小川 和夫(おがわ かずお、1909年8月10日 - 199… 小川 和夫(おがわ かずお、1909年8月10日 - 1994年3月26日)は、日本の英文学者。元NHK職員。 東京市浅草区(現・東京都台東区)生まれ。水戸高等学校文科乙類を経て、1935年に東京帝国大学文学部英文科を卒業。 翌1936年に当時社団法人だったNHKにアナウンサーとして入局。戦前のNHKは軍の宣伝機関であったこともあり、今日のような分業制はとられておらず、報道記者も兼ねていた。戦後の改革で報道専業となり、外信部(現在の国際部)に配属。1961年ロンドン支局長、1962年ヨーロッパ総局長、1965年報道局長、1967年解説委員室主幹。 記者勤務の傍ら、イギリス・ロマン派の文学を研究、翻訳を行った。
野口 久光(のぐち ひさみつ、1909年8月9日 - 199… 野口 久光(のぐち ひさみつ、1909年8月9日 - 1994年6月13日)は、日本の映画、ジャズ、ミュージカル評論家。画家、グラフィックデザイナー。生涯に1000点を超える映画ポスターを描いたと言われる。
竹林 隆二(たけばやし たかじ、1909年(明治42年)8月… 竹林 隆二(たけばやし たかじ、1909年(明治42年)8月8日 - 1995年(平成7年))は、昭和時代の競泳選手。水球選手。 中泉農学校卒業、静岡県浜名郡豊西村貴平(笠井町を経て現浜松市中央区貴平町)出身。早稲田大学在学中、1928年アムステルダムオリンピックに競泳日本代表として男子1500m自由形に出場したが準決勝棄権に終わった。さらに、1932年ロサンゼルスオリンピックでは水球に出場し4位に入賞した。 大学卒業後、中泉農学校の教諭となり、水泳部の強化に尽力した。
坂井 菴(さかい いおり、1909年(明治42年)8月6日 … 坂井 菴(さかい いおり、1909年(明治42年)8月6日 - 没年不詳)は、大日本帝国陸軍の軍人、戦闘機操縦者。少候13期。第二次世界大戦に参加した最古参の現役戦闘機乗りのひとりで、教官やテストパイロットとしても活躍した。最終階級は陸軍少佐。 1909年(明治42年)8月6日、岐阜県旧稲葉郡蘇原村(現各務原市蘇原町)に生まれる。岐阜中学校を卒業後、民間パイロットを目指して所沢陸軍飛行学校で操縦教育を受けた。飛行学校卒業後の1928年(昭和3年)2月、予備役下士官を志願して陸軍に入隊、航空兵伍長として平壌の飛行第6連隊に配属された。同年5月、第三次山東出兵で半年間中国へ出動し、のち明野陸軍飛行学校で助教を務めた。
原 ひさ子(はら ひさこ、1909年(明治42年)8月6日 … 原 ひさ子(はら ひさこ、1909年(明治42年)8月6日 - 2005年(平成17年)12月4日)は、日本の女優。本名は石島 久(いしじま ひさ)。旧芸名に原緋紗子、原緋沙子。 1909年(明治42年)、静岡県静岡市に四人兄妹の末っ子として生まれた。父は銀行員だったが、6歳の時に亡くなっている。 不二高等女学校(現:静岡雙葉高等学校)を卒業すると同時に上京し、伯父夫婦の養子となった。伯父は会社のエンジニアだったが、東京大学の近くで下宿と喫茶店も経営していた。この当時原は家業を手伝ったり、長唄や生け花を習うなど花嫁修業をしていた。 1933年(昭和8年)、新聞の広告で見た前進座の座員募集に応募した。
石川桂郎(いしかわ けいろう、1909年8月6日 - 197… 石川桂郎(いしかわ けいろう、1909年8月6日 - 1975年11月6日)は、日本の俳人・随筆家・小説家・編集者。東京出身。石田波郷に師事、「鶴」「壺」「馬酔木」同人、「風土」主宰。本名は石川一雄。 東京市芝区三田聖坂の理髪店の息子として生まれる。御田高等小学校卒業。家業の理髪店の仕事をしながら俳句を作りはじめ、1934年、杉田久女に入門。1937年、石田波郷の「鶴」創刊より投句し、1939年に同人となる。また、小説を横光利一に師事する。 父の死後に店主となった理髪店を文具店とするが、店員が次々に召集されて人手不足となり廃業。工場・工事関係など様々な職を転々とする。1942年、理髪店時代を描いた小説『剃刀日記』を発表。
山崎 貞一(やまざき ていいち、1909年(明治42年)8月… 山崎 貞一(やまざき ていいち、1909年(明治42年)8月5日 - 1998年(平成10年)11月20日)は、静岡県榛原郡相良町福岡(現在の牧之原市福岡)出身の科学者・実業家。 東京電気化学工業株式会社(現TDK株式会社)社長・会長・顧問などを歴任。フェライトコアの工業化や、研究者・技術者の育成と科学技術の発展に貢献した。藍綬褒章・勲二等瑞宝章を受章し、山崎自然科学教育振興会の創立にも尽くした。 山崎貞一賞は、科学技術水準の向上とその普及啓発に寄与することを目的とし、また、初代理事長を務めた山崎貞一の科学技術および産業の発展に対する功績、人材の育成に対しての貢献を記念して創設された賞である。対象は、財団の寄付行為第4条の事業内容に対応した「材料」、「半導体及び半導体装置」、「計測評価」、「バイオサイエンス・バイオテクノロジー」の4分野からなり、論文の発表、特許の取得、方法・技術の開発等を通じて、実用化につながる優れた創造的業績をあげている者としている。
