畑 正吉(はた しょうきち、1882年(明治15年)2月12… 畑 正吉(はた しょうきち、1882年(明治15年)2月12日 - 1966年(昭和41年)6月24日)は、日本の彫刻家。 現在の富山県高岡市に生まれる。1901年(明治34年)に富山県工芸学校彫刻科を卒業し、東京美術学校彫刻科へ入学する。1906年(明治39年)に同校を卒業した翌年、農商務省海外実業練習生としてフランスへ渡り、エコール・デ・ボザール最初の日本人学生として、1910年(明治43年)まで木彫を学んだ。帰国後の1911年(明治44年)、第5回文展に出品した「歳三十」が入選、以後帝展の初期まで毎回入選を重ねる。1912年(大正元年)から東京美術学校に勤め始め、雇(助手)、嘱託、助教授と昇進を重ね、1921年(大正10年)に教授に就任した。
守内 喜一郎(もりうち きいちろう、1882年(明治15年)… 守内 喜一郎(もりうち きいちろう、1882年(明治15年)2月11日 - 1950年(昭和25年)3月26日)は、日本の教育者。 石川県上新川郡下野村(現在の富山県滑川市)出身。1908年(明治41年)、広島高等師範学校を卒業。大分県師範学校教諭、京都府師範学校教諭、広島高等師範学校助教諭・訓導、同教諭・訓導、同助教授を歴任した。奈良県女子師範学校校長、佐賀県師範学校校長を務めた後、1929年(昭和4年)に広島高等師範学校教授・附属小学校主事、1943年(昭和18年)に千葉師範学校校長となった。退官後は郷里滑川町の公民館長、教育長を務めた。
堀 文平(ほり ぶんぺい、1882年(明治15年)2月10日… 堀 文平(ほり ぶんぺい、1882年(明治15年)2月10日 - 1958年(昭和33年)1月1日)は、日本の実業家。第3代富士紡績社長や、同社会長、経済団体連合会副会長、初代日本紡績協会委員長、日本銀行参与、通商産業省顧問などを歴任した。 岡山県津山に生まれる。滋賀県立商業学校(現・滋賀県立八幡商業高等学校)特待生を経て、1904年に東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業した。卒業後は大阪商船に入社した。1907年に福島紡績に移る。 1912年に大阪莫大小(メリヤス)創立に参画し、同社常務に就任した。1931年に改称された明正紡織の社長に就任する。1941年には同社を富士紡合と合併させ、富士瓦斯紡績の社長となった。
矢田 挿雲(やだ そううん、1882年(明治15年)2月9日… 矢田 挿雲(やだ そううん、1882年(明治15年)2月9日 - 1961年(昭和36年)12月13日)は、日本の小説家、俳人。本名は義勝。矢田插雲とも。石川県金沢市出身。主著に『太閤記』『江戸から東京へ』などがある。 1882年(明治15年)2月9日、石川県金沢市生まれ。幼い頃、父の転勤によって各地を転々とした。 旧制中学時代から俳句に親しむようになり、宮城県立第一中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)を卒業後に上京し、東京専門学校(現・早稲田大学)に進学する。この頃に正岡子規と知り合い、俳句を学ぶようになったが、本格的に句作をするべく、中退した。 1908年(明治41年)以降、各地を転々として九州日報や芸備日日新聞にて新聞記者として勤めた。
金行 幾太郎(かなゆき いくたろう、1882年(明治15年)… 金行 幾太郎(かなゆき いくたろう、1882年(明治15年)2月9日 - 1964年(昭和39年)11月27日)は、日本のキノコ学者である。 広島県賀茂郡大和町(現在の三原市)に生まれる。同地で生産されるマツタケの調査を行い、大和町のアカマツを用いてマツタケの増産方法を研究した。 結果増産は現実のものとなり、金行はこの方法を自身の名を用いて「金行式栽培法」と命名した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
清水 徳太郎(しみず とくたろう、1882年(明治15年)2… 清水 徳太郎(しみず とくたろう、1882年(明治15年)2月8日 - 1963年(昭和38年)11月28日)は、日本の鉄道・内務官僚、政治家。官選和歌山県知事、衆議院議員。 富山県下新川郡大家庄村(現朝日町)出身。清水源次郎の三男として生まれる。第四高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、さらに同大学院で学ぶ。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、鉄道院書記となる。以後、鉄道院副参事、同参事を歴任。 その後、内務省に転じ山形県西置賜郡長に就任。以後、栃木県理事官、奈良県警察部長、宮崎県警察部長、山形県警察部長、山形県書記官・警察部長、同県書記官・内務部長などを歴任。
