大村 西崖(おおむら せいがい、明治元年10月12日(186… 大村 西崖(おおむら せいがい、明治元年10月12日(1868年11月25日) - 昭和2年(1927年)3月8日)は、日本の美術史家・美術評論家。幼名は、塩沢峰吉。雅号は、無記庵、など。多数の著書、美術書を刊行した。 駿河国富士郡水戸島村(現在の静岡県富士市)で、塩沢茂三郎の次男として生まれる。庵原郡富士川村岩淵(現・静岡県富士市)の大村桂蔵の養子として、明治25年(1892年)12月19日大村家に入籍。新間雲屏に師事して絵画・彫刻・鑑定を学ぶ。 1893年に東京美術学校彫刻科を卒業(第1回の卒業生であった)後、京都に赴き、教員や雑誌編集者を務める。1896年に母校である東京美術学校の助教授に採用される。
福地 銭吉(錢吉、ふくち せんきち、1868年11月25日(… 福地 銭吉(錢吉、ふくち せんきち、1868年11月25日(明治元年10月12日)- 1921年(大正10年)4月4日)は、明治から大正期の農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員、三重県阿山郡東柘植村長。 伊賀国阿拝郡上柘植村(三重県阿山郡東柘植村上柘植、柘植町、伊賀町を経て現伊賀市)で、福地次郎の長男として生まれる。第三高等学校で学んだ。農業を営む。 伊賀筵叺同業組合長、阿山郡連合産業組合理事、東柘植村産業組合長、第八十三銀行取締役、東海製糸監査役などを務めた。 政界では、東柘植村長、阿山郡会議員、三重県会議員(1911年-1920年)などに在任し、学務委員、所得税調査委員なども務めた。1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙に三重県第10区から立憲国民党公認で出馬し、川崎克との激しい選挙戦を制して当選したが、議員在任中の1921年4月に死去した。
松平 乗長(まつだいら のりなが、1868年11月24日(明… 松平 乗長(まつだいら のりなが、1868年11月24日(明治元年10月11日) - 1928年(昭和3年)1月12日)は、明治から大正期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・鍋島、旧名・賢二郎。 肥前蓮池藩主・鍋島直紀の六男として生まれる。母は鍋島直永の娘・謁女。1896年(明治29年)10月、子爵・松平乗命の養子となる。1897年(明治30年)1月、乗長と改名。養父の死去に伴い、1905年(明治38年)12月13日に子爵を襲爵した。 1898年(明治31年)東京美術学校日本画科を卒業。1915年(大正4年)皇子浴場之儀鳴弦控となる。 1910年(明治43年)8月20日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1925年(大正14年)7月9日まで3期在任した。
原田 重吉(はらだ じゅうきち、1868年11月23日(明治… 原田 重吉(はらだ じゅうきち、1868年11月23日(明治元年10月10日)- 1938年(昭和13年)8月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。篤農家。日清戦争での平壌の戦いにおいて「玄武門破り」の英雄として知られた。名前は十吉とも表記される。 三河国加茂郡日明村(のち愛知県東加茂郡豊栄村、松平村、松平町を経て現・豊田市)に原田幸吉の次男に生まれる。家業の農業に従事し、1888年、徴兵検査に合格し、豊橋歩兵第18連隊に入隊する。3年後に除隊、除隊後は帰郷し、農業に従事した。 1894年、日清戦争が勃発し、召集された重吉は平壌の戦いに参加した。9月15日に平壌総攻撃の命令が下り、部隊は玄武門に近づいた。
服部 擔風(はっとり たんぷう、慶応3年11月16日(186… 服部 擔風(はっとり たんぷう、慶応3年11月16日(1867年12月21日) - 昭和39年(1964年)5月27日)は、明治・大正・昭和にかけて活躍した漢詩人・書家。「最後の漢詩人」とも言われる。 1867年(慶応3年)、尾張国海西郡鯏浦(現在の愛知県弥富市鯏浦)に生まれる。戦国時代の土豪服部友貞の子孫で、大地主の家の次男であった。幼名は粂之丞(くめのじょう)。1882年(明治15年)、尾張藩の儒者森村大朴に漢籍を学ぶ。大朴は粂之丞の熱心さに感心し、漢詩を作るように勧めた。1884年(明治17年)村田梅村の水月吟社に入る。ここで漢詩人の森春涛らの影響を受ける。粂之丞は、名を擔風と改め、詩の研究とともに詩作に励んだ。
中村 是公(なかむら よしこと、通称: なかむら ぜこう、な… 中村 是公(なかむら よしこと、通称: なかむら ぜこう、なかむら これきみ、1867年12月20日〈慶応3年11月25日〉- 1927年〈昭和2年〉3月1日)は、日本の官僚・実業家・政治家である。南満洲鉄道株式会社(満鉄)総裁、鉄道院総裁、東京市長、貴族院議員などを歴任した。 作家・夏目漱石の親友としても知られ、官僚出身らしからぬ豪放磊落な性格で、「べらんめい総裁」「フロックコートを着た猪」「独眼龍」などの異名をとった。 安芸国佐伯郡五日市村(五日市町を経て現:広島県広島市佐伯区)に酒造業・柴野宗八の五男として生まれる。柴野家の墓は現在でも広島市佐伯区五日市の光禅寺にある。兄は大審院検事・鈴木宗言。
