越ノ海 東治郎(こしのうみ とうじろう、1906年7月1日 … 越ノ海 東治郎(こしのうみ とうじろう、1906年7月1日 - 1973年1月24日)は、新潟県西頸城郡根知村(現:新潟県糸魚川市)出身の元大相撲力士。本名は渡邊 東治郎(わたなべ とうじろう)(旧姓:加藤)。 1906年7月1日に新潟県西頸城郡根知村(現:新潟県糸魚川市)で生まれる。1925年1月場所で若藤部屋から初土俵を踏んだ。1931年5月場所で新十両昇進を果たすも1場所で幕下に陥落したが、1932年1月6日に勃発した春秋園事件によって、2月場所の改正番付では十両に格上げされ、1932年5月場所で新入幕を果たした。右四つからの上手投げは豪快かつ強力だったが、連敗癖のために幕内上位へは上がれなかった。
朱牟田 夏雄(しゅむた なつお、1906年6月29日 - 1… 朱牟田 夏雄(しゅむた なつお、1906年6月29日 - 1987年10月18日)は、日本の英文学者。東京大学名誉教授。
尾澤 喜雄(おざわ よしお、1906年6月29日 - 197… 尾澤 喜雄(おざわ よしお、1906年6月29日 - 1977年9月7日)は、日本の教育者・文学者(俳文学)。岩手大学名誉教授。俳号は白路(はくろ)。旧姓は片瀨(かたせ)。姓の「澤」は旧字体のため、新字体で尾沢 喜雄(おざわ よしお)とも表記される。 東京府立第二高等女学校教諭、埼玉県立久喜高等女学校教諭、長野県篠ノ井高等女学校教諭、長野市立中学校教諭、岩手師範学校教授、岩手大学学芸学部教授、岩手大学教育学部教授などを歴任した。 1906年6月、片瀨政十郞の二男として生まれたが、尾澤惠の養子となった。長野県北安曇郡七貴村出身。長野師範学校、旧制の松本高等学校の文科を経て、東京帝国大学に進学し、文学部の国文学科にて国文学を学んだ。
植田 義巳(うえだ よしみ、1906年6月28日 – 199… 植田 義巳(うえだ よしみ、1906年6月28日 – 1996年11月9日)は、東京都出身の日本のバスケットボール選手・指導者。 選手としては1928年から1934年まで東京商科大学(現一橋大学)に所属し、全日本選手権2度優勝。1959年からは日本オリンピック委員会(JOC)、国際バスケットボール連盟(FIBA)委員をそれぞれ1989年まで務め、アジアバスケットボール連盟(現・FIBAアジア)の設立にも関わった。 1960年ローマオリンピックでは全日本マネージャーを務めた。 2007年、日本人で初めてFIBA殿堂に表彰された。 この項目は、バスケットボール関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:BASKET)。
真田 南海夫(さなだ なみお、1906年(明治39年)6月2… 真田 南海夫(さなだ なみお、1906年(明治39年)6月28日 - 1999年(平成11年)2月15日)は、日本の経営者。扇興運輸(現:センコー)元社長。兵庫県西宮市在籍。 香川県高松市近くで生まれる。1913年(大正2年)兵庫県尼崎市に転居。1919年(大正8年)5月、同郷の富田正次(高松市出身)が創業した海運業者の富田商会(現:センコー)に入社。その傍ら1924年(大正12年)中之島商工学校を卒業。1946年(昭和21年)7月扇興運輸設立と共に常務に就任。1952年(昭和27年)7月専務を経て、1955年(昭和30年)2月社長に就任。1966年(昭和41年)11月(代表)会長に就任し、1972年(昭和47年)11月から相談役を務めた。
竹村 奈良一(たけむら ならいち、1906年6月27日 - … 竹村 奈良一(たけむら ならいち、1906年6月27日 - 1978年11月17日)は、日本の政治家、農民運動家。衆議院議員(日本共産党公認、1期)、日農統一派総本部書記長などを歴任。 奈良県高市郡金橋村(現・橿原市)出身。青年時代より農民運動に関わり、1929年に全農奈良県連争議部長に就任。1931年には、同県生駒郡片桐村満願寺での小作争議に連座した廉で検挙、懲役2ヶ月・執行猶予3年の判決を受ける。その後、全農が方針転換したことに伴い日本農民連盟へ移籍。 戦後は日本農民組合奈良県支部書記長に就任するが、1949年に組合が分裂した際は容共の統一派に属し、常任中央委員を経て書記長となる。この間1949年の衆院選に奈良県全県区から出馬し初当選。
峯村 光郎(みねむら てるお、1906年6月26日 - 19… 峯村 光郎(みねむら てるお、1906年6月26日 - 1978年2月18日)は、日本の法学者。慶應義塾大学名誉教授。 専門は法哲学、経済法、労働法。 長野県上水内郡水内村(現長野市)出身。旧制長野中学(長野県長野高等学校)を経て慶應義塾大学法学部卒。 慶應義塾大学助教授、1938年教授。1948年法学博士。のちに同大学法学部長。1972年定年退任、名誉教授、國學院大學教授。日本法哲学会理事長。 1976年勲一等瑞宝章叙勲。 1949年の公共企業体等労働関係法の施行以降には、公共企業体の労働関係問題に深く携わり、1956年からは公共企業体等労働委員会(中央労働委員会の前身)の会長代行、会長を務めた。