原 光雄(はら みつお、1909年8月5日 - 1996年1… 原 光雄(はら みつお、1909年8月5日 - 1996年10月20日)は、日本の科学論・科学史研究者。 山梨県出身。京都帝国大学理学部卒。1938年川崎重工業に入社。1956年大阪市立大学教授。1972年定年退官、名誉教授、阪南大学教授、1981年退職。 1937年寺田寅彦の物理学研究に対する態度を批判。近代化学史研究を通じて科学の方法論を「自然弁証法の研究」としてまとめた。田辺振太郎とも論争を行った。
藤井 隆(ふじい たかし、1909年8月4日 - 2000年… 藤井 隆(ふじい たかし、1909年8月4日 - 2000年2月25日)は、日本の生物学者。静岡県出身。東京大学名誉教授。理学博士。 1934年(昭和9年)、東京帝国大学理学部動物学科卒業(理学博士)。 1951年(昭和26年)、東京大学理学部教授に就任。1955年(昭和30年)には皇居に招かれて生物学に関する合同進講に出席。「発生化学 細胞分裂の化学」と題する進講を行った。後に東京大学理学部の学部長となるが、1968年(昭和43年)から始まる東大紛争の期間にも学部長を務めあげた。1970年(昭和40年)定年退官、名誉教授となる。同年、静岡大学理学部教授。 1979年(昭和54年)、勲二等旭日重光章。
和田 徹三(わだ てつぞう、1909年(明治42年)8月4日… 和田 徹三(わだ てつぞう、1909年(明治42年)8月4日 - 1999年6月27日)は日本の詩人・英文学者。北海道余市町出身。小樽高等商業学校卒。龍木煌(たつき あきら)のペンネームを持つ。 北海道薬科大学教授をつとめ英語を教える傍ら、詩人として活動。1930年頃伊藤整と同時に百田宗治主催の「椎の木」に参加し、文学活動に専念する。英詩の翻訳(ハーバート・リードの研究者としての実績)からモダニズムへと変貌。1997年「湾」で和田自身が《「湾」を形而上詩の研究とと実作の場にしよう》という沢村光博の提案を受け、私は《長編形而上詩の実験作品を連載することにした。》と述べている。また1970年頃《沢村光博はカソリシズムとコミュニズムの結合を企てていたし、私は親鸞思想へ激しく傾斜していった。
相沢 博(あいざわ ひろし、1909年(明治42年)8月4日… 相沢 博(あいざわ ひろし、1909年(明治42年)8月4日 - 1992年(平成4年)12月7日)は、ドイツ文学・比較文学者。 宮城県生まれ。1933年東京帝国大学独文科卒。同大学院を経て、戦後東京大学教養学部教授、1970年定年退官、青山学院大学教授。1980年退職。専門はドイツ伝承文学。
折井 英治(おりい えいじ、1909年8月2日 - 2005… 折井 英治(おりい えいじ、1909年8月2日 - 2005年1月)は、日本の科学教育家。 子供向けの科学読み物や絵本などの著作を多く行った。共著者・折井雅子は娘。 長野県松本市生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、1928年、台北第一師範学校卒業後、台北第一師範附属小学校教師となる。1934年から1939年にかけて、早稲田大学や東京工業大学、台北帝国大学特別研究生として、金属材料学・化学工学・農芸学を学ぶ。台北帝国大学離農学部卒業とする記述もある。 1939年、台湾鉄工所研究所長、1942年、南方資源研究所長、1943年東京帝国大学農学博士。 1948年、学生科学協会理事、1951年、長野県上高地に私財を投じて自然科学研究所を創設し、自ら所長となる。
渡辺 武夫(わたなべ たけお、1909年8月2日 - 198… 渡辺 武夫(わたなべ たけお、1909年8月2日 - 1984年8月9日)は、日本の経営者。 静岡県出身。1934年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に三菱商事に入社。1944年に三菱石油に転じ、1964年5月に取締役に就任し、1967年5月に常務を経て、1973年5月には社長に就任した。1978年6月には会長に就任。 1984年8月9日、急性肺炎のために死去。75歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
古市 二郎(ふるいち じろう、1909年8月2日 - 196… 古市 二郎(ふるいち じろう、1909年8月2日 - 1967年2月22日)は、日本の物理学者。元北海道大学学長。 北海道出身。1934年北海道帝国大学理学部物理学科卒業。助手、助教授を経て、1945年理学博士。1948年、北海道大学教授となり、評議員、理学部長などを務めた。 1966年10月に学長に就任。しかし、1967年2月22日に急死した。享年57。このため北大では阿部與(工学部長)が急遽学長事務取扱となり、1967年5月に堀内寿郎が後任の学長になった。 1958年に湯川秀樹が来道した際、札幌市、旭川市、釧路市での講演に中谷宇吉郎、田中一とともに同行した。弟子に三井利夫(大阪大学名誉教授)、川路紳治(学習院大学名誉教授、日本学士院賞受賞)がいる。
