小林 珍雄(こばやし よしお、1902年3月2日 - 198… 小林 珍雄(こばやし よしお、1902年3月2日 - 1980年4月10日)は、日本の経済学者。上智大学名誉教授。 1902年、神奈川県横浜市で生まれた。1926年に東京帝国大学法学部を卒業。1929年、東京帝大大学院卒業。帰国したばかりの岩下壮一神父が東京帝大で試みていた「カトリック研究会」に出席したことで、岩下神父を知る。同師の影響を受けて、1931年に上智大学内でヨハネス・クラウス神父より洗礼を受けた。1938年より上智大学経済学部教授。1940年の10月8日より、興亜院の要請を受けた岩下神父と共に秘書として華北地方を視察し、同年11月11日に東京に帰還。1954年より上智大学経済学部長を務めた。
河津 寅雄(かわづ とらお、1902年3月1日 - 1979… 河津 寅雄(かわづ とらお、1902年3月1日 - 1979年2月2日)は、熊本県阿蘇郡北小国村(現・小国町)出身の政治家。 1948年(昭和23年)から死去する1979年(昭和52年)まで小国町長を務め、1963年(昭和38年)10月から1978年(昭和38年)10月まで8期15年間に渡って全国町村会長を務めた。町長時代には給与など一切の報酬を辞退した。また、1957年(昭和32年)から自由民主党熊本県連会長も務めた。 1902年(明治35年)3月1日、熊本県阿蘇郡北小国村(現・小国町)に生まれ、旧制鎮西中学校を卒業した。 生家は造り酒屋の河津酒造であり、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)に小国町議会議員に就任すると、戦後の1948年(昭和23年)には小国町長に就任した。
児山敬一(こやま けいいち、1902年3月1日-1972年4… 児山敬一(こやま けいいち、1902年3月1日-1972年4月22日)は、日本の哲学者、歌人。東洋大学名誉教授。 静岡県浜松市出身。1928年東京帝国大学文学部哲学科卒。数理哲学を専攻し,1952年東洋大学教授、同東洋学研究所長、名誉教授。佐佐木信綱に師事し『心の花』に所属、のち1930年「短歌表現」を創刊して口語自由律の作風をうちたてる。戦後は「文芸心」を主宰した。
小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年3月1日 - 没年不… 小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年3月1日 - 没年不明)は、日本の経営者。神戸電鉄社長を務めた。 兵庫県神戸市出身。濱地甚兵衞の三男として生まれ、小林長兵衛の養子となる。1925年に法政大学経済科を卒業し、ロンドン大学を経て、1930年12月に神戸有馬電気鉄道に入社し、取締役にも就任。1938年1月に専務を経て、1946年4月に社長に就任し、1949年4月から1960年3月までに神戸電鉄社長を務めた。 アメリカ合衆国総領事ハンター・シャープの住宅を1944年に取得し、1980年に「小林家住宅(旧シャープ住宅)」という名称で重要文化財に指定される。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
野村 章恒(のむら あきちか、1902年2月28日 - 19… 野村 章恒(のむら あきちか、1902年2月28日 - 1985年3月13日)は、日本の精神科医。 1902年高知県生まれ。1909年栃木県へ転居。旧制・栃木県立栃木中学校を経て、1928年東京慈恵会医科大学卒業。東京帝国大学医学部、松沢病院勤務、35年藤沢病院長。38年「心因性精神病殊に拘禁性精神病に関する臨床的知見」で東京帝国大学医学博士。42年根岸国立病院副院長、57年東京慈恵会医科大学教授、67年退任。森田療法を研究、雑誌『神経質』の編集に従事した。別名・野村章吾。
松野 賢吾 (まつの けんご、1902年2月28日 - 19… 松野 賢吾 (まつの けんご、1902年2月28日 - 1993年11月9日)は、日本の経済学者。松野新次郎の長男。熊本県八代市生まれ、神奈川県湯河原で逝去。
甲斐 政治(かい まさはる、1902年(明治35年)2月28… 甲斐 政治(かい まさはる、1902年(明治35年)2月28日‐ 1979年(昭和54年)9月13日) は、昭和期の満洲国官僚、放送関係者、政治家。衆議院議員(3期)。 宮崎県東臼杵郡北方村(北方町を経て現延岡市)で生まれた。城小学校、延岡中学校(現宮崎県立延岡高等学校)、第五高等学校を経て、1929年(昭和4年)3月、九州帝国大学法文学部法律科を卒業した。 同年3月、満洲に渡り鉄嶺自治指導委員長を経て、満洲国国務院民政部事務官、総務庁人事科長、遼陽県参事官兼地籍整理局事務官、瀋陽県支局弁事、遼陽副県長、瀋陽副県長、総務庁参事官、黒河省開拓庁長、拝泉県副県長、総務庁参事官・官房弁事、中華民国山西省顧問などを務めた。