戸倉 英太郎(とくら えいたろう、1882年〈明治15年〉2… 戸倉 英太郎(とくら えいたろう、1882年〈明治15年〉2月7日 - 1966年〈昭和41年〉7月29日)は、昭和時代の神奈川県の郷土史家。福岡県出身。 1882年(明治15年)2月7日、現在の福岡県福岡市博多区に士族の長男として生まれる。娘の戸倉英美によれば「いわゆる貧乏士族」であり、少年時代には、筑豊の炭鉱主・伊藤伝右衛門のもとで丁稚奉公をしたという。1900年(明治33年)3月に赤間関商業学校(現在の下関商業高等学校)を卒業した。 1903年(明治36年)4月に宇和島商業学校(現在の愛媛県立宇和島東高等学校)教諭となる。1905年(明治38年)に釜山に渡り、釜山第一公立尋常小学校の訓導となる。
岡本 鶴松(おかもと つるまつ、1882年2月7日 - 19… 岡本 鶴松(おかもと つるまつ、1882年2月7日 - 1945年7月10日)は、明治後期から昭和前期のジャーナリスト、新聞記者、評論家、小説家、翻訳家。大阪朝日新聞社(現・朝日新聞社)外報部長。号は九皐。『トム・ブラウンの学校生活』の訳書を著し、明治時代の日本の高校生に最も人気の英語圏の作品となった。 1882年2月7日、東京生まれ。大阪・英和学舎(現・立教大学)卒業。その後、東京へ戻り、東京英語専修学校(現・立教大学)で学ぶ。 1903年(明治36年)には、ハリー・ポッターシリーズに影響を与えたトマス・ヒューズの『トム・ブラウンの学校生活』の訳書を『英国学校生活』として出版。発行は鶴松の号から名付けた九皐社で、印刷は築地・明石町にあった立教学院活版部で行われ、本訳書の序文を立教学院総理であったヘンリー・セントジョージ・タッカーが寄稿した。
井上 富三(いのうえ とみぞう、1882年(明治15年)2月… 井上 富三(いのうえ とみぞう、1882年(明治15年)2月6日 - 1974年(昭和49年)3月28日)は、日本の実業家。大建産業副社長等を経て、呉羽紡績社長や、同社会長、呉羽化学工業会長などを務めた。 福井県遠敷郡熊川村生まれ。同郷の幼馴染だった伊藤竹之助の招きで東京高等商業学校(現一橋大学)在学中から伊藤本店で店内教育の講師を務め、1908年に同校本科卒業後、専門学校出身者として初めて伊藤本店に入店した。 1909年、マニラに視察のため出張。1914年伊藤忠支配人。1920年伊藤忠商事経理部長。1921年大同貿易監査役、富山紡績取締役、伊藤忠商事監査役。1929年呉羽紡績専務取締役。1933年伊藤忠商事取締役。
久保 豊四郎(くぼ とよしろう、1882年(明治15年)2月… 久保 豊四郎(くぼ とよしろう、1882年(明治15年)2月6日 - 没年不詳)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 富山県出身。久保理平の息子として生まれる。第四高等学校を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内閣属となり統計局に配属。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1911年、内務省に転じ長崎県属となる。 以後、長崎県事務官補、静岡県理事官・視学官、福岡県理事官・視学官、愛知県事務官、茨城県警察部長、関東庁参事官などを歴任。1922年、欧米各国に出張。1923年に帰国し関東庁事務官を兼任。さらに同庁警務局長を務めた。 1928年5月11日、鳥取県知事に就任。
梨本 伊都子(なしもと いつこ、1882年〈明治15年〉2月… 梨本 伊都子(なしもと いつこ、1882年〈明治15年〉2月2日 - 1976年〈昭和51年〉8月19日)は、日本の旧皇族。梨本宮守正王の妃。鍋島直大侯爵令嬢。妹に松平信子。お印は桂。旧名は、鍋島 伊都子(なべしま いつこ)。皇籍離脱前の身位は王妃で、皇室典範における敬称は殿下。皇族時代の名は、守正王妃 伊都子(もりまさおうひ いつこ)であった。 1882年(明治15年)2月2日、駐イタリア特命全権公使・鍋島直大の次女としてローマで生まれた。母は広橋胤保の五女・榮子。「イタリア(伊太利亜)の都の子」の意味で伊都子(いつこ)と命名される。生後7か月目に一家は帰国し、東京府麹町区永田町二丁目1番地(現在の東京都千代田区永田町)の鍋島本邸で育てられた。
平田 松堂(ひらた しょうどう、1882年2月2日 - 19… 平田 松堂(ひらた しょうどう、1882年2月2日 - 1971年1月9日)は、日本の画家。明治から昭和期にかけ、日本画分野で官展を中心に活動した。特に花鳥画に秀でた。本名は平田 栄二。足穂庵とも号した。 生家は華族(伯爵)。実業家の松下正治の父(その他の親族は後述)。 1882年(明治15年)、東京市牛込に平田東助の息子として生まれた 川合玉堂に師事したのち、1901年(明治34年)東京美術学校(現東京芸術大学)に入学、1906年(明治39年)に同選科を卒業した。 1907年(明治40年)、第1回文展にて『ゆく秋』が初入選、以降初期文展で入選を重ねた。 1921年(大正10年)から1932年(昭和7年)まで、東京美術学校教授。
