長谷 健(はせ けん、1904年10月17日 - 1957年… 長谷 健(はせ けん、1904年10月17日 - 1957年12月21日)は、日本の小説家、児童文学者。 福岡県山門郡東宮永村下宮永北小路(現・柳川市下宮永町)生まれ。ちなみに、東宮永小学校は琴奨菊関の母校でもある。旧姓は堤、本名は藤田正俊。1925年(大正14年)福岡師範学校卒業。柳川の城内小学校教師をしたのち1929年(昭和4年)に上京、神田区の芳林小学校に勤務。このころからペンネームを長谷健とする。1932年(昭和7年)浅草区浅草小学校に転勤。1934年(昭和9年)に同人誌『教育文学』を創刊し、1936年(昭和11年)には『白墨』を創刊する。小学校教師として教育にあたり、文学者としても活動を行う。
是枝 恭二(これえだ きょうじ、1904年10月16日 - … 是枝 恭二(これえだ きょうじ、1904年10月16日 - 1934年6月10日)は、日本の戦前の政治運動家。 鹿児島県鹿児島郡谷山村(現鹿児島市)生まれ。父は鉄道管理局建設事務所に勤める官吏であった。鹿児島県立第一鹿児島中学校から宮崎県立宮崎中学校に転校、4年修了で第七高等学校へ進学。 七高在学中の1922年に村尾薩男、喜入虎太郎らと社会科学研究会を創設し、また学生や鹿児島県下の青年に対する啓蒙活動を行なった。1923年東京帝国大学文学部社会学科に進学、新人会、学生連合会、学生社会科学連合会の中心的指導者の一人であった。 1925年10月、共産主義者グループに参加し、志賀義雄、村尾薩男と3人で学生運動に対するフラクションを構成した。
團 勝磨(だん かつま、1904年10月16日 - 1996… 團 勝磨(だん かつま、1904年10月16日 - 1996年5月18日)は、日本の発生生物学者。東京都立大学名誉教授。理学博士。 東京府(現・東京都)生まれ。男爵團琢磨の次男。團伊能の弟。長姉・めいは三井鉱山の社長を務めた牧田環に、三姉・スミは日本石油(現・ENEOS)の社長を務めた小倉房蔵に嫁いだ。父からは跡継ぎに望まれていたが、親の七光りと言われることを嫌い、旧制中学の時に読んだ丘浅次郎『進化論講話』に触発されて生物学の道に進む。 旧制青山学院中学部(現・青山学院中等部・高等部)から旧制第一高等学校入試に失敗、1年浪人後、旧制水戸高等学校理甲に入学。1929年、東京帝国大学理学部動物学科卒業後、発生学の権威ハイルブラン(英語版)を頼ってペンシルベニア大学大学院に留学。
山東 永夫(さんとう ながお、1904年10月16日 - 2… 山東 永夫(さんとう ながお、1904年10月16日 - 2000年10月30日)は、日本の経営者。紀陽銀行頭取を務めた。和歌山県出身。 1927年に和歌山高等商業学校を卒業し、同年に紀陽銀行に入行。 1948年に取締役に就任し、1956年に常務、1964年に専務を経て、1970年10月に頭取に就任。1981年4月に会長を経て、1985年6月から相談役を務めた。 南海電気鉄道、テレビ和歌山各監査役も務めた。 1975年11月に勲四等瑞宝章を受章し、1986年4月に勲三等瑞宝章を受章。 2000年10月30日肺炎のために死去。96歳没。
田中 香苗(たなか かなえ、1904年(明治37年)10月1… 田中 香苗(たなか かなえ、1904年(明治37年)10月15日 - 1985年(昭和60年)10月13日)は、日本のジャーナリスト、実業家。毎日新聞社社長、日本国際連合協会理事長。東亜国内航空会長。 香川県大川郡白鳥町(現・東かがわ市)生まれ。 東亜同文書院卒業後、大阪毎日新聞社に入社。満洲事変や西安事件報道などを手掛け、戦中は東亜部長を務め、敗戦後は海外特派員の引揚げ業務を担当した。その後、ラジオ東京(現・TBSラジオ)など放送事業畑で活躍し、同郷の政治家平井太郎が民間放送を設立する際、協力し、1953年(昭和28年)にラジオ四国(現・西日本放送)が開局している。 西部本社代表を経て、1956年(昭和31年)に取締役に選任され、代表取締役・編集主幹、代表取締役会長・主筆を経て、1974年11月から76年2月までに社長を務めた。
宇田 耕一(うだ こういち、1904年(明治37年)10月1… 宇田 耕一(うだ こういち、1904年(明治37年)10月15日 - 1957年(昭和32年)12月30日)は、昭和期の日本の政治家、実業家。経済企画庁長官(第3-4代)、科学技術庁長官(第2-3代)、衆議院議員(3期)。旧姓は六田。 高知県出身。大阪市西区で六田橘太郎、ウタ夫妻の六男として生まれる。1917年(大正6年)土佐中学校・高等学校の創立者でもある海運業者で衆議院議員(憲政会)も務めた宇田友四郎の養子となる。幼少期は高知県香美郡岸本町の伯父の家で育ち、岸本尋常小学校から高知県立第一中学校(現高知県立高知追手前高等学校)、高知高等学校(現高知大学)を経て、京都帝国大学法科に入学。1929年(昭和4年)卒業後、ヨーロッパ視察、兵役を経て、1930年(昭和5年)南満洲鉄道に入社。
