野口祥昌(のぐち よしまさ、1900年(明治33年)7月30… 野口祥昌(のぐち よしまさ、1900年(明治33年)7月30日 - 1970年(昭和45年))は、日本の農業経済学者。 茨城県出身。1918年(大正7年)茨城県立土浦中学校(後の茨城県立土浦第一高等学校)卒業。1927年(昭和2年)北海道帝國大学農学部農業経済学科卒業。同年、北海中学校(後の北海高等学校)教諭。1943年(昭和18年)札幌商業学校(後の北海学園札幌高等学校)教頭。1949年(昭和24年)北海学院兼任教授。1950年(昭和25年)北海短期大学開学に伴い北海短期大学経済科助教授。1959年(昭和34年)札幌商業高等学校(後の北海学園札幌高等学校)校長に就任。学校法人北海学園理事。1968年(昭和43年)上原轍三郎理事長の死去にともない暫定的に学校法人北海学園理事長事務取扱を兼任。
松田 二郎(まつだ じろう、1900年7月30日 - 198… 松田 二郎(まつだ じろう、1900年7月30日 - 1988年4月3日)は最高裁判所判事。静岡県出身。
青柳 一郎(あおやぎ いちろう、1900年(明治33年)7月… 青柳 一郎(あおやぎ いちろう、1900年(明治33年)7月29日 – 1983年(昭和58年)8月2日)は、日本の内務官僚、政治家。山口県知事(官選第28代)、衆議院議員(3期)。 山口県出身。早稲田大学教授・青柳篤恒の長男として生まれる。第三高等学校を経て、1926年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1925年11月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し広島県属となる。 以後、熊本県警察部・福岡県警察部の各特別高等警察課長、上海領事、福島県書記官・警察部長、軍事保護院業務・軍事扶助・総務の各課長、厚生省大臣官房会計・総務の各課長、同省保険局長などを歴任。1946年1月、最後の官選山口県知事に就任し、1947年4月まで在任し退官。
田原 春次(たはら はるじ、1900年(明治33年)7月28… 田原 春次(たはら はるじ、1900年(明治33年)7月28日 - 1973年(昭和48年)7月14日)は、日本の政治家、部落解放運動家。衆議院議員(7期)。 福岡県京都郡行橋町(現行橋市)の被差別部落の出身。田原寅次郎の長男。豊津中学校(現・育徳館高校)卒業後、早稲田大学に入学し学生団体 黎民創生会の一員として活動した。1922年、早稲田大学専門部法律学科を卒業。翌年渡米しミズーリ州立大学に留学。1924年、福岡日日新聞社に入り同社海外特派員として北米中米南米に滞在。 1928年、帰朝。同年4月東京朝日新聞社に転じ1930年8月まで在社。その後、全国大衆党に入党。機関誌主任になる。農民運動にも参加した。
田中 慎次郎(たなか しんじろう、1900年7月28日 - … 田中 慎次郎(たなか しんじろう、1900年7月28日 - 1993年7月2日)は、日本のジャーナリスト。朝日新聞社取締役出版局長、総理府原子力委員会参与、社団法人日本原子力産業会議参与などを務めた。 埼玉県出身。旧制東京商科大学(現一橋大学)卒業後、1926年朝日新聞社入社。朝日新聞大阪本社経済部次長、朝日新聞社経済部次長兼論説委員等を経て、1940年から政治経済部長を務め、第二次世界大戦、太平洋戦争下の政治経済の報道を行っていたが、1942年3月15日にゾルゲ事件に関し、入社同期の尾崎秀実に対し大日本帝国陸軍の南部仏印進駐作戦を事前に漏らしたとする軍機保護法違反容疑で逮捕された。同年4月15日から休職となり、6月5日には釈放されたものの、6月15日に退社させられた。
上田 茂樹(うえだ しげき、1900年7月27日 - 193… 上田 茂樹(うえだ しげき、1900年7月27日 - 1932年4月?)は、日本の社会運動家。日本共産党結成に参加、中央委員を務めたが、地下活動中検挙され、その後の消息は不明。大分県中津市出身。北海道生まれ。 中津藩出身で自由民権運動の闘士だった上田長次郎(のちに戴憲と改名)の八男として北海道で生まれた。官吏となった父の転任によって朝鮮に渡ったが、まもなく大分県中津町(現:中津市)の親戚に預けられ、大分県立中津中学校(現:大分県立中津南高等学校)に進む。 父の事業失敗のため中学を2年で中退し、1917年に上京。昼は横浜のローヤル火災保険会社に働き、夜は正則英語学校で勉強する生活であった。このころから社会主義文献を読み始め、日本社会主義同盟に加盟し、山川均、堺利彦らのML研究会に参加。
斎藤 一寛(さいとう かずひろ、1900年7月25日 - 1… 斎藤 一寛(さいとう かずひろ、1900年7月25日 - 1978年4月16日)は、フランス文学者、早稲田大学名誉教授。 山梨県生まれ。1927年早大仏文科卒、日本女子高等学院教諭。1929年早大出版部入社、1930年退社し著述に専念、1934年日本電報通信社入社、1947年第二早稲田高等学院講師、1949年早大講師、1950年教育学部教授、1956年から1957年までパリ留学、1960年から1962年まで教育学部長、1966年から1968年まで早大理事、1971年早大を定年退任、名誉教授。 フランス演劇を専攻し、晩年は比較文学にも手を染めた。