足立 一平(あだち いっぺい、1906年6月26日 - 19… 足立 一平(あだち いっぺい、1906年6月26日 - 1957年11月27日)は、日本の教育者、政治活動家。岩津農商学校(現・愛知県立岩津高等学校)の創立者として知られる。 愛知県額田郡広幡町(現・岡崎市)に生まれる。岡崎市立広幡尋常高等小学校、愛知県岡崎中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)、大阪外国語学校ドイツ語科を卒業。文部省在外研究員としてドイツに留学。ベルリン大学卒業後、ソビエト連邦、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、スウェーデン、中華民国などを視察した。また、フランスのニースで開かれた国際新教育会議に日本代表として出席した。 1933年(昭和8年)に帰国し、神戸高等商船学校教授に就任。
鄭 甲柱(チョン・ガプチュ、朝鮮語: 정갑주、1906年6月… 鄭 甲柱(チョン・ガプチュ、朝鮮語: 정갑주、1906年6月26日または6月27日 - 1963年9月8日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の校長、警察署長、政治家。第3代韓国国会議員。 号は南荷(ナマ、남하)。 慶尚南道泗川郡(現・泗川市)出身。三千浦公立普通学校(現・三千浦初等学校(朝鮮語版))、普成専門学校法科、中央大学法学部卒。日本統治時代は朝鮮学生研究会幹部、新幹会学生部長、光州学生事件普専学生代表、国際学生友交会朝鮮学生代表、東京朝鮮キリスト教青年会理事、東京留学生英語会会長を歴任した。光復後は韓国民主党中央執行委員、東莱韓国キリスト教青年会理事、国際韓国反共会韓国代表、学校法人普興義塾傘下の三千浦中学校・三千浦高等学校・三千浦女子中学校・三千浦女子高等学校の校長、大田警察署長、清州警察署長、警察専門学校教授、泗川教育会会長、三千浦水利組合創立委員長、財団法人普興義塾初代校長・理事長・終身名誉校長、自由党所属の国会議員を務めた。
大槻 武二(おおつき たけじ、1906年6月26日 - 20… 大槻 武二(おおつき たけじ、1906年6月26日 - 2004年9月10日)は、日本のキリスト教伝道者。福音主義信仰を基軸にし、聖イエス会を創立した。 1936年、日本ホーリネス教会 (きよめ教会) の伝道師であった大槻武二は奉天 (後の瀋陽市、当時関東軍の拠点の一つ) での開拓伝道の任命を受け、奉天聖潔教会に赴任。1938年1月9日、鮮明な聖霊のバプテスマを体験し、キリストの内住を確信するに至る。以降、大槻の祈りによって活発に聖書に書かれているような神癒 (病の癒し) が起こるようになった 。1942年日本に帰国し各地のキリスト教会から招聘を受け巡回伝道を続けたが、1946年聖霊の導きにより聖イエス会を創立。
金澤 覚太郎(かなざわ かくたろう、1906年(明治39年)… 金澤 覚太郎(かなざわ かくたろう、1906年(明治39年)6月23日 - 1970年(昭和45年)9月15日)は、日本の放送人、放送研究家である。岡山県高梁市出身。姓は常用漢字体で「金沢」とも表記される。 岡山県高梁市に生まれる。1919年(大正8年)、地元の旧制岡山県立高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に進み、同期に石川達三などがいた。1924年(大正13年)に旧制第六高等学校文科乙類に進み、1927年(昭和2年)に卒業する。東京帝国大学へ進学し、1930年(昭和5年)に東京帝国大学法学部を卒業した。 1933年(昭和8年)に満洲電信電話に入り放送に従事、新京中央放送局長、満州放送総局副局長などを務めた。
小澤 武(こざわ たけし、1906年(明治39年)6月23日… 小澤 武(こざわ たけし、1906年(明治39年)6月23日 - 1985年(昭和60年)3月28日)は、日本の剣道家。段位は範士八段(全日本剣道連盟)。北辰一刀流剣術宗家(日本古武道協会認定)、新田宮流抜刀術継承者。 佐賀市生まれ。旧姓は中島。京都の大日本武徳会武道専門学校に入学し内藤高治に剣道を学ぶ。 1929年(昭和4年)、武道専門学校を卒業し、茨城県師範学校及び水戸商業高等学校の教諭に赴任。小澤家の婿養子となり[要出典]、水戸東武館第4代館長を務める。1932年(昭和7年)、武道専門学校研究科を卒業。 1953年(昭和28年)、太平洋戦争中の水戸空襲で焼失した水戸東武館を再建。1966年(昭和41年)、茨城県剣道連盟会長に就任。
