酒井 三郎(さかい さぶろう、1901年10月12日 - 1… 酒井 三郎(さかい さぶろう、1901年10月12日 - 1982年10月22日)は、日本の西洋史学者、熊本大学名誉教授。 高知県安芸郡生まれ。畠中家に生まれ酒井家養子となる。中学校卒業後、小学校代用教員、1923年准教員、1925年日本大学高等師範部入学、卒業ののち東北帝国大学法文学部卒業。助手をへて、1935-1940年東京帝国大学大学院に在籍。1943-1944年日本女子大学校教授、1951年熊本大学教授、教養部長をへて1968年定年退官、名誉教授、立正大学教授、1976年退職。1959年「J.-J.Rousseauの史学史上の地位」で広島大学文学博士。西洋史専攻。 中学校(旧制)卒から、検定試験をへて東大大学院まで進んだ異色の学究である。
藤原 守胤(ふじわら もりたね、1901年10月11日 - … 藤原 守胤(ふじわら もりたね、1901年10月11日 - 1977年12月14日)は、日本のアメリカ史学者。慶應義塾大学名誉教授。日本初の女性弁護士の一人である久米愛は実妹。 福岡県福岡市生まれ。1925年慶應義塾大学法学部政治学科卒業。翌年からイギリス、フランスに留学し、1927-1930年ハーバード大学大学院に在籍。1942年立教大学アメリカ研究所常務理事、1945年所長。1949年立教大学教授。1950年「アメリカ建国史論」で東京大学法学博士。1951年慶應義塾大学法学部教授。1958年同大学理事を務め、1964年義塾賞受賞。1970年退職、名誉教授。その後は京都外国語大学教授を務めた。
鶴丸 睦彦(つるまる むつひこ、1901年10月10日 - … 鶴丸 睦彦(つるまる むつひこ、1901年10月10日 - 1989年7月5日)は、日本の俳優。本名は松井 睦彦。 1901年(明治34年)10月10日、鹿児島県鹿児島市に医師の父・文蔵の6人兄妹の長男として生まれる。早稲田高等学院卒業後の1923年(大正12年)に渡米し、その後エル・グレコの絵を見たさに旅費をためてスペインに渡る。1927年(昭和2年)に帰国。左翼系劇団の美術部員から俳優に転じ、同年に佐々木孝丸、村山知義らの前衛劇場に入り、1928年(昭和3年)には東京左翼劇場、1934年(昭和9年)には新協劇団に参加する。1938年(昭和13年)、木村荘十二監督の『牧場物語』で映画に初出演する。
篁 牛人(たかむら ぎゅうじん、明治34年(1901年)10… 篁 牛人(たかむら ぎゅうじん、明治34年(1901年)10月10日 - 昭和59年(1984年)2月25日)は、昭和時代の日本画家。幼名は光磨。本名は浄信。 1901年、富山県婦負郡桜谷村大字石坂村(現:富山県富山市石坂)に生まれる。1921年、富山県立工芸学校(現:富山県立高岡工芸高等学校)を卒業、同校卒業生で組織する富山工芸会に参加。工芸作品の図案を制作し商工省工芸展などで中島杢堂、安川慶一らと受賞を重ねるが、1934年頃からパブロ・ピカソ、藤田嗣治、小杉放庵などの感化を受け、1940年頃より絵画に専念し始める。太平洋戦争末期の1944年、応召して東南アジアに赴き転戦。復員後の1947年頃から、独自の渇筆技法で制作を行い、主題を東洋思想に求めた。
杉戸 清(すぎと きよし、1901年(明治34年)10月10… 杉戸 清(すぎと きよし、1901年(明治34年)10月10日 - 2002年(平成14年)4月24日)は、日本の政治家。元名古屋市長(3期)。 愛知郡則武村字香箱(現・名古屋市中村区)出身。名古屋中学校、第八高等学校を経て、東京帝国大学工学部土木工学科を卒業。1926年(大正15年)4月に名古屋市役所に入り、水道局長、名古屋市助役などを歴任する。 1961年(昭和36年)3月16日、名古屋市長の小林橘川が任期中に死去。職務代理者を務める。同年4月28日に行われた市長選に自民党の推薦を受けて立候補。元参議院議員の栗山良夫(社会党推薦)、元市議の横井亀吉(民社党推薦)らを破り初当選した。 名古屋市長として地下鉄の整備等に尽力した。
羅門 光三郎(らもん みつさぶろう、1901年10月10日 … 羅門 光三郎(らもん みつさぶろう、1901年10月10日 - 1976年5月6日)は、日本の俳優[4]。本名は岩井 憲次(いわい けんじ)[4]。旧芸名は岩井 健夫(いわい たけお)、芳澤 一郎(よしざわ いちろう)[4]。剣戟映画を得意とする映画会社を渡り歩いた剣戟スターである。
金 相舜(キム・サンスン、朝鮮語: 김상순、1901年10月… 金 相舜(キム・サンスン、朝鮮語: 김상순、1901年10月10日 - 没年不詳)は、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。 全羅南道長城郡北二面出身。中東学校高等科、中央大学専門部・経済学科卒。中央大学在学中に在日湖南留学生会代表を務めた。帰国後は合資会社三養社に入社し、大韓独立促成国民会宣伝部、韓国民主党、大同青年団、民族青年団で活動したほか、長城中学校理事長、制憲国会議員を務めた。 1979年5月29日付の東亜日報に掲載されたコラムによれば、すでに故人とされている。
