堺 時雄(さかい ときお、旧姓:金井〈かない〉、1898年〈… 堺 時雄(さかい ときお、旧姓:金井〈かない〉、1898年〈明治31年〉8月16日 - 1991年〈平成3年〉)は、日本の写真家。 新潟県新潟市南浜通2番町(現 新潟市中央区中大畑町)の金井写真館を経営する写真師・金井弥一の三男として出生。 1919年(大正8年)3月に新潟中学校を卒業、1922年(大正11年)3月に東京美術学校臨時写真科を卒業、帰郷して父の金井写真館を手伝う。 1922年(大正11年)12月に一年志願兵として岐阜県の各務原陸軍飛行場の飛行第2大隊偵察隊に入隊、1923年(大正12年)11月に陸軍航空兵軍曹に任官、12月に予備役に編入、1924年(大正13年)5月に飛行第2大隊に入隊、9月に召集解除、陸軍航空兵曹長に任官。
宮本 正清(みやもと まさきよ、1898年8月16日 - 1… 宮本 正清(みやもと まさきよ、1898年8月16日 - 1982年11月16日)は、日本のフランス文学者。 高知県高岡郡奈路に農民の子として生まれる。1914年台湾総督府勤務の叔父長曽我部重親に伴われ台湾に渡る。1916年神戸へ移り関西学院中等部編入、1924年早稲田大学仏文学科卒業。1926年まで大学院に在籍し吉江喬松の指導を受ける。1927年日仏文化協会、関西日仏文化学館設立に参加し書記長兼教授。1930年仏国政府より勲章授与、以後数次にわたり授与される。1939年立命館大学予科教授、1942年立命館大学教授、1945年6月15日京都府警察に連行され敗戦まで監禁される。1950年大阪市立大学教授、同年渡仏。
吉田 一穂(よしだ いっすい、1898年8月15日 - 19… 吉田 一穂(よしだ いっすい、1898年8月15日 - 1973年3月2日)は、大正・昭和期の詩人、評論家、童話作家。本名、由雄。
橋本 清吉(はしもと せいきち、1898年〈明治31年〉8月… 橋本 清吉(はしもと せいきち、1898年〈明治31年〉8月14日 - 1955年〈昭和30年〉7月2日)は、日本の内務官僚・政治家。正五位、勲四等。衆議院議員(改進党、当選1回)。 1898年(明治31年)三重県宇治山田町(現在の三重県伊勢市)で、橋本善三郎の二男として生まれた。 旧制 三重県立第四中学校(現:三重県立宇治山田高等学校)、旧制 第一高等学校を経て、1922年(大正11年)3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。卒業直前の1921年(大正10年)10月、高等試験行政科試験に合格し、卒業後1922年5月に、内務省に入り大阪府警察部の警部となる。その後内務省官僚として鳥取県警察部長、警視庁刑事部長、静岡県警察部長、内務省書記官・警保局警務課長、京都府総務部長、警保局保安課長などを歴任。
相生垣 瓜人(あいおいがき かじん、1898年(明治31年)… 相生垣 瓜人(あいおいがき かじん、1898年(明治31年)8月14日- 1985年(昭和60年)2月7日)は、俳人。本名・貫二。 兵庫県加古郡高砂町(現・高砂市)に生まれる。1920年、東京美術学校製版科を卒業。同年に浜松工業学校(現在の静岡県立浜松工業高等学校)に図案科教員として赴任。1928年より「ホトトギス」に、1930年より水原秋桜子の「馬酔木」、阿波野青畝の「かつらぎ」に投句。1933年、秋桜子の「ホトトギス」離反に従い「馬酔木」に所属、同年「馬酔木」同人。1937年「馬酔木」の「新葉抄」選者を任される。 戦中、6年ほど句作を中断したのち、1947年「あやめ」に参加。1948年復刊した「馬酔木」への投句を再開。
三好 康之(みよし やすゆき、1898年(明治31年)8月1… 三好 康之(みよし やすゆき、1898年(明治31年)8月12日 - 1989年(平成元年)11月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 広島県出身。広島地裁判事・三好康親の息子として生まれる。広島高等師範学校附属中学校(現広島大学附属中学校・高等学校)卒業を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第42連隊付となる。1922年(大正11年)12月、歩兵中尉に昇進。1923年(大正12年)2月から10月まで、陸軍航空学校で操縦学生として学んだ。1923年11月、飛行第3大隊付となる。1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵に転科し航空兵中尉に任官し飛行第3連隊付となる。
三木 哲持(みき てつじ、1898年8月12日 - 1984… 三木 哲持(みき てつじ、1898年8月12日 - 1984年8月17日)は、日本の経営者。倉敷紡績社長を務めた。兵庫県出身。 1921年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に倉敷紡績に入社した。 1951年に常務に就任し、専務、1953年12月に副社長を経て、1955年6月に社長に就任。1965年6月に会長を経て、1971年5月には相談役に就任。 1964年11月に藍綬褒章を受章し、1968年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1984年8月17日心不全のために死去。86歳没。