安藤 林左衛門(あんどう りんざえもん、1867年12月19… 安藤 林左衛門(あんどう りんざえもん、1867年12月19日(文久2年10月28日) - 1932年(昭和7年)12月25日)は、日本の政治家。宮城県富谷村長(5期)。 陸奥国黒川郡明石村(のち陸前国黒川郡明石村→宮城県黒川郡明石村→富谷村→富谷町、現・富谷市)出身。黒川郡西成田村(のち黒川郡富谷村→富谷町、現・富谷市)の安藤家の養嗣子となる。地押総代を経て、1889年(明治22年)町村制が施行され、富谷村が発足すると村会議員に選ばれた。1898年(明治31年)富谷村長に就任した。一回目の村長は1914年(大正3年)まで務め、この間、黒川郡会議員、信用組合長、耕地整理組合長を務めた。村長退任後は再び郡会議員、同参事員、耕地整理組合長、学務委員、農会総代議員、同評議員を務めた。
籾木 卿太郎(もみき きょうたろう / けいたろう、1867… 籾木 卿太郎(もみき きょうたろう / けいたろう、1867年12月18日(慶応3年11月23日) - 1916年(大正5年)8月7日)は、日本の医師。政治家、衆議院議員(1期)。 日向国諸県郡高岡郷、のちの宮崎県北諸県郡高岡町(現宮崎市)で生まれた。1887年(明治20年)鹿児島県立医学校(現・鹿児島大学医学部)卒。医師となり、東諸県郡医会長、郡医、校医、日本赤十字社準備医員嘱託となる。 1904年(明治37年)第9回衆議院議員総選挙において宮崎県から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙は不出馬。1916年に死去した。
小野 瓢郎(おの ひさごろう、1867年12月18日(慶応3… 小野 瓢郎(おの ひさごろう、1867年12月18日(慶応3年11月23日) - 1921年(大正10年)10月19日)は、日本の薬学者。従四位勲四等。薬学博士。富山薬学専門学校校長。愛知薬学校校長。族籍は愛知県平民。 江戸出身。北海道平民・小野新之丞の五男。1893年7月、帝国大学医科大学薬学科を卒業して薬学士の称号を得た。1898年、愛知医学専門学校教諭、愛知病院薬剤科長、1908年、愛知薬学校長。1915年7月、薬学博士の学位を授与された。同年9月、富山県技師および富山県立薬学専門学校長兼教授。1921年10月19日死去。享年55。 人柄は温厚篤実、気宇闊達と評された。部下を大切にし、死の前日にも再び校務に就くことを願うほど、仕事に忠実であった。
山田 済斎(やまだ せいさい、慶応3年11月23日(1867… 山田 済斎(やまだ せいさい、慶応3年11月23日(1867年12月18日) - 昭和27年(1952年)11月21日)は、日本の漢学者・陽明学者・教育者。二松学舎専門学校の初代校長。二松学舎名誉学長、大東文化学院名誉教授。幼名は鎨三郎、本名は準、字は士表、済斎は号で正しくは濟齋である。 済斎と夏目漱石は同年の1867年生まれで、ともに二松学舎で三島中洲に学んだ。第五高等学校で済斎は漢文科主任、漱石は英語科主任となった。
福井 久蔵(ふくい きゅうぞう、1867年12月13日(慶応… 福井 久蔵(ふくい きゅうぞう、1867年12月13日(慶応3年11月18日) - 1951年(昭和26年)10月23日)は、日本の国語学者・国文学者。号は白陽子、楽山、小松園など。 但馬国二方郡熊谷村(後に兵庫県温泉村、現在の新温泉町熊谷)に生まれる。1890年、兵庫尋常師範学校を卒業し、神戸小学校教諭となる。1893年、上京して上田萬年の指導を受ける。1895年、中等学校国語科教員検定試験に合格し、山口中学校教諭となる。1898年、東京府立第一中学校教諭へ転任。1905年、学習院教授。1912年12月18日、勲六等瑞宝章。1925年、駒澤大学教授。1936年「連歌の史的研究」で京都帝国大学より文学博士号を授与される。
森 国造(森 國造、もり くにぞう、1867年12月10日(… 森 国造(森 國造、もり くにぞう、1867年12月10日(慶応3年11月15日) - 1938年(昭和13年)3月29日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(山梨県郡部選出、当選1回)。山梨県会議員。族籍は山梨県平民。 甲斐国山梨郡(後の山梨県東山梨郡平等村、現・山梨市)生まれ。森武兵衛の三男。上京し、神田の共立学校に学ぶ。 農業を営む。1885年、家督を相続した。村長就職のほか毎期村会議員に挙げられる。 1894年、郡会議員に当選。1896年、県会議員に当選。1908年、山梨県郡部より衆議院議員に選出される。立憲政友会に所属。 銀行、会社の重役であり、甲府電力、甲東電力各社長、日本勧業銀行顧問、山梨県農工銀行、峡東銀行、甲府電力、甲州電力各取締役、山梨印刷監査役などをつとめる。
大江 邦治(おおえ くにじ、1867年12月9日 - 196… 大江 邦治(おおえ くにじ、1867年12月9日 - 1968年6月5日)は、日本の牧師、教育者。戦前から戦後にかけての日本アライアンス教団の指導者。 1867年(慶応3年)に伯耆国溝口(現、鳥取県西伯郡伯耆町)に生まれる。鳥取中学(現・鳥取県立鳥取西高等学校)に入学するが、1882年(明治15年)に中退して上京する。 東京電信学校(後の、逓信官吏練習所)に入学して、1887年(明治20年)に卒業し、東京府、岡山県、山口県下関市、佐賀県の電信局で勤務する。 岡山県岡山市の電信局に勤務していた頃、日本組合基督教会岡山教会(現・日本基督教団岡山教会)に出席するようになり、当時岡山教会牧師の安部磯雄から洗礼を受ける。