和智 恒蔵(わち つねぞう、旧姓・大野、1900年7月24日… 和智 恒蔵(わち つねぞう、旧姓・大野、1900年7月24日 - 1990年2月2日)は、日本の海軍軍人、僧。最終階級は海軍大佐で、硫黄島では海軍警備隊司令を務めた。二男三女の父。僧名は恒阿弥。 和智熊太の養子となる。横須賀中学を経て、1922年6月、海軍兵学校(50期)を卒業。海軍大学校選科学生の時に、東京外国語学校にてスペイン語を学んだ。この学生時代の休暇中に陸軍騎兵第一連隊付になり、馬術を修める。1931年、1932年の二度、海軍通信学校高等科学生として学ぶ。「大泊」航海長、「那珂」通信長などを歴任。1934年11月、第三艦隊付となり上海に駐在して特務機関に勤務。その後は、東京無線電信所付兼軍令部出仕(大和田傍受所長)、東京通信隊分隊長兼軍令部出仕、練習艦隊参謀などを務める。
小野瀬 忠兵衛(小野瀨忠兵衞、おのせ ちゅうべえ、1899年… 小野瀬 忠兵衛(小野瀨忠兵衞、おのせ ちゅうべえ、1899年(明治32年)8月21日 - 1977年(昭和52年)12月11日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(3期)。 茨城県新治郡九重村生まれ、同県河内郡龍ケ崎町出身。旧制土浦中学校(現茨城県立土浦第一高等学校)、慶應義塾大学部理財科を卒業後、興亜製作所社長、茨城県塩業株式会社取締役。 次いで茨城県肥料卸商業組合、竜ヶ崎地方生活必需品配給統制組合、同食料品配給統制組合、同食糧営団格理事長。1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に茨城全県区から出馬し当選。衆議院経済安定委員長となり、茨城県司法保護委員。日本進歩党院内総務、民主党民情部長、民主自由党会計監督を務める。
稲葉 通彦(いなば みちひこ、1899年(明治32年)8月2… 稲葉 通彦(いなば みちひこ、1899年(明治32年)8月20日 - 1970年(昭和45年)4月16日)は、日本の実業家。鉄道建設興業(現在の鉄建建設)元社長。 鉄道建設業協会(現在の日本建設業連合会)元会長。位階は正四位。勲四等旭日小綬章受章者。弾丸列車計画に主任技師として任命され、計画のまとめ役となった。 茨城県水戸市出身。茨城県士族、奈良女子高等師範学校名誉教授の稲葉彦六の長男として生まれる。旧制第八高等学校を経て、1923年(大正12年)東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、鉄道省に入省した。 1925年(大正14年)鉄道技師となり、1931年(昭和6年)12月から1933年(昭和8年)8月まで欧米に留学した。
間 直之助(はざま なおのすけ、1899年(明治32年)8月… 間 直之助(はざま なおのすけ、1899年(明治32年)8月20日 - 1982年(昭和57年)1月20日)は、日本の動物学者、フィールドワーカー(動物生態学)、株式会社間組取締役。理学博士。 日本の霊長類学研究の黎明期より、京都大学理学部の研究員として活動し、その研究史上に大きな功績を残した。20年以上ニホンザルと生活を共にし、人間とサルとの共存の道を、生涯をかけて模索し続けた。遠藤周作の長編小説『彼の生きかた』(新潮社〈新潮文庫〉、1975年)の主人公・福本一平のモデルとして知られる。 1899年(明治32年)間組創業者・間猛馬の次男として熊本県に生まれた。 4歳のときに母が死去し、父も日露戦争後に流行した疫病を患い、事業を引退して本拠の下関から別府へ転地した。
小倉豊文(おぐら とよふみ、1899年8月20日 - 199… 小倉豊文(おぐら とよふみ、1899年8月20日 - 1996年6月10日)は、日本の日本史・日本文学研究者、広島大学名誉教授。 千葉県市川真間に生まれる。野田小学校から千葉師範学校を経て広島高等師範学校を卒業。奈良女子高等師範学校教官の後、広島文理科大学を卒業し、姫路高等学校教授を経て広島文理科大学助教授となる。1945年に広島市への原子爆弾投下により被爆、妻を失う。教授に昇任した後、学制改革に伴う大学の改組で広島大学教授に就任。1965年に定年退官し、名誉教授となる。広島大学を退いた後は親和女子大学教授を務めた。 被爆死した妻・文子への私信の形をとる被爆体験記『絶後の記録』を著したことで知られる。
