大塚 楠緒子(おおつか くすおこ/なおこ、1875年(明治8… 大塚 楠緒子(おおつか くすおこ/なおこ、1875年(明治8年)8月9日 - 1910年(明治43年)11月9日)は明治末期に活躍した歌人、作家。夫は美学者の大塚保治(入婿)。本名:大塚久寿雄。別名:久寿雄子・楠緒・楠緒子。才色兼備で夏目漱石が恋した人として知られる。 東京控訴院長・大塚正男の長女として東京市麹町区一番町で生まれる。麹町の富士見小学校出身。東京女子師範附属女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・高等学校)を卒業後、佐々木弘綱・信綱の元で和歌を学んだ。1895年、小屋保治と結婚(保治は大塚姓になった)。夫が留学中、英語を明治女学校で学ぶほか、絵画を橋本雅邦に師事、ピアノや料理なども学んだ。
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檀野 礼助(檀野 禮助、だんの れいすけ、1875年(明治8… 檀野 礼助(檀野 禮助、だんの れいすけ、1875年(明治8年)8月9日 - 1940年(昭和15年)3月20日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・繁夫。 長崎県彼杵郡矢上村(現長崎市)の旧佐賀藩郷士・檀野勝次、とう夫妻の長男として、高来郡諫早村の母の実家で生まれる。現川小学校、長崎県尋常中学校、第五高等中学校を経て、1899年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業した。 大学卒業後、三井物産に入社し、シンガポール出張所長、バンコック出張所長、台北出張所長、若松出張所長を歴任。1913年2月、北海道炭礦汽船に転じ、商務課長、売炭部長を務めた。その後、南洋貿易 (株) を設立して社長に、また、東京海運 (株) を設立して常務取締役にそれぞれ就任。
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市村 光恵(いちむら みつえ、1875年(明治8年)8月5日… 市村 光恵(いちむら みつえ、1875年(明治8年)8月5日 - 1928年(昭和3年)9月27日)は、日本の憲法学者、政治家。京都市長。 1875年(明治8年)8月5日、高知県高岡郡蓮池村芋岡(現:土佐市)に生まれる。1894年(明治27年)高知尋常中学校、1902年(明治35年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業。 東京帝国大学講師になる。1903年(明治36年)京都帝国大学助教授に、1909年(明治42年)京都帝国大学教授に就任。翌年、法学博士の学位を受く。昭和2年(1927年)京都市長に選任されたため、大学を退官し、名誉教授となる。昭和3年(1928年)9月27日、53歳で死去。墓は京都市上賀茂大乗寺境内。
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米田 奈良吉(よねだ ならきち、1875年(明治8年)8月5… 米田 奈良吉(よねだ ならきち、1875年(明治8年)8月5日 – 1938年(昭和13年)12月16日)は、逓信官僚。 奈良県出身。1901年(明治34年)に東京帝国大学法科大学を卒業後、同大学院で学び、1902年高等文官試験に合格した。逓信省通信書記、通信事務官、一等郵便局長、長野郵便局長、逓信管理局事務官、関東都督府事務官、逓信省参事官、九州逓信局長などを歴任した。1924年(大正13年)、逓信次官に就任した。 退官後、第15回衆議院議員総選挙に出馬したが、当選を果たせなかった。 その後、逓信協会会長を務めた。
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工藤 鉄男(工藤 鐵男、くどう てつお、1875年8月5日 … 工藤 鉄男(工藤 鐵男、くどう てつお、1875年8月5日 - 1953年6月16日)は、大正・昭和期の日本の政治家。行政管理庁長官(第3代)。衆議院議員(7期)。参議院議員(1期)。 青森市出身。日本大学法学部を卒業後、二六新報、日本新聞にて記者を務める。日露戦争では従軍記者を務め、日露戦争後は日比谷焼打事件に連座したこともある。 その後ロンドン大学に学び、日大歯科医専講師などを経て青森に帰郷し、普選運動を展開する。1924年の第15回衆議院議員総選挙に憲政会から立候補し、青年団体などの支持を集め初当選する。以後通算当選7回。戦前は憲政会・立憲民政党に所属し、1931年の第2次若槻内閣で文部参与官、1938年の第1次近衛内閣にて厚生政務次官を歴任する。
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柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31… 柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は、日本の官僚、民俗学者。 東京帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)を卒業して農商務省(現在の経済産業省・農林水産省)官僚となり、貴族院書記官長(現在の衆議院事務総長/参議院事務総長に相当)まで昇り詰めた。退官して約20年を経た1946年(昭和21年)に枢密顧問官に補され、枢密院が廃止されるまで在任した。 日本学士院会員、日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は正三位・勲一等。出版物等においては、常用漢字体による「柳田 国男」という表記も使用される。 「日本人とは何か」という問いの答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行した。