田中 栄一(田中 榮一、たなか えいいち、1901年10月8… 田中 栄一(田中 榮一、たなか えいいち、1901年10月8日 - 1980年2月1日)は、昭和期の日本の政治家、官僚。位階は従三位。 第61代警視総監(在任期間:1948年3月7日 - 1954年6月29日)。東京中学から第八高等学校を経て東京帝国大学法学部出身。 東京府東京市浅草区(現・東京都台東区浅草)生まれ。薩摩士族の血を引く。祖父は西南戦争で西郷隆盛側に立って戦い討ち死にした。幼少期に父と死別、母とは生別、兄弟は離散して親戚に預けられ、小学校を出ると別府のホテルで給仕として働いた。たまたま訪れた客の海軍士官から「偉くなりたいなら上京して勉強せよ」と激励され、苦学の末に東京帝大法学部に入学する。
村野 四郎(むらの しろう、1901年〈明治34年〉10月7… 村野 四郎(むらの しろう、1901年〈明治34年〉10月7日 - 1975年〈昭和50年〉3月2日)は、日本の詩人。日本現代詩人会会長。理研コンツェルン役員。長男はセイコー株式会社代表取締役社長を務めた村野晃一。 東京北多摩郡多磨村に生まれた。父、兄たちが、それぞれ俳句や短歌を作るという文学的環境に育った。慶大理財科を卒業したが、詩への情熱は強く、1926年に第1詩集『罠』を刊行。ドイツ近代詩の影響を受け、モダニストの立場を鮮明にした。 頭で考えるのではなく、実際の物に即して考えるという新即物主義にもとづいた『体操詩集』は、人間存在と社会と宇宙の関係をとらえた画期的な詩集。戦後は独自の歩みをつづけ、「不在の神への近接」という実存的な詩境に達した。
曽我部 静雄(そがべ しずお、1901年10月7日 - 19… 曽我部 静雄(そがべ しずお、1901年10月7日 - 1991年1月2日)は、日本の東洋史学者。 徳島県美馬郡美馬町(現美馬市)出身。1927年京都帝国大学文学部史学科卒、1947年「宋代財政史」で文学博士。 京都帝大副手、東北帝国大学法文学部助教授を経て、1940年教授。東北大学教授、1965年定年退官し名誉教授。1966年国士舘大学教授。1973年退職。
安西 浩(あんざい ひろし、明治34年(1901年)10月6… 安西 浩(あんざい ひろし、明治34年(1901年)10月6日 - 平成2年(1990年)4月12日)は、日本の実業家。東京瓦斯の最高実力者として20年以上も君臨。日本瓦斯協会会長も務めた。 安西直一の長男として千葉県夷隅郡清海村(現・勝浦市)に生まれる。。米沢高等工業学校応用科学科を経て1928年(昭和3年)に東北帝国大学法文学部卒業、東京瓦斯に入社。 入社後の1938年(昭和13年)から3度にわたって応召、陸軍主計将校として軍務につく。1946年(昭和21年)に東京瓦斯取締役に就任。以後、1947年(昭和22年)同社常務、1953年(昭和28年)副社長、1967年(昭和42年)社長、1972年(昭和47年)会長、1989年(平成元年)相談役。
西野 綱三(にしの こうぞう、1901年10月6日 - 19… 西野 綱三(にしの こうぞう、1901年10月6日 - 1984年6月15日)は、日本の元ラグビー選手及び同監督。
浅野均一(あさの きんいち、1901年〈明治34年〉10月5… 浅野均一(あさの きんいち、1901年〈明治34年〉10月5日 - 1984年〈昭和59年〉12月13日)は、日本の医師、陸上競技指導者、スポーツ行政官。昭和期の日本陸上界を牽引し、国際復帰にも尽力した。荻窪病院理事長、日本陸上競技連盟名誉会長、日本オリンピック委員会(JOC)委員を歴任。医学博士。 1901年、東京市四谷区(現・東京都新宿区)に生まれる。慶應義塾大学医学部を1926年(大正15年)に卒業し、同大学にて医学博士号を取得。後に慶應義塾大学体育研究所教授を務め、退任後は名誉教授に就任した。 大学在学中から陸上競技(短距離)選手としても活動し、1923年(大正12年)の第6回極東選手権競技大会(マニラ)にて1600メートルリレー優勝メンバーとして国際大会で活躍した。
桂田 利吉(かつらだ りきち、1901年(明治34年)10月… 桂田 利吉(かつらだ りきち、1901年(明治34年)10月5日 - 1992年(平成4年)2月6日)は、日本の英文学者。法政大学教授、実践女子大学第6代学長。コールリッジ研究の第一人者。 宮城県柴田郡村田町生まれ。1929年東北帝国大学法文学部卒。1930年高等学校英語科教員免許取得。 1930年、宮城県立女子専門学校教授、1941年同校依願退職。同年横浜専門学校教授、1945年同校依願退職。 1945年、法政大学専門部教授、1946年同大文学部講師、1959年同教授、1960年「コウルリッヂ研究」で文学博士。 1969年実践女子大学教授。1972年、勲三等瑞宝章。1974年から78年まで学長。