長野 泰一(ながの やすいち、1906年〈明治39年〉6月2… 長野 泰一(ながの やすいち、1906年〈明治39年〉6月22日 - 1998年〈平成10年〉2月9日)は日本のウイルス学者。東京大学教授。元日本ウイルス学会会長。三重県尾鷲市出身。 1954年、生体における抗ウイルス免疫の研究中にウイルス増殖を抑制するサイトカインであるインターフェロンを、世界に先駆けて小島保彦とともに発見した。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
伊藤 千代子(いとう ちよこ、1905年〈明治38年〉7月2… 伊藤 千代子(いとう ちよこ、1905年〈明治38年〉7月21日 - 1929年〈昭和4年〉9月24日)は、昭和初期の運動家。 長野県諏訪郡湖南村南真志野(現・諏訪市)の農家に生まれる。2歳で母と死別、9歳で亡母の実家・岩波家に移り養育される。諏訪高等女学校(現・長野県諏訪二葉高等学校)に進学、同校教諭(のち校長)で歌人の土屋文明から英語・国語・修身の授業を受ける。同校卒業後は諏訪郡の高島尋常高等小学校の代用教員となるが、1924年(大正13年)私立尚絅女学校(宮城県仙台市、現・尚絅学院中学校・高等学校)高等科英文予科を経て、翌年には東京女子大学英語専攻部2年に編入。同大学社会科学研究会で活躍。
彦坂 竹男(ひこさか たけお、1905年(明治38年)7月2… 彦坂 竹男(ひこさか たけお、1905年(明治38年)7月21日 - 1985年(昭和60年)4月7日)は、日本の昭和の出版人。判例時報社、一粒社を創設した。 静岡県出身。静岡県立静岡中学校を経て、1929年(昭和4年)、東京帝国大学法学部卒業。1941年秋、開戦直前に日本評論社から同盟通信社に移籍。1944年11月27日、検挙される(横浜事件)。時事通信社を経て、1951年(昭和26年)、法律関係の専門出版社一粒社を、1953年(昭和28年)、判例速報誌判例時報社を創設した。 この項目は、出版に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ出版)。 項目が文学作品の場合には{{Lit-stub}}を、文学作品以外の書籍・雑誌の場合には{{Book-stub}}を、漫画の場合には{{Manga-stub}}を貼り付けてください。
猪野 省三(いの しょうぞう、1905年7月20日 - 19… 猪野 省三(いの しょうぞう、1905年7月20日 - 1985年1月8日)は、日本の児童文学作家。プロレタリア児童文学の活動などに参加した。 栃木県上都賀郡鹿沼町(現:鹿沼市)で生まれた。父・春吉は一時鹿沼町の町長も務めていた。1923年に、宇都宮中学校を卒業。卒業後は小学校の代用教員として勤務した。 1926年に教職を辞めて上京し、画家を志して太平洋画研究所に入所。江馬修らと知り合い、翌年江馬の紹介で日本プロレタリア芸術連盟に加入。はじめは画家として参加していたが、次第に文学に関心を持ち、1928年に初の童話「ドンドンやき」を『プロレタリア芸術』に発表。その後も相次いで童話を発表し、プロレタリア児童文学者として認知されるようになった。
上條 勉(かみじょう つとむ、1905年7月20日 - 19… 上條 勉(かみじょう つとむ、1905年7月20日 - 1983年5月7日)は、日本の航空機技術者。三菱重工業名古屋航空機製作所(現・三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所)機体部設計課技師、技術部設計課技師を経て、新三菱重工業名古屋航空機製作所小牧工場初代工場長、同名古屋航空機製作所副所長を歴任。クリスチャン。 日露戦争終結間近の、1905年(明治38年)7月20日、長野県松本市北深志東ノ丁に警察署勤務の上條亀十郎の三男として誕生した。2年前にライト兄弟が動力飛行に成功している。1906年(明治39年)から、父亀十郎は浅野総一郎が経営していた茨城県真壁町の浅野石材部(浅野石材工業株式会社)勤務になった。
堀尾 正雄(ほりお まさお、1905年7月20日 - 199… 堀尾 正雄(ほりお まさお、1905年7月20日 - 1996年12月21日)は、日本の化学者、京都大学名誉教授。専門は高分子化学。工学博士(1934年)。大阪府生まれ。