米田 冨士雄(よねだ ふじお、1898年8月11日 – 19… 米田 冨士雄(よねだ ふじお、1898年8月11日 – 1977年3月30日)は、日本の逓信官僚。 1898年、東京府東京市神田仲猿楽町で、弁護士・衆議院議員である米田実の長男として出生。 明治中学校(現・明治大学付属明治高等学校・中学校)、第五高等学校乙文科を経て、東京帝国大学法学部独法科卒業。高等文官試験に合格し、1924年に旧逓信省入省。1929年、陸軍大臣、教育総監などを務めた秋山好古の四女治子と結婚。国際連盟交通委員顧問としてのパリ駐在、国際航空委員会の帝国代表随員、ロンドン国際経済会議の全権随員などを務める。運輸省海運総局運航部長、海務官などを経て、日本船主協会理事長、日本海運振興会会長、海事産業研究所理事長などの要職を歴任。
宇賀田 順三(うがた まさぞう、じゅんぞう、1898年8月1… 宇賀田 順三(うがた まさぞう、じゅんぞう、1898年8月10日 - 1979年5月19日)は、日本の法学者。専門は、憲法・行政学。学位は、法学博士(大阪大学・論文博士・1961年)。九州帝国大学教授、八幡大学(現・九州国際大学)学長・理事長をつとめた。 1898年、茨城県古河市生まれ。 前身の法学校、専門学校から創設に於いて実質的な八幡大学の真の中心人物といえる宇賀田は1952年に学長に就任した。1954年人事に関し学長の宇賀田と一部教授陣との確執が大学紛争に発展し各メディアで報道される事になった。この八幡大学事件は八幡市長、八幡市議会、八幡商工会議所、安川電機株式会社等が両派の斡旋に動き、福岡地方裁判所小倉支部にて調停となったが断裂し、凡そ1年の及ぶ騒動は1955年1月、結局宇賀田の学長辞任(事実上解任)という結果で終止符を打った。
青木 喬(あおき たかし、1898年(明治31年)8月9日 … 青木 喬(あおき たかし、1898年(明治31年)8月9日 - 1991年(平成3年)4月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 東京府出身。医師・青木三奎の息子として生まれる。 1911年(明治44年)に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業[要出典]。東京高師附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)、東京陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第29連隊付となる。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を優等で卒業した。陸大在学中の1926年(大正15年)1月、航空兵科に転じ航空兵中尉となる。
麻生 豊(あそう ゆたか、1898年(明治31年)8月9日 … 麻生 豊(あそう ゆたか、1898年(明治31年)8月9日 - 1961年(昭和36年)9月12日)は日本の漫画家。本名は麻生 豊(あそう みのる)。 大分県宇佐郡横山村(のちの宇佐市)出身(同郡麻生村、あるいは大野郡三重村=のちの豊後大野市とする資料もある)。絵を描くことに加えて機械いじりが好きだったため、高等小学校卒業後に上京し、築地工手学校(のちの工学院大学)機械科へ進学。卒業後はパイロットを志願して千葉県の津田沼にある専門の学校に進学を決めるが、練習機の事故を目前にしたことで恐怖を覚えて夢を諦め(病気のために一時帰郷したとする資料もある)、東京の本郷にあった美術研究所で洋画を学ぶ。 1920年(大正9年)、北澤楽天が主宰する漫画家養成塾「漫画好楽会」に入会。
津村 利光(つむら としみつ、1898年8月9日 - 198… 津村 利光(つむら としみつ、1898年8月9日 - 1989年10月3日)は、昭和期の機械工学者である。専門は材料力学。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大泉 兼蔵(おおいずみ けんぞう、1898年8月8日 - 没… 大泉 兼蔵(おおいずみ けんぞう、1898年8月8日 - 没年不明)は、日本の社会運動家。 新潟県西蒲原郡燕町(現燕市)仙木の貧農の長男に生まれた。小学校卒業後農業に従事。小作農の貧しさから1920年春、仙木に農民組合を組織、1921年日本農民組合(日農)関東同盟に加盟、同組合仙木支部員、新潟県連合会執行委員として農民運動で活動。1925年全日本無産青年同盟と労働農民党に加入。1927年12月、オルグとして新潟に来ていた河合悦三の勧めで日本共産党に入党、中越地区細胞に所属。1928年、三・一五事件で検挙されたが党員であることが発覚せず約1か月で釈放された。のち上京し、1929年2月頃からしばらく自由労働者集団の中に入っていた。
