藤井 兼誼(ふじい かねよし、1897年(明治30年)6月1… 藤井 兼誼(ふじい かねよし、1897年(明治30年)6月15日 - 1986年(昭和61年)10月30日)は、日本の政治家、華族。貴族院子爵議員。 京都市で子爵・藤井行徳の二男として生まれる。父の隠居に伴い、1930年(昭和5年)10月15日、子爵を襲爵した。 1926年(大正15年)京都帝国大学文学部を卒業。同年、私立京都薬学専門学校教授に就任。1937年(昭和12年)殿掌となり、大喪使祭官を務めた。 1942年(昭和17年)3月31日、補欠選挙で貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
森村 酉三(もりむら とりぞう、1897年〈明治30年〉6月… 森村 酉三(もりむら とりぞう、1897年〈明治30年〉6月12日 - 1949年〈昭和24年〉7月9日)は、日本の鋳金工芸家、彫刻家。高崎白衣大観音像の原型制作者として知られる。群馬県出身。 1897年(明治30年)、群馬県佐波郡宮郷村上連取(現・伊勢崎市連取町)に、森村連太の三男として生まれる。酉三の名は酉年生まれであることにちなむ。森村家は江戸時代には旗本・駒井氏の地方代官を勤めた旧家で、兄・鍋太は佐波郡会議員や宮郷村長を務め、分家の堯太(父の又従兄弟)は群馬県会議員を務めた。酉三の生家は「旧森村家住宅」として伊勢崎市指定重要文化財となっている。 酉三は幼い頃から絵画や粘土細工を得意としていたという。
潮 みどり(うしお みどり、1897年6月12日 - 192… 潮 みどり(うしお みどり、1897年6月12日 - 1927年10月13日)は日本の歌人。本名は長谷川桐子。旧姓は太田。姉の若山喜志子も歌人。 長野県東筑摩郡広丘村(現塩尻市)生まれ。大正4年(1915年)三浦半島に療養中の姉・喜志子を見舞い、翌年まで滞在した。大正4年から歌作を始め、義兄の若山牧水に師事し、詩歌雑誌「創作」に作品を発表する。同7年(1918年)に上京し、翌年、喜志子・牧水夫妻の仲人により、牧水の弟子である長谷川銀作と結婚したが、同10年(1921年)ころから結核に罹患し、療養を続けながらも創作を続けたが、31歳で夭逝した。遺歌集に「潮みどり歌集」が刊行された。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
新海 竹蔵(しんかい たけぞう、1897年(明治30年)6月… 新海 竹蔵(しんかい たけぞう、1897年(明治30年)6月12日 - 1968年(昭和43年)6月13日)は、日本の彫刻家である。 新海竹太郎の甥として山形県山形市に生まれる。家系は仏師であり、竹蔵の曾祖父母は同業に従事していた。1912年(大正元年)に上京し、その後は伯父の竹次郎から塑像を学び、1915年(大正4年)に自身の作品が第9回文展に初入選される。後には多くの作品が文展および帝展に出品され、1924年(大正13年)には自身の作品が再興された院展にも出品された。これによって翌1925年(大正14年)には日本美術院の院友となり、1927年(昭和2年)には日本美術院の同人に推薦され院展彫塑部に所属する。
小岩井 浄(こいわい きよし、1897年〈明治30年〉6月9… 小岩井 浄(こいわい きよし、1897年〈明治30年〉6月9日 ‐ 1959年〈昭和34年〉2月19日)は、日本の社会運動家、教育者、弁護士、政治家。愛知大学第3代学長。 長野県東筑摩郡島立村(現在の松本市)に小岩井宗十の長男として生まれる。父・宗十は松本での分県移庁運動で検挙(のちに無罪)された経験のある社会運動家で、1902年に妻子を残して単身渡米し、カリフォルニアで農園経営者として成功したとも、消息を絶ったとも伝えられる。 1911年、旧制長野県立松本中学校(現在の長野県松本深志高等学校)に入学。1915年、同校を本荘太一郎校長との衝突を理由に中退。その後旧制諏訪中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)に入学する[要出典]。
松本 俊一(まつもと しゅんいち、1897年〈明治30年〉6… 松本 俊一(まつもと しゅんいち、1897年〈明治30年〉6月7日–1987年〈昭和62年〉1月25日)は、昭和期の外交官・政治家。 台湾台北で、実業家・松本勝太郎の長男として生まれ、広島県呉市広育ち。広島県立呉中学校(呉三津田高校)、一高を経て経て、1921年(大正10年)東京帝国法学部卒業し外務省入省。 在ベルギー外交官補、アントワープ領事官補、条約局、在フランス大使館を経て、条約局第二課長、条約局第一課長、人事課長、在中華民国大使館参事官、文化事業部長、条約局長を歴任。 1942年(昭和17年)、重光葵外務大臣下で外務次官。フランス領インドシナ特派大使を経て1945年に東郷茂徳外務大臣下で再び外務次官となり内閣書記官長の迫水久常らと終戦処理にあたった。
