松井 貞太郎(まつい ていたろう、1884年(明治17年)1… 松井 貞太郎(まつい ていたろう、1884年(明治17年)1月20日 - 1952年(昭和27年)9月3日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。奈良県奈良市長。貴族院多額納税者議員。 奈良市出身。松井元淳の長男として生まれる。奈良県立五條中学校(現・奈良県立五條高等学校)、第四高等学校(現・金沢大学)大学予科第一部を経て、京都帝国大学法科に入学するが中途退学する。 製墨業を営み、1921年(大正10年)10月に奈良製墨同業組合長に就任。ついで産業銀行監査役などを経て、1927年(昭和2年)2月に奈良市町総代協会長に当選。さらに同年4月に奈良市学務委員、6月に奈良実業協会総務委員長に推された。
都留 仙次(つる せんじ、1884年1月20日 - 1964… 都留 仙次(つる せんじ、1884年1月20日 - 1964年1月20日)は、日本の神学者、牧師、明治学院院長。 都留音平の息子として大分県宇佐郡宇佐町(現・宇佐市)に生まれる。長崎市のアメリカ・オランダ改革派教会系のミッションスクールの東山学院で学び、一致長崎教会で瀬川浅から洗礼を受ける。 明治学院高等部、神学部で学び井深梶之助、熊野雄七らの影響を受け、1907年に卒業する。スコットランドのオーボルン神学校に留学し、旧約学を学ぶ。1911年に帰国し、明治学院で旧約学を教えた。1913年、按手礼を受けて牧師になる。 1921年から4年間明治学院高等部長を兼任する。関東大震災の時に2名の朝鮮人学生をかくまう。
竜ヶ嵜 枩太郎(りゅうがさき まつたろう、1884年1月20… 竜ヶ嵜 枩太郎(りゅうがさき まつたろう、1884年1月20日 - 1947年2月19日)は、現在の千葉県大網白里市四天木出身で阿武松部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は齋藤 松太郎。167cm、90kg。最高位は西小結。 紫雲竜吉之助に見出され入門した。1904年5月初土俵、1909年6月十両昇進。1910年1月入幕し、1913年5月小結に昇進した。ところがそれから不振に陥り、幕内中位から下位に沈み、1918年1月限り廃業。その後は満洲、朝鮮半島で料亭を経営。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
藤沼 庄平(ふじぬま しょうへい、1883年(明治16年)2… 藤沼 庄平(ふじぬま しょうへい、1883年(明治16年)2月17日 - 1962年(昭和37年)1月2日)は日本の官僚、政治家。位階は従三位。勲一等瑞宝章。 栃木県安蘇郡堀米町(現・栃木県佐野市)に生まれる。10歳の時に実父・若田部友造が亡くなったため、長兄が相談して町長・藤沼友次郎の養子となる。1902年(明治35年)栃木県立栃木中学校(現栃木県立栃木高等学校)卒業、旧制一高を経て1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業、内務省に入省する。 奈良県、鹿児島県、京都府、大阪府の警察部長を務め、1923年(大正12年)10月に茨城県知事に就任するが、虎ノ門事件により辞職する。この後内務省警保局長として摂政の関西行啓に井上孝哉、荒木貞夫と同道、唐沢俊樹を内務省参事官に起用する。
久保 勉(くぼ まさる、1883年2月17日 - 1972年… 久保 勉(くぼ まさる、1883年2月17日 - 1972年5月24日)は、日本のギリシア哲学者。 1883年、愛媛県伊予市で生まれた。松山中学校を卒業後、1901年に海軍兵学校へ進んだ。日露戦争終結後に退役し、東京帝国大学哲学科選科に入学した。大学ではラファエル・ケーベルの教えを受け、その後助手を務めた。1912年、東京帝国大学を卒業。同大学大学院に進んだ。 1925年よりドイツに留学し、ハイデルベルク大学やベルリン大学に滞在して研究を行った。1928年に帰国し、翌1929年、東北帝国大学法文学部助教授となった。大学では阿部次郎と同僚であり、『ソクラテスの弁明・クリトン』などの刊行を共に進めていった。
木村 義雄(きむら よしお、1883年2月14日 - 195… 木村 義雄(きむら よしお、1883年2月14日 - 1957年7月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県出身。1911年、東京帝国大学政治科卒。日本石油(株)に入り、販売課長、道路部長、同社嘱託、朝鮮石油(株)専務取締役、大栄倉庫(株)社長となる。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において福岡3区から立憲民政党公認で立候補して当選し、衆議院議員を1期務めた。1932年の第18回衆議院議員総選挙で落選した。1957年死去。