伊藤 五郎(いとう ごろう、1902年〈明治35年〉2月28… 伊藤 五郎(いとう ごろう、1902年〈明治35年〉2月28日 - 1992年〈平成4年〉6月4日)は、日本の弁護士、政治家。参議院議員(2期)、衆議院議員(3期)。 山形県北村山郡常盤村(尾花沢町を経て現尾花沢市)出身。1928年中央大学法学部卒。弁護士となり、1936年横浜弁護士会副会長に就任。翌1937年の第20回衆議院議員総選挙で山形2区(当時)から立憲民政党公認で立候補して当選する。次の1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選した。大麻唯男国務大臣秘書官、鈴木貫太郎内閣文部参与官を歴任。戦後、推薦議員のため公職追放となる。追放解除後の1952年の第25回衆議院議員総選挙で山形2区から改進党公認で立候補して以降落選続きで(1955年の保守合同以後は自由民主党)、1960年の第29回衆議院議員総選挙で再選された。
市川 白弦(いちかわ はくげん、1902年(明治35年)2月… 市川 白弦(いちかわ はくげん、1902年(明治35年)2月28日 - 1986年(昭和61年)6月7日)は、臨済宗の僧侶、社会運動家。 哲学者市川浩は長男。
常安 弘通(つねやす ひろみち、1902年2月28日 - 1… 常安 弘通(つねやす ひろみち、1902年2月28日 - 1988年10月3日)は、日本のジャーナリスト、新聞編集者、郷土史家。 佐賀県唐津市出身。1923年3月福岡県立中学修猷館を経て、1929年3月早稲田大学文学部哲学科を卒業。 1929年4月朝日新聞社大阪本社に入社。1936年3月中華民国北平(北京)特派員となる。1937年7月7日勃発した盧溝橋事件において、事前にその情報を掴み、現場に一番乗りして取材し、7月9日の朝日新聞朝刊の一面を飾るスクープをものにした。1939年10月西部本社編集局東亜課、1941年東京本社を経て、1942年3月中華民国済南支局長兼青島支局長、1944年9月奉天支局長を歴任するが、ここで終戦を迎え、抑留された後、1946年7月帰国。
坂野 常礼(さかの つねひろ、1902年(明治35年)2月2… 坂野 常礼(さかの つねひろ、1902年(明治35年)2月27日 - 没年不明)は、日本の実業家。阪急バス監査役。 岡山県出身。坂野鉄次郎の長男。1927年、京都帝国大学法科卒業。新京阪電鉄に入社。1954年、関西観光自動車専務取締役に就任。 宗教は日蓮宗。趣味は囲碁、園芸。住所は兵庫県芦屋市宮塚町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
藤本 薫喜(ふじもと しげき、1902年〈明治35年〉2月2… 藤本 薫喜(ふじもと しげき、1902年〈明治35年〉2月27日 - 1980年〈昭和55年〉12月10日)は、日本の衛生学者。長崎大学名誉教授、元日本栄養士会会長、元高知女子大学学長。医学博士。 愛媛県喜多郡五十崎村大字古田(のち五十崎町、現内子町)で、藤本松太郎の三男として生まれた。 愛媛県立大洲中学校(現・愛媛県立大洲高等学校)、松山高等学校を経て1928年、東京帝国大学医学部を卒業した。栄養研究所技師・同附属病院副院長を勤めた。1940年、医学博士の学位受領。陸軍軍医として太平洋戦争に従軍した。1946年、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)教授になり、1967年の定年退官まで衛生学・公衆衛生学の教育と研究に当たった。
西川 貞一(にしかわ さだいち、1902年2月27日 - 1… 西川 貞一(にしかわ さだいち、1902年2月27日 - 1991年9月25日)は、日本のジャーナリスト・政治家。日月荘閑人と号した。 現在の山口県美祢市出身。 関門日日新聞編集局長を経て1936年の第19回衆議院議員総選挙に旧山口1区から無所属で立候補し初当選。当選後、立憲政友会に入党。1937年の第20回衆議院議員総選挙では政友会の公認を得て立候補し2度目の当選。1939年の政友会分裂に際しては久原房之助や鳩山一郎らとともに正統派に所属した。政党解消後は翼賛議員同盟に所属し、1942年の第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受けて立候補し3度目の当選。その後は翼賛政治会及び大日本政治会に所属。
青木 倫太郎(あおき りんたろう、1902年(明治35年)2… 青木 倫太郎(あおき りんたろう、1902年(明治35年)2月26日 - 1989年(平成元年)1月23日 )は、日本の会計学者。学位は、商学博士(1955年)。関西学院大学名誉教授。関西学院大学商学部学部長・等松青木監査法人代表社員・大蔵省公認会計士3次試験委員・日本会計学会常務理事・税理士試験委員を歴任。日本会計学界の大御所的存在であった。 近代会計の動向,管理会計の研究、推進、発展に寄与し、多くの業績を残した。また会計実務の指導的意見で実務界の発展に寄与した。 滋賀県栗東町(現:栗東市)生まれ。
