市門前町剱地)で、土井太郎、ユウ夫妻の三男として生まれる。1915年(大正4年)小学校を卒業し足尾銅山で働く。1919年(大正8年)に上京して芝浦製作所(現東芝)に入社し電気工として務め、友愛会芝浦支部に加わり、1920年の芝浦争議に参加して解雇された。1922年(大正11年)日本労働学校を卒業した。 1925年(大正14年)日本労働総同盟(総同盟)調査部員、1928年(昭和3年)から総同盟調査委員に就任し、1940年(昭和15年)の組織解散まで各地の労働争議を指導した。
高野 弘正(たかの ひろまさ、1900年〈明治33年〉10月… 高野 弘正(たかの ひろまさ、1900年〈明治33年〉10月31日 - 1987年〈昭和62年〉5月27日)は、日本の剣道家。称号は剣道範士、一刀流中西派(または小野派一刀流中西派)宗家。 小野派一刀流の剣道家高野佐三郎の次男として東京に生まれる。6歳より父の道場明信館で剣術を修行し、後に小野派一刀流を継承する。小野派一刀流の中西子定から数えて8代目にあたる。 1918年(大正7年)、旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一中学校・日本大学第一高等学校)を卒業。1923年(大正12年)、東京高等師範学校体育科を卒業。1926年(大正15年)、大日本武徳会から精錬証を授与される。 昭和に入り、早稲田大学に奉職する一方、修道学院を運営、さらに劇団を作って主演もした。
宮田 重雄(みやた しげお、1900年10月31日 - 19… 宮田 重雄(みやた しげお、1900年10月31日 - 1971年4月28日)は、日本の画家、医師。 愛知県名古屋市出身。重陽の節句(9月9日)に生まれたので 重雄と名付けられた。愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)に進学後、慶應義塾大学医学部入学。上京後は勉学と並行して学内に絵画部ジュヌ・パントル[仏語で若い画家の意]を創立、1923年には第1回春陽会に出品、見事入選を果たし、医師と画家、両立の道へと進んでいく。1925年同大学卒業。1928年 - 1930年パリ・パスツール研究所に留学し、医療に従事するかわたら洋画家梅原龍三郎に師事。春陽会、国画会に所属。1934年慶應義塾大学医学博士。
中村 一策(なかむら いっさく、1900年(明治33年)10… 中村 一策(なかむら いっさく、1900年(明治33年)10月30日 - 1966年(昭和41年)12月22日)は、日本の銀行家。日本勧業銀行頭取、第21代全国銀行協会会長。 長野県東筑摩郡朝日村に中村愛治の長男として生まれる。 旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、慶應義塾大学経済学部を卒業。1925年日本勧業銀行入行。 1955年監査役に就任。常務、副頭取を経て、1961年に頭取に就任する。 頭取時代は、特殊銀行から普通銀行に転換する多難な時期にあたり、積極的な経営を展開、特に預金の吸収に力を入れて業績を伸ばし、「預金の神様」と言われた。また、金融界に対しては利子課税、融資ルールなどの問題に対処して功績があった。
9代 岡村 利右衛門(利右衞門、おかむら りえもん、1900… 9代 岡村 利右衛門(利右衞門、おかむら りえもん、1900年(明治33年)10月29日 - 1965年(昭和40年)12月28日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(3期)。幼名は良守。 岐阜県吉城郡国府村広瀬町(国府町広瀬町を経て現高山市国府町広瀬町)で、8代利右衛門の息子として生まれる。斐太中学校(現岐阜県立斐太高等学校)を経て、1928年(大正14年)早稲田大学政治経済科を卒業。その後、アメリカ合衆国に留学し、ベイツ大学、コロンビア大学を経て、ニューヨーク大学大学院を修了しマスター・オブ・ビジネス・アドミニストレーションの学位を受けた。 逓信省嘱託、牧野良三逓信政務次官秘書官、電気協会(現日本電気協会)弁理課長を経て、1938年(昭和13年)北支那開発に転じたが、終戦により解散となり帰国。
