永井 作次(ながい さくじ、1871年12月21日(明治4年… 永井 作次(ながい さくじ、1871年12月21日(明治4年11月10日) - 1930年(昭和5年)6月5日)は、日本の政治家、法律家、実業家。衆議院議員、鹿児島座社長、九州電力(旧鹿児島電気)社長。従七位。 1871年(明治4年)11月に鹿児島県諸県郡、のちの宮崎県北諸県郡都城町(現都城市)で生まれた。 1894年(明治27年)、和仏法律学校(現・法政大学)邦語法律科を卒業する。 鹿児島地方裁判所検事・鹿児島区裁判所検事をつとめ、退官後弁護士となる。 鹿児島座(1912年(大正1年)完成、1913年(大正2年)1月1日開場)の社長に就任する。九州で初めて専属の少女歌舞伎団「若葉会」を擁し、少女歌舞伎を常打ちした他、東京から一流の芸人を招いて、歌舞伎・新派・浪曲・義太夫・講談・落語・奇術などの興行を行った。
児玉 謙次(こだま けんじ、1871年12月18日(明治4年… 児玉 謙次(こだま けんじ、1871年12月18日(明治4年11月7日) - 1954年(昭和29年)2月13日)は、日本の実業家。 香川県高松市生まれ。高等商業学校附属外国語学校(のちの東京外国語学校)を経て、1892年高等商業学校(一橋大学の前身)卒。 会計検査院に勤務し、1893年横浜正金銀行(のちの東京銀行)入行。1922年同頭取。大蔵省顧問、中支那振興株式会社総裁、貴族院議員(1939年8月28日任命)などを歴任。1945年終戦連絡事務局総裁。1946年5月14日、貴族院議員を辞職した。 1954年2月13日歿。行年84歳。墓所は染井霊園1-イ-4-7。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
西沢 定吉(にしざわ さだきち、明治4年11月4日(1871… 西沢 定吉(にしざわ さだきち、明治4年11月4日(1871年12月15日) - 昭和16年(1941年)9月24日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、天童町長。 山形県西村山郡大谷村(現在の朝日町)出身。1890年(明治23年)、宮城農学校(現在の宮城県農業高等学校)を卒業。翌年、専修学校(現在の専修大学)理財科に入学し、1893年(明治26年)に卒業した。 1900年(明治33年)より郡農会議員・県農会議員を務め、1903年(明治36年)には県会議員・東村山郡会議員に選出された。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。4期務めた(第10回、第14回、第15回、第17回)。
尼ヶ嵜 清吉(あまがさき せいきち、1871年12月14日〈… 尼ヶ嵜 清吉(あまがさき せいきち、1871年12月14日〈明治4年11月13日〉 - 1947年〈昭和22年〉3月4日)は、現在の大阪府大阪市西淀川区出身で高砂部屋に所属した力士。本名は半田 清吉。10代振分、12代間垣。170cm、79kg。最高位は西小結。 大阪府下西成郡福村(現在の大阪市西淀川区)の鮮魚商の家に生まれる。宮相撲で活躍し、宮相撲仲間の兄が尼崎に居住していて入門時に世話となったため尼ヶ崎と名乗る。 1896年1月初土俵(序ノ口)、この時24歳と晩成であった。相撲名人と呼ばれた逆鉾与治郎から押し相撲の極意を教わり開花。好成績を続け1899年5月新十両、1900年1月新入幕。大砲万右エ門と2度の引分を演じ、1908年1月に36歳の高齢で小結昇進。
高橋 貞三郎(たかはし ていざぶろう、 1871年12月12… 高橋 貞三郎(たかはし ていざぶろう、 1871年12月12日〈明治4年11月1日〉 - 1934年〈昭和9年〉2月26日)は、明治から昭和期の実業家。三井物産大阪支店長を務めたほか、富士製紙(現在の王子製紙)専務取締役、樺太鉄道取締役、東京金鋼、北海道電灯などの重役を歴任した。 岡山県後月郡高屋町(現在の井原市)出身。 東京へ出て、築地の立教学校(現在の立教大学)で学ぶ。24歳の時にアメリカに留学し、イェール大学を卒業した。イェールの記録では、1897年に立教に学び、1900年よりイェールの大学院で社会科学を専攻、1901年に修士号を取得した。 帰国後1902年に三井物産に入社し、1913年(大正2年)には同社大阪支店長に就任した。
大瀧 新之助(おおたき しんのすけ、1871年12月9日〈明… 大瀧 新之助(おおたき しんのすけ、1871年12月9日〈明治4年10月27日〉 - 没年不明)は、日本の弁護士、実業家。族籍は京都府士族。 旧米沢藩士・大瀧忠徳の長男。1899年、東京帝国大学法科大学英法科を卒業、法学士の学位を得る。1900年、家督を相続する。 弁護士を開業し、京都市に於いて訴訟事務に従事する。傍ら会社の重役である。東亜組社長、昭和電球相談役、山城銀行取締役、京都精米、山城銀行、日本硬化煉瓦各監査役などをつとめる。 趣味は囲碁、俳句、書画。宗教は禅宗。住所は京都市上京区寺町通今出川上ル。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
磯貝 一(いそがい はじめ、1871年12月8日(明治4年1… 磯貝 一(いそがい はじめ、1871年12月8日(明治4年10月26日) - 1947年(昭和22年)4月19日)は、日本の柔道家。段位称号は講道館柔道十段、大日本武徳会柔道範士。講道館柔道殿堂。 延岡藩藩士で関口流柔術家にして柔道教士の磯貝恒久の長男として、現在の宮崎県延岡市に生まれる。 1891年(明治24年)上京し講道館に入門する。 1893年(明治26年)京都の第三高等学校の嘱託柔道教師となる。 1899年(明治32年)、大日本武徳会柔道教授に就任。 1913年(大正2年)4月、大日本武徳会柔道範士の称号を授与される。 1923年(大正12年)12月22日、永岡秀一と共に、当時の生存者としては初の十段に昇進した。