稲田 周一(いなだ しゅういち、1902年(明治35年)2月… 稲田 周一(いなだ しゅういち、1902年(明治35年)2月26日 - 1973年(昭和48年)2月5日)は、日本の内務・宮内官僚。侍従長、官選滋賀県知事。位階は従二位。 現・東京都出身。政治学者・稲田周之助の長男として生まれる。開成中学校、第一高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年3月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し佐賀県属となり内務部産業課兼地方課に配属された。 1927年4月、地方事務官・群馬県工場監督官兼社会課長に就任。拓務事務官を経て、1931年12月、内閣官房に転じ内閣書記官・内閣官房総務課勤務となる。以後、内閣官房会計課長、同総務課長、兼同会計課長などを歴任。
正田 建次郎(しょうだ けんじろう、1902年〈明治35年〉… 正田 建次郎(しょうだ けんじろう、1902年〈明治35年〉2月25日 - 1977年〈昭和52年〉3月20日)は、日本の数学者(代数学)。第6代大阪大学総長、武蔵大学学長、初代大阪大学基礎工学部長。群馬県邑楽郡館林町(現・群馬県館林市)出身。勲一等瑞宝章、文化勲章受章。 1902年(明治35年)、群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)に、日清製粉創業者・正田貞一郎の次男として生まれる。小日向台町小学校を経て、1919年(大正8年)に東京府立第四中学校を卒業。1922年(大正11年)に旧制第八高等学校卒業して東京帝国大学理学部数学科に進学し、1925年(大正14年)3月卒業。大学院で高木貞治の指導を受けた。
中野 佐三(なかの すけぞう、1902年(明治35年)2月2… 中野 佐三(なかの すけぞう、1902年(明治35年)2月25日 - 1969年(昭和44年)8月22日)は、日本の心理学者。香川県出身。東京文理科大学卒業。戦後、東京教育大学教授、1954年「児童の思考についての実験的研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。1965年定年退官、名誉教授、和洋女子大学教授。児童心理学、教育心理学。
石川 与吉(いしかわ よきち、1902年2月25日 - 19… 石川 与吉(いしかわ よきち、1902年2月25日 - 1984年6月4日)は、日本の地理学者。旧姓では三野 与吉(みの よきち)。東京教育大学名誉教授。日本地理学会会長(1964年 - 1965年)。理学博士(東京大学)。 地形学・水文学などを研究しつつ、地理学・地理教育のあり方を論じた指導的自然地理学者である。地形学など自然地理学の分野に多くの研究者を輩出し、東京教育大学では地形営力論を中心とした学風が作られ、「三野スクール」と呼ばれていた。 香川県三豊郡桑山村(現・三豊市)の三野家に農家として生まれる。3歳のとき、同郡常磐村(現・観音寺市)に一家転住した後、常磐村尋常小学校(現・観音寺市立常磐小学校)と、辻村高等小学校(現・三豊市立辻小学校)を卒業する。
伊谷 賢蔵(いだに けんぞう、明治35年(1902年)2月2… 伊谷 賢蔵(いだに けんぞう、明治35年(1902年)2月23日 - 昭和45年(1970年)3月27日)は、鳥取県鳥取市出身の洋画家、書家。人類学者・霊長類学者の伊谷純一郎は息子。 伊谷平蔵の二男として、鳥取市川端に生まれる。 大正13年(1924年)京都高等工芸(現京都工芸繊維大学)を卒業後、同校研究室と関西美術院で洋画の研究に専念し、そのころ黒田重太郎に師事した。 大正14年(1925年)春陽会、翌年二科展に入選し、以後、昭和18年(1943年)の二科展解散まで出品を続け、その間に二科会員となった。 昭和14年(1939年)に従軍画家として北支戦線に派遣され、翌年から華北交通嘱託として計6回中国を訪問。
尾崎乕四郎(おざき とらしろう、1902年2月23日 - 1… 尾崎乕四郎(おざき とらしろう、1902年2月23日 - 1991年10月30日)は、日本の地理学者。東京学芸大学名誉教授。専門は社会科教育学、地理学。千葉県の地誌研究は田中啓爾に次ぐものとして高く評価された。 新潟県中頸城郡高田町(現上越市)生まれ。1921年高田師範学校卒業、同年小学校訓導に就く。1924年東京高等師範学校教員養成所歴史地理科卒業、岡山女子師範学校教諭。1926年東京高等師範学校地理学専攻中途退学、千葉県立長狭中学校教諭。1933年千葉女子師範学校教諭、1942年文部省教科書図書調査嘱託、1946年文部省図書監修官を経て、1947年東京第一師範学校教授。1951年東京学芸大学教授。