初井 しづ枝(はつい しずえ、1900年(明治33年)10月… 初井 しづ枝(はつい しずえ、1900年(明治33年)10月29日 - 1976年(昭和51年)2月15日)は、日本の歌人。兵庫県姫路市出身。 兵庫県姫路市大黒町(現・大国壱丁町)に、薬種商井上又次・たねの三女として生まれる。本名・しづ江。姫路高等女学校(現・兵庫県立姫路東高等学校)を卒業し、大阪道修薬学校(現・大阪薬科大学)に入学。薬剤師の検定試験を受けて合格。姫路に帰郷し、親戚の病院へ調剤の見習いに通う。 その後、姫路高女時代から交際していた初井佐一と結婚(当時20歳)。佐一の生家・初井家は姫路を代表する大地主で素封家であった。歌誌『アララギ』の会員で短歌を作っていた夫に勧められて作歌を始め、1926年に「日光」に入社、北原白秋に師事。
宮下 孝吉 (みやした こうきち、1900年10月27日 -… 宮下 孝吉 (みやした こうきち、1900年10月27日 - 1971年6月5日)は、日本の西洋経済史学者。神戸大学名誉教授。元日本学術会議会員。 静岡県細江町(現浜松市)生まれ。浜松商業学校(現静岡県立浜松商業高等学校)を経て、1922年神戸高等商業学校(現神戸大学)第二学年修了。1925年東京商科大学(現一橋大学)卒業。神戸で坂西由蔵に師事し、東京では坂西の師である福田徳三に師事した。また在学中三浦新七からも文明史の指導を受けた。 失明した坂西の後任候補として1925年に母校神戸高等商業学校講師となる。一年志願兵(歩兵第6連隊)、大日本帝国陸軍一等計手を経て、1927年神戸高等商業学校教授。
信原 聖(のぶはら さとる、1900年〈明治33年〉10月2… 信原 聖(のぶはら さとる、1900年〈明治33年〉10月26日 - 没年不明)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。平安北道知事。慶尚南道知事。 信原岩虎の長男として岡山県に生まれる。1924年(大正13年)東京帝国大学法学部独法科を卒業し、朝鮮総督府に奉職する。専売局事業課長、全羅南道、全羅北道各内務部長、総督官房文書国勢調査各課長、国民総力課長兼殖産局勤務を経て、1943年(昭和18年)7月、平安北道知事に就任した。1945年(昭和20年)3月、慶尚南道知事に転じた。 戦後は家庭調停委員を務めた。
飯島 祐之(いいじま すけゆき、1900年〈明治33年〉10… 飯島 祐之(いいじま すけゆき、1900年〈明治33年〉10月25日 - 1970年〈昭和45年〉8月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、群馬県邑楽郡多々良村長。 群馬県邑楽郡多々良村大字木戸(現・館林市)で、飯島忠四郎の二男として生まれる。1920年(大正9年)旧制太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)を卒業。 その後は農業に従事して1933年(昭和8年)多々良村助役、1939年(昭和14年)同村長に就任した。群馬県町村会副会長、邑楽郡農会議員、多々良村産業組合長、同農業会長、群馬県購買販売利用組合連合会理事、同製粉精米加工組合理事長、同食糧営団理事、邑楽郡煙草耕作連合組合長となる。
草鹿 浅之介(くさか あさのすけ、1900年10月25日 -… 草鹿 浅之介(くさか あさのすけ、1900年10月25日 - 1993年8月11日)は、日本の裁判官、検察官。最高裁判所判事。大阪府出身。父は元第四高等学校ドイツ語講師、住友本社理事(住友倉庫総支配人)の草鹿丁卯次郎、長兄は連合艦隊参謀長を務めた海軍軍人の草鹿龍之介。義父(妻雪子の父)は枢密院顧問官の二上兵治。また、従兄には龍之介が兄と慕った海軍軍人(南東方面艦隊司令長官、海軍兵学校校長)の草鹿任一、伯父には任一の父で丁卯次郎の兄である草鹿甲子太郎(衆議院議員、弁護士、神戸日華実業協会理事長)がいる。 1900年(明治33年)大阪にて草鹿丁卯次郎の三男として誕生。丁卯次郎には息子が4人(その他女子が4人)おり、それぞれ龍之介 (元連合艦隊参謀長)、犀之介(北海道紋別/草鹿牧場経営)、浅之介、卯之介(インドネシア/草鹿商会社長)と名付けた。