正木 義太(まさき よしもと、1871年12月7日(明治4年… 正木 義太(まさき よしもと、1871年12月7日(明治4年10月25日) - 1934年(昭和9年)10月29日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 広島県佐伯郡玖波村(現・大竹市玖波)の豪農正木富次と長谷川シモの次男として生まれる。正木家は伊予松前城発祥の家系で、関ヶ原の戦い後福島正則の家臣となったが、改易されたため帰農した。父の富次は、同町の正則後裔という福島家から正木庄蔵の養子となっている。 (明治27年)11月、海軍兵学校(21期)を卒業し、少尉候補生として「大和」に乗り組み日清戦争に出征。1895年(明治28年)12月に海軍少尉に任官し佐世保鎮守府海兵団分隊士となる。 1899年(明治32年)9月、「比叡」分隊長兼航海長(豪州回航)となり、「鳥海」分隊長、同航海長、呉水雷団第2水雷艇隊艇長、「橋立」分隊長、艦政本部副官などを歴任。
土井 晩翠(どい ばんすい、1871年12月5日〈明治4年1… 土井 晩翠(どい ばんすい、1871年12月5日〈明治4年10月23日〉 - 1952年〈昭和27年〉10月19日)は、日本の詩人、英文学者。本名、土井 林吉(つちい りんきち)。 詩風は男性的な漢詩調で、女性的な詩風だった島崎藤村(『若菜集』など)と並んで「藤晩時代」と称された。また、瀧廉太郎の作曲で知られる『荒城の月』の作詞者としても知られ、校歌・寮歌なども多く作詞した。戦陣訓の文校正でも知られる。英文学者として、ホメーロス、カーライル、バイロンなどを翻訳している。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 1871年(明治4年)、仙台県仙台の北鍛治町(現在の宮城県仙台市青葉区木町通2丁目)に、富裕な質屋の土井林七、あいの長男として生まれた。
熊谷 三太郎(くまがい さんたろう、1871年12月5日(明… 熊谷 三太郎(くまがい さんたろう、1871年12月5日(明治4年10月23日) - 1951年(昭和26年)5月1日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。旧姓は藤原。 福井県敦賀市阿曾出身。福井市の熊谷げんの養子となる。福井県立中学校を修了する。1898年(明治31年)宿布発電所の土木工事を請け負う。1907年(明治40年)中尾発電所工事で飛島組の下請けとなり、1926年(大正15年)飛島組取締役に就任。1938年(昭和13年)熊谷組を創立した。この間、1925年(大正14年)福井市会議員、同議長、福井県会議員などを歴任。ほか、熊谷組会長、第五十七銀行、中越銀行各頭取、敦賀セメント社長などを務めた。
三谷 一二(みたに いちじ、1871年12月4日(明治4年1… 三谷 一二(みたに いちじ、1871年12月4日(明治4年10月22日)- 1965年(昭和40年)10月26日)は、日本の政治家、銀行員、実業家。第2代三菱鉱業会長を経て、第4代福山市長(1期)を務めた。 福山県沼隈郡山手村(現・広島県福山市山手町)に生まれる。1889年(明治20年)4月12日、広島県福山中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)初等科第四級を修了。1896年(明治29年)に高等商業学校(現・一橋大学)を卒業し、三菱合資会社銀行部に入社。 1900年(明治33年)、義和団の乱に出征。1904年(明治37年)、日露戦争に出征。その後、三菱合資会社銀行部上海支店長、長崎支店長兼唐津支店長、東京本社営業部石炭課長兼東京支店長などを務めた。
右田 アサ(みぎた アサ、1871年12月4日〈明治4年10… 右田 アサ(みぎた アサ、1871年12月4日〈明治4年10月22日〉 - 1898年〈明治31年〉8月5日)は、日本の医師、日本で最初の女性眼科医。別名は右田朝子。30歳に満たない年齢で早世したため、医師としての活動期間は短いが、平成期に記念碑が発見され、その存在が明らかとなって以降、「日本初の女性眼科医」として顕彰の気運が高まっている。 浜田県美濃郡益田村(後の島根県益田市)の寺井家で誕生した。7歳のとき、益田村の名家である右田家の養女となった。当時より、一度決断したことをやり抜く意志の持ち主であった。且つ聡明で、小学校では上等組の男子よりも良い成績を収めた。卒業後も私塾に通い、男子に混ざって勉学に励んだ。
廣田 精一(ひろた せいいち、広田 精一、1871年12月2… 廣田 精一(ひろた せいいち、広田 精一、1871年12月2日〈明治4年10月20日〉 - 1931年〈昭和6年〉1月25日)は、日本の教育者。工学博士。私立電機学校(現・東京電機大学)、神戸高等工業学校(現・神戸大学大学院工学研究科・工学部)設立者。出版事業者、オーム社設立者。廣田理太郎の弟。広島県福山市字桜町出身。 廣田家は代々、備後福山藩の勘定係を務めた家系。1896年(明治29年)東京帝国大学工科大学を卒業。高田商会に入社し同社在籍のままドイツシーメンス・ハルスケに入社。帰国後の1907年(明治40年)、まだ工業後進国だった日本の工業の発展を願い 「後世、科学技術の総本山たらん」と電気技術者育成に扇本眞吉と東京神田に夜間学校・私立電機学校(現・東京電機大学)を設立した。
