菅野 千代夫(かんの ちよお、1902年 <明治35年> 2… 菅野 千代夫(かんの ちよお、1902年 <明治35年> 2月11日 - 1979年 <昭和54年> 7月7日)は、日本の経営者。河北新報社、東北放送各社長を務めた。 宮城県出身。1926年に慶應義塾大学経済学部を卒業。 1942年に河北新報社取締役に就任し、1947年から1962年までに社長を務めた。東北放送社長、日本民間放送連盟副会長も務めた。 1972年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1979年7月7日、肝臓癌のために死去。77歳没。
高野 弥一郎(たかの やいちろう、1902年2月11日- 1… 高野 弥一郎(たかの やいちろう、1902年2月11日- 1992年7月21日)は、日本の翻訳家。 新潟県小千谷市片貝の農家に生まれ、小学校卒業後、鉄工所に勤める。英文学に志して上京し、銀座で新聞配達をしながら早稲田大学英文科に学ぶ。在学中に『サンデー毎日』の懸賞映画小説に応募し「夢と女」で当選、小説家を志す。1940年、喜多荘太の筆名でアンドレ・モーロワ「欧州大戦秘話」を『サンデー毎日』に連載し、『フランス敗れたり』として刊行すると、300版の大ベストセラーとなり、にわかなモーロワのブームが訪れた。1944年、郷里新潟県に疎開、高校教師をしながら、戦後も翻訳を続けた。
小宮山 明敏(こみやま あきとし、1902年〈明治35年〉2… 小宮山 明敏(こみやま あきとし、1902年〈明治35年〉2月10日 - 1931年〈昭和6年〉9月30日)は、1920年代に活躍したプロレタリア文学の評論家である。 岡山県御津郡金川町(現・岡山市)出身。早稲田第一高等学院文科に入学し、早稲田大学露文科に進学する。在学中より尾崎一雄、村田春海たちと同人雑誌をはじめ、卒業後は高等学院で教壇にもたつが、結核を病み職を辞し、文芸評論の執筆に専念する。その後、日本プロレタリア作家同盟に加入し、1930年に『文学革命の前哨』(世界社)を上梓するも、まもなく没した。 瀬沼茂樹は『現代日本文学大系』所収の小宮山の評論に関して、「解説」のなかで、「マルクス主義の立場で所謂ブルジョア文学を内在的に批評する者は稀であったので、珍重すべき評論」と述べている。
陳 憲植(チン・ホンシク、朝鮮語: 진헌식、1902年2月9… 陳 憲植(チン・ホンシク、朝鮮語: 진헌식、1902年2月9日 - 1980年9月19日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教員、実業家、政治家。制憲韓国国会議員、第2代忠清南道知事、第10代内務部長官を歴任した。本貫は驪陽陳氏。 忠清南道燕岐郡(現・世宗特別自治市)出身。養正高等普通学校を経て、1929年中央大学法学部卒。同年から普成専門学校講師・法科教授、1933年から養正高等普通学校教諭、朝鮮鉱業株式会社常務取締役、東林機械株式会社取締役、大韓民国臨時政府内務部政治工作隊秘書長、大韓独立促成国民会中央本部調査部長・文教部長・情報部長・青年部長・組織部長・総務部長、亜洲土建株式会社・東成商業株式会社顧問、韓国民族外交後援会外交部長、京畿道成人教育協会理事、財団法人国民大学理事、韓国民族代表者大会ソウル市代議員、制憲国会議員、第2代忠清南道知事(1951年12月17日~1952年8月29日)、第10代内務部長官(1952年8月29日~1953年9月19日)、養友実業倶楽部理事長、忠南大学校総長、東一工業会長、制憲同志会副会長を務めた。
皆吉 爽雨(みなよし そうう、1902年2月7日 - 198… 皆吉 爽雨(みなよし そうう、1902年2月7日 - 1983年6月29日)は、福井県出身の俳人。本名・大太郎。福井市上宝永町に生まれ、丸岡町、三国町に育つ。福井中学校(現福井県立藤島高等学校)卒業。1919年、住友電気工業に入社。「ホトトギス」に投句し高浜虚子に師事する。1922年、「山茶花」創刊に参加。1936年、「山茶花」選者。1945年に上京、1946年に「雪解」を創刊・主宰。1967年、句集『三露』などの功績より第1回蛇笏賞受賞。1979年、勲四等旭日小綬章受章。俳人協会副会長を務めた。墓所は東京都調布市の深大寺。 孫の皆吉司は俳人、画家。
初瀬 音羽子(はつせ おとわこ、1902年(明治35年)2月… 初瀬 音羽子(はつせ おとわこ、1902年(明治35年)2月7日 - 1993年(平成5年)9月19日)は、宝塚少女歌劇団元月組男役・元月組組長の女優。本名:村田八重。旧姓:東海林。秋田県出身。入団時の芸名は初瀬乙羽子(はつせ・おとわこ)。 この芸名は小倉百人一首の第33番:源俊賴の『憂かりける 人を初瀨の 山颪よ 激しかれとは 祈らぬものを (うかりける ひとをはつせの やまおろしよ はげしかれとは いのらぬものを)』から命名された。