鈴木 仙八(すずき せんぱち、1899年8月19日 - 19… 鈴木 仙八(すずき せんぱち、1899年8月19日 - 1967年5月14日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(5期)。 1899年東京府北豊島郡王子村(現東京都北区)に鈴木八五郎の三男として生まれる。王子町議、東京市議、東京府議を歴任する。1942年の第21回衆議院議員総選挙では東京6区(当時)から非推薦で立候補して落選した。翌年、東京都発足による第1回東京都議会議員選挙では王子区から立候補して当選した。1946年の第22回衆議院議員総選挙に東京都第1区(当時)から日本自由党公認で立候補して初当選。鳩山一郎派に属した。1947年の第23回衆議院議員総選挙からは、東京都第5区で立候補した。
八木 日出雄(やぎ ひでお、1899年(明治32年)8月18… 八木 日出雄(やぎ ひでお、1899年(明治32年)8月18日 - 1964年(昭和39年)5月6日)は日本の医学者、医師(産婦人科医)。岡山大学教授、同大医学部長、1958年-1962年まで第3代学長などを歴任した。義兄(妻の兄)に競泳選手の松沢一鶴。 兵庫県出身。第三高等学校(旧制)、京都帝国大学を卒業し、岡山医科大学(旧制)教授に招かれ産婦人科教室を主宰した。新制岡山大学に移行し、同医学部教授となる。昭和32年8月医学部長、翌33年6月1日より昭和37年5月31日まで岡山大学長(第3代)に就任。 第三高等学校在学時代からエスペラントに惹かれ、普及のための講演活動に従事したが、生涯継続した。
花崎 利義(はなさき としよし、1899年8月17日 - 1… 花崎 利義(はなさき としよし、1899年8月17日 - 1994年10月8日)は、日本の経営者。住友海上火災保険社長、会長を務めた。 千葉県出身。1927年に慶応義塾大学経済学部を卒業し、1928年に住友海上火災保険に入社。1948年6月に取締役に就任し、同年10月に常務、1949年6月に専務を経て、1950年6月には社長に就任。1962年6月に会長を経て、1964年6月には相談役に就任。 1972年6月に藍綬褒章を受章し、1969年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1994年10月8日、急性肺炎のために死去。95歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
井上 五郎 (いのうえ ごろう、1899年(明治32年)8月… 井上 五郎 (いのうえ ごろう、1899年(明治32年)8月16日 - 1981年(昭和56年)11月18日)は、日本の実業家。中部電力会長、中部経済連合会会長を務めた。 実業家・政治家の井上角五郎の五男として東京府東京市芝区[要出典](現・東京都港区[要出典])三田[要出典]に生まれる。慶應義塾幼稚舎(1912年(明治45年)卒業)を経て、1923年(大正12年)に東京帝国大学工学部を卒業し、東邦電力に入社する。 1951年(昭和26年)に中部電力設立とともに、初代社長に就任する。のち会長に就任する。 1957年(昭和32年)社長時代に推進した井川ダムは施工を担当した間組社長 神部満之助の提案により自身の名「五郎」を冠した「井川五郎ダム」と名付けられた。
加藤 鐐造(かとう りょうぞう、1899年(明治32年)8月… 加藤 鐐造(かとう りょうぞう、1899年(明治32年)8月15日 - 1971年(昭和46年)7月5日)は、日本の労働運動家、政治家。衆議院議員(5期)。 岐阜県土岐郡妻木村(現土岐市妻木町)で生まれる。1919年、名古屋中学校を卒業。 日本労農党に加わり、1930年、全国労農大衆党岐阜県連書記長となる。その他、妻木村会議員、同町会議員、岐阜県会議員、同参事会員を歴任。1937年4月、第20回衆議院議員総選挙に岐阜県第三区から社会大衆党所属で出馬し当選した。 戦後、日本社会党に加わる。1946年4月、第22回総選挙で岐阜県選挙区から出馬して当選。以後、第24回、第26回、第28回総選挙で岐阜県第2区から当選し、衆議院議員を通算五期務めた。
川石 酒造之助(かわいし みきのすけ、1899年8月13日 … 川石 酒造之助(かわいし みきのすけ、1899年8月13日 - 1969年1月30日)は日本の柔道家。講道館柔道七段。兵庫県飾磨郡手柄村(のちの姫路市)出身。フランス柔道の父と称され、日本よりも日本以外で著名な柔道家である。 「川石メソッド」 (Méthode de Judo Kawaishi) 、「メトードK」と呼ばれる。パリの道場に迎えられた川石は柔道の技の系統的分類を、従来の講道館五教の技よりも多い147の技数でまとめた。川石は技の分類の上で、技毎に番号をつけ記号化したものを教えることで外国人に教授することに奏功した。ボルドー大学教授ミッシェル・ブルースの研究によると川石メソッドは科学者でありヨーロッパで最初の黒帯取得者と言われているモーシェ・フェルデンクライスの影響を受けていることが言及されている。
