堀内 柳南(ほりうち りゅうなん、1873年4月20日 - … 堀内 柳南(ほりうち りゅうなん、1873年4月20日 - 1932年2月1日)は、山梨県巨摩郡大八田村(現・北杜市長坂町)出身の教育者・俳人。出生名は堀内 常太郎(ほりうち つねたろう)であり、柳南は号である。 1873(明治6)年4月20日、山梨県北巨摩郡秋田村(現・北杜市長坂町大八田)に生まれる。父親は堀内与右衛門。10代後半、自由民権派新聞「峡中日報」編集長を通して俳句と出会う。山梨尋常師範学校卒業後、南都留郡谷村尋常小学校を初任地として33歳まで山梨県内で教鞭を執る。この間、25歳で結婚、28歳で校長職。俳句への思いを断つことができず33歳で職を辞して上京、自由律俳誌「層雲」の同人となるが、同年妻きくを鉄道事故で失い、上京生活1年で郷里へ帰る。
市来 乙彦(いちき おとひこ、正体字:市來 乙彥、明治5年壬… 市来 乙彦(いちき おとひこ、正体字:市來 乙彥、明治5年壬申4月13日〈1872年5月19日〉 - 昭和29年〈1954年〉2月19日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。大蔵次官、大蔵大臣(加藤友三郎内閣)、日本銀行総裁、東京市長、貴族院議員(勅選)、参議院議員(1期3年)などを歴任した。 旧薩摩藩士の三男として、鹿児島県鹿児島市春日小路町に生まれる。地元の中学造士館を卒えて、1888年(明治21年)鹿児島高等中学造士館予科に進むが、家計の都合で中退。1889年(明治22年)に上京し、田尻稲次郎の書生となって苦学する。1890年(明治23年)10月に第一高等中学校予科へ編入学し、翌年本科へ進む。
西風 重遠(にしかぜ しげとお、1872年 5月13日(明治… 西風 重遠(にしかぜ しげとお、1872年 5月13日(明治5年4月7日)– 1942年(昭和17年)11月30日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・伊之輔。 和歌山県那賀郡、のちの粉河村(粉河町を経て現紀の川市)で西風清五郎の長男として生まれた。1899年(明治32年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1916年(大正5年)5月に家督を相続した。 大学卒業後、大阪商船に入社し、長崎、台湾、宇品、朝鮮の各支店長を歴任。1909年(明治42年)に退社して和歌山市で回漕業を営んだ。その他、富島組取締役、武庫酒造取締役、摂陽商船取締役、大阪商運監査役などを務めた。 1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙で和歌山県郡部から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
相良 安之助(さがら やすのすけ、1872年5月13日(明治… 相良 安之助(さがら やすのすけ、1872年5月13日(明治5年4月7日) - 1948年(昭和23年)6月8日)は、明治から昭和時代前期の政治家・実業家。貴族院多額納税者議員。 鹿児島県鹿児島市柳町生まれ。相良笑蔵の長男で、1905年(明治38年)9月、家督を相続する。生家は酒造業を営む。明治法律学校を卒業後、1897年(明治30年)鹿児島市柳町衛生組合組長、県衛生組合連合会会長、鹿児島市会議員、同市商業会議所議員、鹿児島県会議員、鹿児島肥料、鹿児島銀行、鹿児島朝日新聞各取締役などを歴任した。 1931年(昭和6年)鹿児島県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年7月4日から翌年の9月28日まで在任した。
青木 昌吉(あおき しょうきち、明治5年4月5日(1872年… 青木 昌吉(あおき しょうきち、明治5年4月5日(1872年5月11日) - 昭和14年(1939年)3月2日)は、日本のドイツ語学者。日本ゲーテ協会初代会長。 東京府南多摩郡鶴川村大蔵(現・東京都町田市)出身。旧姓は中溝。神奈川県議会議長の中溝昌弘(東京都知事の鈴木俊一の曾祖父)の長男にあたる。衆院議員で京浜電鉄社長の青木正太郎の娘婿。 小学校には行かず、寺小屋に学び、医者になるつもりで私塾で独語を一年半学んだのち、第一高等中学校で6年間学ぶ。東京帝国大学文科大学独逸文学科卒業後、大学院に進んだが翌年退学し、熊本の第五高等学校教授となる。当時の校長は中川元、教員仲間に夏目漱石、上田整次、児島献吉郎、小島伊佐美、田丸卓郎らがおり、多大な影響を受けた。
藤戸 達吾(ふじと たつご、1872年5月10日(明治5年4… 藤戸 達吾(ふじと たつご、1872年5月10日(明治5年4月4日) – 1920年(大正9年)7月27日)は、日本の新聞人。地方政治家。 1872年(明治5年)[西暦年要検証]4月4日高知県安芸郡土居村(現在の安芸市土居)に堀内弁次の子に生まれた。1895年(明治28年)東京専門学校(現在の早稲田大学)英文科卒業。黒岩涙香の万朝報社に入社。 安芸の瓦製造業藤戸家の養子となり帰郷。土陽新聞に入社。以後松月の号で南海文壇に重きをなした。1905年(明治38年)高知新聞創設に参加し、文筆を持って活動する。岡本社長亡き後は野中楠吉、杉駸三郎とともに新聞社の元老格となる。 1919年(大正8年)県会議員に当選した。