松田 解子(まつだ ときこ、本名:大沼 ハナ、1905年〈明… 松田 解子(まつだ ときこ、本名:大沼 ハナ、1905年〈明治38年〉7月18日 - 2004年〈平成16年〉12月26日)は、日本の小説家。秋田県仙北郡荒川村出身。長男に記録映画作家の大沼鉄郎がいる。 三菱鉱山経営の荒川鉱山に育った松田は、大盛小学校を卒業すると鉱山の事務所でタイピストなどをしながら文学に触れていた。1923年に秋田女子師範(本科第二部、一年制)に入学、卒業後母校の大盛小学校に赴任する。1926年に職を辞して上京した。上京後、労働運動に参加し、その中で大沼渉と結婚する。結婚、子育てのなかの体験が初期の作品のなかに生かされている。1928年、読売新聞の女流新人短編募集に応じた「産む」が入選し、1929年には『女人芸術』に「乳を売る」が掲載された。
須山 計一(すやま けいいち、男性、1905年7月17日 -… 須山 計一(すやま けいいち、男性、1905年7月17日 - 1975年4月17日)は、漫画家、洋画家、美術評論家、漫画評論家、社会運動家。昭和初期のプロレタリア美術運動に参加。生前、日本における漫画評論の第一人者として知られた。生前は一水会、草炎会および日本美術会会員。別名義は宇野圭。 明治38年(1905年)、長野県下伊那郡鼎村(鼎町を経て、現・飯田市)に生まれる。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、昭和5年(1930年)、東京美術学校西洋画科卒業。『文章倶楽部』(新潮社)、『戦旗』(戦旗社)などに漫画を執筆。『無産者新聞』に漫画「アジ太プロ吉」を連載。 昭和6年、日本プロレタリア美術家同盟の中央委員および書記長に就任。
田中重久(たなか しげひさ、1905年7月17日 - 197… 田中重久(たなか しげひさ、1905年7月17日 - 1979年5月24日)は、日本の美術史家である。特に仏教美術に関して、多くの著作をのこしている。別名義としてたなか しげひさがある。 1905年(明治38年)7月17日、滋賀県甲賀郡水口町葛籠町に、父・豊吉郎、母・ゆりの五男として生まれる。豊吉郎は「小さい地方銀行家」であり、1928年(昭和3年)より栗太銀行の取締役をつとめた。京都市立中立小学校を経て滋賀県立膳所中学校に入学する。同校で日本史の教鞭をとっていた佐々木恒清に薫陶を受けるかたちで、14歳にして仏教美術を志すようになる。 大村西崖の東洋史の講義を受けるべく、1925年(大正14年)に東京美術学校に進学するも、彼の易簀を受けて翌年3月に中退、早稲田大学に転学する。
藤原 定(ふじわら さだむ、1905年7月17日 - 199… 藤原 定(ふじわら さだむ、1905年7月17日 - 1990年9月17日)は、日本の詩人、評論家、翻訳家。 福井県敦賀市に生まれる。法政大学文学部哲学科で三木清・谷川徹三に師事する。大学時代から「生活者」に小説・詩を投稿し、1936年(昭和11年)に草野心平に誘われ『歴程』の同人となる。その後、南満州鉄道調査部に勤務し、評論を上梓する。 1944年に第一詩集『天地の間』を刊行、戦後は法政大教授となる。1957年(昭和32年)に山室静らと詩雑誌『花粉』を発行する。1964年(昭和39年)には山梨県北巨摩郡大泉村西井出(現・北杜市大泉町西井出)に山荘を所有し、夏季の間は同地で詩作を行う。1979年(昭和54年)には第五詩集『環』を刊行し、『環』には「甲斐駒のうしろから」などの八ヶ岳山麓を題材とした詩も含まれている。
平井 太郎(ひらい たろう、1905年〈明治38年〉7月17… 平井 太郎(ひらい たろう、1905年〈明治38年〉7月17日 - 1973年〈昭和48年〉12月4日)は、日本の政治家、実業家。四国新聞社、西日本放送社長、参議院議員(4期連続当選)を務めた。 玉藻座社長を務めた平井実の長男として、香川県木田郡田中村(現・三木町)に生まれる。 1928年(昭和3年)明治大学専門部商科卒業後、高松市会議員に当選し玉藻組(のちの玉藻建設)の社長となる。 1937年(昭和12年)8月から約1年間、陸軍主計少尉として応召、除隊後、玉藻組など実業界で活躍しているうち、終戦を迎える。 1946年(昭和21年)高松商工会議所会頭、1948年香川県経営者協議会会長、1950年香川県商工会議所連合会会長、1951年四国電力監査役に選ばれる。
河津 勝(かわづ まさる、1905年〈明治38年〉7月17日… 河津 勝(かわづ まさる、1905年〈明治38年〉7月17日 - 1985年〈昭和60年〉1月23日)は、昭和時代の政治家。相模原市長。位階は従五位。 河津養積、計以の二男として、神奈川県高座郡相原村(現相模原市)に生まれる。1920年(大正9年)相原村役場に奉職し、戦後、1946年(昭和21年)相模原町相原出張所長、1951年(昭和26年)総務課長兼財政課長、市制施行以降、建設部長、総務部長などを歴任した。 1957年(昭和32年)から8年間に渡り相模原市の助役を務め、1965年(昭和40年)その実績から市長選に立候補し、第5代市長に当選した。 市長在任中は、当時全国屈指の人口急増都市であった同市の都市機能の整備に力点を置き、1968年(昭和43年)相模原市総合計画を策定したほか、米軍基地返還問題について中央官庁との折衝に動いた。
