吉行 あぐり(よしゆき あぐり、1907年〈明治40年〉7月… 吉行 あぐり(よしゆき あぐり、1907年〈明治40年〉7月10日 - 2015年〈平成27年〉1月5日)は、日本の美容師。 本名・吉行 安久利(読み同じ)旧姓:松本、結婚によって吉行、再婚し辻、辻没後再び吉行姓へ戻る。師である山野千枝子と共に日本における美容師の草分け的存在と言われる。 岡山県岡山市出身。岡山県立第一岡山高等女学校在学中に国内で流行していたスペインかぜで父と姉を亡くし、1923年(大正12年)に15歳で作家・吉行エイスケと婚約。翌1924年(大正13年)に長男を出産した後、日本の美容師の草分け山野千枝子のもとで2年間修行、1929年(昭和4年)に独立して、東京市麹町区土手三番町(現・千代田区五番町)・市ヶ谷駅前に村山知義設計によるダダイスム建築の傑作「山の手美容院」を開店。
九紋龍 政五郎(くもんりゅう まさごろう、1907年7月10… 九紋龍 政五郎(くもんりゅう まさごろう、1907年7月10日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。時津風部屋→粂川部屋所属。本名は原 正一。188cm、85kg。最高位は十両2枚目。 大阪府交野市出身(生まれは愛媛県)。大阪相撲の時津風部屋に入門、その後、東西合併により1927年1月、序二段に付出される。1932年1月は幕下上位にあったが、春秋園事件による大量の脱退者の穴を埋めるために翌2月場所で東十両2枚目まで番付を上げた。この場所は4勝4敗の5分、翌場所は全休と幕下に落ちた。1933年1月と1934年1月に十両に復帰したが、いずれも負け越しに終わった。1935年5月に4度目の十両昇進で勝ち越したが翌場所は3勝8敗と負け越し、幕下に落ち、その場所(1936年5月)限りで廃業した。
清水 幾太郎(しみず いくたろう、1907年7月9日 - 1… 清水 幾太郎(しみず いくたろう、1907年7月9日 - 1988年8月10日)は、日本の社会学者・評論家。学習院大学教授などを歴任。 1907年、東京市日本橋区(現在の東京都中央区)の竹屋の息子として生まれた。祖父は江戸幕府旗本であった。獨協中学、旧制東京高校を経て、東京帝国大学文学部社会学科卒業。文学部社会学科時代の恩師は戸田貞三。在学中からオーギュスト・コントの研究にいそしむ。中学時代にドイツ語を学んで堪能であったが、フランス語は大学時代に習得したものである。 大学卒業後、1931年東京帝国大学社会学研究室副手に採用された。社会学研究室副手の2代前の副手が同じ戸田貞三門下の兄弟子牧野巽で、牧野は清水を弟と思い、清水は牧野を兄と思い親しくしていた。
千眼 智見(せんがん ちけん、1907年(明治40年)7月9… 千眼 智見(せんがん ちけん、1907年(明治40年)7月9日 - 2001年(平成13年)12月2日)は、日本の哲学者。元徳島県農業大学校校長。元高野山大学教授。元徳島女子大学教授。九州帝国大学法学部卒業。徳島県美馬市出身。 美馬郡脇町(現在の美馬市)生まれ。九州帝国大学法学部卒業。高野山大学教授・徳島女子大学教授・高野山高等学校校長・徳島県立池田中学校校長・徳島県立穴吹高等学校校長・徳島県立脇町高等学校校長・徳島県立城北高等学校校長を歴任。 1969年(昭和44年)より徳島県農業大学校校長に就任。徳島文理小学校名誉校長に就任。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
谷口 寛(たにぐち ゆたか、1907年〈明治40年〉7月9日… 谷口 寛(たにぐち ゆたか、1907年〈明治40年〉7月9日 - 1994年〈平成6年〉10月3日)は、日本の内務・警察官僚。内閣官房副長官、最後の官選奈良県知事。 三重県津市出身。谷口周三郎の長男として生まれる。第八高等学校を卒業。1929年10月、高等試験行政科試験に合格。1930年、東京帝国大学法学部英法科を卒業。内務省に入省し、京都府属となる。 以後、富山県の課長、静岡県警察部警務課長、神奈川県商工課長、内務事務官、警保局勤務、岐阜県経済部長、厚生省軍事保護院職業課長、内閣参事官などを歴任。 1947年3月、前任の野村万作が知事選に出馬のため辞任したことに伴い奈良県知事に発令された。知事選挙を執行して同年4月に退任。
実方 清(さねかた きよし、1907年7月9日 - 1993… 実方 清(さねかた きよし、1907年7月9日 - 1993年8月16日)は、日本の国文学者、関西学院大学名誉教授。 千葉県東金町出身。東北帝国大学卒業。岡崎義恵に師事。1941年関西学院大学法文学部講師、42年助教授、46年教授。50年文学部長。56年図書館長。60年関西学院理事。日本文芸理論、中世和歌や歌論を研究した。63年日本文芸学会を設立、会長となる。76年大学を定年退任、名誉教授。八幡大学教授、山梨英和短期大学教授。著作集全十巻がある。