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杉谷 代水(すぎたに だいすい、1874年8月21日 - 1… 杉谷 代水(すぎたに だいすい、1874年8月21日 - 1915年4月21日)は、日本の詩人、劇作家、翻訳家。本名は虎蔵。号の「代水」は鳥取市を流れる「千代川」に由来するという。アミーチスの「クオーレ」中の一篇を「親を尋ねて三千里」のタイトルで翻訳したり、文部省唱歌となる「星の界(ほしのよ)」の歌詞などを書いた。 また長女の恵美子は選集の編集をしたり、佐々木恵美子の名前で脚本家として活躍した。
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徳永 重康(とくなが しげやす、1874年(明治7年)8月2… 徳永 重康(とくなが しげやす、1874年(明治7年)8月20日 - 1940年(昭和15年)2月8日)は、日本の動物学者・地質学者・古生物学者。早稲田大学教授、早稲田高等工学校校長、東京帝国大学講師などを歴任。1933年(昭和8年)に実施された第一次満蒙学術調査研究団長として熱河地方に赴き、その調査報告で1937年(昭和12年)に朝日文化賞を受賞。日本古生物学会2代会長、日本地質学会会長 を務めた。 1874年(明治7年)8月20日、芝区愛宕町にて生まれる。父親は薩摩藩士の吉原重隆。第一高等学校を経て東京帝国大学に進学する。理学部動物学科に進むもその中で古生物学に興味を持ち、地質学科への転科を希望したものの、当時その制度がなかったため受け入れられず、動物学科に籍をおいたまま地質学科の講義・実習を受けた。
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細梅 三郎(ほそめ さぶろう、1874年(明治7年)8月18… 細梅 三郎(ほそめ さぶろう、1874年(明治7年)8月18日 - 1951年(昭和26年)7月31日)は、明治から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員、山形県北村山郡楯岡町長。ブラジル移民としてサンパウロ州に渡り同地で没した。 山形県村山郡楯岡村(北村山郡楯岡村、楯岡町を経て現村山市楯岡)で、細梅勘六、タニの長男として生れた。1900年(明治33年)1月、家督を相続した。同年、宮城農学校(現宮城県農業高等学校)農科を卒業し、1903年(明治36年)7月、早稲田大学政治経済科を卒業した。農業を営む。 1903年、北村山郡会議員に選出され同議長も務めた。1905年(明治38年)楯岡町長に就任。1907年(明治40年)9月、山形県会議員に選出され、1911年(明治44年)9月まで1期在任した。
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鈴木 穆(すずき しずか、1874年(明治7年)8月18日 … 鈴木 穆(すずき しずか、1874年(明治7年)8月18日 - 1933年(昭和8年)8月23日)は、朝鮮総督府官僚。 東京府出身。神田共立中学(現開成中)、第一高等中学(一高)を経て、1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学を卒業。1902年、福山藩士町野精蔵次女鈴子と結婚。大蔵書記官を経て、朝鮮総督府で度支部司税局長、度支部長官・臨時土地調査局長、朝鮮銀行副総裁を歴任した。 1925年(大正14年)に退任後は、京都電機株式会社取締役会長を務め、1932年(昭和7年)からは関東軍司令部嘱託、関東軍特務部財政経済顧問となり、満州に駐在。翌年、パラチフスに罹患し永眠す。多磨霊園(12-1-1-3)に埋葬される。
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岡田 武松(おかだ たけまつ、1874年(明治7年)8月17… 岡田 武松(おかだ たけまつ、1874年(明治7年)8月17日 - 1956年(昭和31年)9月2日)は、日本の気象学者。第4代中央気象台長を多年に亘り務めた。「気象学の父」とも呼ばれる。 千葉県相馬郡布佐村(東葛飾郡布佐町、我孫子町を経て、現在の我孫子市布佐)の海産物を扱う商家に生まれる。6歳で布佐初等小学校に入学、課外に和算を学ぶ。14歳で上京し、東京府立尋常中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)に入学し、19歳で卒業し、第一高等中学校に入学。物理学を中村清二らに学ぶ。同級に桑木或雄(あやお)らがいる。このころ利根川の水害が多発したこともあり、防災科学や気象学に関心を寄せる。 1899年(明治32年)、26歳で東京帝国大学理科大学物理学科を卒業し、ただちに中央気象台(現在の気象庁)に勤務。
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深井 功(ふかい いさお、1874年(明治7年)8月17日 … 深井 功(ふかい いさお、1874年(明治7年)8月17日 - 1942年(昭和17年)8月17日)は、日本の政治家。衆議院議員。 長野県小県郡深井村(現東御市)生まれ。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、東京専門学校を中退し、家業に従事した。明治36年(1903年)自宅に長野県初の有限責任信用組合を設立し、明治43年(1910年)産業組合中央会長野支会の設立とともに理事、副組合長に就任し、指導的役割を果たし、長野県における「産業組合運動の父」と称された。のちに同中央会理事、中央金庫監事などを歴任した。 同44年(1911年)長野県会議員となり、大正13年(1924年)第15回衆議院議員総選挙に当選した。