北 通文(きた みちぶみ、1901年10月4日- 1987年… 北 通文(きた みちぶみ、1901年10月4日- 1987年4月23日)は、日本のドイツ文学者。 大分県生まれ。1926年東京帝国大学文学部独文科卒。旧制東京高等学校教授、戦後東京大学教養学部教授、1962年定年、早稲田大学商学部教授。1972年退職。
大木 正夫(おおき まさお、1901年〈明治34年〉10月3… 大木 正夫(おおき まさお、1901年〈明治34年〉10月3日 - 1971年〈昭和46年〉4月18日)は、日本の作曲家。 静岡県磐田郡中泉町(現磐田市)に生まれる。幼少期より尺八をたしなみ、県立静岡中学校(現・静岡県立静岡高等学校)から大阪高等工業学校(現・大阪大学)応用化学科を卒業。丸善工場に勤務するが、まもなく退職して長野県上田高女(現・長野県上田染谷丘高等学校)で教鞭をとる。やがて退職して上京し、石川義一に師事していたこともあったが、大半が独学で作曲を学んでいる。帝国音楽学校作曲科主任教授、作曲家連盟委員音楽文化協会常任理事、日本現代音楽協会の委員等に就いた。1962年、ソビエト連邦作曲家同盟の招きで間宮芳生と共に訪ソ。
西田 税(にしだ みつぎ、1901年(明治34年)10月3日… 西田 税(にしだ みつぎ、1901年(明治34年)10月3日 - 1937年(昭和12年)8月19日)は、日本の陸軍軍人、思想家。 日本改造法案大綱を著し国家改造論者として知られる北一輝と親交を持つようになったことから、国家革新の志をさらに大きくするようになったという。西田の思想は革新的な青年将校から絶大に信奉されたが、1936年(昭和11年)の二・二六事件で国家転覆を図った首謀者の一人として逮捕され、翌1937年(昭和12年)、北とともに刑死した。 鳥取県西伯郡米子町大字博労町(現在の米子市博労町)に仏具店を営む父・西田久米造、母・つねの次男として生まれた。 1914年(大正3年)3月、啓成尋常小学校(現・米子市立啓成小学校)を卒業。
熊谷 登久平(くまがい とくへい、本名:熊谷 徳兵衛、190… 熊谷 登久平(くまがい とくへい、本名:熊谷 徳兵衛、1901年10月2日 - 1968年11月24日)は、日本の洋画家、歌人。岩手県出身。 愛称は「とくさん」「熊公」「十九平/とくべえ」。 1901年(明治34年)10月2日、岩手県東磐井郡千厩町(現・一関市)出身。 1925年(大正14年)、中央大学商学部を卒業。学生時代に川端画学校に入り、藤島武二、富永勝重の指導を受ける。1924年(大正13年)修了。 1926年(大正15年)ごろ、長谷川利行を識り、親交を結ぶ。 1927年(昭和2年)、長谷川利行と二人展(反調和会展)を上野の山、言問通り沿いの額縁屋彩美堂と大地堂(木秋社)を会場として開催(企画段階では松尾恒夫(詳細不明、戦前の白日会展と1930年協会入選者に名がある)を含む三人展)。
中谷 孝雄(なかたに たかお、1901年(明治34年)10月… 中谷 孝雄(なかたに たかお、1901年(明治34年)10月1日 - 1995年(平成7年)9月7日)は、日本の小説家。妻は小説家の平林英子。 三重県一志郡七栗村(現・津市)出身。三重県立第一中学校(現・三重県立津高等学校)卒業後、旧制第三高等学校に進学し、梶井基次郎、飯島正、浅野晃らと出会う。平林英子とは三高在学中に出会い、2人が既に同棲をしていた下宿へ友人であった梶井基次郎や大宅壮一が遊びに訪れた。 1924年(大正13年)に東京帝国大学文学部独文科に進み、一旦離れていた平林英子と10月から同棲を再開し結婚。翌1925年(大正14年)1月に、同校の梶井基次郎、外村茂らと同人誌『青空』を創刊した。
浦松 佐美太郎(うらまつ さみたろう、1901年10月1日 … 浦松 佐美太郎(うらまつ さみたろう、1901年10月1日 - 1981年12月23日)は、日本のジャーナリスト・登山家。 今日では本業のジャーナリストとしてよりも、登山家・山岳作家としての仕事で知られている。 1919年、旧制芝中学校卒業後、東京商科大学(現・一橋大学)卒業。ロンドンに留学して近代登山に出会い、帰国後『たった一人の山』((1941年刊)など、山岳紀行の分野を開拓する。 ジャーナリストとしては日本太平洋問題調査会に参加し、1929年京都で開かれた「太平洋会議」(太平洋問題調査会の国際会議)の後、その争点を検討する「東京政治経済研究所」を蠟山政道・松本重治・牛場友彦らとともに設立し、近衛文麿の外交問題ブレインを形成した。
