新見 吉治(しんみ きちじ、1874年10月9日 - 197… 新見 吉治(しんみ きちじ、1874年10月9日 - 1974年11月4日)は、日本の歴史学・教育学者。 愛知県名古屋市生まれ。実家は旧尾張藩の藩主の鉄砲を管理する御手筒同心の家柄だった。旧制第一高等学校から東京帝国大学(現 東京大学)文科大学史学科卒業。1903年に広島高等師範学校に赴任し、日本最初の「歴史教授法」を開講した。1908年にライプツィヒ大学に留学しカール・ランプレヒトに師事、1912年帰国。1916年“Die Geschichte der Buke- Herrschaft in Japan”(邦訳『日本における武家政治史』)により文学博士を取得。 1929年広島文理科大学教授、史学科初代主任教授、国史学・西洋史学を専攻。
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志賀 和多利(しが わたり、1874年(明治7年)10月7日… 志賀 和多利(しが わたり、1874年(明治7年)10月7日 - 1945年(昭和20年)6月14日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 岩手県胆沢郡西根村(現在の金ケ崎町)出身。日本法律学校(現在の日本大学)を卒業し、1901年(明治34年)に高等文官試験と判検事登用試験に合格し、盛岡地方裁判所に司法官試補・検事代理として勤務した。しかし間もなく退官して弁護士を開業した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、7回の当選を重ねた。その間、田中義一内閣で鉄道参与官を、齋藤内閣で逓信政務次官を務めた。 1942年(昭和17年)の翼賛選挙では非推薦で立候補したが落選した。
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高橋 元四郎(たかはし もとしろう、1874年(明治7年)1… 高橋 元四郎(たかはし もとしろう、1874年(明治7年)10月6日 - 1933年(昭和8年)6月22日)は、日本の政治家、実業家。 栃木県上都賀郡西方村(現・栃木市)出身。渡邊文平の次男。上京して田村順之助や星亨の書生となり、明治法律学校卒業後、故郷に戻って高橋家の養子となる。印刷業に従事し、後に鹿沼印刷会社社長に就任。また、政治家として、栃木県会議員、同副議長などを経て、1924年に衆議院議員に当選(以来、当選3回)。立憲民政党に所属し、党会計監督、栃木県支部長などを務めた。
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田村 茂三郎(たむら もさぶろう、前名・茂登馬、1874年〈… 田村 茂三郎(たむら もさぶろう、前名・茂登馬、1874年〈明治7年〉10月6日 - 1963年〈昭和38年〉10月9日)は、日本の実業家、政治家(吾妻郡会議員、沢田村長)、群馬県多額納税者。田村旅館(現四万たむら)12代目当主。 群馬県・先代茂三郎の長男。慶應義塾で学び、福澤諭吉に直接薫陶を受ける。1896年、慶應義塾正科を卒業。1905年、父茂三郎の退隠により家督を相続し、茂登馬を改め襲名する。 1911年から1915年まで第9代沢田村長を務めた。1919年からは吾妻郡会議員となる。郡会では鉄道敷設を県会・帝国議会へ陳情し、のちに長野原線の開通として結実することとなった。 温泉旅館業を営む。
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留岡 菊子(とめおか きくこ、旧姓:寺尾(てらお)、1874… 留岡 菊子(とめおか きくこ、旧姓:寺尾(てらお)、1874年(明治7年)10月4日 - 1933年(昭和8年)4月19日)は留岡幸助の妻。社会福祉活動家。愛媛県喜多郡内子町出身[信頼性要検証]。 愛媛県喜多郡天神村(現在の内子町)に寺尾家の長女として誕生した。その後、設立したばかりの岡山県上房郡高梁町(現在の高梁市)にあった順正女学校(現在の岡山県立高梁高等学校)に学び、東京に出て巣鴨家庭学校の保母となる。1901年(明治34年)6月1日に留岡幸助と結婚した。菊子が26歳のときだった。 結婚した年の10月に菊子は慈善事業師範学校を開設して従事者の養成をはかるなど事業を拡大し、1906年7月には財団法人なった。