中川 留雄(なかがわ とめお、1897年(明治30年)6月7… 中川 留雄(なかがわ とめお、1897年(明治30年)6月7日 - 1956年(昭和31年)12月19日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓は松永。 1897年(明治30年)に広島県で生まれた。陸軍士官学校第31期、陸軍大学校第39期、東京帝国大学政治学科卒業。1938年(昭和13年)7月に陸軍省人事局補任課高級課員に就任し、1939年(昭和14年)8月1日に陸軍歩兵大佐進級と同時に教育総監部庶務課長に着任し、12月1日には参謀本部庶務課長に転じた。1940年(昭和15年)5月に広島陸軍幼年学校長に就任し、1941年(昭和16年)4月に企画院調査官、1942年(昭和17年)1月に陸軍予科士官学校幹事を歴任した。
早川 種三(はやかわ たねぞう、1897年(明治30年)6月… 早川 種三(はやかわ たねぞう、1897年(明治30年)6月6日 - 1991年(平成3年)11月10日)は、日本の実業家。戦後数々の大型倒産において管財人として企業再建に取り組み、「会社再建の神様」と呼ばれている。 宮城県宮城郡七郷村南小泉(現仙台市)に早川智寛・長子夫妻の子として生まれる。父智寛は土建業で財を成したが、すでに第一線を退き、仙台商業会議所会頭や米穀取引所理事長などの名誉職にあった。後に仙台市長にも就任した。 慶應義塾大学在学中は茶屋遊びをはじめとする放蕩生活で遺産を蕩尽した。慶大を5回落第し、卒業するのに10年もかかった。20歳の時に父が財産分けしてくれた30万円(今だと2、3億円になる)を10年間にほぼ使い果たした。
島津 保次郎(しまづ やすじろう、1897年〈明治30年〉6… 島津 保次郎(しまづ やすじろう、1897年〈明治30年〉6月3日 - 1945年〈昭和20年〉9月18日)は、大正・昭和期の映画監督。松竹蒲田撮影所で蒲田調と呼ばれる小市民映画を多数製作し、松竹の代表的監督となった。 東京市日本橋区(現・東京都中央区日本橋)三越日本橋本店の真正面に老舗の海苔商「甲州屋」を営む父・音次郎の次男として生まれる。 正則英語学校(現・正則学園高等学校)に入学するが、幼いころから極度の映画好きであった島津は学校をさぼって近くにあった映画館・錦輝館へ行って映画を見ていた。当時から映画監督への道を志しており、逓信省の宣伝映画のシナリオ公募に入選した経験もある。卒業後、実家の手伝いで、福島で下駄用桐材の切り出しに携わる。
中田 邦造(なかた くにぞう、1897年6月1日 - 195… 中田 邦造(なかた くにぞう、1897年6月1日 - 1956年11月15日)は、昭和期の司書。石川県立図書館や東京都立日比谷図書館の館長を歴任し、近代日本の図書館発展に大きな影響を与えた。号は自邦居士あるいは空人生。 滋賀県甲賀郡柏木村(後水口町を経て、現在は甲賀市)宇田の出身。事情により学業が思うように任せず、膳所中学校を卒業したのは20歳になってからで、以後第八高等学校 を経て、1920年に京都帝国大学哲学科に入り、西田幾多郎の門下となる。また、高校時代より飯田攩隠と親交を持ち、彼の元で度々座禅を組んだという。その後、大学院に進んだが、1923年に一年志願兵に志願したのを機に中退、除隊後は28歳で石川県主事となった。
徳川 宗敬(とくがわ むねよし、旧字体:德川 宗敬、1897… 徳川 宗敬(とくがわ むねよし、旧字体:德川 宗敬、1897年(明治30年)5月31日 - 1989年(平成元年)5月1日)は、日本の林学者、陸軍軍人、政治家、教育者、神職。階級は陸軍少尉。位階は従三位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。最終学歴は東京帝国大学農学部林学科卒業。学位は農学博士(東京帝国大学)。
森村 勇(もりむら いさむ、1897年5月30日 - 19… 森村 勇(もりむら いさむ、1897年5月30日 - 1980年3月23日)は、日本の実業家。日本特殊陶業社長や、全日本空輸社長、日本航空常務取締役、日本陶器取締役、東洋陶器取締役、日本碍子取締役などを歴任した。 1918年高千穂高等商業学校(現高千穂大学)卒業。1936年日本特殊陶業取締役。1944年日本特殊陶業取締役社長。1950年大日本製糖監査役。1951年日本特殊陶業取締役会長。1953年日本航空常務取締役。1955年日本航空監査役、日本特殊陶業取締役社長。1961年日本陶器取締役、東洋陶器取締役、日本碍子取締役、日本特殊陶業取締役会長。1962年全日本空輸取締役、日東石膏取締役。1963年東洋サーモコントロール監査役。
田中 誠二(たなか せいじ、1897年5月30日 - 199… 田中 誠二(たなか せいじ、1897年5月30日 - 1994年12月23日)は、日本の法学者。専門は商法。学位は、法学博士(東京帝国大学・論文博士・1939年)。一橋大学名誉教授。初代一橋大学法学部学部長を歴任。1981年12月12日より日本学士院会員。授勲勲二等瑞宝章。 指導学生等に堀口亘(一橋大学名誉教授)、好美清光(一橋大学名誉教授)、吉永榮助(一橋大学名誉教授)、加美和照(中央大学名誉教授)などがいる。 田中ゼミ出身者に堀口亘(一橋大学名誉教授)、好美清光(一橋大学名誉教授)、並木俊守(元日本大学教授、人気弁護士)、加美和照(中央大学名誉教授)、原茂太一(元青山学院大学教授)、佐藤節子(元青山学院大学教授)、柿沼幸一郎(元公正取引委員会委員)、岡村勲(元日本弁護士連合会副会長)、倉島研二(元法務省法務総合研究所教官)など。