仲村 清栄(清榮、なかむら せいえい、1904年(明治37年… 仲村 清栄(清榮、なかむら せいえい、1904年(明治37年)10月15日 - 1958年(昭和33年)5月27日)は、昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 沖縄県那覇区垣花町(現那覇市垣花町)で、清水泡盛醸造元の仲村家に生まれる。1923年(大正12年)那覇市立商業学校を卒業。その後上京して、1927年(昭和2年)、早稲田大学法律科を卒業。 帰郷して家業に従事。その後、沖縄酒造組合連合会代議員、同評議員、那覇商工会議所議員、首里無尽社長などを務めた。 1941年(昭和16年)沖縄県多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に選出され、同年9月20日に就任し交友倶楽部に所属したが、1942年(昭和17年)12月14日に議員を辞職した。
宮川 善造(みやかわ ぜんぞう、1904年(明治37年)10… 宮川 善造(みやかわ ぜんぞう、1904年(明治37年)10月14日 - 1985年(昭和60年)12月11日)は、日本の地理学者。満州の建国大学で教鞭をとった。 青森県弘前市出身。京都大学地理学教室を卒業。大学院を経て東北の東北学院高等学校の教授となる。その後、1938年、作田荘一が指導する満州の建国大学へ着任する。戦後はチェレンホーボ炭鉱に抑留され、1947年に日本に帰国した。1949年に東北大学の講師、翌年に教授となった。 太平洋戦争中の彼の論文「大東亜地政学と満洲の地位」によれば、大東亜共栄圏について大東亜という広い地域のなかでの日本を中核とした国家連合を想定した。その大東亜の範囲について、日本を中心に、内核には日本、満州、中国を、中間圏にタイ王国やフィリピン、極東のシベリアなど、外側にはオーストラリアやアリューシャン列島などを想定する。
林 塩(はやし しお、女性、1904年〈明治37年〉10月1… 林 塩(はやし しお、女性、1904年〈明治37年〉10月14日 - 1992年〈平成4年〉5月8日)は、昭和期の看護師、政治家。参議院議員(1期)、日本看護協会会長。 兵庫県神戸市奥平野で、弁護士の林松柏、千万(ちま)の第9子、五女として生まれる。1912(大正元年)9月に父が死去したため、兵庫中道通の中尾家の養女となるが、奥平野の山田家に預けられた後、1916年(大正5年)夏に淡路島洲本在住の母のもとに戻った。1919年(大正8年)3月、洲本尋常高等小学校を卒業し、地元の鐘淵紡績(のちカネボウ)の工場に事務員として就職した。 1922年(大正11年)4月、日本赤十字社大阪支部病院(現大阪赤十字病院)救護看護婦養成所(のち大阪赤十字看護専門学校)に入学(14回生)。
石橋 英樹(いしばし ひでき、1904年10月13日 - 没… 石橋 英樹(いしばし ひでき、1904年10月13日 - 没年不詳)は、日本の実業家、電気技術者。 石橋茂樹の長男として、福岡県に生まれる。1922年福岡県立中学修猷館、1925年3月旧制福岡高等学校理科甲類を経て、1928年九州帝国大学工学部電気工学科を卒業。 1928年三菱電機神戸製作所に入社。同年から1930年まで米国ウェスティングハウス社に留学。1954年技術部長、1958年神戸製作所長を経て、1960年11月取締役となる。1963年11月電子事業部長を委嘱される。1966年11月退任。 1967年5月三菱プレシジョン副社長を経て、1969年5月社長に就任。
吉満 義彦(よしみつ よしひこ、1904年〈明治37年〉10… 吉満 義彦(よしみつ よしひこ、1904年〈明治37年〉10月13日 - 1945年〈昭和20年〉10月23日)は、日本の哲学者。日本における最初のキリスト教哲学者。 鹿児島県奄美群島徳之島の亀津(現大島郡徳之島町)出身。鹿児島一中、第一高等学校文科丙類(仏語)を経て、1928年東京帝国大学倫理学科卒。在学中、岩下壮一に出会いプロテスタントからカトリックに改宗。フランスでジャック・マリタンに師事。1931年上智大学講師、東京公教神学校講師。雑誌『創造』、『カトリック研究』などに寄稿。また、戦時中の「近代の超克」企画に参画した。
万沢 遼(まんざわ とおし、1904年10月13日 - 19… 万沢 遼(まんざわ とおし、1904年10月13日 - 1993年8月11日)は、日本の文学者、翻訳家。 北海道出身。1927年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒、獨協学園高等学校教諭、獨協大学教授。1975年定年、名誉教授。ドイツ語、英語などの翻訳を行った。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
茂田井 教亨(もたい きょうこう、1904年10月12日 -… 茂田井 教亨(もたい きょうこう、1904年10月12日 - 2000年5月11日)は、日蓮宗の僧、仏教学者。 東京市(現東京都中央区)出身。立正大学文学部国文科卒、同助教授、教授、立正大学日蓮教学研究所所長。1975年名誉教授。1989年「観心本尊抄研究序説 宗学体系化への試み」で立正大学より文学博士の学位を取得。東京杉並堀之内の妙法寺山主、八王子の最教寺住職を務めた。 清水龍山に師事。日蓮を宗教哲学の観点からとらえた。