斎藤 弘吉(さいとう ひろきち、1899年〈明治32年〉8月… 斎藤 弘吉(さいとう ひろきち、1899年〈明治32年〉8月13日 - 1964年〈昭和39年〉9月19日)は、日本の日本犬研究家、芸術家、古美術研究家である。 東京都渋谷駅前の『忠犬ハチ公』を広く知らしめたことや、第1次南極地域観測隊の『タロとジロ』他の樺太犬救出のために尽力した事でも知られる。ペンネームは、斎藤弘。 社団法人日本犬保存会初代会長。財団法人日本動物愛護協会理事長。社団法人日本庭園協会常務理事。日本哺乳動物学会理事。世界動物保護連盟日本代表理事。動物友の会代表。空気銃対策協議会代表。ハチ公銅像維持会顧問。 洋画家を目指して東京美術学校を卒業したが、病気療養中に日本犬と出会い、当時、絶滅が危惧される状況にあった日本犬の保存活動をする事を決めた。
藤田 西湖(ふじた せいこ、1899年(明治32年)8月13… 藤田 西湖(ふじた せいこ、1899年(明治32年)8月13日 - 1966年(昭和41年)1月4日)は、甲賀流忍術を受け継いだ忍術家・武術家。甲賀流忍術第14世(甲賀二十一家の和田惟政から14代目と称した)。本名は「藤田 勇治」(ふじた ゆうじ)。生涯本名を嫌い、著書では「藤田 勇」(ふじた いさむ)を本名とし「藤田 西湖」(ふじた せいこ)と称す。「西湖」は画家(忍術修行の一つとして画業にも熟達していた)としての雅号。幼少より家伝の忍術を修行し継承、「最後の忍者」という異名を持つ。甲賀流忍術以外に南蛮殺到流拳法、大円流杖術、心月流手裏剣術、一伝流捕手術も継承。 東京・浅草出身。日本大学宗教科卒業。
柴田 等(しばた ひとし、1899年8月12日 - 1974… 柴田 等(しばた ひとし、1899年8月12日 - 1974年2月17日)は、昭和期の農林官僚。戦後、千葉県知事となる。宮崎県出身。 1928年(昭和3年)、京都帝国大学農学部から農林省に入る。戦時中は大東亜省に出向してハノイ・サイゴンの両総領事を務める。戦後は物価庁に移った。 日本国憲法が施行された1947年(昭和22年)、旧知であった千葉県の元県議会議長・川口為之助が初代民選県知事となると、農業再建を掲げる川口の依頼で千葉県副知事となった。ところが、3年後の1950年(昭和25年)に川口が突如知事を辞任すると、国民民主党・日本社会党両党の支援を受けて県知事に初当選して以後3期務めた。だが、県議会の大半を抑えた自由党を野党にした事から県政運営に苦慮してきたが、当時は保守・革新両陣営ともに離合集散の時代が続き、県議会でもこれに中立な立場を取る立場を取る無所属会派「千葉クラブ」の台頭もあり、不安定ながらも知事の地位を維持してきた。
小室 達(こむろ とおる、1899年〈明治32年〉8月10日… 小室 達(こむろ とおる、1899年〈明治32年〉8月10日 - 1953年〈昭和28年〉6月18日)は、日本の彫刻家。 1899年(明治32年)8月10日、宮城県柴田郡槻木村大字入間田(現・柴田町)に、小室源吾(後の槻木町長)の三男として生まれた。 1919年(大正8年)、(旧制)白石中学校(現・宮城県白石高等学校)を卒業すると、東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科塑造部に進学した。その後、同校を首席で卒業し、研究科に進んだ。 第4回帝展(帝国美術院展覧会、現日展)に「想」を初出品すると、第5回帝展からは無鑑査となり、27歳ながら日本美術界での地位を確立した。第6回の帝展には「構想」を出品し、特選となった。
加藤 辨(弁)三郎(かとう べんざぶろう、1899年(明治3… 加藤 辨(弁)三郎(かとう べんざぶろう、1899年(明治32年)8月10日 - 1983年(昭和58年)8月15日)は、日本の実業家。協和醱酵工業(現:協和キリン)会長。従三位勲一等。工学博士。 島根県簸川郡荒茅村(現:出雲市荒茅町)に加藤伊三郎の長男として生まれた。生家は代々清酒醸造業を営んでいたが祖父の代に没落。父は村役場の書記をしていた。1923年京都帝国大学工学部卒業。四方合名会社(現:宝ホールディングス)に入社。1949年協和醱酵工業株式会社が発足。代表取締役社長に就任。1968年同社取締役会長に就任。 1952年在家仏教協会を設立。1961年東レ科学技術賞受賞。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
風早 八十二(かざはや やそじ、1899年8月10日(戸籍上… 風早 八十二(かざはや やそじ、1899年8月10日(戸籍上は8月24日) - 1989年6月19日)は、日本の法学者、弁護士(登録は1949年12月8日)。専門は刑事法、社会政策。衆議院議員(1949年1月-1952年7月)。岡山県都窪郡山手村(現・総社市)出身。1922年、東京帝国大学法学部卒業。 日本の刑事法学において、罪刑法定原則(罪刑法定主義)復活の重要性をいち早く唱えた。ベッカリーアの不朽の名著『犯罪と刑罰』の完訳を成し遂げたことで有名である(単独翻訳は1929年出版の刀江書院版。後1938年、岩波文庫の一冊として出版。戦後の1959年、妻・風早二葉との共訳として改版された)。 日本における新派刑法学(近代派)の巨頭・牧野英一の刑法研究室(東京帝国大学法学部)の助手になる(1922年-1924年3月)も、師説から離れ、日本における、いわゆるマルクス主義法学の先駆者の一人となる。