武永 貞一(たけなが ていいち、1898年〈明治31年〉8月… 武永 貞一(たけなが ていいち、1898年〈明治31年〉8月5日 - 没年不詳)は、日本の実業家、政治家。元武永明文舎印刷工場経営主、今市水道取締役。 元首相竹下登の伯父。元島根県会議員竹下勇造の実兄。 旧制島根県立杵築中学校(現・島根県立大社高等学校)卒業。1925年(大正14年)より1955年(昭和30年)まで今市町議から出雲市議を連続つとめ、また同商工会議所会頭等を歴任。 趣味は書画、骨董、旅行。宗教は真宗。
大野 純一(おおの じゅんいち、1898年8月5日 - 19… 大野 純一(おおの じゅんいち、1898年8月5日 - 1982年1月31日)は、日本の経済学者。専門は財政学。初代小樽商科大学学長。 北海道滝川町出身。1919年小樽高等商業学校(現小樽商科大学)卒業。1922年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部卒業。同年小樽高等商業学校講師。同年小樽高等商業学校助教授。 1924年小樽高等商業学校教授。1927年から1931年までドイツに留学。1945年小樽経済専門学校図書館主幹。1946年から校長を務め、1947年には男女共学制度を施行。1949年から初代小樽商科大学学長。1950年小樽セーリング協会会長。 1952年に小樽商科大学短期大学部を設置。1962年定年退官、小樽商科大学名誉教授。
髙橋 俊人(たかはし としんど、1898年8月4日 - 19… 髙橋 俊人(たかはし としんど、1898年8月4日 - 1976年1月13日)は日本の歌人、郷土史家。 神奈川県藤沢生まれ。東洋大学専門部倫理学東洋文学科卒業。埼玉県(浦和中学校)、三重県(桑名中学校、津高等女学校、富田中学校)、東京都(山脇学園)、神奈川県(藤沢中学校・高等学校)などの中学校・高等学校の教諭を歴任。 大正末年、若山牧水の短歌結社「創作」に参加。一方、1928年、埼玉県立浦和中学校の学生とともに「菁藻」を創刊(1942年「創作」に合併)、加藤克巳、常見千香夫らを育てた。 1952年には藤沢市を拠点に、平井啓朔、河口一紀らと「まゆみ」を創刊。そのかたわら、藤沢市の依嘱により郷土史研究に従事。
高石 幸三郎(たかいし こうざぶろう、1898年(明治31年… 高石 幸三郎(たかいし こうざぶろう、1898年(明治31年)8月4日 - 1986年(昭和61年)1月28日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、埼玉県川口市長(第4代・第7代)。 埼玉県北足立郡川口町(現:川口市)で、鋳物商・高石喜太郎、きの夫妻の三男として生まれる。1918年、中央大学経済科を卒業し、実家の高石喜太郎商店を継承した。 三協鋳造取締役会長、埼玉燃料取締役社長、高石本店会長、関東銑鉄取締役などを務めた。 1933年、川口市会議員となり、同議長も務めた。1938年4月28日、第4代川口市長に就任し、1947年1月15日まで在任。この間、第1回市民体育大会の開催、下水道第1期事業の着手、戦時下の対応、戦災の復興に尽力し、全国市長会幹事、川口国民健康保険組合理事長を務めた。
鈴木 憲一(すずき けんいち、1898年8月2日 - 197… 鈴木 憲一(すずき けんいち、1898年8月2日 - 1979年9月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。参議院議員(1期)。 神奈川県都筑郡田奈村大字恩田上恩田(現横浜市)に於いて農家の鈴木重彦とツルの長男として生まれる。初代は正徳3年(1713年)に没し、代々弥兵衛や六右衛門、茂右衛門などと名乗った。都筑郡尋常高等田奈小學校(現在の横浜市立田奈小学校)で学ぶ。1919年神奈川県師範学校本科第一部(現・横浜国立大学教育学部)を卒業。同年、母校である都筑郡尋常高等田奈小學校の訓導となった。のち、小学校校長、県視学、県教職員組合長などを務める。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で神奈川県から無所属で立候補して当選する。
浜田 幸雄(濱田 幸雄、はまだ たかお、1898年8月1日 … 浜田 幸雄(濱田 幸雄、はまだ たかお、1898年8月1日 - 1974年3月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)、参議院議員(1期)。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問 。位階は従三位、勲等は勲二等。
大内 経雄(おおうち つねお、1898年〈明治31年〉8月1… 大内 経雄(おおうち つねお、1898年〈明治31年〉8月1日 - 1966年〈昭和41年〉12月27日)は、日本の経営学者。 宮城県生まれ。東北帝国大学経済学部卒。1960年「欧米に於ける現場監督制度の研究」で東北大学経済学博士。立教大学経済学部教授、1964年定年、名誉教授、青山学院大学教授。1964年『フォアマン制度の研究』で日経・経済図書文化賞受賞。