萩原 淳(はぎわら きよし、1904年〈明治37年〉10月1… 萩原 淳(はぎわら きよし、1904年〈明治37年〉10月11日 - 1987年〈昭和62年〉12月14日)は、将棋棋士。棋士番号5。九段。日本将棋連盟会長。土居市太郎名誉名人門下。兵庫県尼崎市出身。日本将棋連盟の創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人。 1922年土居市太郎に入門。兄弟弟子に金子金五郎、加藤博二、大内延介らがいる。1924年四段昇段。 史上初の実力制名人を決める第1期名人戦(八段者によるリーグ、1935 - 1937年)の最中、将棋界の分裂事件(神田事件)が発生。欠員を補充する形で萩原は1936年に八段昇段し、リーグに参加。 1941年、オール八段戦優勝。
城 義臣(じょう ぎしん、1904年(明治37年)10月11… 城 義臣(じょう ぎしん、1904年(明治37年)10月11日 - 1976年(昭和51年)9月21日)は日本の政治家、実業家。参議院議員(1期)。 1904年(明治37年)、熊本県に生まれる。1928年(昭和3年)に法政大学法文学部哲学科を卒業し、1929年(昭和4年)に早稲田大学政治経済学部を卒業する。 法政大学社会学研究室助手・講師、九州日報編集局員、日本ピアノ輸入・帝國土地建物・甲南航空工業・天産航空部品・城興産・竜門木材工業各取締役、私塾城山学舎舎主、福岡文化学園理事長兼校長を歴任する。 1948年の参議院熊本県選挙区補欠選挙に日本自由党から出馬し、当選する。第3次吉田内閣で行政管理政務次官に就任し、自由党政務調査会副会長、同党顧問を務める。
村井 武生(むらい たけお、男性、1904年10月11日 -… 村井 武生(むらい たけお、男性、1904年10月11日 - 1946年2月1日)は、日本の詩人。本名=邑井武雄。 1904年(明治37年)石川県石川郡美川町(現:白山市)にて生まれる。幼少期に一家は金沢に移り、武雄は文学に興味を持つようになり、室生犀星、木山捷平など多くの詩人と交流し、雑誌を発行する。東京や大阪に転居したが、1934年(昭和 9年)に金沢へ移り、 粟崎遊園の少女歌劇の舞台監督、脚本などに関わる。1940年(昭和15年)中国の太原で新聞局員となり、終戦後、1946年(昭和21年)帰国前に北京にて客死。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
榎本 健一(えのもと けんいち、1904年(明治37年)10… 榎本 健一(えのもと けんいち、1904年(明治37年)10月11日 - 1970年1月7日)は、日本の俳優、歌手、コメディアンである。当初は浅草を拠点としていたが、エノケンの愛称で広く全国に知られていった。「日本の喜劇王」とも呼ばれ、第二次世界大戦期前後の日本で国民的喜劇俳優として活躍した。 東京市赤坂区青山(現在の東京都港区青山)で生まれる。幼少期に母を亡くし、その家系の祖母が引き取るが、その祖母も死去。父親の元で育てられるものの、生来のやんちゃな性格が仇となり、学校から親が呼び出されることもしばしばあった。小学校時代の通信簿に「修身」で「甲乙丙丁」の落第点である「丁」をつけられて、鉛筆で上手に丁の字に線を書き加えて「甲」に見せかけて父親に見せたが、すぐに見破られて大変叱られたエピソードがある。
武藤 俊之助(むとう としのすけ、1904年(明治37年)1… 武藤 俊之助(むとう としのすけ、1904年(明治37年)10月9日 - 1973年(昭和48年)11月18日)は、日本の物理学者。専門は原子核物理学。東京大学物性研究所第2代所長。東京大学教授。九州大学教授。理学博士。 岐阜県出身。1928年(昭和3年)、東京帝国大学理学部物理学科卒業。1年間の大学院生活を経て、1930年(昭和5年)、理化学研究所(石田義雄研究室)研究員。1938年(昭和13年)、理学博士。1939年(昭和14年)、九州帝国大学に理学部が設置されるのに伴い、九州帝国大学理学部物理学第一講座初代教授に就任。1940年(昭和15年)、プリンストン高等研究所留学。戦後、1946年(昭和21年)、東京大学理工学研究所教授。
斎藤 銀次郎(さいとう ぎんじろう、1904年〈明治37年〉… 斎藤 銀次郎(さいとう ぎんじろう、1904年〈明治37年〉10月7日- 1979年〈昭和54年〉12月15日)は、元将棋棋士。1966年に日本将棋連盟を退会、連盟在籍時は石井秀吉七段門下。 1904年、東京府城東区(現:東京都江東区)大島町で生まれる。 1927年に二段で石井秀吉に入門。1929年(昭和4年)に四段。 1937年(昭和12年)に八段。第2期名人戦(1937年 - 1940年)から八段リーグに参加し、第1期順位戦(1947年)ではA級に参加。1965年(昭和40年)に引退。 引退後の1966年8月20日に、「一身上の都合」により日本将棋連盟を退会した。退会に際し、日本将棋連盟は将棋雑誌に「お知らせ」を掲載した。