森竹 竹市(もりたけ たけいち、1902年2月23日 - 1… 森竹 竹市(もりたけ たけいち、1902年2月23日 - 1976年8月3日)は、昭和時代の歌人。違星北斗やバチェラー八重子とともにアイヌ三大歌人に数えられる。筑堂と号する。 北海道白老郡白老のコタンに父エヘチカン、母オテエの長男として生まれる。父の急逝により家は窮乏におちいり、9歳から漁場で働くようになる。1915年に白老第二尋常小学校を卒業後、石狩・厚田・臼谷(小平町)・留萌の鰊漁場に出稼ぎに行く。白老郵便局長・満岡伸一の好意により1917年から郵便局に勤める。1919年に白老駅夫を拝命し、正職員となるため勉学に励む。1923年に札幌鉄道局雇員採用試験に合格。1927年に札幌鉄道局雇員を拝命し、以後は追分・佐瑠太(富川)・苫小牧・静内に貨物掛として転勤する。
篠井 恵四郎(しのい えしろう、1902年(明治35年)2月… 篠井 恵四郎(しのい えしろう、1902年(明治35年)2月21日 - 1965年(昭和40年))は、日本の政治家。長野県飯山市長。 長野県下水内郡飯山町(現飯山市)生まれ。1919年(大正8年)3月、旧制飯山中学(現長野県飯山高等学校)卒業。飯山町議会議員、同町消防団長、同町助役を経て、1953年(昭和28年)9月、飯山町長に当選し、昭和の大合併では1町6村の新設合併を実現した。 1954年(昭和29年)飯山市制施行に伴い初代市長となり、1958年(昭和33年)9月まで1期務めた。在任中は市庁舎の竣工や照岡ダムの建設、市内有線放送の整備などに力を入れた。
堀 豁(ほり とおる、1902年2月20日 - 1996年1… 堀 豁(ほり とおる、1902年2月20日 - 1996年1月10日)は、日本の経営者。新潟県長岡市出身。 1925年に九州帝国大学工学部電気科を卒業し、同年に北越水力電気に入社。1942年に東北配電(のちの東北電力)に転じ、1946年9月に常務に就任し、1949年11月に副社長を経て、1960年5月に社長に就任し、1962年12月までに務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1972年に勲二等瑞宝章を受章。 1996年1月10日老衰のために死去。93歳没。
西山 市三(にしやま いちぞう、1902年〈明治35年〉2月… 西山 市三(にしやま いちぞう、1902年〈明治35年〉2月19日 - 1999年〈平成11年〉7月16日)は、日本の遺伝学者。京都大学名誉教授・農学博士。専門は細胞遺伝学。位階は正四位。 群馬県利根郡沼田町(現在の沼田市)町田町に生まれる。旧制沼田中学校(現・群馬県立沼田高等学校)を経て、京都帝国大学農学部農林生物学科に入学、木原均に就いて学び、1927年に卒業。 卒業後は同大学でカラスムギの細胞遺伝の研究に取り組む。1937年に助教授、1946年には教授となり、同大食糧科学研究所に勤務。1956年、京都大学農学部に配置替えとなる。1965年定年により退官、同大学名誉教授となる。 退官後も1965年から67年まで米国ウィスコンシン大学客員教授、1967年から68年までミズーリ大学客員教授、帰国後の1971年から84年まで財団法人木原研究所評議員、1972年から74年まで名城大学教授を務めた。
鶴田 知也(つるた ともや、1902年2月19日 - 198… 鶴田 知也(つるた ともや、1902年2月19日 - 1988年4月1日)は日本の小説家、農業指導者。小説『コシヤマイン記』で第3回芥川龍之介賞を受賞。 1902年(明治35年)2月19日、福岡県小倉市大阪町(現:北九州市小倉北区)でに高橋乕太郎、アサの三男として生まれる。実父乕太郎は植村正久門下のクリスチャンであり、リベラルな知識人として知られていた。兄弟に音楽家高橋信夫、画家の福田新生がいる。1909年(明治42年)、7歳の時に母アサの兄にあたる鶴田和彦、ミヨ夫妻の養子となり鶴田姓となる。鉄道技師であった養父和彦の転勤に伴い、小倉市、直方市、田川市、大分市の小学校を転々とし、最後に豊津尋常高等小学校で卒業した。
土井 虎賀壽(どい とらかず、1902年2月19日 - 19… 土井 虎賀壽(どい とらかず、1902年2月19日 - 1971年3月10日)は、哲学者・文学者。香川県出身。 香川県木田郡の医師の家に生まれる。旧姓久保。第三高等学校理科乙類(ドイツ語クラス)から京都帝国大学理学部(物理)へ進むが、哲学科へ再入学、1926年卒業。学生時代は大山定一と下宿が同じで、親友であった。卒業後いったん実家に帰り女学校に勤め結婚する。しかし、二年で妻に先立たれ京都へ戻って大学院に進む。1929年、三高講師となる。1941年、三高教授、京都帝国大学講師となる。1948年、三高、京大を辞職、東京大学仏文科大学院に入学して二年間学ぶ。1953年、相模女子大学教授、学習院大学講師となる。
