小幡 儼太郎(おばた げんたろう、1848年12月17日(嘉… 小幡 儼太郎(おばた げんたろう、1848年12月17日(嘉永元年11月22日)– 1909年(明治42年)7月8日)は、明治期の漢学者、政治家。衆議院議員。幼名・正己。号・楽山、水哉。 紀伊国名草郡和歌山城下(和歌山県和歌山区を経て現和歌山市)で、和歌山詰、紀伊田辺藩士・小幡儀左衛門の長男として生まれる。父は早くに没した。 1868年(明治元年)京都で僧・天章に漢学を師事し、その後、大坂の並河華、兵庫の菅野健助に学び、さらに、東京の安井息軒、塩谷宕陰、伊勢の土井有恪に師事した。牟婁郡田辺城下で漢学塾を開き子弟の教育を行った。 1873年(明治6年)第七大区学区取締に就任し、同区一小区長、西牟婁郡書記を歴任し、1881年(明治14年)に退職。
川合 清丸(かわい きよまる、嘉永元年11月21日(1848… 川合 清丸(かわい きよまる、嘉永元年11月21日(1848年12月16日) - 大正6年(1917年)6月24日)は、神道・禅・儒学の三道を融合して、「日本の国教」を確立しようとした思想家、宗教家。字は子徳、号は山陰道士、無々道人。 伯耆国箆津(現、鳥取県琴浦町)出身。父親が太一垣神社の神職であったので、幼少から神道を学び、太一垣神社の社掌となった。 明治6年(1873年)に大神山神社の権宮司となる。大神山神社と大山寺との関係から生じた神仏分離問題に関する庶務で東京に出た時に、神仏への信仰や道徳心の荒廃した風潮を目の当たりにしたという。これをきっかけに、神道のみならず儒教・仏教・キリスト教や西洋の学問を広く学ぶ必要を痛感し、遊学した。
阿部 孝助(あべ こうすけ、1848年12月16日(嘉永元年… 阿部 孝助(あべ こうすけ、1848年12月16日(嘉永元年11月21日) - 1926年(大正15年)6月19日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 江戸生まれ。東京市下谷区上野で呉服商を営む。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において東京府第8区から無所属で立候補して当選した。衆議院議員は1期務め、同年9月の第4回衆議院議員総選挙は不出馬。1896年6月の東京市会議員選挙に下谷区から立候補して当選した。同じく東京市会議員であった千澤専助が設立した下谷銀行の取締役も務めている。1926年死去。
三宅 秀(みやけ ひいず、嘉永元年11月17日(1848年1… 三宅 秀(みやけ ひいず、嘉永元年11月17日(1848年12月12日) - 昭和13年(1938年)3月16日)は、日本の医師・洋学者・医学者・貴族院議員。東京大学で最初の医学博士、のち名誉教授。幼名は復一(またいち)。
川上 操六(かわかみ そうろく、1848年12月6日〈嘉永元… 川上 操六(かわかみ そうろく、1848年12月6日〈嘉永元年11月11日〉- 1899年〈明治32年〉5月11日)は、明治期の日本の陸軍軍人。旧薩摩藩臣。官位は参謀総長・陸軍大将。栄典は従二位・勲一等・功二級・子爵。桂太郎、児玉源太郎とともに、「明治陸軍の三羽烏」とされる。 長男の素一は陸軍歩兵少佐、娘は小原伝陸軍中将に嫁ぐ。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城外吉野村中ノ町にて、島津氏譜代の臣川上伝左衛門親徳の第3子として生まれる。幼名は宗之丞。母は肝付氏の五郎兵衛の娘のなか子。兄に藤七親綱、弟に茨城県警察部長となった親義がいる。その下の弟である丈一は西南の役で戦死した。川上氏は島津家一族で、その庶流であったが、数代前に家運が衰微したため、祖父の時に鹿児島城下より寒村の吉野村に移っていた。
黒川 文哲(くろかわ ぶんてつ、嘉永元年11月3日(1848… 黒川 文哲(くろかわ ぶんてつ、嘉永元年11月3日(1848年11月28日) - 1916年(大正5年)11月4日)は、豊後国直入郡竹田(現・大分県竹田市)出身の医師・政治家・実業家。大分の町、郡会議員、県会副議長を務めるとともに、竹田中学校や竹田駅、黒川文庫(現在の竹田市立図書館の前身)の設立に尽力する。 嘉永元年11月(西暦1848年11)、直入郡竹田(現・大分県竹田市)に黒川正章の嫡男として生まれた。黒川家は18世紀前半から続く医家(藩医)であり、文哲は黒川家の9代目に当たる。 岡藩(竹田藩)の藩校である由学館に学び、元治元年(1864年)には外科医の佐久間純徳に師事した。明治元年12月(1869年1月)には医学修行のために上京を命じられ、明治2年4月(1869年)に東京の岡藩御屋敷に入った。
伊瀬知 好成(いせち よしなり、1848年11月23日(嘉永… 伊瀬知 好成(いせち よしなり、1848年11月23日(嘉永元年10月28日)- 1922年(大正11年)9月29日)は、明治から大正期の日本陸軍軍人、政治家。貴族院議員。陸軍中将正三位勲一等功四級男爵。 薩摩藩士。薩摩国鹿児島郡鹿児島城下で伊瀬知勇四郎の息子として生まれる。戊辰戦争に出征し戦傷を受けた。 1871年9月10日(明治4年7月25日)、陸軍少尉に任官。西南戦争に従軍。1886年(明治19年)5月、歩兵第8連隊長となり、1890年(明治23年)6月、歩兵大佐に昇進して近衛歩兵第3連隊長に異動。1894年(明治27年)9月、歩兵第2連隊長に就任。 日清戦争に出征し、旅順攻略戦に参加。1895年(明治28年)1月、大寺安純少将の後任として第1師団参謀長となった。