五辻 治仲(いつつじ はるなか、1867年12月8日(慶応3… 五辻 治仲(いつつじ はるなか、1867年12月8日(慶応3年11月13日)- 1932年(昭和7年)10月16日)は、明治から昭和期の政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。 山城国京都で大膳大夫・五辻安仲の長男として生まれる。父の死去に伴い、1906年(明治39年)3月22日、子爵を襲爵した。 1894年(明治27年)7月、学習院大学科を卒業。1911年(明治44年)臨時治水調査会委員に就任。その他、大国銀行取締役、高野山電気鉄道監査役などを務めた。 1911年7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、死去するまで4期在任した。
塩田 泰介(しおた たいすけ、1867年12月5日(慶応3年… 塩田 泰介(しおた たいすけ、1867年12月5日(慶応3年11月10日) ‐ 1938年2月5日)は、日本の造船工学者、実業家。工学博士。 三菱造船常務取締役。 備前国赤坂郡今井村(現・岡山県赤磐市今井)に正好家の四男として生まれる。眞徳小学校に在籍していた1878年、松田金次郎の書生として上京する。 泰介は上京後すぐに松田の転勤に伴って大阪に行き、1881年(明治14年)に大阪商船学校に入学。数学や航海術を本格的に学び、造船製図手になる。 1887年に帝国大学工科大学造船学科に入学。端連の長男である花房義質子爵の書生となる。 帝大卒業後は三菱合資会社に造船技師として入社し、長崎に赴任。1895年、端蓮の妹である塩田鶴の養子となり塩田姓を名乗る。
清水 釘吉(しみず ていきち、慶応3年11月10日(1867… 清水 釘吉(しみず ていきち、慶応3年11月10日(1867年12月5日) - 1948年(昭和23年)9月7日)は、日本の実業家。清水組代表取締役社長。旧姓は小野。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
脇水 鉄五郎(わきみず てつごろう、慶応3年11月9日(18… 脇水 鉄五郎(わきみず てつごろう、慶応3年11月9日(1867年12月4日) - 昭和17年(1942年)8月10日)は、明治から昭和前期の地質学者、土壌学者。東京帝国大学名誉教授。 美濃大垣(現:岐阜県大垣市)に生まれる。1893年(明治26年)東京帝国大学地質学科卒業。1896年(明治29年)同大学農科大学助教授を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学教授となる。1911年から1915年頃に掛けてヨーロッパおよびアメリカに留学し、オーストリアで森林土壌学、イタリアで砂防学を研究。帰国すると地質学や森林土壌学講座を担当した。樺太および北海道にて気候的植生の土壌に対する影響を調査し、表層地質学の新天地を開拓した。
二代 小栗 冨治郎(富治郎、おぐり とみじろう、1867年1… 二代 小栗 冨治郎(富治郎、おぐり とみじろう、1867年12月3日〈慶応3年11月8日〉 - 1933年〈昭和8年〉12月1日)は知多半島の中核地・半田の豪商。酒や醤油の醸造、銀行業や紡績業など多角経営を進め、貴族院多額納税者議員も務めた。 後の愛知県半田市にて、小栗富一(初代・富治郎)の長男として生まれる。祖父の喜七は船頭として江戸-蝦夷間の物流で稼ぎ、先代の借金を完済。主人・中埜半六の番頭を務めたのち独立するとまず味醂の製造、次いで1845年(弘化2年)に酒の醸造を始め財を成した。 1859年(安政6年)に横浜港が開港するやすぐさま唐糸を輸入して江戸や名古屋に販売、巨利を得る。1865年(慶應元年)初代・富治郎に家督を譲り引退。
立花 寛蔵(たちばな かんぞう、1867年12月2日〈慶応3… 立花 寛蔵(たちばな かんぞう、1867年12月2日〈慶応3年11月7日〉 - 1940年10月5日)は、日本の商学者。広島県商業学校校長や、滋賀県商業学校校長などを経て、初代大倉高等商業学校校長を務めた。 長野県生まれ。1888年高等商業学校(現一橋大学)卒業。 在学中は、文部省による高等商業学校と東京外国語学校の合併案の不当性を訴え、各務鎌吉(のちに東京海上火災保険社長)や、上野季三郎(のちに大膳頭)、水島銕也(のちに初代神戸高等商業学校校長)、下野直太郎(のちに東京商科大学(現一橋大学)名誉教授)らと議論を交わした。 卒業後は、函館商業学校教諭、市立大阪商業学校(現大阪公立大学)教諭などを経て、1898年広島県商業学校校長。