中村 豊次郎(豐次郎、なかむら とよじろう、1871年11月… 中村 豊次郎(豐次郎、なかむら とよじろう、1871年11月30日(明治4年10月18日)- 1945年(昭和20年)8月8日)は、明治から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員(三重県郡部選出、当選1回)。 桑名県桑名郡、のちの三重県桑名郡桑名町(現桑名市)で、中村太三郎の長男として生まれる。1898年(明治31年)、家督を相続した。東京専門学校で学び、アメリカ合衆国に漫遊した。 北海道で中村農場を経営し、開拓事業に従事。実業界では、京都電気鉄道取締役、日本興業取締役、東洋電業取締役、久城耐火煉瓦取締役、若王子鉱業取締役などを務めた。 1908年(明治41年)5月、第10回衆議院議員総選挙(三重県郡部、無所属)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
筏井 竹の門(いかだい たけのかど、1871年11月28日(… 筏井 竹の門(いかだい たけのかど、1871年11月28日(明治4年10月16日) - 1925年(大正14年)3月29日)は、石川県出身の日本の俳人、俳画家。別号に北雪、四石、此君、雪の村人、松杉窟など。旧姓は向田、本名は虎次郎。長男は歌人の筏井嘉一。 1871年(明治4年)に石川県金沢市で旧加賀藩士の子として生まれる。地元の新聞社、北陸新報に文選工として勤務しながら(当時の同僚に室生犀星がいる)、正岡子規の日本派に影響されて俳句を始める。1892年、富山県高岡市に転居すると、子規の『日本』俳壇に投句。また綿糸商を営んでいた筏井家の婿養子に入り、姓を向田から筏井と改める。1897年、子規門で新傾向俳句の河東碧梧桐が高岡を訪れた際に碧梧桐と会い傾倒、寺野守水老、山口花笠などと共に句会『越友会』を立ち上げる。
原田 祖岳(はらだ そがく、1871年11月25日(明治4年… 原田 祖岳(はらだ そがく、1871年11月25日(明治4年10月13日) - 1961年(昭和36年)12月12日)は日本の曹洞宗の僧侶で、臨済宗の禅も兼修したことで知られる。号は大雲。駒澤大学教授。 1871年に福井県小浜市で生まれた。7歳の時に曹洞宗の寺院に小僧として入り、高校生まで過ごした。 20歳の時に臨済宗の正眼寺僧堂で修行し、1年半から2年で見性体験を得た。 1901年に曹洞宗大学林(現、駒澤大学)を卒業した。 彼は曹洞宗、臨済宗の双方の高僧を歴参、原田祖道、丘宗潭、秋野孝道、安達達淳、星見天海、雲霧軒大義、高源室毒湛に師事した。 1911年から1923年の間、駒澤大学教授を務めた。
大森 慶次郎(おおもり けいじろう、1871年11月23日(… 大森 慶次郎(おおもり けいじろう、1871年11月23日(明治4年10月11日) - 1962年(昭和37年)5月11日)は、大正から昭和時代の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。弟 大森国平の親戚は貴族院議員 小林八右衛門。 大森嘉四郎の長男として山梨県東八代郡南八代村(八代村、八代町を経て現笛吹市八代町南)に生まれ、1896年(明治29年)家督を相続する。早稲田大学文学科を卒業し、南八代村会議員、東八代郡会議員を歴任。1896年(明治29年)甲府市柳町に大森銀行を創立し、のち頭取となる。 1918年(大正7年)山梨県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から翌年の7月8日まで在任した。
近藤 喜衛(こんどう ひろえ、1871年11月23日(明治4… 近藤 喜衛(こんどう ひろえ、1871年11月23日(明治4年10月11日)- 1961年(昭和36年)2月24日)は、日本の政治家。青森県八戸市の初代市長。 1871年(明治4年)に旧八戸藩士の家に生まれる。八戸高等小学校から研成学舎に入り、卒業後は小学校の教員となり、その後は教員をしながら東京専門学校に通った。その後、中退した。帰郷後に八戸の小学校の校長となった。1889年(明治22年)に八戸青年会に入会。1894年(明治27年)に八戸青年会を脱会し、政治団体「北辰会」を結成した。1907年(明治40年)5月、八戸町助役となり間もなく町長に就任したが、同年9月16日に停職となった。1908年(明治41年)に地元紙「奥南新報」を創刊した。
北井 波治目(きたい はじめ、明治3年10月15日(1870… 北井 波治目(きたい はじめ、明治3年10月15日(1870年12月9日) - 昭和11年(1936年)10月16日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 駿河国豊田郡佐久間村出身(現在の静岡県浜松市天竜区)。1893年(明治26年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業した。翌年に弁護士試験に合格し、弁護士業務に従事した。1898年(明治31年)、判事となり、五條区裁判所判事、名古屋区裁判所判事、岐阜地方裁判所判事を歴任した。1901年(明治34年)、退官して弁護士に復帰した。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第14回衆議院議員総選挙でも再選された。 その他、福川汽船株式会社・セミ肥料株式会社取締役、福川林業株式会社・入山採炭株式会社・国光印刷株式会社監査役などを務めた。