前田 憲一(まえだ けんいち、1909年8月1日 - 199… 前田 憲一(まえだ けんいち、1909年8月1日 - 1995年10月14日)は、日本の電波工学者。学位は工学博士(京都帝国大学)。京都大学名誉教授、元京都産業大学教授。 大阪府大阪市出身。 主に、電離層における電波の反射についての基礎研究を行った。なお、この研究成果は携帯電話に利用されている。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
淺井 彌七郎(あさい やひちろう、1909年 <明治42年>… 淺井 彌七郎(あさい やひちろう、1909年 <明治42年> 7月30日 - 2011年 <平成23年> 5月13日)は、日本の経営者。ヒガシマル醬油社長を務めた。位階は従六位。 兵庫県出身。1931年に和歌山高等商業学校を卒業し、1938年に浅井醤油に入社した。1950年に龍野醤油(のちのヒガシマル醤油)常務に就任し、1963年に専務を経て、1971年5月に副社長に就任し、1978年3月には社長に昇格した。1990年3月に副会長を経て、1996年3月には会長に就任。 1984年11月に勲五等瑞宝章を受章し、紺綬褒章を3回受章した。 2011年5月13日、心不全のために死去。101歳没。死没日付をもって従六位に叙された。
中島 正義(なかじま まさよし、1909年7月29日 - 1… 中島 正義(なかじま まさよし、1909年7月29日 - 1991年12月25日)は、日本の経営者。アサヒビール社長を歴任。 東京都港区出身。1932年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に日本麦酒鉱泉に入社。朝日麦酒で西宮工場長、取締役、常務、専務などを歴任し、1966年2月から1971年2月までに社長を務めた。 1979年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1991年12月25日脳梗塞のために死去。82歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大原 総一郎(おおはら そういちろう、1909年(明治42年… 大原 総一郎(おおはら そういちろう、1909年(明治42年)7月29日 - 1968年(昭和43年)7月27日)は、日本の実業家。倉敷レイヨン(現・クラレ)社長、倉敷紡績社長などを務めた。正式な表記は大原 總一郎(読みは同じ)。 大原家は、児島から倉敷に移住してきた旧家で、総一郎の曽祖父大原壮平のころには、新興の富豪地主として庄屋も務めていた。祖父の大原孝四郎は、1888年、倉敷紡績の前身である倉敷紡績所を創立。従来、農業経営を主体としていた大原家は、ここに近代産業への第一歩を踏み出したのである。これを地盤として、父の大原孫三郎は事業拡大に乗り出した。 孫三郎は、27歳で倉敷紡績の社長に就任し、さらに中国銀行の前身である倉敷銀行を設立したほか、電気・電鉄・織物・土地会社など、種々の関連事業や地方の開発に貢献し、その広い見識と正確な洞察力は高く評価された。
穴吹 夏次(あなぶき なつじ、1909年〈明治42年〉7月2… 穴吹 夏次(あなぶき なつじ、1909年〈明治42年〉7月29日 - 2000年〈平成12年〉10月24日)は、株式会社穴吹工務店元社長。地方の建築業者だった穴吹工務店を、全国展開のデベロッパーに成長させた。また、穴吹興産や学校法人穴吹学園の創業者でもある。位階は従六位。 穴吹喜作と穴吹ムメの長男として、香川県高松市に生まれる。 1930年1月から家業の土木建築業に従事した。1937年3月に、川添村立川添青年学校の教官に就任する。[要出典] 1940年6月に、京都府警察部で警察官となった[要出典]。太平洋戦争中は軍に召集され、ウォレアイ環礁(メレヨン島)で終戦を迎えた。1945年10月に復員して、実父の建設業を継承した[要出典]。
林 太郎(はやし たろう、1909年7月28日 - 2000… 林 太郎(はやし たろう、1909年7月28日 - 2000年9月17日)は、日本の機械工学者。大阪工業大学名誉教授。工学博士(東京大学)。大阪工業大学機械工学科同窓会初代会長。空気調和・衛生工学会近畿支部元支部長。 専門は、流体機械・流体工学・熱工学、数理科学。 東京大学大学院数物系研究科(のちの工学系研究科)にて工学博士。大阪工業大学工学部機械工学科助教授として着任。機械工学教室および「熱工学・流体工学研究室」を担当し、1961年同学科教授。マサチューセッツ工科大学に留学(その間、増尾竜一・大田了介が代講)。1979年から1982年まで空気調和・衛生工学会(通称:空調学会)近畿支部支部長など歴任。