伊東 光一(いとう こういち、1907年7月8日 - 没年不… 伊東 光一(いとう こういち、1907年7月8日 - 没年不詳)は、日本の俳優。本名は前島 昌彦(まえじま まさひこ)。大映の名脇役の一人である。 1907年7月8日、静岡県伊東市に生まれる。実家は医院を経営していた。 1925年、錦城商業学校(現在の錦城学園高等学校)を卒業。1932年、松竹蒲田撮影所に入社。後に松竹大船撮影所に移り、大部屋俳優として多数の作品に脇役として出演する。 1946年2月に上原謙の一座に入り、共に実演の舞台にも立っていたが、その後は大映に移籍し、1971年の大映倒産まで脇役として長く活躍する。その後は東京俳優生活協同組合に所属し、出演を続けたが、1976年10月7日にフジテレビが放映したテレビドラマ『同心部屋御用帳 江戸の旋風II』第28話「十手の重み」に出演して以降の出演作品が見当たらず、以後の消息は不明である。
平尾 貴四男(ひらお きしお、1907年〈明治40年〉7月8… 平尾 貴四男(ひらお きしお、1907年〈明治40年〉7月8日 - 1953年〈昭和28年〉12月15日)は、日本の作曲家。 東京府東京市日本橋区(現・東京都中央区)生まれ。化粧品業を営む平尾聚泉の四男として育つ。家は裕福であった。慶應義塾幼稚舎・慶應義塾普通部を経て慶應義塾大学医学部に進んだが、文学部独文科に転じ、1930年に卒業。大学在学中、ピアノをチャーレス・ラウトロプらに、ソルフェージュと音楽理論をヴァンサン・ダンディ門下の陸軍軍楽隊長・大沼哲に、和声学を弘田龍太郎に師事した。また、卒業して8ヶ月後の11月に戸沢妙子と結婚。 1931年、夫婦でパリへ渡航。始めはスコラ・カントルムでギ・ド・リオンクール(英語版)に作曲を師事して和声学課程を修了したものの、学校紛争に巻き込まれた結果、1935年にリオンクールが創設したセザール・フランク音楽学校(英語版)に転学。
多田 留治(ただ とめじ、1907年7月8日 - 1991年… 多田 留治(ただ とめじ、1907年7月8日 - 1991年7月5日)は、昭和時代の社会運動家。日本共産党名誉幹部会委員。 兵庫県加古郡高砂町鍵町(現高砂市)生まれ。1922年高等小学校卒業後、三菱製紙高砂工場に就職。1924年10月同工場の労働組合高砂工友会の結成に参加、翌年のストライキでは指導者として活動。1928年高砂消費組合の結成に参加。同年5月組合同盟播州連合会の結成で常任執行委員。1929年10月日本共産党に入党。1930年1月日本共産青年同盟(共青)中央委員長・アジプロ部長となり上京、同年2月河原崎長十郎宅で検挙、懲役8年。1940年満期服役後、太平洋戦争勃発に伴う行政措置により、1943年再検挙。
小畑 達夫(おばた たつお、1907年7月7日 - 1933… 小畑 達夫(おばた たつお、1907年7月7日 - 1933年12月24日、満26歳没)は、日本の社会運動家である。日本共産党の党員。1933年(昭和8年)、共産党内で宮本顕治、袴田里見らにより「特高警察のスパイ」の容疑をかけられ、査問を受けていた最中に死亡した(日本共産党スパイ査問事件)。宮本や袴田はこれにより、治安維持法違反のほか、不法監禁致死罪および銃刀法違反の罪に問われた。 1907年(明治40年)、秋田県北秋田郡二井田村(現大館市)に教員の長男として生まれた。母を幼少時に亡くし、父は小学校5年生のときに死亡、実母の妹イクに育てられた。秋田県立大館中学校に進学。伯父に大杉栄の弟子がいて、影響を受け在学中から公然と天皇制を批判していた。
山屋 三郎(やまや さぶろう、1907年7月7日 - 198… 山屋 三郎(やまや さぶろう、1907年7月7日 - 1982年9月11日)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。法政大学名誉教授。 福岡県生まれ。九州帝国大学英文科卒。戦後、法政大学教授を務めた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
桜井 成夫(さくらい なるお、1907年7月5日 - 199… 桜井 成夫(さくらい なるお、1907年7月5日 - 1993年2月21日)は、フランス文学者、翻訳家、元早稲田大学教授。東京生まれ。早大仏文科卒、1978年まで早大教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
板倉 治作(いたくら じさく、1907年(明治40年)7月4… 板倉 治作(いたくら じさく、1907年(明治40年)7月4日 - 1964年(昭和39年)9月14日)は、日本の教員、実業家、政治家。衆議院議員。 新潟県中頸城郡上杉村(現上越市)で生まれる。1927年、高田師範学校を卒業し、新潟市湊小学校、三島郡日越小学校の訓導を務めた。 その後上京して、日本橋で三京堂(カーボン卸製造業)を経営した。戦災を受けて帰郷し農業を経営した。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に新潟県第二区から日本自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