和田 潤(わだ じゅん、1872年5月8日(明治5年4月2日… 和田 潤(わだ じゅん、1872年5月8日(明治5年4月2日)- 1947年(昭和22年)7月30日)は日本の内務官僚、政治家。沖縄県知事、郡山市長、松阪市長。 1872年(明治5年)4月2日、高知県香美郡に生まれる。1899年(明治32年)に和仏法律学校(現・法政大学)を卒業し、1901年(明治34年)に文官高等試験に合格する。 内務省に入省。警視庁警部。北海道庁警視、香川県事務官・第四部長、島根県事務官・警察部長、佐賀県事務官・警察部長、大分県・鳥取県・沖縄県内務部長を経て、1921年(大正10年)に沖縄県知事に就任し、1923年(大正13年)に退官する。 1929年(昭和4年)に福島県郡山市長(-1937年(昭和12年))、1937年(昭和12年)に三重県松阪市長(-1941年(昭和16年))を務める。
田崎 慎治(たざき しんじ、1872年5月6日(明治5年3月… 田崎 慎治(たざき しんじ、1872年5月6日(明治5年3月29日) - 1954年(昭和29年)4月3日)は、日本の商学者。村瀬春雄門下で、専門は海運論、海上保険論。神戸大学名誉教授、神戸商業大学(現神戸大学)初代学長。パルモア学院学院長(1944年-1947年)。正三位勲一等。 長崎県西彼杵郡三重村(現長崎市三重)出身。田崎慶治の三男、同周三郎の弟、同武男の兄として生まれ、1910年(明治43年)分家する。 長崎商業学校(現長崎市立長崎商業高等学校)を経て、1901年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部保険科を卒業。日本における保険学の祖である村瀬春雄の最初の門下生となった。村田省蔵は友人。
木下 竹次(きのした たけじ、明治5年3月25日(1872年… 木下 竹次(きのした たけじ、明治5年3月25日(1872年5月2日) - 1946年(昭和21年)2月14日)は、日本の教育者。 足羽県大野郡勝山町(現在の福井県勝山市)出身。1898年(明治31年)、東京高等師範学校文科を卒業し、研究科の修身科・教育科で学んだ。奈良県師範学校教諭、富山県師範学校教諭を経て、1904年(明治37年)に鹿児島県師範学校教諭に転じた。1910年(明治43年)、鹿児島県女子師範学校が分離・独立すると校長に就任し、鹿児島県立第二高等女学校校長も兼ねた。1917年(大正6年)、京都女子師範学校校長となり、翌年には京都府立桃山高等女学校校長を兼ねた。 1919年(大正8年)、奈良女子高等師範学校教授となり、同附属実科高等女学校主事、同附属小学校主事を兼ねた。
内海 弘蔵(うつみ こうぞう、明治5年3月24日(1872年… 内海 弘蔵(うつみ こうぞう、明治5年3月24日(1872年5月1日) - 昭和10年(1935年)12月7日)は、神奈川県出身の国文学者、歌人。号は月杖(げつじょう)。 神奈川県生まれ。獨逸学協会学校、第一高等中学を経て、1898年(明治31年)に東京帝国大学国文科を卒業。早稲田大学等の講師を経て1904年、明治大学講師に就任、後に教授。また、落合直文の短歌結社「浅香社」に参加し、歌人としても活動した。 『平家物語』や『方丈記』などの注釈書を著しており、特に『徒然草』を兼好の「一大趣味論」とした『徒然草評釈』で知られる。 1910年に明治大学硬式野球部が創設されると同時に部長を務めることになった。
与良 松三郎(よら まつさぶろう、明治5年3月23日(187… 与良 松三郎(よら まつさぶろう、明治5年3月23日(1872年4月30日) - 昭和13年(1938年)10月17日)は、日本の実業家・教育者。名古屋新聞社主筆・社長。与良ヱの父。旧姓は上野。 長野県佐久郡小諸(現小諸市)生まれ。長野県師範学校を卒業すると、岩村田・小諸・上田の各小学校の訓導、南安曇郡視学を務めた。1902年文部省の推薦でウラジオストクに日本人小学校の校長として赴任するが、1904年の国交断絶により学校が閉鎖されたため、日露戦争にロシア語通訳官として従軍し、1906年帰国。同郷の小山松寿が名古屋新聞を経営するにあたり、その主筆に迎えられ、普選運動推進の論陣を張った。1930年に社長に就任した。
佐々木 春作(ささき しゅんさく、1872年4月26日(明治… 佐々木 春作(ささき しゅんさく、1872年4月26日(明治5年3月19日) - 1942年8月13日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員(1期)。 山形県山形市五日町出身。1889年、第二高等学校医学部、1893年、東京帝国大学卒。陸軍に入り、三等軍医から一等軍医に進み、日清戦争、日露戦争に参加。山形市会員、山形県会議員、同参事会員、山形市医師会長、山形県産婆試験委員、帝国在郷軍人会山形市連合分会長、専売局顧問医、鉄道嘱託医となる。 1898年、山形市八日町に佐々木病院を開業、院長となる。山形市内のはり師・きゅう師・あんま師らによって1913年に設立された私立山形盲学校の初代校長を勤め、1921年まで任に当たった(のち県立に移管され、山形県立山形盲学校となる)。