嶋谷 徳三郎(島谷 徳三郎、しまたに とくさぶろう、1867… 嶋谷 徳三郎(島谷 徳三郎、しまたに とくさぶろう、1867年12月2日〈慶応3年11月7日〉 - 1928年〈昭和3年〉5月20日)は、日本の実業家、資産家、山口県多額納税者。嶋谷汽船株式会社の創立者で社長を務めた。族籍は山口県平民。 周防国玖珂郡由宇村(現・山口県岩国市)に、廻船業を営む徳右衛門の長男として生まれる。若い頃から父の下で家業を習得する。 1889年、父・徳右衛門が亡くなり、徳三郎は22歳で家督を相続して家業を継承した。徳三郎は1895年に、それまで保有していた和式帆船を売却して、日本郵船から中古の蒸気船「浦門丸」(元はイギリス製で土佐藩が購入)を購入する。当時、由宇の廻船業者はすべて和式帆船を使い、高額な蒸気船の導入をためらっていた中で、徳三郎は親族の反対を押し切って実行した。
青沼 鋒太郎(あおぬま みねたろう、1867年12月1日(慶… 青沼 鋒太郎(あおぬま みねたろう、1867年12月1日(慶応3年11月6日) - 1943年(昭和18年)8月28日)は、明治から昭和時代前期の政治家、警察官。福島県平市長。 磐城平藩領出身。1888年(明治21年)10月、裁判所書記福島始審裁判所詰を振り出しに福島県監獄書記兼看守長、監獄所第一課長、同県白河監獄支署長、長野県警部、同県福島警察署長、同県塩崎警察署長、長野警察署長、同県警察部衛生課長兼高等警察課長、岩手県警部兼属、警察部警務課長兼巡査教習所長、岩手県警視、同県盛岡警察署長を経て、1905年(明治38年)6月、岩手県和賀郡長に任じる。 1908年(明治41年)7月、福島県東白川郡長に転じ、同年10月、同県耶麻郡長、1913年(大正2年)8月、岩城郡長、1918年(大正7年)5月、伊達郡長を経て、同年11月に退官した。
河盛 又三郎(かわもり またさぶろう、1867年11月30日… 河盛 又三郎(かわもり またさぶろう、1867年11月30日〈慶應3年11月5日〉 - 1941年〈昭和16年〉11月)は、日本の醸造家、政治家、資産家、実業家。河又醤油社長。族籍は大阪府平民。 和泉国堺(現・大阪府堺市)出身。三代目・河内屋又平の末子として誕生。1883年、家督を相続する。醤油醸造業を営み、河又醤油社長である。 日本醸造協会監事、堺商工会議所顧問を兼ね、泉醤油相談役に推され、堺商工会議所会頭、堺市会議員に選ばれ、大阪府多額納税者に列する。 はやくから醸造工程の機械化にとりくむ。1913年、緑綬褒章を下賜される。趣味は書画。宗教は仏教。住所は大阪府堺市新在家町。 河盛又三郎の遠祖は、豊臣家の家臣で米田藤内(こめだとうない)といったが1615年、大坂夏の陣に敗れて豊臣家が滅亡すると大和国宇智郡三在村(現・奈良県五條市三在町)へ落ちて、ここに住みつき、郷士となって農業に従事した。
岸上 鎌吉(きしのうえ かまきち、ローマ字表記:Kamaki… 岸上 鎌吉(きしのうえ かまきち、ローマ字表記:Kamakichi Kishinouye、慶応3年11月4日(1867年11月29日) - 昭和4年(1929年)11月22日)は、日本の動物学者・水産学者。日本の水産学黎明期の学者であり、水産上の重要生物を中心に日本に於ける動物分類学の基礎を築いた学者の一人として位置づけられる。 慶応3年、尾張国知多郡横須賀村(後の愛知県知多郡横須賀町、現在の東海市)に生まれる。明治13年(1880年)に愛知県立旭丘高等学校の前進である愛知県中学校へ入学、明治16年(1883年)東京大学予備門へと進む。帝国大学理科大学動物学科へ入学後、箕作佳吉に師事する。丘浅次郎とは動物学科での同期であるが、岸上は本科生であり丘は撰科生である。
橋爪 捨三郎(はしづめ すてさぶろう、1867年11月29日… 橋爪 捨三郎(はしづめ すてさぶろう、1867年11月29日(慶応3年11月4日)- 1930年(昭和5年)9月15日)は、日本の実業家である。 陸奥国会津郡若松城郭内(現会津若松市)で、会津藩士・橋爪清助の三男として生まれる。帝国大学(現在の東京大学)法科大学政治学科を卒業後、三井物産に入社しその後転々と多くの企業に転勤する。後に上海紡績に転勤するが、同会社の合併により鐘淵紡績(後のカネボウ、現在のクラシエホールディングス)に移った。 これにより同会社の副支配人を経て支配人としての職にあたり、1918年(大正7年)に取締役として就任した。1927年(昭和2年)には常務取締役に昇格し、同年副社長に就任する。
大石 誠之助(おおいし せいのすけ、1867年11月29日〈… 大石 誠之助(おおいし せいのすけ、1867年11月29日〈慶応3年11月4日〉 - 1911年〈明治44年〉1月24日)は、日本の社会主義者・キリスト者、医師。 幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人。雅号は「禄亭」(ろくてい)。 1867年11月29日(旧暦慶応3年11月4日)に紀伊国新宮仲之町(現:和歌山県新宮市仲之町)で生まれる。同志社英学校英語普通科を中退後、神田共立学校(現:開成中学校・高等学校)で英語を学ぶが中退する。1891年(明治24年)6月に渡米し、ワシントン州ワラワラ市のセントポーロ中学校へ入学したのち、1892年(明治25年)にオレゴン州立大学医科に入学する。1895年(明治28年)に卒業後はモントリオール大学で外科学を学んでから同年10月に帰国し、翌年に地元・新宮で医院を開業する。