閔 泳南(ミン・ヨンナム、朝鮮語: 민영남、1907年7月3… 閔 泳南(ミン・ヨンナム、朝鮮語: 민영남、1907年7月3日または7月30日 - 1986年1月8日)は、大韓民国の農林・警察官僚、政治家。馬山面(朝鮮語版)長、海南警察署・光州警察署署長、第3・6代韓国国会議員、第9・11代全羅南道知事を歴任した。 全羅南道海南郡馬山面禾内里の驪興閔氏の集姓村出身で、元国会議員の閔炳楚(朝鮮語版)は同じ村出身の親戚である。京都帝国大学(現・京都大学)農学部林学科卒。農政実務を経て馬山面長、海南警察署・光州警察署署長、農林部林産課長・林政課長・造林課長を歴任した。1954年の第3代総選挙では前の国会議員選挙で2度も落選した弟の後継として海南郡乙選挙区から立候補し、金采庸、朴祺培らとの8人の戦いを勝ち抜いて無所属の民議員に当選し、その後は民主党に入党した。
中山 一郎(なかやま いちろう、1907年(明治40年)7月… 中山 一郎(なかやま いちろう、1907年(明治40年)7月3日 - 1995年(平成7年)6月11日)は、日本の技術者、実業家。日本軽金属社長や、電気化学協会会長、軽金属学会会長、日本アルミニウム連盟(現日本アルミニウム協会)会長等を歴任した。 千葉県千葉市出身。1930年東京工業大学窯業学科卒業。1933年東京工業大学応用化学科卒業。1944年日本軽金属入社。1961年日本軽金属取締役に昇格。1963年日本軽金属常務取締役。1965年日本軽金属取締役副社長。1967年日本軽金属取締役社長、日本ゼオン監査役。1968年藍綬褒章受章。1970年アルミニウム資源開発を設立し同社取締役社長に就任。同年沖縄アルミニウムを設立し同社取締役社長に就任。
安住 敦(あずみ あつし、1907年7月1日 - 1988年… 安住 敦(あずみ あつし、1907年7月1日 - 1988年7月8日)は、俳人、随筆家。前号・安住あつし。 東京市芝区生まれ。1917年に福島県平町(現・いわき市)に移り磐城中学に入学。1923年、父の事業の失敗のため東京に戻り、立教中学校に転入、1926年卒業。逓信官吏練習所を卒業を経て1928年に逓信省簡易保険局に入所。父の事業の失敗で上級学校に進めなかったことは、俳人として名をなして以降もつねに意識のなかにあったという。 1930年、同僚に誘われて短歌結社「覇王樹」に入会し、短歌を橋田東声に師事。同時期にやはり同僚に誘われ、上司の富安風生が主宰する「若葉」に入会し俳句を風生に師事。以後8年の間短歌と俳句をともに続ける。
楢原 健三(ならはら けんぞう、1907年6月30日 - 1… 楢原 健三(ならはら けんぞう、1907年6月30日 - 1999年8月14日)は、洋画家、日本芸術院会員。
勝木 司馬之助(かつき しばのすけ、1907年6月30日 -… 勝木 司馬之助(かつき しばのすけ、1907年6月30日 - 1993年4月20日)は、日本の医師。熊本大学教授、九州大学教授、宮崎医科大学(現・宮崎大学医学部)初代学長を務めた。脳血管障害のコホート研究である久山町研究を始めた。長男は分子生物学者の勝木元也。 若い時は、脳橋と呼吸調節中枢や、熊本大学時代は、間脳の臨床を行ったが、九州大学の教授になってから、福岡県糟屋郡久山町における脳血管障害の疫学的研究を始めた。1961年春から全教室員協力のもとに40歳以上の男女全住民を対象として循環器検診から開始した。その際、死亡者の解剖を重視し、1963年以降は剖検率は90%以上を維持、対象者全員を全員追跡するという徹底した疫学的調査が行われた。
内田 常雄(うちだ つねお、1907年〈明治40年〉6月30… 内田 常雄(うちだ つねお、1907年〈明治40年〉6月30日 - 1977年〈昭和52年〉12月29日)は、日本の政治家。厚生大臣(第47代)、経済企画庁長官(第24代)、衆議院議員(9期)。 旧制松本高等学校文科甲類、東京帝国大学経済学部卒。1930年、大蔵省入省。入省同期に河野一之(大蔵事務次官)、渡辺武(財務官)ら。管財局属。 戦後、経済安定本部財政金融局長、大蔵省管財局長などを経て、1952年に山梨全県区から衆院選に立候補し初当選。自民党内派閥は宏池会(池田勇人→前尾繁三郎→大平正芳派)に所属。1970年1月、第3次佐藤内閣の厚生大臣として初入閣。第2次田中角栄第1次改造内閣で経済企画庁長官をつとめる。
丸岡 明(まるおか あきら、1907年6月29日 - 196… 丸岡 明(まるおか あきら、1907年6月29日 - 1968年8月24日)は、日本の小説家。 東京市麹町にて、落合直文門下の歌人で能楽書林を設立した丸岡桂の長男として生まれる。祖父は沖縄・高知の県知事を務めた丸岡莞爾。暁星中学校から慶應義塾予科を経て、慶應義塾大学仏文科卒。在学中、水上滝太郎の知遇を得て1930年に『三田文学』に「マダム・マルタンの涙」を発表してデビューした。のち堀辰雄に師事し、1935年「生きものの記録」を『三田文学』に発表する。 1966年「静かな影絵」「街の灯」で芸術選奨文部大臣賞を受賞。『堀辰雄全集』編纂委員を務めた。能の解説、編集も多く、原民喜をモデルとした『贋きりすと』などを書いた。