可愛嶽 実男(えのだけ さねお、1905年7月17日 - 没… 可愛嶽 実男(えのだけ さねお、1905年7月17日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。出羽海部屋所属。本名は森 実雄。最高位は十両4枚目。 宮崎県延岡市出身。出羽海部屋に入門し、1926年1月「嶋和泉」の四股名で序ノ口に就く。番付を上げ、1932年1月には幕下上位だったが、春秋園事件による大量の脱退者が出たため、その穴埋めのため十両に昇進した。2場所続けて勝ち越すことなく同年5月に幕下に落ちた。この場所から「可愛嶽」と改名した。1933年1月再び十両に上がったが、2場所続けて負け越して幕下に落ち、1934年1月に廃業した。
北山 愛郎(きたやま あいろう、1905年7月16日 - 2… 北山 愛郎(きたやま あいろう、1905年7月16日 - 2002年2月22日)は、日本の政治家。元日本社会党衆議院議員。 岩手県花巻市生まれ。盛岡中学と東京帝国大学で学び、中国へ渡って貿易統制機関で働く。戦後引き揚げて社会党結成に参加し、1947年まで花巻町長を2期務める。1953年の衆院選に岩手2区から左派社会党公認で出馬、当選して1983年の衆院選で落選するまで通算10期務める。 この間、党政策審議会長(1970年 - 1972年)・党中央執行副委員長(1978年 - 1981年)を歴任。国民服(中国の人民服)で国会に登壇したり、政界を退いた後もミニコミ紙を発行して政治評論活動を続けるなど、独特の活動を行っていた。
小林 米作(こばやし よねさく、1905年7月15日 - 2… 小林 米作(こばやし よねさく、1905年7月15日 - 2005年11月6日)は、記録映画カメラマン、映画プロデューサー。 十字屋映画部から日本映画社、戦後は東京シネマで科学映画の撮影を担当。顕微鏡を使用した撮影を得意とし、自ら、プロダクションを立ち上げ、多くの科学映画を製作した。その間、国際賞・国内賞含め、数々の賞を受賞した。長男の小林武史と、次男の小林健次はヴァイオリニスト。
鈴木 草牛(すずき そうぎゅう、1905年〈明治38年〉7月… 鈴木 草牛(すずき そうぎゅう、1905年〈明治38年〉7月15日 - 1988年〈昭和63年〉1月8日)は、20世紀に活動した日本画家。1948年から20年間は教師としても活動。 茨城県稲敷郡牛久村(現在の牛久市)に生まれる。1926年、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)日本画科に入学した。1929年、第4回茨城美術展で初入選を果たす。みやこ新聞社、茨城新聞社で記者として働く。1948年から母校である茨城県立龍ヶ崎中学校(現在の竜ヶ崎第一高等学校)に美術教師として20年間奉職した。1962年、65年は茨城県美術展運営委員を務める。1968年には新興美術院理事を務める。1972年から数度に渡り外遊した。
稲生 平八(いのお へいはち、1905年7月15日 - 19… 稲生 平八(いのお へいはち、1905年7月15日 - 1989年7月23日)は、日本の経営者。東京都出身。 府立一中 を経て、1930年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に森永製菓に入社。 1949年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1970年5月に副社長に就任した。1974年6月に森永乳業社長に就任し、1979年6月には森永製菓社長に就任した。1983年6月から会長を務めた。 1989年7月23日急性心不全のために死去。84歳没。
秋田 實(あきた みのる、1905年7月15日 - 1977… 秋田 實(あきた みのる、1905年7月15日 - 1977年10月27日)は、日本の漫才作家。本名:林 広次(はやし ひろつぐ)。大阪府大阪市玉造出身。
久富 武夫(ひさとみ たけお 1905年7月12日 - 19… 久富 武夫(ひさとみ たけお 1905年7月12日 - 1987年12月3日)は、元安田信託銀行社長。
竹内 敏雄(たけうち としお、1905年7月11日 - 19… 竹内 敏雄(たけうち としお、1905年7月11日 - 1982年12月12日)は、日本の美学者。東京大学名誉教授。愛知県豊橋市二川生まれ。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