飛鳥井 孝太郎(あすかい こうたろう、慶応3年11月3日(1… 飛鳥井 孝太郎(あすかい こうたろう、慶応3年11月3日(1867年11月28日) - 昭和2年(1927年)7月29日)は、日本の実業家、技術者。同志社の教授を経て、ノリタケカンパニーリミテドや、鳴海製陶を創業した。 加賀国大聖寺藩(現石川県加賀市大聖寺町)出身。父は旧大聖寺藩士飛鳥井清。東京工業学校(現東京工業大学)陶器玻璃工科でゴットフリード・ワグネルに師事して青磁を研究し、1890年に卒業後、同志社波理須理化学校(のちの同志社大学理工学部)陶磁器科長・教授等を経て、1896年に森村組に入社し、名古屋支店で洋食器の研究開発に従事。1897年から農商務省海外貿易練習生としてヨーロッパに留学。
高橋 源次郎(たかはし げんじろう、1867年11月28日(… 高橋 源次郎(たかはし げんじろう、1867年11月28日(慶応3年11月3日) - 1943年(昭和18年)4月28日)は、明治から昭和時代戦前の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 日向国、のちの宮崎県南那珂郡飫肥町(現日南市)出身。日高源蔵の長男として生まれ、1895年(明治28年)1月に先代曽一の養子となり翌1896年(明治29年)8月に家督を相続する。 1897年(明治30年)宮崎県会議員、同参事会員、南那珂郡会議員、飫肥町会議員のほか、飫肥銀行、宮崎農工銀行各取締役、宮崎県飫肥鉄道評議員、同県地方森林会議員、日州貯蓄銀行、日州銀行各取締役などを歴任した。 1918年(大正7年)宮崎県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から、研究会に所属し1932年(昭和7年)9月28日まで2期在任した。
藤本 閑作(ふじもと かんさく、1867年11月26日(慶応… 藤本 閑作(ふじもと かんさく、1867年11月26日(慶応3年11月1日)- 1936年(昭和11年)12月12日)は、明治から昭和初期の政治家、実業家、銀行家。宇部銀行頭取。貴族院多額納税者議員。族籍は山口県士族。 藤本蔓平の長男として後の長門国厚狭郡宇部村(現在の山口県宇部市)に生まれた。岩国の東沢瀉塾で学んだ。漢学を修めた。1877年(明治10年)7月に家督を相続する。 1896年(明治29年)以降、石炭鉱業を経営し、宇部電気、宇部銀行、宇部鉄工所各取締役、宇部村信用購買販売組合理事のほか、宇部商工会議所議員、防長林業、宇部セメント(後の宇部興産、現在のUBE/UBE三菱セメント)各取締役、大和護謨栽培監査役などを務める。
安藤 正楽(あんどう せいがく、1866年12月21日(慶応… 安藤 正楽(あんどう せいがく、1866年12月21日(慶応2年11月15日) - 1953年(昭和28年)7月24日)は、愛媛県議会議員、歴史学者、画家、俳人である。 伊予国(現在の愛媛県)宇摩郡小富士村出身。幼名岸蔵、通称鬼子太郎。寺小屋にて本田某に学び、1872年(明治5年)に小学校(方正校)に入る。小学校卒業後、尾崎星山、合田福太郎に学ぶ。1886年(明治19年)正楽と改名。1888年(明治21年)福沢諭吉の「学問のすすめ」に感動。1889年(明治22年)10月上京し、明治法律学校(現在の明治大学)に入学し、イタリア人パテルノストロ博士や岩谷孫蔵らから国際法を学ぶ。卒業後、1892年(明治25年)京都帝大教授になった岩谷に従い京都にてローマ法の翻訳に従う。
山之内 一次(やまのうち かずじ、1866年12月12日〈慶… 山之内 一次(やまのうち かずじ、1866年12月12日〈慶応2年11月6日〉- 1932年〈昭和7年〉12月21日)は、日本の内務・鉄道官僚、政治家。第1次山本内閣の内閣書記官長、第2次山本内閣の鉄道大臣、貴族院勅選議員。 後の鹿児島県鹿児島市上之園町出身。鹿児島藩士・山之内時習の長男として生まれる。錦城学校を経て旧制第一高等学校卒業。1890年(明治23年)7月、東京帝国大学卒業後、内務省に入省。1899年(明治32年)3月、警保局保安課長となる。 1901年(明治34年)4月、官選青森県知事に任命。1904年(明治37年)4月、逓信省鉄道局長。1907年(明治40年)1月、南満州鉄道株式会社監理官となり、同年4月には帝国鉄道庁副総裁を兼任。
守谷 吾平(もりや ごへい、1866年12月12日〈慶応2年… 守谷 吾平(もりや ごへい、1866年12月12日〈慶応2年11月6日〉 - 1929年〈昭和4年〉4月8日)は、明治から昭和初期にかけての日本の実業家。 専門商社・守谷商会の創業者。 備中国浅口郡本庄村(現在の岡山県浅口市)に、守谷金八の長男として生まれた。 幼少期から林李渓に学んだ。1885年に岡山県師範学校中等科を卒業し、県下の小学校(1886年からは尋常小学校)に勤務した。 その後上京して慶応義塾本科で学ぶ。慶應義塾への入学は、『慶応義塾入社帳 第4巻 入社帳24号-29号』(慶應義塾、1986年)によると1891年10月だった(同書p.174)。1892年に慶應義塾を卒業する。卒業後は三井組に入り、地所部から、芝浦製作所の工場事務、三井銀行の本店や支店に勤務した。