酒井 忠亮(さかい ただあき、明治3年閏10月2日(1870… 酒井 忠亮(さかい ただあき、明治3年閏10月2日(1870年11月24日) - 昭和3年(1928年)8月1日)は、明治時代から昭和時代前期の華族。忠稠系小浜藩酒井家別家、越前国敦賀藩第8代藩主・酒井忠経の長男。幼名は松之助。正室は松平康英の娘鉚。子は酒井忠英、義男。 東京に生まれ、明治17年(1884年)7月8日の華族令により子爵となる。学習院高等科、帝国大学法科を卒業。明治34年(1901年)8月2日、補欠選挙で貴族院議員に選出され、研究会に属し常務委員を務めた。 大正2年(1913年)3月15日、伯剌西爾(ブラジル)拓殖株式会社が設立され、取締役会長となる。東華生命保険、東北電力、横浜倉庫の社長を務めたほか、横浜正金銀行、高砂商事、海外興産等の役員を務めた。
都築 甚之助(つづき じんのすけ、1869年12月21日(明… 都築 甚之助(つづき じんのすけ、1869年12月21日(明治2年11月19日) - 1933年(昭和8年)3月12日)は、明治から昭和前期にかけての軍医、脚気が栄養欠乏でおこり、米糠により予防・治療ができることを動物実験で確認した。愛知県出身。 1869年12月21日((旧暦)明治2年11月19日)、三河碧海郡刈谷藩領(現愛知県刈谷市)の農家、都築甚六・つう夫妻の長男として都築甚之助は誕生した。1883年(明治16年)元刈谷小学校を卒業し郡立高等学校に入学、同校卒業後1885年(明治18年)愛知医学校(現名古屋大学医学部)に入学し、1887年(明治20年)千葉第一高等中学校医学部(現千葉大学医学部)に転じ、1890年(明治23年)4月卒業した。
山田 三良(やまだ さぶろう、1869年12月20日(明治2… 山田 三良(やまだ さぶろう、1869年12月20日(明治2年11月18日) - 1965年(昭和40年)12月17日)は、日本の法学者。専門は国際私法。学位は法学博士。法華会創立者。 1869年、奈良県高市郡越智村(現・高取町)に村長山田平三郎の三男として生まれる。東京専門学校(現早稲田大学)を経て、1896年帝国大学法科大学(現東京大学大学院法学政治学研究科・法学部)卒業。同大学院修了。その後東京帝国大学法科大学助教授に就き、文部省外国留学生としてドイツのハイデルベルク大学、フランスのソルボンヌ大学に3年間留学し国際法を学ぶ。1901年7月19日帰国。 帰国後、東京帝国大学法科大学教授、京城帝国大学総長、東京帝国大学法学部長などをつとめた。
大場 茂馬(おおば しげま、1869年12月19日(明治2年… 大場 茂馬(おおば しげま、1869年12月19日(明治2年11月17日) - 1920年(大正9年)12月30日)は、日本の刑法学者、弁護士、政治家。元公安審査委員会委員長の大場茂行は息子。 明治から大正の日本の刑法学は、富井政章、穂積陳重らがよってたつ主観主義を前提とする新派・近代学派と、客観主義を前提とする旧派・古典学派が対立しており、当時、旧派を代表する学者であり、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードの弟子でもある宮城浩蔵は、犯罪を社会的害悪であると同時に道徳的悪であるとしてフランス新古典派がよってたつ折衷主義の立場をとっていた。 1871年のドイツ刑法典を参考にし、ドイツの近代学派が主張した新しい刑事政策的思想を取り入れた現行刑法が1907年に成立すると、新派の牧野英一は、独自の法律進化論の立場から、刑法は旧派刑法理論から新派刑法理論に進化していくものであると主張し、現行刑法の成立こそ新派の勝利の証であるとして凱歌をあげた。
三上 剛太郎(みかみ ごうたろう、明治2年11月15日(18… 三上 剛太郎(みかみ ごうたろう、明治2年11月15日(1869年12月17日) - 昭和39年(1964年10月27日))は、日本の医師・軍医・新聞記者。日露戦争に従軍した時のエピソード(後述)で後世に名を残した。最終階級は陸軍一等軍医。 1869年(明治2年)11月15日、陸奥国三戸県佐井村(現在の青森県下北郡佐井村)の代々医家である三上家の長男(8代目)として生まれた。1875年(明治8年)に佐井小学校(現在の佐井村立佐井小学校)に入学。1884年(明治17年)に上京して、三田英学校(現在の錦城学園高等学校)で学ぶ。そこで漢文学者の森田思軒の影響を受け、文学へ傾倒した。1888年(明治21年)に英学校を卒業後、読売新聞社社会部記者となり、新聞記者の世界へ足を踏み入れた。
成田 栄信(榮信、なりた しげのぶ、1869年12月16日(… 成田 栄信(榮信、なりた しげのぶ、1869年12月16日(明治2年11月14日)‐ 1946年(昭和21年)1月1日) は、日本の言論人、実業家、政治家。衆議院議員。 伊予国宇和郡下灘村(現愛媛県宇和島市) で、成田亀太郎の二男として生まれた。1897年(明治30年)に分家した。苦学して関西法律学校(現関西大学)、英吉利法律学校(現中央大学)で学び水産講習所(現東京海洋大学)を卒業した。 生命保険事業に従事し安田共済支店長を経て、東京社を創立して雑誌『東京』を発行し、1907年(明治40年)に東洋通信社を創立して社長に就任。その他、日本織物取締役を務めた。 1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙愛媛県郡部選挙区に立憲政友会(政友会)から出馬して当選したが、同年12月10日に衆議院議員選挙法違反事件の控訴を取下げて禁錮刑が確定したため議員を退職した。