松村 一人(まつむら かずと、1905年7月11日 - 19… 松村 一人(まつむら かずと、1905年7月11日 - 1977年6月22日)は、日本の哲学者。法政大学名誉教授。 1905年、山口県生まれ。1933年、東京帝国大学哲学科を卒業。プロレタリア科学研究所、唯物論研究会に参加。 戦後は民主主義科学者協会哲学部会の雑誌「理論」の編集に関わる。1964年より法政大学教授。毛沢東主義者であった。
大野 幸一(おおの こういち、1905年7月10日 - 19… 大野 幸一(おおの こういち、1905年7月10日 - 1976年11月9日)は、日本の弁護士、政治家。参議院議員(1期)、衆議院議員(1期)。 岐阜県出身。1931年、日本大学法文学部法律科を卒業し、弁護士となる。 戦後、日本社会党に加わる。党常任中央執行委員会書記、中央執行委員長片山哲秘書などを歴任し、1947年4月、第1回参議院議員通常選挙において全国区に出馬し当選。参議院郵政委員長などを務める。1953年4月、第3回通常選挙で落選した。 1958年5月、第28回衆議院議員総選挙に岐阜県第1区から出馬し当選。その後、民主社会党に移り、同党院内幹事、日中問題特別副委員長、災害対策特別委員長などを歴任。
藤原 實(ふじわら みのる、1905年7月8日 - 2004… 藤原 實(ふじわら みのる、1905年7月8日 - 2004年5月26日)は、日本の経営者。三重テレビ放送社長を務めた。三重県出身。 1930年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、同年に伊勢自動車に入社。 1951年に三重交通常務、1960年に三重観光開発常務、1964年に専務を歴任。1977年から1985年までに三重テレビ放送社長を務めた。 2004年5月26日多臓器不全のために死去。98歳没。
平畑 静塔(ひらはた せいとう、1905年(明治38年)7月… 平畑 静塔(ひらはた せいとう、1905年(明治38年)7月5日 - 1997年(平成9年)9月11日)は、日本の俳人、精神科医。和歌山県出身。 本名は富次郎。海草郡和歌浦町(現・和歌山市)に生まれる。父は銀行員で静塔は三男。和歌山県立和歌山中学校、第三高等学校を経て、1931年に京都帝国大学医学部を卒業。大学時代は精神医学を専攻した。1932年結婚。1937年兵庫県立精神病院に赴任。1944年応召し南京陸軍病院に勤務。1946年京都帝大医学博士。戦後は大阪女子医学専門学校(現関西医科大学)教授、阪本病院(布施市 現・東大阪市)院長、京阪病院院長(守口市)、を歴任。1961年に宇都宮市に移り、宇都宮病院の顧問となった。
岡本 不二(おかもと ふじ、1905年7月4日 - 1984… 岡本 不二(おかもと ふじ、1905年7月4日 - 1984年1月4日)は、愛知県名古屋市出身のボクサー。日本ボクシング草創期の強豪。のち不二拳を設立、ピストン堀口の師としても知られる。 東洋商業学校卒業後、渡辺勇次郎の日本拳闘倶楽部に入門、1924年には同倶楽部主催のフライ級タイトル決定戦に勝ち、フライ級チャンピオンとなる。1926年には靖国神社相撲場での第1回全日本アマチュアボクシング選手権大会フライ級制覇、1928年、アムステルダム五輪にはバンタム級として2回戦から出場したが、初戦で敗退した。 その後は日本拳闘倶楽部の師範としてピストン堀口らを育てたが、のちピストンと共に独立、不二拳(現不二ボクシングジム)を設立した。
飯島 連次郎(いいじま れんじろう、1905年〈明治38年〉… 飯島 連次郎(いいじま れんじろう、1905年〈明治38年〉7月4日 - 1992年〈平成4年〉10月15日)は、昭和期の農業技術者、政治家。位階は正五位。 参議院議員(1期)、群馬県邑楽郡多々良村長。 群馬県邑楽郡多々良村(現・館林市木戸町)出身。1923年(大正12年)旧制栃木県立佐野中学校(現・栃木県立佐野高等学校)卒業。1932年(昭和7年)京都帝国大学農学部農学科を卒業した。同年、満州国に渡り満蒙開拓移民の指導、訓練、研究に従事し、満蒙開拓訓練所長などを務めた。 1946年(昭和21年)帰郷して多々良村長兼同村農業協同組合長に就任。その他、群馬県酪農業協同組合理事、同県生産農業協同組合連合会長、同信用農業協同組合連合会理事、同農林統計協会長、全国指導農業協同組合連合会専務理事、農業電化協会副会長、全国厚生文化農業協同組合連合会理事、全国新聞情報農業協同組合連合会長などを務めた。
富原 薫(ふはら かおる、1905年7月3日 - 1975年… 富原 薫(ふはら かおる、1905年7月3日 - 1975年1月25日)は、日本の作詞家、学校教員。『汽車ポッポ』の作詞をはじめ、多くの童謡にたずさわった。 1905年(明治38年)静岡県駿東郡御厨町(現・御殿場市)に生まれる。 県立沼津中学(旧制)を経て駿東郡高根村の高根村国民学校(現在の御殿場市立高根小学校)の教員を務める傍ら、音楽活動を行う。 1939年(昭和14年)に作詞した『兵隊さんの汽車』は大ヒットした。戦時色の強い歌詞は戦後改められ『汽車ポッポ』として現在まで歌い継がれている。 富原は学校の教員を務めていたこともあり、御殿場や沼津など駿東地区の小中学校の校歌を多く手掛けている。