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広瀬 実光(ひろせ さねみつ、1874年8月17日 - 19… 広瀬 実光(ひろせ さねみつ、1874年8月17日 - 1955年6月24日)は、日本の実業家。日本陶器取締役社長や、同社取締役会長などを務めた。弓道家(大日本武徳会弓道範士)でもある。 陸軍少佐や森村銀行頭取を務めた広瀬実栄の二男として生まれ、高等商業学校(現一橋大学)附属主計学校、ニューヨーク・イーストマン商業専門学校を経て、1895年森村組入社。1917年には東洋陶器設立発起人となり、同社監査役に就任。1922年日本陶器社長。1939年日本陶器会長。森村豊明会監事なども務めた。 また弓道家でもあり、1929年5月に大日本武徳会弓道範士。名古屋市の弓道界で重きをなし、1940年に開催された紀元二千六百年奉祝天覧武道大会弓道の部では審査員を務めた。
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谷野 格(たにの かく、1874年(明治7年)8月16日 -… 谷野 格(たにの かく、1874年(明治7年)8月16日 - 1923年(大正12年)6月10日)は、日本の裁判官。 兵庫県出石郡出石町(現在の豊岡市)出身。1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。東京区裁判所検事、東京地方裁判所検事、司法省参事官、東京控訴院検事、東京帝国大学法科大学講師嘱託を歴任。1913年(大正2年)、大審院判事となる。1914年高千穂高等商業学校(現高千穂大学)教員に就任。1916年(大正5年)には法学博士の称号を得た。 1917年(大正6年)、台湾総督府法院判官に転じ、覆審法院長、高等法院長を務めた。
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浅野 和三郎(あさの わさぶろう、1874年(明治7年)8月… 浅野 和三郎(あさの わさぶろう、1874年(明治7年)8月13日 - 1937年(昭和12年)2月3日)は、日本の心霊主義運動の父。筆名は浅野 馮虚(あさの ひょうきょ)、憑虚 とも。兄は海軍軍人の浅野正恭。 茨城県稲敷郡源清田村(現:稲敷郡河内町源清田)に代々医師を生業とする、浅野家の父・元斎(げんさい)(婿入り)と、母・かんの三男として生まれた。 1896年(明治29年)、東京帝国大学に入学。同時期に小泉八雲が英文学担当教師として赴任し、教えを受ける。在学中に機関誌『帝国文学』に処女作「吹雪」を発表。浅野馮虚の筆名で、その後短編小説等を続々発表し文才を発揮。さらに、英文学科に在籍しながら、英米文学の翻訳にも手を広げ、アーヴィングの『スケッチブック』、ディケンズの『クリスマスカロル』、エドワーズの『奇々怪々』を出版した。
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南 次郎(みなみ じろう、1874年(明治7年)8月10日 … 南 次郎(みなみ じろう、1874年(明治7年)8月10日 - 1955年(昭和30年)12月5日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正二位勲一等功四級。
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根岸 佶(ねぎし ただし、1874年(明治7年)8月9日 -… 根岸 佶(ねぎし ただし、1874年(明治7年)8月9日 - 1971年(昭和46年)7月22日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。日本学士院賞受賞。 和歌山県出身。和歌山県尋常中学校(現和歌山県立桐蔭高等学校)を経て、1899年高等商業学校(現一橋大学)本科卒業、1901年同校専攻部貿易卒。本科では日中貿易論、専攻部では中国交通論を研究。1933年「支那ギルドの研究」で東京商科大学(現一橋大学)経済学博士。 1901年上海の東亜同文書院教授、1907年東亜同文会主査。中国経済を研究。帰国後、1908年東京高等商業学校(現一橋大学)講師、1911年東京朝日新聞政治部記者、1916年東京商科大学(現一橋大学)教授、1919年同大学附属商業専門部教授、1921年同大学専門部教授、1935年定年退官、同大学講師、1936年同大学学生課課長心得、1939年東亜同文会第六調査委員会学術部委員会委員、1950年東京商科大学客員教授、東京商科大学名誉教授、1951年一橋大学名誉教授。
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新保 寅次(しんぼ とらじ、1874年(明治7年)8月6日 … 新保 寅次(しんぼ とらじ、1874年(明治7年)8月6日 - 1955年(昭和30年))は、日本の教育者。 1874年、新保正與の次男として新潟県蒲原郡、のちの西蒲原郡曽根村(曽根町、西川町を経て現新潟市西蒲区)で生まれ、新保宇源太の養子となった。第一高等学校を経て、1898年(明治31年)、東京帝国大学文科大学国文科を卒業し、大学院に進んだ。 卒業後は、高田中学校教諭、福岡県立中学伝習館教諭、真岡中学校校長、宇都宮中学校校長、鹿児島県立第二鹿児島中学校校長、山口高等学校校長、松本高等学校校長を歴任し、1932年(昭和7年)から広島高等学校校長を務めた。