奥宮 正武(おくみや まさたけ、1909年(明治42年)7月… 奥宮 正武(おくみや まさたけ、1909年(明治42年)7月27日 - 2007年(平成19年)2月22日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官。海兵58期。最終階級は海軍中佐、空将。高知県出身。航空主兵論の急先鋒であり、戦艦無用論を主張した。 1909年(明治42年)7月27日、高知県に父・奥宮正治と母・虎の三男として生まれる。生家は土佐藩藩校の教授であった奥宮慥斎の本家になる。母は土佐の旧家である入交家の出身。市岡中学卒を経て、1926年(大正15年)11月、海軍兵学校58期入校。1930年(昭和5年)11月、海軍兵学校卒業。1932年(昭和7年)4月、海軍少尉任官。 1933年(昭和8年)11月、海軍練習航空隊第24期飛行学生を卒業、大村海軍航空隊付(延長教育を受ける)。
安倍 謙一(あべ けんいち、1909年7月26日 - 199… 安倍 謙一(あべ けんいち、1909年7月26日 - 1990年8月14日)は、日本の経営者。東京都出身。 1935年に大阪商科大学を卒業し、同年に安田銀行(のちの富士銀行)に入社。1962年11月に取締役に就任し、1963年6月には日本酸素常務、1968年12月に専務を経て、1974年12月に社長に就任。1978年2月に取締役相談役を経て、1980年9月には相談役に就任。 1990年8月14日脳梗塞のために死去。81歳没。
細川 泉一郎(ほそかわ せんいちろう 1908年8月22日 … 細川 泉一郎(ほそかわ せんいちろう 1908年8月22日 - 2000年5月1日)は、元日本国有鉄道常務、技師。元日本車輌製造副社長。
児井 英生(こい えいせい、1908年8月21日 - 199… 児井 英生(こい えいせい、1908年8月21日 - 1992年3月10日)は、日本の映画プロデューサー、映画監督、脚本家、作詞家、実業家である。日活の契約プロデューサーだった時代に石原裕次郎を売り出し、小林旭をスターにした人物として知られる。本名は兒井 英男(こい ひでお)、大都映画でのペンネームは高樹 彦九郎(たかぎ ひこくろう)である。児井プロダクション代表。 1908年(明治41年)8月21日、兵庫県神戸市に鉄道院の高級官吏(神戸運輸事務所長)だった児井英松と公卿の娘だった母の長男として出生。姉が2人の末っ子だった。父の転職により、東京の渋谷に移住し、旧制中学校の私立芝中学校を経て、早稲田大学法学部に入学するが、2年次に政経学部に、3年次に文学部に転部し卒業後、衣笠貞之助に誘われ1931年に松竹キネマ京都撮影所監督部に入社した。
金湊 仁三郎 (かねみなと にさぶろう、 1908年8月18… 金湊 仁三郎 (かねみなと にさぶろう、 1908年8月18日 - 1979年11月23日)は、現在の千葉県船橋市金杉町出身で湊川部屋に所属した大相撲力士。本名は石井 仁三郎。身長164cm、体重86kg。最高位は東前頭5枚目。1940年1月場所のみ金湊利三郎を名乗った[信頼性要検証]。 1927年1月場所に初土俵を踏む。1931年5月、双葉山定次とともに新十両を果たし、2場所連続して双葉山を破る。春秋園事件で一度は脱退するが、1933年1月に十両格別席で復帰、1934年5月場所に新入幕を果たした。 小兵ながら動きの早い相撲で、若手をいじめることが多く、「追いはぎ」とあだ名されている。大きな出羽ヶ嶽文治郎に初顔から連勝したり、新入幕の羽黒山政司に初日に土をつけたり、1939年1月には双葉山の連勝を止めた安藝ノ海節男を終盤に破って負け越しを味わわせたりと、大物食いで名をはせた。
池田 誠一郎(いけだ せいいちろう、 1908年8月17日 … 池田 誠一郎(いけだ せいいちろう、 1908年8月17日 - 2001年4月10日)は、日本の編集者、作詞家。作詞家としてのペンネームに池田 真琴(いけだ まこと)や椿 三平(つばき さんぺい)、川柳作家としてのペンネームに池田 秋の月(いけだ あきのつき)がある。 東京府北豊島郡岩淵町(現在の東京都北区)出身。都内の出版社に編集者として勤務する傍ら作詞の投稿を趣味とし、50点近くの歌詞が採用された。代表作は「椿三平」名義で入選した読売ジャイアンツの3代目球団歌「巨人軍の歌 -闘魂こめて-」(1968年)であるが、これ以前に「池田真琴」名義で応募した広島カープの2代目球団歌「広島カープの歌」が採用されている。