宇城 カ子(うしろ かね、1902年(明治35年)2月6日 … 宇城 カ子(うしろ かね、1902年(明治35年)2月6日 - 2003年(平成15年)12月8日)は、日本の教育者。東筑紫学園、学校法人東筑紫学園創設者。広島県神石郡(現在の神石高原町)生まれ。
前川 孫二郎(まえかわ まごじろう、1902年2月6日 - … 前川 孫二郎(まえかわ まごじろう、1902年2月6日 - 1971年2月2日 )は、日本の医学者。博士(医学)。京都大学名誉教授。 香川県三豊郡比地二村(現:三豊市高瀬町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第三高等学校を経て、京都帝国大学医学部卒業。 専門は、理論心電図学、循環器学、免疫およびアレルギー学、神経病学。 1926年(大正15年)京都帝国大学医学部卒業後、1931年(昭和6年)学位修得(医学博士)。 1932年(昭和7年)同大学医学部講師、1936年(昭和11年)同大学医学部助教授を経て、1946年(昭和21年)京都大学医学部第三内科学講座教授に就任。 日本独特の神経疾患「スモン病」について最初に問題提起をした先駆者である。
古沢 安二郎(ふるさわ やすじろう、1902年2月6日 - … 古沢 安二郎(ふるさわ やすじろう、1902年2月6日 - 1983年9月3日)は、日本の英米文学の翻訳家。 新潟県生まれ。東京帝国大学英文科卒、芝浦工業大学教授、明治大学教授。ポール・ギャリコ、ウィリアム・サローヤンなどを翻訳した。
山上 八郎(やまがみ はちろう、1902年(明治35年)2月… 山上 八郎(やまがみ はちろう、1902年(明治35年)2月5日 - 1980年(昭和55年)4月15日)は、日本の軍事史学者。特に日本の甲冑についての研究で名を知られる。 山上が帝国学士院より受賞した研究『日本甲冑の新研究』は、上下巻を合わせて2500ページに迫る膨大なもので、その中で紹介されている日本全国の甲冑資料も、非常に豊富である。現代の甲冑研究にも強い影響を与え続けている大著である。 「万巻の書を読み千里の道を行く」を一生の目標とし、大学時代より日本各地を旅行して甲冑を捜索した。服飾史学者の河鰭実英や城郭研究者の鳥羽正雄と親交があったが、特に鳥羽とは小学校以来の付き合いがあり、山上が東洋大学より文学博士号を取得したのも鳥羽の推薦があったためという。
渡名喜 守定(となき しゅてい、1902年2月5日 - 19… 渡名喜 守定(となき しゅてい、1902年2月5日 - 1993年2月1日)は、日本の海軍軍人。
山本 米治(やまもと よねじ、1902年2月5日 - 199… 山本 米治(やまもと よねじ、1902年2月5日 - 1993年11月30日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)。国際決済銀行理事、大蔵政務次官。金融財政通として国会内外に知られた。 愛知県蒲郡町(現蒲郡市竹谷町)に生まれる。1926年(大正15年)3月、東京帝国大学法学部卒業。 日本銀行ロンドン監督役付海外駐在参事を経て、ドイツ駐在中に日銀総裁代理として国際決済銀行理事を務める。1947年(昭和22年)7月、日本銀行名古屋支店長に就任。日銀調査局長兼統計局長、外国為替管理委員会委員、経済安定本部副長官なども務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に愛知県選挙区から自由党公認で立候補し初当選。
岩本 薫(いわもと かおる、1902年〈明治35年〉2月5日… 岩本 薫(いわもと かおる、1902年〈明治35年〉2月5日 - 1999年〈平成11年〉11月29日)は、大正・昭和の囲碁棋士。第3、4期本因坊で本因坊 薫和と号する。島根県益田市出身、広瀬平治郎八段門下。 中盤の戦いに強く、序盤はあちこちに散在する石が徐々に関連して相手に圧力をかけてくるところから「豆まき碁」と呼ばれた。 1945年の第3期本因坊戦での橋本昭宇本因坊との挑戦手合において、広島市郊外の五日市(現佐伯区五日市町)で行われた6番勝負の第2局は原爆下の対局として有名。1948年から日本棋院理事長、1954年から中央会館館長を歴任。囲碁の海外普及に尽力し、また私財を投じた岩本基金により、サンパウロ、アムステルダム、ニューヨーク、シアトルの囲碁会館設立に多大な貢献をした。