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中沢 弘光(中澤弘光, なかざわ ひろみつ、1874年〈明治… 中沢 弘光(中澤弘光, なかざわ ひろみつ、1874年〈明治7年〉8月4日 - 1964年〈昭和39年〉9月8日)は、洋画家、版画家、油彩画家、挿絵画家。日本芸術院元会員。 東京・芝で、旧佐土原藩士の子として生まれる。1887年、曽山幸彦に入門、洋画を学んだ。曽山の没後、堀江正章にも師事する。1900年、東京美術学校西洋画選科修了。黒田清輝に師事。白馬会創立に参加、同展覧会に出品を続けた。1912年、光風会創立に参加。1922年、ヨーロッパに渡り翌年帰国、金尾文淵堂や兵庫の西宮書院から新版画の作品を発表している。1924年(大正13年)1月、白日会を創設した。1930年(昭和5年)、帝国美術院会員、1937年(昭和12年)、帝国芸術院会員、1944年(昭和19年)7月1日、帝室技芸員。
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田上 郷吉(たがみ さときち、1874年(明治7年)7月30… 田上 郷吉(たがみ さときち、1874年(明治7年)7月30日 - 1959年(昭和34年)7月7日)は日本の元船長。 一般社団法人日本海事検定協会初代会長。勲四等旭日小綬章受章者。 山口県佐波郡右田村に生まれる。 1894年(明治27年)7月 - 官立商船学校航海科に入学。在学中、英国に留学し約5年間にわたり同国帆船に乗船し、航海運用術及び先進各国の海運状況を研究した。 1899年(明治32年)7月 - 官立商船学校航海科卒業と同時に大阪商船株式会社に入社。累進して船長となる。 1906年(明治39年)10月 - 嘱望されて台湾総督府海事官に就任。同時に土木技術士を兼任した。この間に英国ロイド保険協会の台湾全島における海事鑑定人も委嘱された。
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岩田 鳴球(いわた めいきゅう、本名:久太郎、 1874年(… 岩田 鳴球(いわた めいきゅう、本名:久太郎、 1874年(明治7年)7月30日 - 1936年(昭和11年)9月22日)は、日本の俳人。 石川県大聖寺町(現・加賀市)本町生まれ。1894年高等商業学校(現・一橋大学)中退。俳句を正岡子規、高浜虚子に学んだ。 三井物産に入社し、1905年から三井物産台湾支店長として台湾に赴任。初の台湾俳誌『相思樹』の選者となり、1906年から『相思樹』主筆。 三井物産専務理事を経て、1918年大本教に入信。総務や出版局(現・天声社)局長、大正日日新聞編集局長、第一天声社社長、統理補などを務めたが、大本事件で、1936年に獄死した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
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新城 新蔵(しんじょう しんぞう、1873年(明治6年)8月… 新城 新蔵(しんじょう しんぞう、1873年(明治6年)8月20日 - 1938年(昭和13年)8月1日)は、日本の天文学者・中国学者、理学博士、京都帝国大学第8代総長・名誉教授。専門は宇宙物理学および中国古代暦術。戦前の中国天文学研究の権威であった。 福島県会津若松の造り酒屋に六男として生まれる。若松中学校(現福島県立安積高等学校)、第二高等中学校を経て帝国大学理科大学物理学科を1895年に卒業。大学院に進学し、1897年陸軍砲工学校教授に就任。 1900年京都帝国大学理工科助教授となる。その後ドイツのゲッティンゲン大学に留学し天文学を学び、帰国後に教授となる。留学中の1906年(明治39年)9月、万国測地学協会総会中央局から案内を受け、ハンガリー国ブダペストにて開催された第15回万国測地学協会総会に陪席。
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福島 文右衛門(ふくしま ぶんうえもん、1873年(明治6年… 福島 文右衛門(ふくしま ぶんうえもん、1873年(明治6年)8月20日 - 1937年(昭和12年)1月2日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 素封家・福島文衛の長男として敦賀県今立郡鯖江清水町(福井県今立郡鯖江町を経て現鯖江市)に生まれ、1905年(明治38年)3月、家督を相続し、前名文治を改める。生家は醤油醸造業を営んだ。1908年(明治41年)越前電気を設立し、同社長に就任。福井県農工銀行頭取を務めたのち、1911年(明治44年)福井県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1918年(大正7年)9月28日まで在任した。鯖浦電気鉄道や福井県鯖江女子師範学校の創設にも関与した。
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七沢 清助(ななさわ せいすけ、旧字体: 七澤 淸助、187… 七沢 清助(ななさわ せいすけ、旧字体: 七澤 淸助、1873年〈明治6年〉8月17日 - 1967年〈昭和42年〉2月28日)は、大正・昭和期に活動した日本の政治家、実業家である。長野県出身。旧姓は井口。 井口家から長野で菓子商「凮月堂」を営む七沢家に養子入り家業を継ぐ。長野市会議員(当選3回)や信濃電気支配人を務めたのち1934年(昭和9年)には第6代長野市長に選ばれた。晩年は長野信用金庫役員を長く務めた。 七沢清助は、1873年(明治6年)8月、長野県人・井口常治郎の次男として生まれた。出身地は長野県更級郡原村(後の中津村、現・長野市)。長野中学校を経て上京し東京物理学校で学んだのち、長野県に戻り北佐久郡志賀小学校で教諭となった。