森川鹿次(もりかわ しかじ、1904年10月7日 - 198… 森川鹿次(もりかわ しかじ、1904年10月7日 - 1981年2月20日)は、日本のヤクザ。森川組初代。四代目山口組舎弟・矢嶋長次は、娘婿。愛媛県川之江町(現:四国中央市)出身。 明治37年(1904年)10月7日、愛媛県川之江町(現:川之江市)で生まれた。生家は士族の旧家だったが、すでに没落していた。幼少期には、メンコに熱中した。 その後、森川鹿次は、松山市に出て、呉服屋に丁稚奉公した。 大正14年(1925年)、森川鹿次は、妹・悦子と妹婿の檜垣信太郎とともに、満州大連に移り住んだ。森川鹿次と檜垣信太郎は、クリーニング屋を隠れ蓑にして、大連で拳銃を買い集め、大阪に密輸した。森川鹿次は、税関吏・宮内を買収していた。
瀬沼 茂樹(せぬま しげき、1904年10月6日 - 198… 瀬沼 茂樹(せぬま しげき、1904年10月6日 - 1988年8月14日)は、日本の文芸評論家、翻訳家。本名は鈴木忠直。 東京府生まれ。1929年、東京商科大学(現一橋大学)卒。金子鷹之助ゼミでノヴァーリスを学んだ。在学中伊藤整と知り合い終生の親友となる。出版社に勤め、1930年、伊藤の『文芸レビュー』同人となり、谷川徹三の知遇を得て評論活動を始める。1932年、イポリット・テーヌの『文学史の方法』を翻訳、岩波文庫から刊行。唐木順三、藤原定らと季刊『理論』を創刊、1933年、最初の著書『現代文学』を上梓、1934年、埼玉県立商業学校教師、1935年、川越中学校教師、1937年から化粧品会社に勤め、執筆活動を一時休止。
下程 勇吉(したほど ゆうきち、1904年10月6日 - 1… 下程 勇吉(したほど ゆうきち、1904年10月6日 - 1998年3月17日)は、日本の教育学者、京都大学名誉教授。教育人間学を提唱した。 広島県安佐郡戸山村にて下程直太郎の長男として誕生。1924年3月広島県立第一中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)卒業。1927年3月広島高等学校(文科乙類)卒業。 1930年京都帝国大学文学部哲学科卒。1937年京都府立医科大学予科教授。1947年、京都大学助教授、「天道と人道 二宮尊徳の哲学」で、文学博士(京都大学)を取得。1948年京都大学教授。教育学部創設に参加し1951年から学部長。1968年定年退官、名誉教授。 松蔭女子学院大学学長 (1968.4 - 1970.3)。
鬼木 勝利(おにき かつとし、1904年〈明治37年〉10月… 鬼木 勝利(おにき かつとし、1904年〈明治37年〉10月6日 - 1984年〈昭和59年〉2月10日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)、衆議院議員(2期)。 福岡県甘木市(現朝倉市)出身。創価学会八女支部長を務める。 1959年、福岡県議会議員選挙に、福岡市早良区選挙区から無所属で立候補し、当選する。 1962年7月1日、第6回参議院議員通常選挙に、全国区から公明政治連盟公認候補として立候補し、当選する。 1964年11月17日、公明党結成に参加する。 1969年12月27日、第32回衆議院議員総選挙に福岡3区から立候補し、当選する(以降2期)。 1972年12月10日、第33回衆議院議員総選挙に立候補し、落選する。
金 鍾信(キム・ジョンシン、朝鮮語: 김종신、1904年10… 金 鍾信(キム・ジョンシン、朝鮮語: 김종신、1904年10月5日 - 1977年11月12日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の実業家、政治家。馬山市議会議員、馬山市長、第3代韓国国会議員を歴任した。仏教徒。 慶尚南道馬山府(現・昌原市)出身。中央大学政経学部2年修了。日本統治時代は新幹会の幹部を務めたが、青年運動と治安維持法違反により西大門刑務所で3年間服役した。その後は馬山昌信中学教諭を経て、醸造業を営んだ。解放後は馬山東洋酒精(または東洋酒造)社長、東洋酒類社長、馬山商工会議所会頭、大東工業社長、造船商事社長、馬山野協会長、馬山警察後援会長、司法保護協会会長、馬山府会議員・馬山市議会議員、第8代馬山市長(1952年5月5日 - 1953年5月15日)、国民会馬山支部会長、第3代国会予算決算委員長(1957年9月6日~1958年5月30日)、自由党馬山市党委員長・院内副総務、馬山日報創業者、第一生命保険社長、馬山大学学長、馬山慶南每日新聞社長、馬山文化放送代表理事、民主共和党慶尚南道第1地区党委員長・中央常任委員を務めた。
佐竹 義利(さたけ よしとし、1904年10月2日 - 19… 佐竹 義利(さたけ よしとし、1904年10月2日 - 1989年1月19日)は、日本の実業家・華族(男爵)。東洋製作所社長。 佐竹東家(旧出羽秋田藩主・佐竹氏の分家)第23代当主・佐竹義準男爵の長男として東京府(現・東京都)に生まれた。1924年、父の死に伴い家督を継ぎ、男爵を襲爵。 東京高等師範学校附属中学校、旧制水戸高等学校を経て、1930年に東京帝国大学工学部航空工学科を卒業し、三菱航空機名古屋製作所に入社した。就職先に三菱系の企業を選んだのは妹の操子が三菱財閥の創業者一族・岩崎彦弥太に嫁いでいることが関係していたと考えられている。三菱重工業、東洋機器製作所勤務を経て東洋製作所の社長に就任。