山本 邦之助(やまもと くにのすけ、1869年12月15日(… 山本 邦之助(やまもと くにのすけ、1869年12月15日(明治2年11月13日) - 1955年(昭和30年)12月23日)は、東京キリスト教青年会(YMCA)の第2代目総主事である。 1869年(明治2年)島根県に生まれる。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後に、地元の村役場、三井銀行(現三井住友銀行)などで勤めた後、日本郵船に入社する。1902年(明治35年)に統計課長に就任した頃、V・W・ヘルムの指導する日本郵船内の聖書研究会の影響で、銀座教会で洗礼を受ける。 1905年(明治38年)に東京YMCAの第2代目の主事になる。1923年(大正12年)の関東大震災の復興を終えるまで務めた。1924年(大正13年)に青山学院高等学部商科長に就任する。
馬場 孤蝶(ばば こちょう、1869年12月10日(明治2年… 馬場 孤蝶(ばば こちょう、1869年12月10日(明治2年11月8日) - 1940年(昭和15年)6月22日)は、日本の英文学者、評論家、翻訳家、詩人、慶應義塾大学教授。 孤蝶は土佐藩士馬場来八の四男として、土佐国土佐郡(現・高知市)に生まれた。本名は勝弥といい、19歳上の次兄に自由民権運動家の馬場辰猪がいる。病弱で就学せずに、1878年両親と上京し、下谷茅町(現・台東区池之端二丁目)の忍ヶ丘小学校から三菱商業学校に進んで中退し、1884年から、共立学校で英語を学んだ。少年期から寄席に入り浸った。浄瑠璃を語った。弓術・盆栽・将棋・パイプ・俳画・古書漁り・旅行と、趣味が広かった。 1889年(明治22年)(20歳)、明治学院2年に入学し、島崎藤村、戸川秋骨と同級になった。
紀藤 閑之介(きとう かんのすけ、1869年12月9日〈明治… 紀藤 閑之介(きとう かんのすけ、1869年12月9日〈明治2年11月7日〉 - 1961年〈昭和36年〉9月28日)は、日本の政治家、実業家、名望家、資産家、地主・家主、山口県多額納税者。第3・6代山口県宇部市長。族籍は山口県士族。 宇部村長、宇部銀行の頭取、宇部共同義会会長等を務めた紀藤織文は、閑之介の叔父にあたり、織文の孫にあたるのが弁護士の紀藤正樹。 閑之介は1869年(明治2年)11月7日、長州藩主毛利氏の永代家老福原氏の家臣である紀藤宗介(後の宇部共同義会初代会長)の長男として長門国厚狭郡川上村(現山口県宇部市)に生まれた。 第三高等中学校(現:京都大学)を卒業した後、宇部村に戻った閑之介は「村内の情報を村民に伝えることが村人の民度を向上させ、ひいては国の繁栄に通じる」と考え、1912年(明治45年)、宇部時報(現:宇部日報)を発刊した。
多 梅稚(おおの うめわか、明治2年11月7日(1869年1… 多 梅稚(おおの うめわか、明治2年11月7日(1869年12月9日) - 大正9年(1920年)6月20日)は、日本の音楽教育者、作曲家、チェリスト。 明治2年、宮廷雅楽の家系である多家の次男として京都に生まれる。東京音楽学校へ進み、1892年年に専修部を卒業すると大阪府尋常師範学校(今の大阪教育大学)で教諭として勤務した。その最中の明治33年(1900年)に、作詞家大和田建樹に依頼され『鉄道唱歌』を作曲した。 このとき、大和田建樹は上眞行(「一月一日」などの作者で、この時東京音楽学校講師)にも作曲を依頼しており、上眞行は自分より格が劣るようだった多にも同時依頼したことを不快に思ったといわれるが、結局は勝つ自信があったため引き受けたといわれる。
福来 友吉(福來 友吉、ふくらい ともきち、明治2年11月3… 福来 友吉(福來 友吉、ふくらい ともきち、明治2年11月3日(1869年12月5日) - 1952年(昭和27年)3月13日)は、日本の心理学者、超心理学者。東京帝国大学助教授、高野山大学教授。文学博士(1906年)(学位論文「催眠術の心理学的研究」)。念写の発見者とされる。 岐阜県高山市の商家に生まれ、見習い奉公に出されたが商人になることを嫌い、学問に志を立てて猛烈に勉強し、岐阜県斐太尋常中学(現・岐阜県立斐太高等学校)から優秀な成績で旧制第二高等学校に進学した。実家が事業に失敗し学費に困ったが、仙台の資産家・町田真秀が援助し、1899年(明治32年)東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。さらに同大学院で変態心理学(催眠心理学)を研究し、1906年(明治39年)、「催眠術の心理学的研究」で文学博士の学位を授与された。
森下 亀太郎(もりした かめたろう、旧字体: 森下 龜太郞、… 森下 亀太郎(もりした かめたろう、旧字体: 森下 龜太郞、1869年12月5日(明治2年11月3日) - 1946年(昭和21年)4月26日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(当選1回)。族籍は岡山県士族。 備中国上房郡高梁町(現在の岡山県高梁市)生まれ。岡山県士族・森下良諒の三男。 有終館で荘田霜渓より漢学を学ぶ。1894年(明治27年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。 甲府・前橋・大阪・大津の各地方裁判所判事、大阪控訴院検事などを歴任。 1905年(明治38年)、退官して大阪市で弁護士を開業。 大阪市会議員を経て、1920年(大正9年)に衆議院議員に当選し、庚申倶楽部に所属した。