岡野 敏成(おかの としなり、1900年〈明治33年〉10月… 岡野 敏成(おかの としなり、1900年〈明治33年〉10月25日 - 1974年〈昭和49年〉9月6日)はよみうりテレビ代表取締役最高顧問。東京都出身。 1924年3月、慶応義塾大学を卒業と同時に大阪毎日新聞に入社。その後、時事新報、国民新聞と転々し、1934年に読売新聞に移籍。1949年、同社の取締役審議室長を務める。1963年5月によみうりテレビに移籍し専務取締役となる。1970年7月に同社の代表取締役社長に就任。1972年5月に最高顧問に退く。 1974年9月6日午後0時半、消化管出血のため、兵庫県芦屋市大原町11-5の伊藤外科病院で死亡(享年73歳)。
神田 俊二(かんだ しゅんじ、1900年10月25日 - 1… 神田 俊二(かんだ しゅんじ、1900年10月25日 - 1940年代)は、日本の俳優、元実業家である。本名同じ。短期間ではあるが、日活太秦撮影所に所属していた二枚目俳優である。 1900年(明治33年)10月25日、東京府東京市京橋区木挽町(現在の東京都中央区)に神田鐳蔵の庶子として生まれる。鐳蔵は紅葉屋商会、神田銀行(1927年倒産)を経営していた財界の大物であった。 暁星小学校を経て慶応義塾大学に入学するが、1923年(大正12年)に中退し、父が経営する紅葉屋商会の社員となる。1926年(大正15年)、特作映画社が製作した映画『我は海の子』(『吾は海の子』)で主演に抜擢されていたが、資金難で小笠原プロダクションに引き継がれ、主演も原田龍次(後の原田譲治、1904年 - 没年不詳)に変更された為、念願だった俳優になれずじまいであった。
浅野 竹二(あさの たけじ、1900年(明治33年)10月2… 浅野 竹二(あさの たけじ、1900年(明治33年)10月24日-1998年(平成10年)2月10日)は、京都の日本画家、版画家。 土田麦僊の門人。1900年(明治33年)、父、浅野眞三郎、母、もとの子として京都市に生まれた。大正4年(1915年)から作画を始めており、1919年(大正8年)に京都市美術工芸学校絵画科(日本画)を卒業、1921年(大正10年)、京都市立絵画専門学校本科1年に入学して日本画を専攻したが、本科2年の頃から油絵を独学している。1923年(大正12年)に絵画専門学校を卒業し、1926年(昭和元年)頃、再び日本画に復帰、翌1927年(昭和2年)に麦僊の画塾「山南塾」に入り、第6回国画創作協会展に「風景」を出品、翌1928年(昭和3年)、第7回国画創作協会展に「白帆遥暎」を出品、ともに入選するなど日本画家として活躍した。
三木 瀧蔵(滝藏、みき たきぞう、1899年〈明治32年〉1… 三木 瀧蔵(滝藏、みき たきぞう、1899年〈明治32年〉11月22日 - 1981年〈昭和56年〉4月10日)は、日本の実業家。三共生興株式会社創業者で、神戸生絲取引所理事長など歴任した経済人。また、公益財団法人三木瀧蔵奨学財団(旧:財団法人三木記念会)を設立した、独自の「推譲の心」を持つ社会貢献者。 位階は正四位。 生家は兵庫県城崎郡港村津居山(現在の豊岡市)で代々栄えた主に生糸、絹織物を扱う廻船問屋。鉄道による代替で家業が傾き、学校で首席を通したにもかかわらず旧制中学校への進学かなわず、1913年(大正2年)高島屋飯田に入社、働きながら大倉商業学校(現東京経済大学)の夜間部に通い、1920年(大正9年)に独立して横浜で輸出織物商三木商店を創業、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災ですべてを失うが、同年9月30日神戸で匿名組合三共商会として再起、繊維製品を取り扱い、1938年(昭和13年)には株式会社に改組、1944年(昭和19年)には三共生興株式会社と改称、1981年(昭和56年)4月10日病身を厭うことなく自民党蚕糸絹業対策特別委員会に神戸生絲取引所理事長として出席し、国際情勢に後れをとる蚕糸行政に対し「経済原則に反する政策は必ずつぶれる、今や破壊の時になった。