下村 非文(しもむら ひぶん、1902年2月2日 - 198… 下村 非文(しもむら ひぶん、1902年2月2日 - 1987年8月13日)は、福岡県出身の俳人。本名利雄。 築上郡(現豊前市)生。東京大学経済学部卒、台湾銀行に勤務。終戦後に引揚げ、関西に住み証券業の要職を歴任。俳句は1926年、社内句会からはじめ、松本たかしに師事。1949年「ホトトギス」同人。1964年、田村木国の死去後「山茶花」主宰を継承。非文は「山茶花」外部の人間であったが、高浜年尾と阿波野青畝の推挙により主宰についた。非文の主宰により、「山茶花」の勢力は飛躍的に増大し若手が多く育った。1978年、関西俳句友好訪中団を結成。旅行、登山を好み大景を詠むことを得意とした。代表句「赤富士や百鳥晨をよろこべる」「夕焼けのヒマラヤ一座一座消え」など。
永江 一夫(ながえ かずお、1902年(明治35年)2月1日… 永江 一夫(ながえ かずお、1902年(明治35年)2月1日 - 1980年(昭和55年)4月23日)は、日本の政治家。位階は従三位。 農林大臣(第9代)、民社党副書記長を務めた。長男の永江一仁は民社党衆議院議員・神戸市会議員の永江一之は孫(一仁の長男)。 岐阜県恵那郡陶村(陶町を経て現瑞浪市)で生まれた。苦学して1924年(大正13年)関西学院高等商業学部(現在の関西学院大学)を卒業。在学中、1921年(大正10年)神戸の川崎造船所・三菱造船所争議に参加。卒業後、福徳生命に入社し、同時に社会運動に参加し日本労農党、日本大衆党に属した。 1929年、神戸市会議員となる。1937年、第20回衆議院議員総選挙に立候補し当選。
宮崎 太一(みやざき たいち、1902年2月1日 - 195… 宮崎 太一(みやざき たいち、1902年2月1日 - 1954年10月8日)は、日本の厚生官僚。引揚援護庁長官、厚生事務次官を経て、社会保険診療報酬支払基金理事長在任中死去した。 石川県羽咋町出身。石川県師範学校を経て、1925年東北大学法文学部卒業、法学士。1930年内務省入省。1941年社会保険局監理課長。1942年勤労局動員課長。終戦後、厚生省保険局長を経て、1949年引揚援護庁次長。1950年引揚援護庁長官。 1951年厚生事務次官、引揚同胞対策審議会委員、社会保障制度審議会委員、郵政審議会委員、科学技術行政協議会委員、中央青少年問題協議会委員、国立公園審議会委員、中央優生保護審査会委員、中央身体障害者福祉審議会委員、中央児童福祉審議会委員。
土井 静雄(どい しずお、1902年1月30日 - 1974… 土井 静雄(どい しずお、1902年1月30日 - 1974年4月21日) は、日本の機械工学者。名古屋大学名誉教授。元沼津工業高等専門学校校長。 鳥取県出身。1927年九州帝国大学工学部機械工学科卒業、旅順工科大学講師。1928年旅順工科大学助教授。1937年九州帝国大学工学博士。1938年旅順工科大学教授。1944年名古屋帝国大学教授。1964年沼津工業高等専門学校校長。1965年名古屋大学名誉教授。1973年勲二等瑞宝章受章。旋盤の研究などを行った。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
矢野 謙三(やの けんぞう、1902年(明治35年)1月30… 矢野 謙三(やの けんぞう、1902年(明治35年)1月30日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、大日本帝国陸軍軍人。基隆市尹。 矢野槌太郎の三男として福岡県福岡市に生まれる。1920年(大正9年)福岡県立中学修猷館、1923(大正12年)年第五高等学校文科甲類を経て、1926年(大正15年)東京帝国大学法学部法学科卒業後、高等文官試験行政科試験に合格する。 同年12月、野砲兵第6連隊に入隊し、1929年(昭和4年)4月に陸軍砲兵少尉に進む。同年6月、台湾総督府属に転じ、総督官房文書課勤務となる。1931年(昭和6年)5月、同府地方理事官となり、新竹州竹南郡守に発令され、1934年(昭和9年)9月に同州内務部教育課長、1936年(昭和11年)10月に台北州内務部地方課長を経て、1937年(昭和12年)9月29日に基隆市尹に就任した。
片岡 久兵衛(久兵衞、かたおか きゅうべえ、1902年 <明… 片岡 久兵衛(久兵衞、かたおか きゅうべえ、1902年 <明治35年> 1月30日 - 1988年 <昭和63年> 10月11日)は、日本の経営者、銀行家。京都銀行頭取を務めた。京都府福知山市出身。位階は従五位。 1923年に東京商科大学を卒業。1946年に京都銀行の前身である丹和銀行頭取に就任。1972年に相談役を経て、1980年には顧問に就任。 1988年10月11日急性呼吸不全のために死去。86歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