城 重雄(じょう しげお、1869年12月3日(明治2年11… 城 重雄(じょう しげお、1869年12月3日(明治2年11月1日) - 1908年(明治41年)6月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 日向国児湯郡、のちの宮崎県児湯郡高鍋町で生まれた。同志社で学び、1893年(明治26年)東京専門学校(現・早稲田大学)英語政治科卒。宮崎県高鍋学校(現・宮崎県立高鍋高等学校)校長、宮崎県会議員、同参事会員となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において宮崎県から立候補したが10票差で落選した。1903年の第8回衆議院議員総選挙では政友倶楽部公認で立候補してトップで初当選した。1904年の第9回衆議院議員総選挙で再選した。衆議院議員を2期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙には不出馬。
鈴木 孝雄(すずき たかお、明治2年10月29日〈1869年… 鈴木 孝雄(すずき たかお、明治2年10月29日〈1869年12月2日〉 - 1964年〈昭和39年〉1月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は勲一等功三級。 第42代内閣総理大臣鈴木貫太郎の弟。砲兵監、第14師団長、陸軍技術本部長、軍事参議官を歴任。現役を退いてから靖国神社第4代宮司、大日本青少年団長、戦後は偕行社会長。 将校養成機関である陸軍士官学校が設立されて以降に任命された陸軍大将(皇族を除く)のうち、 のいずれにも該当しない、唯一の人物である。 旧関宿藩士鈴木由哲の子として東京に生まれ、前橋中学校・成城学校を経て1889年(明治22年)11月、陸軍士官学校に入校し、1891年(明治24年)7月30日卒業する。
渡邊 玄宗(わたなべ げんしゅう、俗名:青柳与兵次、明治2年… 渡邊 玄宗(わたなべ げんしゅう、俗名:青柳与兵次、明治2年10月25日(1869年11月28日) - 昭和38年(1963年)12月9日)は、日本の曹洞宗の僧侶。總持寺独住17世貫首(円鑑不昧禅師)。号は本行。 曹洞宗の僧ながら、臨済宗円覚寺派宮路宗海の元に数年にわたり参禅し印可を得ている。近世以降、曹洞宗の僧で臨済宗の祖室を究めた人物は玄宗ただ一人とも言われている。 1869年(明治2年)、新潟県三島郡日吉村鳥越(現、長岡市)の農家青柳家の次男に生まれる。指物師の箕山家に養子に入るも、出家を望み、1892年に長野県松本市泉龍寺の渡邊俊龍に就いて出家する。 1897年に富山市光厳寺に移って修行を重ね、哲学館仏教専修科にも通学する。
増田 義一(ますだ ぎいち、1869年11月24日〈明治2年… 増田 義一(ますだ ぎいち、1869年11月24日〈明治2年10月21日〉 - 1949年〈昭和24年〉4月27日)は、日本の出版人、政治家。 新潟県中頸城郡板倉村戸狩(現上越市板倉区)に、父清四郎、母タケの次男として生まれる。12歳で豊原小学校高等科を卒業後、すぐさま代用教員となり、その後、独学で教員中等免状を取得。17歳で父を亡くし、母を亡くした1889年春、教員を辞し、改進党系の髙田新聞社に入社。翌1990年、東京専門学校(現早稲田大学)邦語政治科に入学、1893年9月に卒業し、同校研究科に進む。1894年、読売新聞社に入社し経済部記者となるかたわら、1889年、改進党系の髙田新聞社に入社。
曽根 松太郎(そね まつたろう、明治2年10月20日(186… 曽根 松太郎(そね まつたろう、明治2年10月20日(1869年11月23日) - 昭和20年(1945年))は、日本の教育者。文化書房主。号は金僊。 伊予国宇和郡吉田(現在の愛媛県宇和島市)出身。小学校訓導、松山中学校教諭、郡視学を歴任。1901年(明治34年)、金港堂に入り、雑誌「教育界」編集主任となった。1911年(明治44年)に独立して明治教育社を設立するが、やがて廃業した。1919年(大正8年)より南北社で編集長となるが、1922年(大正11年)に文化書房を興して再び独立した。 その他、東洋美術協会理事、中央教育品協会理事、愛媛県同交会長、帝国教育会評議員・出版部長、同理事を務めた。
和達 陽太郎(わだち ようたろう、明治元年11月8日〈186… 和達 陽太郎(わだち ようたろう、明治元年11月8日〈1868年12月21日〉 - 1921年〈大正10年〉3月15日)は、明治から大正にかけて活動した日本の電気技術者、実業家である。逓信技師を経て実業界に入り名古屋電灯常務などを務めた。子に気象・地震学者の和達清夫がいる。 明治元年11月8日(新暦:1868年12月21日)、和達孚嘉の長男として東京の浅草に生まれる。父・孚嘉は江戸幕府の旗本であったが、明治維新後に移住先の静岡県を振り出しに宮城県や山形県で役員生活を送り、晩年には第5代仙台市長(1907 - 1910年)を務めた人物である。 1889年(明治22年)7月東京の第一高等中学校工学部を卒業したのち、1892年(明治25年)7月に帝国大学工科大学電気工学科を卒業し、逓信省へ入る。