五十嵐 吉蔵(吉藏、いがらし きちぞう、1901年〈明治34… 五十嵐 吉蔵(吉藏、いがらし きちぞう、1901年〈明治34年〉10月1日 - 1959年〈昭和34年〉6月24日)は、大正・昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(5期)。蚕糸の第一人者。 群馬県佐波郡豊受村大字上蓮沼(現・伊勢崎市上蓮町)で、農業・五十嵐栄三郎の長男として生まれる。1918年(大正7年)群馬県立安中蚕糸学校(現・群馬県立安中総合学園高等学校)を卒業し、明治大学に進んだが中退。 組合製糸群馬社副社長、同代表理事、全国共栄蚕糸組合副理事長、日本蚕糸業会理事、刀洋織物社長、群馬県蚕種協同組合長などを務め、蚕糸行政に尽くした。 政界では、1933年(昭和8年)群馬県会議員に当選し3期在任。
岡本 三郎助(おかもと さぶろうすけ、1901年(明治34年… 岡本 三郎助(おかもと さぶろうすけ、1901年(明治34年)9月30日 - 1951年(昭和26年)5月29日)は、日本の内務・警察官僚。最後の官選滋賀県知事。 広島県沼隈郡鞆町(現・福山市)出身。岡本龍太郎の二男として生まれる。1925年、東京帝国大学法学部英法科を卒業。1926年12月、高等試験行政科試験に合格。1928年、東京高等工業学校建築科を卒業。内務省に入省し、鹿児島県属となる。 以後、鹿児島県警部、同学務部社会課長、新潟県警視、愛知県警察部保安警務課長、京都府警察部警務課長、興亜院書記官、秋田県書記官・警察部長、栃木県経済部長などを歴任。 1942年1月、滋賀県内務部長に就任。柴野和喜夫知事が石川県知事選挙に立候補のため辞任し、1947年3月、滋賀県知事に昇格。
岡松 成太郎(おかまつ せいたろう、1901年 <明治34年… 岡松 成太郎(おかまつ せいたろう、1901年 <明治34年> 9月29日 - 1991年 <平成3年> 7月18日)は、日本の官僚、経営者。商工次官、北海道電力社長を歴任。位階は従三位。勲二等旭日重光章。 東京府出身。父は京大法科教授・岡松参太郎。東京府立第四中学校、第一高等学校を経て、1925年に東京帝国大学法学部卒業。1928年、商工省入省。特許局属。1940年、総力戦研究所員、以後、東北地方鉱山局長、軍需省管理局長、商工省商務局長、燃料局長などを経て、石炭庁次長兼総務局長に。1947年に商工次官に就任。 退任後は、日本商工会議所専務理事、北海道電力社長を3期6年務め、江別火力発電所や送電・変電の整備に尽くした。
筑土 鈴寛(つくど れいかん、1901年9月28日 - 19… 筑土 鈴寛(つくど れいかん、1901年9月28日 - 1947年2月12日)は、日本の僧侶、民俗学者。東京府北多摩郡神代村(現東京都調布市)生まれ。初名を寛也。 私立天台宗中学校(現駒込高校)、國學院大學予科に学び、1924年(大正13年)東漸院住職となる。1926年國學院大學文学部国文学科卒業、東京帝国大学文学部副手、1928年(昭和3年)大正大学予科講師、同予科・専門部教授を経て1944年大正大学教授。 折口信夫より唱導文芸の研究を受け継ぎ、中世の宗教芸文に関する研究を確立した。 1947年に宗教芸文学会を設立したが、まもなく若くして亡くなった。 国文学の業績が多く、折口の後継者の一人と目されていた。
矢尾 喜三郎(やお きさぶろう、1901年9月28日 - 1… 矢尾 喜三郎(やお きさぶろう、1901年9月28日 - 1975年6月21日)は日本の政治家、労働運動家。位階は従三位。 滋賀県大津市出身。日本社会党所属の元衆議院議員(9期)。日本労働総同盟滋賀県連合会会長を務めた。矢尾喜の愛称で親しまれた。 1901年(明治34年)9月、大津市高見町に生まれる。1927年、 立命館大学法律科卒業。同年、社会民衆党滋賀支部設立の中心メンバーとなる。1928年、滋賀合同労働組合の結成に参加、旭絹織膳所工場の労働争議など、主に繊維関係の労働運動を主導する。1929年の大津市議会議員選挙で次点で落選するも、1931年に繰り上げ当選。大津市議会で初の無産党議員となって、失業問題などに取り組む。
秋山 逸生(あきやま いっせい、1901年9月27日 - 1… 秋山 逸生(あきやま いっせい、1901年9月27日 - 1988年5月22日)は、日本の木工芸家。 重要無形文化財「木象嵌」保持者。大坂弘道など木象嵌に優れた木工芸家はいるが、2006年現在では「木工芸」ではなく「木象嵌」で人間国宝に認定されたのは秋山のみである。 旧東京府隅田村(現 東京都墨田区)に生まれる。師に供して千葉県市川市に移り住み、生涯を市川で過ごす。 1918年、芝山象嵌師の島田逸山に師事。その後、兄の秋山聴古(本名秋山鉄次郎)に木画技法、彫金師桂光春らにも学ぶ。木象嵌は木地に色や木目の違う木材や金属などのさまざまな素材を加工して嵌め込み木地にさまざまな文様を表す。とくに複雑な文様を示すものは木画といい、下総国芝山の芝山専蔵が起こした象嵌法を芝山象嵌といい秋山逸生の師島田逸山や兄秋山聴古は芝山象嵌師である。