黒田 茂子(くろだ しげこ、1897年〈明治30年〉5月29… 黒田 茂子(くろだ しげこ、1897年〈明治30年〉5月29日 - 1991年〈平成3年〉6月26日)は、日本の元皇族。黒田長礼侯爵夫人。閑院宮載仁親王の第2女子。母は、三条実美公爵令嬢・智恵子。旧名は、茂子女王(しげこじょおう)。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。 1897年(明治30年)5月29日、閑院宮載仁親王と同妃智恵子の第2女子(第3子)として誕生。1914年(大正3年)1月21日、黒田長礼(黑田長禮、黒田長成侯爵の嫡男)に降嫁した。1978年(昭和53年)4月16日に夫・長礼が没した後、茂子は「黒田家什宝は美術工芸品であっても、郷土福岡との関連において役立てるべき歴史的文化財である」ため、それらを故郷に帰すという亡夫の遺志を継ぎ、同年9月19日に国宝・漢委奴国王印をはじめ黒田家に伝来した文化財や歴史資料を『黒田資料』として一括して福岡市へ寄贈した。
由布 喜久雄(ゆふ きくお、1897年〈明治30年〉5月29… 由布 喜久雄(ゆふ きくお、1897年〈明治30年〉5月29日 - 1973年〈昭和48年〉2月6日)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍法務少将。海軍省廃止時の海軍省法務局長。旧姓、岡村。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校)、旧制第五高等学校、東京帝国大学法学部を卒業し、1922年に海軍法務官に任官する。海軍兵学校教官、海軍省法務局局員、東京高等軍法会議法務官、海軍司法事務官、大本営報道部附、海軍大学校教官などを歴任した。 1943年に連合艦隊法務長に就任した。1945年に海軍法務少将に昇進した。戦後は海軍省(のち、改組により第二復員省)法務局長となる。 第二復員省退官後は公職追放を経て、郷里である福岡県柳川市で弁護士業を営んだ。
周 仏海(しゅう ふつかい、1897年5月29日〈光緒23年… 周 仏海(しゅう ふつかい、1897年5月29日〈光緒23年4月28日〉 - 1948年〈民国37年〉2月28日)は、中華民国の財政家・政治家。本名周 福海。汪兆銘政権の有力者。 湖南省生まれ。日本に留学し第七高等学校造士館 (旧制)・京都帝国大学に学ぶ。この頃から共産主義に触れるようになり中国共産党とも接触を持つ。1921年に開催された中共一大会議には日本への留学生を代表する形で参加した。しかし、1924年に帰国すると中国国民党宣伝部秘書になり、共産党と関係を絶つ。 その後、北伐に参加し一時汪兆銘の武漢国民政府に参画するが、その後は戴季陶の庇護を受け、蔣介石の下で三民主義のイデオローグとして活躍、国民党中央執行委員・党中央宣伝部副部長などを歴任。
西 酉乙(にし とりおと、1897年(明治30年)5月27日… 西 酉乙(にし とりおと、1897年(明治30年)5月27日 - 1989年(平成元年)10月8日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・赤松。 海軍士官・赤松則良の七男として生まれ、1899年(明治32年)に海軍士官・西紳六郎の養子となる。養父の死去に伴い、1933年(昭和8年)11月15日、男爵を襲爵した。 1922年(大正11年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業。同年、第一銀行に入行し書記に就任。その後、南洋拓殖参事、南洋バルブ取締役、太洋真珠監査役、南洋水産監査役などを務めた。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで1期在任した。
鍋島 紀雄(なべしま ただお、1897年5月26日 - 19… 鍋島 紀雄(なべしま ただお、1897年5月26日 - 1968年2月19日)は、日本画家。 大阪市北区福島番外413番地に生まれる。父熊太郎(1865年(慶応元年)生まれ)、母ミチ(旧姓牧、1876年(明治9年)生まれ)の長男。鍋島熊太郎は旧佐賀蓮池藩連枝。 1915年(大正4年)東北学院中等部卒業。4月、東京美術学校日本画科に入学。4月から7月まで予備科、8月から本科に進む。川合玉堂、結城素明、松岡映丘の指導を受ける。 1921年(大正10年)東京美術学校(現:東京芸術大学)卒業。卒業制作は、東京芸術大学収蔵品として保管されているが、一般公開はされていない。[要出典] 恩師・川合玉堂の言葉「塵汚の渦中に巻込まれる勿れ、一意我が道に精進せよ」を受けて中央画壇に背を向け、大阪南部の羽曳野市に住み、人知れず「己が魂」を描き続けた。