織田 武雄(おだ たけお、1907年6月29日 - 2006… 織田 武雄(おだ たけお、1907年6月29日 - 2006年10月18日)は、日本の地理学者(人文地理学)。京都大学名誉教授。 1907年、京都府京都市生まれ。京都府立一中、七高を経て、1929年に京都帝国大学文学部に進学。地理学を専攻し、1932年に同大学文学部を卒業。 卒業後は、龍谷大学予科、関西学院高等商業学校、立命館大学講師を務めた。1940年、関西学院高等商業学校教授に就任。 1946年4月、立命館大学文学部教授に就任。しかし、翌1947年3月に母校である京都大学文学部助教授に転じた。これは、戦中京都大学地理学教室は地政学研究に走ったため、戦後全ての教官が辞任することとなったためであった。
渡瀬 譲(わたせ ゆずる、1907年6月29日 - 1978… 渡瀬 譲(わたせ ゆずる、1907年6月29日 - 1978年5月17日)は、日本の物理学者。宇宙線研究の草分けとして著名で、大阪市立大学学長を務めた。大阪市北区出身。 実家は、大阪・梅田の阪神百貨店の西側にあった木造3階建て旅館「国有館」。 天王寺師範学校附属小学校、大阪府立生野中学校、姫路高等学校を経て、京都帝国大学経済学部に進学。河上肇の弟子となり、唯物弁証法を学んだ。1930年に卒業後、唯物弁証法を実践するため東北帝国大学理学部に入り直し、物理学を学んだ。1933年の卒業前に東芝に就職が内定していたが、採用を取り消されたため、学究の道に進路変更し、1933年に新設された大阪帝国大学理学部の助手になった。
高島 重孝(たかしま しげたか、1907年6月29日 - 1… 高島 重孝(たかしま しげたか、1907年6月29日 - 1985年1月23日)は、日本の医学者、皮膚科医。ハンセン病治療に貢献した。国立療養所栗生楽泉園、東北新生園、傷痍軍人武蔵療養所、同愛媛療養所、傷痍軍人駿河療養所(所長;国立駿河療養所)、国立療養所長島愛生園(園長)に勤務した。長島愛生園と本土を結ぶ、長島架橋に努力した。 1907年6月29日 東京府東京市麻布区(現・東京都港区麻布)に生まれる。1931年3月 慶應義塾大学医学部卒業。1931年4-8月 同予防医学教室助手。1933年2月 国立らい療養所栗生楽泉園嘱託。4月同医官。1938年9月 国立らい療養所東北新生園勤務。1940年8月 慶應義塾大学 医学博士 論文の題は 「癩の罹患素質と家庭内伝染について」。
小早川 元治(こばやかわ もとはる、明治40年(1907年)… 小早川 元治(こばやかわ もとはる、明治40年(1907年)6月27日 - ?)は、日本の自動車技術者。 男爵小早川家の当主。位階は正五位。旧姓名は毛利元治。 東京府出身。明治40年(1907年)、第29代毛利宗家当主の毛利元昭の次男として生まれる。その後、叔父にあたる男爵・小早川四郎の養子となる。広島の旧制崇徳中学校、日本大学旧工学部(現日本大学理工学部)を卒業。崇徳中学校時代には弁論部で活躍、大学時代にはディーゼル機関の研究を行っていた。卒業後は日産自動車の技術者となる。また、ジェントルマンドライバー (アマチュアドライバー) としても活動し、イギリスからMG・K3マグネットを入手して多摩川スピードウェイに参戦するなどしたという。
山本 弥之助(やまもと やのすけ、1907年(明治40年)6… 山本 弥之助(やまもと やのすけ、1907年(明治40年)6月27日 - 1986年(昭和61年)4月11日)は、日本の警察・朝鮮総督府官僚、政治家、弁護士。衆議院議員、盛岡市長。位階は従四位。 本籍・岩手県。山本幸太郎の長男として大阪市に生まれる。第三高等学校を卒業。1931年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1932年、京都帝国大学法学部を卒業。朝鮮総督府に入府し内務局属となる。 以後、朝鮮総督府道理事官、平安北道学務課長、忠清南道地方課長、京畿道学務課長、総督府殖産局事務官、黄海道警察部長、咸鏡北道警察部長、総督府書記官・警務局経済警察課長などを歴任。 1944年7月、岩手県部長・警察部長へ転任。
内田 吟風(うちだ ぎんぷう、1907年(明治40年)6月2… 内田 吟風(うちだ ぎんぷう、1907年(明治40年)6月26日 - 2003年(平成14年))は、日本の東洋史学者、神戸大学名誉教授。 1907年、東京にドイツ語学者・内田新也の次男として生まれる。1931年京都帝国大学文学部東洋史学科卒。同助手、東方文化研究所研究嘱託。神宮皇學館大學助教授、(旧制)姫路高等学校教授、1949年神戸大学文学部教授。文学部長、1956年「古代アジア遊牧民族史の研究」で京都大学文学博士。1971年神戸大を定年退官、名誉教授、佛教大学教授、龍谷大学教授。1978年勲三等旭日中綬章受勲。