佐藤 初重(さとう はつえ、1902年2月19日 - 199… 佐藤 初重(さとう はつえ、1902年2月19日 - 1997年2月25日)は日本の幼児教育者。 1902年(明治35年)大分県直入郡(現・竹田市)の漢学者の家に一人娘として生まれる。17歳のときに医師を志して上京し、高等女学校を経て東京女子医学専門学校に入学するが、体をこわして中退する。青山女学院家政科に移り、そこで幼児教育を生涯の仕事と定め、夜間には東京府教育会附属幼稚園保姆傳習所に通って1923年(大正12年)に卒業する。千駄ヶ谷の幼稚園、ついで阿佐ヶ谷幼稚園に勤めたのち、1936年(昭和11年)に柿ノ木坂幼稚園を設立、1942年(昭和17年)には園長に就任した。幼稚園の運営のかたわら後進の育成にも力をそそぎ、1954年(昭和29年)には原宿高等保育学校(現・草苑保育専門学校)を設立して校長に就任、東洋英和女学院短期大学と青山学院大学の講師も長年にわたって務めた。
中西 秀男(なかにし ひでお、1901年3月20日 - 19… 中西 秀男(なかにし ひでお、1901年3月20日 - 1996年3月30日)は、日本の英文学者、翻訳家。早稲田大学名誉教授。 茨城県土浦市生まれ。茨城県立土浦中学校を経て、1921年早稲田大学高等師範部英語科卒業。早稲田中学校専任教諭となり、46年まで務める。戦後47年母校講師、48年助教授、49年早大教育学部教授、71年定年退任、名誉教授。多くの翻訳をおこなった。
島田 謹二(しまだ きんじ、1901年(明治34年)3月20… 島田 謹二(しまだ きんじ、1901年(明治34年)3月20日 - 1993年(平成5年)4月20日)は、日本の比較文学者、英米文学者。文化功労者。日本学士院賞受賞。 1901年、東京府で生まれた。東北帝国大学英文科で学び、卒業。 卒業後、英文学者の矢野峰人に見込まれて、台北帝国大学講師となった。講師の期間は17年に及んだ。若き日は英国詩を専門としたが、他のヨーロッパの国々や日本の詩歌に関心を深めていった。 戦後の引き揚げ後は、第一高等学校教授に就いた。1949年の新制大学移行後は、東京大学教養学部教授。新設された大学院比較文学比較文化専修課程の初代主任教官となり、平川祐弘、芳賀徹、小堀桂一郎、亀井俊介ら、多方面で活躍する人材を多く育てた。
松本 瀧藏(まつもと たきぞう、松本 滝蔵、Takizo F… 松本 瀧藏(まつもと たきぞう、松本 滝蔵、Takizo Frank Matsumoto、1901年3月20日 - 1958年11月2日)は、日本の政治家、教育者。衆議院議員、外務政務次官、内閣官房副長官(政務担当)、明治大学教授などを歴任した。広島県佐伯郡廿日市町(現廿日市市)生まれ。 私生児として生まれる。家族とともに2、3歳からアメリカに渡り、カリフォルニア州フレズノで育つ。アメリカに落ち着くまもなく父が他界。母はレストランを経営する日本人とすぐに再婚。瀧藏はフランク・ナルシマを名乗るようになった。1919年、高校を卒業すると「the Fresno Athletic Club(フレズノ・アスレチック・クラブ)」に日系アメリカ人野球チームを創設した。
高橋 一郎(たかはし いちろう、1901年(明治34年)3月… 高橋 一郎(たかはし いちろう、1901年(明治34年)3月19日 - 1951年(昭和26年)12月23日)は、日本の内務・警察官僚。陸軍司政官、最後の官選長崎県知事。 静岡県出身。高橋栄蔵の養子となる。第二高等学校を卒業。1924年、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年、内務省に入省し京都府書記となる。 以後、京都府社会課長、鳥取県警察部保安課長、同特別高等課長、熊本県学務課長、同庶務課長、神奈川県庶務課長、愛媛県書記官・警察部長、静岡県書記官・経済部長などを歴任し、1942年10月31日、陸軍司政官に就任。1943年3月から1944年12月まで第16軍軍政監部付・スラバヤ市長を務めた。
中村 梅吉(なかむら うめきち、1901年3月19日 - 1… 中村 梅吉(なかむら うめきち、1901年3月19日 - 1984年8月4日)は、日本の政治家、弁護士、第57代衆議院議長(在任期間、1972年12月22日 - 1973年5月29日)。長男は元衆議院議員の中村靖。 東京府北豊島郡下練馬村(現、練馬区練馬)出身。農家の次男に生まれる。 1923年、法政大学専門部法科を卒業。大学在学中は法政大学弁論部に所属していた。三木武吉法律事務所で弁護士修業を始めたのが政治に関わるきっかけとなる。1928年に東京府会議員、1936年に立憲民政党から衆議院議員に初当選。以後通算当選12回。三木武吉の直系として行動を共にする。 1946年から1951年まで公職追放。