北山 淳友(きたやま じゅんゆう、1902年(明治35年)1… 北山 淳友(きたやま じゅんゆう、1902年(明治35年)1月29日 - 1962年(昭和37年)1月19日)は、日本の仏教哲学者。マールブルク大学名誉教授。Ph.D(ハイデルベルク大学)。 静岡県志太郡焼津町(現・焼津市)出身。静岡県立静岡中学校に学ぶ。1923年(大正12年)、宗教大学(大正大学の前身校の一つ)哲学科卒業。1924年(大正13年)、浄土宗より欧州留学を命じられ、ドイツのフライブルク大学に入学、エトムント・フッサールにインド哲学、サンスクリットをエルンスト・ロイマンに学ぶ。1927年(昭和2年)にハイデルベルク大学に移り、哲学をハインリッヒ・リッケルト、カール・ヤスパースに、インド哲学、チベット学をマックス・ワレーザーに学ぶ。
熊川 良太郎(くまかわ りょうたろう、1902年〈明治35年… 熊川 良太郎(くまかわ りょうたろう、1902年〈明治35年〉1月29日 - 1965年〈昭和40年〉8月8日)は群馬県出身の飛行家。後に群馬県議会議員。栗村盛孝と共に青年日本号を操り、日本からローマまでの欧州訪問飛行を成し遂げた。レオポルド2世勲章及びレジオンドヌール勲章受賞。 1902年(明治35年)1月29日、吾妻郡嬬恋村の大字今井にて農業を営む熊川澗八郎と母なほの長男として生まれる。弟が一人おり、家は代々上田藩士。元は藩主と同じ真田姓を名乗っていたが、後に熊川に移って姓も地名に合わせ改称したとされる。 勉学での立身を考えた良太郎は東京の学校への進学を望んでいたものの、父は許可を与えなかった。
勝 承夫(かつ よしお、1902年(明治35年)1月29日 … 勝 承夫(かつ よしお、1902年(明治35年)1月29日 - 1981年(昭和56年)8月3日)は、東京市四谷区(現・東京都新宿区)出身の詩人。元日本音楽著作権協会会長。元東洋大学理事長。 旧制中学時代から詩人として活躍。1920年(大正9年)に、正富汪洋の勧めで東洋大学に入学し、正富が主催する『新進詩人』に参加。宵島俊吉のペンネームで「白痴を誘って野に出て」などの作品を著し、中央文壇に登場する。 また在学中には、1921年(大正10年)に井上康文らと『新詩人』を、1923年(大正12年)に同大出身の赤松月船・岡村二一・岡本潤・角田竹夫らと『紀元』を創刊した。勝のこうした活動により、当時勝と同世代の詩人を志していた者の中では、東洋大学を志望する者が多かったと言われ、東洋大学は「詩・歌人大学」と呼ばれていた[要出典]。
東井金平(とうい きんぺい、1902年1月27日-?)は、日… 東井金平(とうい きんぺい、1902年1月27日-?)は、日本の農業経済学者。 石川県出身。慶應義塾大学経済学部卒。1959年「欧米における日本農業の研究」で慶大経済学博士。農林省農業総合研究所勤務。1962年『欧米における日本農業の研究』で日経・経済図書文化賞受賞。
春日井 秀雄(かすがい ひでお、1902年1月27日 - 1… 春日井 秀雄(かすがい ひでお、1902年1月27日 - 1986年1月11日)は日本の政治家。荒川区議(2期)、東京市議(2期)、東京都議(8期)、第22代都議会議長を歴任した。 1902年1月27日、岐阜県に生まれる。1934年に中央大学法学部を卒業。1936年から荒川区会議員を2期11年務める。また、1939年3月14日から1943年6月30日まで東京市会議員を務めた。1949年3月2日の東京都議会議員補欠選挙で荒川区選挙区より立候補して、初当選する。都議会では、決算委員会委員長(1951年から1952年)、東京都議会改進党政調会長(1953年から1954年)、東京都議会改進党幹事長(1954年)、日本民主党都議団幹事長(1954年から1955年)、都議会自民党幹事長(1958年から1959年)、財務主税委員会委員長(1962年から1963年)、都議会自民党幹事長(再任・1965年から1966年)を歴任した。
與賀田 辰雄(よがた たつお、1902年 <明治35年> 1… 與賀田 辰雄(よがた たつお、1902年 <明治35年> 1月27日 - 1986年 <昭和61年> 1月7日)は、日本の経営者。東京書籍社長を務めた。位階は正五位。 佐賀県出身。1923年に長崎高等商業学校を卒業し、同年に大蔵省に入省。1941年に凸版印刷取締役に就任し、1944年12月に常務、1953年7月に専務を経て、1967年9月には東京書籍社長に就任。1973年12月に会長に就任し、1978年12月に監査役を経て、1982年8月には相談役に就任。 1972年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1986年1月7日悪性リンパ腫のために死去。83歳没。死没日付をもって従六位から正五位に進階した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