倉石 五郎(くらいし ごろう、1899年8月8日 - 197… 倉石 五郎(くらいし ごろう、1899年8月8日 - 1976年5月2日)は、日本のドイツ語学者。成蹊大学名誉教授。中国文学者の倉石武四郎の弟でもある。
由利 正通(ゆり まさみち、1899年(明治32年)8月7日… 由利 正通(ゆり まさみち、1899年(明治32年)8月7日 - 1963年(昭和38年)9月14日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 華族・由利公通の二男として生まれ、兄・公真の養子となる。兄の隠居に伴い、1926年(大正15年)11月1日、子爵を襲爵した。 1923年(大正12年)3月、東京帝国大学経済学部商業学科を卒業。同年、三菱銀行に入社。その後、三井信託に勤務した。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に属して活動し1946年(昭和21年)7月22日まで1期在任した。
紀藤 常亮(きとう つねすけ、1899年8月7日 - 197… 紀藤 常亮(きとう つねすけ、1899年8月7日 - 1971年11月13日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。宇部市長を務めた紀藤閑之介の長男。妻は渡辺好延の次女・キク子。 山口県出身。1924年東京農業大学卒。宇部農業実践学校校長兼教諭となり、宇部市農会長、同信用購買販売利用組合長、同畜産組合長、山口県議、山口県農会長、同畜産組合連合会評議員、大政翼賛会山口県支部常務委員、また朝鮮セメント、宇部銀行、山口銀行、宇部重工業、宇部興産、宇部物産各(株)監査役となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では山口1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本進歩党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。
今尾 登(いまお のぼる、1899年(明治32年)8月7日 … 今尾 登(いまお のぼる、1899年(明治32年)8月7日 - 1970年(昭和45年)12月18日)は、日本のジャーナリスト、教育者、政治家。衆議院議員、法学博士。旧姓・小林。 兵庫県加東郡河合村(現小野市)で、小林兵太郎の6男として生まれ、京都府の画家・今尾政之助の養子となる。1924年(大正13年)同志社大学法学部政治学科を卒業した。 大阪毎日新聞社に入社。その後、渡米しコロンビア大学で学んだ。帰国後、大阪毎日新聞本社、京城支局、大連支局、京都支局で勤務。東京日日新聞社に転じ、政治部副部長、事業課長、講演課長、横浜支局長、編輯局参事などを歴任。従軍記者として済南事件、満州事変、日中戦争(支那事変)を取材し戦傷も受けた。
二代 茂木 啓三郎(にだい もぎ けいざぶろう、1899年8… 二代 茂木 啓三郎(にだい もぎ けいざぶろう、1899年8月5日 - 1993年8月16日)は、日本の実業家。キッコーマン中興の祖。同社社長として、個人醸造家の集合体を近代経営化し業界トップ化した。旧名は飯田勝次。 千葉県海上郡富浦村(現旭市)で農業を営む飯田家に生まれた。飯田庄作の弟である。 成東中学(現千葉県立成東高等学校)を経て、1926年に東京商科大学(現一橋大学)を卒業し、野田醤油(現キッコーマン)に入社。大学では上田貞次郎ゼミに参加。上野喜左衛門(南国殖産創業者、元参議院議員)とは大学時代からの親友。入社後まもなく、労働争議を解決し、親友上野が橋渡し役となり、先代茂木啓三郎の養子となり1935年に家督を相続した。
佐山 済(さやま わたる、1899年8月4日 - 1965年… 佐山 済(さやま わたる、1899年8月4日 - 1965年5月14日)は、日本の国文学者。 東京府生まれ。東京帝国大学国文科卒。日本女子大学教授。古典を中心に日本文芸全般を論じた。
神納 照美 (じんのう てるみ、1899年(明治32年)8月… 神納 照美 (じんのう てるみ、1899年(明治32年)8月4日 - 1987年(昭和62年)9月14日)は、トロンボーン奏者、指揮者であり、日本吹奏楽指導者協会会長、日本国民音楽振興財団(現日本音楽財団)副会長、東海吹奏楽連盟理事長、中部日本吹奏楽連盟理事長、全日本吹奏楽連盟副理事長を務めた。 明治32年(1899年)、愛知県東加茂郡(現豊田市)に生まれる。大正8年(1919年) 陸軍戸山学校を卒業し、軍楽隊で活動する。大正13年(1924年)に愛知に戻り、大正14年(1925年)から名古屋市教育部社会教育課に勤務しながら、市青年音楽隊の組織、音楽協会やボーイスカウト連盟の創立等の文化事業に貢献する。