天春 文衛(あまがす ぶんえい、1847年12月16日(弘化… 天春 文衛(あまがす ぶんえい、1847年12月16日(弘化4年11月9日) - 1927年(昭和2年)8月24日)は、日本の政治家、実業家。帝国議会において、衆議院議員(政友本党所属)や貴族院多額納税者議員を務めた。朝明郡の大地主・天春家の当主。伊勢国三重郡保々村出身(現在の三重県四日市市保々地区出身)。 明治時代から大正時代にかけての政治家で、農事改良や地価改良運動に取り組んだ。 天春文衛は、朝明郡中野村の名門地主の天春家の跡継ぎとして弘化年間に誕生した。朝明郡の中野村は以下の変遷の地方自治体となる。 東京に上京して、島田元林の塾に入塾して学業を積み政治家となった。三重郡保々村の大地主であった。
岡本 則錄(おかもと のりふみ、おかもと のりぶみ、1847… 岡本 則錄(おかもと のりふみ、おかもと のりぶみ、1847年12月7日(弘化4年10月30日) - 1931年(昭和6年)2月17日)は、日本の数学教育者、和算家、陸軍教授。和算から西洋数学へ転向し、文科省に横書きの教科書を刊行するよう建議した。日本数学会の前身である東京数学会社の設立に携わった。 海軍の中川勝行と荒川重平の訳語統一を支援し、「公理」「単位」「数学」などの語を発案した。 金融業を営む後藤誠作と後藤くにの間に長男として生まれ、最初は後藤を名乗った。父誠作の没後に岡本備中守にあやかり姓を岡本とした。和算家としては長谷川弘に師事した。花柳流に通っていたため貧しくなり、弟子の松岡文太郎に助けられて生活していた。
石川 柳城(いしかわ りゅうじょう、弘化4年10月26日(1… 石川 柳城(いしかわ りゅうじょう、弘化4年10月26日(1847年12月3日) - 昭和2年(1927年)11月17日)は、明治-大正時代の南画家。尾張国海部郡佐屋村(現:愛知県愛西市佐屋町)出身。 名は戈足。字は子淵、通称金三郎のち孝蔵。雅号は柳城。本姓は伊東。吉田稼雪の門。京都に出て日根野対山・中西耕石らと交わり、また台湾や中国に歴遊して研鑽をつみ、南画の泰斗としてその名を知られた。 弘化4年10月26日(1847年12月3日)、尾張国海部郡佐屋村(現:愛知県愛西市佐屋町)の旧尾張藩史、伊藤耕斎の第三子(伊藤金三郎)として生まれる。文久元年(1861年)、14歳で吉川家の養子となり「考蔵」と改名。
馬屋原 二郎(うまやばら / うまやはら / まやはら じろ… 馬屋原 二郎(うまやばら / うまやはら / まやはら じろう、弘化4年10月17日〈1847年11月24日〉 - 1915年〈大正4年〉11月3日)は、幕末の長州藩士、明治・大正期の裁判官・政治家。貴族院勅選議員。別名、小倉衛門介、小倉右衛門介・衛門太。 長門国阿武郡萩江向村(現山口県萩市)で長州藩士・馬屋原良蔵の二男として生まれる。同志と干城隊、御楯隊を組織して、馬関、三田尻に屯営し、下関戦争、第二次長州征討の小瀬川口の戦いなどに従軍し軍功を挙げた。 明治2年(1869年)留学願を提出し、明治3年(1870年)周布金槌(周布公平)、光田三郎(光妙寺三郎)と共に長州藩費留学生としてフランスに派遣され、ベルギーの大学で法学を学んだ。
山本 貴三郎(やまもと きさぶろう、1846年12月20日(… 山本 貴三郎(やまもと きさぶろう、1846年12月20日(弘化3年11月3日)- 1899年(明治32年)12月22日)は、幕末の佐賀藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員。 肥前国高来郡、のちの長崎県北高来郡諫早町(現諫早市)で生まれた。郷校で学び、その後、熊本に遊学し漢学、武術を修めた。16歳で帰郷し、佐賀藩の選抜生となり長崎の江戸町英学校で学び、さらに何礼之に師事し英学を修めた。 1868年(慶応4年)戊辰戦争が開戦すると、副島種臣らと長崎に赴き、振遠隊として長崎、島原、大村から隊員を募り、その後、秋田に向かい新政府軍に加わった。 その後、官途には就かず天草、肥前松島、平戸などで採炭事業を営む。
野々村 久次郎(ののむら きゅうじろう、1846年12月12… 野々村 久次郎(ののむら きゅうじろう、1846年12月12日(弘化3年5月30日) - 1925年(大正14年)11月4日)は、明治から大正時代の政治家。銀行家。貴族院多額納税者議員。 美濃国方県郡、のちの岐阜県本巣郡西郷村(現岐阜市)出身。野々村佐太郎の子として生まれ、のち叔父佐兵衛の養子となり1887年(明治20年)4月、家督を相続する。 1879年(明治12年)以降、下西郷村戸長、同衛生委員、本巣郡会議員のほか、第九十五国立銀行取締役、野々村銀行頭取を歴任した。 1918年(大正7年)9月には岐阜県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1921年(大正10年)7月6日まで務めた。