本田 親男(ほんだ ちかお、1899年11月21日 - 19… 本田 親男(ほんだ ちかお、1899年11月21日 - 1980年7月30日)は、鹿児島県出身のジャーナリスト、実業家。毎日新聞社社長、会長、最高顧問、毎日放送会長、相談役を歴任した他、日本新聞協会会長を2期務めた。 本田の祖先は、武蔵国本田郷の領主・本田左衛門尉貞親で、島津忠久夫人の父。 1899年11月21日、鹿児島市下荒田町生まれ。鹿児島師範学校附属幼稚園を経て、1906年に鹿児島市立八幡小学校へ入学。このころ本田の人間形成に与えた訓育がある。旧薩摩藩独自の教育制度・郷中制度の精神を受け継いだ学舎「研明舎」での教育がそれで、本田は5歳ごろより小学校の放課後にここへ通い、先輩舎生の監督下で諸学科の復習や予習をした。
永澤 邦男(ながさわ くにお、1899年(明治32年)11月… 永澤 邦男(ながさわ くにお、1899年(明治32年)11月21日 - 1972年(昭和47年)4月9日)は、慶應義塾長、慶應義塾大学法学部長兼大学院法学研究科委員長、法学博士、名誉教授。日本私立大学連盟会長、私立大学振興政策委員会委員長、私立大学設置審議会会長、日本私学振興財団初代理事長を歴任。 従三位瑞宝大綬章[要出典]。家紋は丸に橘紋[要出典]。 東京都生まれ。1924年(大正13年)慶應義塾大学法学部法律学科卒業。法学部助手、助教授を経て1933年(昭和8年)に教授。刑事法を担当。1947年(昭和22年)1月神崎丈二と共に慶應義塾常任理事に就任。1956年(昭和31年)7月常任理事を退任し、1963年から法学部長。
大友 純(おおとも じゅん、明治32年(1899年)11月2… 大友 純(おおとも じゅん、明治32年(1899年)11月21日 - 昭和53年(1978年)12月28日)は、日本の俳優である。綜芸プロ、テアトロ脚光、ハナブサプロ、東京俳優生活協同組合に所属していた。 1899年(明治32年)11月21日、宮城県仙台市に生まれる。 旧制・東京音楽学校(現在の東京芸術大学)乙種師範科卒業。1923年(大正12年)から1929年(昭和4年)まで、旧制・大阪市立難波高等小学校(現在の大阪市立難波元町小学校)と同じく旧制の群馬県師範学校(のちの群馬師範学校、現在の群馬大学学芸学部)に音楽教師として勤務した。1929年、田谷力三、淡谷のり子らと松竹座チェーンのアトラクションに出演し、以後は歌手兼俳優としてカジノ・フォーリーやムーランルージュ新宿座、榎本健一一座などで活躍した。
麻生 武治(あそう たけはる、1899年11月21日 - 1… 麻生 武治(あそう たけはる、1899年11月21日 - 1993年5月30日)は、日本のスキー選手、陸上競技選手、登山家。父親は日本銀行の理事、母親はピアニストであった。 東京市麻布区(現在の東京都港区)に生まれる。 旧制暁星中学校を経て、早稲田大学へ進学した。早稲田大学時代には第1回の箱根駅伝より出場し1年目は9区、2年目、3年目は5区で山登り5区を走り、3回とも区間賞を獲得した。その後はベルリン体育大学(ドイツ語版)に留学し、1923年には日本人として初めてマッターホルンに登頂し、翌年にはスキーで冬の槍ヶ岳の登頂に成功している。 1928年にはスイスで開催された1928年サンモリッツオリンピックに日本人として冬季オリンピック初出場を果たす。