八田 善之進(はった ぜんのしん、1882年(明治15年)2… 八田 善之進(はった ぜんのしん、1882年(明治15年)2月1日 - 1964年(昭和39年)1月7日)は、日本の内科医学者。枢密顧問官、医学博士。 福井県吉田郡上中村(現福井市上中町)で、八田善左衛門の二男として生まれる。福井中学校、第四高等学校を経て、1909年(明治42年)12月、東京帝国大学医科大学を卒業。同医科大学医科学教室、同医科大学助手を経て、1917年2月、愛知県立医学専門学校教授に就任した。 以後、愛知病院内科第一部長を務め、1917年(大正6年)11月12日、医学博士号を取得。1919年(大正8年)11月、宮内省に転じて侍医に就任し東宮御所詰となる。1921年(大正10年)、皇太子訪欧に随行した。
柴田 雄次(しばた ゆうじ、1882年〈明治15年〉1月28… 柴田 雄次(しばた ゆうじ、1882年〈明治15年〉1月28日 - 1980年〈昭和55年〉1月28日)は、日本の化学者。東京大学名誉教授。正三位勲一等瑞宝章。東京府出身。 薬学者柴田承桂の息子として東京市神田区駿河台に生まれる。父は当時、東京医学校(東京大学医学部の前身)教授。先祖は代々、尾張藩で侍医を務めた。兄柴田桂太は、のち植物生理学者、東京帝国大学教授。長男は著名な作曲家にして音楽評論家の柴田南雄。 東京高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)から旧制第一高等学校を経て、1904年、東京帝国大学理科大学化学科入学、桜井錠二や池田菊苗たちに師事し、1907年卒業。東京帝国大学大学院に進んで松原行一に師事した。
百武 源吾(ひゃくたけ げんご、1882年(明治15年)1月… 百武 源吾(ひゃくたけ げんご、1882年(明治15年)1月28日 - 1976年(昭和51年)1月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。第7代九州帝国大学総長。佐賀県出身。兄・三郎と源吾は海軍兵学校を首席卒業し、ともに海軍大将となった日本海軍史上唯一の兄弟である(陸軍大将兄弟は皇族軍人などで数例が、陸海軍を跨いだ大将兄弟は、西郷隆盛・従道兄弟、鈴木貫太郎・孝雄兄弟の2例がある)。 佐賀藩の足軽・百武庭蔵の五男として生まれた。百武三郎は三男、陸軍中将の弟・晴吉は六男である。少年時代の源吾は農学を志していたが、海軍兵学校を目指していた兄(四男)幸治が志半ばで病死したことを機に、幸治の遺志を継いで海軍を目指すことにした。
小川原 政信(おがわら まさのぶ、1882年(明治15年)1… 小川原 政信(おがわら まさのぶ、1882年(明治15年)1月28日 - 1952年(昭和27年)9月6日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員(4期)。 福井県大野郡米俵村(現大野市)で小川原左仲の長男として生まれる。1897年4月に渡道し岩内町に居住。1901年、海軍に志願し横須賀に出るが、健康を害したため北海道に戻った。 1903年9月、小学校教員となり、岩内郡堀株小学校、岩内尋常高等小学校に勤務。1909年1月、倶知安第一小学校長となり、同実業補習学校長を兼務し、1921年6月まで在任。同年7月、北海商事(株)社長に就任。その後、北海道会議員、同参事会員、北海道政務調査会長、同農地委員、後志馬匹組合長、北海道馬事牧野協会長、同農業会後志支部指導部長などを務めた。
村瀬 末一(むらせ すえいち、1882年(明治15年)1月2… 村瀬 末一(むらせ すえいち、1882年(明治15年)1月27日 - 1953年(昭和28年)3月24日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の実業家。主として電気事業に関係し、当時の大手電力会社である大同電力の副社長などを務めた。岐阜県出身。 村瀬末一は1882年(明治15年)1月27日、村瀬与平の次男として生まれた。出身は岐阜県本巣郡網代村(現・岐阜市)。生家の村瀬家は江戸時代は士分であったが、明治に入り家禄を失い、末一が生まれた頃には所有の山林田畑を売り払って没落していた。 先に勤めに出た兄の支援で上京し慶應義塾普通部に入学。次いで大学部法律科へ進み、1907年(明治40年)、26歳のとき慶應義塾を卒業した。
江藤 豊二(えとう とよじ、1882年1月26日 - 没年不… 江藤 豊二(えとう とよじ、1882年1月26日 - 没年不詳)は、日本の実業家、中日実業公司元常務取締役、三井物産株式会社元奉天支店長。 1882年(明治15年)1月26日、鹿児島県の江藤治兵衞の長男として生まれる。 鹿児島商業学校を経て、立教大学を卒業。 1900年(明治33年)三井物産株式会社に入社。1915年(大正4年)には同社奉天支店長を務める。中日実業公司の常務取締役も歴任した。 1927年(昭和2年)田中義一内閣成立当時において、満州における日中対立の中心問題であった満州鉄道問題の解決のため、満州鉄道総裁、山本条太郎の代理として交渉を行った。山本は三井物産上海支店時代、中国人の間に多くの知己を得た人物で、江藤は山本の腹心の部下でもあり、同じく中国人に知己が多かった。