樋上 新一(ひがみ しんいち、1907年6月25日 - 19… 樋上 新一(ひがみ しんいち、1907年6月25日 - 1980年1月7日)は、日本の政治家。元衆議院議員(2期)。 1907年(明治40年)6月25日に生まれる。京都市立商工専修学校(後の京都市立堀川高等学校専修夜間部)卒業。 1963年に京都市議会議員選挙に立候補し当選、1期務める。 1967年1月29日、第31回衆議院議員総選挙に、京都1区から公明党公認候補として立候補し、初当選する(以降、連続2期)。 1972年12月、第33回衆議院議員総選挙に落選。選挙地盤を公明党の竹内勝彦に譲り、政界から引退する。 1980年1月7日、死去。72歳没。同月11日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付で正五位勲三等に叙され、旭日中綬章を追贈された。
片山 武夫(かたやま たけお、1907年(明治40年)6月2… 片山 武夫(かたやま たけお、1907年(明治40年)6月25日 - 1979年(昭和54年)4月20日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(1期)。 福井県今立郡鯖江町(現鯖江市)出身。生家は織物業を営んでいたが5歳の時に破産し一家で上京した。働きながら独学し、1924年(大正13年)東京市神田区の電機学校(現東京電機大学)電気科を卒業した。 1924年、東京電燈に入社し、横浜支店に配属された。1945年(昭和20年)11月、関東配電労働組合の結成に従事。1946年(昭和21年)5月、関東配電労組中央執行委員に就任。日本電気産業労働組合協議会(電産)関東地方本部副委員長であった1949年(昭和24年)10月、電産の退職金闘争の際に電産本部が要求を下回る内容で妥結したことに抗議して同副委員長を辞職した。
靉光(あいみつ、1907年6月24日 - 1946年1月19… 靉光(あいみつ、1907年6月24日 - 1946年1月19日)は、日本の洋画家。昭和前期(戦前・戦中期)に活動した。本名は石村 日郎(いしむら にちろう)。 靉光はシュールレアリズム風や宋元画風など特異な画風で知られるが、生前に多くの作品を破棄した上、残された作品も原爆で失われたことからその数は非常に少ない。将来性を大いに嘱望されていたが敗戦後に戦地からの復員を待たず、38歳で病死した。 戦時下の状況から、靉光は戦争画を描く事を当局より迫られ「わしにゃあ、戦争画は(よう)描けん。どがあしたら、ええんかい」と泣くようにいったという。 東京国立近代美術館(MOMAT)の入り口に作品が飾られているほど近代美術にとって重要な人物である。
阪本 安一(さかもと やすいち、1907年6月23日 - 1… 阪本 安一(さかもと やすいち、1907年6月23日 - 1992年4月1日)は、日本の会計学者。学位は、経営学博士(神戸大学・論文博士・1962年)。神戸商科大学名誉教授・元学長。1978年授勲勲三等旭日中綬章。 兵庫県出身。1932年(昭和7年)神戸商業大学経営学科卒業後、神戸支店(現・神戸阪急)の三宮移転要員を大量募集していたそごう(十合呉服店)に入社。本部人事課、大阪営業部室などに在籍するも、1938年(昭和13年)に退職し、学者を志望。以降、神戸商大に勤務する。 1950年(昭和25年)「会計主体論としての企業体理論に関する研究」で、神戸大学より経営学博士の学位を取得。神戸高等商業学校教授、神戸商科大学教授、1960年(昭和35年)神戸商科大学の学長となり、1973年(昭和48年)定年退官、名誉教授、同年に大阪学院大学商学部教授、さらに商学部学部長を務めた。
渡邊 武男(わたなべ たけお、1907年6月23日 - 19… 渡邊 武男(わたなべ たけお、1907年6月23日 - 1986年12月18日)は、日本の地球科学者。専門は、鉱床学・鉱物学。学位は、理学博士(東京帝国大学・論文博士・1943年)。東京大学名誉教授。東京牛込生まれ。父は陸軍中将・渡辺寿(わたなべ ひさし)。 各種鉱床の調査、生成過程の研究を発展させ、鉱床探査にも寄与した。特に日本に多くみられる黒鉱鉱床・含銅硫化鉄鉱鉱床(キースラーガー鉱床)・層状マンガン鉱床については、従来鉱床の形成は、その周囲の岩石(母岩)より後の時代に形成されたとする説(後成鉱床説)が有力であったが、鉱床は母岩と同時期に形成されたとする同成鉱床説を唱え、多くの観察事実から、この説を不動のものとし、世界の鉱床学に大きく貢献した。
西郷 吉之助(さいごう きちのすけ、1906年〈明治39年〉… 西郷 吉之助(さいごう きちのすけ、1906年〈明治39年〉7月20日 - 1997年〈平成9年〉10月12日)は、日本の政治家、華族。位階は正三位。 法務大臣、参議院議員、貴族院議員。侯爵。西郷隆盛の嫡男である西郷寅太郎の三男。 鹿児島県で生まれ、東京で育つ。学習院を経て、東北帝国大学経済学科卒業。学習院時代の同期には日中戦争で戦死した南郷茂章などがいた。祖父隆盛と同じく、堂々とした体躯で知られた。 興銀に入り、その後は南方開発金庫の参事、ジャワ支金庫業務課長を経て、貴族院議員(1936年(昭和11年) - 1947年(昭和22年))、1947年鹿児島県選挙区より参議院議員に当選。以後当選4回。