鈴木 弼美(すずき すけよし、1899年〈明治32年〉11月… 鈴木 弼美(すずき すけよし、1899年〈明治32年〉11月21日 - 1990年〈平成2年〉5月26日)は、日本の教育者。内村鑑三の弟子で、基督教独立学園高等学校の創設者。初代校長。 山梨県北都留郡七保村大字葛野(現・大月市)で、800年続いた甲斐絹問屋・鈴木商店の店主鈴木治作の次男として生まれる。 1920年、東京帝国大学理学部物理学科に入学。1924年1月27日、東京府柏木の内村鑑三邸内にある今井館で行われた聖書研究会に出席。6月頃、内村が柏木集会に参加していた青年に山形県小国郷と岩手県の北上山地への伝道を呼びかける。この2ヵ所は、内村がアメリカに留学していた頃に日本地図を広げて、将来伝道すべき所として選んだ、人跡稀な34ヵ所の場所の一つであった。
田嶋 一雄(たしま かずお、1899年11月20日 - 19… 田嶋 一雄(たしま かずお、1899年11月20日 - 1985年11月19日)は、日本の実業家。ミノルタカメラ(現:コニカミノルタ)創業者。和歌山県海南市出身。 座右の銘は「難有り有難し」。 1899年11月20日、和歌山県海草郡日方町(現:海南市日方)で父・田嶋常吉と母・きくえの長男として生まれた。田嶋家は鎌倉時代に大野荘を管理していた大野十番頭を務めた家柄で、祖父・長三郎の代から漆器製造卸業の田嶋長三郎商店を営んでいた。父親は神戸で貿易会社を経営していた。 日方尋常高等小学校、和歌山商業学校を経て、神戸高商を受験したが受からず、親戚が慶應義塾長の鎌田栄吉と知り合いであったことから同大経済学部に進学し、1923年に卒業。
小野 謙次郎(おの けんじろう、1899年11月20日 - … 小野 謙次郎(おの けんじろう、1899年11月20日 - 1983年10月5日)は、日本の元裁判官。名古屋高等裁判所長官、札幌高等裁判所長官などを務めた。 佐賀県に生まれる。1917年福岡県立中学修猷館を経て、1923年東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。 1925年判事に任官され、福岡地方裁判所判事、長崎控訴院判事部長を経て、1946年2月山形地方裁判所所長に進み、鹿児島地方裁判所所長、福岡高等裁判所判事、福岡地方裁判所所長を歴任の後、1960年11月札幌高等裁判所長官、1963年6月名古屋高等裁判所長官に就任。1964年11月停年退官。
江上 トミ(えがみ とみ、1899年11月19日 - 198… 江上 トミ(えがみ とみ、1899年11月19日 - 1980年7月21日)は、日本の料理研究家。テレビ放送草創期より活躍した料理番組講師の草分けであり、日本の「料理研究家」の元祖。 NHK『きょうの料理』や日本テレビ『キユーピー3分クッキング』などに出演して、暖かいおふくろさんの笑顔と熊本弁で人気を博した。 「ご家庭の幸せは愛情をこめた料理から」をモットーとし、家庭料理の普及に尽くして江上料理学院を創設。同学院は現在、トミの長男の嫁の江上栄子と孫の江上佳奈美に引き継がれている。 出身地の地元テレビ局であるテレビ熊本 (TKU) が、ドキュメンタリードラマ「郷土の偉人シリーズ」でトミの生涯を描いた「日本の食卓を変えた火の國の女江上トミ」(演:細川ふみえ)を制作し、2006年11月5日に九州7県のフジネットワーク系列局で放送した。
辻 直四郎(つじ なおしろう、1899年11月18日 - 1… 辻 直四郎(つじ なおしろう、1899年11月18日 - 1979年9月24日)は、日本の古代インド学者・言語学者で、日本におけるインド古典学研究を開拓し、業績は海外の学会でも高く評価された。 ヤジュル・ヴェーダ サーマ・ヴェーダ アタルヴァ・ヴェーダ (アーラニヤカ) (ウパニシャッド)
石山 脩平(いしやま しゅうへい、旧姓:小林、1899年11… 石山 脩平(いしやま しゅうへい、旧姓:小林、1899年11月18日 - 1960年6月18日)は、日本の教育学者。東京教育大学初代教育学部長。専門はギリシア教育史。梅根悟とともに教育課程「コア・カリキュラム」を推進した。伝統的な三読法(通読・精読・味読)を提唱した。 静岡県出身。静岡県浜松師範学校、東京高等師範学校を経て、1929年に京都帝国大学文学部哲学科を卒業。東京文理科大学教授、1949年、東京教育大学初代教育学部長。1952年、「ポリス教育の成立と性格」で広島文理科大学より文学博士の学位を取得。1955年6月、小、中学校における教科書関係事件に関し衆議院行政監察特別委員会に証人喚問された。