正木 退蔵(まさき たいぞう、弘化3年10月24日(1846… 正木 退蔵(まさき たいぞう、弘化3年10月24日(1846年12月12日) - 1896年(明治29年)4月5日)は、明治時代の教育者、外交官。旧萩藩士で、維新後ロンドンに留学し、開成学校講師で化学を教えた。その後、同校留学生監督として再び渡英し、帰国後東京職工学校初代校長に就任、晩年は在ハワイ王国総領事を務めた。正五位勲六等。 弘化3年(1846年)10月24日、長門国萩城外土原村渡り口筋で、萩藩大組士正木治右衛門の三男として生まれた。間もなく佐伯丹下の養子となったが、後に正木姓に復した。 安政5年(1858年)松下村塾で数ヶ月間吉田松陰に学んだ後、毛利元徳小姓として長州正義派に与し、大村益次郎の三兵学科塾で蘭学、兵学、三田尻海軍学校で英学を学んだ。
内藤 魯一(ないとう ろいち、弘化3年10月6日(1846年… 内藤 魯一(ないとう ろいち、弘化3年10月6日(1846年11月24日) - 明治44年(1911年)6月29日)は、幕末から明治にかけて活躍した自由民権運動家。衆議院議員(立憲政友会)。東海地方の民権運動の嚆矢として知られる。 弘化3年10月6日(1846年11月24日)、陸奥国福島(現在の福島県福島市)に生まれた。内藤家は福島藩藩士の家であり、代々譜代大名板倉氏の家老職を務めた家柄だった。 慶応4年 (1868年)の戊辰戦争の際、福島藩は奥羽越列藩同盟に参加したが、内藤はこれに反対して孤立したが、福島藩が敗北すると事態の収拾に尽くした。その後、三河国の重原藩(現在の愛知県刈谷市)に転封されたものの、執政大参事として藩政の立て直しに参画し、廃藩置県後も藩士の授産活動に尽くした。
中山 平八郎(なかやま へいはちろう、1845年12月13日… 中山 平八郎(なかやま へいはちろう、1845年12月13日(弘化2年11月15日)- 1930年(昭和5年)10月2日)は、明治から昭和初期の農業経営者、政治家。衆議院議員、奈良県会議長。旧姓・飯田、幼名・格太郎。 大和国山辺郡長柄村(奈良県〔第一次〕山辺郡長柄村、堺県山辺郡長柄村、大阪府山辺郡長柄村、奈良県山辺郡長柄村、朝和村を経て現天理市長柄町)で、飯田嘉市の三男として生まれ、1872年(明治5年)同郡田村(山辺村、丹波市町を経て現:天理市)の中山平四郎の養嗣子となる。国学、漢学を修めた。農業を営む。 1881年(明治14年)大阪府会議員に当選。奈良県再設置運動に参加、1887年(明治20年)に奈良県が再設置され奈良県会議員となり、1894年(明治27年)まで在任し、同議長も務めた。
岩村 高俊(いわむら たかとし、弘化2年11月10日(184… 岩村 高俊(いわむら たかとし、弘化2年11月10日(1845年12月8日)- 明治39年(1906年)1月4日)は、日本の江戸時代後期から明治期の武士(土佐藩士)、官僚、華族である。初名は鉄五郎、のち精一郎。 宿毛領主伊賀家に仕えた岩村英俊(礫水)の三男で、岩村通俊、林有造の弟。位階勲等は従二位、勲二等、男爵。美術評論家・美術史家の岩村透は長男、次男は建築家の竹腰健造。 土佐国幡多郡、のちの宿毛村貝塚(宿毛町を経て現宿毛市)に生まれる。藩校の文武館で蘭学や砲術を学ぶ。慶応3年(1867年)9月に通俊の鉄砲購入に随行して長崎へ行く。ここで監察・佐佐木高行の添え書きを得て11月に上京し、陸援隊に入隊した。
松尾 徳三郎(まつお とくさぶろう、1845年12月5日(弘… 松尾 徳三郎(まつお とくさぶろう、1845年12月5日(弘化2年11月7日)- 1915年(大正4年)5月31日)は、明治期の実業家、政治家、衆議院議員(1期)。 大和国宇陀郡松山町(のち奈良県宇陀郡松山町、大宇陀町を経て現宇陀市)で松尾四良三郎の長男として生まれた。1885年(明治18年)4月、家督を相続。学区取締、奈良県会議員、大阪府会議員、同常置委員、勧業諮問会委員、町村会議員、連合町村会議員となる。大和銀行頭取、奈良県農工銀行取締役も務めた。 1894年9月の第4回衆議院議員総選挙において奈良2区から大手倶楽部所属で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1898年3月の第5回衆議院議員総選挙は不出馬。
山川 浩(やまかわ ひろし、弘化2年11月6日〈1845年1… 山川 浩(やまかわ ひろし、弘化2年11月6日〈1845年12月4日〉- 明治31年〈1898年〉2月4日)は、日本の武士(会津藩家老)、陸軍軍人、政治家、教育者。最終階級は陸軍少将、位階勲等・爵位は従三位勲三等・男爵。 陸軍省人員局長 兼 輜重局長、陸軍省総務局制規課長、高等師範学校長・附属中学校初代校長、貴族院議員を歴任した。明治初年までの諱は重栄、字は士亮、通称は大蔵(おおくら)、与七郎。号は屠竜子。 祖父は、会津藩家老・山川兵衛 重英。父は、山川尚江 重固。山川家の家禄は1千石。 祖父の重英が高齢まで隠居せずに家老職にあったため、父の重固は山川家の嗣子の立場で会津藩に出仕して郡奉行主役を務めていた。