岩代 吉親 (いわしろ よしちか、1901年3月18日 - … 岩代 吉親 (いわしろ よしちか、1901年3月18日 - 1982年10月17日)は日本の教育家。戦後新制中学発足時に活躍した。「火の国旅情」を作詞作曲した岩代浩一は長男、現在活躍中の作曲家岩代太郎は直系の孫(浩一の長男)で、元日本テレビアナウンサーで現フリーアナウンサーの松本志のぶは太郎の妻にあたる。 1901年、熊本県南阿蘇の素封家の二男に生まれた。父一吉は漢学者、郡会議員も務める。1916年熊本第二師範学校入学,阿蘇郡長陽小学校訓導をへて、1924年東京高等師範学校入学。熊本県立人吉中学校教諭、その後旧大阪府立今宮中学教諭を経て、大阪府立汎愛中学校教頭になった。1945年、熊本に帰郷。熊本県立第二高等女学校、女子師範学校教頭をへて、1946年小国高等女学校校長。
田中 勝之助(たなか かつのすけ、1901年(明治34年)3… 田中 勝之助(たなか かつのすけ、1901年(明治34年)3月16日 - 1945年(昭和20年)8月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 島根県那賀郡今市村丸原(現浜田市旭町丸原)で、酒造業・田中勝聴の長男として生まれる。島根県立浜田中学校を経て、1923年(大正12年)鹿児島高等農林学校を卒業。その後、家業を継いだ。今市村会議員を務めた。日中戦争で応召して足かけ4年間従軍し、陸軍歩兵中尉に昇進した。 1942年(昭和17年)3月、島根県会議員に当選し、帝国在郷軍人会那賀郡連合会分会長も務めた。同年4月、第21回衆議院議員総選挙に非推薦で島根県第2区から出馬して当選し翼賛政治会に参加。
光岡 龍三郎(みつおか りゅうざぶろう、1901年3月15日… 光岡 龍三郎(みつおか りゅうざぶろう、1901年3月15日 - 1961年8月4日)は、日本の俳優である。新字体光岡 竜三郎、本名は中澤 喜一(なかざわ きいち)である。 1901年(明治34年)3月15日、北海道亀田郡大野村(現在の北斗市大野地区)に「中澤喜一」として生まれる。11歳上の兄に俳優の葛木香一がいる。 当初舞台劇の俳優であったが、1924年(大正13年)、東亜マキノ等持院撮影所に入社し、映画俳優に転向する。翌1925年(大正14年)、阪東妻三郎主演、二川文太郎監督の『江戸怪賊伝 影法師』前篇・後篇等に出演する。二川監督の『墓石が鼾をする頃』に出演した後、牧野省三らは東亜キネマと分離するが、光岡は東亜キネマに残る。
小栗 虫太郎(おぐり むしたろう、1901年(明治34年)3… 小栗 虫太郎(おぐり むしたろう、1901年(明治34年)3月14日 - 1946年(昭和21年)2月10日)は、日本の小説家、推理作家、秘境冒険作家。本名:小栗 栄次郎(おぐり えいじろう)。東京都千代田区外神田出身。 漢語カタカナルビと西洋の知識に彩られた、極度のペダントリー(衒学趣味)的作風で著名。代表作は、デビュー作『完全犯罪』、推理小説の三大奇書の一つといわれる『黒死館殺人事件』、秘境探検小説の連作『人外魔境』など。 1901年3月14日、東京市神田旅籠町(現・東京都千代田区外神田)で生誕。生家は代々の酒問屋の小田原屋の分家であった。父親は1911年に死去しているが、本家からの仕送りや貸家の賃貸収入のため生活には困らなかった。
松本 正雄(まつもと まさお、1901年3月14日 - 19… 松本 正雄(まつもと まさお、1901年3月14日 - 1976年4月15日)は、日本の評論家、英文学者である。 東京生まれ。青山学院英語師範科卒業。1927年、平凡社に入社し、『新興文学全集』の編集を通じてプロレタリア文学運動に接近。日本プロレタリア作家同盟やプロレタリア科学研究所に参加してアメリカ文学の紹介をすると共に、『プロレタリア英語入門』(鉄塔書院、1932年)などを著した。 のち日本評論社に移るが、1944年横浜事件で逮捕され、敗戦後釈放される。戦後は、日本民主主義文化連盟の創設に参加、日本ジャーナリスト会議副議長をつとめた。回想記『過去と記憶』(光和堂)で、多喜二・百合子賞を受賞した。
入江 直祐(いりえ なおすけ、1901年3月13日 - 19… 入江 直祐(いりえ なおすけ、1901年3月13日 - 1991年)は、日本の英文学者、翻訳家。 岡山県出身。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高校)旧制第六高等学校を経て、六稜学舎では詩人でもある山宮允に学び、1938年東京帝国大学卒業、市河三喜に学ぶ。アルフレッド・テニスン、ウォルター・スコットなどの翻訳で知られる。1962年まで法政大学教授、その後神奈川大学教授。1989年まで創価大学教授を務めた。