西山 哲治(にしやま てつじ、1883年(明治16年)2月1… 西山 哲治(にしやま てつじ、1883年(明治16年)2月13日 - 1939年(昭和14年)12月15日)は、日本の教育者。 兵庫県氷上郡竹田村(現在の丹波市)出身。代用教員、准教員を経て、1901年(明治34年)に哲学館(現在の東洋大学)に入学した。1905年(明治38年)に哲学館を卒業した後は、雑誌「教育実験界」の記者となり、また日本家庭辞書の編纂にあたった。1906年(明治39年)から1910年(明治43年)までニューヨーク大学に留学し、教育学博士の称号を得た。 1912年(明治45年)には帝国小学校・帝国幼稚園を創設し経営にあたった。さらに1926年(大正15年)からは東洋大学教授も務めた。
吉家 敬三(よしいえ けいぞう、明治16年(1883年)2月… 吉家 敬三(よしいえ けいぞう、明治16年(1883年)2月12日 - 没年不明)は日本の実業家。元鴨川化工会長。 父吉家捨蔵は長野県多額納税者で農業を営んだ。長男光夫の妻道子は王子製紙社長、日本商工会議所会頭などを歴任した足立正の三女。 長野県上高井郡小布施村(現小布施町)に生まれた。吉家捨蔵の長男。 明治38年(1905年)早稲田大学専門部法律科修了。大正5年(1916年)亀井染料に入り大正15年(1926年)満州鉱山薬社長に就任し後南満火工品社長を兼ね昭和16年(1941年)鴨川ニッケル(後の鴨川化工)会長に挙げられた。
小林 古径(こばやし こけい、旧字:古徑、1883年〈明治1… 小林 古径(こばやし こけい、旧字:古徑、1883年〈明治16年〉2月11日 - 1957年〈昭和32年〉4月3日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本画家。本名は茂(しげる)。 1883年(明治16年)、新潟県中頚城郡高田土橋町(現上越市)に生まれる。早期に家族を亡くし、1899年(明治32年)に上京して梶田半古に日本画を学ぶ。半古から古径の雅号を授かる。1914年(大正3年)第1回再興日本美術院展で入選、同人に推挙される。1922年(大正11年)から日本美術院留学生として、前田青邨と共に渡欧留学。翌1923年(大正12年)、大英博物館で中国・東晋の名画「女史箴図巻」(じょししんずかん)を模写している。
八木 元八(やぎ もとはち、1883年(明治16年)2月10… 八木 元八(やぎ もとはち、1883年(明治16年)2月10日 – 1946年(昭和21年)10月29日)は、衆議院議員、外交官。 静岡県榛原郡相良町(現在の牧之原市)出身。1902年(明治35年)、外務省留学生試験に合格し、サンクトペテルブルク・アモイに留学した。1906年(明治36年)、外務書記生となり、アモイ、奉天、香港、漢口、ニューヨークに勤務した。1918年(大正7年)より長沙副領事、北京副領事、天津副領事、青島領事、ニューオーリンズ領事を歴任した。1928年(昭和2年)よりハルビン総領事を務めた。 退官後は鴨緑江採木公司理事長、鴨緑江製材株式会社代表、安東市商工公会会長などを務めた。
及川 古志郎(おいかわ こしろう、1883年〈明治16年〉2… 及川 古志郎(おいかわ こしろう、1883年〈明治16年〉2月8日 - 1958年〈昭和33年〉5月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。 岩手県出身(出生地は新潟県古志郡)。海兵31期・海大13期。第2次近衛内閣・第3次近衛内閣で海軍大臣。第18代軍令部総長。 1883年(明治16年)2月8日、新潟県古志郡で医師・及川良吾の長男として生まれる(本籍は岩手)。母親は大島高任の長女。初めは「越郎」といったが、後に生誕地から「古志郎」と改名した。 岩手県で育ち、同県内の小学校を経て、盛岡中学校(現:岩手県立盛岡第一高等学校)に進学した。及川は野村胡堂や金田一京助、田子一民ら同窓生に勧められるままに、長詩・短歌を盛んに寄稿していた。
清水 比庵(しみず ひあん、1883年(明治16年)2月8日… 清水 比庵(しみず ひあん、1883年(明治16年)2月8日 - 1975年(昭和50年)10月24日)は、日本の歌人、書家、画家、政治家。本名は清水秀(しみず ひで)。号は他に匕舟、比舟、比安。質素な生活ぶり、岡山にゆかりがあること、歌人・書家という活動分野から、晩年は「今良寛」と呼ばれた。 岡山県上房郡高梁町(現・高梁市弓之町)に清水質(ただし)と妻・すへの長男として生まれる。旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)、第六高等学校(現・岡山大学)を経て、1908年(明治41年)京都帝国大学(現・京都大学)法学部を卒業。中学から大学まで同級生だった友人に神社柳吉がいる。司法官として神戸地方裁判所へ勤務。
小口 みち子(おぐち みちこ、1883年2月8日 - 196… 小口 みち子(おぐち みちこ、1883年2月8日 - 1962年7月27日)は、日本の美容家、婦人運動家、小説家。出生名は寺本みち子(てらもと みちこ)、号は美留藻(みるも)。兵庫県出身。 1883年(明治16年)2月8日、兵庫県加東郡社村(加東市)出身。教育者の寺本武・ぬいの長女。旧姓は寺本。号は美留藻(みるも)。小学校卒業後、独学で教員検定試験に合格し、郷里で2年間、神戸市立神戸小学校で3年間、上京後も2年間、小学校正教員の教職に就いた。 同じ時期、平民社の社会主義婦人講演会に出席し「生まれて初めてわが魂をゆさぶる内容」に感銘し、社会主義そのものよりも女性解放に魅せられて平民社に出入りする。