下郷 久成(しもごう ひさなり、1872年4月23日〈明治5… 下郷 久成(しもごう ひさなり、1872年4月23日〈明治5年3月16日〉 - 1946年〈昭和21年〉1月15日)は、明治後期から昭和にかけて活動した日本の実業家・政治家である。 滋賀県長浜の旧家下郷家の10代目。米穀商を開いて財を成した下郷伝平(久道)の長男で、公的には父の名を継いで2代目の下郷 伝平(下鄕 傳平、しもごう でんべい)を名乗った。襲名前の名は寅吉。実業界では仁寿生命保険社長を長く務め、政界では貴族院多額納税者議員や長浜町長に選ばれた。 下郷家は滋賀県長浜市(旧・坂田郡長浜町)の旧家である。家伝によると、賤ヶ岳の戦いに関係して豊臣秀吉から表彰された長浜城下の町人のうち下郷九左衛門を家祖とする(それ以前の系譜は不明瞭)。
東 基吉(ひがし もときち、明治5年3月15日(1872年4… 東 基吉(ひがし もときち、明治5年3月15日(1872年4月22日) - 昭和33年(1958年)4月20日)は、日本の教育者。 和歌山県東牟婁郡新宮町(現在の新宮市)出身。須川家に生まれ、東家の養子となった。1894年(明治27年)、和歌山県師範学校を卒業し、小学校訓導を務めた。その後東京高等師範学校に入り、1899年(明治32年)に卒業した。同年、岩手県師範学校教諭・附属小学校主事となる。1900年(明治33年)に東京女子師範学校助教授に転じて幼稚園教育研究に従事し、1903年(明治36年)に教授に昇進した。 1908年(明治41年)から宮崎県師範学校校長、栃木県女子師範学校校長、三重県女子師範学校校長、大阪府池田師範学校校長、宮城県師範学校校長を歴任し、1925年(大正14年)に退官した。
錦戸 春吉(にしきど はるきち、1872年4月21日(明治5… 錦戸 春吉(にしきど はるきち、1872年4月21日(明治5年3月14日) - 1945年4月24日)は、愛知県豊川市赤坂町出身(当時は額田県赤坂町)で錦戸部屋に所属した力士。本名は吉澤 春吉(旧姓:大場)。5代錦戸。164cm、96kg。最高位は西前頭15枚目。 静岡県で草相撲をしていたが、1891年5月錦戸部屋に入門し初土俵を踏む。1901年5月、29歳で十両昇進。そして1909年6月、旧両国国技館が開館した場所に初土俵から18年、37歳にして新入幕を果たした。幕内在位は1場所のみで、その後幕下まで陥落。すでに二枚鑑札となっており、1911年6月に引退して、親方業に専念した。一時、招猫の四股名を名乗った。
釘宮 辰生(くぎみや ときお、1872年4月20日(明治5年… 釘宮 辰生(くぎみや ときお、1872年4月20日(明治5年3月13日) - 1947年(昭和22年)9月13日)は、日本の牧師、アメリカ南メソヂスト監督教会の最初の日本人監督。祈りの生涯を送った。関西学院との繋がりが強い。 大分県北海部郡海添村内畑(現臼杵市)に、釘宮伝四郎を父、シゲを母として生まれた。幼名は和作。父は役所で土木関係の仕事をしていたが、大分県での勤務を命ぜられ、大分へ移った。そして、転勤のために小倉県、福岡県、さらに対馬に引っ越した。1882年再び大分に戻り、父は別府浜脇の村役場に勤めた。1885年に父親が急死した。残された母と祖母と辰生の3人家族で貧しい生活を始めた。 明治18年(1885年)に大分尋常中学校が新設された。
2代 大浜 忠三郎(大濱、おおはま ちゅうざぶろう、1871… 2代 大浜 忠三郎(大濱、おおはま ちゅうざぶろう、1871年5月19日(明治4年4月1日)- 1925年(大正14年)11月24日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、横浜市会議長。幼名・茂七郎。 武蔵国久良岐郡、現在の横浜市で、洋糸織物商・初代大浜忠三郎の長男として生まれる。横浜商業学校(現横浜市立横浜商業高等学校)を経て、1888年(明治21年)東京専門学校(現早稲田大学)英語本科を卒業し、欧米諸国を遊歴した。 家業を継承して洋織物商「信濃屋」を経営し、1904年(明治37年)10月、家督を相続し忠三郎を襲名した。横浜取引所理事長、横浜商業会議所議員、横浜生命保険社長、横浜倉庫取締役、神奈川県農工銀行取締役などを務めた。
坂本 志魯雄(さかもと しろお、1871年5月19日(明治4… 坂本 志魯雄(さかもと しろお、1871年5月19日(明治4年4月1日) – 1931年(昭和6年)4月11日)は、日本の政治家、実業家、記者。高知県生まれ。号は弔民(ちょうみん)。坂本素魯哉の弟。 1871年5月19日(明治4年4月1日)、土佐国長岡郡瓶岩村亀岩(現・高知県南国市)に生まれる。 1887年(明治20年)土佐立志社に入社。専修学校(現・専修大学)を卒業後、朝鮮政府内務顧問秘書となる。 中外商業新報(現・産経新聞、日経新聞)の記者となり、1894年(明治27年)、日清戦争に際しては、軍事探偵となって満蒙の情報を収集。その後、臨時台湾総督府鉄道隊に奉職。1896年(明治29年)、フィリピン独立運動の時、台湾総督・乃木希典の密命を帯び、フィリピン群島の内情を探査。