大隅 健一郎(おおすみ けんいちろう、1904年10月2日 … 大隅 健一郎(おおすみ けんいちろう、1904年10月2日 - 1998年3月19日)は、日本の法学者。専門は商法。学位は、法学博士(京都大学・論文博士・1953年)(学位論文「株式会社法変遷論」)。京都大学名誉教授。最高裁判所裁判官。1973年勲一等瑞宝章受章、1977年日本学士院会員、1985年文化功労者、1993年文化勲章受章。愛知県蒲郡市出身。竹田省門下。弟子に上柳克郎、河本一郎、龍田節、川又良也など。 旧制岡崎中学校(現愛知県立岡崎高等学校)卒業。旧制第八高等学校(現名古屋大学)卒業。大学在学中に高等文官試験の行政科と司法科に合格。1928年に京都帝国大学法学部卒業。山田正三学部長の勧められて、京都帝国大学法学部助手となる。
坂田 勝郎(さかた かつろう、1904年(明治37年)10月… 坂田 勝郎(さかた かつろう、1904年(明治37年)10月1日 - 1990年(平成2年)1月16日)は、毎日新聞社元常務取締役(大阪本社代表)、毎日放送(MBS)元社長・会長、テレビ東京(TX)元取締役、宮崎放送(MRT)元取締役。 宮崎県延岡市出身。旧制第五高等学校(現・熊本大学)を経て、京都帝国大学卒業後、1932年(昭和7年)に大阪毎日新聞社へ入社。1943年(昭和18年)に大阪毎日新聞と東京日日新聞は新聞統制で東西で異なっていた題号を「毎日新聞」に統一し、両紙の発行元であった大阪毎日新聞社は社名を「毎日新聞社」に改めてから、バンコク特派員、広島支局長、郷里である宮崎支局長、宮崎放送取締役を務め、毎日新聞社常務取締役(大阪本社代表)に就任した。
岡崎 忠(おかざき ちゅう、1904年10月1日 - 199… 岡崎 忠(おかざき ちゅう、1904年10月1日 - 1990年2月10日)は、昭和後期から平成期の実業家。岡崎財閥の2代目総帥で、神戸商工会議所会頭等を務めた岡崎忠雄の婿養子。元海軍中将川島令次郎の四男。東京都出身。 旧制静岡高校を経て、1929年東京帝国大学を卒業後、三菱倉庫に勤務していたが、1931年岡崎忠雄の婿養子となり、1933年神戸岡崎銀行(後の神戸銀行、現在の三井住友銀行)に入行した。 1936年に神戸銀行が誕生して以降は、支店次長、支店長、本店営業部長などを歴任、1945年に常務、1947年1月に当時の経営陣が公職追放を受けて銀行を去ると、その翌月に頭取に就任。戦後の混乱の中、都市銀行としての確固たる地位を築き上げた。
穂積 七郎(ほづみ しちろう、1904年9月30日 - 19… 穂積 七郎(ほづみ しちろう、1904年9月30日 - 1995年12月10日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(7期)。 父は帝国議会議員を1期務めた鈴木麟三。兄は「アジア学生文化協会」などの設立者で社会教育家の穂積五一。義父は愛知県知事を1期務めた小畑忠良。新城市長の穂積亮次は子。 愛知県八名郡七郷村(現・新城市)出身。旧姓は鈴木。生まれる前の1904年6月27日に父を亡くした。 旧制愛知県豊橋中学校を経て、旧制第七高等学校造士館を1926年に卒業。同年東京帝国大学に入学。共に入学した兄の穂積五一は国家主義者らからなる「帝大七生社」に所属していたが、左翼の「新人会」とも交流し、両者の仲介も行った。
松井 達夫(まつい たつお、1904年 <明治37年> 9月… 松井 達夫(まつい たつお、1904年 <明治37年> 9月29日 - 1997年 <平成9年> 3月25日)は、日本の都市計画家、都市計画研究者。土木技術官僚。位階は正四位。 早稲田大学教授を務めた。このほか、帯広市市計画立案委員会委員長(帯広の団地のうち柏林台団地は昭和38年マスタープランを担当)、土木学会関東支部長、島根県庁周辺整備委員会委員、八王子土地利用計画研究委員会委員・幹事長、川崎市都市計画審議委員長、 南多摩地方計画策定委員会委員、 帝都高速度交通営団管理委員会委員、庵原地区総合開発調査委員会委員長、 港北ニュータウン計画に関して日本都市計画学会検討委員会委員長、 双葉原子力地区調査委員会委員長、 原子力委員会地帯整備専門部会都市計画小委員会主査 など、要職を多数歴任した。
四代目 尾上 菊次郎(よだいめ おのえきくじろう、1904年… 四代目 尾上 菊次郎(よだいめ おのえきくじろう、1904年(明治37年)9月29日 - 1981年(昭和56年)7月24日)は、主に関西歌舞伎で活躍した歌舞伎役者。屋号は音羽屋、定紋は向い菊、替紋は裏菊菱。俳名に幸菊がある。本名は渡辺 良雄(わたなべ よしお)。 二代目坂東彦十郎の次男。東京・築地出身。1910年(明治43年)4月帝国劇場『心中天網島』「紙治」の勘太郎で坂東子鶴を名のって初舞台。1919年(大正8年)6月帝劇『一谷嫩軍記』の熊谷の遠見で四代目坂東竹三郎を襲名する。その後も帝国劇場で活躍するも大正12年から市村座に入り六代目尾上菊五郎に弟子入りして活躍するうち才能を認められ、1924年(大正13年)5月、市村座での『義経千本桜』の小金吾と『娘道成寺』所化で名題昇進。