川崎 正一(かわさき しょういち、1883年(明治16年)2… 川崎 正一(かわさき しょういち、1883年(明治16年)2月7日 - 没年不詳)は、大阪府岸和田市長。農学者。 大阪府泉南郡沼野村(現在の岸和田市)出身。1904年(明治37年)、東京帝国大学農科大学実科を卒業。栃木県立農学校教諭、和歌山県立農林学校教諭、有馬郡立有馬農林学校教諭を歴任。さらに静岡県農事試験場技師、同茶業組合連合会技師、京都府農業技師、同農事試験場技師を務めた。 帰郷後の1922年(大正11年)、岸和田市会議員に当選。さらに大阪府会議員、同参事会員に選ばれた。 1933年(昭和8年)から1936年(昭和11年)まで岸和田市長を務めた。 その他、大阪府農会副会長、泉南畜産組合長などを務めた。
田口 謙蔵(たぐち けんぞう、1883年2月6日 - 195… 田口 謙蔵(たぐち けんぞう、1883年2月6日 - 1956年1月16日)は、日本の新聞人、秋田県会議員、郷土史家。松圃(しょうほ)と号した。 田口家は秋田県の花館村の人であり、先祖は千助とされる。大曲町の素封家であった田口米吉の二男として産まれる。祖父・岩蔵が、謙蔵には幼くして非凡な才能のあることを見抜き、満三歳から大道政治郎という人をつけて勉強させた。大道の熱心な教育もあり、通常より2年早い5歳で大曲小学校に入学し神童と呼ばれる。 1891年に秋田市伝紳画会が平福穂庵の追悼画会として全国から作品を募集した際に、当時9歳の謙蔵も絵画を応募したが、審査にあたった鈴木百年、菅原白竜は筆致に感じて奉書紙に漢文の奨励詞を書いて、手づから与えた。
高畠 亀太郎(たかばたけ かめたろう、1883年2月6日 -… 高畠 亀太郎(たかばたけ かめたろう、1883年2月6日 - 1972年9月23日)は、日本の実業家・政治家、衆議院議員(2期)。画家の高畠華宵は弟。 小間物商と生糸商を営んでいた高畠和三郎の長男として愛媛県北宇和郡宇和島町裡町4丁目(現・愛媛県宇和島市)に生まれた。実業界・地方政界で活動した後、1937年に中央政界に入る。1939年の政友会分裂に際しては久原房之助や鳩山一郎らとともに正統派に所属した。政党解消後は翼賛議員同盟に所属し、1942年の第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦候補として立候補し当選。その後は翼賛政治会・大日本政治会に所属した。 戦後は旧日政会系の日本進歩党の結党に参加したが、日政会を母胎にしたとはいえ進歩党所属議員の大半は政党解消以前は立憲民政党・政友会革新派・政友会統一派に所属しており、政友会正統派に所属していた議員で進歩党結党に参加した者は高畠以外では中井一夫・西川貞一・依光好秋・猪野毛利栄・三善信房・綾部健太郎の6名のみである。
小島 七郎(こじま しちろう、1883年(明治16年)2月5… 小島 七郎(こじま しちろう、1883年(明治16年)2月5日 – 1930年(昭和5年)3月5日)は、衆議院議員(憲政会)、弁護士。 山口県吉敷郡山口町(現在の山口市)出身。1913年(大正元年)、東京帝国大学法科大学を卒業。ハルビンで西伯利亜新聞社の社長となり、さらに東京通信社の理事を務めた。 牛込区会議員、同議長、東京市会議員を経て、1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。その後、東京市会議長に就任した。 その他に関東醸造株式会社取締役、哈爾浜取引所監査役などを務めた。墓所は多磨霊園。
鈴木 與平(すずき よへい、1883年(明治16年)2月5日… 鈴木 與平(すずき よへい、1883年(明治16年)2月5日 - 1940年(昭和15年)5月2日)は、明治から昭和にかけての日本の実業家、政治家。鈴与創業者。清水市会議長、静岡県会議長、貴族院多額納税者議員等を歴任した。旧名山崎通太郎。 2021年現在、鈴与会長を務める鈴木与平は8代目で、孫にあたる(没後に誕生した為、面識はない)。 静岡県有度郡上清水村(現静岡市清水区清水)で、沢野道太郎出生。静岡県静岡中学校に学ぶ。静岡中学時代は野球部(現在の静岡高校野球部)に所属した。東京高等商業学校(現一橋大学)在学中に鈴木家の婿養子となる。1906年に同校専攻部を卒業。1917年に家督相続し第6代鈴木與平の名を継ぐ。
鷲津 貞二郎(わしづ ていじろう、1883年2月5日 - 1… 鷲津 貞二郎(わしづ ていじろう、1883年2月5日 - 1927年12月15日)は、日本基督教会の牧師である。 1883年(明治16年)、東京小石川に永井久一郎、恒の次男として生まれる。兄の永井壮吉は後の永井荷風である。母方の祖母と母はW・シュピンナー宣教師から受洗した普及福音教会の熱心な信徒であった。 母方の鷲津家の養子になる。東京専門学校(現・早稲田大学)を卒業して、三菱銀行本店に勤務する。1902年(明治35年)に洗礼を受ける。東京神学社で学び植村正久の薫陶を受ける。卒業後に、日本基督教会の牧師の按手礼を受け、1912年(明治45年)に山梨教会に、1914年(大正3年)に水戸教会、富士見町教会、明星教会(小石川明星教会)の牧師を歴任する。