華頂宮博忠王(かちょうのみや ひろただおう、1902年(明治… 華頂宮博忠王(かちょうのみや ひろただおう、1902年(明治35年)1月26日 - 1924年(大正13年)3月19日)は、日本の皇族、海軍軍人。 博恭王が華頂宮当主であった時の王子。1902年(明治35年)1月26日に誕生した第2王子。2月1日、博忠と命名される。博恭王が実系である伏見宮を継承するにあたり、博忠王は僅か2歳(明治37年1月15日附)で華頂宮の家督を継承する。学習院初等科時代は、裕仁親王(後の昭和天皇)と同級だった。中等学科4年より海軍兵学校予科へ進む。博忠王の海軍兵学校時代初期、校長は鈴木貫太郎海軍中将であった。 海軍兵学校を卒業(49期)した博忠王は1921年(大正10年)7月16日附で海軍少尉候補生となり、装甲巡洋艦八雲乗組を命じられる(同級の朝融王は出雲乗組)。
蔵原 惟人(くらはら これひと、1902年(明治35年)1月… 蔵原 惟人(くらはら これひと、1902年(明治35年)1月26日 - 1991年(平成3年)1月25日)は、日本の評論家である。ペンネームは古川荘一郎。駄じゃれが好きという一面もある。
李 泰圭(イ・テギュ、朝鮮語: 이태규、1902年1月26日… 李 泰圭(イ・テギュ、朝鮮語: 이태규、1902年1月26日 - 1992年10月26日)は、大韓民国の化学者。日本の植民地統治期には数少ない朝鮮人の博士号取得者・帝国大学教員の一人であった。 本貫は全州李氏。政治家の李会昌の伯父に当たる。 大韓帝国忠清南道礼山郡に生まれた。京城高等普通学校を経て1922年に広島高等師範学校(現・広島大学)を卒業。 1927年に京都帝国大学理学部(現在の京都大学理学部)化学科を卒業し、1931年に『還元ニッケルの存在に於ける一酸化炭素の分解』という論文で理学博士号を取得した。 その後、同大学で教鞭を執り、1935年には同大学化学研究所助教授、1938年にプリンストン大学に派遣され研究者として在職し、1941年に京都帝国大学に戻り量子化学を研究、1943年に化学研究所教授となった。
吉田 小五郎(よしだ こごろう、1902年1月26日 - 1… 吉田 小五郎(よしだ こごろう、1902年1月26日 - 1983年8月20日)は、日本の歴史学者、教育者。 新潟県柏崎市出身。1924年、慶應義塾大学文学部史学科卒。大学では幸田成友に師事。慶應義塾幼稚舎職員を1965年まで務める。幼稚舎長、慶大講師などを務め、東西交渉史などに業績を残す。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
五十嵐 丈吉(いからし じょうきち、1902年〈明治35年〉… 五十嵐 丈吉(いからし じょうきち、1902年〈明治35年〉1月26日 - 2013年〈平成25年〉7月23日)は、新潟県三条市在住だった長寿の男性。存命人物のうち日本における男性最高齢だった。 1902年(明治35年)1月26日、三条市で6人兄弟の長男として生まれた。 小学校を卒業後、農業で生計を立てる。病気がちだった妻のミテ(1973年に68歳で死去)や、孫の面倒をみるため50代で隠居。酒やたばこはせず、趣味の菊づくりに励み、左大腿部を骨折する91歳までは庭の松の木に登り、枝にはさみを入れていた。酢をよく使うため、長男はそれが長寿の秘訣ではないかと思うと語っていた。 2008年(平成20年)に特別養護老人ホーム「つかのめの里」に入所。
西川 寧(にしかわ やすし、1902年〈明治35年〉1月25… 西川 寧(にしかわ やすし、1902年〈明治35年〉1月25日 - 1989年〈平成元年〉5月16日)は、20世紀を代表する日本の書家、金石学者、中国文学者、西域出土晋代墨蹟の書道史的研究で文学博士(慶應義塾大学)。字は安叔。号は靖闇。贈正三位(没時叙位)、贈勲一等瑞宝章(没時陞叙)。息子の西川杏太郎は奈良国立博物館長、東京国立文化財研究所所長を歴任した仏像を中心とした日本彫刻史の研究者。 明治の大家、西川春洞の三男として東京に生まれる。俗に「昭和の三筆」の一人とも言われる。現代の書壇に最も影響を及ぼし、書の巨人と呼ばれ、文字学研究者として、また書壇を驚かす強烈なインパクトの作品を数々残した。子に美術史研究者の西川杏太郎がある。