5代式守勘太夫(ごだい しきもりかんだゆう、1901年(明治… 5代式守勘太夫(ごだい しきもりかんだゆう、1901年(明治34年)9月27日 - 1984年(昭和59年)5月18日)は大相撲の元三役格行司。所属は伊勢ノ海部屋→鏡山部屋→伊勢ヶ濱部屋。青森県八戸市出身。本名は岡村熊太郎。 初め伊勢ノ海部屋に入門するが、のち5代鏡山(元幕下金木山)の養子となる。しかし、鏡山部屋は1944年11月場所限りで伊勢ヶ濱部屋へ吸収合併された。 1913年(大正2年)1月、「式守熊太郎」の名で初土俵。1926年1月、4代式守与之吉襲名。1933年1月十両格、1938年1月に5代式守勘太夫を襲名。1940年5月幕内格、1951年5月に年寄・6代鏡山を襲名し二枚鑑札。三役格の定員増加により1956年5月、三役格行司に昇格。
大江 良太郎(おおえ りょうたろう、1901年9月26日 -… 大江 良太郎(おおえ りょうたろう、1901年9月26日 - 1974年4月14日)は、日本の演劇評論家、演出家。 秋田県出身。慶応義塾大学在学中に劇作家や演出活動を行っていた小山内薫の指導を受けて演劇研究会を結成。1926年(大正15年)に卒業した後は松坂屋宣伝部に勤めながら演劇評論を発表。新派、新劇、文学座などの演出を行っていた久保田万太郎に師事し、1932年(昭和7年)には築地座結成に参加して文芸部に入った。 1939年(昭和14年)、築地小劇場が株式組織化した際には、新協劇団、新築地劇団関係者らとともに発起人となった。一方、同年からは新派との関りを深め、戦後の一時期には新国劇の文芸部に籍をおいたものの、長きにわたり新派を中心に演出活動を行った。
北沢 直吉 (きたざわ なおきち、1901年9月25日 - … 北沢 直吉 (きたざわ なおきち、1901年9月25日 - 1981年7月19日)は、日本の外交官、政治家。衆議院議員、外務省参与、内閣官房副長官を務めた。 茨城県筑波郡大穂村大字長高野(現在のつくば市長高野)生まれ。茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)から東京商科大学(現在の一橋大学)に進学し、1925年に卒業すると外務省に入る。入省して直ぐアメリカに赴任しプリンストン大学でM.A.の学位を取得(1927年)、斎藤博大使の下で対米交渉の一員として加わるが斎藤大使の死去に伴い帰国する。その後は香港で中華民国との和平工作に従事するが、1941年に在中華民国(汪兆銘政権)大使館一等書記官兼北京総領事となり、1943年にはビルマ大使館に参事官として赴任し、ビルマ首相のバー・モウが日本軍の敗走と共に亡命する際に案内役となった。
渡辺 一夫(渡邊 一夫、わたなべ かずお、1901年(明治3… 渡辺 一夫(渡邊 一夫、わたなべ かずお、1901年(明治34年)9月25日 - 1975年(昭和50年)5月10日)は、日本のフランス文学者・評論家。東京大学名誉教授、日本学士院会員。ルネサンス期フランスのフランソワ・ラブレーやエラスムスなどの研究、及び『ガルガンチュワとパンタグリュエル』の日本語訳で知られる。 1901年、銀行家の長男として東京府で生まれた。暁星中学校でフランス語を始め、少年時代は巖谷小波や夏目漱石、芥川龍之介、十返舎一九、式亭三馬、『三国志』『西遊記』などを愛読し、詩や和歌も読む文学少年だった。第一高等学校文科丙類を経て、東京帝国大学文学部仏文学科に進学。辰野隆に師事し、鈴木信太郎、山田珠樹、豊島與志雄らの薫陶を受ける。
服部 之総(はっとり しそう、1901年(明治34年)9月2… 服部 之総(はっとり しそう、1901年(明治34年)9月24日 - 1956年(昭和31年)3月4日)は、日本の歴史学者(マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史)。島根県浜田市金城町出身。
細川 一(ほそかわ はじめ、1901年9月23日 - 197… 細川 一(ほそかわ はじめ、1901年9月23日 - 1970年10月13日)は、日本の医師、医学者。新日本窒素肥料株式会社(後のチッソ株式会社)水俣工場附属病院長であり、水俣工場が引き起こした水俣病の症状を公式に発見した医師である。 愛媛県西宇和郡三瓶村(現・西予市)生まれ。岡金太郎の長男として生まれる。 旧制愛媛県立宇和島中学校、旧制佐賀高等学校を経て、1927年、東京帝国大学医学部を卒業。 1936年、日本窒素肥料株式会社に入社。朝鮮咸鏡北道慶興郡(現在の北朝鮮)にある阿吾地工場の附属病院長に就いた。1941年、水俣工場附属病院長に就任。その後軍医としてビルマに赴任した。1947年に復員し、水俣工場附属病院長の職に戻る。