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蒲生 保郷(がもう やすさと、1873年〈明治6年〉8月17… 蒲生 保郷(がもう やすさと、1873年〈明治6年〉8月17日 - 1928年〈昭和3年〉9月11日)は、日本の教育者。福島高等商業学校初代校長。 旧平戸藩士の蒲生林作の子として生まれる。高等商業学校(現一橋大学)卒業。山口高等商業学校の教授を勤めていた。1909年から1910年にかけて、文部相派遣外国留学生(文部省督学官)としてイギリスに留学しロンドンに滞在する。その際にボーイスカウトの整然たる活動に興味を持ち、ボーイスカウト運動に関する書籍類などを収集。日本に持ち帰る。 帰国後、収集した英国ボーイスカウトに関する書籍を桂太郎首相と小松原英太郎文部大臣に贈呈し、政府に「日本でも少年団活動を検討すべし」との建白書を提出する。
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紫安 新九郎(むらやす しんくろう、1873年(明治6年)8… 紫安 新九郎(むらやす しんくろう、1873年(明治6年)8月17日 – 1952年(昭和27年)7月8日)は、衆議院議員(立憲国民党→公友倶楽部→憲政会→立憲民政党→翼賛議員同盟→翼賛政治会→無所属→日本自由党)、ジャーナリスト。号は蘇山。 兵庫県城崎郡田鶴野村(現在の豊岡市)出身。1897年(明治30年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学し、在学中に雑誌『二十世紀』を発刊した。1900年(明治33年)に卒業した後は博文館の編集局に入った。1901年(明治34年)から鎮西日報の主筆となり、1903年(明治36年)からは萬朝報で筆を執った。1907年(明治40年)、大阪市役所に入って商工課長となり、後に南区長に転じた。
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池松 時和(いけまつ ときかず、1873年(明治6年)8月1… 池松 時和(いけまつ ときかず、1873年(明治6年)8月16日 - 1953年(昭和28年)4月17日)は、日本の内務官僚、官選府県知事。 鹿児島県出水郡武本村向江平良馬場(現在の出水市向江町)にて鹿児島県士族(元薩摩藩士)・池松静蔵の長男として生まれる。幼名・与一郎。父静蔵は西南戦争で戦死。1878年3月、家督を相続する。1893年7月鹿児島高等中学造士館予科卒業、1895年7月鹿児島高等中学造士館本科卒業。1898年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り警視庁警部となる。 以後、佐賀県参事官、群馬県警部長、岩手県警部長、栃木県事務官・第四部長、愛知県事務官・第四部長、福井県内務部長などを歴任。
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2代 永田 吉右衛門(ながた きちうえもん、1873年(明治… 2代 永田 吉右衛門(ながた きちうえもん、1873年(明治6年)8月15日 - 1918年(大正7年)2月26日)は、明治から大正時代の政治家。銀行家。実業家。衆議院議員。岐阜県大野郡高山町(現在の高山市)長。幼名は尚次。 初代永田吉右衛門の長男として、高山町(現在の高山市)に生まれる。1897年(明治30年)10月、家督を相続し襲名する。東京商業学校を卒業後、郷里に戻り長らく高山町長を務めた。ほか、高山町会議員、学務委員を歴任した。 財界では飛騨電灯、濃飛自動車、飛騨林業、濃飛農工銀行各取締役、飛騨銀行取締役、同頭取、富山電気、大垣銀行、十二銀行各監査役を歴任した。また、五松庵不及と号して俳句を能くした。
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松本 重威(まつもと しげたけ、1873年(明治6年)8月1… 松本 重威(まつもと しげたけ、1873年(明治6年)8月12日 - 1947年(昭和22年)1月30日[要出典])は、日本の大蔵官僚。錦鶏間祗候。 旧相馬藩士の松本威重の長男として福島県に生まれる。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、高等文官試験に合格した。司税官、大蔵書記官・専売局事業部長、大蔵省主税局長を歴任した。 1923年(大正12年)4月6日に退官し日本興業銀行副総裁に就任。その後、1924年(大正13年)1月24日に錦鶏間祗候を仰せ付けられた。墓所は護国寺共葬墓地。 宗教は神道、趣味は能楽。
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野村 嘉六(のむら かろく、1873年〈明治6年〉8月10日… 野村 嘉六(のむら かろく、1873年〈明治6年〉8月10日 - 1952年〈昭和27年〉1月17日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→憲政会→立憲民政党→翼賛議員同盟)、富山市長、貴族院勅選議員などを務めた。幼名は安次郎。 富山県婦負郡鵜坂村(現在の富山市)生まれ。1893年(明治26年)東京法学院(現在の中央大学)卒業。1898年(明治31年)に弁護士試験に合格し、1902年(明治35年)から判事として、富山・敦賀・大津の裁判所で勤務した。1906年(明治39年)に退官して富山市で弁護士を開業した。富山弁護士会長も務めた。 1911年(明治44年)3月、富山県会議員補欠選挙に婦負郡選挙区から立候補して当選した。