西原 寛一(にしはら かんいち、1899年8月2日 - 19… 西原 寛一(にしはら かんいち、1899年8月2日 - 1976年2月29日)は、日本の法学者。専門は商法。関西学院大学教授。 日本を代表する商法学者。第六高等学校時代の恩師であり法哲学者であった三谷隆正の紹介で、田中耕太郎に師事する。その最大の功績は「商法企業法論」の確立である。また大阪市立大学法文学部(現在は法学部と文学部に分離)や神戸学院大学法学部の創設にも関与している。妻はアララギ派の歌人である西原須磨。親族に法学者が多く、民法学者の西原道雄は息子、刑法学者の西原春夫は親戚である。 商法企業法論とは、実質的意義の商法を、企業に特有の生活関係を対象とする私法と考え、体系化する立場である。 京城帝国大学赴任当時、実質的意義の商法をどう定義するかに関しては、師である田中耕太郎博士が提唱した商的色彩論が通説であった。
細野 史郎(ほその しろう、1899年8月1日 - 1989… 細野 史郎(ほその しろう、1899年8月1日 - 1989年5月6日)は、日本の医者。東洋医学の発展に貢献した人物の一人。 京都府綾部市出身。1927年京都帝国大学医学部卒業。幕末から明治時代にかけて活躍した浅田宗伯の流れを汲む漢方医学の医師新妻良輔の弟子となり、東洋医学を学んだ。弟子には坂口弘らがいる。1950年に日本東洋医学会が設立され、坂口らとともに参加した。また、漢方エキス製剤の臨床研究を重ね、今日のエキス製剤による漢方治療の道を開いた。
松方 三郎(まつかた さぶろう、1899年(明治32年)8月… 松方 三郎(まつかた さぶろう、1899年(明治32年)8月1日 - 1973年(昭和48年)9月15日)は、日本の登山家、ジャーナリスト、実業家。ボーイスカウト日本連盟第6代総長。共同通信社専務理事、東京ロータリークラブ会長。従三位勲一等瑞宝章。松方家第3代当主。本名は義三郎。筆名として後藤 信夫(G.N.)など。 日本の登山界の草分けの一人で、キスリング・ザックを日本に紹介し、その名称を定着させた人物でもある。 父は明治の元勲で第4代、第6代内閣総理大臣の松方正義。兄は川崎造船所(現・川崎重工)、川崎汽船、国際汽船などの社長を務めた松方幸次郎(幸次郎は三男、義三郎は十五男の末子である)。
瀬戸 道一(せと みちかず、1899年(明治32年)8月1日… 瀬戸 道一(せと みちかず、1899年(明治32年)8月1日 - 1974年(昭和49年)10月17日)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。咸鏡南道知事、京畿道知事。 瀬戸新左衛門の六男として広島県に生まれる。1924年(大正13年)東京帝国大学法学部独法科を卒業し高等試験に合格。同年朝鮮総督府に出仕し、全羅北道内務部学務課長、同地方課長、江原道財務部長、京畿道財務部長、新義州税関長、江原道警察部長、平安南道警察部長、慶尚北道内務部長、京畿道警察部長などを経て、1942年(昭和17年)4月、咸鏡南道知事に就任した。のち京畿道知事となった。
伊藤 熹朔(いとう きさく、1899年8月1日 - 1967… 伊藤 熹朔(いとう きさく、1899年8月1日 - 1967年3月31日)は、日本の舞台美術家、美術監督である。伊藤熹朔賞に名を残す。 1899年(明治32年)8月1日、東京市神田区(現東京都神田)三崎町に建築家伊藤為吉の四男として生まれる。兄に舞踊家の伊藤道郎、弟に演劇人の千田是也、妹暢子はのちに画家の中川一政を夫とした。 旧制・東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)西洋画科に入学、在学中から土方与志の模型舞台研究所に参加した。1923年(大正12年)に同校を卒業し、1924年(大正13年)、『ジュリアス・シーザー』の装置で舞台美術家としてデビューする。その後、築地小劇場、分裂後の劇団築地小劇場、築地座、新協劇団などの舞台美術を手がけ、舞台美術の先駆者となる。
木内 信胤(きうち のぶたね、1899年〈明治32年〉7月3… 木内 信胤(きうち のぶたね、1899年〈明治32年〉7月30日 - 1993年〈平成5年〉12月5日)は、日本の経済評論家、日蓮宗徒、国際勝共連合代表世話人。位階は従三位。 木内重四郎・磯路夫妻の次男として東京府(現在の東京都)に生まれる。父・重四郎は内務官僚で、母・磯路は三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の次女。従って三菱の3代目総帥・岩崎久弥は母方の伯父にあたり、エリザベス・サンダースホームの創設者・沢田美喜は母方の従妹ということになる。また妹・登喜子は渋沢敬三に嫁ぎ、妻の多代は福澤諭吉の孫娘にあたる。兄・良胤と甥・昭胤(良胤の長男)はともに外交官。元衆議院議員の木内孝胤は昭胤の次男なので、信胤は孝胤の大叔父にあたる。
奥田 雀草(おくだ じゃくそう、1899年7月29日 - 1… 奥田 雀草(おくだ じゃくそう、1899年7月29日 - 1988年12月13日)は、日本の俳人・俳画家。本名は奥田 哲良(おくだ てつろう)。 雀草の句碑は上の12基。この他、洲本市“文学の森” に蜷川虎三、夫人・奥田雅子の句にそれぞれ雀草が絵をつけた合同句碑2基がある。