石川 達三(いしかわ たつぞう、1905年〈明治38年〉7月… 石川 達三(いしかわ たつぞう、1905年〈明治38年〉7月2日 - 1985年〈昭和60年〉1月31日)は、日本の小説家。社会性の濃い風俗小説の先駆者で、『蒼氓』により第1回芥川賞受賞。華中従軍から得た『生きてゐる兵隊』は発禁処分を受けた。戦後は、新聞小説や社会における個人の生活、愛、結婚をテーマにした作品でベストセラーを連発。書名のいくつかは流行語にもなった。記録的手法に拠る問題意識の明確な作風が特徴。社会的・文壇的活動も活発で、日本ペンクラブ会長、日本文芸家協会理事長、日本文芸著作権保護同盟会長、アジア・アフリカ作家会議東京大会会長などを務めた。日本芸術院会員。 秋田県平鹿郡横手町(現・横手市)に父石川祐助、母ウンの三男として生まれる(兄弟妹は7人、のち異母弟妹4人)。
泉井 久之助(いずい ひさのすけ、1905年7月2日 - 1… 泉井 久之助(いずい ひさのすけ、1905年7月2日 - 1983年5月28日)は、日本の言語学者。京都大学を中心に、第二次世界大戦前後に活動した。 (出典:堀井令以知「泉井久之助先生 (1905-1983)」『言語研究』1983年1に所収) 月刊『言語』(大修館書店刊行)が、1977年5月号で当時の著名な言語学者に「かつて最も印象深く読まれた言語学及び言語論の図書を三点挙げていただき、簡単な感想をつけて」もらう特集を組んだ。泉井はそれに、以下の3点を挙げている。(なお感想も省略して付記する) なお、泉井は最後のメイエ『印欧語比較研究入門』を臨終の直前まで手放さず、4回目の購入本を使用していたという。
小山 威雄(こやま たけお、1905年〈明治38年〉7月1日… 小山 威雄(こやま たけお、1905年〈明治38年〉7月1日 - 1981年〈昭和56年〉8月24日)は、日本の実業家、政治家。長野県小諸市長。 長野県北佐久郡小諸町(現小諸市)で、小山重右衛門、婦美野の息子として生まれた。旧制小諸商業学校(現長野県小諸商業高等学校)を経て、旧制青山学院専門部商科修了。1930年(昭和5年)丸五商店に入社し、丸五商会に改組し代表取締役となる。1944年(昭和19年)計理士を開業。1947年(昭和22年)小諸商工会議所会頭となる。1951年(昭和26年)長野県商工信用組合監事に就任した。 1953年(昭和28年)小諸市教育委員、1963年(昭和38年)小諸市議会議員となり1971年(昭和46年)まで2期在任し、同議長も務めた。
入江 相政(いりえ すけまさ、1905年〈明治38年〉6月2… 入江 相政(いりえ すけまさ、1905年〈明治38年〉6月29日 - 1985年〈昭和60年〉9月29日)は、日本の官僚、歌人であり随筆家である。 昭和天皇の侍従・侍従長を長く務めた。従二位勲一等旭日大綬章、勲一等瑞宝章、紺綬褒章・賞杯。 堂上華族の入江家出身。歌人・柳原白蓮の甥であり、元岩崎勝商事社長・岩崎勝太郎は相政の義弟にあたる。柳原前光の孫である。 1905年(明治38年)6月29日、東京府東京市麻布区笄町(現・東京都港区西麻布)で、入江為守子爵・貴族院議員の三男として生まれる。兄に入江為常。生家は歌道冷泉派の宗家・冷泉家の流れを汲む「歌の家」。 冷泉家・入江家の通字は家祖・冷泉為相の名から取った「為」だが、入江家では「相」の字も通字として用いられたため、相政と名付けられた。
小平 萬榮(こだいら まんえい、小平 万栄、1905年6月2… 小平 萬榮(こだいら まんえい、小平 万栄、1905年6月28日 - 1997年9月9日)は、日本の教育者、野鳥研究家。日本野鳥の会理事を務めた。雅号は倉塩(そうえん)。 長野県茅野市出身。名古屋逓信講習所卒業。1926年小学校教員となり、1948年に諏訪探鳥会を設立する。日本野鳥の会諏訪支部を発足させた1954年には、塩嶺地区で野鳥を楽しむ「小鳥バス」を地元の岡谷市に提案して実現し、バスでは自ら解説をおこなった。 1975年に、「野鳥愛護の啓蒙を広めた功績」により、勲六等単光旭日章を受章した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
犬井 鉄郎(いぬい てつろう、1905年6月26日 - 19… 犬井 鉄郎(いぬい てつろう、1905年6月26日 - 1989年10月4日)は、日本の数学者。専門は応用数学。京城大学理工学部、東京大学工学部力学教室、中央大学理工学部で教鞭をとる。 この項目は、数学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