西村 俊成(にしむら としなり、1901年3月13日 - 1… 西村 俊成(にしむら としなり、1901年3月13日 - 1977年)は、昭和期の雑誌編集者。大日本雄辯會講談社(現・講談社)「少年倶楽部」の編集長を務め、のち常務、顧問を歴任。八王子市の曹洞宗信松院住職を務めた。 東京都生まれ。曹洞宗大学(今の駒澤大学)卒業。大日本雄辯會講談社入社。 「婦人倶楽部」などの編集を担当し、「少年倶楽部」の編集長を務めた。1956年1月31日、取締役就任。1964年1月28日に取締役(元常務)を退任し顧問。 1971年、児童文化功労者(日本児童文芸家協会)。1968年「追想の広川弘禅」(私家版)の編集を務めた。
御手洗 毅(みたらい たけし、1901年3月11日 - 19… 御手洗 毅(みたらい たけし、1901年3月11日 - 1984年10月12日)は、日本の実業家、医師。キヤノン創業者・初代社長。また、太平洋戦争以前は産婦人科医として御手洗産婦人科病院を開業。 名古屋大学名誉教授の御手洗玄洋や、キヤノン社長や日本経済団体連合会会長を務めた御手洗冨士夫は甥にあたる。 1901年、大分県南海部郡蒲江町(現・佐伯市)に生まれる。実家は代々医師の旧家。佐伯中学(現大分県立佐伯鶴城高等学校)を経て北海道大学予科に進学、恵迪寮の委員長をつとめる。1928年、北海道大学医学部卒業。上京して日本赤十字病院に勤務。731部隊の石井四郎と師を同じくする。 1933年11月、吉田五郎や内田三郎らの創設した精機光学研究所に共同経営者として参画。
中部 利三郎(なかべ りさぶろう、1901年〈明治34年〉3… 中部 利三郎(なかべ りさぶろう、1901年〈明治34年〉3月11日 - 1970年〈昭和45年〉3月6日)は、日本の実業家。大洋漁業副社長。大洋漁業創業者中部幾次郎の三男。 兵庫県明石市出身。中部幾次郎の三男。1924年、神戸高等商業学校を卒業。中部農事、林兼商店各監査役、大洋捕鯨取締役、林兼商店、林兼工業各常務、林兼造船副社長同社長を経て1951年、大洋漁業副社長。1955年、林兼産業社長。1963年、長崎放送社長。1964年、藍綬褒章・紺綬褒章を受章。 宗教は浄土宗、仏教。趣味はゴルフ、将棋。住所は山口県下関市上田中町3丁目、同町1丁目、同市竹崎町、兵庫県明石市東魚町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
浜口 重国(はまぐち しげくに、1901年〈明治34年〉3月… 浜口 重国(はまぐち しげくに、1901年〈明治34年〉3月11日 - 1981年〈昭和56年〉1月11日)は、日本の東洋史学者。 1901年、高知県で生まれた。東京帝国大学文学部で学び、1929年に卒業。 1930年、東北学院講師に就いた。1932年に東方文化学院東京研究所所員となり、東京帝国大学助教授に就いた。1943年より満鉄調査局嘱託。 戦後の1950年、山梨大学教授となった。1962年、学位論文『唐法上の賎民に関する基礎的研究』を京都大学に提出して法学博士号を取得。1966年に山梨大学を定年退官し、名誉教授となった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
伊能 繁次郎(いのう しげじろう、1901年〈明治34年〉3… 伊能 繁次郎(いのう しげじろう、1901年〈明治34年〉3月10日 - 1981年〈昭和56年〉6月12日)は、日本の運輸官僚・政治家。運輸事務次官に任じられたのち国政に転身し、参議院議員となり、防衛庁長官などを歴任した。 千葉県佐原町(現在の香取市)川岸に生まれる(ただし、本籍は同県中山村北方(現在の市川市北方)にあった)。 第四高等学校・東京帝国大学英法学科を経て、1926年(大正15年)に鉄道省入省(東鉄局書記)、1935年(昭和10年)より在外研究員として欧米各国の交通事情を調査、帰国後の1939年(昭和14年)には鉄道監察官に任じられる。 その後、1943年(昭和18年)運輸通信省書記官兼大臣官房文書室長、翌年には門司鉄道管理局長を歴任、戦後には運輸省鉄道総局長官となった。
沼田 征矢雄(ぬまた そやお、1901年3月8日 - 198… 沼田 征矢雄(ぬまた そやお、1901年3月8日 - 1982年4月)は、土木工学者、土木技術者、都市計画家。 大学卒業で即講師に任用されるなど頭脳明哲、豪放磊落、趣味も野球、ゴルフなどと多彩。昭和19年(1944年)蒙古聯合自治政府交通部次長として大同に赴任。その後同政府の技監、総務庁次長を経て昭和20年(1945年)には同政府総務庁長に就任、つまりこの時点で技術者出身で日本史上初の「一国の長」となっている。満州国や蒙古聯合自治政府の高官としてこれら地域の開発に尽力した功績は大きく、また面長な顔は当時「満洲三名馬」の一人に数えられた。 明治34年(1901年) 3月、文学博士沼田頼輔の次男に生まれる。