平田 貫一(ひらた かんいち、1883年〈明治16年〉2月3… 平田 貫一(ひらた かんいち、1883年〈明治16年〉2月3日 - 1971年〈昭和46年〉1月13日)は、日本の内務官僚、神職。皇學館大学初代学長。 鹿児島県薩摩郡宮之城町(さつま町)出身。第七高等学校を経て、1909年(明治42年)、東京帝國大學法科大学政治学科を卒業し、高等文官試験に合格した。農商務省に入り、特許局審査官補、鉱山監督署事務官、鉱務官、札幌鉱務署鉱政課長を務めた。その後、内務省に転じ、社会局書記官、兵庫県産業部長、岐阜県内務部長、栃木県内務部長、福岡県内務部長を歴任した。 1930年(昭和5年)、神宮皇學館長に就任。その後、近江神宮宮司を務めた。 戦後は2度にわたり神社本庁事務総長に就き、1962年(昭和37年)に皇學館大學が再興すると初代学長を務めた。
衛藤 衛(えとう まもる、1883年2月3日 - 1992年… 衛藤 衛(えとう まもる、1883年2月3日 - 1992年2月16日)は、日本の宣教師。アメリカの日系人教会でも牧師を務めた。日本人マフィアのモンタナ・ジョーこと衛藤健の実父でもある。 大分県竹田に生まれる。大分師範学校卒業後、1903年(明治36年)徴兵検査に合格し、第12師団に所属。1904年(明治37年)の日露戦争の際には遼陽会戦に参加。歩兵連隊の司令部で戦闘報告書を書く任務に就く。 関西学院の創立にも関わり、体操の教師を務めた。1917年(大正6年)に日本政府より日系アメリカ人の実態調査を命じられ、カリフォルニア州に派遣される。現地の日系人の荒んだ状態を目の当たりにした衛藤は、彼らを救済するためにストックトンで教会を開く。
大谷 正男(おおや まさお、1883年(明治16年)2月2日… 大谷 正男(おおや まさお、1883年(明治16年)2月2日 – 1967年(昭和42年)2月6日)は、貴族院勅選議員、宮内官僚。 貴族院議員大谷靖の三男として東京市に生まれる。1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学を卒業した。大蔵省に入り、税関監視官、同事務官、横浜税関監視部長を務めた。1914年(大正3年)、宮内省に入り、内蔵寮財務課長、大臣官房総務課長、書記官、宮内大臣秘書官、勅任参事官、内蔵頭を歴任。1933年(昭和8年)、宮内次官に就任。1936年(昭和11年)からは皇太后宮大夫を務めた。 1946年(昭和21年)6月19日、貴族院議員に勅選された。
保原 元二(ほばら もとじ、1883年〈明治16年〉2月2日… 保原 元二(ほばら もとじ、1883年〈明治16年〉2月2日 - 1968年〈昭和43年〉12月23日)は日本の治水技術者。北海道庁の技師として、在任中に立案された北海道の河川計画のすべてに関与していたと言われる。 また後半生においては、美術商としても活動した。 1883年(明治16年)2月2日、宮城県仙台市大町5丁目で畳商を営む旧家にて、父・千代吉と母・タネの次男として生まれる。 小学校卒業後は商業学校を経て、第二高等学校に進学。在籍中には土井晩翠から英語を教わったという。 1904年(明治37年)、東京帝国大学工科大学へ進学し、広井勇のもとで橋梁工学を学ぶ。 1910年(明治43年)7月25日、広井の勧めを受けて北海道庁に就職し、札幌市に転居する。
曺 晩植(チョ・マンシク、そう・ばんしょく、1883年2月1… 曺 晩植(チョ・マンシク、そう・ばんしょく、1883年2月1日 - 1950年10月18日)は、朝鮮の独立運動家、教育者、政治家である。雅号は古堂(コダン、고당)。日本へ留学し明治大学法学部を卒業している。 平安南道江西郡に生まれ、1905年に平壌のミッション系スクールである崇実学校に入学し、在学中にキリスト教に入信した。 1908年に崇実学校を卒業した後は、日本へ留学し、1910年まで正則英語学校において英語を学び、1911年には明治大学法学部へ進学した。その際、インドのマハトマ・ガンディーが主唱した「非暴力・不服従」に関する論文に共感、これが後の独立運動における思想の礎となり、「朝鮮のガンジー」と呼ばれる所以となった。
山崎 定義(やまざき さだよし、1883年(明治16年)2月… 山崎 定義(やまざき さだよし、1883年(明治16年)2月1日 - 1971年(昭和46年)6月4日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。富山市長。 富山県上新川郡富山千石町(現富山市)で、旧富山藩士、陸軍大尉・山崎定孝、敏(とき)夫妻の長男として生まれたが、生後11ヵ月で父が病のため死去した。啓迪高等小学校(その後、八人町小学校を経て現富山市立芝園小学校)を経て、富山県立富山中学校に進み、三年次に名古屋陸軍地方幼年学校を受験して合格。中央幼年学校を経て陸軍士官学校(15期)に進み、1903年11月30日、同校を卒業して金沢歩兵第35連隊に勤務。1904年2月12日、陸軍歩兵少尉に任官。