尾鍋 輝彦(おなべ てるひこ、1908年(明治41年)8月1… 尾鍋 輝彦(おなべ てるひこ、1908年(明治41年)8月15日 - 1997年(平成9年)3月21日)は、日本の西洋史学者。お茶の水女子大学名誉教授。1980年勲三等旭日中綬章受章、没後正四位。 1908年、愛知県名古屋市で生まれた。東京帝国大学文学部西洋史学科で学び、1933年に卒業。 1950年、成城大学助教授に就いた。1951年にお茶の水女子大学助教授に転じ、1953年に教授昇格。1973年にお茶の水女子大学を定年退官し、名誉教授となった。1997年死去。没後叙正四位。
富井 一雄(とみい かずお、1908年8月14日 - 199… 富井 一雄(とみい かずお、1908年8月14日 - 1998年2月8日)は、日本の経営者。ユニチカ社長を務めた。奈良県出身。 1930年に高岡高等商業学校(現富山大学)を卒業し、翌年に日本レイヨンに入社した。1959年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1970年に社長に就任し、1972年から相談役、顧問、名誉顧問を歴任した。 1981年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1998年2月8日慢性呼吸不全のために死去。89歳没。
玉井 力三(たまい りきぞう、1908年(明治41年)8月1… 玉井 力三(たまい りきぞう、1908年(明治41年)8月14日 - 1982年(昭和57年)7月23日)は、昭和期に活動した日本の洋画家、表紙画家。 1928年(昭和3年)より「太平洋画会研究所」で中村不折に師事する。その後は「太平洋美術学校」講師、「新京美術院」助教授を歴任するとともに、多くの洋画作品を制作した。 戦後は、洋画団体「示現会」の会員として活動しつつ、雑誌や絵本の表紙画家としても活動した。特に複数の出版社から発行された学年別学習雑誌、いわゆる「学年誌」における表紙画を長年担当し、少年少女の表情を大きく豊かに描いた作品を多く制作した。小学館の学年誌(『小学一年生』他)で20年以上にわたって表紙画を担当したほか、講談社、学習研究社など、学年誌市場で競合する各社の表紙画を同時期に担当したこともある。
井田 誠一(いだ せいいち、1908年(明治41年)8月13… 井田 誠一(いだ せいいち、1908年(明治41年)8月13日 - 1993年(平成5年)10月12日)は、昭和期の作詞家。 東京都八王子市出身。早稲田大学文学部卒業。 戦後、ビクター専属作詞家として活躍し、「東京シューシャンボーイ」、「水色のスーツケース」、「若いお巡りさん」などを作詞。明るい内容の歌詞が特徴的だった。その他、外国曲の訳詞を行った。 1993年(平成5年)10月12日死去。享年85。墓所は八王子市の富士見台霊園。 1999年、高尾山薬王院の境内に「若いお巡りさん」の歌詞を刻んだ歌碑が建立された。
玉山 勇(たまやま いさむ、1908年8月12日 - 198… 玉山 勇(たまやま いさむ、1908年8月12日 - 1989年4月28日)は、福島大学学長、元・経済史・経営史専攻の教授。岩手県紫波郡紫波町出身。 明治学院から神戸商業大学に進み1936年に卒業し関西学院高等部の教師となる。1940年東北学院大学教授、1950年福島大学経済学部教授、1958年福島大学経済学部部長を経て、1973年10月15日学長に就任。翌1974年12月4日退任。 日本生産性東北地方本部理事、東北経済開発センター(現在の東北活性化研究センター)理事、福島県中小企業診断協会会長なども歴任した。 1989年4月28日午後5時に内臓疾患の為、福島県立医科大学附属病院で死去。享年80歳。
大智 浩(おおち ひろし、1908年〈明治41年〉8月10日… 大智 浩(おおち ひろし、1908年〈明治41年〉8月10日 - 1974年〈昭和49年〉7月18日)は、日本のグラフィックデザイナーである。岡山県出身。 旧制新潟県立村上中(現:新潟県立村上高等学校)、長岡高等工業学校を経て、東京美術大学(現在の東京芸術大学)卒業後、当時第二次世界大戦下で情報及び宣伝要員として活動した。戦後に独立し自身のデザイン事務所を設立し、多くの企業のCIマークの制作に携わる。1954年(昭和29年)にはニューヨークで開催された個展で大智の作品が出品され、デザイナー団体の日本代表に選出される等外でも有名となった。 その後は誠文堂新光社のデザイン雑誌『アイデア』のアートディレクターや東京教育大学や金沢美術工芸大学、実践女子大学の教授、国際デザイン交流協会会長を務めるなど、学生や海外のデザイナー対しての交流を深めた。
植草 甚一(うえくさ じんいち、1908年〈明治41年〉8月… 植草 甚一(うえくさ じんいち、1908年〈明治41年〉8月8日 - 1979年〈昭和54年〉12月2日)は、ジャズ、ミステリー、映画評論家で1970年代・サブカルチャーの旗手だった、通称“J・J氏”。 植草は東京市日本橋区小網町(現・東京都中央区日本橋小網町)にて、木綿問屋の一人息子として生まれた。1915年東華小学校に入学。10歳あたりから、姉に連れられ地元の映画館「水天館」に通った。1921年渋谷鉢山町の東京府立第一商業学校に入学、ここでは首席を通した。1923年9月1日の関東大震災で被災し、これをきっかけに植草家は没落した。 1926年、旧制第一高等学校を受験するが失敗。このため、東京府立第五中学校の補習科に通学。