竹内 道之助(たけうち みちのすけ、1902年1月25日 -… 竹内 道之助(たけうち みちのすけ、1902年1月25日 - 1981年4月20日)は、日本の翻訳家、実業家、三笠書房創立者。東京府東京市深川区(現・東京都江東区)出身。 本所高等小学校卒業。正則英語学校、アテネフランセに通い英語、ドイツ語、フランス語を習得。 藤澤衛彦の主宰の雑誌『伝説』の編集に携わる。のち、梅原北明が企画し福山福太郎が創設した「文藝資料研究会」に参加し、雑誌『奇書』や「変態文献叢書」の編集を手がける。1930年には酒井潔らの協力をうけ「風俗資料刊行会」を設立し、雑誌『風俗資料』『デカメロン』らを編集刊行した。 そののち、哲学者三木清らのグループや、唯物論研究会との親交を重ね、1933年に妻富子と共に、社会科学書、ヨーロッパ・アメリカ文学の翻訳書の刊行を主とする、三笠書房を創立。
中野 重治(なかの しげはる、1902年(明治35年)1月2… 中野 重治(なかの しげはる、1902年(明治35年)1月25日 - 1979年(昭和54年)8月24日)は、日本の小説家・詩人・評論家・政治家。代表作に小説『歌のわかれ』『むらぎも』『梨の花』『甲乙丙丁』、評論『斎藤茂吉ノオト』、詩集『中野重治詩集』など。詩人の中野鈴子は実妹、女優の原泉は妻。 福井県坂井市出身。東京帝国大学文学部独文科卒。四高時代に窪川鶴次郎らを知り、短歌や詩や小説を発表するようになる。東大入学後、窪川、堀辰雄らと『驢馬』を創刊、一方でマルクス主義やプロレタリア文学運動に参加し、「ナップ」や「コップ」を結成。この間に多くの作品を発表した。1931年に日本共産党に入ったが、検挙され1934年に転向する。
鈴木 良徳(すずき よしのり、1902年1月25日 - 19… 鈴木 良徳(すずき よしのり、1902年1月25日 - 1991年9月14日)は、日本の陸上競技指導者。JOC名誉委員、日本陸連元理事長。栃木県出身。 郁文館中学校、旧制松本高等学校文科乙類を経て、九州帝国大学農学部農業化学科卒業、1926年同大学法文学部中退。1932年、日本陸連の役員となり、1960年ローマ五輪の陸上競技総監督などを務め、同年日本陸連理事長。1969年日本体育協会アマチュア委員長に就任し、「アマチュア規定」制定に尽力したほか、1964年東京五輪組織委競技交通警備特別委員、ユニバーシアード組織委総務委員、第8回・第14回国際オリンピックアカデミー調査員、札幌冬季五輪式典委員、体協理事、COJO・JOC合同委員長などを歴任。
野村 幸祐(のむら こうすけ、1902年 <明治35年> 1… 野村 幸祐(のむら こうすけ、1902年 <明治35年> 1月25日 - 1991年 <平成3年> 4月27日)は、日本の経営者。山口放送社長を務めた。[要出典]位階は従四位。 山口県出身。広島高等師範学校を経て、1933年に広島文理大学史学科を卒業。朝鮮総督府、兵庫県、文部省で教学官や史学官を務め、広島文理大学事務官、広島高等師範学校教授、佐賀青年師範学校校長を歴任し、1949年4月に山口県教育委員会委員長に就任。1956年3月には県内初の民間放送局として設立されたラジオ山口(現在の山口放送)に入社し、社長に就任。1987年6月には会長に就任。会長在職中の1988年にはドキュメンタリーのディレクターとして評価の高かった磯野恭子の、民放初の女性取締役抜擢にも尽力した。
村瀬 宣親(むらせ のぶちか、1902年(明治35年)1月2… 村瀬 宣親(むらせ のぶちか、1902年(明治35年)1月25日 - 1966年(昭和41年)12月13日)は、昭和期の政治家。衆議院議員、愛媛県越智郡乃万村長。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 愛媛県越智郡乃万村延喜(現今治市)で生まれる。今治中学校(現愛媛県立今治西高等学校)を経て、神戸高等商業学校(のち神戸商業大学)で学んだが中退。今治市役所に入り、産業課長、土木課長などを務めた。その後、中華民国に赴き興亜院嘱託、山東省青島港建設事務所会計課長、青島埠頭 (株) 総務課長などを歴任した。 戦後、今治に引揚げ、乃万村長を務めた。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に愛媛県第2区から民主党公認で出馬して初当選。