高橋 禎一(たかはし ていいち、1899年(明治32年)7月… 高橋 禎一(たかはし ていいち、1899年(明治32年)7月27日 - 1987年(昭和62年)5月27日)は、昭和期の検察官、弁護士、政治家。衆議院議員。 広島県芦品郡、のちの福山市芦田町で生まれる。栄治の長男。1925年(大正14年)、日本大学専門部法律科を卒業した。 司法省に入省し、大阪地方裁判所などの検事、水戸地方裁判所次席検事、水戸保護観察所長、東京控訴院(現東京高等裁判所)検事などを歴任。退官後に弁護士を開業した。 1948年(昭和23年)4月の第23回衆議院議員総選挙・広島県第3区補欠選挙に民主党公認で立候補して初当選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙では落選。 1952年(昭和27年)10月の第25回総選挙で再選され、以後、第28回総選挙まで当選した。
篠田 弘作(しのだ こうさく、1899年7月27日 - 19… 篠田 弘作(しのだ こうさく、1899年7月27日 - 1981年11月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(11期)、自治大臣、国家公安委員会委員長を務めた。1974年、勲一等旭日大綬章受章。北海道苫小牧市名誉市民(1981年)。 富山県富山市に、篠田信宣の二男として生まれる。1900年の富山大火による自宅の焼失、信宣の死亡など不幸が相次ぎ、1908年に一家は樺太へ移住、貧困の中で少年時代を過ごした。その後商店の小僧、小学校教諭などを経て、1927年早稲田大学専門部政治経済科を卒業、東京朝日新聞記者となる。山形支局長、千葉支局長を歴任し、1940年経済部長丹波秀伯の強引な勧めにより、水野成夫・南喜一が経営していた「大日本再生製紙」(日本製紙の前身の一つ)に入社する。
藤瀬 新一郎(ふじせ しんいちろう、1899年7月26日 -… 藤瀬 新一郎(ふじせ しんいちろう、1899年7月26日 - 1964年3月20日) は、日本の化学者。東北大学名誉教授。元日本学術会議会員。紫綬褒章受章。正三位勲二等旭日重光章。 1899年、イギリス領マラヤシンガポール植民地で生まれた。東北帝国大学理学部化学科で学び、1923年に卒業。1929年に学位論文『デカヒドロキノリン類の研究』を東北帝国大学に提出して理学博士号を取得。 大学院修了後は、理化学研究所に勤務。1932年、母校の東北帝国大学助教授を命じられた。1933年、東北帝国大学教授に昇格。 戦後、東北大学理学部長を務めた。また、東北大学抗酸菌研究所教授も務めた。1963年に東北大学を退官し、名誉教授となった。
安部 ヨリミ(あべ ヨリミ、1899年7月25日 - 199… 安部 ヨリミ(あべ ヨリミ、1899年7月25日 - 1990年7月28日)は、日本の小説家である。小説家・劇作家として知られる安部公房の母で、安部 よりみ、安部 頼実という表記もある。彼女は公房の出生と前後して生涯で唯一の小説『スフィンクスは笑う』(翌年『光に背く』と改題)を書き上げていた。『スフィンクスは笑う』は2012年に講談社文芸文庫から再刊され、その資料的重要性や文学性の高さなどが改めて注目されている。 結婚前の姓は井村(いむら)といい、北海道上川郡東鷹栖村(現:旭川市東鷹栖)に生まれた。父・井村亀蔵と母・サクはともに現在の徳島県出身で、ヨリミは3人姉弟(姉・ハルメ、ヨリミ、弟・效〈まなぶ〉)の真ん中であった。
近野 信雄(こんの のぶお、1899年7月23日 - 194… 近野 信雄(こんの のぶお、1899年7月23日 - 1944年3月13日)は、山形県出身の大日本帝国海軍軍人。海軍兵学校48期卒業。太平洋戦争中に護送船団を指揮するが戦死。最終階級は海軍少将。従四位勳二等。米沢海軍武官会会員。 1899年(明治32年)に山形県で生まれる。生家の近野家は上杉謙信所縁の一族、毘沙門天信仰。大日本帝国海軍職業軍人の家系。山形県立米沢中学を卒業後、海軍兵学校に入学し、第48期で卒業。海軍軍人としては1942年(昭和17年)頃まで駆逐艦長、戦艦副長など海上勤務が中心であったが、1944年(昭和19年)1月7日に機雷学校教頭兼研究部長となる。 1944年3月には東松2号船団の運航指揮官として前線に戻り、海軍徴用輸送船「国陽丸」に乗船。
宮崎 博史(みやざき ひろし、1899年7月23日 - 19… 宮崎 博史(みやざき ひろし、1899年7月23日 - 1990年12月27日)は、日本の作家。 埼玉県浦和市(現さいたま市)出身。本名・宮崎博。1924年慶応義塾大学経済学部卒。三越に入り、宣伝部長、セントラル映画社宣伝部長を務めた。のちに作家となりユーモア小説を発表。 岸鏋三郎名義の『店員同志』(1931年)と『トンカ先生の恋』(1932年)がサンデー毎日大衆文芸にて佳作入選。