黒木 親慶(くろき ちかのり、1883年(明治16年)2月1… 黒木 親慶(くろき ちかのり、1883年(明治16年)2月1日 - 1934年(昭和9年)3月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。 宮崎県西諸県郡飯野村(後の飯野町、現・えびの市)に大河平親貞の長男として生まれ、黒木実幸の養子となる。 熊本陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1904年(明治37年)11月、陸軍士官学校(16期)を卒業。同期生に、岡村寧次、小畑敏四郎、永田鉄山らがいる。同年12月、歩兵少尉に任官し、歩兵第46連隊付となる。1905年(明治38年)5月から12月まで、日露戦争に出征。1912年(大正元年)陸軍大学校(24期)を卒業した。 陸軍士官学校教官、参謀本部部員、ハルビン駐在を経て、1916年(大正5年)第一次世界対戦下のロシア軍に従軍。
緒方 知三郎(おがた ともざぶろう、1883年1月31日 -… 緒方 知三郎(おがた ともざぶろう、1883年1月31日 - 1973年8月25日)は、日本の病理学者。東京生まれ。正三位・勲一等。 緒方洪庵の次男である緒方惟準の四男。緒方章は弟。緒方富雄、緒方安雄は甥。岳父(妻の父)は岡村輝彦。岡村昭彦、岡村春彦は義甥(妻の甥)。佐藤泰然は曾祖父。 旧制第三高等学校を経て、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)を卒業。山極勝三郎に師事。脚気や結核、腫瘍の発生、「唾液腺内分泌に関する研究」等を研究。ドイツに留学し、ベルリン市ウエストエンド病院病理研究室などでの研究を終えて、1913年帰国、東京帝国大学医科大学医学科講師に嘱託、翌年助教授になる。1923年に東京帝国大学医学部教授となり、1943年に退官し、同大学名誉教授となる。
秋田 雨雀(あきた うじゃく、1883年〈明治16年〉1月3… 秋田 雨雀(あきた うじゃく、1883年〈明治16年〉1月30日 - 1962年〈昭和37年〉5月12日)は、日本の劇作家・詩人・童話作家・小説家・社会運動家である。本名は徳三(とくぞう)。 産科医である父玄庵(全盲であった)と、母まつの長男として青森県南津軽郡黒石町(現黒石市)に生まれる。黒石尋常小学校、青森県立第一尋常中学校(青森県立弘前高等学校の前身)を経て東京専門学校(早稲田大学の前身校)英文科に入学する。在学中の1904年、詩集「黎明」を刊行。 1908年、恩師の島村抱月の推薦により、『早稲田文学』6月号に小説「同性の恋」を発表。小山内薫のイプセン研究会の書記をつとめ、戯曲への関心を深める。
匂坂 春平(さきさか しゅんぺい、1883年〈明治16年〉1… 匂坂 春平(さきさか しゅんぺい、1883年〈明治16年〉1月30日 – 1953年〈昭和28年〉8月19日)は、日本の陸軍法務官(1942年以降は陸軍法務部将校)。最終階級は陸軍法務中将。 五・一五事件、二・二六事件に関する軍法会議において、各々主席検察官を務めた。 1883年(明治16年)、静岡県城東郡横地村(現:菊川市)の農家の長男として出生。16歳で上京し、1902年(明治35年)に明治法律学校(現在の明治大学)を卒業した。 日露戦争中の1904年(明治37年)、近衛歩兵第四連隊に補充召集され、奉天会戦要員として軍務に服した。応召中、判事検事登用試験に合格し、司法官試補(東京)に任じられた。
岩谷 山梔子(いわや くちなし、1883年(明治16年)1月… 岩谷 山梔子(いわや くちなし、1883年(明治16年)1月30日 - 1944年(昭和19年)1月4日)は、日本の俳人、俳画家、編集者。別号に木丹亭、黙堂など。本名は健治。青森県出身。 1883年(明治16年)に青森県青森町(現・青森市)に生まれる。10代でカリエスに罹り療養する中で俳句を始め、地元の俳句会「不来会」に参加、20歳で高浜虚子の「ホトトギス」に入会、河東碧梧桐が選者をしていた新聞「日本」にも投句する。碧梧桐の行脚(第一次「三千里」)の際に碧梧桐と会い傾倒。碧梧桐は後に山梔子の句集『山梔子第一句集』の序文で「其の時分の山梔子は世間苦も人間苦も知らないやうなウブな、さうして田舎者の山だしな本質を丸出しにした言はば荒削りな書生だつた。
岡 儀平(おか ぎへい、1883年1月30日 - 1991年… 岡 儀平(おか ぎへい、1883年1月30日 - 1991年9月28日)は、かつて男性長寿日本一だった栃木県小山市の人物。 小山市生まれ。20代で小山駅前に下駄屋を開店。その後靴店に衣替えし、70代まで現役として働いた。子供4人、孫13人、ひ孫17人に恵まれた。108歳になっても「高下駄づくりは難しい」と当時の思い出を話すこともあった。 108歳の誕生日時点では、朝食を介助を受けながらもしっかり食べ、新聞を30分ほどかけて読む生活であった。「お茶か水がほしい。年寄りの冷や水というからな」と冗談を飛ばす程であった。 誕生日には孫・ひ孫のうち15人が参加し、ロウソクをしっかり吹き消した。そして孫たちの励ましにもと笑顔でこたえた。