中村 俊夫(なかむら としお、1898年(明治31年)7月3… 中村 俊夫(なかむら としお、1898年(明治31年)7月30日 - 1984年(昭和59年)7月7日)は、大正末から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員、全日本スキー連盟副会長。 兵庫県出身。1923年(大正12年)京都帝国大学法学部法律学科を卒業した。 弁護士となる。日本冷却器専務取締役、神戸保護観察所嘱託保護司、兵庫県司法保護委員、同県体育連盟副会長、同県教育審議会委員などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で兵庫県第2区から民主党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。その後、第24回、第26回総選挙に立候補したがいずれも落選した。 以後、全日本スキー連盟副会長、日本体育協会(現日本スポーツ協会)評議員、兵庫県スキー連盟会長などを務めた。
大野 季夫(おおの すえお、1898年〈明治31年〉7月30… 大野 季夫(おおの すえお、1898年〈明治31年〉7月30日 - 没年不明)は、昭和時代の内務官僚。拓務官僚。朝鮮総督府官僚。慶尚南道知事。 大野淳平の六男として香川県豊田郡姫之江村(豊田郡豊浜町、三豊郡豊浜町を経て現観音寺市)に生まれる。1922年(大正11年)東京帝国大学法学部政治科を卒業。在学中の1921年(大正10年)に高等試験に合格した。内務省に入り新潟県地方事務官商工水産課長、鹿児島県書記官経済部長、拓務書記官朝鮮部勤務、東亜課長、大臣官房会計拓務局東亜第一各課長、拓務大臣秘書官、大臣官房秘書課長、朝鮮総督府秘書官兼総督府事務官総督官房などを経て、1943年(昭和18年)3月、慶尚南道知事に就任した。
児玉 忠康(こだま ただやす、1898年 <明治31年> 7… 児玉 忠康(こだま ただやす、1898年 <明治31年> 7月29日 - 1990年 <平成2年> 10月27日)は、日本の経営者。日本郵船社長、会長を務めた。位階は従三位。広幡忠朝の三男として生まれ、兒玉秀雄の婿養子となった。 東京都出身。1922年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に日本郵船に入社。1947年1月に取締役に就任し、1952年12月に常務を経て、1958年11月に副社長に就任し、1961年1月には社長に昇格。1965年11月に会長に就任し、1971年5月には相談役に就任。 1990年10月27日肺炎のために東京都新宿区の国立病院医療センターで死去。92歳没。墓所は多磨霊園(8-1-17-1)。
沖野 亦男(おきの またお、1898年(明治31年)7月27… 沖野 亦男(おきの またお、1898年(明治31年)7月27日 - 1978年(昭和53年)3月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 中国勤務が長く、“海軍の長江男”との異名があった中華民国専門家である。第二次世界大戦で片足を失って捕虜となる。戦後は、傷痍軍人会の創設、障害者スポーツの振興に尽力した。傷痍軍人会専務理事、世界歴戦者連盟(WVF - World Veterans Federation)理事。 府立四中を経て、海軍兵学校卒業。沖野は海兵47期で光延東洋、山本善雄、城英一郎らが同期生である。1920年(大正9年)少尉任官。大尉時代に海軍大学校選科学生として中国語を学び、第一遣外艦隊参謀兼副官として、司令官・米内光政を補佐している。
工藤 一三(くどう かずぞう、1898年7月27日 - 19… 工藤 一三(くどう かずぞう、1898年7月27日 - 1970年7月2日)は、日本の柔道家(講道館9段・大日本武徳会範士)。 戦前の明治神宮競技大会等で活躍して古賀残星の選抜した“柔道十傑”の1人に数えられ、旧制浦和高校助教授を経てドイツに留学し柔道の普及に尽力。後には警視庁にて逮捕術制定の任に当たって講道館審議委員や全日本柔道連盟の理事を務めるなど、柔道界の大家として知られた。 青森県弘前市富田に生まれ富山県で育った。県立高岡中学校(現・県立高岡高校)在学中に磯貝一の実兄である誠三(のち6段)の手解きを受け、1916年に同校を卒業後は上京して東京高等師範学校体育科に進学し、生来の研究熱心も手伝い永岡秀一の指導のもとで以前にも増しその腕を上達させた。
竹中 勝男(たけなか かつお、1898年(明治31年)7月2… 竹中 勝男(たけなか かつお、1898年(明治31年)7月27日 - 1959年(昭和34年)1月26日)は、昭和期の社会福祉学者、政治家。参議院議員(1期)、同志社大学教授。文学博士。 長崎県北松浦郡平戸出身。1921年(大正10年)同志社大学文学部神学科を卒業。同年米国に留学し、ロチェスター神学校(英語版)でキリスト教社会学を学ぶ。1922年(大正11年)シカゴ大学に移り、1923年(大正12年)M. A. を取得した。帰国して1924年(大正13年)東京帝国大学大学院修学。東京学院で教え、日本基督教連盟幹事も務めた。1928年(昭和3年)同志社専門学校教員に就任。1936年(昭和11年)同志社大学文学部教授となり、社会学、社会政策、社会福祉学を担当。