瀧川 政次郎(たきかわ まさじろう、1897年5月26日 -… 瀧川 政次郎(たきかわ まさじろう、1897年5月26日 - 1992年1月29日)は、日本の法学者。専門は法制史。大阪府大阪市西区出身。法律学の立場から法制史の体系化に尽力する。学位は法学博士。國學院大學名誉教授。
今西 洋(いまにし ひろし、1897年5月25日 - 195… 今西 洋(いまにし ひろし、1897年5月25日 - 1957年1月9日)は日本の陶芸家。国画会会員。本名:今西末太郎 1897年、奈良県丹波市町(現在の天理市)の茶貿易商今西安太郎の次男として生まれる。 1915年、奈良県立旧制郡山中学(現在の郡山高校)を卒業。在学中より親交のあった大和・安堵村の富本憲吉のもとで教えを受け作陶をはじめる。 その後、長崎県波佐見中尾山に仕事場を構え、九州伊万里ほか全国地名の窯場を遍歴し古陶磁器文様の研究を行い、更に、朝鮮・満州・中国各地の窯場を視察し、独自の作風を打ち立てる。特に古窯からの「くらはんか」系の破片研究に努め、柳宗悦に”今の所今西君ほど實物を澤山見てゐる人は他にないと思ふ。
梁井 淳二(やない じゅんじ、1897年(明治30年)5月2… 梁井 淳二(やない じゅんじ、1897年(明治30年)5月25日 - 1988年(昭和63年)1月20日)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。台北州知事。衆議院議員。 梁井幾太郎の二男として佐賀県三養基郡基山村大字長野(現・基山町大字長野)に生まれる。旧制佐賀中学校、第一高等学校を経て、1920年(大正9年)10月、高等試験に合格し、1921年(大正10年)4月に東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。 卒業後、内務省に出仕し土木局属となり、熊本県葦北郡長、新潟県警察部保安課長、同県内務部商工課長、広島県内務部農務課長、徳島県学務部長、大分県警察部長、滋賀県警察部長、長崎県経済部長、拓務局総務課長を経て、1939年(昭和14年)11月に台湾総督府文教局長、ついで1942年(昭和17年)7月に台北州知事に就任した。
吉松 喬(よしまつ たかし、1897年(明治30年)5月25… 吉松 喬(よしまつ たかし、1897年(明治30年)5月25日 - 1987年(昭和62年)9月17日)は、大正から昭和期の鉄道官僚、政治家。参議院議員、陸軍司政長官。 福岡県出身。吉松民次郎、友子の長男として生まれる。第三高等学校を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業し、鉄道省に入省して直方駅助役に就任。同年11月、高等試験行政科試験に合格した。 以後、大臣官房文書課勤務、大鉄運輸課旅客掛長、大阪運輸事務所長、広鉄庶務課長、運輸局配車課長、鉄道調査部第一課長、札幌鉄道局長、東京鉄道局長などを務め、1943年(昭和18年)2月、陸軍司政長官に発令された。1945年(昭和20年)に退官した。
田口 省吾(たぐち せいご、1897年5月25日 - 194… 田口 省吾(たぐち せいご、1897年5月25日 - 1943年8月14日)は、日本の画家。 田口掬汀の三男として秋田県角館町に生まれる。麻布中学校、東京美術学校洋画科卒業。在学中は藤島武二に、1923年からは石井柏亭に師事。第2回中央美術社展に「薔薇」が初入選。第10回二科展に「漁夫の娘」が入選。1929年から1932年までフランス留学。 1932年、二科会会員に推挙。 1943年8月14日、胸部疾患のため死去。46歳没。 息子は作家の高井有一。高井の『夢の碑』に、河西珊吾として登場する。 歌手の淡谷のり子の学費を捻出するなどサポートなどをしていた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
小野 三千麿(おの みちまろ、1897年(明治30年)5月2… 小野 三千麿(おの みちまろ、1897年(明治30年)5月22日 - 1956年(昭和31年)2月2日)は、日本の野球選手(投手)、新聞記者。都市対抗野球大会の「小野賞」にその名を残している。谷口五郎、湯浅禎夫とともに「大正三大投手」の一人に挙げられる。 神奈川県出身。神奈川師範学校(のちの横浜国立大学)から慶應義塾大学に進み、その後慶大OBを中心としたクラブチームである「三田倶楽部」に所属。「至妙なコントロールを持つ剛球と、懸河の如きドロップ」と評された投球でエースとなる。 1919年(大正8年)秋の四大学リーグの慶法1回戦(10月15日)と慶明2回戦(10月18日)で2試合連続ノーヒットノーランの偉業を達成した。
藤山 愛一郎(ふじやま あいいちろう、1897年〈明治30年… 藤山 愛一郎(ふじやま あいいちろう、1897年〈明治30年〉5月22日 - 1985年〈昭和60年〉2月22日)は、日本の政治家、実業家。 外務大臣、経済企画庁長官、衆議院議員(6期)、日本商工会議所会頭、経済同友会代表幹事、初代日本航空会長、自民党総務会長などを歴任した。 藤山コンツェルン二代目。位階は従二位。勲等は勲一等。 東京王子に王子製紙専務取締役藤山雷太(佐賀県士族)の長男として生まれる。慶應幼稚舎時代、当時の官公立崇拝の強い風潮の中、父が福澤諭吉門下直系であるにも拘わらず第一高等学校(現東京大学教養学部)合格者数第一位を誇った府立一中(現東京都立日比谷高等学校)を受験するも失敗、慶應義塾普通部に進学した。