玉置 明善(たまき あきよし、1908年〈明治41年〉8月8… 玉置 明善(たまき あきよし、1908年〈明治41年〉8月8日 - 1981年〈昭和56年〉6月2日)は、昭和時代の実業家。 清の大連にて玉置準三の長男として生まれる。本籍は佐賀県。旧制佐賀高等学校、1930年に九州帝国大学工学部応用化学科を卒業。同年、三菱合資会社に入社。翌年1931年、三菱石油(現 JXTGエネルギー)に移る。1946年に工事部長、1948年に同社工事部が分離独立して千代田化工建設が発足すると常務取締役となる。1957年11月、初代社長の大久保繁雄に代わり社長に就任。1970年会長兼務。 安全工学協会(現: 特定非営利活動法人安全工学会)の第2代会長(1967年-1978年)や、化学工学協会(現: 公益社団法人化学工学会)の第16代会長(1967年-1969年)、日本プラントメンテナンス協会の初代会長(1981年)を務めた。
重松 鷹泰(しげまつ たかやす、1908年〈明治41年〉8月… 重松 鷹泰(しげまつ たかやす、1908年〈明治41年〉8月7日 - 1995年〈平成7年〉8月7日)は、日本の教育学者。名古屋大学名誉教授。専攻は教育方法論。授業分析を行った。 東京生まれ。旧制第一高等学校理科卒後、1928年徳島県大津東小学校の代用教員となる。1932年東京文理科大学教育学科教育学専攻卒、東京府豊島師範学校講師。1937年教育科学研究会生活教育研究部会に参加し、教育指導部幹事に就任した。1941年東京府学務部勤務。1944年応召、中支に出征。1946年文部省教科書局小学校社会科担当となり、小学校社会科創設及び学習指導要領に関与する。1947年奈良女子高等師範学校附属小学校主事、1952年名古屋大学教育学部教授、1972年定年退官、のちに名誉教授。
清宮 博(せいみや ひろし、1908年8月6日 - 1976… 清宮 博(せいみや ひろし、1908年8月6日 - 1976年4月27日)は電気工学者、実業家。元富士通社長、会長。日本のコンピューターパイオニアの一人。旧姓根岸。 広島県広島市大手町(現在の同市中区)出身。広島高等師範学校附属中学校(現・広島大学附属高校)から第一高等学校をへて東京帝国大学電気工学科卒(1932年)。逓信省電気試験所第4部に入り、光通信、電子管(マグネトロン、速度変調管)などの研究を担当。1936年、関杜夫とともにグラスファイバーを光通信に使うアイデアを発明した。 終戦後の1947年12月23日、アメリカベル電話研究所でトランジスタが発明され、翌1948年6月30日公表された。
稲沼 瑞穂(いなぬま みづほ、1908年(明治41年)8月3… 稲沼 瑞穂(いなぬま みづほ、1908年(明治41年)8月3日 - 1965年(昭和40年)7月29日)は、日本の翻訳家、元岩波書店編集部長。科学史研究の先達とされる。 1908年8月3日、東京都文京区高田豊川町に生まれる。東京府立第五中学校、第一高等学校理科甲類を経て、1929年に東京帝国大学理学部物理学科に入学する。 1933年に卒業し、4月に岩波書店編集部に入る。1937年11月、病気療養のため退職する。1938年4月、神奈川県立厚木中学校の嘱託に、同年6月から教諭になる。1941年、陸軍予科士官学校の教授となる。同年に日本科学史学会が発足し、その幹事の一員として会務を処理する。 1942年、文部省図書監修官となり、図書局第二編修課に勤務する。
6代目 三升家 小勝(みますや こかつ、1908年8月3日 … 6代目 三升家 小勝(みますや こかつ、1908年8月3日 - 1971年12月29日)は、東京都出身の落語家。本名は吉田 邦重。生前は落語協会所属。出囃子は『井出の山吹』。 通称「右女助の小勝」「糀谷の師匠」。妻は日本舞踊の花柳一衛。 東京の本所太平町に生まれる。神田錦町の電機学校(現在の東京電機大学)卒業後、東京市水道局(現在の東京都水道局)に勤務。金町浄水場の技師を務める。 1931年3月、曲芸の春本助次郎を通じて8代目桂文楽に入門。一番弟子となる。文楽の「文」と中村の「中」から一字ずつ取って「桂文中」と名乗り、常磐亭で初高座。1932年、「桂文七」で二つ目に昇進する。1936年5月にキングレコード専属となり、最初の吹き込みレコードを発売。
重岡 曻(しげおか のぼる、1908年(明治41年)8月3日… 重岡 曻(しげおか のぼる、1908年(明治41年)8月3日 - 1991年(平成3年)7月7日)は、日本の剣道家。段位称号は範士九段。 鹿児島県日置郡日置村日置(現日置市日吉町日置)生まれ。父は剣道家の重岡栄之丞だが、9歳の時に死別。小学校高学年から剣道を始め、鹿児島県第二師範学校を卒業。 短期間の兵役及び教員を務めた後、大日本武徳会武道専門学校に入学し、小川金之助、宮崎茂三郎、津崎兼敬、佐藤忠三らの指導を受ける。 1937年(昭和12年)、大阪府警察部に奉職。日満対抗剣道試合出場、明治神宮体育大会剣道競技優勝。 戦後は鹿児島に帰郷し教員を務める。1965年(昭和40年)、近畿管区警察学校教授となる(後に名誉教授)。