佐野 広(廣、さの ひろし、1904年(明治37年)9月28… 佐野 広(廣、さの ひろし、1904年(明治37年)9月28日 - 1980年(昭和55年)1月19日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員。旧姓は永井。 島根県大原郡春殖村(大東町を経て現雲南市)で、永井伊太郎の三男として生まれる。1925年(大正14年)弁護士佐野正雄の養子となった。旧制山口高等学校を経て、1932年(昭和7年)京都帝国大学法学部法律学科を卒業した。 1933年(昭和8年)出雲電気に入社。その後、代議士櫻内幸雄の秘書となる。戦後、中国電力島根支店次長、同東京支社長を歴任。その他、島根県農村電化協会会長、同体育協会理事長、日本バレーボール協会参与、ラジオ山陰(現山陰放送)相談役、民主党島根支部連幹事長、自由民主党島根支部連会長などを務めた。
中田 清兵衛(なかた せいべえ、1904年9月28日 - 1… 中田 清兵衛(なかた せいべえ、1904年9月28日 - 1989年12月16日)は、日本の銀行家。北陸銀行頭取を務めた。富山県出身。幼名・勇吉。 1925年に富山薬学専門学校を経て、1928年に明治大学政治経済学科を卒業。日本銀行での勤務を経て、金沢貯蓄銀行頭取、北陸配電監事、北陸銀行取締役などを歴任し、1949年4月には北陸銀行頭取に就任。1957年1月から1958年5月までに会長を務め、北陸電力と北日本放送で監査役も務めた。 1989年12月16日急性心不全のために死去。85歳没。
田村 雄一(たむら ゆういち、1904年(明治37年)9月2… 田村 雄一(たむら ゆういち、1904年(明治37年)9月27日 - 1981年(昭和56年)8月15日 )は、日本の教育者・大気電気学者。京都大学名誉教授、岡山県高梁市出身。 1904年(明治37年)に岡山県川上郡吹屋町(現:高梁市成羽町吹屋)で生まれる。その後は地元に近い旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学し、1922年(大正11年)に卒業。旧制第六高等学校を経て、1925年(大正14年)京都帝国大学へ入学。同大学工学部電気工学科を1928年(昭和3年)に卒業した。卒業論文は「電光と避雷」であり、これが田村の将来を決めた。 田村は、京大卒業後、発電所か鉄道関係への就職を考えていたが、同大学理学部物理学教室から大気電気の研究助手の話があり、長谷川万吉教授の研究室に入った。
浅見 隆三(あさみ りゅうぞう、1904年9月26日 - 1… 浅見 隆三(あさみ りゅうぞう、1904年9月26日 - 1987年7月23日)は、日本の陶芸家。日展参事。中国宋代の青白磁を基調に現代的感覚を加えた作風で知られた。第9回日展出品作「暢」により日本芸術院賞を受賞した。 京都市東山に、三代浅見五良助の次男として生まれる。本名は柳三。1923年に京都市立美術工芸学校図案科を卒業し、翌年関西美術院で洋画を学んだ。陶技は主として祖父の二代五良助に学び、1929年の第10回帝展で「三葉紋花瓶」が初入選した。 戦後は1945年から象嵌の手法を主体とした作品を制作し、1947年の第2回日展「象嵌 干柿の図皿」で特選、1951年の第7回日展「鶏頭ノ図花瓶」で再び特選を受け、翌年無鑑査となった。
牧野 吉晴(まきの よしはる、1904年9月25日 - 19… 牧野 吉晴(まきの よしはる、1904年9月25日 - 1957年12月21日)は、日本の美術評論家・小説家。 愛知県名古屋市生まれ。本名・勝彦。父は軍人。東海中学校(現∶東海中学校・高等学校)卒。冨澤有爲男が中学の先輩にいた。さらに東京植民貿易語学校、川端画学校に学ぶ。 金子光晴、赤松月船に師事して詩作、ついで小茂田清樹に師事して日本画を描く。1930年「猿猴図」が聖徳太子奉賛展で入選。また、正岡容と浪曲の巡業をし、吉井勇に師事してともに関西北陸を放浪。 1936年に放浪生活をやめ、中西悟堂の推薦で美術雑誌『東陽』を編集、美術評論を書く。同誌の創作欄に掲載された冨澤有爲男「地中海」が同1936年、芥川賞を受賞。
相原 信作(あいはら しんさく、1904年9月24日 - 1… 相原 信作(あいはら しんさく、1904年9月24日 - 1996年7月6日)は、日本の哲学研究者。
小柳 冨太郎(こやなぎ とみたろう、1904年(明治37年)… 小柳 冨太郎(こやなぎ とみたろう、1904年(明治37年)9月24日 - 1983年(昭和59年)10月25日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 長崎県北高来郡諫早村原口名(現諫早市)で生まれる。1918年、諫早高等小学校を卒業後西南学院で学ぶが、1922年6月で中退した。 1940年、上海で江南工業 (株) 社長に就任。1951年4月、富陽建設 (株) を設立して社長に就任。1977年に引退した。 政界では、1937年3月に長崎市会議員に当選。1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に長崎県から出馬して当選し衆議院議員を一期務めた。1951年4月、長崎県議会議員に諫早市選挙区から民主党公認で立候補して当選し、一期在任した。