大野 静方(おおの しずかた、1882年(明治15年)1月2… 大野 静方(おおの しずかた、1882年(明治15年)1月25日 - 1944年(昭和19年)9月14日)は明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 本名は山本兵三郎。東京市深川区生まれ。16歳の時に水野年方に入門し絵を学んだ。鏑木清方らとともに烏合会発足時の会員であった。後に「吉野の義経」で日本美術院褒賞を受け、「婚礼」で日本美術院銅牌を受けた。1896年(明治29年)、村岡応東、遠山素香らとともに巽画会を結成する。1904年(明治37年)に日本新聞に入社し、挿絵画家として活躍する。後に浮世絵を研究する。1944年9月14日に喘息により杉並区の自宅で死去。享年63。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
本田 成之(ほんだ しげゆき、1882年1月24日 - 19… 本田 成之(ほんだ しげゆき、1882年1月24日 - 1945年3月4日)は、日本の中国哲学者、漢学者。号は「蔭軒」。龍谷大学教授。 1882年、岐阜県本巣郡で生まれた。出家して名古屋の円通寺で修業し、南画を学んだ。のち早稲田大学、曹洞宗大学林(現駒澤大学)で学び、還俗した。1913年、京都帝国大学文学部支那哲学科を卒業。 神宮皇学館教授をへて、1920年に仏教大学(現・龍谷大学)支那学科主任教授となった。同年、小島祐馬、青木正児らと雑誌『支那学』を発刊。1931年、学位論文『支那経学史論』を京都帝国大学に提出して文学博士号を取得。
田中 寛一(たなか かんいち、1882年(明治15年)1月2… 田中 寛一(たなか かんいち、1882年(明治15年)1月20日 - 1962年(昭和37年)11月12日)は、日本の教育心理学者。文学博士。東京文理科大学名誉教授。日本の心理測定の先駆者。「田中ビネー知能検査」「田中B式知能検査」をはじめ、多くの心理検査を考案した。 岡山県出身。心理学者として初めて文化功労者、紫綬褒章を受賞。勲二等旭日重光章。 1882年1月20日、岡山県赤磐郡で生まれる。岡山県師範学校、東京高等師範学校を卒業後、山梨県師範学校の教諭を3年ほど勤めるが、恩師の松本亦太郎が京都帝国大学に実験心理学の講座を開設したことを知り、同大学哲学科に入学する。1913年、京都帝国大学文学部哲学科卒業。
牧山 耕蔵(まきやま こうぞう、1882年1月20日 - 1… 牧山 耕蔵(まきやま こうぞう、1882年1月20日 - 1961年6月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(8期)。所属政党は立憲政友会→政友本党→立憲民政党→同交会。 現在の長崎県壱岐市出身。1906年早稲田大学政治経済科卒。朝鮮に渡り、京城居留民団議員、京城学校組合会議員、朝鮮新聞(英語版)社社長などを務める。1917年の第13回衆議院議員総選挙で初当選。以来連続8期務める。第二次若槻内閣で海軍政務次官に就任、1936年には列国議会同盟会議(開催国ハンガリー)に日本議員団の団長として参加した。1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)で非推薦で立候補したが落選した。戦後は公職追放となり、追放解除後の1953年の第26回衆議院議員総選挙で長崎2区から分党派自由党公認で立候補したが落選。
島中 雄三(しまなか ゆうぞう、1881年2月18日 - 1… 島中 雄三(しまなか ゆうぞう、1881年2月18日 - 1940年9月16日)は、日本の社会運動家・文芸評論家・編集者・翻訳家。 奈良県磯城郡三輪町(現桜井市)に生まれる。父雄碩(ゆうせき)、母棹枝(さおえ)の二男。5歳年下の弟に中央公論編集長を経て同社社長になった嶋中雄作(兄との混同を避け島中より嶋中に改姓した)がいる。 奈良県立畝傍中学(現奈良県立畝傍高等学校)卒業後、東京法学院(現中央大学)に学ぶが中退。 福島四郎の「婦女新聞」の記者(編集、校正助手)として働いた時期に、同じ編集部で机を並べた3歳年上の下中弥三郎と知り合い、以後無二の親友となる。下中は後に平凡社を創立、「大人名事典」を発行するが、その中の「島中雄三」の項目は、社長の下中自身が執筆したものだった。
西田 郁平(にしだ いくへい、1881年(明治15年)2月1… 西田 郁平(にしだ いくへい、1881年(明治15年)2月18日 – 1956年(昭和31年)8月11日)は、衆議院議員(立憲民政党)、弁護士。 和歌山県東牟婁郡那智村(現在の那智勝浦町)で、西田業平の息子として生まれる。和歌山県立田辺中学校、第一高等学校を経て、1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学仏法科を卒業した。卒業後、海軍で経理官として勤務し、中主計(主計中尉)に任命されたが、間もなく官を辞した。その後、和歌山市で元代議士の阪本弥一郎とともに弁護士事務所を開いた。 その後、和歌山市会議員に当選し、1929年(昭和3年)から1931年(昭和6年)まで議長を務めた。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