今松 治郎(いままつ じろう、1898年7月25日 - 19… 今松 治郎(いままつ じろう、1898年7月25日 - 1967年10月14日)は、日本の内務官僚、政治家。総理府総務長官(初代)、衆議院議員(5期、自由民主党)。 愛媛県北宇和郡二名村(現宇和島市)出身。1922年、東京帝国大学法学部法律学科(仏法)を卒業後、内務省に入省。主に警察畑を歩み、1940年、和歌山県知事、1943年、静岡県知事となる。戦後は公職追放(1946年 - 1951年)を経て、1952年の第25回衆議院議員総選挙で旧愛媛3区から当選する。1957年第1次岸改造内閣で初代の総理府総務長官に就任した。 岸信介につき、1962年の岸派分裂後も最後まで岸派に残った。 1967年10月14日、死去した。
白石 凡(しらいし ぼん、1898年7月25日 - 1984… 白石 凡(しらいし ぼん、1898年7月25日 - 1984年3月31日)は、朝日新聞社元企画部顧問。 山口県出身。京都帝国大学卒業後の1925年に大阪朝日新聞へ入社。その後、学芸部長、出版局長、論説主幹、企画部編集顧問を歴任。 文芸部記者時代に、横山エンタツ・花菱アチャコと引き合わせて秋田實を漫才作家に転身させるきっかけを作り、日本の演芸史の大きなターニングポイントの立役者となった。 アジア・アフリカ作家会議日本評議会委員長や日中文化交流協会常任理事など務めるほかに、1974年から1981年まで大佛次郎賞選考委員も務めた。 『サンチョ・パンサの言葉』(中央公論社)などの著作がある。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
井上 なつゑ(いのうえ なつえ、1898年〈明治31年〉7月… 井上 なつゑ(いのうえ なつえ、1898年〈明治31年〉7月25日 - 1980年〈昭和55年〉11月13日)は、日本の看護師、政治家。位階は正五位。 参議院議員。看護師の地位向上に尽力した。 兵庫県加東郡福田村で、井上音松の娘として生まれる。1913年(大正2年)京都産婆学校で修業し産婆検定試験に合格。1917年(大正6年)日本赤十字社大阪支部病院(現大阪赤十字病院)救護看護婦養成所(現大阪赤十字看護専門学校)を卒業。1922年(大正11年)同病院看護婦長に就任。1924年(大正13年)応召して樺太陸軍病院で勤務した。女子英学塾(現津田塾大学)修了後、1928年(昭和3年)イギリスに留学し、1929年(昭和4年)ロンドン大学ベットフォード女子専門学校公衆衛生看護学科を卒業した。
林 勇蔵(はやし ゆうぞう、1898年(明治31年)7月25… 林 勇蔵(はやし ゆうぞう、1898年(明治31年)7月25日 - 1970年(昭和45年)12月7日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 鹿児島県姶良郡、のちの国分市(現霧島市)で生まれた。。1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校第32期卒業。1929年(昭和4年)陸軍大学校第41期卒業。 1939年(昭和14年)8月、浜松陸軍飛行学校教官、1940年(昭和15年)3月、飛行第98戦隊長を経て、同年8月、陸軍航空兵大佐に進む。ついで1941年(昭和16年)8月、浜松陸軍飛行学校附白城子陸軍飛行学校教官兼浜松陸軍飛行学校教官、1944年(昭和19年)6月、三方原教導飛行団司令部附を経て、1945年(昭和20年)3月、陸軍少将に進み、同年6月、独立混成第126旅団長に補され、天草諸島で本土決戦に備える中で終戦を迎えた。
糸魚川 祐三郎(いといがわ ゆうざぶろう、1897年8月22… 糸魚川 祐三郎(いといがわ ゆうざぶろう、1897年8月22日 - 1967年11月17日)は、日本の商学者、教育者。横浜高等商業学校(後の横浜国立大学の前身のひとつ)校長、和歌山大学学長、松商学園短期大学(後の松本大学松商短期大学部)学長などを歴任した。 岐阜県恵那郡坂下町に生まれ、1915年に松本商業学校(後の松商学園高等学校)、1918年に小樽高等商業学校(後の小樽商科大学)、1922年に東京高等商業学校(後の一橋大学)専攻部を、それぞれ卒業した。 1923年に、小樽高等商業学校教授となり、1924年から1928年まで、簿記・商業学研究を目的として留学し、イギリス、ドイツ、アメリカ合衆国を回り、帰国後は、小樽高等商業学校に戻ったが、後には文部省督学官、さらに1942年の制度改正により教学官となった。