笈川 武夫(、1905年〈明治38年〉6月25日 - 196… 笈川 武夫(、1905年〈明治38年〉6月25日 - 1960年〈昭和35年〉4月4日)は、日本の俳優である。本名は春野 武雄(はるの たけお)。及川 武夫と表記に揺れがある。日本初のテレビ時代劇『半七捕物帳』の主役として知られる。妻は元松竹の舞台女優で、村田嘉久子、村田竹子と共に「帝劇三姉妹」といわれた村田みね子である。 1905年(明治38年)6月25日、東京府東京市芝区南佐久間町に生まれる。芝愛宕小学校を経て旧制芝中学校(現在の芝中学校・高等学校)に入学。卒業後、海軍兵学校の入学試験を受けるも不合格となり、早稲田大学に進学する。しかしそれでも諦められず、再び海軍兵学校を受験して合格したが、1923年(大正12年)9月1日、関東大震災で実家及び学校は全焼した。
与田 凖一(よだ じゅんいち、1905年6月25日(戸籍上は… 与田 凖一(よだ じゅんいち、1905年6月25日(戸籍上は8月2日生まれ) - 1997年2月3日)は、日本の児童文学者・詩人。昭和期の日本の児童文学界において指導的役割を担った。作詞家を担当、巽聖歌らと親交を結びその後も本格的な執筆活動を開始し、1929年に初の童謡集「旗・蜂・雲」を出版した。作詞家橋本淳の父。ドイツ文学翻訳の与田静(1942- )は長女。與田凖一、与田準一の表記もある。日本ペンクラブ会員。 1905年、福岡県山門郡瀬高町(現在のみやま市瀬高町)に浅山与太郎、スエの次男として生まれた。翌年、親戚の与田家の養子となり、以降は与田姓を名乗った。養父母を相次いで亡くしたため、実家である浅山家で育つ。
呉 金川(ご きんせん、1905年6月23日 - 1997年… 呉 金川(ご きんせん、1905年6月23日 - 1997年11月17日)は、台湾の銀行家。彰化商業銀行総経理、董事長、中華民国国際工商経営研究社連合会主席などを務めた。 日本統治時代の台湾の台南市で生まれた。台南高等商業学校(のちの台北高等商業学校台南分教場、台湾大学管理学院)での成績が優秀であったため、旧制東京商科大学(現一橋大学)で高垣寅次郎ゼミに所属して金融を学び卒業し、学士の学位を取得した。卒業後満州中央銀行に入行。1940年、満州国に訪ねてきた一橋の先輩である呉三連の仲人で、東京にて楊肇嘉の娘と結婚式を挙げた。 日本の降伏後、国民政府の東北経済研究所副所長となる。1949年台湾省合作金庫業務部経理。
成 楽緒(ソン・ナクソ、朝鮮語: 성낙서/成樂緖、1905年… 成 楽緒(ソン・ナクソ、朝鮮語: 성낙서/成樂緖、1905年6月23日 - 1988年11月24日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の儒学者、教育者、政治家、実業家。制憲韓国国会議員、忠清南道知事を歴任した。 本貫は昌寧成氏(朝鮮語版)。号は芸庭(운정)。 忠清南道公州郡出身。漢学修学を経て公州普通学校、京城第1高等普通学校卒。京城帝国大学予科修了、1930年に同大法文学部朝鮮史学科卒。1930年に中央仏教専門学校教授、1932年に梨花女子専門学校教授、1943年に朝鮮音楽書籍編纂委員、京城以保合名会社重役、京城東英機工社代表、光復軍予備隊組織者、建国準備委員会忠南支部連絡部長、忠南教育協会会長、普門中学校設立者・初代校長、忠南労働調整委員、大韓独立促成国民会忠清南道協会副会長・大田支部長・中央執行委員、国学大学教務処長(1946年)、忠清南道労働調停委員、韓国民族代表外交使節大田後援会会長、反託闘争委員会副委員長、成均館大学学監、制憲国会議員(1948年)、忠清南道知事(1952年)、忠南大学校総長署理、忠清南道郷校財団理事長(1955年)、大韓赤十字社忠清南道支社長(1966年)、成均館理事長(1968年)、成均館長(1970年)、韓国儒林代表、韓国孔子学会長(1980年)を務めた。
守田 栄(もりた さかえ、1905年(明治38年)6月22日… 守田 栄(もりた さかえ、1905年(明治38年)6月22日 - 1998年(平成10年)7月5日)は、日本の学者。専門は騒音制御工学。 1905年6月22日生まれ。1931年3月、東京帝国大学理学部物理学科卒業、同大学航空研究所小幡研究室研究生。1933年、東京電気(現: 東芝)研究所入所。1954年9月から1963年まで、東京芝浦電気(現: 東芝)マツダ研究所主任研究員。1955年1月、理学博士(東京大学)。1961年8月から1967年12月まで、リオン技術部長。1967年、工学博士(東京工業大学)。1968年1月から1971年3月まで、日本大学工学部教授。1971年12月から1986年3月まで、中央公害対策審議会専門委員・航空公害研究センター所長。