泉崎 三郎(いずみさき さぶろう、1881年(明治14年)2… 泉崎 三郎(いずみさき さぶろう、1881年(明治14年)2月16日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。愛知県瀬戸市長。 山形県に相浦秀逸の三男として生まれ、泉崎時蔵の養子となった。1911年(明治44年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。会計検査院書記を務め、高等文官試験に合格した。香川県属、熊本県上益城郡長、同天草郡長を務めた後、朝鮮総督府府道事務官に転じ、京畿道財務部長、江原道内務部長、釜山府尹、咸鏡南道内務部長、黄海道内務部長を歴任した。 1934年(昭和9年)に瀬戸市長に選出された。 その後、大阪繊維製品配給株式会社専務取締役を務めた。
藤原 松三郎(ふじわら まつさぶろう、1881年2月14日 … 藤原 松三郎(ふじわら まつさぶろう、1881年2月14日 - 1946年10月12日)は、日本の数学者・数学史家。第二次世界大戦前において、90編の欧文論文を著し、1936年にオスロで開催された国際数学者会議で招待講演を行うなど、当時の日本の数学界を代表する数学者であり、また日本数学史、中国数学史、朝鮮数学史をカバーする和漢数学史家としても大きな業績を残した。特に8000枚という膨大な遺稿「日本数学史」は『明治前日本数学史』全5巻(岩波書店、1955-1960)としてまとめられ、現在においても和算史を研究する上で最も重要かつ基本的な文献となっている。 1911年(明治44年)、東北帝国大学に数学科が設置されると、30歳で教授に就任。
明石竜 兵太郎(あかしりゅう へいたろう、1881年2月14… 明石竜 兵太郎(あかしりゅう へいたろう、1881年2月14日 - 1931年6月20日)は、現在の兵庫県明石市出身で八角部屋に所属した力士。本名は立花 兵太郎(たちばな へいたろう)。身長167cm、体重83kg。最高位は西前頭10枚目。得意技は左四つ、投げ、左筈押し、押し。 1902年1月場所に初土俵。1908年1月場所に十両昇進。一度幕下に陥落したが、十両復帰を果たしてからは2場所で十両通過、1911年6月場所に入幕を果たした。しかし、幕内では思うような成績を残せず、病気もあって十両へ陥落、その後は出場せず、十両最下位まで陥落した1914年1月場所に廃業した。女性人気が高く、木下杢太郎が「四本柱の総立ちに 桟敷いろめく国技館 かわいいおしゃくが あられもな 声をはりあげ 明石竜」と詩に詠んだ。
田中 正雄(たなか まさお、1881年(明治14年)2月13… 田中 正雄(たなか まさお、1881年(明治14年)2月13日 - 1969年(昭和44年)3月2日)は、大正時代から昭和時代中期にかけての日本の教育学者・社会事業家である。社会福祉法人「六方学園」の創立者である。 島根県旧邑智郡都賀村大字上野の出身である。島根県師範学校を卒業した。 1910年(明治43年)、島根県邑智郡川本町尋常高等小学校校長に就任した。在職中の1916年(大正3年)[要検証 – ノート]から2年間、毎年1ヶ月の夏休暇を利用して東京の滝乃川学園の創設者石井亮一に弟子入りし「治療教育」等の研修を受けた。 1916年(大正5年)2月29日に校長を辞任し、広島市白島町へ一家で移住した。
青木 新(あおき あらた、1881年(明治14年)2月11日… 青木 新(あおき あらた、1881年(明治14年)2月11日 - 1970年(昭和45年)1月10日)は、日本の外交官。駐メキシコ公使、駐スペイン公使。 熊本県、現在の熊本市で、小学校教員・青木健次郎の長男として生まれる。1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、外交官及領事官試験合格した。シカゴ領事官補、副領事、領事、大使館三等書記官、同二等書記官、外務書記官、外務大臣秘書官、大使館一等書記官、同参事官、ホノルル総領事を歴任し、その間、中国、ロシア、アメリカ合衆国、ブラジルに赴任した。 1926年(大正15年)駐メキシコ公使に就任し、1930年(昭和5年)4月から同年8月までは駐キューバ公使も兼ねた。
杉江 秀(すぎえ ひいづ、1881年2月10日 - 1943… 杉江 秀(すぎえ ひいづ、1881年2月10日 - 1943年2月21日)は、20世紀前半に活動した日本の作曲家。名前は「しゅう」と音読みされることが多い。石川県金沢市出身。 1881年(明治14年)、金沢市の名家に生まれる。尋常小学校を卒業後に大阪へ移り、大阪府第一中学校(現在の大阪府立北野高等学校)13期卒業の後、東京音楽学校へ入学し甲種師範科で同じ旧制中学の先輩に当たる多梅稚に師事する。 1904年(明治37年)に東京音楽学校を卒業し、富山県師範学校の教諭となる。1907年(明治40年)に『越中唱歌』を作曲、清明堂から刊行した。1922年(大正11年)に大阪府立市岡高等女学校(現在の大阪府立港高等学校)音楽教諭となり、1928年(昭和3年)に「祝日大祭日唱歌」として作詞・作曲が公募された「明治節」の作曲部門で入選する。