岩村 兼善(いわむら かねよし、1845年12月2日(弘化2… 岩村 兼善(いわむら かねよし、1845年12月2日(弘化2年11月4日) - 1919年(大正8年)11月27日)は、幕末の高鍋藩士、明治・大正期の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍主計少将。貴族院勅選議員。幼名・虎雄。 日向国児湯郡高鍋石原(現宮崎県児湯郡高鍋町)で、高鍋藩士・岩村又之進の長男として生まれ、岩村武右衛門の養子となる。藩校明倫堂で学び、さらに江戸の安井息軒に師事した。戊辰戦争時、江戸で新政府の内国事務局参与であった藩主世嗣秋月種樹が、上杉鷹山以来親密な関係の米沢藩の行末を案じ、米沢藩に対して新政府へ恭順を勧める献策が認められ、その使者として岩村と坂田潔が選ばれ、戦乱の中で苦労して米沢に入り米沢藩を帰順に導いた。
井上 良馨(いのうえ よしか、1845年12月1日〈弘化2年… 井上 良馨(いのうえ よしか、1845年12月1日〈弘化2年11月3日〉- 1929年〈昭和4年〉3月22日)は、明治期の日本の海軍軍人。薩摩国(現:鹿児島県)出身。階級は元帥海軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功二級。爵位は子爵。 薩摩藩士・井上七郎の長男。幼名は直八。同郷で6歳年下の井上良智海軍中将との血縁はない。名前がよく似ている長州出身の井上馨とも関係がない。 1863年(文久3年)8月に勃発した薩英戦争で初陣を飾り、野津鎮雄(後に陸軍中将)の指揮下で沖小島砲台の警備に就いた。この戦いで薩摩藩はすべての砲台を艦砲射撃で破壊され、9名の死傷者を出した。物的被害に比べて格段に少ない人的被害の中に井上も含まれ、弾丸の破片で左腿貫通の重傷を負った。
大坂 金助(おおさか きんすけ、1845年11月26日〈弘化… 大坂 金助(おおさか きんすけ、1845年11月26日〈弘化2年10月27日〉 - 1925年〈大正14年〉3月12日)は、日本の政治家(貴族院議員、衆議院議員、青森市会議員)、青森県の大地主、醸造家、青森県多額納税者、資産家、実業家。青森商業会議所会頭。族籍は青森県平民。 陸奥国津軽郡蜆貝村(現・青森県青森市)出身。大坂彌吉の長男。漢学を修めた。幼くして両親と死別して孤児となった。一時ヤクザの世界に身を置いた。塩町に貸座敷・大金楼を開業した。のち酒造業、質屋を開いた。清酒醸造兼金銭貸付業を営んだ。 青森商業銀行、青湾貯蓄銀行、青森電燈会社、青森瓦斯会社などを設立した。青森商業銀行、青湾貯蓄銀行各頭取、青森電燈、青森倉庫、青森瓦斯各社長、青湾貯蓄銀行、歌舞伎座各取締役などをつとめた。
小澤 武雄(おざわ たけお、1844年12月19日(天保15… 小澤 武雄(おざわ たけお、1844年12月19日(天保15年11月10日) - 1926年1月29日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。幼名・直之丞。 小倉藩士・小澤義房の長男として生まれる。1866年、第二次長州征伐において軍議役兼陣場奉行を勤める。1868年、戊辰戦争に出征し越後・会津へ転戦した。明治政府の若松民生局に出仕し、軍務官筆生、兵部少録、兵部権大録、兵部大録、兵部権少丞、兵部省7等出仕を経て、1871年、陸軍少佐に任官。第二副官、陸軍省官房長、アメリカ出張、陸軍省第1局長代理などを歴任。1877年2月から10月まで西南戦争に征討総督本営参謀として出征。 1878年11月、陸軍少将に進級。
関戸 覚蔵(せきと かくぞう、1844年12月17日(弘化元… 関戸 覚蔵(せきと かくぞう、1844年12月17日(弘化元年11月8日)- 1916年(大正5年)5月9日)は、明治時代の政治家。立憲革新党所属の衆議院議員(当選3回)。『茨城新聞』創刊者。 常陸国行方郡潮来村(現在の潮来市)に生まれる。潮来は水運によって栄えており、関戸家も豊かであった。東京師範学校に入学するが病気のため中退。戸長、郡書記、茨城県勧業課長を務め、1881年第3回茨城県会議員選挙に当選し、茨城県会議員を1886年まで務めた。また、自由民権運動に加わり、1880年に民権結社の公益民会を磯山清兵衛らと設立したり、国会開設請願の署名1万人分を野手一郎らと集めてその代表になった。1891年には『いはらき』(現・『茨城新聞』)を創刊し、経営者となるが経営がうまくいかず、飯村丈三郎に茨城新聞社の経営を委ねた。
田中 新七(たなか しんしち、1844年12月10日〈弘化元… 田中 新七(たなか しんしち、1844年12月10日〈弘化元年11月1日〉 - 1922年〈大正11年〉2月2日)は、明治・大正時代の実業家、鉄道経営者である。横浜市で生糸商を営みつつ各地の鉄道事業に関係して関西鉄道社長などを務めた。愛知県出身。 弘化元年11月1日(新暦:1844年12月10日)、田中久兵衛の次男として生まれる。出身は尾張国(現・愛知県)の一宮地方。嘉永7年8月(1854年)に家を継ぎ、父の時代からの家業であった製糸業に従事。施設の改良を続けて増産や品質向上に努めて財を成した。さらに明治に入ると横浜にて生糸の商いを始める。田中商店では横浜の本店のほか京都・福井・金沢にも支店を構えた。