村田 正志(むらた まさし、1904年9月23日 - 200… 村田 正志(むらた まさし、1904年9月23日 - 2009年6月26日)は、日本の歴史学者。専門は、日本南北朝史。三重県出身。 1904年、父の任地茨城県下妻で生れた。三重県富田中学校(現・三重県立四日市高等学校)で学び、1924年3月に卒業。同年4月、國學院大學予科に入学した。 1929年3月に國學院大學史学科を卒業後、同年4月に東京帝国大学史料編纂所嘱託として入所。史料編纂所では『大日本史料』第6編・第7編の編纂に従事した。1942年に史料編纂官補に昇任。1951年、学位論文『南朝歴代天皇御事蹟の研究』を國學院大學に提出して文学博士の学位を取得。 1930年代に南北両朝の取扱について、史学界内外から圧力が起こり、『大日本史料』第6編29は、1939年以降から1951年まで刊行が中断された。
渋谷 昇(澁谷昇、しぶや のぼる、1904年〈明治37年〉9… 渋谷 昇(澁谷昇、しぶや のぼる、1904年〈明治37年〉9月23日 - 1994年〈平成6年〉6月6日)は、日本の実業家・政治家・慈善家。広島県福山市出身。福山市市議会議員。福山通運、ベッセルを創業し、しぶや美術館、福山通運渋谷長寿健康財団、財団法人渋谷育英会を創設した。1956年に紺綬褒章受章、以後、延べ15回受章。 広島県芦品郡有磨村下有地山村(現在の福山市芦田町下有地)に5人兄弟(2男3女)の男(4番目)として、かつて庄屋を務めた旧家に生まれる。父・新太郎は土建業を営み、比較的裕福な家であった。芦田川の治水事業を多く手がけ、地区の中心的な名家であったが、1919年(大正8年)7月に備後地方を襲った未曾有の大水害によって、手がけていた芦田川堤防工事、県道の補修工事、城山 の砂防工事のすべてが跡形も無く崩壊し、大損害をこうむった。
久我 通顕(こが みちあき、1903年〈明治36年〉10月2… 久我 通顕(こが みちあき、1903年〈明治36年〉10月23日 - 1982年〈昭和57年〉11月10日)は、日本の華族。旧公卿家。侯爵。貴族院議員。女優久我美子の父。 久我常通の長男として生まれる。1936年(昭和11年)父退隠の後を承け、家督を相続する。國學院大學国文学科卒業。 1943年(昭和18年)内務省委員となり後近代商業美術協会長に就任 戦前、国語の教師をしたこともあったが、ほとんど仕事はしなかった。 華族の娘と一緒になるのはいやで、粋筋に通じた下町娘を好んだという。じっさい遊びでも華族ではアカ抜けていたほうで、下情にも通じていた。父常通も通顕も戦前は決まった職業を持たなかった。妻与志江によれば「遊び人の血筋なんでしょうか。
山田 忍(やまだ しのぶ、1903年(明治36年)10月23… 山田 忍(やまだ しのぶ、1903年(明治36年)10月23日 - 1996年(平成8年)5月18日)は、日本の農学者・地方公務員。学位は、農学博士(北海道大学)・理学博士(北海道大学)。帯広畜産大学名誉教授。また、専修大学北海道短期大学学長を務め、専修大学北海道短期大学の基盤創出に尽力した。山形県出身。 1927年(昭和2年)、北海道帝国大学農学部農芸化学科を卒業し、北海道庁に入庁。農産部農芸化学科長、北海道農事試験場根室支場長を経て、同中標津拓殖実習場長となる。1947年北海道庁を退官する。帯広農業専門学校教授・農学科長・附属農場長。1949年、学位論文「火山性地土性調査法と北海道に於ける火山性土壤」で北海道大学より農学博士の学位を取得、帯広畜産大学畜産学部教授に就任。
梅村 蓉子(うめむら ようこ、1903年10月21日 - 1… 梅村 蓉子(うめむら ようこ、1903年10月21日 - 1944年3月8日)は、日本の女優である。本名は鈴木 花子(すずき はなこ)。 1903年(明治36年)10月21日、東京府東京市日本橋区日本橋蛎殻町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町)の瀬戸物問屋に「鈴木花子」として生まれる。 旧制小学校に上がる1910年(明治43年)には、東京市本郷区(現在の文京区本郷)の本郷座で新派の初舞台を踏む。有楽座のお伽芝居の舞台にも立つ。 1922年(大正11年)、松竹蒲田撮影所に入社し、翌1923年(大正12年)公開、島津保次郎監督の『散りにし花』で映画界にデビューする。同年9月1日の関東大震災によって同撮影所は稼動を停止し、京都の松竹下加茂撮影所に異動になる。
芥田 武夫(あくた たけお、1903年10月20日 - 19… 芥田 武夫(あくた たけお、1903年10月20日 - 1987年9月5日)は、日本のアマチュア野球選手・プロ野球監督・プロ野球球団経営者、スポーツ記者、野球解説者。兵庫県加東市出身(姫路市野里町とする資料もあり)。旧姓:氷室(ひむろ)。 兵庫県立姫路中学校卒業後、1922年に早稲田大学へ入学。早大野球部では飛田忠順監督の「精神野球」に鍛練され、外野手として活躍。1925年秋季には東京六大学リーグ最初の首位打者を獲得した(当時は「氷室武夫」)。1926年には主将を務めた。大学時代の通算成績は65試合出場、240打数63安打、打率.263、2本塁打(六大学リーグ以前も含む)。卒業後、満洲国へ渡り南満洲鉄道に入社し満洲倶楽部(大連市)の選手として活動。