菊池 秋雄(きくち あきお、1883年1月28日 - 195… 菊池 秋雄(きくち あきお、1883年1月28日 - 1951年)は、青森県出身の園芸学者。京都大学名誉教授。専門は果樹園芸学。
古賀 用六(こが ようろく、1883年(明治17年)1月28… 古賀 用六(こが ようろく、1883年(明治17年)1月28日 - 1944年(昭和19年)10月28日)は、日本の陸軍軍人。陸士17期卒。最終階級は大佐、死後少将。 佐賀県田代村(現・鳥栖市)出身。兄の古賀真一も少将。熊本陸軍地方幼年学校3期生より陸軍士官学校を17期生として卒業。歩兵第13連隊第3中隊長、台湾歩兵第2連隊配属将校を経て、鯖江連隊区司令部部員。1933年8月30日に大佐で予備役編入。1944年、大正5年~9年生まれの九州北部各地の応召兵2000名からなる「南方総軍緊急補充要員久留米師団第161部隊」(通称マルコ部隊、コは古賀の頭文字)の輸送指揮官として10月13日博多港を発し、26日ボルネオ島に到着したが間もなく同地にて病死。
宇佐美 興屋(うさみ おきいえ、1883年(明治16年)1月… 宇佐美 興屋(うさみ おきいえ、1883年(明治16年)1月27日 - 1970年(昭和45年)9月27日)は、日本の陸軍軍人。陸士14期・陸大25期恩賜。最終階級は陸軍中将。 東京府出身。税関吏・宇佐美潤屋の長男として生まれる。東京府立第一中学校、陸軍中央幼年学校を経て、1902年(明治35年)に陸軍士官学校を卒業(14期)し、1903年(明治36年)、陸軍騎兵少尉に任官して騎兵第7連隊付。1913年(大正2年)11月、陸軍大学校(25期)を3位で卒業し、恩賜の軍刀を拝受。 佐官時代には、オランダ公使館附武官、陸軍省軍務局騎兵課長、騎兵第13連隊長、東京警備参謀長などを歴任。 1930年(昭和5年)3月、騎兵監部付の時に陸軍少将に進級。
魚住 折蘆(うおずみ せつろ、1883年〈明治16年〉1月2… 魚住 折蘆(うおずみ せつろ、1883年〈明治16年〉1月27日 - 1910年〈明治43年〉12月9日)は、明治時代の日本の文芸評論家。 本名は影雄(かげお)。 兵庫県加古郡母里村(現・稲美町母里)出身。兵庫県姫路尋常中学校(現・兵庫県立姫路西高等学校)入学後、内村鑑三の『東京独立雑誌』に影響を受ける。1901年(明治34年)受洗。1903年(明治36年)5月、友人の藤村操が日光華厳滝で投身自殺し、衝撃を受ける。同年9月、第一高等学校に入学。翌年『一高校友会雑誌』に「自殺論」を寄稿し、今日の人間にとって、国是国策の君でも家でもなく、自我こそが問題なのだと論じて話題になる。 1906年(明治39年)9月、東京帝国大学文科大学独文科に入学するが、同年10月哲学科に転科した。
松平 乗統(乘統、まつだいら のりつな、1883年(明治16… 松平 乗統(乘統、まつだいら のりつな、1883年(明治16年)1月27日 - 1961年(昭和36年)7月28日)は、明治から昭和期の宮内官、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・源次郎。 旧西尾藩主家当主、子爵・松平乗承の二男として生まれる。1912年、乗統に改名。父の隠居に伴い、1929年(昭和4年)6月15日、子爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、1907年(明治40年)7月、東京帝国大学文科大学史学科(国史学)を卒業し、同学史料編纂係嘱託となる。1908年(明治41年)宮内省皇孫御用掛に就任。以後、皇子御用掛兼東宮職御用掛、皇子傅育官、式部官兼御歌所主事、大礼使典儀官兼主猟官、兼李王職典紀などを務めた。
松村 謙三(まつむら けんぞう、1883年〈明治16年〉1月… 松村 謙三(まつむら けんぞう、1883年〈明治16年〉1月24日 - 1971年〈昭和46年〉8月21日)は、日本の政治家。 富山県福光町(現在の南砺市)出身の実業家、政治家。 5回にわたり中国を訪問。1970年には、周恩来首相から日中貿易継続を許される企業の条件を示された。そこで、台湾に多くの投資を行い、援助している企業との取引は拒否すると言い渡される。そうして、日中国交正常化の地固めをした。幣原内閣では農林大臣として第1次・第2次農地改革に携わった。 生家は薬種商を営む地主の素封家で、その長男である。実母は事情があって2歳の時に松村家を離れ、継母によって育てられる。腹違いの弟と妹がいた。 立本小学校尋常科・高等科を優秀な成績で卒業して富山の県立一中(富山中学)に入学した。