井狩 弥左衛門(いがり / いかり やざえもん、1844年1… 井狩 弥左衛門(いがり / いかり やざえもん、1844年11月27日(弘化元年10月18日) - 1901年(明治34年)5月23日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。9代井狩弥左衛門。 近江国野洲郡江頭村(北里村を経て、現在の近江八幡市)に生まれる。富豪として桑園や水田を拓き米質改良組合を組織するなど農業発展に尽力する。1873年(明治6年)以降、滋賀県野洲郡第五区副区長、同区長、同郡七十八箇村連合村会議員、滋賀県会議員、野洲郡所得税調査委員、滋賀県農工銀行設立委員などを歴任する。近江帆布会社の設立にも尽力した。 1897年(明治30年)9月、滋賀県多額納税者として貴族院議員に互選され、同月29日に就任したが、在任中に死去した。
平福 穂庵(ひらふく すいあん、1844年11月27日(天保… 平福 穂庵(ひらふく すいあん、1844年11月27日(天保15年10月18日) - 1890年(明治23年)12月11日)は、日本の幕末から明治時代前期に活動した日本画家。同じく画家の平福百穂の父。名は芸(うん)、通称は順蔵。別号に文池。 羽後国角館横町(現在の秋田県仙北市)で、父・平福太治右衛門(徳蔵)と母・キクの一人息子として生まれる。平福家は元々米や乾物を扱う商人だったが、父の代で染物屋に転向した。太治右衛門は文浪の画号を持つ郷土画家でもあり、祭りの人形や押絵なども手掛け、今も郷土にその作品が残っている。穂庵は初めは地元の絵師で父も入門していた武村文海に円山四条派の絵を学び、地元秋田の四条派絵師・長山孔寅の絵手本で自習する。
野尻 邦基(のじり くにもと、1843年12月11日(天保1… 野尻 邦基(のじり くにもと、1843年12月11日(天保14年10月20日)– 1910年(明治43年)8月1日)は、幕末の岡藩士、明治期の官僚、政治家。衆議院議員。旧姓・首藤。幼名・長之助、半之允。 豊後国直入郡竹田町(大分県直入郡竹田町を経て現竹田市)で、岡藩士・野尻雙馬の長男として生まれる。藩校・由学館、経武館で学び、その後、長崎に遊学した。文武に通じ、廃藩置県後は岡県の少属、大属を歴任。その後、大分県庁に出仕し、中属、権大属、大属、兼任判事、大分県属、同警部、大分郡長、直入郡長を歴任した。その後、1886年(明治19年)大蔵省御用掛に転じ、主税官、佐賀県書記官、高知県書記官を務めた。 1901年(明治34年)7月、朝倉親為の死去に伴う第6回衆議院議員総選挙大分県第3区補欠選挙で当選し(首藤邦基名義)、1904年(明治37年)3月の第9回総選挙で大分県選挙区から出馬して再選され、衆議院議員を通算2期務めた。
八島 成正(やしま なりまさ、1843年12月1日(天保14… 八島 成正(やしま なりまさ、1843年12月1日(天保14年10月10日)- 1918年(大正7年)1月29日)は、明治期の養蚕家、実業家、政治家。衆議院議員、福島県会議長、福島県伊達郡石戸村長。 陸奥国伊達郡山戸田村(福島県伊達郡石戸村大字山戸田、霊山町を経て現伊達市霊山町山戸田)で生まれる。漢学を修め、農業を営む。 祠官、戸長、学区取締、福島県会議員、同常置委員、同副議長、同議長、石戸村長、伊達郡会議員、所得税調査委員などを務めた。 また、福島県蚕糸業組合頭取、蚕糸業中央部会議員、福島県蚕業学校評議員、同会長などを歴任。蚕種製造の改良を図って山戸田組を設立し頭取に就任。伊達郡の生糸改良のため扶桑社を設立した。
浅見 與一右衛門(浅見 与一右衛門、あさみ よいちえもん、1… 浅見 與一右衛門(浅見 与一右衛門、あさみ よいちえもん、1843年11月26日(天保14年10月5日) - 1924年(大正13年)3月21日)は、明治時代・大正時代の実業家であり政治家。美濃国恵那郡岩村(現・岐阜県恵那市岩村町)出身。 浅見家は岩村藩初代藩主松平家乗が慶長6年(1601年)に転封の際に上野国那波から随行して来たといわれ、累代の当主は、岩村藩の御用達職、庄屋、問屋職などを勤め、藩の財政を支えていた。與一右衛門は浅見家9代目当主にあたる。幕末から明治の変動期に岩村町の再建に尽力し、また岐阜県議会議長や衆議院議員を歴任した。 また、私財を投じて1906年(明治39年)には岩村・大井間に電気鉄道の岩村電気軌道を開通させた。
久米 唯次(くめ ただじ、1843年11月24日(天保14年… 久米 唯次(くめ ただじ、1843年11月24日(天保14年10月3日) - 1915年(大正4年)4月25日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。 禎瑞新田(伊予国新居郡禎瑞村。愛媛県新居郡橘村を経て現西条市禎瑞)干拓以来の旧家、久米弥吉の長男として生まれる。農業を営み、1915年(大正4年)時点で直接国税2500円余を納めた。 学務委員に就任し禎瑞小学校(現西条市立禎瑞小学校)の建設に多額の寄付を行った。新居郡会議員などを務め、1897年(明治30年)愛媛県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日に就任したが、大病のため1898年(明治31年)6月7日に辞職した。