佐藤 達次郎(さとう たつじろう、1868年12月20日(明… 佐藤 達次郎(さとう たつじろう、1868年12月20日(明治元年11月7日) - 1959年(昭和34年)7月20日)は、日本の明治から昭和における外科医。初代東京医学専門学校長・第3代順天堂医院長・初代順天堂医科大学長・女子美術大学理事長を歴任。福井県出身。 1868年(明治元年)11月、若狭国三方郡西郷村(現福井県三方郡美浜町金山)の漢方医河合貞輔の次男として誕生した。1884年(明治17年)、上京して獨逸学協会学校で学び、大学予備門に入学。1887年(明治20年)6月第一高等中学に転入し、1892年(明治25年)東京帝国大学医科大学に入学した。1896年(明治29年)12月同大学を卒業、明治30年度卒業同期生としては後に軍医総監になる佐藤恒丸・京城帝国大学総長となった志賀潔らがいる。
磯村 豊太郎(いそむら とよたろう、1868年12月20日(… 磯村 豊太郎(いそむら とよたろう、1868年12月20日(明治元年11月7日) - 1939年(昭和14年)10月26日)は、明治期の官僚、実業家、貴族院議員。 豊前国中津生まれ。慶應義塾卒業後、後藤新平の紹介で安岡雄吉らと共に1880年(明治13年)、逓信省入り。その後まもなく辞職して日本銀行に転じ、また転じて三井家に入る。益田孝と面会し三井物産に入社。北海道炭礦汽船に移り社長に就任。日本工業倶楽部四代目総裁を務めた。また、1929年(昭和4年)7月1日には貴族院議員に勅選され、研究会に所属して死去するまで在任した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
井上 仁吉(いのうえ じんきち、1868年12月17日(明治… 井上 仁吉(いのうえ じんきち、1868年12月17日(明治元年11月4日)- 1947年(昭和22年)3月14日)は、日本の応用化学者。東北帝国大学総長、工学博士。号・青崖。 蘭方医・井上勤所の二男として京都に生まれる。京都一中(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)を経て、1892年(明治25年)第一高等学校を卒業。1896年(明治29年)帝国大学工科大学応用科学科を卒業し、横浜瓦斯に入社。1899年(明治32年)東京帝大工科大学助教授に就任した。1903年(明治36年)ドイツのドレスデン大学に私費留学し、日露戦争のため1905年(明治38年)に帰国し東京帝大教授に昇任し応用化学第1講座を担任した。
奥田 柳蔵(柳藏、おくだ りゅうぞう、1868年12月15日… 奥田 柳蔵(柳藏、おくだ りゅうぞう、1868年12月15日(明治元年11月2日)- 1942年(昭和17年)2月10日)は、明治から昭和前期の大地主、農業経営者、林業家、実業家、政治家。衆議院議員、14代奥田家当主。 因幡国高草郡猪子村(鳥取県高草郡大和村、気高郡大和村字猪子を経て現鳥取市猪子)で、大地主、大庄屋・奥田長十郎の長男として生まれ、1884年(明治17年)1月、家督を相続した。漢籍を修めた 国民協会に加わり、その解散後、同志と政治結社・因幡同志会を結成した。1895年(明治28年)大和村会議員となる。気高郡会議員も務め、1899年(明治32年)鳥取県会議員に選出され1期在任した。1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙で鳥取県郡部から出馬して初当選。
横山 金太郎(よこやま きんたろう、1868年12月14日〈… 横山 金太郎(よこやま きんたろう、1868年12月14日〈明治元年11月1日〉 - 1945年〈昭和20年〉9月25日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(広島県第三区選出、当選9回)。文部政務次官。第16代広島市長。族籍は広島県平民。 広島県比婆郡東城村(後の東城町、現在の庄原市)で、行商人の家庭に生まれる。横山要平の長男。3歳の時に父・要平が死去する。家督を相続する。 役場の書記をつとめる。1886年(明治19年)、代言人・渡邊又三郎を頼って家出、渡邊は「見処がある」と直覚して世話することにしたという。 横山は玄関番・書生となり広島法律学校に入り、1890年(明治23年)3月に同校を卒業、同年4月に東京法学院(現在の中央大学)3年級に編入。
堤 定次郎(つつみ ていじろう、1868年12月14日(明治… 堤 定次郎(つつみ ていじろう、1868年12月14日(明治元年11月1日) - 1935年(昭和10年)8月18日)は、日本の裁判官、検察官、内務官僚、実業家。官選岩手県知事。位階および勲等は従四位・勲四等。 常陸国、後の茨城県真壁郡上野村(現筑西市)出身。堤恵次郎の長男として生まれる。1892年、帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。 以後、東京区裁判所判事、東京地方裁判所検事、横浜地方裁判所検事、東京控訴院検事、宮城控訴院検事、函館地方裁判所検事正、熊本県事務官・警察部長、香川県事務官・内務部長などを歴任。 1913年3月、岩手県知事に就任。1914年6月、知事を休職となる。その後、実業界に転じ、安田保善社理事、五十銀行頭取などを務めた。
藤原 利三郎(ふじわら りさぶろう、明治元年11月1日(18… 藤原 利三郎(ふじわら りさぶろう、明治元年11月1日(1868年12月14日) - 昭和10年(1935年)5月9日)は、平鹿ゴールデンを生み出した秋田県出身の果樹園芸家で、「リンゴ栽培の父」と称されている。 利三郎は1868年に養蚕振興の先駆者として名高い茂木亀六の六男として出羽国(現在の秋田県)の雄勝郡(現在の湯沢市、昔の稲川町)で生まれた。 18歳で藤原家の養子となった後、養蚕業の代わりとなる産業を探していた利三郎は、果樹の栽培の視察で山形に行った際にりんごの苗を手に入れた。それをもとに20歳の時に利三郎は杉林を切り開いて苗を植え、周囲の目を跳ね除けてリンゴ栽培に励んだものの、1894年の綿虫大量発生で大損害を受けた後にブドウやサクランボ、梨なども取り扱う多角的な経営を始めた。