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竹尾 年助(たけお としすけ、1873年8月10日 - 19… 竹尾 年助(たけお としすけ、1873年8月10日 - 1956年)は、明治時代の実業家、エンジニア。 1873年、愛知県八名郡賀茂村(現、豊橋市)の竹尾彦九郎の二男として生まれた。 1894年(明治27年)、東京高等工業学校を卒業。アメリカ・ニューヨークに渡り、高峰譲吉の研究所に入る。1896年、スティーブンス工科大学機械科に編入学、1898年に卒業。卒業後も、同大学でディーゼルエンジン開発研究などに10年間従事した。1908年、アメリカ機械学会(ASME, The American Society of Mechanical Engineers)会員に推挙される。 1903年に帰国。幸袋製作所と大阪鉄工所に勤務した。
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丸山 環(まるやま たまき、1873年(明治6年)8月8日 … 丸山 環(まるやま たまき、1873年(明治6年)8月8日 - 1952年(昭和27年)11月20日)は、日本の教育者、文部官僚。 滋賀県伊香郡北富永村(現在の長浜市)出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学文科大学独文科を卒業。第六高等学校教授、第八高等学校教授を経て、1913年(大正2年)、文部省督学官となった。第六高等学校校長を務めた後、1924年(大正13年)から甲南高等学校(現在の甲南大学)校長兼教授となった。その後さらに九段精華高等女学校校長を務めた。
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三宅 徳業(みやけ のりなり、1873年8月3日 - 196… 三宅 徳業(みやけ のりなり、1873年8月3日 - 1966年7月12日)は、日本の裁判官。行政裁判所長官。岡山県岡山市出身。 岡山城下の友野家に生まれ、のち、下道郡岡田村(のち吉備郡岡田村→同大備村→同真備町、現・倉敷市)の三宅家の養子となる。旧制岡山中学、第三高等中学校を経て、1896年東京帝国大学法科卒。司法官試補として京橋区裁判所に勤務し、東京区裁判所判事となり、東京地方裁判所、東京控訴院などの判事となる。1907年行政裁判所評定官、同部長兼務、1939年行政裁判所長官に就任し、1942年まで務めた。墓所は多磨霊園。
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河上 清(かわかみ きよし、1873年〈明治6年〉8月2日 … 河上 清(かわかみ きよし、1873年〈明治6年〉8月2日 - 1949年〈昭和24年〉10月12日)は、米国で活躍した日本人ジャーナリスト。日本におけるキリスト教社会主義の活動家の1人である。山形県出身。筆名は翠陵、陵山。 1873年(明治6年)8月2日、旧米沢藩士宮下忠茂・きみの四男として誕生。宮下雄七と名づけられる。1892年(明治25年)に河上清と改姓改名。 米沢中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)卒業後、上京して篤志家(曽根俊虎、上杉茂憲ら)の援助を受けつつ慶應義塾、東京法学院、青山学院などで学び文筆で身を立てることを志す。 万朝報記者となり社会主義とキリスト教に関心を抱き、足尾銅山鉱毒事件などの追及を行った。
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京極 高備(きょうごく たかよし、1873年(明治6年)7月… 京極 高備(きょうごく たかよし、1873年(明治6年)7月30日 - 1933年(昭和8年)10月25日)は、明治から大正期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・於菟吉。 旧讃岐多度津藩主・京極高典の二男として生まれる。父の死去に伴い、1906年(明治39年)1月27日、子爵を襲爵した。 1898年(明治31年)学習院高等科を卒業し、さらに同大学部を修了した。1897年(明治30年)陸軍騎兵少尉に任官し、騎兵中尉に進んだ。退役後に司法属となる。 1910年(明治43年)10月29日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1925年(大正14年)7月9日まで3期在任した。
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若尾 璋八(わかお しょうはち、明治6年(1873年)7月2… 若尾 璋八(わかお しょうはち、明治6年(1873年)7月27日 - 昭和18年(1943年)1月10日)は、山梨県出身の実業家、貴族院議員、衆議院議員。 山梨県山梨郡下於曽村(現在の甲州市)に広瀬久光の四男として生まれる。東京法学院(現在の中央大学)を卒業後、明治29年(1896年)に甲州財閥をリードした若尾民造の二女「きよの」と結婚し同人の養子となった。 大正6年(1917年)4月23日の第13回衆議院議員総選挙、大正9年(1920年)5月10日の第14回衆議院議員総選挙、大正13年(1924年)5月12日の第15回衆議院議員総選挙に山梨選挙区から立候補して衆議院議員に当選。昭和元年(1926年)12月28日に辞任するまで9年4か月在任し、その間、立憲政友会総務、大正13年(1924年)6月30日には全院委員長となった。