窪田 章一郎(くぼた しょういちろう、1908年8月1日 -… 窪田 章一郎(くぼた しょういちろう、1908年8月1日 - 2001年4月15日)は、日本の歌人・国文学者。早稲田大学名誉教授。 窪田空穂の長男として、東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)南榎町に生まれる。旧制私立豊山中学校(現在の日本大学豊山高等学校)4年修了後、早稲田大学文学部国文科卒。1943年、武川忠一らが創設した早稲田大学短歌会に指導役として参加。そこから発展した歌誌『まひる野』を創刊主宰した。早稲田大学講師・教授を歴任、名誉教授の称号を受く。国文学者としては西行研究の第一人者であった。 1980年、「素心臘梅」で第14回迢空賞受賞。1988年、「窪田章一郎全歌集」で第11回現代短歌大賞受賞。
井上 誠一(いのうえ せいいち、1908年(明治41年)8月… 井上 誠一(いのうえ せいいち、1908年(明治41年)8月1日 - 1981年(昭和56年)11月26日)は、東京府(現・東京都)出身のゴルファー、ゴルフ場設計者。 1908年(明治41年)8月11日、東京府東京市赤坂区(現・東京都港区)に、眼科医の長男として生まれる。母は御茶ノ水にあった井上眼科医院創始者の長女で、父は養子として母と結婚した。 少年時代はカメラなどが趣味で、映画やメークアップへの興味も相まってハリウッドへの憧れを抱いた。しかし、成蹊高等学校在学中に、嗜眠性脳炎を患い、叔父の井上達四郎に、治療にはゴルフが最適と言われゴルフを始めた。1930年(昭和5年)、「川奈ホテルゴルフコース・富士コース」(静岡県)にいた時、「東京ゴルフ倶楽部・朝霞コース」(埼玉県)の設計のためにイギリスから来日していたチャールズ・ヒュー・アリソンに出会い、彼の仕事を見て「面白そうだ、僕もやってみよう」と思い立つ。
西田 善一(にしだ ぜんいち、1908年(明治41年)8月1… 西田 善一(にしだ ぜんいち、1908年(明治41年)8月1日 - 1981年(昭和56年)4月25日)は、日本の政治家・実業家。大津市長(2期)、滋賀県議会議員、大津市議会議員などを歴任。大津市長として総合開発計画、市庁舎の移転建設、町村合併、びわこ大博覧会などの大事業を行った。位階は従五位。 1908年8月1日に、大津市下堅田町(現・島の関)で、油屋「西利商店」の子に生まれる。旧制膳所中学校(現滋賀県立膳所高等学校)を経て、1929年3月に彦根高等商業学校(現滋賀大学経済学部)を卒業。学生時代は、「名ピッチャー」でならしたといい、当時バッテリーを組んでいたのは後に近江八幡市長となる井狩貞之だった。
白浜 仁吉(白濱 仁吉、しらはま にきち、1908年8月1日… 白浜 仁吉(白濱 仁吉、しらはま にきち、1908年8月1日 - 1985年1月4日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲章は勲一等瑞宝章。 長崎県南松浦郡若松村(のち若松町、現在の新上五島町)に生まれる。旧制海星中学校を経て、東京慈恵会医科大学を卒業。 陸軍軍医として長崎勤務中に長崎市への原子爆弾投下により被爆し、妻と2人の子供を失う。終戦後は実家の五島に戻り漁業に従事する。 1947年より長崎県議会議員を2期務めたのち、1952年の衆議院議員選挙に改進党から立候補し当選、以後当選12回(当選同期に大平正芳・黒金泰美・内田常雄・植木庚子郎・丹羽喬四郎・宇都宮徳馬・灘尾弘吉・加藤精三・山崎巌・今松治郎・重政誠之・町村金五・古井喜実など)。
青木 太郎(あおき たろう、1908年〈明治41年〉7月31… 青木 太郎(あおき たろう、1908年〈明治41年〉7月31日 - 1977年〈昭和52年〉)は、昭和期の歯科医師、政治家。中野市長。元中野市長の青木一は長男。 長野県下高井郡延徳村大字三ツ和(現・中野市三ツ和)で、元長野県議会議員の青木賢一郎と千代の長男として生まれた。青木家は代々松代藩の庄屋を勤役した旧家。 旧制長野中学(現・長野県長野高等学校)を経て、日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)卒業後、東京帝国大学医学部修了(選科生)。帰郷し、中野で歯科医院を開業した。1937年(昭和12年)に応召し、1946年(昭和21年)陸軍大尉で復員した。 1947年(昭和22年)長野県議会議員に選出され2期在任。