高橋 長治(たかはし ちょうじ、1897年(明治30年)5月… 高橋 長治(たかはし ちょうじ、1897年(明治30年)5月21日 - 1981年(昭和56年)12月11日)は、日本の政治家。衆議院議員、神奈川県会議長。 神奈川県、現在の横浜市南区で生まれる。1918年(大正9年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。 1928年(昭和3年)神奈川県会議員に選出され(5期在任)、さらに、同議長(2期)、同行政監査委員長、同公安委員会長、同観光審議会副会長、横浜市観光協会(現横浜観光コンベンション・ビューロー)副会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に神奈川県第1区から民主党公認で立候補して当選。第25回総選挙では改進党から立候補して当選し、衆議院議員を通算2期務めた。
中川 清(なかがわ きよし、1897年(明治30年)5月21… 中川 清(なかがわ きよし、1897年(明治30年)5月21日 - 1977年(昭和52年)3月11日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の彫刻家。 当時の滋賀県坂田郡西黒田村(後の長浜市)八条町に生まれる。若くして美術に才能を発揮し、1915年には17歳で二科展に洋画を出品して初入選を果たした。東京美術学校彫刻科に学んで1923年に卒業し、さらに研究科、別科に在籍して修業した。 1924年、第5回帝展に「腰かけた女」が初入選して以降、帝展への出品を続け、1927年第8回帝展で「立女」が特選となり、1937年からは文展無鑑査となった。 第二次世界大戦後は、日展に出品を続けるとともに、審査員を務め、1958年に評議員、1969年に理事となり、1973年に参与となった。
安田 桑次(やすだ くわじ、1897年(明治30年)5月21… 安田 桑次(やすだ くわじ、1897年(明治30年)5月21日 - 1968年(昭和43年)5月31日)は、大正から昭和期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、岐阜県安八郡和合村長。 岐阜県安八郡和合村大字津(現大垣市)で生まれる。1917年(大正6年)小野補修農業学校研究科を卒業。1925年(大正14年)家督を相続し、農業を営む。 和合村書記に就任。和合村会議員、同村長、岐阜県会議員、同参事会員、同副議長などを務めた。その他、大政翼賛会岐阜県支部常務委員、同安八郡協力会議長、同翼賛壮年団長、岐阜県翼賛壮年団協力委員などを務めた。 実業界では、岐阜県蛍石鉱業会長、同県鉱業会理事、岐阜県種苗社長、東海農事社長、安田商店社長、共栄百貨店社長などを務めた。
荻原 晃(おぎはら あきら, Aloysius Akira … 荻原 晃(おぎはら あきら, Aloysius Akira Ogihara, S. J.、1896年(明治29年)6月21日 - 1991年(平成3年)8月26日)、日本のカトリック聖職者でイエズス会士。洗礼名はアロイジオ。第3代広島使徒座代理を務めた。 1896年6月21日、山形県鶴岡市で生まれた。1921年に上智大学哲学科を卒業し、同年歩兵第32連隊に入隊した。1922年にオランダのイエズス会修練院に入り、1929年7月31日にスペインナバラ州のザビエル城内の教会で司祭に叙階された。1932年3月16日に日本に帰国。その後は広島教区の教会で働いた。 1940年にヨハネス・ロス司教を引き継いで第3代広島使徒座代理に就任した。
大神 善吉(おおがみ ぜんきち、1896年(明治29年)6月… 大神 善吉(おおがみ ぜんきち、1896年(明治29年)6月21日 - 1967年(昭和42年)10月27日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、福岡県筑紫郡春日村長。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 福岡県福岡市中小路(現博多区上呉服町)で、大神鹿吉、イノの二男として生まれる。幼くして父が死去し、御供所小学校(現福岡市立博多小学校)在学中は野菜の行商を行う。小学校卒業後、石屋、大工として奉公したが、上京し苦学して、1923年(大正12年)中央大学経済科を卒業した。 品川区会議員、立憲政友会院外団などで活動した。1938年(昭和13年)兄・恒吉の死去に伴い福岡県筑紫郡春日村(春日町を経て現春日市)に戻り、大神組を継承し土木建築請負業を営んだ。