原 六郎(はらろくろう、天保13年11月9日(1842年12… 原 六郎(はらろくろう、天保13年11月9日(1842年12月10日) - 昭和8年(1933年)11月14日)は、日本の幕末から大正期の志士、軍人、銀行家、実業家。 但馬国佐中村(現・兵庫県朝来市)出身。もとの名は進藤俊三郎長政といい、生野の変で敗れ潜伏中に、原六郎と改名。 鎌倉時代より続く但馬国佐中村の大地主・進藤家の第22代目当主・丈右衛門長廣の六男四女の末っ子として生まれる。 11歳のころ、池田草庵の私塾・青谿書院に入門し、北垣国道、西村哲二郎らとともに学ぶ。池田草庵門下には、ほかに浜尾新(元東宮侍従浜尾実の祖父)、河本重次郎らがいる。 当時、尊皇攘夷派の活動が盛んであり、尊皇攘夷論を唱えるようになる。
田中 正造(たなか しょうぞう、天保12年11月3日(184… 田中 正造(たなか しょうぞう、天保12年11月3日(1841年12月15日) - 1913年(大正2年)9月4日)は、日本の幕末から明治時代にかけての村名主、政治家。日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件の解決に奔走し、明治天皇に直訴しようとしたことで有名。衆議院議員選挙に当選6回。幼名は兼三郎。下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)出身。足尾銅山鉱毒事件の被害者でもあり、救済を政府に訴えた。日本の公益活動家の嚆矢となった人物。 父の跡を継いで小中村の名主となり、幕末から村民らと領主である高家六角家に対して政治的要求を行っていたが、このことがもとで明治維新直前の慶応4年(1868年)に投獄された。
赤松 則良(あかまつ のりよし、天保12年11月1日〈184… 赤松 則良(あかまつ のりよし、天保12年11月1日〈1841年12月13日〉 - 大正9年〈1920年〉9月23日)は、日本の武士(幕臣)、華族、海軍軍人、政治家。貴族院議員。栄典は海軍中将。位階勲等爵位は従二位勲一等男爵。通称は大三郎。「日本造船の父」と呼ばれる。 中世の播磨の名族赤松氏の末裔と称する播州網干(現姫路市網干区)新在家の龍野藩御用商人であった廻漕業赤松良則を実父とする幕府十五番組御徒士(御家人)・吉沢雄之進の次男として江戸深川に生まれる。弘化4年(1847年)、祖父赤松良則の後を継ぎ父の実家である赤松姓となる。先祖の出自から父の経歴まで「赤松則良半生談」に本人が詳しく述べている。
長井 氏克(ながい うじかつ、1841年11月26日(天保1… 長井 氏克(ながい うじかつ、1841年11月26日(天保12年10月14日) - 1904年(明治37年)10月9日)は、衆議院議員(立憲政友会)、津市長。 津藩士の子として伊勢国津に生まれる。戊辰戦争の際には大軍監として藩兵を率いて仙台・秋田に進軍した。1869年(明治2年)、津藩少参事に就任し、1871年(明治4年)には権大参事に昇進した。 1878年(明治11年)、「伊勢新聞」を創刊し、社長に就任した。また代言人免許を取得し、代言組合会長になった。 1880年(明治13年)より三重県会議員、同議長を務めた。1887年、三重同志会を立ち上げて自由民権運動を推進し、大同団結運動に参加し、自由党が成立するとこれに加入した。
内藤 新吾(ないとう しんご、天保12年10月11日(184… 内藤 新吾(ないとう しんご、天保12年10月11日(1841年11月23日) - 大正6年(1917年)8月2日)は、初代久留米市長、衆議院議員。諱は敏樹、字は子敏、号は寒山。 久留米藩国家老有馬氏の臣下の家に生まれ、藩校明善堂で学んだ。真木和泉・水野正名らの尊王攘夷論に傾倒し、福岡藩の平野国臣と交わった。1862年(文久2年)、江戸に出て安井息軒の門に学んだ。翌年に帰郷すると、同志とともに藩の執政有馬監物に尊王攘夷を藩論とするように説いたが、八月十八日の政変で公武合体が藩論となると、幽囚の身となった。 1867年(慶応3年)、5年に及んだ幽囚を解かれた。1868年(明治元年)、明善堂寮長に起用され、翌年には民政判事となった。
国重 正文(くにしげ まさぶみ、天保11年10月15日〈18… 国重 正文(くにしげ まさぶみ、天保11年10月15日〈1840年11月30日〉 - 1901年〈明治34年〉10月27日)は、幕末の長州藩士、明治期の内務官僚・教育者・神職。官選富山県知事。通称・徳次郎、篤次郎。漢詩・書に堪能で、半山と号した。 長門国阿武郡萩土原(現山口県萩市)で、安芸武田氏の流れを汲む長州藩大組士・国重三郎兵衛恒升の長男として生まれた。藩校・萩明倫館で学ぶとともに、吉田松陰からも山鹿流兵学を学んだ。文久元年(1861年)家督を継ぎ浜崎代官に就任。さらに、当島代官、大組物頭御軍制総掛、山口明倫館頭人役を歴任した。 維新鴻業で果たした役割として夙に知られる事跡は少ないものの、滋賀県大津市の円満院門跡坊官西坊家では、第8代当主暹胤の後室由里の実兄で第9代当主七造の実父が国重正文であるとしており、西坊家に伝わる口伝として①京都の池田屋事件の時には新選組より逃れた一人である②明治維新の頃には桂小五郎と一緒に行動していた――等の秘話を伝えている。