五所 平之助(ごしょ へいのすけ、1902年1月24日または… 五所 平之助(ごしょ へいのすけ、1902年1月24日または2月1日 - 1981年5月1日)は、日本の映画監督、脚本家、俳人。日本最初の国産トーキー映画『マダムと女房』の監督として有名である。本名は五所 平右衛門(ごしょ へいえもん)。俳号は五所亭。 東京市神田区鍋町(現・千代田区内神田3丁目)に、「豊前屋」という大店の乾物問屋を営む父・平助の妾腹の子として生まれる。生みの母は新富町で芸者をしていた。5歳の時に長男が亡くなり、母のもとを離れて後継ぎにされた。1916年に慶應義塾商工学校に入学する。学生時代には俳句に没頭していた。 1921年、歩兵第1連隊に志願入隊し、見習士官で予備となる。1923年、慶應義塾商工学校卒業後、城戸四郎との出会いがきっかけで、父の友人の息子である島津保次郎の口添えもあって、松竹蒲田撮影所へ入社する。
納戸 徳重(のと とくしげ、1902年1月24日 - 199… 納戸 徳重(のと とくしげ、1902年1月24日 - 1991年1月4日)は、日本の陸上競技(短距離走・中距離走)選手。 東京高等師範学校在学中の1920年代半ばに400メートル・800メートルの日本記録をたびたび更新、1924年パリオリンピックに両種目と十種競技で出場した。卒業後は福岡日日新聞社(のち西日本新聞社)に入社、1952年に九州一周駅伝を創設するなど、九州の陸上競技の振興に努めた。 福岡県三潴郡城島町(現在の久留米市)に生まれる。筑後川やクリーク(水路)を泳いで遊ぶ少年時代を過ごし、中学明善校(現在の福岡県立明善高等学校)在学中には野球部・庭球部・徒歩部・剣道部で選手を務めるスポーツ万能ぶりを見せていたという。
金 鏞化(キム・ヨンファ、朝鮮語: 김용화、1902年1月2… 金 鏞化(キム・ヨンファ、朝鮮語: 김용화、1902年1月23日 - 1970年)は、中華民国、満洲国および大韓民国の教授、政治家。制憲・第2代韓国国会議員。 本貫は全州金氏。字は星光、号は竹山。父は旧韓末の正3品議官を務めた金精気。 咸鏡南道興南市生まれ、忠清南道天安郡出身。中央大学法学部、日本大学政治学部卒。北京大学政治科修了。北京基青付専・新京外国語専門学校教授を務めた。帰国後は1939年より天安で果樹園農場を経営し、そのまま解放を迎えた。その後は文化大学副理事長、大韓雄弁会中央委員、大韓国民党天安郡党委員長を歴任した。1948年の初代総選挙では天安郡選挙区に金を含めて10人が立候補したため、激戦で落選した。
田畑 忍(たばた しのぶ、1902年1月22日 - 1994… 田畑 忍(たばた しのぶ、1902年1月22日 - 1994年3月14日)は、日本の法学者。専門は憲法。同志社大学名誉教授。
中谷 治宇二郎(なかや じゅうじろう、1902年〈明治35年… 中谷 治宇二郎(なかや じゅうじろう、1902年〈明治35年〉1月21日 - 1936年〈昭和11年〉3月22日)は、日本の考古学者。筆名は中谷杜美。物理学者・中谷宇吉郎の弟。 1902年(明治35年)1月21日、中谷宇一の次男として石川県江沼郡片山津町(現・加賀市)に生まれる。中学生の頃は文学を志し、同窓生たちと発行した同人誌『跫音』に発表した小説「独創者の喜び」が芥川龍之介の目にとまったことがある。 1919年(大正8年)、小松中学校を卒業し、約1年間、作見村小学校で代用教員として奉職する。1920年(大正9年)に上京し、菊池寛の内弟子として身を寄せて新劇運動に参加し、1921年(大正10年)に金沢新報の記者としてシベリア出兵に従軍する。
前田 岩一(まえだ がんいち、1902年〈明治35年〉1月2… 前田 岩一(まえだ がんいち、1902年〈明治35年〉1月21日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。菊水旅館代表取締役。米子市議会議員。米子市観光協会会長。皆生温泉旅館組合組合長。 岡山県真庭郡(現・真庭市)出身。尋常小学校、高等小学校を卒業する。1918年(大正7年)、鳥取県米子市にて諸業に従事する。1937年(昭和12年)、菊水旅館を設立する。1949年(昭和24年)、有限に改組する。 米子市観光協会会長、皆生温泉旅館組合組合長、鳥取県観光連盟副会長、鳥取県旅館組合連合会副理事長、鳥取県中小企業団体中央会理事、鳥取県中小企業振興対策審議会委員、鳥取県労務対策協議会理事、米子労働基準協会理事・協会会長などをつとめる。
佐藤 虎次郎(さとう とらじろう、1902年(明治35年)1… 佐藤 虎次郎(さとう とらじろう、1902年(明治35年)1月20日 - 1983年(昭和58年)3月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期) 、清水市長(3期) 。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 静岡県出身。明治大学中退。沼津市議に二回当選し、副議長などを務めた。1946年(昭和21年)から1963年(昭和38年)まで衆議院議員を5期務めた (自民党)。 1965年(昭和40年)から清水市長を3期を務め、この間静岡県柑橘振興会長なども歴任。実業家としては東洋パイルヒューム管製作所会長なども務めた。