一柳 仲次郎(いちやなぎ なかじろう、1868年12月3日(… 一柳 仲次郎(いちやなぎ なかじろう、1868年12月3日(明治元年10月20日) - 1939年(昭和14年)4月14日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 尾張国知多郡成岩村(現愛知県半田市)で、名主・一柳浅右衛門の二男として生まれる。苦学して三井物産社員を経て、1897年に北海道に渡る。 ニシン漁で失敗し、1900年、札幌に移り、リンゴ、タマネギの販売を手掛け、海外への輸出なども行った。札幌区会議員、北海道会議員、同議長、日露貿易商組合長、札幌果実蔬菜輸出商同業組合長、札幌果実商組合長、札幌商業会議所副会頭、北海道拓殖倉庫取締役、北海道信託社長、一柳物産社長、合資会社一柳商会代表社員などを務めた。
山田 福三郎(やまだ ふくさぶろう、1868年11月30日(… 山田 福三郎(やまだ ふくさぶろう、1868年11月30日(明治元年10月17日) - 1914年(大正3年)5月18日)は、日本の弁護士、特許弁理士、政治家。 埼玉県北埼玉郡小曽根村(現・熊谷市小曽根)出身。山田充八の息子。熊谷中学校に学ぶ。1885年に上京し、東京電信学校の官費生として入学する。卒業後逓信技手となり函館郵便電信局に在勤し、傍ら英米人に就き英学を修め兼ねて哲学法律学を独修する。 1894年、明治法律学校(現・明治大学)卒業。判検事試験に及第し、司法官試補に任ぜられる。横浜地方裁判所の判事を経て、渡米してコロンビア大学に学び、帰国後横浜で弁護士を開業する。大日本共同運輸監査役、横浜市会議員、横浜英語学校校長、横浜商業会議所特別議員などをつとめる。
岡田 泰蔵(おかだ たいぞう、明治元年10月16日(1868… 岡田 泰蔵(おかだ たいぞう、明治元年10月16日(1868年11月29日) - 昭和28年(1953年)8月11日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。妻由衛の父・義父は京都府多額納税者、第一期及び第二期貴族院多額納税者議員互選人、衆議院議員、郡是製絲株式会社(現・グンゼ株式会社)初代社長羽室嘉右衛門。義叔父は郡是製絲株式会社(現・グンゼ株式会社)第2代社長波多野鶴吉。同じく義叔父に比叡山鉄道株式会社初代社長、愛宕山鉄道取締役で京都法政学校(現・立命館大学)設立評議員・理事の羽室亀太郎。義叔母の羽室亀太郎の妻ゆうは、衆議院議員河原林義雄の妹。義弟は郡是製絲株式会社第4代社長、参議院議員波多野林一。
桂 湖村(かつら こそん、1868年11月29日(明治元年1… 桂 湖村(かつら こそん、1868年11月29日(明治元年10月16日) - 1938年4月3日)は、日本の中国文学者。現在の新潟県新潟市新津の出身。湖村は故郷近くの福島潟に由来する号で、本名は五十郎。雷庵など、他の号も使用した。 生家は国学や漢学を修めた学者の家系で、自身も幼少から漢籍等に触れて育った。東京専門学校専修英語科(現・早稲田大学)に進学し、1892年に卒業。日本新聞に客員社友として属したのち、中国に渡航して陶芸や書画について学ぶ。帰国後は東洋大学・國學院大學で教壇に立ち、その後母校の早稲田大学教授に就任した。 1905年(明治38年)、『漢籍解題』を明治書院から刊行した。近年刊は『湖村詩存』(村山吉廣編、明徳出版社、2017年)がある。
十文字 大元(じゅうもんじ だいげん、1868年11月28日… 十文字 大元(じゅうもんじ だいげん、1868年11月28日(明治元年10月15日) - 1924年12月21日)は、日本の実業家、活動写真弁士、自彊術家である。金門製作所創立者、日本初の活動写真弁士のひとりであり、自彊術の命名者である。 1868年(明治元年)、陸奥国遠田郡涌谷(現在の宮城県遠田郡涌谷町)に生まれる。父親は陸前仙台藩の支藩である涌谷藩の師範家・十文字秀雄、兄に政治家・実業家の十文字信介がいる。 1890年(明治23年)にアメリカ合衆国に渡り、カリフォルニア州サンフランシスコで過ごす。帰国して、1894年(明治27年)、東京・神田須田町に兄信介ともに十文字商会を開業する。のちに独立して開業する金門商会は、同地のゴールデンゲートブリッジ(金門橋)にちなんだものである。
卜部 喜太郎(うらべ きたろう、1868年11月25日〈明治… 卜部 喜太郎(うらべ きたろう、1868年11月25日〈明治元年10月12日〉 - 1942年〈昭和17年〉11月13日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(埼玉県郡部選出、当選1回、立憲国民党)。中央大学理事。東京弁護士会会長、東京弁護士会常議員会議長などを歴任。族籍は埼玉県平民。 1868年(明治元年)、武蔵国児玉郡沼和田村(埼玉県児玉郡旭村を経て現本庄市沼和田)に生まれた。卜部喜平の長男で、先代キンの養子である。幼くして怜悧であり、よく物の理義を悟った。児玉中学校を卒業した。18歳の時埼玉県師範学校に於いて小学校教員試験に応じて及第し、埼玉県小学校訓導に任ぜられ本庄小学校に在勤した。 1887年(明治20年)、家督を相続した。