大城 孝蔵(おおしろ こうぞう、1881年2月10日 - 1… 大城 孝蔵(おおしろ こうぞう、1881年2月10日 - 1935年10月30日)は、明治から昭和にかけて活躍した沖縄県国頭郡金武町金武区出身のフィリピン移民監督である。その功績などから「フィリピン移民の父」「フィリピン開拓の父」などと称される。 金武尋常小学校卒業、東京帝大農学実科中退。金武尋常小学校時代の教師であった當山久三の勧めで、1904年には沖縄県初のフィリピン移住民の監督としてルソン島に渡った。 ルソン島では避暑地のバギオに通じるルソン島のベンゲット道路の工事に携わり、劣悪な居住環境やコレラ・赤痢などの病気が原因で、移民1500人のうち700人の犠牲者を出しながらも、道路工事を完成させた。
渥美 育郎(あつみ いくろう、明治14年(1881年)2月7… 渥美 育郎(あつみ いくろう、明治14年(1881年)2月7日 - 昭和38年(1963年)3月26日)は日本の実業家。 兵庫県士族渥美遂の長男。孫・直紀の妻・美恵子は中曽根康弘元首相の二女。 東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。大阪商船取締役、海外興業社長、国際汽船・北日本汽船・海南産業・ペルー綿花・南米土地・横浜共立倉庫・大阪建物各取締役・如水会理事等を歴任。墓所は青山霊園。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
置塩 章(おしお あきら、 1881年(明治14年)2月6日… 置塩 章(おしお あきら、 1881年(明治14年)2月6日 - 1968年(昭和43年)10月20日)は、大正から昭和初期に関西で活躍した建築家である。公共建築物を多く手がけ、ネオ・ゴシック様式を好んだ。 1881年(明治14年)に、置塩藤四郎の長男として静岡県志太郡島田町(現・島田市)に生まれる。静岡県静岡尋常中学校から、第三高等学校 (旧制)へ進んだ。中学時代は野球部(現在の静岡高校野球部)に所属し、ピッチャーを務めた。 1910年(明治43年)に東京帝国大学工科大学造家学科(建築学科)を卒業、陸軍技師として陸軍省に入る。第四師団(大阪市)経理部に配属となり、第四師団管轄下の営繕全てにたずさわる。
古藤 増治郎(ことう ますじろう、1881年〈明治14年〉2… 古藤 増治郎(ことう ますじろう、1881年〈明治14年〉2月6日 - 1945年〈昭和20年〉3月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(立憲民政党)。大阪府浜寺町長。 大阪府泉北郡山滝村(現在の岸和田市)出身。井出清太郎の二男として生まれ、古藤家の養子となった。1901年(明治34年)、大阪府師範学校を卒業し、各地の小学校長を歴任した。1917年(大正6年)、浜寺町会議員に選出された。ついで1918年(大正7年)から1936年(昭和11年)まで浜寺町長を務め、泉北郡町村会長にも就任した。また1927年(昭和2年)と1931年(昭和6年)には大阪府会議員に当選し、参事会員、副議長を歴任した。 1936年、第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
岩松 玄十(いわまつ げんじゅう、1881年〈明治14年〉2… 岩松 玄十(いわまつ げんじゅう、1881年〈明治14年〉2月5日 - 1976年〈昭和51年〉3月5日)は、日本の検事。 佐賀県佐賀市出身。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、司法官試補となる。大津地方裁判所判事、奈良区裁判所検事、東京区裁判所検事、長野地方裁判所検事、千葉地方裁判所検事、同検事正、台湾総督府高等法院検察官長、横浜地方裁判所検事正、東京控訴院検事、司法省行刑局長、宮城控訴院検事長、長崎控訴院検事長を歴任し、1941年(昭和16年)からは大阪控訴院検事長を務めた。 1976年(昭和51年)3月、急性心不全で死去した。
遠藤 光徳(えんどう みつのり、1881年〈明治14年〉2月… 遠藤 光徳(えんどう みつのり、1881年〈明治14年〉2月4日 - 1973年〈昭和48年〉4月24日)は、日本の実業家、政治家。鳥取県米子市名誉市民。 鳥取県西伯郡外江村(現在の境港市外江町)出身。遠藤久壽の長男。1895年、弓ケ浜高等小学校を卒業。 少年時代に米子の坂口平兵衛本店に入店、店員となる。3年はただ働きだった。忠実に奉公しているうちに坂口平兵衛に認められ、同家の大番頭に挙げられる。1924年、坂口合名会社の支配人となる。 1921年、米子町会議員に当選後、米子市議会議員・鳥取県議会議員などの公職をつとめ、米子市議会議長に15年8ケ月にわたり在職する。 鋳物諸工具製造業を営む。幾多の事業に関係し、米子製鋼所、大谷オフセット印刷各社長、米子電車軌道、皆生温泉土地各取締役、山陰農具監査役などをつとめる。