河本 大作(こうもと だいさく、1883年〈明治16年〉1月… 河本 大作(こうもと だいさく、1883年〈明治16年〉1月24日 - 1955年〈昭和30年〉8月25日)は、昭和初期に活動した日本の陸軍軍人。陸軍大佐。張作霖爆殺事件の計画立案者として知られている。 1883年(明治16年)1月24日、兵庫県佐用郡三日月村(現:佐用町)に、地主河本参二の次男として生まれた。高等小学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1903年(明治36年)11月に陸軍士官学校(第15期、卒業順位97番、歩兵科)を卒業。翌年日露戦争に出征、重傷。1914年(大正3年)に陸軍大学校(第26期、修了順位24番)を卒業した。中支派遣軍参謀、参謀本部付、支那公使館付武官補佐官、陸軍大学兵学教官、1926年(大正15年)3月には大佐で関東軍参謀となる、そこで1928年(昭和3年)6月の張作霖爆殺事件により停職、待命、予備役編入。
上村 進(かみむら すすむ、1883年1月23日 - 196… 上村 進(かみむら すすむ、1883年1月23日 - 1969年5月19日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(日本共産党公認)。自由法曹団設立に関わり、同団体の団長も務めた。 日本共産党機関誌「アカハタ」を印刷していたアカツキ印刷所の社長だった。 新潟県南魚沼郡塩沢町(現在の南魚沼市)出身。早稲田大学専門部法律科及び中央大学卒業。日露戦争に従軍し、退役後上京、二六新報社に入社した。1915年、弁護士試験に合格、弁護士となった。1920年には普選演説会で首相や両院議長に対して、普選反対議員へ天誅を行う旨の決議文を提出したこと(天誅事件)で起訴される(後に無罪判決)。翌年布施辰治や山崎今朝弥らと自由法曹団を結成し、労働運動、農民争議への支援を精力的に行った。
海老沢 亮(えびさわ あきら、1883年1月23日 - 19… 海老沢 亮(えびさわ あきら、1883年1月23日 - 1959年1月6日)は、日本組合基督教会の牧師であり、戦前は日本基督教連盟総主事として神の国運動を推し進め、戦後は日本基督教協議会(NCC) の初代総主事として超教派の活動を行った。 水戸藩士海老沢知成の3男として、茨城県西茨城郡笠間町に生まれる。立志学館を卒業した後、札幌農学校土木工学科で学ぶ。農学校在学中に、婦人宣教師のA・M・ドーデ―の英語教室でキリスト教に触れて, 1900年(明治33年) 田中兎毛牧師から洗礼を受ける。 1902年 (明治35年) に農学校を卒業後、日本鉄道会社に入社し、鉄道技手に任命される. 1904年(明治37年) 日露戦争が始まると陸軍少尉として、歩兵第25連隊に加わり、旅順に出征するが帰隊命令を受けて旅順攻囲戦には参加していない。
西山 政猪(にしやま まさい、1883年(明治16年)1月2… 西山 政猪(にしやま まさい、1883年(明治16年)1月21日 - 1951年(昭和26年)12月17日)は、日本の文部官僚。 高知県高岡郡越知町出身。1911年(明治44年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。長崎高等商業学校教授となり、1920年(大正9年)から民法・商法研究のためイギリス・アメリカ合衆国・ドイツに留学した。帰国後、東京帝国大学書記官・学生監、同庶務課長、文部書記官・大臣官房会計課長、専門学務局長を歴任し、1929年(昭和4年)に宗教局長に就任した。1932年(昭和7年)に退官し、同年から1935年(昭和10年)まで満州国文教部総務司長を務めた。
田中 鉄三郎(たなか てつさぶろう、1883年(明治16年)… 田中 鉄三郎(たなか てつさぶろう、1883年(明治16年)1月20日 - 1974年(昭和49年)12月2日)は、大正時代から昭和時代の日本の銀行家、実業家。満州中央銀行や朝鮮銀行の総裁を務めた。 旧鹿島藩士で沖縄県学務課長や師範学校長、佐賀県藤津郡郡長などを務めた田中馨治の三男として佐賀県藤津郡高津原村(後に南鹿島村、現在は鹿島市高津原)に生まれる。1907年(明治40年)、東京帝国大学政治学科を卒業する。1909年(明治42年)に日本銀行に入行し、1917年(大正6年)から1920年(大正9年)にかけてロンドン代理店監督役付を務め、第一次世界大戦の賠償会議に委員として参加する。1929年(昭和4年)ロンドン代理店監督となる。
高島 基江(たかしま もとえ、1882年2月18日 - 19… 高島 基江(たかしま もとえ、1882年2月18日 - 1969年3月28日)は日本の実業家。東洋高圧工業社長、帝国燃料興業総裁、満州合成燃料理事長。
前田 米蔵(まえだ よねぞう、1882年〈明治15年〉2月1… 前田 米蔵(まえだ よねぞう、1882年〈明治15年〉2月17日 - 1954年〈昭和29年〉3月18日)は、日本の政党政治家。 和歌山県出身だが、選挙区は中選挙区制時代の旧東京府第6区(戦後は東京都第5区)だった。衆議院議員選挙に通算10回当選し、特に戦前は総選挙に連続9回当選を果たした。戦前は立憲政友会政調会長・第1次近衛内閣参議等を歴任し、政党解消後は翼賛政治会筆頭総務・翼政会総務会長・大日本政治会顧問等を歴任した。 心理学者の前田嘉明は米蔵の次男。 1902年(明治35年)、東京法学院(現・中央大学)を卒業。翌1903年(明治36年)、弁護士を開業。弁護士時代に政友会所属の政治家・横田千之助の知遇を得たのが契機となり1917年(大正6年)、立憲政友会公認で第13回衆議院議員総選挙に立候補し初当選。