後藤 環爾(ごとう かんじ、明治4年4月1日(1871年5月… 後藤 環爾(ごとう かんじ、明治4年4月1日(1871年5月19日) - 昭和11年(1936年)2月23日)は日本の宗教家、僧。元西本願寺執行長。号は素雲。 高知県幡多郡宿毛村(現在の宿毛市)清宝寺に生まれた。1899年東京仏教大学校を卒業後、帰郷して父をたすけて、清宝寺の住職にいそしんだ。林有造の門をたたいて指導を受けた。 本願寺よりまねかれて京都本山勤務となり、教学局注記に任ぜられた。31歳の時であった。日露戦争には、本願寺の従軍布教僧を命ぜられ、第三軍司令部付として活躍。凱旋の後、東京築地本願寺別院勤務となり、やがて東京出張所長を命ぜられた。 1929年本願寺執行長に就任した。本願寺の要職を歴任、東京市や仏教連合会等の他団体の重要役員を兼ねて活躍した。
村瀬 春雄(むらせ はるお、1871年5月18日(明治4年3… 村瀬 春雄(むらせ はるお、1871年5月18日(明治4年3月29日) - 1924年(大正13年)4月9日)は、日本の保険学者、実業家。法学博士。族籍は兵庫県平民。 日本の海上保険学の祖とされる。東京高等商業学校(現一橋大学)教授や帝国海上保険副社長を歴任し、独自の保険学を確立するとともに、多くの後進を育てた。申酉事件で母校防衛に尽力し、没後キャンパス内に胸像が設置された。 東京で生まれた。旧福井藩士・関戸由義の二男。兵庫県神戸市北長狭通出身。父である関戸由義は福沢諭吉の知人で、自家の屋敷内で福沢らが神戸商業講習所を設立。1883年、東京府平民・村瀬さだの死跡を相続する。 神戸商業講習所が改組された兵庫県立神戸商業学校(現兵庫県立神戸商業高等学校)を5回生として卒業後、1886年高等商業学校(現一橋大学)に入学。
岡田 正美(おかだ まさよし、1871年5月17日(明治4年… 岡田 正美(おかだ まさよし、1871年5月17日(明治4年3月28日) - 1923年(大正12年)10月21日)は、日本の国語学者。号は雲亭。位階は従四位、勲等は勲五等。 長野県出身。1897年に東京帝国大学文科大学国文科卒。1900年、議会に国語・国文の改良に関する請願書を提出。国語調査会の補助委員として国語の整理、改革に参与。東京帝大講師、東京外国語学校教授。墓所は染井霊園1-ロ-12にある。
建部 遯吾(たけべ とんご、明治4年3月21日(1871年5… 建部 遯吾(たけべ とんご、明治4年3月21日(1871年5月10日) - 昭和20年(1945年)2月18日)は、社会学者、東京帝国大学教授、政治家。 新潟県蒲原郡横越村(現新潟市江南区横越中央)出身。1896年帝国大学文科大学哲学科卒。翌年から講師として母校の社会学講座を担当、1898年ヨーロッパ留学、留学中1900年助教授に任ぜられ、1901年帰国してただちに東京帝大教授。帝大社会学講座の初代担当教授として長く建部時代を築いた。1922年退官。1913年日本社会学院(学会)を創設、主宰した。オーギュスト・コントに依拠した総合的社会学を講じた。対露強硬論を唱えた。その後、衆議院議員をへて1938年貴族院議員。
岩本 熊雄(いわもと くまお、明治4年3月21日(1871年… 岩本 熊雄(いわもと くまお、明治4年3月21日(1871年5月10日) - 没年不詳)は、日本の陸軍軍人、鉄道官僚。一年志願兵を経て将校となり、鉄道会社勤務を経て帝国鉄道庁・鉄道省に出仕。札幌鉄道局苗穂工場長や北海道鉄道管理局旭川工場長等を歴任する。東京府士族で官位は陸軍歩兵少尉従五位勲四等。 岡山県岡山市富田町に生まれ、1893年(明治26年)に東京工業学校機械工芸部機械科を卒業、同年12月、一年志願兵として歩兵第2連隊に入隊。1895年(明治28年)7月、歩兵少尉任官と共に予備役となり日本鉄道株式会社に入社、汽車課に勤務する。同年10月、勲六等瑞宝章を受章。1896年(明治29年)2月、盛岡工場に転属。
逆鉾 与治郎(さかほこ よじろう、1871年5月10日 - … 逆鉾 与治郎(さかほこ よじろう、1871年5月10日 - 1939年10月22日)は、鹿児島県日置郡金峰町(現南さつま市)出身で高砂部屋、のち井筒部屋に所属した大相撲力士。本名は今井 与次郎(旧姓年永)。最高位は東関脇。現役時代の体格は168cm、82kg。得意手はハズ押し、左四つ。 子供の頃から土地の宮相撲で活躍していたが、巡業で鹿児島を訪れた初代西ノ海・小錦一行に誘われて高砂へ入門、1893年(明治26年)1月場所序ノ口で初土俵を踏んだ。2年後の1895年(明治28年)6月場所には早くも十両に昇進、十両もわずか2場所で通過して1896年5月場所入幕した。この年の1月場所で初代西ノ海が引退、井筒部屋を興したのでこれに従った。
横堀 治三郎(よこぼり じさぶろう、明治4年3月20日(18… 横堀 治三郎(よこぼり じさぶろう、明治4年3月20日(1871年5月9日) - 昭和13年(1938年)5月27日)は、衆議院議員(立憲政友会)、冶金学者。 上総国長柄郡茂原町(現在の千葉県茂原市)出身。共立学校、第一高等中学校を経て、1894年(明治27年)に東京帝国大学工科大学採鉱冶金学科を卒業。三菱合資会社高島炭鉱技師となったが、1896年(明治29年)に東京帝国大学工科大学助教授に就任した。翌年よりドイツに留学し、1899年(明治32年)に帰国した後は京都帝国大学理工科大学教授に迎えられた。1901年(明治34年)、工学博士号を受ける。 1913年(大正2年)に澤柳事件により京都帝国大学を辞したが、1917年(大正6年)に秋田鉱山専門学校校長に就き、1925年(大正14年)まで在職した。