小久保 恵作(こくぼ けいさく、1866年12月11日(慶応… 小久保 恵作(こくぼ けいさく、1866年12月11日(慶応2年11月5日)- 1929年(昭和4年))は、埼玉県出身の医師である。 武蔵国秩父郡高篠村定峰出身。貧しい百姓の家に生まれ苦労したが、辛酸奮励の中で医学を修め医者となる。1887年(明治20年)医学開業試験に合格した後、軍医として、日清戦争や日露戦争に参戦する。 明治34年(1901年)より3年間ドイツ・プロイセン国ゲッティンゲン大学医学部へ留学し、「脳の腫瘍に関する症候」についての論文を記して医学博士号(ドクトル・メディチーネ)を取得して帰国する。ゲッティンゲン大学では、当時医学部長であったヴィルヘルム・エップシュタイン教授や特任講師であったビッケル講師、ルートゥビッヒ・アショフ教授(1903年からマールブルク大学教授となり、心臓のペースメーカーの生みの親といわれる田原淳博士と共に過ごした時期もあった)に師事。
乾 奈良吉(いぬい ならきち、1866年12月10日(慶応2… 乾 奈良吉(いぬい ならきち、1866年12月10日(慶応2年11月4日) - 1936年(昭和11年)8月15日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 大和国平群郡、のちの奈良県生駒郡平端村(昭和村、郡山町を経て現大和郡山市)出身。漢学を学ぶ。金糸巻機械を発明し、その製造に当たる。平端村長、生駒郡会議員、奈良県会議員、同参事会員となる。 1904年(明治37年)第9回衆議院議員総選挙において奈良県郡部から無名倶楽部公認で立候補してトップ当選した。衆議院議員を1期務め、1908年(明治41年)第10回衆議院議員総選挙は不出馬。1936年に死去した。
日比野 寛(ひびの ゆたか/ひろし/かん、1866年12月9… 日比野 寛(ひびの ゆたか/ひろし/かん、1866年12月9日(慶応2年11月3日) - 1950年(昭和25年)4月2日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員。旧姓は織田(おだ)。日本におけるマラソン指導の始祖とされている。 尾張国中島郡大里村(現:愛知県稲沢市日下部中町)に、織田文信の三男として生まれる。 愛知県中学校(旧制・愛知一中、現在の愛知県立旭丘高等学校)を経て第一高等学校に入学。同校2年生の時に健康診断で胃腸病を発見された。以後彼は、健康のため「歩き方・姿勢」に気を配るようになる。1895年(明治28年)帝国大学法科大学英法科卒業。農商務省に勤務した。 1898年(明治31年)、日比野家(日比野紋左衛門)の養子となる。
渡辺 又次郎(わたなべ またじろう、慶応2年11月3日(18… 渡辺 又次郎(わたなべ またじろう、慶応2年11月3日(1866年12月9日) - 昭和5年(1930年)11月22日)は、日本の教育者。位階勲等は従三位勲三等。 武蔵国川越藩出身。1893年(明治26年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、1898年(明治31年)に同大学院を修了した。そのかたわら東京法学院(現在の中央大学)と哲学館(現在の東洋大学)で論理学・倫理学の講師を務め、1897年(明治30年)には帝国図書館司書長に任命された。翌年、第二高等学校教授となり、1900年(明治33年)に第五高等学校教授に転じ、教頭となった。1907年(明治30年)に辞して、翌年から東京市立日比谷図書館主事となり、さらに東京市主事に転じた。
井上 利八(いのうえ りはち、1866年12月9日(慶應2年… 井上 利八(いのうえ りはち、1866年12月9日(慶應2年11月3日) - 1935年(昭和10年)3月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 備後国沼隈郡水呑村(広島県沼隈郡水呑町を経て現福山市)出身。鉄道院技手、広島県会議員、同議長となる。鉄道工事請負業に従事、鞆軽便鉄道(株)専務取締役となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において広島4区から立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、次の1928年の第16回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1935年死去。
土橋 八千太(つちはし やちた、慶応2年10月28日(186… 土橋 八千太(つちはし やちた、慶応2年10月28日(1866年12月4日)- 昭和40年(1965年)3月11日)はカトリック司祭・天文学者・漢学者。上智大学第3代学長。洗礼名はパウロ。弟は日本で初めて電気炉製鋼を実用化した土橋長兵衛である。1964年勲三等瑞宝章受章。 慶応2年、信濃国諏訪郡下桑原村(甲州街道上諏訪宿)生まれ。明治14年(1881年)、前年に長野県上諏訪村小和田(現諏訪市)の小学校を卒業したばかりの八千太は、諏訪を訪れたパリ外国宣教会の宣教師・ジュル・ラングレーの説教に感激し、明治15年(1882年)カトリックの洗礼を受ける。 上京後の明治19年(1886年)に上海に渡って神学校のヨハネ学院で学び、明治21年(1888年)9月7日にイエズス会に入会する。