中村 謙一(なかむら けんいち、1882年2月17日 - 1… 中村 謙一(なかむら けんいち、1882年2月17日 - 1943年2月26日)は、日本の官僚、華族。鉄道省建設局長、鉄道会議議員、鉄道工事統制協会長、土木学会長、災害予防調査会委員、発電調査会委員等を歴任し、貴族院議員も務める。勲三等男爵。墓地は多磨霊園。中村覚の子。 中村覚・陸軍大将男爵の長男として生まれる。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
佐々木 志賀二(ささき しがじ、1882年(明治15年)2月… 佐々木 志賀二(ささき しがじ、1882年(明治15年)2月15日 – 1934年(昭和9年)9月18日)は、明治末から昭和初期の朝鮮総督府官僚、地主、政治家。衆議院議員(立憲政友会)、貴族院多額納税者議員。 岡山県和気郡和気町の長谷川家に生まれ、佐々木孚一郎の養子となった。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。統監府理事庁属、朝鮮総督府中枢院属兼朝鮮総督府属、朝鮮総督府試補、朝鮮総督府道事務官となり、忠清北道財務部長、同第二部長、全羅北道第二部長、京畿道第二部長を歴任した。 1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。1925年(大正14年)には岡山県多額納税者として貴族院多額納税者議員に互選され、同年9月29日に就任し、研究会に所属し1932年(昭和7年)9月28日まで1期在任した。
伴野 喜四郎(ともの きしろう、1882年(明治15年)2月… 伴野 喜四郎(ともの きしろう、1882年(明治15年)2月15日 - 1953年(昭和28年)3月30日[要出典])は、日本の裁判官、検察官。 長野県南佐久郡野沢町(現在の佐久市)出身。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、司法官試補となる。東京区裁判所予備検事、水戸区裁判所検事、土浦区裁判所検事、水戸区裁判所検事、東京地方裁判所検事、甲府地方裁判所検事、台湾総督府法院覆審部長、同上告部判官、台北地方法院院長、高等法院検察官長を経て、1937年(昭和12年)からは高等法院長を務めた。
朴 海克(パク・ヘグク、朝鮮語: 박해극/朴海克、1882年… 朴 海克(パク・ヘグク、朝鮮語: 박해극/朴海克、1882年(高宗19年)2月14日 - 1952年5月7日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の判事、弁護士、実業家、政治家。制憲韓国国会議員。 慶尚南道密陽または慶尚北道大邱出身。明治大学法学部卒。1915年より朝鮮総督府裁判所傘下釜山地方法院統営支庁書記課書記兼通訳生を経て、1918年11月に光州地方法院順天支庁判事となった。1921年10月、慶尚北道道弁護士として北京の国際弁護士会議に朝鮮人弁護士代表を務め、朝鮮弁護士協会創立総会議員を務めた。その後は大邱で活動し、大邱嶠南キリスト教青年会教育部夜学法律講習所講師、朝鮮民立大学期成会地方部大邱地域委員、大邱府水害問題市民大会委員を務めた。
大庭 政世(おおば まさよ、明治15年2月14日(1882年… 大庭 政世(おおば まさよ、明治15年2月14日(1882年) - 昭和14年5月19日(1939年)は、島根県津和野町出身の農民運動家。 日本初の産業組合病院の設立に尽力した。 明治15年(1882年)、鹿足郡須川村(現・津和野町)の小山家で生まれた。 明治35年(1902年)に京都府立農学校を卒業、明治36年(1903年)、愛知県立農事試験場技師に就任。 明治40年(1907年)、青原村(現・津和野町)の大庭家の養子となる。 明治41年(1908年)、帰郷。青年団運動に身を置き、養鶏、養蚕などの新しい技術を取り入れたことが青年団の人望を集める。 大正7年(1918年)、青年団に押された形で青原村産業組合長に就任。
大竹 勇(おおたけ いさむ、1882年(明治15年)2月13… 大竹 勇(おおたけ いさむ、1882年(明治15年)2月13日 - 1950年(昭和25年)2月25日)は、日本の裁判官、弁護士。台湾総督府官僚。 福島県大沼郡赤留村(赤沢村、会津高田町を経て、現在の会津美里町赤留)出身。1907年(明治42年)、東京帝国大学法科大学を卒業。司法官試補、新潟地方裁判所・新潟区裁判所検事、富山地方裁判所・富山区裁判所判事、名古屋区裁判所・名古屋地方裁判所判事を歴任。1916年(大正6年)、台湾総督府法院判官に転じ、台北地方法院判官、台中地方法院判官を務めた。1921年(大正10年)、台湾総督府税関監視官・税関事務官に転じ、台南州内務部長、台湾総督府税関長を経て、1929年(昭和4年)に澎湖庁長に就任した。