中村 清造(なかむら せいぞう、1871年5月9日(明治4年… 中村 清造(なかむら せいぞう、1871年5月9日(明治4年3月20日) - 1932年(昭和7年)7月21日)は、日本の実業家、醸造家、政治家。衆議院議員。 筑前国宗像郡上西郷村(現:福岡県福津市)で、酒造家・中村清作の長男として生まれる。1889年(明治22年)県立中学校を卒業。日清戦争、日露戦争に従軍した。 上西郷村長、津屋崎町長、宗像郡会議員、同参事会員、福岡県会議員、同参事会員などを歴任。その他、福岡県地方森林会議員、全国酒造組合連合会評議員、宗像郡酒造組合長などを務めた。 1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙に福岡県第9区から立憲政友会所属で出馬して当選。第15回総選挙でも当選し、衆議院議員を連続2期務めた。
高田 実(たかた みのる、1871年5月8日(明治4年3月1… 高田 実(たかた みのる、1871年5月8日(明治4年3月19日)- 1916年(大正5年)9月24日)は、日本の新派俳優である。 東京の千住の生まれ。初めは鉄道の駅員を務めていたが、後に俳優に転向し芸能界入りし新派に属した。1892年(明治25年)、川上音二郎が創設した一座に入門し、初めて舞台に立つ。1896年(明治29年)には活動の場を大阪に移り、同派の俳優であった喜多村緑郎らと共に「成美団」を結成した事で、一躍有名となった。「角座」や「朝日座」等関西における新派を生み出した。 1904年(明治37年)に東京に戻った後は「本郷座」を創設し、同派の座長となる。高田の演技が特徴を持った事により、庶民からは「新派(新演劇)の團十郎」と呼ばれた。
丸山 浪弥(まるやま なみや、1871年5月7日(明治4年3… 丸山 浪弥(まるやま なみや、1871年5月7日(明治4年3月18日) - 1944年(昭和19年)11月21日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。衆議院議員(2期)。 信濃国安曇郡、後の長野県南安曇郡三田村(現安曇野市)で、農業・丸山実太の二男として生まれる。1890年、明治法律学校を卒業。1896年3月、北海道庁に入庁し拓殖部に勤務。同年9月、のちの岩内町に転居し『岩内新報』を創刊した。 その後、札幌市会議員、北海道会議員、同参事会員、同副議長、同議長、北海道国防義会会長、胆振鉄道会社役員などを務めた。 1924年5月の第15回衆議院議員総選挙で北海道第12区から出馬し当選。以後、第18回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算2期務めた。
杉山 東太郎(すぎやま とうたろう、1871年5月4日(明治… 杉山 東太郎(すぎやま とうたろう、1871年5月4日(明治4年3月15日) - 1936年(昭和11年)12月27日)は、明治から昭和時代初期の政治家。自由民権運動家。衆議院議員(3期)。 杉山半蔵の長男として静岡県周智郡村松村(山名郡久努村、磐田郡久努村、袋井町を経て現袋井市)に生まれる。久津部の刮目舎(現袋井市立東小学校)から明治法律学校に学び、自由民権運動に傾倒する。19歳にして久努村長に就任し、同村会議員、磐田郡会議員、静岡県会議員を経て、1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から出馬し当選。つづく第12回、第13回総選挙でも当選し、衆議院議員を3期務めた。
小田 省吾(おだ しょうご、1871年5月2日 - 1953… 小田 省吾(おだ しょうご、1871年5月2日 - 1953年12月12日)は、日本の歴史学者。専門は朝鮮史。 1871年、三重県鳥羽市で生まれた。1887年、神宮皇學館に入学したがすぐに退学して上京し、国民英学会や東京英語学校で学んだ。東京帝国大学文科大学史学科に進学し、1899年に卒業。 卒業後は、長野県師範学校で教職に就いた。後に徳島県師範学校校長、奈良県立畝傍中学校校長、第一高等学校教授をつとめた。 1908年、大韓帝国政府に招聘され、教育制度改革に従事。教科書編輯課長として教科書の編纂などにあたった。 日韓併合後の1918年には、朝鮮総督府中枢院編纂課長として朝鮮史の編纂にあたり、1923年には朝鮮史学会を創立した。
加藤 正治(かとう まさはる、1871年4月29日(明治4年… 加藤 正治(かとう まさはる、1871年4月29日(明治4年3月10日) - 1952年(昭和27年)3月16日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。東京大学名誉教授。第11代中央大学学長、初代総長。日本郵船副社長加藤正義の養子になった。旧姓平林。岡野敬次郎に師事。弟子に兼子一、菊井維大など。 趣味は俳句、俳画、茶道。俳号の犀水は、犀川に由来。松本市城山公園には頌徳碑があるほか、句碑が多数残る。母校旧制中学の同窓会長や長野県人連合会長も務めた。大正6年、澤柳政太郎を総裁、加藤を副総裁として財団法人「日本アルプス会」が結成された。なお、弟子には商法学者の森清(中央大学名誉教授)がいた 1917年(大正6年)の高等学校旧制松本高校誘致運動では、横田秀雄・田中穂積らと連署で「高等学校設立建白書」を政府に提出し、松本への高等学校誘致に努めた。