伊藤 乙次郎(いとう おとじろう、1866年12月2日〈慶応… 伊藤 乙次郎(いとう おとじろう、1866年12月2日〈慶応2年10月26日〉 - 1941年〈昭和16年〉3月27日)は、日本の海軍軍人。海軍中将従三位勲一等功四級。海兵13期首席、海大将校科1期優等。 旧尾張藩士伊藤久敬の息子として生まれる。愛知一中、攻玉社を経て、1887年2月、海軍兵学校(13期生)を首席で卒業し、1888年4月に海軍少尉任官。日清戦争では「比叡」航海長として出征した。海軍大学校では、丙種で学び、1897年12月、将校科(1期)を優等で卒業し、さらに選科でも学んだ。 その後、海軍省軍事課課僚、軍務局第1課局員、常備艦隊副官兼参謀、「常磐」航海長、「須磨」副長、「笠置」副長、ドイツ駐在などを歴任。
山座 円次郎(やまざ えんじろう、慶応2年10月26日(18… 山座 円次郎(やまざ えんじろう、慶応2年10月26日(1866年12月2日) - 大正3年(1914年)5月28日)は、明治・大正期の日本の外交官。外務省政務局長、駐中国特命全権公使。
下野 直太郎(しもの なおたろう、1866年11月30日(慶… 下野 直太郎(しもの なおたろう、1866年11月30日(慶應2年10月24日) - 1939年(昭和14年)11月22日)は、日本の会計学者。東京商科大学(現一橋大学)名誉教授。 現在の岐阜県生まれ。岐阜県中学校(現岐阜県立岐阜高等学校)を経て、1888年高等商業学校(現一橋大学)卒業。数学や英語が得意で、同じ岐阜出身の各務鎌吉(のちに東京海上火災保険社長)と首席を争ったが、次席となった。 また在学中、文部省による高等商業学校と東京外国語学校の合併案の不当性を訴え、各務や、上野季三郎(のちに大膳頭)、水島銕也(のちに初代神戸高等商業学校校長)、立花寛蔵(のちに初代大倉高等商業学校校長)らと議論を交わした。
西村 丹治郎(にしむら たんじろう、慶應2年10月22日(1… 西村 丹治郎(にしむら たんじろう、慶應2年10月22日(1866年11月28日) - 昭和12年(1937年)12月20日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→革新倶楽部→立憲民政党)。 備中国下道郡秦村(現在の岡山県総社市)の板野家に生まれ、高梁町の西村鶴太郎の養子となった。1890年(明治23年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)政治経済科を卒業した。卒業後は2年にわたって欧米に留学して、政治学・経済学を学び、帰国後は新聞記者の職に従事した。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、14回の当選を重ねた。その間、第2次若槻内閣で農林政務次官を務めた。
名取 忠愛(なとり ちゅうあい / ただよし、1866年11… 名取 忠愛(なとり ちゅうあい / ただよし、1866年11月25日(慶応2年10月19日)- 1948年(昭和23年)8月21日)は、明治後期から昭和前期の政治家・実業家・名望家・歌人。貴族院議員、甲府市長(官選第10・12代)。号は楓園。 甲斐国甲府山田町(現在の山梨県甲府市中央)に、豪商・父「忠文」、母「かく」の長男として生まれる。 1879年(明治12年)4月に山梨県立師範学校予科に入学。1881年(明治14年)3月に退校し明倫舎で漢籍を修業。1884年(明治17年)9月に徽典館師範科に入学。1887年(明治20年)3月に卒業し甲府小学校訓導となり1893年(明治26年)10月に退職する。
荒木 寅三郎(あらき とらさぶろう、慶応2年10月17日〈1… 荒木 寅三郎(あらき とらさぶろう、慶応2年10月17日〈1866年11月23日〉 - 1942年〈昭和17年〉1月28日)は、日本の医学者。京都帝国大学総長、学習院長や枢密顧問官を歴任した。号に鳳岡。 慶応2年(1866年)に上野国碓氷郡板鼻宿(現・群馬県安中市板鼻)に、儒医・荒木保爾の次男として生まれた。長子の夭折により戸籍上は長男として育つ。1873年(明治6年)板鼻学校(現・安中市立碓東小学校)が開校されると8歳から11歳まで学んだ。11歳の時に上京し萩原西畴の塾に学ぶ。1882年(明治15年)東京大学医科大学別課医学科に入学。1887年(明治20年)同課を卒業後、郷里で医師として開業した。
亀岡 末吉(かめおかすえきち、慶応元年11月4日〈1865年… 亀岡 末吉(かめおかすえきち、慶応元年11月4日〈1865年12月21日〉- 1922年〈大正11年〉11月26日)は、日本近代の建築家。従五位。作品は独特の意匠で知られ「亀岡式」と呼ばれる。 慶応元年(1865年)に前橋藩士の子として生まれる。明治維新後は画家を志し、東京美術学校絵画科に入学して日本画の技術を習得。1894年(明治27年)に同校を卒業。1901年(明治34年)からは内務省の古社寺調査に携わり、寺社の修理に従事。1907年(明治40年)には京都府技師となり、平等院鳳凰堂の修理を行った。京都では東福寺の方丈や東本願寺、仁和寺の門など幕末の動乱の中で焼失した建物を再建。1913年(大正2年)には京都府左京区神楽岡(吉田山 (京都市))に自邸を建築。