香川 敬三(かがわ けいぞう、1839年12月20日〈天保1… 香川 敬三(かがわ けいぞう、1839年12月20日〈天保10年11月15日〉- 1915年〈大正4年〉3月18日)は、江戸末期の水戸藩出身の勤皇志士で、明治から大正期の日本の宮内官僚。位階勲等爵位は従一位勲一等伯爵。東山道軍総督府大軍監・皇后宮大夫・皇太后宮大夫・枢密顧問官などを歴任し、美子皇后(昭憲皇太后)に長きに渡って仕えた。 諱は広安。旧姓は蓮田。幼名は、了介または徳松。旧名、鯉沼 伊織(こいぬま いおり)。変名は、小林彦次郎。明治になり香川広安、のちに敬三に改名。士族だったが、後に華族の子爵、ついで伯爵に列する。生年は1841年(天保12年)という説もある。 下伊勢畑(現在の常陸大宮市)の水戸藩郷士蓮田重右衛門孝定・袖の3男に生まれる。
関 義臣(せき よしおみ、1839年12月15日(天保10年… 関 義臣(せき よしおみ、1839年12月15日(天保10年11月10日) - 1918年(大正7年)3月30日)は、日本の武士・越前福井藩士、政治家。別名を山本龍二郎、関龍二。号は湘雲。正三位勲二等男爵。 1839年、福井藩の家老である本多家の越前府中(現在の越前市、旧武生市)領にて、本多家家臣・山本五郎の三男に生まれる。当初名乗っていた名前は山本龍次郎であった。嫡男ではないため、福井本藩の家臣であった山本家の分家で育つ。 藩校明道館に学び、幹事の橋本左内に認められて、文久2年(1862年)に昌平坂学問所に学んだ。1866年(慶応2年)、長崎の坂本龍馬を訪ねて亀山社中に加盟し、のちに海援隊に属した。
守道 半四郎(もりみち はんしろう、1839年12月14日〈… 守道 半四郎(もりみち はんしろう、1839年12月14日〈天保10年12月3日〉 - 没年不明)は、日本の商人(皮革商)、資産家、名望家、政治家、奈良県多額納税者。守道皮革製造所主。族籍は奈良県平民。 奈良県北葛城郡陵西村市場(現・大和高田市市場)出身。守道半兵衛の二男。1876年に家督を相続する。農業、皮革製造業を営む。守道皮革製造所を経営し専ら靴、鞄、帯皮、バツキングの類を製造販売する。 内外の事務に鞅掌し、みずから大阪市南区西浜に出て、店員を督励して原料皮の買入れに従事し、あるいは直接ロシア人や各方面の得意客と応接する。 1889年5月、1892年5月に陵西村会議員に当選する。 住所は奈良県北葛城郡陵西村(現・大和高田市)、大阪市南区西浜中通3丁目(現・浪速西)。
小川 トク(おがわ とく、1839年(天保10年) 12月1… 小川 トク(おがわ とく、1839年(天保10年) 12月1日- 1913年(大正2年)12月24日)は、明治期の殖産家、染織家。久留米縞織の創始者。 1839年(天保10年)12月1日に武蔵国足立郡宮ヶ谷塔村(現在の埼玉県大宮市宮ヶ谷塔)で生まれた。父の名は善五郎、母の名はチエ。父母共にトクが三、四歳のころに死亡し、祖父母の手により育てられた。結婚後、1860年(万延元年)に一人息子栄三郎が生まれた。のち江戸に定住していた久留米藩の乳母となり、江戸を出発し久留米に滞在。その後久留米において木綿織りをはじめ、久留米縞織の創業者となった。 トクは久留米で、特産品の久留米絣の生産様式が遅れていること、絣の他に織物生産が無いことに気づいた。
須川 信行(すがわ のぶゆき、天保10年10月25日 (18… 須川 信行(すがわ のぶゆき、天保10年10月25日 (1839年11月30日)- 大正6年(1917年)11月13日)は、江戸時代末期・明治時代の歌人、医師。宮内省御歌所寄人(よりゅうど)、『明治天皇御集』の編纂委員を務めた。 須川信行は、天保10年10月25日(1839年11月30日)に近江高島郡西万木村(現滋賀県高島市)の医師清水玄孝の次男として生まれ、19歳の時に御所出入り医師須川覚性(須川検校)の養子となった。医業を修める傍らで早くから和歌に興味を覚え、香川景樹の高弟で故郷高島出身の歌人渡忠秋に入門し、同人死去後小出粲に師事した。養嗣子鶴吉に医業を譲り自身は歌道に専念し、明治23年(1890年)宮中御歌会始の勅題詠進歌『いにしへに 照して今を仰ぐにも 余るは国の光なりけり』が入選した。
岡田良一郎(おかだ りょういちろう、雅号淡山、天保10年10… 岡田良一郎(おかだ りょういちろう、雅号淡山、天保10年10月21日(1839年11月26日) - 大正4年(1915年)1月1日)は、日本の農政家、報徳運動家、実業家、政治家、衆議院議員。遠江国報徳社社長、掛川信用金庫(現島田掛川信用金庫)創業者。 二宮尊徳の弟子として報徳思想の普及に尽力し、地域の振興に努めた。 遠江国佐野郡倉真村(現在の静岡県掛川市倉真)出身。雅号の淡山は、掛川にある粟ヶ岳(淡ヶ岳)にちなんでいる。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
15代 木村 庄之助(じゅうごだい きむら しょうのすけ、天… 15代 木村 庄之助(じゅうごだい きむら しょうのすけ、天保10年10月20日(1839年11月25日) - 明治30年(1897年)9月22日)は、大相撲の立行司。本名は深山八三郎。出身地は東京都江東区富岡。 11代木村庄之助に入門、1850年11月木村八三郎の名で番付に載る。のち木村瀬平(3代目、正三郎改め)の所属となる。木村角次郎(角治郎)から1864年10月に木村庄三郎(4代目)を襲名。1885年5月に先代の庄之助の死去に伴い、15代目木村庄之助を襲名した。人物、見識に優れ、故事に精通していた。横綱初代梅ヶ谷の信頼厚く、横綱土俵入りを許されると土俵入りに従った。年寄木村松翁を兼務。1897年9月22日現役没。