吉岡 彌生(よしおか やよい、新字体 : 吉岡 弥生、187… 吉岡 彌生(よしおか やよい、新字体 : 吉岡 弥生、1871年4月29日〈明治4年3月10日〉 - 1959年〈昭和34年〉5月22日)は、日本の教育者、医師。位階は正五位。勲等は勲二等。東京女医学校(現・東京女子医科大学)創立者。東京女医学校校長、東京女子医科大学学頭、至誠会会長などを歴任した。旧姓は鷲山(わしやま)。 東京女子医科大学の前身である東京女医学校、東京女子医学専門学校を創設し、女性医師の養成や医学の教育・研究の振興に尽力した。津田梅子(津田塾大学創立者)、安井てつ(東京女子大学創立者)、鳩山春子(共立女子学園創立者)、跡見花蹊(跡見学園創立者)、下田歌子(実践女子学園創立者)、横井玉子(女子美術大学創立者)などと並ぶ、日本の女子教育の基盤づくりに活躍した女性教育者である。
田中 武雄(たなか たけお、1871年4月25日(明治4年3… 田中 武雄(たなか たけお、1871年4月25日(明治4年3月6日) - 1918年(大正7年)2月27日)は、日本の逓信官僚。官選青森県知事、小倉市長。 東京府出身。1896年、東京法学院を卒業。同年12月、判事検事登用第1回試験、文官高等試験行政科試験に合格。逓信省に入省し逓信属となる。 以後、逓信事務官、逓信書記官、一等郵便局長、逓信省経理局調度課長兼電信灯台用品製造所長、兼台湾総督府事務官、東京逓信経理局長などを経て、熊本逓信管理局長に就任。 1913年6月、青森県知事に就任。大凶作への対応に尽力。1914年4月に休職となる。同年に退官。1916年12月、小倉市長に就任。1918年2月、上京中に死去した。
根本 祐太郎(ねもと ゆうたろう、1871年4月24日〈明治… 根本 祐太郎(ねもと ゆうたろう、1871年4月24日〈明治4年3月5日〉 - 1947年〈昭和22年〉8月24日)は、明治から昭和初期の薬剤師、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、福島県安積郡郡山町長。 陸奥国安積郡、後の郡山町(現郡山市)で、薬種商「かさいし屋」根本庄次郎の長男として生まれる。1874年(明治7年)に父が死去して家督を相続した。町立金透小学校(現郡山市立金透小学校)の尋常科、同高等科を経て、1888年(明治21年)県立福島医学校附属病院で薬学と調剤術の講習を受け、1889年(明治22年)第1回薬剤師試験に合格し、薬舗(現:薬局)を開業した。福島県薬剤師会長、日本薬剤師会初代代議員などを務めた。
山田 禎三郎(やまだ ていざぶろう、1871年4月22日(明… 山田 禎三郎(やまだ ていざぶろう、1871年4月22日(明治4年3月3日) - 1930年(昭和5年)10月6日)は、日本の教育者、実業家、衆議院議員。 信濃国諏訪郡東堀村(現長野県岡谷市)に生まれる。1894年東京高等師範学校を卒業後、郡立諏訪実科中学(長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)に勤め、千葉県師範学校に赴任。その後、 同郷の渡辺千秋京都府知事の縁故で京都府視学に登用されたが辞任し、1899年茨城県師範学校の校長となった。1900年教職を去り、千葉新聞の記者となる。 その後は実業界に転じ、書肆普及会会長、帝国書籍取締役に就任。1902年の教科書疑獄事件では事件発覚のきっかけを作った人物となったが、当人は直前にヨーロッパの教科書事情調査として渡英しており、逮捕は免れたものの留守宅が家宅捜索を受けた。
赤塚 自得(あかつか じとく、1871年4月21日(明治4年… 赤塚 自得(あかつか じとく、1871年4月21日(明治4年3月2日) - 1936年(昭和11年)2月1日)は日本の漆芸家、専門は蒔絵、本名は平左衛門。 東京市芝区浜松町、代々漆芸の家系に生まれる。勧学義塾に学びながら狩野久信に日本画、蒔絵を師事、のち寺崎広業に師事し、白馬会で洋画も学ぶ。 作品の発表先を求めて1925年に金工家の香取秀真、陶芸家の板谷波山らと工芸済々会を結成。 1927年には第8回帝国美術院展覧会で漆工の審査委員を務め、1930年、帝国美術院会員となる。 伝統を踏まえながらも自らの創意で自然を描き、漆芸の近代化を進め、大正・昭和初期の漆芸界で指導的役割を果たした。 1936年、65歳で死去。
佐伯 美津留(さえき みつる、1871年4月21日(明治4年… 佐伯 美津留(さえき みつる、1871年4月21日(明治4年3月2日) - 1948年7月16日)は、日本の発明家。 山形県山形市出身。海軍兵学校に入るが、近眼となり、退学し、1894年(明治27年)に逓信省に入った。逓信省では、無線電信電話の研究、船舶無線電信局、海岸電信局、長距離大電力無線電信局などの設計・施設に従事した。1923年(大正12年)に勅任官に任ぜられた。1925年(大正14年)に日本無線電信会社が創立されると、技師長となった。 正四位勲四等。墓所は多磨霊園。