野村 恭雄(のむら やすお、1899年(明治32年)7月23… 野村 恭雄(のむら やすお、1899年(明治32年)7月23日 - 1980年(昭和55年)4月17日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 山口県出身。1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校第33期卒業。陸軍砲工学校第30期を優等で卒業。東京帝国大学物理学科卒業。 陸軍大学校教官を経て、1941年(昭和16年)3月、陸軍大佐に進み、近衛野砲兵連隊長に補され、大東亜戦争に出征する。マレー、シンガポールを攻陥し、スマトラに駐屯した。内地に帰還後は、陸軍兵器行政本部技術課長、陸軍第2技術研究所員、大本営参謀などを歴任し、1945年(昭和20年)3月に陸軍少将に進んだ。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
渡辺 俶(わたなべ あつし、1899年7月23日 - 197… 渡辺 俶(わたなべ あつし、1899年7月23日 - 1974年5月7日)は、日本の政治家、医師。栃木県黒磯町長を務めた。 福島県に生まれる。父は明治期から黒磯で医院を開業していた。1924年(大正13年)、東京帝国大学医学部を卒業し同附属病院に就職。1925年(大正14年)、黒磯に戻り実家の医院で医業に従事した。 1925年から1954年(昭和29年)まで町医を、1925年から1965年(昭和40年)まで栃木県立黒磯高等学校(町立実践女学校)の校医を務めた。また、1941年(昭和16年)から1947年(昭和22年)まで方面委員を務めており、医師としてばかりでなく地域住民の相談相手としても信頼された。
山田 悟六(やまだ ごろく、1898年〈明治31年〉8月21… 山田 悟六(やまだ ごろく、1898年〈明治31年〉8月21日/31日 - 1964年〈昭和39年〉5月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、群馬県佐波郡采女村長。 群馬県佐波郡采女村(現・伊勢崎市)に、群馬県会議員・長沼宗雄の六男として生まれる。13歳の時叔父・山田沢吉の養子となる。群馬県立勢多農林学校卒。 1929年(昭和4年)采女村長に就任。経済安定本部事務嘱託、言語文化研究所嘱託、采女剛志、大正用水各耕地整理組合長、采女農業協同組合長、伊勢崎鉄工代表社員、伊勢崎重工業、伊勢鉄航空工業、日本樽材工業、山田不動産各社長などを務める。 1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙において群馬県から日本進歩党公認で立候補して当選する。
石井 桂(いしい けい、1898年8月21日 - 1983年… 石井 桂(いしい けい、1898年8月21日 - 1983年12月3日)は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)。建築家。工学博士。 埼玉県出身。1923年東京帝国大学工学部建築学科卒。警視庁に入り、建築課長となり、戦災復興院東京建築出張所長、東京都建築局長などを経て、1953年の第3回参議院議員通常選挙において東京地方区から自由党公認で立候補して当選。その後、自由民主党に移り、6年後の1959年の第5回参議院議員通常選挙で落選。その3年後の第6回参議院議員通常選挙で再選。6年後の1968年の第8回参議院議員通常選挙で落選した。この間に第2次岸内閣科学技術政務次官、参議院法務委員長などを歴任した他、自由民主党本部が入居する自由民主会館の設計を務めた(1966年竣工)。
富田 正文(とみた まさふみ、1898年(明治31年)8月2… 富田 正文(とみた まさふみ、1898年(明治31年)8月20日 - 1993年(平成5年)8月27日)は、日本の作家・編集者・福澤諭吉研究者。昭和期から平成期の慶應義塾大学職員・名誉博士。第55回日本学士院賞受章。 茨城県水戸市出身。水戸中学校、慶應義塾大学文学部卒業。水戸藩出身の『時事新報』主幹・石河幹明に認められて在学中からその助手を務めて『福澤諭吉伝』の編纂に参加、卒業後も職員としてその完成に尽力した。『福澤諭吉伝』完成以後も福澤諭吉の事績研究にあたり、それが評価されて1938年(昭和13年)から文学部講師を兼ねて明治文化について講義することになる。 当時の塾長小泉信三も富田に信任をおいて慶應義塾の新塾歌の作詞を担当させた。
森田 沙伊(もりた さい、1898年〈明治31年〉8月20日… 森田 沙伊(もりた さい、1898年〈明治31年〉8月20日 - 1993年〈平成5年〉10月12日)は、日本画家、日本芸術院会員。 北海道出身。本名・才一。旧制東海中学校卒。1923年東京美術学校日本画科卒、帝展、文展に出品、1939年文展特選、1940年より法隆寺壁画模写に従事。戦後は日展に出品、1958年同評議員、1959年日本芸術院賞受賞、1969年日展理事、1975年日本芸術院会員。1976年勲三等瑞宝章受章。