窪田 畔夫(くぼた くろお、1838年12月5日(天保9年1… 窪田 畔夫(くぼた くろお、1838年12月5日(天保9年10月19日) - 1921年(大正10年)4月30日)は、長野県の政治家。本名は窪田重国、号は松門であった。 信濃国筑摩郡和田町村(天領、現在の松本市和田)に生まれ、青年期から寺子屋を開いて教育に従事した 1872年に開智学校の前身となった筑摩県学の開設を進め、また、市川量造らとともに、松本を拠点とした『信飛新聞』の創刊に参加した。以降、同紙や、1876年に改題した『松本新聞』の紙面で、自由民権運動の論陣を張った。 1879年には、北安曇郡の初代郡長となり、在任中の1883年には渡辺敏らとともに白馬岳に初登頂した。 1888年に長野県会議員、1892年には帝国議会衆議院議員となった。
渡邊 重石丸(わたなべ いかりまろ、天保8年11月15日(1… 渡邊 重石丸(わたなべ いかりまろ、天保8年11月15日(1837年12月12日) - 大正4年(1915年)10月19日)は、幕末の中津藩士、国学者、神道学者。明治初年には新政府の神道政策を担当し、大日本帝国陸軍将軍の乃木希典が師事したことで知られている。蘭学者の福澤諭吉と国学者の増田宋太郎は共に縁戚に当たる。号は鶯栖園隠士、捫虱庵主人、通称は鉄太郎。 1837年(天保8年)、豊前国中津藩の神官の家に生まれた。藩校の進脩館に入り、藩儒の野本白巌や手島物斎に漢学を学んだ。安政4年(1857年)には中津藩において子弟に国学を教授し、元治元年(1864年)にこの私塾を「道生館」 と命名した。慶応3年(1867年)には平田篤胤の思想を取り入れて、後嗣の平田銕胤に入門して没後の門人となった。
樺山 資紀(かばやま すけのり、1837年12月9日〈天保8… 樺山 資紀(かばやま すけのり、1837年12月9日〈天保8年11月12日〉- 1922年〈大正11年〉2月8日)は、日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将、陸軍少将。栄典は従一位大勲位功二級伯爵。薩摩藩士・橋口与三次の三男。 警視総監(第3代)、海軍大臣(第2代)、海軍軍令部長(第6代)、台湾総督(初代)、枢密顧問官、内務大臣(第15代)、文部大臣(第14代)を歴任した。 天保8年(1837年)薩摩国鹿児島城下加治屋町二本松馬場(高見馬場方限)に薩摩藩士・橋口与三次の三男に生まれ、覚之進(かくのしん)と名づけられ育てられる。文久3年(1863年)同藩士・樺山四郎左衛門の養子となり、樺山姓を名乗る。
谷 順平(たに じゅんぺい、1836年12月21日(天保7年… 谷 順平(たに じゅんぺい、1836年12月21日(天保7年11月14日)- 1921年(大正10年)8月3日)は、明治から大正期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、富山県会議長、富山県下新川郡道下村長。幼名・義之助。 越中国新川郡仏田村(石川県新川郡仏田村、富山県下新川郡道下村を経て現魚津市)で、豪農・谷平兵衛の長男として生まれた。加賀藩士・沢田六左衛門、馬場春鴎に師事し漢学を修めた。1856年(安政3年)家督を相続し新川郡縄張役、仏田の肝煎役に就任。1872年(明治5年2月)金沢県新川郡第8区租税調役、1873年(明治6年)9月、第3大区副区長となる。その後、戸長、下新川郡書記を務めた。
対馬 嘉三郎(つしま かさぶろう、1836年12月14日(天… 対馬 嘉三郎(つしま かさぶろう、1836年12月14日(天保7年11月7日)- 1914年(大正3年)12月24日)は、幕末の弘前藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員(1期)、初代札幌区長。 陸奥国津軽郡弘前城下代官町(現弘前市)で弘前藩士・対馬利助の息子として生まれる。箱館戦争に従軍。弘前藩公用人を経て、明治4年7月(1871年)青森県に出仕。明治5年4月(1872年)開拓使に転じ十一等出仕となり、同年11月(12月)開拓中主典に昇進。会計整理、教育、衛生普及、商工業振興などを担当し、1878年7月に退官した。 その後、実業界に転じ、開拓使経営の醸造場の払下げを受けて酒造業を経営。また、元開拓使官吏・堀基らと共に札幌の商社の嚆矢である「大有社」を創設し、米穀雑貨輸入販売、海産物輸入業を営んだ。
10代 加賀美 嘉兵衛(かがみ かへえ、1835年12月11… 10代 加賀美 嘉兵衛(かがみ かへえ、1835年12月11日(天保6年10月22日) - 1891年(明治24年)10月14日)は、幕末から明治期の豪農、政治家。旧名・次左衛門光則。 甲斐国八代郡南八代村(山梨県東八代郡南八代村、八代村、八代町を経て現笛吹市)で生まれた。生家の加賀美家は八代郡小石和筋きっての大富豪。幕末には甲州田安家領の支配勘定格・郡中取締役を務めた。 明治維新後、1872年(明治5年)八代郡第7区長、同第8区長に就任し、藤村紫朗県政に協力した。その後、第22区長、第23区長となる。1878年(明治11年)東八代郡長に就任し東山梨郡長を兼務した。 その後、県内の民権派に対抗して立憲保守党の設立に尽力した。