松家 徳二(まつか とくじ、1871年4月20日(明治4年3… 松家 徳二(まつか とくじ、1871年4月20日(明治4年3月1日)- 1929年(昭和4年)11月14日)は、明治から大正期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 讃岐国寒川郡、後の香川県大川郡富田村(大川村、大川町を経て現さぬき市)で、農業・大庄屋、松家茂太郎の二男として生まれる。郷校で学んだ後、山川塾で漢学を修め、大阪に遊学した。1894年(明治27年)家督を相続した。 1898年(明治31年)香川県会議員に選出された。1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙に香川県郡部から立憲政友会所属で出馬して当選。以後、第11回総選挙まで当選し、衆議院議員を連続5期務めた。
菅沢 重雄(菅澤、すがさわ しげお、1870年5月20日(明… 菅沢 重雄(菅澤、すがさわ しげお、1870年5月20日(明治3年4月20日) - 1956年(昭和31年)1月7日)は、明治時代後期から昭和時代の政治家。実業家。銀行家。衆議院議員。貴族院多額納税者議員。千葉県香取郡久賀村長。 千葉県香取郡、のちの久賀村(現多古町)出身。菅原惣兵衛の長男として生まれ、1893年(明治26年)家督を相続する。農業を営む。 1896年(明治29年)以降、千葉県会議員、香取郡会議員、千葉県山林会、大日本山林会各評議員、久賀村長、郡所得税調査委員、郡宅地価修正委員長のほか、東京成徳高等女学校、東京商業女学校各校長、多古銀行、佐原興業銀行各頭取、日本畜産商事、渋谷急行電鉄、松戸畜産各社長を歴任した。
西田 幾多郎(にしだ きたろう、1870年5月19日〈明治3… 西田 幾多郎(にしだ きたろう、1870年5月19日〈明治3年4月19日〉 - 1945年〈昭和20年〉6月7日)は、日本の哲学者。京都学派の創始者。学位は、文学博士(京都帝国大学・論文博士・1913年)。京都大学名誉教授。著書に『善の研究』(1911年)、『哲学の根本問題』(1933年)など。 東大哲学選科卒。参禅と深い思索の結実である『善の研究』で「西田哲学」を確立。「純粋経験」による「真実在」の探究は、西洋の哲学者にも大きな影響を与え、高く評価される。 加賀国河北郡森村(現在の石川県かほく市森)に、西田得登(やすのり)、寅三(とさ)の長男として生まれる。西田家は江戸時代、十村(とむら)と呼称される加賀藩の大庄屋を務めた豪家だった。
鎌田 三郎兵衛(かまた さぶろうべえ、1870年5月18日(… 鎌田 三郎兵衛(かまた さぶろうべえ、1870年5月18日(明治3年4月18日) - 1934年(昭和9年)10月20日)は、明治時代後期から大正時代の政治家、銀行家。衆議院議員。旧名は悦蔵。 先代鎌田三郎兵衛の長男として、但馬国養父郡口大屋村(現・養父市大屋町)に生まれる。1899年(明治32年)8月、襲名し家督を相続する。1894年(明治27年)東京法学院を卒業する。 農業を営む傍ら、口大屋村会議員、同村長、養父郡会議員、兵庫県会議員を歴任する。ほか、養父郡畜産組合長、同農会長、大屋銀行頭取、五十五銀行・西谷銀行各取締役を務めた。1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙で兵庫県第13区から無所属で出馬して当選し、1期務めた。
高木 藤太郎(たかぎ とうたろう、1870年5月16日〈明治… 高木 藤太郎(たかぎ とうたろう、1870年5月16日〈明治3年4月16日〉 - 1945年〈昭和20年〉3月4日)は、日本の地主・家主、資産家。 愛知県海部郡津島町(現・津島市)出身。野口米次郎の兄。高木益喜の養子となる。1893年、慶應義塾別科を卒業する。地家主で、貸地貸家業を営む。 商業人であったが、和歌、和文、書道が堪能だった。宗教は真宗。趣味は和歌、漢詩。住所は東京市日本橋区大伝馬塩町・同区本町4丁目、京橋区京橋1丁目・同区大鋸町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
近藤 寿市郎(こんどう じゅいちろう、1870年5月15日(… 近藤 寿市郎(こんどう じゅいちろう、1870年5月15日(明治3年4月15日) - 1960年(昭和35年)4月14日)は、愛知県渥美郡高松村(現・田原市)出身の政治家。愛知県東三河地域を日本有数の農業生産地に変えた豊川用水の構想発案者として知られる。渥美郡会議員、愛知県会議員、衆議院議員、豊橋市第12代市長、建設会社の東海興業初代社長。 1870年(明治3年)、愛知県渥美郡高松村(現・田原市高松町)で、庄屋を務めていた家の長男として生まれた。 小学校の高等科卒業後、15歳の時に「これからの国民は法律をわきまえなければならない」と考えて、家族に告げることなく父の友人を頼って東京に上り、明治法律学校へ入校した。
嘉納 徳三郎(かのう とくさぶろう、明治3年4月12日(18… 嘉納 徳三郎(かのう とくさぶろう、明治3年4月12日(1870年5月12日) - 1945年(昭和20年)5月17日)は、日本の大蔵官僚。錦鶏間祗候。 兵庫県出身。1895年(明治28年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。大蔵属、主税官、税務監督官、青森税務管理局長、松山税務管理局長、神戸税関監視部長、長崎税関長、横浜税関長を歴任。1916年(大正5年)に大蔵省専売局長官に就任した。 1918年(大正7年)6月7日に退官した後、同年同月21日、錦鶏間祗候になると同時に朝鮮銀行副総裁に就任した。1923年(大正12年)に朝鮮銀行を退職した後は、財団法人講道館理事を務めた。