結城 司郎次(ゆうき しろじ、1901年3月7日 - 196… 結城 司郎次(ゆうき しろじ、1901年3月7日 - 1968年11月20日)は、日本の外交官。東京帝国大学法学部政治科卒業。外務省アメリカ局第一課長・同第三課長、通商局第三課長、スウェーデン公使、セイロン(現スリランカ)大使、トルコ大使などを歴任。日米交渉時の来栖三郎特命全権大使の随行員として渡米し、英米への日本側の情報漏洩元として名が挙がったことで知られる。 息子は結城弘隆。娘は結城美栄子。孫は岩城滉一の妻・結城アンナ。(結城美栄子は結城アンナの叔母) 福島県奥川村の農業・熊八の四男として生まれ、大正15年に高等試験外交科試験に合格し、昭和2年に東京帝国大学法学部政治科卒業後、外務書記生として英国、外交官補としてドイツに赴任、国際連盟の日本帝国代表者随員を務め、満州国、ポーランド在勤を経て、昭和15年末に外務書記官・叙高等官4等として外務省アメリカ局第一課長に就任、翌年10月には通商局第三課長、同11月に日米交渉のため急遽渡米した来栖三郎特命全権大使の随行員としてワシントンの日本大使館で事務方作業にあたった。
木本 大果(きもと たいか、1901年(明治34年)3月7日… 木本 大果(きもと たいか、1901年(明治34年)3月7日 - 2001年(平成13年)11月9日)は、大正から平成時代の日本画家。 16歳で松本楓湖に師事する。松本の没後は、荒木十畝の読画会に所属する。昭和4年に帝国美術院展覧会で入選し、昭和8年には「秋林」が特選を受賞する。荒木は昭和19年に没する。その後、伊東深水から鎌倉にあった自宅に招かれ、自身が顧問を務める日月社への入会を勧められるが、所属していた読画会を離れなかった。 東京都世田谷区に居住していた。
蔭山 如信(かげやま ゆきのぶ、1901年〈明治34年〉3月… 蔭山 如信(かげやま ゆきのぶ、1901年〈明治34年〉3月6日 - 1977年〈昭和52年〉8月25日)は、日本の経営者。徳山曹達(現在のトクヤマ)社長を務めた。 東京都出身。1919年に大倉商業学校を卒業し、同年4月に岩井商店に入社。 1934年9月に徳山曹達に転じ、1939年5月に取締役に就任し、1943年10月に常務を経て、1946年7月に社長に就任。1974年5月に会長を経て、1976年6月には相談役に就任した。 経済団体連合会理事、日本経営者団体連盟理事、山口放送取締役、RKB毎日放送監査役なども歴任した。 1962年5月に藍綬褒章を受章し、1971年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1977年8月25日、心不全のために死去。
橋本 登美三郎(はしもと とみさぶろう、1901年3月5日 … 橋本 登美三郎(はしもと とみさぶろう、1901年3月5日 - 1990年1月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(12期)、運輸大臣(第40代)、建設大臣(第19代、第26代)、内閣官房長官(第27代、第28代)、自由民主党幹事長(田中内閣)、自由民主党総務会長(佐藤内閣)などを歴任した。 茨城県行方郡潮来町(現:潮来市)の回送問屋の家に生まれた。当初父は「三郎」という名を考えていたが、親戚が生まれた子供に三郎と名づけたので、母親の名前をつけて「登美三郎」と命名したという。旧制佐原中学(現:千葉県立佐原高等学校)から、早稲田大学政治経済学部に入学。在学中は雄弁会に所属し、「闘将」と称された。 1927年(昭和2年)に大学卒業後、朝日新聞社に入社する。
伊藤 庸二(いとう ようじ、1901年3月5日 - 1955… 伊藤 庸二(いとう ようじ、1901年3月5日 - 1955年5月9日)は、日本の海軍軍人、工学者、無線技術者。ドレスデン工科大学Doctor、東京帝国大学工学博士。最終階級は海軍技術大佐。 1901年(明治34年)3月5日、千葉県夷隅郡御宿村(現・御宿町)に、御宿尋常高等小学校長伊藤鬼一郎の次男として誕生。伊藤家は御宿郷の名主の家系だった。旧制第一高等学校を卒業後、東京帝国大学の1年生の時に海軍委託学生になり、1924年(大正13年)3月、同大学工学部電気工学科を卒業。翌月、海軍造兵中尉(技術科士官第13期)に任官する。当時、欧米で電波技術が顕著に発展していたことから海外に技術者を留学させることとなり、1926年8月、箕原勉の推薦によりその候補に選ばれた。
渋沢 智雄(しぶさわともお、正字体:澁澤 智雄、1901年〈… 渋沢 智雄(しぶさわともお、正字体:澁澤 智雄、1901年〈明治34年〉3月5日 - 1947年〈昭和22年〉4月29日)は、日本の実業家。渋沢栄一 の孫にあたるが、 父・渋沢篤二が1913年に廃嫡されたため、本家とは別に分家筋として育った。兄に渋沢敬三(栄一の後継者)、次兄に渋沢信雄がいる。 1901年、3月5日に子爵・渋沢栄一の嫡男・篤二と妻・敦子の三男として東京府東京市深川区〈現在の東京都江東区〉に生まれる。 敦子の父(智雄の母方の祖父)は羽林家の公卿出身の元老院議官を務めた伯爵橋本実梁である。子爵・渋沢敬三と渋沢信雄の弟にあたる。。 幼少期から身体が弱く、しばしば療養を要したと伝えられている。