神保 重吉(じんぼ じゅうきち、1881年(明治14年)2月… 神保 重吉(じんぼ じゅうきち、1881年(明治14年)2月3日 - 1957年(昭和32年)12月31日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 石川県珠洲郡正院村字川尻(現在の珠洲市)に、樋谷内助右衛門の三男に生まれ、神保康治の養子となった。1902年(明治35年)に石川県師範学校を卒業し、1915年(大正5年)に日本大学法律科を卒業した。1920年(大正9年)に判事検事登用試験に合格し、司法官試補に任ぜられるまでの10数年の間、小学校訓導・校長、金沢市書記などを務めた。1922年(大正11年)、官を辞して金沢市で弁護士事務所を開業。その後石川県会議員、同参事会員、金沢市会議員を歴任した。
香坂 昌康(こうさか まさやす 1881年2月2日 - 19… 香坂 昌康(こうさか まさやす 1881年2月2日 - 1967年12月21日)は、日本の内務官僚。官選県知事。 東京生まれ。本籍・山形県。東京府立一中、錦城中学、一高を経て、1908年(明治41年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科仏法科卒業。同年同月、千葉県属、同年11月、文官高等試験合格、42年8月、内務省入省。愛媛県理事官・視学官、岡山県警察部長、熊本県警察部長、秋田県内務部長、埼玉県内務部長などを経て、1923年(大正12年)に福島県知事となる。 以後、愛媛県・岡山県・愛知県各知事を歴任。1932年(昭和7年)2月5日、依願免本官となり退官。同年5月、東京府知事に復帰。1935年(昭和10年)に依願退職。
片岡 音吾(かたおか おとご、1881年2月2日 - 194… 片岡 音吾(かたおか おとご、1881年2月2日 - 1948年5月6日)は日本の実業家。野村證券初代社長や会長を務めた。 岡山県岡山市出身。大阪商業学校(後の大阪市立大学、現・大阪公立大学)を経て、1906年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。 日本興業銀行貸付課長を務めていた際に、切れ者との評判をきいた野村徳七にスカウトされ、新設された大阪野村銀行の実権を担う取締役兼支配人に37歳で就任。 1920年大阪野村銀行に証券部が新設され、片岡は証券部部長に就任。1922年に、アメリカ合衆国に証券業界視察のため派遣され、1923年に帰国。 1925年に設立された野村證券の初代社長に就任。1926年に公社債専門業者として営業を開始、1927年にニューヨーク出張所を開設。
加計 正文(かけ まさふみ、1881年〈明治14年〉2月2日… 加計 正文(かけ まさふみ、1881年〈明治14年〉2月2日 - 1969年〈昭和44年〉)は、日本の政治家、実業家、地主、広島県多額納税者。広島県山県郡加計町長。加計銀行頭取。加計隅屋22代当主。 広島県山県郡加計町(現安芸太田町)出身。加計八右衛門の長男。1898年、あるいは1906年、第六高等学校一部甲類を卒業。東京帝国大学文科に修学。夏目漱石の講義を熱心に聴講していたが、1905年時点で家業を継ぐため帝大を中退している。1917年、正式に家督を相続した。 加計銀行頭取、加計町長2期、郡教育会長、1913年以来広島地方森林会議員、県山林会理事、県産業調査会委員等に選ばれ、加計銀行が芸備銀行と合併後芸備銀行加計支店長、山林会副会頭。
田中 千代松(たなか ちよまつ、1881年(明治14年)2月… 田中 千代松(たなか ちよまつ、1881年(明治14年)2月2日 - 1929年(昭和4年)12月2日)は、衆議院議員(立憲民政党)、弁護士。 埼玉県北足立郡北谷村(安行村大字北谷、川口市、草加町を経て現草加市)で田中平十郎の六男として生まれる。1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、司法官試補となった。1913年(大正2年)、判事となって、青森地方裁判所と大阪地方裁判所で勤務した。しかし兄の衆議院議員田中左司馬の死により退官し、郷里で弁護士事務所を開業するかたわら、兄の政治活動を引き継いだ。 埼玉県会議員を経て、1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
堀口 満貞(ほりぐち みつさだ、1881年〈明治14年〉2月… 堀口 満貞(ほりぐち みつさだ、1881年〈明治14年〉2月2日 - 1939年〈昭和14年〉8月)は、日本の内務官僚、南洋庁長官。長野県出身。 1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、同年に高等文官試験に合格。和歌山県警視、徳島県事務官、同理事官、沖縄県警察部長、海軍事務官、臨時南洋群島防備隊民政署長、南洋庁書記官、同長官官房庶務課長を歴任。 1931年10月、南洋庁長官に任命され、翌月に退官した。