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野口 遵(のぐち したがう、1873年7月26日 - 194… 野口 遵(のぐち したがう、1873年7月26日 - 1944年1月15日)は、日本の実業家。日本窒素肥料(現・チッソ)を中核とする日窒コンツェルンを一代で築いた。「電気化学工業の父」や「朝鮮半島の事業王」などと称された。チッソの他にも、旭化成、積水化学工業、積水ハウス、信越化学工業の実質的な創業者でもある。
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姉崎 正治(あねさき まさはる、1873年〈明治6年〉7月2… 姉崎 正治(あねさき まさはる、1873年〈明治6年〉7月25日 - 1949年〈昭和24年〉7月23日)は、日本の宗教学者、著作家。日本における宗教学の祖とされる。 『帝国文学』共同創刊者、東京帝国大学宗教学講座初代教授、日本宗教学会初代会長、無所属倶楽部所属の貴族院帝国学士院会員議員。号は「嘲風」(ちょうふう)。 1873年、京都府で生まれた。父は桂宮家に仕える士族であった。少年期に仏教活動家平井金三の仏教系英学塾オリエンタルホールで英語を学ぶ。第三高等中学校を経て、1893年、東京帝国大学哲学科に入学。井上哲次郎、ケーベルについて学ぶ。1896年、同大学同学科を卒業した。 1897年には哲学館(東洋大学)で「比較宗教学」を担当、講義し、前後して、浄土高等学院(大正大学)、東京専門学校(早稲田大学)でも講義を開始した。
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中島 久万吉(なかじま くまきち、1873年7月24日 - … 中島 久万吉(なかじま くまきち、1873年7月24日 - 1960年4月25日)は、財界人であり、政治家、実業家、男爵。
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久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう、1873年〈明治6年… 久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう、1873年〈明治6年〉7月23日 - 1929年〈昭和4年〉1月27日)は、日本の皇族、陸軍軍人。階級および位階勲等は軍事参議官、元帥陸軍大将、大勲位、功四級。久邇宮朝彦親王の第3王子。久邇宮第2代当主。香淳皇后(昭和天皇后)の父。上皇の外祖父、今上天皇の曽祖父にあたる。 1887年(明治20年)、父・朝彦親王の継嗣と定められ、京都府立中学(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)、学習院を経て東京の成城学校(現:成城中学校・高等学校)に入学する。1891年(明治24年)、朝彦親王薨去を受けて久邇宮を継承する。 1896年(明治29年)、陸軍士官学校を卒業し陸軍士官として勤務し、1902年(明治35年)に陸軍大学校卒業。
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五島 盛光(ごとう もりみつ、1873年〈明治6年〉7月23… 五島 盛光(ごとう もりみつ、1873年〈明治6年〉7月23日 - 1923年〈大正12年〉5月30日)は、明治時代から大正時代の華族(子爵)。五島家第33代当主。位階は従三位。旧名は溝口歓十郎。 旧越後国新発田藩主・溝口直溥の十六男として生まれる。1893年(明治26年)旧福江藩主五島家当主の五島盛主が嗣子無くして卒去したため、翌1894年(明治27年)に養嗣子として五島家を継いだ。同年1月25日、盛光と改名した。1902年(明治35年)、自ら巨費を投じて旧制五島中学校を創設した。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1921年(大正10年)5月14日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、死去するまで在任した。
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原 秀四郎(はら ひでしろう、明治5年7月18日(1872年… 原 秀四郎(はら ひでしろう、明治5年7月18日(1872年8月21日) - 1913年(大正2年)3月2日)は明治時代の歴史地理学者。帝国大学で坪井九馬三に学び、東北地方古代史の研究で文学博士号を得、國學院大學等で地理、歴史を教えた。 明治5年(1872年)7月18日愛媛県越智郡波止浜町(現今治市)の塩問屋来島屋原武一郎の七男五女の長男として生まれた。 愛媛県第一中学校、第三高等中学校予科を経て、1892年(明治25年)9月本科二部(工科・理科・農科)に進んだが、1893年(明治26年)本科一部(法科・文科)に転部し、1893年(明治27年)6月本科廃止により第一高等学校本科一部に移り、1895年(明治28年)7月卒業した。
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松井 栄尭(まつい えいぎょう、明治5年7月12日(1872… 松井 栄尭(まつい えいぎょう、明治5年7月12日(1872年8月15日) - 昭和10年(1935年)3月9日)は、日本の検事、台湾総督府官僚。 石川県出身。旧名は豊松。1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。函館区裁判所判事、函館地方裁判所判事、福岡地方裁判所判事を経て、台湾総督府判官となった。さらに台南地方法院検察官長、台北地方法院検察官長を歴任し、台南州知事に就任した。 1924年(大正13年)に退官した後は、公証人となった。