石川道雄(いしかわ みちお、1900年10月23日 - 19… 石川道雄(いしかわ みちお、1900年10月23日 - 1959年2月25日)は、日本のドイツ文学者、詩人。 大阪府生まれ。東京帝国大学独文科卒業。山宮允の主宰する文芸誌『鈴蘭』に詩を発表。上京して日夏耿之介に師事し、1924年詩誌『東邦芸術』(のち「奢灞都」)を編集。その他、日夏の個人誌『パンテオン』『游牧記』『半仙戯』『豊葦原』などの雑誌に関わる。1929年東京府立高等学校教授。戦後國學院大學教授、山梨大学教授、1957年北海道大学教授。 ホフマンを研究、翻訳した。中央大学の校歌の作詞も担当した。墓所は多磨霊園。
阿藤 傳治(あとう でんじ、1900年(明治33年)10月2… 阿藤 傳治(あとう でんじ、1900年(明治33年)10月23日 - 1981年(昭和56年)12月14日)は、日本の実業家。朝日放送元会長。 福岡県豊前市出身。東京商科大学を卒業し、同年に住友銀行に入行。1955年1月に大阪テレビ放送常務に就任し、1959年に合併により、朝日放送常務に就任し、1964年から1968年までに専務を、1968年から1971年までに副社長を、1971年5月から1974年までに会長をそれぞれ務めた。その後は1975年5月までに取締役を務めた。 1981年12月14日急性心不全のために兵庫県宝塚市の自宅で死去。81歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
斎藤 保義(さいとう やすよし、1900年〈明治33年〉10… 斎藤 保義(さいとう やすよし、1900年〈明治33年〉10月22日 - 1992年〈平成4年〉11月30日)は、日本の銀行家。元東京銀行監査役。 次女は国際基督教大学名誉教授の斎藤美津子、長男は元毎日新聞社会長の斎藤明。 京都市出身。斎藤駒三郎の二男。 1922年(大正11年)に旧制第三高等学校文科丙類を卒業、1925年(大正14年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年正金銀行に入り頭取席東京、上海、巴里、横浜、西貢各支店に勤務したが、同行閉鎖に依り東京銀行に引継がれ1947年(昭和22年)浅草支店長。1953年(昭和28年)5月監査役に選ばれる。墓所は多磨霊園。 趣味は散歩、水泳。宗教はキリスト教。
中司 清(なかつかさ きよし、1900年10月21日 - 1… 中司 清(なかつかさ きよし、1900年10月21日 - 1990年5月1日)は、日本の実業家。鐘淵化学工業(現:カネカ)元社長、会長。山形県山形市出身。 1924年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、鐘淵紡績に入社した。満州の新京出張所所長などを歴任し、1944年からは取締役、常務を務め、1947年から副社長を務めた。 1949年6月に鐘淵紡績から分離発足した鐘淵化学工業の初代社長に就任し、塩化ビニールをいち早く企業化し、アクリル系合繊「カネカロン」の開発などにより、同社を日本有数の総合化学企業に育て上げた。社長在任中の1968年にカネミ油症事件が起きた。1969年5月に会長を務め、1974年11月に取締役相談役を経て、1978年6月から相談役名誉会長を務めた。
井深 文司(いぶか ぶんじ、1900年〈明治33年〉10月2… 井深 文司(いぶか ぶんじ、1900年〈明治33年〉10月21日 - 没年不明)は、日本の大蔵省官僚、満洲国の文官。満洲国建国初期に税務関係のポストを歴任した。 東京市牛込区矢来町30番地(現・東京都新宿区矢来町30番地)に生まれる。本籍地も同じ。 1926年(大正15年)、東京帝国大学農学部水産科を卒業。 大蔵省に奉職し、税関鑑査官補に任じられる。ついで、税関鑑査官に任じられ神戸税関、大阪税関に奉職。 1932年(大同元年)3月1日に満州国が建国されると、翌1933年(大同2年)、満洲国の財務部税務司技正(薦任官七等)に就任。 1937年(康徳4年)、営口税関鑑査科長(薦任官四等)となる。その後、安東税関鑑査科長を経て、1939年(康徳6年)12月、安東税関第一鑑査科長兼第二鑑査科長(薦任官一等)に任じられる。
赤堀 四郎(あかほり しろう、1900年10月20日 - 1… 赤堀 四郎(あかほり しろう、1900年10月20日 - 1992年11月3日)は、日本の生化学者(生物有機学)。勲等は勲一等。学位は理学博士(東北帝国大学・1931年)。大阪大学名誉教授。日本学士院会員、大阪大学総長、理化学研究所理事長などを歴任した。 苦学しながら醤油の香り成分の研究などで業績を残した。日本学士院会員、大阪大学総長、理化学研究所理事長を歴任し、勲一等を贈られた。日本学士院、ドイツ自然科学アカデミー・レオポルディーナ、ソビエト連邦科学アカデミーなどの会員に選ばれている。また、アメリカ生化学会名誉会員、静岡県小笠郡大東町名誉市民などの称号を贈られている。 1900年(明治33年)、静岡県小笠郡千浜村(現・掛川市千浜)で小学校教師の赤堀秀雄と妻・しのの息子として生まれた。