戸田 繁子(とだ しげこ、1908年7月31日 - 2019… 戸田 繁子(とだ しげこ、1908年7月31日 - 2019年3月31日)は、日本の音楽教師。広島市で音楽教室「杉の子会」主宰。作曲家糀場富美子、指揮者大植英次らを育てた。 島根県飯南町出身。1923年に高等小学校を卒業、島根県女子高等師範学校に入学した。1927年に卒業後、島根県飯石郡吉田村小学校に赴任するが、さらに学ぶために松江市の飯田忠義の元に通いレッスンを受ける。1929年4月、東京音楽学校に設置された教員養成所の試験に合格。翌1930年5月から1932年3月まで、同校でピアノを遠山つや、声楽を田中伸江(ピアニスト田中希代子の母)に学ぶ。 1932年に卒業後は故郷に帰り、島根県立今市高等女学校(現・出雲高等学校)に勤務。
藤岡 通夫(ふじおか みちお、1908年7月31日 - 19… 藤岡 通夫(ふじおか みちお、1908年7月31日 - 1988年11月19日)は、日本の建築史家。東南アジア諸国の王宮や日本の城郭などを研究した。東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)出身。父は藤岡作太郎、兄は藤岡由夫。 近世建築史(城郭・住宅建築)研究に業績を残すほか、東洋建築史研究では戦前にアンコールワットを調査し、近年はネパール王宮の建築研究と保存実施への道を拓いた。 関野克は本郷の誠之小学校で同級。太田博太郎は同小学校で4年後輩。1929年に松本高等学校理科甲類を卒業し、東京工業大学建築学科に入学。1932年卒業したのちは同大学助手、同講師を経て1939年助教授。 1938年「天守閣建築概説」を発表。
石破 二朗(いしば じろう、1908年〈明治41年〉7月29… 石破 二朗(いしば じろう、1908年〈明治41年〉7月29日 - 1981年〈昭和56年〉9月16日)は、日本の内務・建設官僚、政治家。位階は正三位。勲章は勲一等瑞宝章。 参議院議員(2期)、鳥取県知事(第39代)。鈴木善幸内閣において、自治大臣(第28代)兼国家公安委員会委員長(第38代)を務めた。 第102-103代内閣総理大臣、第28代自由民主党総裁である石破茂の父。 太宰治、永井荷風の著作物を好む。 田中角栄元首相は友人である。安田貞栄境港市長(第3代)が石破に「あなたは元気である限り、本県県政を担当願うことが県民のためになると思う。それほどあなたを高くかっておるが東京では(自民党の)田中派に属しておることが釈然としませんね」と言った時「君は田中という人を知らんからだ。
伊部 恭之助(いべ きょうのすけ、1908年7月28日 - … 伊部 恭之助(いべ きょうのすけ、1908年7月28日 - 2001年4月16日)は、日本の実業家。住友銀行頭取・会長。関西経済同友会代表幹事、日仏クラブ世話人。 現在の東京都新宿区出身。東京開成中学(旧制)、東京高校(旧制)を経て、1933年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年住友合資会社入社。のちに住友銀行に移り有楽町支店長、東京事務所長などを経て、1957年取締役。常務、専務、副頭取等を歴任し、浅井孝二の後を受けて、1973年頭取に就任した。 頭取在任中、磯田一郎副頭取と共に経営危機に陥った安宅産業を伊藤忠商事に救済合併させたり、マツダやアサヒビールの再建に取り組んだ。1977年会長、のち相談役、1983年最高顧問。
吉井 忠(よしい ただし、1908年7月25日 - 1999… 吉井 忠(よしい ただし、1908年7月25日 - 1999年8月5日)は、日本の洋画家。 福島県出身。1928年帝展で「祠」が初入選。 1938年美術文化協会創立会員。1946年、日本美術会創立会員。1964年主体美術協会創立会員。 太平洋美術研究所に入り、靉光、麻生三郎、井上長三郎、鶴岡政男、寺田政明、松本俊介らを知る。 熊谷守一、峯孝、寺田政明、高山良策らと池袋モンパルナスと称される美術家の地域コミュニティを形成。 戦後、「アトリエ」などを中心に美術評論分野でも活躍。児童書などに挿絵を書く。「土民派」を自認した。 福島県立美術館、宮城県美術館などに作品が所蔵されている。 娘の吉井爽子も画家(女子美術大学洋画科出身)である。
永野 鎮雄(ながの ちんゆう/しずお、1908年7月25日 … 永野 鎮雄(ながの ちんゆう/しずお、1908年7月25日 - 1982年12月7日)は、日本の僧侶、政治家、参議院議員(1期)。戦後、政財界で活躍した永野一族の一人。 広島県下蒲刈島にある浄土真宗本願寺派弘願寺の生まれ。旧制広島一中、旧制広島高校を経て東北帝国大学卒業後、1939年龍谷大学文学部卒業、1941年に龍谷大学研究科を卒業。自坊の弘願寺住職を継承した後に西本願寺宗務所に勤務し、総務や親鸞聖人大遠忌常務理事などを歴任。1957年には全日本仏教会の代表として当時正式な国交のなかった中華人民共和国を訪問している。 1968年、第8回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で全国区から立候補し当選。