李 瑞漢(り ずいかん、1906年7月20日 - 1947年… 李 瑞漢(り ずいかん、1906年7月20日 - 1947年3月?)は、日本統治時代の台湾および中華民国の法律家。台湾苗栗県竹南鎮出身。二・二八事件で失踪している。 1926年、李瑞漢は台中一中卒業後、日本内地の中央大学法学部に留学し、在学中に弁理士試験に合格している。1929年に中央大学卒業後も大学に留まり研究を続け、翌年高等試験司法科に合格している。その後台湾に戻った李瑞漢は台北市永楽町で弁護士事務所を開業している。 1945年の日本の降伏により、台湾は国民党率いる中華民国に接収された。李瑞漢は台北市律師公会会長に選出された。1947年に二・二八事件が勃発すると、李瑞漢は3月初に台北市律師公会課会議を招集し、台湾行政長官であった陳儀に対し改革を具申し、同時に強烈な政府批判を行った。
西山 真一(にしやま しんいち、1906年7月20日 - 1… 西山 真一(にしやま しんいち、1906年7月20日 - 1989年4月19日)は、洋画家、日本芸術院会員。 福井県鯖江市出身。福井師範学校(現・福井大学教育地域科学部)卒。鈴木千久馬、辻永に師事。1931年帝展初入選。人物画で出発し、戦後のパリ留学時代に風景画に転換。1980年日本芸術院賞受賞。1984年日本芸術院会員。光風会常任理事。『西山真一画集』(六芸書房、2000)がある。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
岩崎 盈子(いわさき えいこ、1906年7月19日 - 19… 岩崎 盈子(いわさき えいこ、1906年7月19日 - 1935年5月14日)は、日本の社会活動家、フェミニスト、評論家である。 日本女子大学校卒業後、大阪府庁の社会課に委託職員として勤める。日本共産党の秘密党員であった川上貫一は上司であり、その影響で岩崎も日本共産党に秘密入党して社会運動に携わりつつ、女性や児童についての評論活動を行った。1933年、昭和8年大阪共産党大検挙事件で治安維持法の容疑で逮捕、1935年5月に結核に罹患して病死した。享年29歳。病死する直前に評論集「婦人と児童の問題」を刊行した。岩崎の評論集は1995年に久山社から再版されている。友人に松本員枝がいる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
遠山 景光(とおやま かげみつ、1906年〈明治39年〉7月… 遠山 景光(とおやま かげみつ、1906年〈明治39年〉7月16日 - 1980年〈昭和55年〉12月20日 )は、日本の政治家。東京都議会議員、東京都千代田区長などを務めた。千代田区名誉区民。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 弟にアールエフラジオ日本会長を務めた遠山景久がいる。 父親は京浜実業家名鑑 寄与者:遠山景澄。 神田神保町出身。1924年に神田三崎町の旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一中学校・高等学校)卒業。1936年中央大学専門部商科卒業。その翌年に東京市神田区議会議員に当選。2期務め、区議会副議長にも就く。1947年に東京都議会議員・千代田区議会議員に当選。 1960年5月20日、第4代官選千代田区長に就任。
市丸(いちまる、1906年7月16日 - 1997年2月17… 市丸(いちまる、1906年7月16日 - 1997年2月17日)は、昭和期の芸者歌手。本名は後藤 まつゑ(ごとう まつえ)、後藤聿古(いつこ)とも名乗っていた。端唄や小唄では江戸小歌市丸(えどこうた いちまる)の名前で活動した。江戸小歌中村派17世家元。近衛文麿の愛人でもあった。 明治39年(1906年)7月16日、長野県松本市で生まれる。本名、後藤まつゑ。16歳のとき、松本市の奥座敷として知られる浅間温泉で半玉(芸者見習い)となり、蝶々と名乗った。客に求められた長唄を知らず悔しい思いをしたことがきっかけとなり、単身19歳で上京。大正15年(1926年)6月18日、浅草の一松家から市丸の名で芸者お披露目し、清元・長唄・小唄それぞれで名取となるまでの精進を重ねた。
小野卓爾(おの たくじ、1906年7月14日 - 1991年… 小野卓爾(おの たくじ、1906年7月14日 - 1991年2月20日)は、北海道白老郡白老町出身のサッカー選手、サッカー指導者。 北海道庁立札幌第一中学校(現:北海道札幌南高等学校)を経て、1927年に中央大学法学部英法科に入学。在学中に札幌一中時代のチームメイトと共にサッカー部を創部した。 1933年に大学を卒業し、1935年より日本蹴球協会(現:日本サッカー協会、JFA)代議員に就任し、同年の第1回日満親善蹴球大会では選手団団長。1936年のベルリンオリンピックでは日本代表に帯同し総務全般を担当した。 1951年、JFA常務理事に就任し総務・財務といった実務を担当。1974年からはJFAの財団法人化に伴い専務理事に就任した。