田口 ツギ(たぐち ツギ、1903年〈明治36年〉10月19… 田口 ツギ(たぐち ツギ、1903年〈明治36年〉10月19日 - 1934年〈昭和9年〉8月19日、女性)は、昭和初期の日本の社会運動家、治安維持法の下で非合法政党であった時期の日本共産党の党員。 群馬県群馬郡滝川村(後の高崎市の一部)に生まれる。生家は、半農半商の穀屋であったが、1920年の戦後恐慌の際に破産した。 上級学校へは進学しなかったが、養蚕や農業に従事しながら、下田歌子の実践女学校における講義録を読み、独学青年の集まる「詩と歌の会」に参加するなどしていた 1925年1月、姉である田口マチ(後の梶並マチ)とともに、前橋市で開かれた講演会で、東京合同労働組合の活動家であった丹野セツの講演に触れる。
柏 正男(かしわ まさお、1903年(明治36年)10月18… 柏 正男(かしわ まさお、1903年(明治36年)10月18日 - 1973年(昭和48年)6月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 青森県で生まれる。1936年、九州帝国大学法文学部法律科を卒業した。 日本社会党に所属して、1958年5月、第28回衆議院議員総選挙で埼玉県第一区から出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。 全国選挙管理委員会委員、中央選挙管理会委員、東京家庭裁判所調停委員、アジア民族親善協会常任理事、日本ベトナム友好協会常任理事、日本中国国交回復国民会議理事、自由人権協会監事などを務めた。 1973年6月4日死去、69歳。死没日をもって勲三等瑞宝章追贈、正五位に叙される。
池田 雄一郎(いけだ ゆういちろう、1903年10月18日 … 池田 雄一郎(いけだ ゆういちろう、1903年10月18日 - 1973年8月3日)は、日本の物理学者。 静岡県出身。1930年東京帝国大学物理学科卒業、1935年同大学院修了。1939年旧制立教中学教諭、1943年旧制松本高等学校教授、1949年信州大学理学部教授、1952年理学部長、1967年教養部長、1968年学長を歴任した。 俳人としては「魚魯」と号した。
清水 喜三郎(しみず きさぶろう、1903年10月18日 -… 清水 喜三郎(しみず きさぶろう、1903年10月18日 - 2000年4月12日)は、日本の経営者。三菱レイヨン社長を務めた。岡山県出身。 1932年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に新興人絹(のちの三菱レイヨン)に入社。1953年11月に常務に就任し、1959年11月に専務を経て、1961年11月に副社長に就任し、1967年5月には社長に昇格。1973年11月に会長、1978年6月に相談役を経て、1987年6月から顧問を務めた。 1973年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 2000年4月12日心不全のために死去。96歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
立野 信之(たての のぶゆき、1903年10月17日 -19… 立野 信之(たての のぶゆき、1903年10月17日 -1971年10月25日)は日本の小説家。 千葉県市原郡五井町(現・市原市五井地区)生まれ。旧制関東中学校中退。 4歳で母と生別し、12歳で父を失い、祖父母に養育される。中学時代に短歌を始め、窪田空穂らの「國民文学」に投稿。1921年に山田清三郎・松本昌夫・奧貫信盈・元吉利義らとともに短歌同人雜誌「曠野」を発刊。1922年に親戚の伊藤恣・山田清三郎らとともにプロレタリア文学雑誌『新興文学』を発刊し、同誌に評論「階級の文学」を發表。20歳で市原郡五井町役場に就職するも、2年後に佐倉步兵連隊に入営。除隊後の1925年頃より雑誌『文芸戦線』にエッセイや評論、詩を寄稿。
水上 達三(みずかみ たつぞう、1903年〈明治36年〉10… 水上 達三(みずかみ たつぞう、1903年〈明治36年〉10月15日 - 1989年〈平成元年〉6月16日)は、日本の実業家。 山梨県北巨摩郡清哲村字青木(現・韮崎市)に農業水上勘三郎・千鶴夫妻の五男として生まれる。水上家は江戸時代、庄屋を務めた家系という。国文学者の清水泰は実兄。 旧制甲府中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)を経て、1928年東京商科大学(現一橋大学)卒。大学の同期には三井物産副社長や東レ副社長等を務めた町田栄次郎、三菱地所社長を務めた伊藤達二、松下電器理事を務めた乗松健二、第一電工社長等を務めた松原美義がいる。 1928年三井物産入社。高崎派出所駐在員を命ぜられ、以後6年間を同地で過ごす。