廿日出 逸暁(はつかで いつあき、1901年2月18日 - … 廿日出 逸暁(はつかで いつあき、1901年2月18日 - 1991年5月29日)とは、日本の図書館員・図書館学者である。 1901年、広島県豊田郡大長村(現・呉市)に生まれる。旧制崇徳中学校卒業。ライプチヒ大学附属図書館学校等を卒業後、御成婚記念千葉県図書館(現千葉県立中央図書館)の館長として経営に邁進する。戦後は移動図書館を日本に広めたことでも知られ、図書館法の成立にも尽力している。のちに国会図書館連絡部長や千葉経済短期大学教授等を歴任した。1971年、勲三等瑞宝章を受章。1991年死去。
行岡 忠雄(ゆきおか ただお、1901年(明治34年)2月1… 行岡 忠雄(ゆきおか ただお、1901年(明治34年)2月18日 - 1974年(昭和49年)4月27日)は、日本の医師、医学博士、柔道整復師。 大阪医科大学(現・大阪大学医学部)卒。日本初 の柔道整復師養成施設である大阪接骨学校(昭和7年)と、行岡外科病院(大阪接骨学校附属行岡外科病院)(昭和9年)を設立する。 大阪府柔道整復師会 会長(1933年、1957年5月)、社団法人 大阪府医師会会長(1954年4月)、大阪府保険医協会理事長(1953年4月)、大阪市会議員(1951年以降連続6期)などを歴任。 大阪接骨学校(現:行岡医学技術専門学校・大阪行岡医療専門学校長柄校)の創設者。 1974年大阪市議のまま急性心不全のため、阪大病院で死去。
楳垣 実(うめがき みのる、1901年〈明治34年〉2月18… 楳垣 実(うめがき みのる、1901年〈明治34年〉2月18日 - 1976年〈昭和51年〉2月29日)は、日本の言語学者。専門は、比較語学・方言・隠語。外来語辞典や隠語辞典を編纂したことで知られるが、語源についての随筆もある。 京都府生まれ。1923年同志社大学文学部英文学科卒業。1924年長野県木曽中学校(現長野県木曽高等学校)嘱託。同志社大学教授、太平洋戦争では南支に従軍。和歌山大学教授、1952年帝塚山学院短期大学教授、1966年定年、関西外国語大学教授。1972年紫綬褒章受勲。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
岩田 徳三郎(いわたとくさぶろう、1901年2月18日 - … 岩田 徳三郎(いわたとくさぶろう、1901年2月18日 - ?)は、日本の射撃競技(クレー射撃)選手。1956年メルボルンオリンピックにクレー・ピジョン(トラップ)種目で出場。クレー射撃でオリンピックに参加した最初の日本選手の一人。また、1954年アジア競技大会(マニラ)ではトラップ種目で銀メダルを獲得している。 法政大学卒業。17歳から狩猟をはじめたという。スポーツとしての射撃に魅せられたのは戦後といい、1952年(昭和27年)の国体でトラップ個人および団体で優勝。1953年(昭和28年)は公式戦においてはじめてスキートで100点満点を出した。1954年(昭和29年)のアジア競技大会(マニラ)ではトラップで銀メダル。
清水 康雄(しみず やすお、1901年2月17日 - 196… 清水 康雄(しみず やすお、1901年2月17日 - 1966年9月9日)は、日本の経営者。清水建設元社長。東京都出身。 1923年に早稲田大学専門部政治経済学科を卒業し、同年に清水組に入社。 1937年に取締役に就任し、1940年には社長に昇格。 1956年に藍綬褒章を受章。 1966年9月9日肺炎のために死去。65歳没。
岸 良子(きし よしこ、1901年〈明治34年〉2月16日 … 岸 良子(きし よしこ、1901年〈明治34年〉2月16日 - 1980年〈昭和55年〉6月14日)は、日本の56・57代内閣総理大臣である岸信介の妻。山口県出身。 山口県の士族である岸信政の娘として生まれる。実践高等女学校を卒業後、東京帝国大学法学部に在学中だった従兄の岸信介(信政の養子)と結婚を前提に同棲、1919年(大正8年)11月に結婚。 1921年(大正10年)に長男・信和、1928年(昭和3年)に長女・洋子をそれぞれ出産。 1980年(昭和55年)6月14日、心不全のため東京都港区の山王病院で死去。79歳没。
原田 種夫(はらだ たねお、1901年(明治34年)2月16… 原田 種夫(はらだ たねお、1901年(明治34年)2月16日 - 1989年(平成1年)8月15日)は日本の小説家、詩人。本名は種雄(たねお)。 福岡市博多区中洲(西大橋たもと)に文学碑が建立されている。