近江冨士 初太郎(おうみふじ はつたろう、1881年2月2日… 近江冨士 初太郎(おうみふじ はつたろう、1881年2月2日 - 1940年10月30日)は、現在の滋賀県彦根市出身で枝川部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は徳田 初次郎(とくだ はつじろう)。身長173cm、体重90kg。最高位は西小結。得意技は右四つ、下手投げ。 初め大阪相撲の枝川部屋に入り、のちに上京し出羽ノ海部屋に入門し、1903年1月場所に三段目格で土俵に上がる。1907年に横綱・常陸山谷右エ門の外遊に同行するなど常陸山の信頼を得た。翌1908年1月場所は新十両だったが、全休し1場所で幕下に落ちた。1910年6月場所に入幕し、1912年1月場所には7勝1分で優勝旗手になり、1913年5月に横綱梅ヶ谷に勝ち、翌1914年1月場所には小結に昇進した。
酒井 幾造(さかい いくぞう、1881年(明治14年)2月2… 酒井 幾造(さかい いくぞう、1881年(明治14年)2月2日 - 1944年(昭和19年)8月10日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 岡山県久米郡西川村(現:久米郡美咲町)出身。1902年(明治35年)陸軍士官学校第14期卒業。 1926年(大正15年)3月に新発田連隊区司令官、同年7月に陸軍歩兵大佐を経て、1927年(昭和2年)7月に第7師団司令部附・北海道帝国大学配属将校となる。 ついで、1929年(昭和4年)8月に歩兵第12連隊長を経て、1931年(昭和6年)8月1日に陸軍少将に進級と同時に待命、同月29日に予備役に編入した。
小嶋 時久(こじま ときひさ、1881年2月1日 - 196… 小嶋 時久(こじま ときひさ、1881年2月1日 - 1962年4月13日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。
田崎 武男(たざき たけお、1881年2月1日 - 1963… 田崎 武男(たざき たけお、1881年2月1日 - 1963年9月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 長崎県出身。1909年、東京帝国大学政治科卒。東京府農工銀行常務取締役、立山電力(株)取締役、渡辺商事理事となる。のちにアルゼンチンブエノスアイレスで園芸場を経営した。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において長崎1区から立憲民政党公認で立候補してトップ当選し、衆議院議員を1期務めた。1932年の第18回衆議院議員総選挙では次点で落選した。1963年死去。
黒田 長和(くろだ ながとし、1881年(明治14年)1月3… 黒田 長和(くろだ ながとし、1881年(明治14年)1月30日 - 1944年(昭和19年)3月8日)は、明治から昭和前期の華族、政治家。男爵、貴族院議員。幼名は峯太郎。 福岡藩最後の藩主・黒田長知の四男。母は側室・田代園子。異母兄に侯爵黒田長成がいる。 1896年(明治29年)断絶した黒田直方家の再興という形で分家し、1896年(明治29年)12月3日、男爵を叙爵し、同月、長和と改名した。1904年(明治37年)7月、学習院高等科を卒業し、東京帝国大学法科大学に入学した。1906年(明治39年)イギリス、ケンブリッジ大学に留学した。 1899年(明治32年)東宮職出仕。宗秩寮審議官、衆議院議員選挙革正審議会委員、内閣制度審議会委員、議会制度審議会委員、議院制度調査会委員、貴族院制度調査会委員などを務めた。
岩崎 俊弥(いわさき としや、明治14年(1881年)1月2… 岩崎 俊弥(いわさき としや、明治14年(1881年)1月28日 - 昭和5年(1930年)10月16日)は日本の実業家で、旭硝子の創業者。
松浦 一(まつうら はじめ、1881年1月25日 - 196… 松浦 一(まつうら はじめ、1881年1月25日 - 1966年8月13日)は、日本の英文学者。中央大学名誉教授。 東京生まれ。1905年東京帝国大学英文科卒。在学中は、小泉八雲・夏目漱石に学び、卒業後、同大学の講師を経て、1944年高千穂経済専門学校(現高千穂大学)教員、1951年中央大学文学部教授、64年定年退職、大正大学教授、駒澤大学教授を務めた。講師として東大文学部で行った講義は、仏教信仰を基礎とした文学論で知られ、芥川龍之介などがこれを聴講した。養子に松浦孝作(旧姓・小面、教育社会学、東京学芸大学名誉教授、1910-2001)がいる。孝作の長女も教育学者の山崖俊子(1944- )津田塾大学名誉教授。
吉松 憲郎(よしまつ のりお、1881年(明治14年)1月2… 吉松 憲郎(よしまつ のりお、1881年(明治14年)1月25日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 高知県出身。第一高等学校を経て、1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、1907年(明治40年)統監府財政監査庁に入り、書記官となった。その後朝鮮総督府道事務官となり、平安北道第二部長、慶尚北道第一部長、仁川府尹を歴任し、1921年(大正10年)から京城府尹を務めた。