田中 二郎(たなか じろう、1906年(明治39年)7月14… 田中 二郎(たなか じろう、1906年(明治39年)7月14日 - 1982年(昭和57年)1月16日)は、日本の法学者。専門は行政法、租税法。東京大学名誉教授。兵庫県出身。1964年 - 1973年最高裁判所判事。1976年日本学士院会員、1980年文化功労者。位階は従二位。美濃部達吉門下。弟子に塩野宏、雄川一郎、藤田宙靖など。
福島 正夫(ふくしま まさお、1906年7月11日-1989… 福島 正夫(ふくしま まさお、1906年7月11日-1989年12月14日)は、昭和・平成期の法制史学者・弁護士。社会主義法学・比較法学・日本近代法制史などの研究において業績を残した。 静岡県磐田郡見付町(現在の磐田市)出身。東京府立第五中学校・第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部法律学科に入る。穂積重遠・末弘厳太郎の指導を受け、1928年には在学のまま高等文官試験行政科に合格。 1929年(昭和4年)の卒業後は日本不動産に入社しながら学問を続け、1931年には高等文官試験司法科にも合格し、翌年には弁護士登録を行う。ところが、1934年(昭和9年)に日本共産党に資金提供をしていたとして治安維持法違反で摘発されたために会社を退社に追い込まれ、同年東京帝国大学大学院に再入学、我妻栄の下で土地法の研究を行う。
中野 五郎(なかの ごろう、1906年7月11日 - 197… 中野 五郎(なかの ごろう、1906年7月11日 - 1972年10月14日)は、日本の新聞記者、軍事史研究者、翻訳家。 東京府出身。東京帝国大学卒業後、東京朝日新聞に入社。太平洋戦争開戦当時はニューヨーク特派員を務めており、アメリカ政府により抑留される。開戦の翌1942年に交換船により帰国した。帰国後の1943年に『祖国に還へる』を公刊し、開戦直前から帰国に至る経緯で、アメリカ政府への最後通告遅延問題に関し議論の対象となる新庄健吉陸軍大佐の葬儀に出席した模様が記されている。 占領下の1948年に朝日新聞を退社。以降は第二次世界大戦を中心とした軍事関係の著述家・翻訳者となる。1972年に死去。 加藤哲郎によると、戦前に偽名を使って日本で活動していた労農赤軍本部のスパイであるアイノ・クーシネンが著書で「中野男爵」と記している人物は、中野のことであるとみられる。
兎束 龍夫(うづか たつお、1906年(明治39年)7月9日… 兎束 龍夫(うづか たつお、1906年(明治39年)7月9日 - 1985年(昭和60年)3月7日)は、日本のヴァイオリニスト。 旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1930年東京音楽学校卒業。安藤幸子らに師事しヴァイオリンを習う。1937年母校助教授。1947年教授。弦楽科主任・管弦楽部長となる。室内楽の研究と演奏活動の傍ら、付属音楽高等学校校長も兼務。1974年退官して東京芸術大学名誉教授。後に昭和音楽大学副学長となる。 大谷康子、澤和樹、篠崎功子、島根恵、海野義雄、向島ゆり子など多くの門下生がいる。全日本学生音楽コンクールや日本音楽コンクールなど多くのコンクールでも審査員を務め、彼の死後の1989年には全日本学生音楽コンクールのヴァイオリン部門の一位におくられる賞が兎束賞と名付けられた。
刈谷 亨(かりや とおる、1906年7月8日 - 2003年… 刈谷 亨(かりや とおる、1906年7月8日 - 2003年12月18日)は、日本の経営者。蝶理社長を務めた。 新潟県出身。1931年に東京帝国大学火薬科を卒業し、同年に旭化成に入社。1946年に旭化成に転じ、1947年に常務を経て、1963年7月から1975年5月までに副社長を務め、1975年5月には蝶理社長に就任。1978年6月から常任相談役を務めた。 1971年11月に藍綬褒章を受章し、1981年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2003年12月18日慢性呼吸不全のために死去。97歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
長谷川 濬(はせがわ しゅん、1906年7月4日 - 197… 長谷川 濬(はせがわ しゅん、1906年7月4日 - 1973年12月16日)は、日本の詩人・作家・ロシア文学者。 父・清(後に淑夫に改名)と母・ユキの三男として函館市元町に生まれる。1925年、函館中学を卒業すると、兄海太郎の勧めもあって4年の間漁船に乗った。1932年、大阪外国語学校露語科を卒業し、満州国の新政府資政局自治指導部訓練所(後の大同学院)に入る。大同学院を一期生として卒業し、満州国外交部を経て、満州映画協会に勤務する。1938年、北村謙次郎や仲賢礼らと雑誌『満州浪曼』を発刊する。1941年3月1日、満映の映画人養成所を開業し、同年11月には株式会社満州電影総社を設立する。この頃、ニコライ・バイコフの「偉大なる王」を文藝春秋から翻訳する。