水野 伊太郎(みずの いたろう、1896年(明治29年)6月… 水野 伊太郎(みずの いたろう、1896年(明治29年)6月20日 - 1964年(昭和39年)3月26日)は、日本の外交官。特命全権公使。 静岡県出身。1919年(大正8年)、高等試験外交科に合格し、翌年に東京帝国大学法学部法律科を卒業した。外交科試験以外の合格者を採用する「門戸解放」の一環として外務省に入省し、大使館三等書記官、外務事務官、公使館二等書記官、同一等書記官を歴任し、その間にベルギー、フランス、ルーマニア、ユーゴスラビアに勤務した。1935年(昭和10年)、外務書記官・調査部第二課長となり、通商局第一課長、同第三課長兼第四課長などを経て、1940年(昭和15年)に通商局長に就任した。
森下 國雄(もりした くにお、1896年6月20日 - 19… 森下 國雄(もりした くにお、1896年6月20日 - 1975年5月7日)は、日本の政治家。位階は正三位。衆議院議員(10期)。 栃木県塩谷郡阿久津村(現高根沢町)出身、早稲田大学政治経済学部卒業。コロンビア大学に留学する。外務参与官、外務次官、特派大使を歴任。1936年の総選挙で立憲民政党から立候補して初当選。終戦後公職追放された。1950年追放解除。追放解除後の1952年に自由党から政界復帰。その後、衆議院外務、建設各委員長、自民党代議士会長や道路調査会長、国土開発調査会長などを務めた。1972年の総選挙で落選した。 1975年5月7日、死去。78歳没。同月9日、特旨を以て位四級を追陞され、死没日付で正五位から正三位に叙され、銀杯一組を賜った。
菊地 幸作(きくち こうさく、1896年(明治29年)6月2… 菊地 幸作(きくち こうさく、1896年(明治29年)6月20日 - 1984年(昭和59年)1月2日)は、日本の政治家。栃木県真岡市長(2期)。 真岡市出身。1912年、芳賀農林学校卒業。1920年、栃木県庁に入る。県庁内では秘書、商工各課長、知事官房主事などを務め、東京都繊維配給に転じ、経理総務各部長を歴任し、その後は栃木県監査委員、県人事委員会委員長などを務めた。1954年、合併による真岡町の町長選挙に立候補し、当選する。真岡町は同年10月に市制施行し、真岡市長となった。市長を2期務め、1967年に市長を退任した。ほか、栃木県土地改良事業団体連合会会長、穴川土地改良区連合会理事長を歴任した。
川村 智保(かわむら ちほ、1896年〈明治29年〉6月19… 川村 智保(かわむら ちほ、1896年〈明治29年〉6月19日 - 1993年〈平成5年〉3月9日)は、日本の画家。
硲慈弘(はざま じこう、1896年6月16日-1946年4月… 硲慈弘(はざま じこう、1896年6月16日-1946年4月16日)は、天台宗の僧、仏教学者。 和歌山県生まれ。天台宗大学(のち大正大学)卒。東京帝国大学へ内地留学、島地大等に師事、その『天台教学史』の編纂助手を務める。1927年大正大学講師、助教授、教授。初代天台宗教学研究所長。
上村 伸一(かみむら しんいち、1896年〈明治29年〉6月… 上村 伸一(かみむら しんいち、1896年〈明治29年〉6月15日 - 1983年〈昭和58年〉7月27日)は、日本の外交官。東京帝国大学法科(現在の東京大学法学部)卒業。外務省東亜局第一課長。駐イギリス日本大使館臨時代理大使、トルコ大使などを務めた。著書多数。 千葉県印旛郡佐倉町(現・佐倉市)にて上村蔦松の長男として生まれる。札幌中学、二高を経て東京帝国大学法科へ進学。在学中の1920年(大正9年)10月に文官高等試験外交科(外交官及領事館試験)に合格。1921年(大正10年)、東京帝国大学法科卒業。同年、外務省に入省、牛荘官補に配属。昭和時代の幕開けを革命進行中のソビエト連邦駐在中に迎え、満州事変以降は中国外交の現場で奔走。
館 俊三(だて しゅんぞう、1896年〈明治29年〉6月15… 館 俊三(だて しゅんぞう、1896年〈明治29年〉6月15日 - 1964年〈昭和39年〉4月6日)は、日本の労働運動家、政治家。衆議院議員。 石川県鹿島郡七尾町(現七尾市)で生まれる。1916年(大正5年)石川県立七尾中学校(現石川県立七尾高等学校)を卒業し、小学校准訓導心得となる。 1920年(大正9年)鉄道省に入省し函館駅改札掛に就任。鉄道局書記、鉄道官補、函館駅助役を歴任。1946年(昭和21年)函館駅従業員労働組合の結成発起人となり、また同年5月に結成された国鉄北海道労働組合の委員長に就任。同年4月、第22回衆議院議員総選挙に出馬するも落選。1947年(昭和22年)4月、第23回総選挙で北海道第3区から日本社会党所属で出馬して初当選。
岩岡 とも枝(いわおか ともえ、1896年(明治29年)6月… 岩岡 とも枝(いわおか ともえ、1896年(明治29年)6月15日 - 1933年(昭和8年)11月7日)は、大正末から昭和の初めにかけて活動した挿絵画家、日本画家。雅号に岩岡花僊、岩岡周和。 戸籍上の名前はともゑ。弁護士の父・岩岡伊代治(長野県南安曇郡倭村出身)と母・ふくの間に東京市日本橋区浜町に生まれ育った。日本画を学び、池田輝方の曙会に所属する。弁護士の傍ら衆議院議員を1期務めた父・伊代治が1921年(大正10年)11月に亡くなった後、児童雑誌などに挿絵を描き始めた。『コドモノクニ』、『コドモアサヒ』、『金の星』などの雑誌のほか、楠山正雄、小川未明などの児童書に挿絵を描いた。1933年11月7日、「長らく心臓を悩んでおりましたが遂に病気昂進の為め」現在の東京都済生会中央病院で死去した。