松本 君平(まつもと くんぺい、明治3年4月10日(1870… 松本 君平(まつもと くんぺい、明治3年4月10日(1870年5月10日) - 昭和19年(1944年)7月28日)は、静岡県出身のジャーナリスト、政治家、教育者、思想家。文学博士、衆議院議員。 妻は旧土佐藩士・岡内重俊の娘「壽(ひさ)」。 遠江国小笠郡中内田村(現:静岡県菊川市)の初代村長・松本丑太郎の二男として中内田村213番地に生まれる。幼名は貞次郎。母は木佐森茂助の三女「幸(こう)」。長じて岡田淡山の私塾・冀北学舎で国学・漢学・英語を3年間学んだ後、東京に遊学した。 1887年(明治20年)8月31日、名を「君平」と改める。 1890年(明治23年)9月11日、兄・栄太郎が廃嫡し、同月17日、静岡県佐野郡西郷村の松浦五平治の養子となって家を出た為、君平が惣領息子となる。
衞藤 一六(えとう いちろく、1870年5月9日(明治3年4… 衞藤 一六(えとう いちろく、1870年5月9日(明治3年4月9日) - 1928年(昭和3年)8月2日)は、大分県出身の実業家。大分県農工銀行頭取等を歴任した。 1870年(明治3年)、大分県速見郡北由布村(現・由布市)に溝口家の四男として誕生。1891年(明治24年)に衞藤家に養子に入る。1913年(大正2年)、大分県農工銀行に入り、1922年(大正11年)に常務取締役、1926年(大正15年)には頭取を歴任した。また、佐伯土地、大分証券、豊後土地、大分電気工業の取締役も兼任している。さらに、公職としては、大分県農事講習所長、大分市会議員、大分県会議員を務めた。 この間、1925年(大正14年)に大湯線(現在の久大本線)の湯平駅 - 北由布駅(現在の由布院駅)間が開通したが、その際に由布院盆地内を大きくカーブして北由布駅を通る現ルートの実現に力を尽くし、後の由布院発展の礎となった。
足立 荘(あだち そう、明治3年4月8日(1870年5月8日… 足立 荘(あだち そう、明治3年4月8日(1870年5月8日) - 昭和22年(1947年)11月15日)は日本の実業家。日本徴兵保険社長(1936-1941)。教育者足立正の弟。 鳥取県上道村(現在の境港市上道町)に足立国五郎の次男として生まれる。父・国五郎は村の助役、収入役、村会議員等を歴任した人物。 旧制鳥取県尋常中学校(現在の鳥取県立鳥取西高等学校)を経て、明治25年(1892年)慶應義塾大学部文学科を卒業し時事新報社に入社。主として翻訳小説を同紙上に掲載する。後政治部に転じ、専ら外交、政治方面に活動し伊藤博文、陸奥宗光等の知遇を得た。日清戦争では大本営付き主任記者となり、後政治部長に栄進、明治34年(1901年)編集長となる。
常盤 大定(ときわ だいじょう、1870年5月8日〈明治3年… 常盤 大定(ときわ だいじょう、1870年5月8日〈明治3年4月8日〉 - 1945年〈昭和20年〉5月5日)は、仏教研究者、浄土真宗大谷派の僧。号は「榴邱」。 1870年、磐城国伊具郡大張村(現宮城県伊具郡丸森町)で常盤大宣の二男として生まれた。生家は順忍寺。15歳の時に仙台新寺小路の道仁寺に入り、伯父・常盤了然の養子となった。小学校の卒業を待たず東京に出て、大谷教校に入学。大谷教校では漢籍中心であったため、共立学校で併せて英語を学んだ。1889年、第一高等中学に進学。 1895年(明治28年)、東京帝国大学文科大学哲学科に入学。当時、井上哲次郎、元良勇次郎らが教官を務めていたが、最も影響を受けたのは一高時代から徳風会を通じて知っていた村上専精であったという。
久下 豊忠(くげ とよただ、明治3年4月8日(1870年5月… 久下 豊忠(くげ とよただ、明治3年4月8日(1870年5月8日) - 昭和12年(1937年)12月10日)は、日本の衆議院議員、ジャーナリスト。 紀伊国那賀郡上名手村(現在の和歌山県紀の川市)の三井家に生まれ、久下純菴の養子となった。英仏学舎、大阪英学舎に学ぶ。1893年(明治26年)、読売新聞社の記者となった。1897年(明治30年)、和歌山新報社に入り、主筆、社長を歴任した。1899年(明治32年)より和歌山県会議員を務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
二宮 哲三(にのみや てつぞう、1870年5月7日〈明治3年… 二宮 哲三(にのみや てつぞう、1870年5月7日〈明治3年4月7日〉 - 1937年〈昭和12年〉9月27日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。福島県福島市長。 二宮直躬の長男として、のちの福島市柳町に生まれる。福島小学校に入学し、途中教育改革を経て、1884年(明治17年)福島高等小学校高等科を卒業。上京し、私立大学予備学校に入り、1887年(明治20年)5月、獨逸学協会学校に入学した。同普通科を卒業し、1890年(明治23年)9月、専修科に入学し、政治経済学を学び、1893年(明治26年)7月に卒業した。同年12月、一年志願兵として近衛歩兵第1連隊第7中隊に入り、1894年(明治27年)日清戦争が勃発すると同年12月に臨時召集を受け、翌年8月に陸軍歩兵少尉に進み、12月に召集解除となった。