寺田 弥吉(てらだ やきち、明治33年(1900年)10月2… 寺田 弥吉(てらだ やきち、明治33年(1900年)10月20日 - 昭和46年(1971年)9月12日)は、日本の思想史家。 兵庫県揖保郡新宮村(のち新宮町、現在のたつの市)生まれ。旧制龍野中学校(現・兵庫県立龍野高等学校)を経て、1922年東京商科大学(現・一橋大学)予科修了。1936年第一書房教育部主任。1938年大日本帝国陸軍参謀本部主任研究員。1940年日本学研究所副所長兼任。1942年総力戦学会常務理事。第二次世界大戦後公職追放され、1951年に解除。親鸞などの日本思想史を研究し、孤高の哲学者と称された。たつの市の東山公園に寺田弥吉記念碑が建つ。
高橋 均(たかはし ひとし、1900年10月20日 - 19… 高橋 均(たかはし ひとし、1900年10月20日 - 1978年2月10日)は、愛媛県出身の音楽評論家、雑誌編集者。 筆名古久 文治、K・T生。父はプロテスタントの牧師高橋鷹藏。16歳頃から信時潔に師事。東京音楽学校においてヴァイオリンを専攻するも2年で中退。また在学中教えを受けた乙骨三郎の知遇を得る。日本プロレタリア音楽家同盟に所属し、1922年(大正11年)日本共産党結党の際、結党式において、翻訳された革命歌インターナショナルの足踏みオルガンを弾き、鉛筆で指揮をしての歌唱指導に参加した。1923年(大正12年)中に信時の斡旋のもとに雑誌『音樂研究』を編集し、5冊を音樂研究社より発行。この頃、大山郁夫の書生となる。
松浦 孝義(まつうら たかよし、1900年10月19日 - … 松浦 孝義(まつうら たかよし、1900年10月19日 - 1984年12月21日)は、日本の経営者。日立電線社長、会長を務めた。山口県出身。 1922年に山口高等商業学校を卒業し、同年3月に日立製作所に入社。1946年12月に取締役に就任し、1947年11月に常務、1949年6月に専務、1952年7月に副社長を経て、1956年4月には日立電線社長に就任。1971年11月に会長に就任し、1977年6月には相談役に就任。1961年11月からは日立製作所監査役も務めた。 1963年4月に藍綬褒章を受章 1984年12月21日閉塞性黄疸のために死去。84歳没。
杉山 昌作(すぎやま しょうさく、1900年(明治33年)1… 杉山 昌作(すぎやま しょうさく、1900年(明治33年)10月18日 – 1994年(平成6年)3月1日)は、昭和期の大蔵官僚、政治家。参議院議員(2期)、専売局長官。 静岡県静岡市出身。小樽高等商業学校を卒業。1924年(大正13年)11月、高等試験行政科試験に合格。1925年(大正14年)京都帝国大学経済学部を卒業した。同年、大蔵省に入省し専売局書記となる。 以後、専売局参事、大蔵省調査官、専売局長官などを歴任。その他、東北興業(のち東北開発)副総裁、専売事業協会会長、全国たばこ耕作組合中央会理事などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して初当選し、1956年(昭和31年)7月の第4回通常選挙に全国区から緑風会公認で出馬して再選され、参議院議員に連続2期在任した。
原 為一(はら ためいち、1900年(明治33年)10月16… 原 為一(はら ためいち、1900年(明治33年)10月16日 - 1980年(昭和55年)10月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 香川県出身。高松中学校を経て、1921年(大正10年)7月、海軍兵学校(49期)を卒業。翌年5月に海軍少尉任官。海軍水雷学校高等科を卒業し、駆逐艦「秋風」「吹雪」「韓崎」の各水雷長、水雷学校教官などを経て、1933年(昭和8年)11月、海軍少佐に進級。駆逐艦「夕凪」「長月」「綾波」艦長などを歴任し、太平洋戦争を駆逐艦「天津風」艦長として迎えた。 第二十七駆逐隊司令を経て、1943年(昭和18年)5月に海軍大佐となった。水雷学校教官、兼川棚警備隊司令を歴任し、1944年(昭和19年)12月に第二水雷戦隊旗艦軽巡洋艦「矢矧」艦長に就任。
池谷 信三郎(いけたに しんざぶろう、1900年10月15日… 池谷 信三郎(いけたに しんざぶろう、1900年10月15日 - 1933年12月21日)は、日本の小説家、劇作家。 東京生まれ。東京帝國大學法学部、ベルリン大学法科中退。 暁星小学校、東京府立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)、旧制第一高等学校卒業。一高在学時より校友会雑誌に短歌などを発表し創作活動をはじめる。1922年に東京帝大へ入学するが、その年の終わりには休学してベルリン大学へ行き、先にベルリンへ来ていた一高時代の先輩である村山知義の影響を受けヨーロッパの芸術運動に触れる。最終的に東大は中退した。 1923年9月1日に起きた関東大震災により実家を失い帰国。 1925年、ベルリン滞在の経験を元に執筆した『望郷』が「時事新報」の懸賞小説に当選。