和田 完二(わだ かんじ、1896年 <明治29年> 6月1… 和田 完二(わだ かんじ、1896年 <明治29年> 6月12日 - 1968年 <昭和43年> 8月13日)は、日本の経営者。丸善石油(現在のコスモ石油)社長を務めた。位階は従四位。 兵庫県豊岡市出身。1914年に旧制豊岡中学校を卒業。満鉄での勤務を経て、1930年に丸善石油に転じ、1951年11月に専務に就任し、1952年10月には社長に昇格し、1963年までに務めた。 1959年に紫綬褒章を受章し、1967年に勲三等旭日中綬章を受章。 1968年8月13日、心筋梗塞のために死去。72歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
松隈 秀雄(まつくま ひでお、1896年(明治29年)6月1… 松隈 秀雄(まつくま ひでお、1896年(明治29年)6月10日 - 1989年9月30日)は、日本の大蔵官僚。大蔵次官、日本専売公社総裁。 神奈川県出身。旧制第一高等学校を経て、1921年(大正10年)3月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)卒業。1920年(大正9年)10月、高等試験行政科に合格。 1921年5月、大蔵省入省し、参事官付。主税局国税課長、大臣官房文書課長などを歴任。1940年(昭和15年)5月25日、銀行局長。同年12月14日、主税局長。1944年(昭和19年)に谷口恒二(のちに日本銀行副総裁、東京大空襲で戦災死)のあとを受けて大蔵次官に就任。1945年2月、田中豊に大蔵次官の座を譲って勇退した。
佐々木 孝三郎(ささき こうざぶろう、1896年6月10日 … 佐々木 孝三郎(ささき こうざぶろう、1896年6月10日 - 1969年9月29日)は、日本の経営者。 宮城県出身。1917年に東京外語学校蒙古語科を卒業。南満洲製糖、満蒙毛織を経て、奉天新聞社副社長、奉天銀行取締役、奉天商工会議所評議員を歴任。1951年に宮城第一信用組合組合長に就任し、1957年4月から1962年2月までに東北放送社長を務めた。 1969年9月29日食道がんのために死去。73歳没。
黒岩 重治(くろいわ しげはる、1896年(明治29年)6月… 黒岩 重治(くろいわ しげはる、1896年(明治29年)6月10日 - 1986年(昭和61年)4月24日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員。 高知県香美郡東川村別役(香我美町を経て現香南市)で、黒岩兼太郎、加根の二男として生れた。1916年(大正5年)高知師範学校男子本科を卒業した。 安芸郡安田、香美郡岡ノ内、富家、片地、高知市第五の各尋常小学校訓導、川内、神谷、美良布の各尋常小学校長兼同高等小学校長、城山尋常小学校兼実業青年学校長、高知県視学、高知市立第二国民学校長、城北国民学校長などを歴任し、1947年(昭和22年)に退職した。 高知県教員組合連合委員長を務め、同組織の推薦を受けて、1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に高知県全県区から無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
東 忠続(あずま ただつぐ、1896年(明治29年)6月9日… 東 忠続(あずま ただつぐ、1896年(明治29年)6月9日 - 1950年(昭和25年)3月24日)は、大正から昭和前期の日本の労働運動家。 奈良県吉野郡十津川村に生まれる。同志社大学に入学し、在学中から友愛会の普選運動に参加し、労働運動に関する青年組織の団長をつとめる。東が団長をつとめた青年組織は「ボルガ団」といい、20歳前後の若者30余名で組織された友愛会京都支部の育成組織であった。1920年(大正9年)同志社大学を卒業すると、翌年の1921年(大正10年)関西労働同盟会の書記となり、藤永田造船所の争議を指導した廉で検挙される。出獄すると、翌年の1922年(大正11年)尼崎合同労働組合組合長となる。
務臺 光雄(むたい みつお、新字体:務台 光雄、1896年6… 務臺 光雄(むたい みつお、新字体:務台 光雄、1896年6月6日 - 1991年4月30日)は、日本の実業家。読売新聞社(現・読売新聞東京本社、読売新聞グループ本社)の社長、名誉会長や、讀賣テレビ放送の会長を務めた。長野県南安曇郡温村(後に三郷村を経て現在は安曇野市)出身。 社会部や政治部が花形の新聞社にあって販売畑一筋で歩み、戦前まで東京を中心とした東日本のブロック紙に過ぎなかった読売新聞を日本屈指の全国紙にまで押し上げた。「読売と名が付けば白紙でも売ってみせる」と言ったとされ、その辣腕ぶりから「販売の鬼」と呼ばれたが演劇や登山を好む一面もある。プロ野球の歴史では反長嶋・反江川で親川上・親藤田の座標軸に据えられている。