三村 一(みむら はじめ、1897年8月21日 - 1980… 三村 一(みむら はじめ、1897年8月21日 - 1980年4月28日)は、日本の農学者。専門は畜産学。 長野県諏訪郡落合村(現富士見町)生まれ。旧制長野中学(長野県長野高等学校)、盛岡高等農林学校を経て、大正12年(1923年)京都帝国大学農学部卒業。昭和2年(1927年)九州帝国大学助手、同16年(1941年)助教授、同24年(1949年)宮崎大学教授、同30年(1955年)信州大学農学部教授、同37年(1962年)同大学長を歴任。同43年(1968年)退官、同年11月、勲二等旭日重光章受章。主な研究内容にはニワトリの人工授精や、日本在来馬に関するものがある。 弟の三村二は東京医科歯科大学歯学部教授、政治家の小川平吉は叔父、同じく政治家の小川一平、小川平二、外交官の小川平四郎は従兄弟にあたる。
有賀 幸作(ありが こうさく、1897年(明治30年)8月2… 有賀 幸作(ありが こうさく、1897年(明治30年)8月21日 - 1945年(昭和20年)4月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。戦艦大和最後の艦長として有名である。長野県南信地方に多い姓である有賀は、「ありが」ではなく「あるが」と読む例が多いが、当人は相手が聞き返すことを嫌い、ありがの読み方で通した。軍帽裏のネーム刺繍もアリガとしていた。 長野県上伊那郡朝日村(現辰野町)に金物商・村長、有賀作太郎の長男(惣領)として生まれた。父の作太郎は旅順攻囲戦に参加して二〇三高地戦で殊勲をあげ、功六級金鵄勲章と多額の年金を授かるにいたった勇士だったが、息子の軍人志願には反対した。有賀は活発な少年として育ち、長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を卒業。
菊田 七平(きくた しちへい、1897年(明治30年)8月2… 菊田 七平(きくた しちへい、1897年(明治30年)8月20日 - 1976年(昭和51年)11月16日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、茨城県議会議長。 茨城県新治郡真鍋町殿里(現在の土浦市殿里)で、旧家・菊田広恵の長男として生まれる。1912年(大正元年)茨城県立土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)を卒業した。 土浦商工会議所会頭、湖南通運社長、環産業社長、高津油機社長、霞ケ浦食品工業社長、日神酒造社長、丸果生果社長、関東銀行(現在の筑波銀行)取締役会長などを務めた。その他、茨城県農業会長、同県蚕種協同組合長、同県観光連盟会長、新治郡真壁町農会長、同町産業組合専務理事などに在任した。
三田 良蔵(みた りょうぞう、1897年 <明治30年> 8… 三田 良蔵(みた りょうぞう、1897年 <明治30年> 8月20日 - 1970年 <昭和45年> 6月2日)は、日本の経営者、医学博士。参天製薬社長を務めた。位階は正五位。 大阪府大阪市出身。1919年に千葉医学専門学校薬学科を卒業。島商店での勤務を経て、1936年には参天堂に転じ、1940年には社長に就任し、1952年には三田製薬社長も兼任。 1960年10月に藍綬褒章を受章し、1967年11月に勲三等瑞宝章を受章。。 1970年6月2日脳血栓のために死去。72歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
松尾 俊郎(まつお としろう、1897年8月19日 - 19… 松尾 俊郎(まつお としろう、1897年8月19日 - 1979年7月20日)は、日本の地理学者。学位は、文学博士(駒澤大学・1969年)(学位論文『関東山地東辺地帯における集落の人文地理学的研究』)。横浜国立大学教授、駒澤大学教授等を歴任。 佐賀県出身。東京帝国大学卒業。文部省に入省。1949年まで図書監修官として国定地理教科書の編集など行う。のち横浜国立大学教授に就任。1963年3月、横浜国立大学を停年退官。1966年から駒澤大学教授をつとめ、地名を研究。 1969年『関東山地東辺地帯における集落の人文地理学的研究』で、駒澤大学より文学博士の学位を取得した。1973年3月に駒澤大学教授を退任。
福田 力之助(ふくだ りきのすけ、1897年(明治30年)8… 福田 力之助(ふくだ りきのすけ、1897年(明治30年)8月17日 - 1982年(昭和57年)3月24日)は日本の裁判官、弁護士。 東京府南葛飾郡亀戸町(現東京都江東区亀戸)出身。家は金物屋だったがそれが潰れ、商家の小僧となり、青山師範学校卒業、東京市砂町小学校訓導となった後、1922年(大正11年)4月中央大学法律科専門部卒業、1925年(大正14年)12月司法官試験合格、同月高等試験司法科合格、1926年(大正15年)4月司法官試補として東京地方裁判所所属、1927年(昭和2年)12月仙台地方裁判所予備判事転任、福島地方裁判所に次いで1928年(昭和3年)10月山形地方裁判所判事転任、同鶴岡支部所属。
橋爪 檳榔子(はしづめ びんろうじ、1897年8月17日 -… 橋爪 檳榔子(はしづめ びんろうじ、1897年8月17日 - 1963年11月8日)は、日本の医師、薬学者、日本における医療評論家の先駆者とされる。本名は恵(めぐみ)。男性。 長野県松本市出身。弟に橋爪健、橋爪克巳(1903-1983)がいる。1922年東京帝国大学医学部薬学科卒、1927年千葉医科大学卒。三共製薬社員、別府化学薬品代表、日本薬学会編集主任。川端康成の友人。