松浦 有志太郎(まつうら うしたろう、1865年12月19日… 松浦 有志太郎(まつうら うしたろう、1865年12月19日(慶応元年11月2日) - 1937年(昭和12年)8月28日)は、京都帝国大学皮膚科教授を務め、正円形粃糠疹という疾患を命名した。定年前に大学を辞し、禁酒、廃娼運動に没頭した。 熊本県宇土郡松合村(現・宇城市)で、松浦鉄次の3男として生まれた。命名の理由は慶応元年が丑年であったからである。1875年より1880年まで福田元澤、守田文毅の門に学ぶ。 同年1月まで東京本郷のドイツ学校に学び、同年11月東京帝国大学医学部予科入学1888年7月卒業、直ちに東京帝国大学医科大学に入学、1892年11月首席で卒業した。1893年2月同学助手。1895年5月、県立熊本病院外科部長。
増子 喜一郎(ますこ きいちろう、1865年12月19日(慶… 増子 喜一郎(ますこ きいちろう、1865年12月19日(慶応元年11月2日)- 1924年(大正13年)2月11日)は、日本の教育家である。 越後に生まれ、帰郷して苦学を重ねた後に上京する。後に当時大日本帝国海軍少将だった世良田亮からの援助を受け、1887年(明治20年)に世良田が清朝へ派遣されたことによりその従者として彼と共に天津で同朝の研究に携わった。1890年(明治23年)に帰国し、その後は東京専門学校(現在の早稲田大学)政治科に入学する。 1893年(明治26年)に卒業後は同校の舎監を務め、後に早稲田尋常中学校(現在の早稲田中学校・高等学校)の創立時の際にその事務として活動する。その後は同校の幹事に就任し、その経営の傍らで1924年(大正13年)に死去するまで日中提携の信条に基づいて同校に通学する中国人留学生の庇護にもあたった。
宇佐美 一宝(一寶、うさみ いっぽう / かずとみ、1865… 宇佐美 一宝(一寶、うさみ いっぽう / かずとみ、1865年12月18日(慶応元年11月1日)- 1953年(昭和28年)12月5日)は、明治期から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員、山梨県東八代郡境川村長。 甲斐国八代郡小黒坂村(山梨県東八代郡五成村、境川村を経て現笛吹市境川町小黒坂)で、宇佐美太兵衛の長男として生まれる。漢学、英学を学んだ。1879年(明治12年)家督を相続し農業を営む。 1891年(明治24年)郡制施行後の初代東八代郡会議員に選出された。1899年(明治32年)山梨県会議員に当選し2期在任。その他、境川村長(5期)、境川村会議員、所得税調査委員、地方森林会議員、山梨県農会代表員、山梨山林会副会長、大日本山林会評議員、日本赤十字社特別社員などを務めた。
4代 大家 七平(おおや / おおいえしちへい、1865年1… 4代 大家 七平(おおや / おおいえしちへい、1865年12月15日(慶応元年10月28日)- 1929年(昭和4年)1月29日)は、明治・大正期の海事実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・広海。 船持商人・4代広海二三郎の息子として加賀国江沼郡瀬越村(石川県江沼郡大聖寺町瀬越を経て、加賀市大聖寺瀬越町)で生まれた。同じ瀬越の有力船持商人・3代大家七平が1886年(明治19年)に死去し、その死跡を継いで4代大家七平を襲名した。 拠点を大阪に移し、持船の汽船への転換を進めた。1896年(明治29年)逓信省より新潟とウラジオストク間、函館とコルサコフ間の航路(命令航路)を開設。1902年(明治35年)には汽船2隻、西洋型帆船5隻を所有していた。
神津 邦太郎(こうづ くにたろう、1865年12月11日(慶… 神津 邦太郎(こうづ くにたろう、1865年12月11日(慶応元年10月24日) - 1930年(昭和5年)12月2日)は、日本の酪農家、銀行家、政治家。日本で最初の西洋式牧場の開設者。長野県平民。牧畜業。神津宗家20代。子孫には東京税理士会会長の神津信一税理士がいる。 信濃国佐久郡志賀村(現在の長野県佐久市志賀)の豪農の家に生まれた。信州で指折りの豪農であった神津家は、代々九郎兵衛を名乗る「黒壁家」と、17世紀後半に分かれた「赤壁家」がある。邦太郎は「黒壁家」の出身である。神津家は先代九郎兵衛より家道大に振るう。 邦太郎は村の小学校である志仁学校を卒業すると、1881年東京へ出て慶應義塾に入った。
大島 久満次(おおしま くまじ、1865年12月10日〈慶応… 大島 久満次(おおしま くまじ、1865年12月10日〈慶応元年10月23日〉- 1918年〈大正7年〉4月27日)は、日本の台湾総督府・内務官僚、政治家。台湾総督府民政長官、神奈川県知事、衆議院議員。 豪農・永井匡威の五男として尾張国に生まれ、一等警視・大島正人の養子となる。1888年(明治21年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し衆議院書記官となる。1889年(明治22年)5月、高等試験に合格し法制局参事官試補となり、法制局参事官を務めた。1894年(明治27年)3月、大島に改姓した。 1896年(明治29年)、台湾総督府に転じ、民政局参事官、兼製薬所長、警視総長、総務局長などを歴任。同総督府の文官ナンバーツーで、同じ法制局官僚出身の石塚英蔵に次ぐ反後藤新平民政長官派の高官であり、石塚の関東州民政署民政長官転出後は、反後藤派官僚の筆頭となった。