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川上 常郎(かわかみ つねろう、1872年8月13日〈明治5… 川上 常郎(かわかみ つねろう、1872年8月13日〈明治5年7月10日〉 - 1954年〈昭和29年〉11月16日[要出典])は、明治時代後期から昭和時代初期の朝鮮総督府官僚。大蔵官僚。実業家。平安北道長官。東洋拓殖理事。正四位。勲三等瑞宝章。 川上與吉の三男、川上楽次の弟として、愛媛県宇摩郡、のちの二名村大字余木(川之江町、川之江市を経て現四国中央市)に生まれる。小学校高等科四級を卒業し、宇摩郡役所雇となり、1890年(明治23年)上京する。1897年(明治30年)東京専門学校邦語政治科を卒業し、大蔵省に奉職。高等文官試験に合格し税務官となり税務監督局長に累進した。のち朝鮮総督府に出仕し土地整理局長を経て、平安北道長官に就任した。
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藤岡勝二(ふじおか かつじ、1872年8月12日 – 193… 藤岡勝二(ふじおか かつじ、1872年8月12日 – 1935年2月28日)は、日本の言語学者。上田萬年を継いで東京帝国大学言語学教授をつとめた。
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木村 作次郎(きむら さくじろう、明治5年7月5日(1872… 木村 作次郎(きむら さくじろう、明治5年7月5日(1872年8月8日) - 昭和23年(1948年)12月20日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 岐阜県安八郡大垣町(現在の大垣市)出身。上田甚助の長男として生まれ、木村家の婿養子となった。東京法学院(現在の中央大学)で学び、雑誌「濃州」を発刊した。のち日刊に改め、美濃新聞社、美濃大正新聞社の経営にあたった。大垣町会議員、安八郡会議員、大垣市会議員、大垣市会副議長、岐阜県会議員を歴任した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回・第20回でも再選された。
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後藤 祐明(ごとう ひろあき / すけあき、1872年8月4… 後藤 祐明(ごとう ひろあき / すけあき、1872年8月4日(明治5年7月1日) - 1940年(昭和15年)2月26日)は、日本の検察官、台湾総督府・内務官僚。官選県知事、公証人。 佐賀県出身。後藤保明の長男として生まれた。1904年7月、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。司法官試補となり、千葉地方裁判所検事局に配属された。 以後、千葉区裁判所検事局、長野区裁判所検事局で勤務。1909年9月、東京区裁判所検事、東京地方裁判所検事に就任。1910年2月、台湾総督府に転じ警視となる。以後、民政部蕃務本署勤務、理蕃課長、保安課長、司獄官練習所教官などを歴任。1917年5月、島根県警察部長に転じた。
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櫻井 鴎村(さくらい おうそん、1872年7月31日(明治5… 櫻井 鴎村(さくらい おうそん、1872年7月31日(明治5年6月26日) - 1929年(昭和4年)2月27日)は、日本の翻訳家、児童文学者、教育者、実業家である。本名は彦一郎(ひこいちろう)。日本で新渡戸稲造の『武士道』を出版したことで知られる。津田梅子とともに女子英学塾(今の津田塾大学)を設立して幹事となる。北樺太石油(英: Northern Karafuto Oil Consession)の取締役を務める。日本陸軍軍人の櫻井忠温は弟である。
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瀬黒 幸市(せぐろ こういち、1872年7月31日〈明治5年… 瀬黒 幸市(せぐろ こういち、1872年7月31日〈明治5年6月26日〉 - 1944年〈昭和19年〉1月24日)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の実業家である。長野県東筑摩郡寿村(現・松本市)出身で、家業は養蚕業。松本電灯の監査役に就任したのを機に電気事業に関係し、中央電気専務取締役や同社から派生した日本ステンレスの初代専務取締役を務めた。 瀬黒幸市は、明治5年6月26日(新暦:1872年7月31日)、長野県東筑摩郡寿村(現・松本市)在住の瀬黒庄平の長男として生まれた。1886年(明治19年)に県立松本中学校へ入るが1890年(明治23年)9月中途退学して上京、東京専門学校(早稲田大学の前身)で政治法律学を修めた。
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向井 倭雄(むかい しずお、1872年7月31日(明治5年6… 向井 倭雄(むかい しずお、1872年7月31日(明治5年6月26日) - 1946年(昭和21年)8月12日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲政友会)。 大分県下毛郡津民村(現在の中津市)出身で、幼時に長崎に移住した。愛媛県周桑郡長、警視庁警視・新宿警察署長、長崎県対馬島司、京都市助役などを歴任した。 1920年(大正9年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は5回を数えた。その間、田中義一内閣で逓信参与官を務めた。
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