川端 茅舎(かわばた ぼうしゃ、1897年〈明治30年〉8月… 川端 茅舎(かわばた ぼうしゃ、1897年〈明治30年〉8月17日 - 1941年〈昭和16年〉7月17日)は、東京都出身の日本の俳人。本名は信一(のぶかず)。別号に遊牧の民・俵屋春光。日本画家の川端龍子は異母兄。 当初は画家を志し岸田劉生に師事したが、病のために断念し俳句に転向、高浜虚子に師事して「ホトトギス」に拠る。画家の眼を生かし写生に徹しつつも格調の高い句を物し、松本たかし、中村草田男などと共に「四S」以降の「ホトトギス」の代表的俳人として活躍した。 東京市日本橋蛎殻町で生まれ、腹違いの兄である龍子とともに育てられる。父信吉は紀州藩の下級武士、母は信吉の弟が経営する病院の看護婦。父は弟の病院で手伝いとして働いていたが、その後煙草の小売商を始める。
木村 義雄(きむら よしお、1897年(明治30年)8月16… 木村 義雄(きむら よしお、1897年(明治30年)8月16日 – 1988年(昭和63年)5月27日)は、日本の医師、政治家。 1897年、山口県大津郡仙崎町(現・長門市仙崎)に生まれる。1921年、岡山医学専門学校を卒業。 1937年に妻の従兄弟で当時の日置村長の安倍寛(安倍晋三の祖父)の勧めで大津郡日置村に産婦人科医院を開業。1946年に安倍が死去すると、安倍が出馬を予定していた第22回衆議院議員総選挙に、安倍の長男である安倍晋太郎が被選挙権を得るまでのつなぎ役として出馬し当選するも、戦時中に地元の大政翼賛会の幹部を務めた事により公職追放され、衆議院議員の地位を失う。 1965年から油谷町長を1期務め、1971年には勲四等瑞宝章を受章。
下村 彌一(しもむら・やいち、1897年(明治30年)8月1… 下村 彌一(しもむら・やいち、1897年(明治30年)8月16日 - 1990年(平成2年)4月6日)は、日本の実業家。坂本龍一の祖父。 長崎県諫早市出身。下村代助の三男。生家は小さな農家である。1905年に父の代助は家族を連れ佐世保に移住し、市役所の臨時雇いの雑用夫として働いた。 現在の佐世保市立白南風小学校を卒業後、家が貧しかったため佐世保海軍工廠の見習工になった。しかし、進学が諦め切れず旧制長崎県立佐世保中学校の校長を訪ねて直談判し、試験を受けて中学4年に編入学する。1919年に旧制第五高等学校文科甲類に入学し、池田勇人と友人となり、1922年に卒業。1925年に京都帝国大学法学部を卒業し、小学校時代の恩師の娘・美代と結婚。
兵頭 儁(ひょうどう まさる、1897年(明治30年)8月1… 兵頭 儁(ひょうどう まさる、1897年(明治30年)8月16日 - 1946年(昭和21年)4月16日)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。全羅南道知事。 兵頭清行の五男として愛媛県北宇和郡宇和島町(現宇和島市)に生まれる。1924年(大正13年)東京帝国大学法学部政治科を卒業する。朝鮮総督府に奉職し、平安南道属兼警部、慶尚南道地方課長、総督府水産課長、咸鏡南道、慶尚南道各警察部長を経て、1937年(昭和12年)釜山税関長に就任。1939年(昭和14年)7月、大邱税務監督局長となり、1942年(昭和17年)11月、総督府総務局企画室長に任じた。その後、全羅南道知事を務めた。
織田 収(おだ おさむ、明治30年(1897年)8月15日 … 織田 収(おだ おさむ、明治30年(1897年)8月15日 - 昭和63年(1988年)3月1日)は日本の実業家、政治家、ジャーナリスト。元鳥取県会議員。 山陰のジャーナリストの大御所として、政治・経済・文化・スポーツなど幅広い分野で活動した。 鳥取県米子市東町生まれ。父・永太郎は明治37年(1904年)に『角磐日報』を創刊した米子地方におけるジャーナリズムの先駆者だった。 米子中学(現在の米子東高校)を経て大正9年(1920年)7月東亜同文書院卒業(第17期生)。大正12年(1923年)4月大阪毎日新聞社入社、新聞記者となる。 昭和7年(1932年)12月山陰日日新聞社主幹として帰郷。昭和12年(1937年)4月鳥取県会議員補欠選挙に初当選、以来戦後の昭和21年(1946年)公職追放になるまで県政に参画、昭和15年(1940年)12月大政翼賛会鳥取県支部が結成されると庶務部長に就任、昭和20年(1945年)まで翼賛運動に専念。
明石 嘉聞(あかし かもん、1897年8月15日 - 197… 明石 嘉聞(あかし かもん、1897年8月15日 - 1973年10月4日)は、日本の医師。医学博士。財団法人聖マリアンナ会、財団法人日本明星育英会、聖マリアンナ医科大学の創立者で理事長を務めた。 東京府に生まれる。生家はカトリック信者であった。1928年に京都府立医科大学を卒業。1929年に滋賀県八幡町(現・近江八幡市)で開業医となる。1941年には神奈川県川崎市に東横医院を開院する。 妹の志都香は渡米してニューヨークで修道女となっていたが、太平洋戦争中の1944年に死去。戦後届いた遺言に「キリスト教精神に基づく医療・教育・福祉事業」の実現を望む内容が記されていたことから、明石はそれを実行するべく1947年に聖マリアンナ会を設立した。