本田 明(ほんだ あきら、1900年10月15日 - 196… 本田 明(ほんだ あきら、1900年10月15日 - 1965年7月3日)は、日本の実業家。帝拳プロモーション元会長、日本プロボクシング協会(旧・日本ボクシング協会)初代会長を務め、ボクシング界の天皇と言われた。 衆議院議員を務めた本田義成の長男。大正期に立教大学に入学し、同級生の荻野貞行(日本ボクシングの母)と親交を深める。 1926年7月に、荻野貞行が上海へ無断遠征したことで渡辺勇次郎が率いる日本拳闘倶楽部から破門されたことにより、荻野は神戸銀行頭取の樽谷公一を担いで東京拳闘会(現・東拳ボクシングジム)を設立した後、程なくして新橋駅近くに新たに「帝国拳闘協会拳道社」(現・帝拳プロモーション)を設立する。
久保田 鶴松(くぼた つるまつ、1900年10月15日 - … 久保田 鶴松(くぼた つるまつ、1900年10月15日 - 1984年1月12日)は、日本の政治家。元日本社会党衆議院議員(10期)。元衆議院副議長。大阪府中河内郡高安村(現八尾市)出身。 1921年(大正10年)に大正動力供給に入り、大阪労働学校に学んだ後、1926年に日本労働組合総連合結成に参加、執行委員となる。戦後は社会党に入党。 大阪府議会議員(3期)を経て、1947年衆議院議員総選挙に旧大阪4区から日本社会党公認で立候補し初当選。左右分裂時は左派社会党に属した。党代議士会長などを経て、1960年12月7日衆議院副議長に就任したが、1961年6月8日に与党自由民主党から、「農業基本法案や政治的暴力防止法案等といった重要法案の審議にあたって清瀬一郎議長に協力しなかった」という理由で不信任決議案を提出され、賛成207票・反対150票で可決された後、辞任した。
千葉 省一(ちば しょういち、1900年〈明治33年〉10月… 千葉 省一(ちば しょういち、1900年〈明治33年〉10月14日 - 1988年〈昭和63年〉10月18日)は、日本の政治家、僧侶。宮城県本吉町長、曹洞宗布教師、宗議会議員などを歴任。勲五等双光旭日章綬章 本吉郡御嶽村(現・気仙沼市)生まれ。1927年(昭和2年)、曹洞宗大学(現: 駒澤大学)卒業。愛知中学校舎監、曹洞宗布教師、軍人布教師、中国吉林市の日満寺を開設し吉林省強化興亜禅林、九台布教所を設立。磐石県禅宗寺を設立。南満鉄道巡回布教師、宗議会議員などを経て、本吉町長を務める。1963年(昭和38年)4月30日に町長に就任した。1967年(昭和42年)4月に無投票で再選を果たした。1975年(昭和50年)4月に4選を果たした。
今村 学郎(いまむら がくろう、1900年10月14日 - … 今村 学郎(いまむら がくろう、1900年10月14日 - 1982年11月4日)は、日本の地理学者、地形学者、地質学者。 東京府(現・東京都)出身。後に専修大学総長を務めた弁護士、今村力三郎の息子として生まれた。 1927年、東京帝国大学理学部地理学科を卒業。1928年、文部省留学生としてドイツに渡りベルリン大学に学び、翌1929年にはパリ大学に移る。その後、1930年に2か月スウェーデンに滞在し、シベリア経由で帰国。同年、東京文理科大学助教授となった。今村が在職した当時の東京文理科大学地理学教室は、福井英一郎や吉村信吉らもおり、大学の所在地から「大塚の黄金時代」と評された。 今村の研究業績は多岐にわたったが、1933年には「地理学における法則、自然環境の解釈等」をめぐって石田龍次郎と論争し、1937年には『科学』誌上で海岸段丘をめぐって大塚弥之助と論争を展開したほか、氷河地形に関して多様な観点からの業績を残した。
谷口 明三(たにぐち めいぞう、1900年(明治33年)10… 谷口 明三(たにぐち めいぞう、1900年(明治33年)10月14日 - 1987年(昭和62年)10月9日)は、日本の内務・警察官僚。官選宮崎県知事、北海道開発庁次長。旧姓・田中。 現在の山口県下関市出身。田中種吉の三男として生まれ、谷口寛の養子となる。第八高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。横浜市役所を経て、1926年、内務省に入省し徳島県属となる。 以後、鳥取県警察部課長、青森県警察部課長、茨城県警察部課長、大阪府警察部課長、内務省事務官、満州国治安部警務司長、埼玉県内務部長などを経て、警視庁警務部長となる。 1944年8月、宮崎県知事に就任。
田中 弥(たなか わたる、1900年10月13日 - 193… 田中 弥(たなか わたる、1900年10月13日 - 1936年10月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大尉。