森村 義行(もりむら よしゆき、1896年(明治29年)6月… 森村 義行(もりむら よしゆき、1896年(明治29年)6月4日 - 1970年(昭和45年)11月3日)は、日本の実業家。学校法人森村学園理事長、財団法人森村豊明会第3代理事長、社団法人日本陶磁協会第2代理事長。 公爵:松方正義の十二男として生まれ、後に森村開作(7代目市左衛門)の婿養子となる。旧制兵庫県立第一神戸中学校を経て、1918年に旧制第七高等学校造士館を卒業。1921年京都帝国大学法学部卒業、同年に森村男爵家の婿養子となり一族の諸会社の重役を務める。 1951年、学校法人森村学園理事長・学園長就任。1961年、(財)森村豊明会第3代理事長就任。1970年3月、(社)日本陶磁協会第2代理事長就任。
山田 延男(やまだ のぶお、1896年〈明治29年〉6月4日… 山田 延男(やまだ のぶお、1896年〈明治29年〉6月4日 - 1927年〈昭和2年〉11月1日)は、日本の科学者。フランスのラジウム研究所(後のキュリー研究所)で物理学者であるマリ・キュリーに師事し、その長女の物理学者イレーヌ・ジョリオ=キュリーらと共に放射能の研究に貢献。研究に伴う放射線障害により死去した。ラジウム研究所に留学した最初の日本人であり、放射線化学研究の犠牲となって死去した最初の日本人とされる。 戦前の日本は放射能研究の範囲が狭かったため、日本国内ではマリ・キュリーの偉業とは対照的に、山田の留学や死についてほとんど知られていなかった。山田に関する資料の大部分が関東大震災や東京大空襲で焼失したことも、その一因である。
金 成淑(キム・ソンスク、朝鮮語: 김성숙、1896年6月4… 金 成淑(キム・ソンスク、朝鮮語: 김성숙、1896年6月4日または6月5日 - 1979年12月18日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、教育者、大韓民国の政治家。第5代韓国国会議員、韓国社会党党首を歴任した。 本貫は慶州金氏、号は悔乙(フェウル、悔乙/회을)、別名は金成璹(読み・ハングル同)。郷土史学者の金泰能は甥。 全羅南道済州島大静面(現・済州特別自治道西帰浦市大静邑)加波里(すなわち加波島)出身。漢学修学を経て、京城第1高等普通学校(現・京畿高等学校)4年在学中の1919年に三・一運動に参加し、出版法・保安法違反の疑いで裁判を受け、投獄されたことがある。出獄後の1920年に帰郷し、摹瑟浦で大静普通学校の附設学校を設置したのを経て、1921年に郷里の加波島で民族主義教育を行う辛酉義塾を開設し、5年間教師として在任した。
上野 慧賢(あがの えけん、1896年6月3日 - 1981… 上野 慧賢(あがの えけん、1896年6月3日 - 1981年6月2日)は、日本の教育者。駒澤大学高等学校名誉校長。学校法人駒澤大学理事、東京私立中学高等学校協会監事などを歴任。熊本県出身。 八代市生まれ。1917年、熊本県第一師範学校本科卒業。葦北郡日奈久尋常高等小学校訓導。1920年、津奈木尋常高等小学校。1923年、広島高等師範学校教育科卒業。熊本県阿蘇高等女学校教諭。1924年9月、熊本県第58番極楽寺林の慧禅について得度。1926年4月、東京帝国大学伝染病研究所看護婦養成所(のち東京大学第三厚生女学部)嘱託講師を兼任(1951年3月迄)。1927年3月、駒澤大学卒業。同年4月、日出高等女学校教諭。
宇田 新太郎(うだ しんたろう、1896年(明治29年)6月… 宇田 新太郎(うだ しんたろう、1896年(明治29年)6月1日 - 1976年(昭和51年)8月18日)は、日本の工学者。東北大学教授。 専門は電気工学、通信工学で、八木・宇田アンテナの発明者として知られ、同郷の盛永俊太郎、川原田政太郎と共に「魚津の三太郎博士」と呼ばれた。 富山県下新川郡舟見町(現・入善町)出身。旧制魚津中学、広島高等師範学校を経て、一旦長野県の旧制大町中学で教職に就くが、その後に東北帝国大学工学部電気工学科に入学。1924年に卒業後そのまま大学に奉職し、当時東北帝国大学で隆盛をみた超短波をはじめとする電磁波による電気通信の研究に従事し、八木秀次とともに八木・宇田アンテナを共同発明した。
加藤 謙一(かとう けんいち、1896年〈明治29年〉5月2… 加藤 謙一(かとう けんいち、1896年〈明治29年〉5月28日 - 1975年〈昭和50年〉6月30日)は、昭和期の雑誌編集者。戦前は大日本雄辯會講談社『少年倶楽部』の編集長を務め、戦後は独力で起こした学童社から『漫画少年』を編集・刊行し、多くの漫画家を世に送り出した。国立公文書館館長の加藤丈夫は四男。 1896年、青森県弘前市に生まれる。旧制弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)卒業後、学費の不要な陸軍経理学校への進学を目指し、学科試験は合格したものの体格試験に扁平足という理由で不合格となり、やむなく弘前市立三省尋常小学校で代用教員となる。小学校長の薦めで、当時の青森師範学校(現在の弘前大学教育学部)の二部(夜間部)に1916年に入学。