塩見 俊雄(しおみ としお、1899年(明治32年)11月1… 塩見 俊雄(しおみ としお、1899年(明治32年)11月18日 - 1988年(昭和63年)2月27日)は、日本の地方政治家。土佐市長。位階は正六位。 塩見熊吉の長男として高知県高岡郡戸波村(現・土佐市)に生まれる。農業のかたわら青年団に入り戸波青年団会長、高岡青年団会長(5ケ町村連合)などを歴任。1922年(大正11年)戸波村産業組合の職員に採用され、翌年には専務理事に抜擢される。1926年(大正15年)には高知県産業組合中央高知市会の職員となる。 その後高知県農業会高岡支部経理課長、農業会金融課長(昭和20年)となるが、翼賛壮年団長をしていたため、GHQによる公職追放を受ける。サンフランシスコ講和条約の締結により、日本が主権を回復したことに伴い、1953年(昭和28年)追放解除。
大林 良一(おおばやし りょういち、1899年11月17日 … 大林 良一(おおばやし りょういち、1899年11月17日 -1988年10月18日 )は、日本の経済学者である。専門は、社会保障学、保険学。一橋大学名誉教授、第9代成城大学学長。
養老 静江(ようろう しずえ、1899年〈明治32年〉11月… 養老 静江(ようろう しずえ、1899年〈明治32年〉11月16日 - 1995年〈平成7年〉3月22日)は、日本の医師。次男は解剖学者で東京大学名誉教授の養老孟司。 神奈川県津久井郡(現在の相模原市)出身。 神奈川県立横浜第一高等女学校を経て、東京女子医学専門学校卒業。 1936年、鎌倉市で小児科を開業。94歳まで診療を続けた。 はじめに弁護士と結婚して二児をもうけるが、10歳年下の男性と恋愛をして、離婚、再婚をした。 1994年、荻野吟子賞を受賞。 1997年、田嶋陽子は養老静江にインタビューをした内容をもとに『女の大老境』という書籍を著す。 2020年、堀越英美によって著された『スゴ母列伝』に養老静江のことが取り上げられている。
友近 美晴(ともちか よしはる、1899年(明治32年)11… 友近 美晴(ともちか よしはる、1899年(明治32年)11月16日 - 1980年(昭和55年)3月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 愛媛県出身。呉服卸商・友近彦次郎の三男として生まれる。広島高等師範学校附属中学校(現広島大学附属中学校・高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野戦重砲兵第4連隊付となる。1923年(大正12年)12月、陸軍砲工学校高等科(29期)を卒業した。陸軍野戦砲兵学校付などを経て、1928年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業し野戦重砲兵第4連隊中隊長に就任。
松尾 邦之助(まつお くにのすけ、1899年(明治32年)1… 松尾 邦之助(まつお くにのすけ、1899年(明治32年)11月15日 - 1975年(昭和50年)4月3日)は、日本の新聞記者、評論家、翻訳家。 反権力・個人主義的志向を持つ人物であった。1940年のナチス・ドイツの占領まで長くパリに住み、日仏の文化交流に貢献した。 松尾嘉平・きみの次男として、静岡県引佐郡引佐町金指(現・浜松市北区引佐町金指)に生まれた。家は裕福な呉服商で、嘉平ときみの間には邦之助を含めて三男三女がいた。金崎の小学校、気賀(現・浜松市北区細江町気賀)の高等小学校を経て静岡県立浜松中学校(現・静岡県立浜松北高等学校)を了え、親の希望の旧制高等学校でなく、東京外国語学校フランス語文科に学び、1922年、逓信省の嘱託となり、その秋、嘉平の渋々の承諾を得て渡仏し、パリに住んだ。