小出 浩平(こいで こうへい、1897年8月14日 - 19… 小出 浩平(こいで こうへい、1897年8月14日 - 1986年3月17日)は、日本の音楽教育学者。 新潟県南魚沼郡塩沢町(現南魚沼市)出身。1921年東京音楽学校甲種師範科卒。南西海小学校・香川師範学校・東京赤坂小学校・同城東小学校教員。1937年学習院教授。1964年東邦音楽大学教授、のち名誉教授。日本教育音楽協会会長。初等音楽教育の重鎮で、学習院時代、初、中等科の明仁皇太子、現天皇徳仁に音楽を教えた。1947年勲六等。
橋本 彦七(はしもと ひこしち、1897年(明治30年)8月… 橋本 彦七(はしもと ひこしち、1897年(明治30年)8月11日 - 1972年(昭和47年)9月12日)は、日本の政治家、技術者。熊本県水俣市長(4期)。日本窒素肥料株式会社(現・チッソ)水俣工場勤務時代、水銀触媒を用いたアセトアルデヒドと酢酸の合成法を発明。1938年(昭和6年)から1946年(昭和21年)まで水俣工場長を務めた。 現在の北海道札幌市に南部家の四男として生まれる。旧制札幌第一中学校卒業後、1916年(大正5年)、東京市日本橋在住の橋本家の養子となる。1919年(大正8年)、東京高等工業学校電気化学科(現・東京工業大学)卒業。同年、日本窒素肥料(現・チッソ)に入社。 1931年(昭和6年)、橋本らは、カーバイトからアセチレンを作り,これを水銀触媒を使ってアセトアルデヒドに変える一連の合成方法を発明し、特許原簿に登録した。
小山 敬三(こやま けいぞう、1897年〈明治30年〉8月1… 小山 敬三(こやま けいぞう、1897年〈明治30年〉8月11日 - 1987年〈昭和62年〉2月7日)は、昭和期の洋画家。 父と祖父は小山久左衛門(世襲名)と称した小諸城下・荒町の豪商であり、商家でありながら馬廻り格の士分待遇を小諸藩から受けていた。衆議院議員・初代小諸市長・参議院議員等を務めた小山邦太郎は兄。 出身地の小諸市では、小山敬三の名を冠した「小山敬三記念小諸公募展」が毎年全国から浅間山、千曲川、小諸の風景等を描いた作品を募り、市立小諸高原美術館・白鳥映雪館にて入賞・入選作品展が開催されている。 国際結婚がまだ珍しかった時代にフランス人女性と結婚したことでもしられる。実子はない。自由民主党・三木派の大番頭といわれた三木武夫内閣の官房長官・井出一太郎の妻は、小山邦太郎の女子である。
赤松 常子(あかまつ つねこ、1897年8月11日 - 19… 赤松 常子(あかまつ つねこ、1897年8月11日 - 1965年7月21日)は、日本の労働運動家、政治家。参議院議員(3期)。日本社会党初代婦人部長。 山口県都濃郡徳山村(現・周南市)生まれ。祖父は徳応寺住職の赤松連城。兄に宗教学者の赤松智城、衆議院議員の赤松克麿がいる。 徳山高等女学校(現山口県立徳山高等学校)を経て、1913年、京都女子専門学校入学。在学中は、賀川豊彦の社会事業に協力。その後、2年で大学を中退。1923年、上京し労働運動に取り組む。同年9月に発生した関東大震災における賀川豊彦の罹災者救済活動に協力。 1925年日本労働総同盟婦人部にはいる。この間、野田醤油労働争議に参加。1940年、日本労働総同盟は自主解散し、大日本産業報国会に組み入れられた。
藤原 あき(ふじわら あき、1897年8月10日 - 196… 藤原 あき(ふじわら あき、1897年8月10日 - 1967年8月8日)は、日本のタレント、政治家。位階は正五位。 自由民主党参議院議員(1期)。資生堂美容学校校長。藤原義江の元妻。中上川彦次郎の庶子。参議院議員時代は本名の中上川(なかみがわ)アキで活動した。旧姓は宮下(前の夫の姓)。筆名、柳園子。 東京府出身。福澤諭吉の実姉:婉の長男であり、山陽鉄道の創設者で三井財閥の近代化に尽力した中上川彦次郎の三女(庶子、母は彦次郎の妾・つね)。本名はアキ。女子学習院に学ぶ。同級生には後に参議院議員になる加藤シヅエがいた。 1913年、17歳のときに一度の見合いもなく、19歳年上の東京京橋の開業医:宮下左右輔(みやした・そうすけ)と強制的に結婚させられて宮下姓となり、二女をもうける。
石黒 敬七(いしぐろ けいしち、1897年8月10日 - 1… 石黒 敬七(いしぐろ けいしち、1897年8月10日 - 1974年10月1日)は、日本の柔道家(講道館8段、大日本武徳会10段)、随筆家、古写真収集家。徳川夢声が創設した「ゆうもあくらぶ」の二代目会長。レジオンドヌール勲章受章者。長男は写真コレクションを引き継いだ石黒敬章。 新潟県柏崎市出身。父親は越後縮布の行商人で、七男なので敬七と名付けられた。 中学時代から柔道に熱を入れ、18歳で講道館に入門。早稲田大学政治経済学部に入学し、学生時代は柔道部の主将を務めた。1922年(大正11年)に同大を卒業。1924年(大正13年)柔道普及のため海外周遊に出発、フランス、英国、トルコ、エジプトなどの陸軍・警察で柔道を教え、ルーマニアでは国王から王冠章を授与された。