岩越 忠恕(いわごし ただひろ、1906年 <明治39年> … 岩越 忠恕(いわごし ただひろ、1906年 <明治39年> 7月4日- 1981年 <昭和56年> 3月19日)は、日本の経営者。日産自動車社長。位階は正四位。 鳥取県出身。旧制仙台一中、旧制弘前高校を経て、1931年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業。東京乗合自動車での勤務を経て、1937年に日産自動車に転じ、1952年11月に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1973年11月から1977年6月までに社長を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1976年11月に勲二等旭日重光章を受章した。 1981年3月19日、肝不全のために死去。74歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
藤井 貞文(ふじい さだふみ、1906年7月4日 - 199… 藤井 貞文(ふじい さだふみ、1906年7月4日 - 1994年6月12日)は、日本の歴史学者。國學院大學名誉教授。専門は、近世から近代に至る日本思想史。 山口県下関市の神職の家に生れた。1924年に旧制唐津中学校を卒業。國學院大學に進学し、折口信夫の門下で学んだ。1929年に国史学科卒業。 卒業後は維新史料編纂事務局編纂事務嘱託に採用された。維新史料編纂官補として勤務し、1938年から維新史料編纂官。しかし、1942年の官制廃止にともない退職。1943年からジャカルタ医科大学教授となるが、敗戦により帰国。 復員後は、1946年から帝国図書館・国立国会図書館に勤務。1951年、学位論文『明治初世に於ける国学の展開』を國學院大學に提出して文学博士号を取得。
今泉 貞雄(いまいずみ さだお、1906年(明治39年)7月… 今泉 貞雄(いまいずみ さだお、1906年(明治39年)7月4日 - 1995年(平成7年)1月28日)は、日本の技術者、実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 福島県安積郡桑野村(現郡山市)で、農家の7人兄弟の末子として生まれた。小学校卒業後、進学を希望していたが家庭の経済状況が許さず、上京して丁稚奉公を行う。奉公先の好意で夜間学校に通学し、種々の職業を経ながら1929年(昭和4年)日本大学専門部工科機械科を卒業した。 三共に入社しオートバイ部門で勤務。その後、中島飛行機荻窪工場社員、新田 (株) 昭和内燃機製作所工場長を歴任。中野友禮の資金援助を受けて1938年(昭和13年)今泉精機を東京葛飾に設立し、白河分工場も設けたが終戦に伴い閉鎖して帰郷した。
広瀬 正雄(ひろせ まさお、戸籍上では「廣瀨 正雄」、190… 広瀬 正雄(ひろせ まさお、戸籍上では「廣瀨 正雄」、1906年7月3日 - 1980年12月3日)は、日本の政治家。日田市長、衆議院議員(自由民主党所属)。 佐藤内閣郵政大臣。
國ノ濱 源逸(くにのはま げんいつ、1906年7月3日 - … 國ノ濱 源逸(くにのはま げんいつ、1906年7月3日 - 1986年12月20日)は、鹿児島県姶良郡(現・霧島市)出身で井筒部屋に所属した大相撲力士。本名は中馬 源逸(ちゅうま げんいつ)。現役時代の体格は身長170cm、体重109kg、得意手は押し。最高位は西前頭5枚目(1932年2月場所、3月場所)、血液型はB型。 同郷の9代井筒(第25代横綱・西ノ海嘉治郎 (2代))の勧めで入門、1923年5月場所初土俵。1924年5月場所序二段。病気のため1926年5月場所一旦序ノ口に陥落したが、その後は順調に昇進した。1928年10月場所、三段目で6戦全勝の優勝同点の成績を挙げて幕下入り。1931年5月場所は幕下筆頭で4勝4敗の五分、10月場所は3勝3敗のこれまた五分の成績だったが、1932年1月の春秋園事件で協会に残ったために2月場所でラッキーな新入幕を果たした。
南郷 茂章(なんごう もちふみ、1906年〈明治39年〉7月… 南郷 茂章(なんごう もちふみ、1906年〈明治39年〉7月1日 - 1938年〈昭和13年〉7月18日)は、日本の海軍軍人。海兵55期。日中戦争における撃墜王。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少佐。 1906年(明治39年)7月1日、広島県安芸郡江田島村(現江田島市)で当時海軍兵学校幹事の父・南郷次郎少佐(最終階級、少将)の長男として生まれる。本籍は東京府(現・東京都)。性格は豪快で人懐っこく頭脳明晰、体格は大きくなかったが、幼少から柔道に上達し体力は優れていた。祖父に元老院議官で海軍省高官の南郷茂光がいる。弟に太平洋戦争のニューギニアの戦いで活躍し「ニューギニアは南郷で持つ」と称えられた陸軍飛行第59戦隊第2中隊長として有名な 撃墜王の南郷茂男(1944年1月23日、戦死。