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公田 連太郎(こうた れんたろう、1874年10月3日 - … 公田 連太郎(こうた れんたろう、1874年10月3日 - 1963年7月27日)は、日本の漢文学者。 1874年、島根県出雲市古志町生まれ。21歳で上京し、根本通明に約十年師事。在野の漢学者として、多くの漢文の注釈を刊行した。1927年数え54歳で結婚。 1913年、下獄後の失意の北原白秋を勇気づけたことでも知られる。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
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遠藤 隆吉(えんどう りゅうきち、1874年〈明治7年〉10… 遠藤 隆吉(えんどう りゅうきち、1874年〈明治7年〉10月2日 - 1946年〈昭和21年〉2月5日)は、日本の思想家、社会学者、教育者。私立巣鴨学園の創設者である。 1874年(明治7年)前橋藩の下級士族・遠藤千次郎、はる夫妻の長男として現在の群馬県前橋市神明町で生まれた。父・千次郎は福澤諭吉の思想に共鳴していた。隆吉は桃井学校に学び、1892年(明治25年)群馬県尋常中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業した。第一高等学校に進学し、1896年(明治29年)に卒業。東京帝国大学文科大学哲学科に進んで、1899年(明治32年)に卒業。同校学長の井上哲次郎、心理学教授・元良勇次郎、外国人教師・ケーベルから強く影響を受けた。
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太田 光凞(おおた みつひろ、1874年10月1日 - 19… 太田 光凞(おおた みつひろ、1874年10月1日 - 1939年10月14日)は、日本の実業家。京阪電気鉄道社長、会長などを務めた。 山口県出身。1898年(明治31年)東京帝国大学法科大学法英科を卒業後、鉄道省に奉職する。京阪電気鉄道設立(1906年)時の専務取締役渡辺嘉一より鉄道省からの人材斡旋を依頼されたのをきっかけに、実業界を目指す第一歩として1907年(明治40年)自らが鉄道省を辞して京阪電気鉄道に入社し、庶務課長に就任。建設中だった京阪本線の線路選定や用地買収等一切の事務を担当した。 開業後も同社の実務を切り回し、1910年(明治43年)取締役就任、1911年(明治44年)には常務取締役、1925年(大正14年)には農林大臣就任のため退任した岡崎邦輔の後を受ける形で社長に就任する。
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原 吉郎(はら きちろう、1874年〈明治7年〉9月30日 … 原 吉郎(はら きちろう、1874年〈明治7年〉9月30日 - 1955年〈昭和30年〉12月17日)は、明治後期から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)、新潟県刈羽郡枇杷島村(のち同郡柏崎町、現在の柏崎市)長、同郡柏崎町長、初代柏崎市長。 現在の新潟県柏崎市出身。東京専修学校(現専修大学)に学び、日露戦争に参加する。その後は代々続く造酒屋(原酒造)の四代目として経営、同社の中興の祖となる。枇杷島村会議員、同村長、刈羽郡会議員を歴任した。1903年(明治36年)、新潟県会議員選挙に刈羽郡選挙区から進歩党公認で立候補して当選した。同年10月から1904年(明治37年)3月まで第17代新潟県会副議長を務めた。
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斎藤 賞資(さいとう しょうすけ、1874年(明治7年)9月… 斎藤 賞資(さいとう しょうすけ、1874年(明治7年)9月28日 - 没年不明)は、日本の弁護士、日本興業銀行副支配役。族籍は島根県平民。 島根県美濃郡二条村大字桂平(現・益田市)出身。斎藤真佐加の三男。1899年、第二高等学校第一部法科を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。司法官試補を拝命し、横浜地方裁判所に勤務したが間もなく官を辞し、東京で弁護士並びに特許弁理士の事務に従事する。 後に不動貯金銀行に入り、貸付課長、名古屋・日本橋各支店支配人、本店検査課長等をつとめた。後に日本興業銀行に入り、同行副支配役に挙げられる。住所は東京市本郷区菊坂町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
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太田 半六(おおた はんろく、1874年(明治7年)9月26… 太田 半六(おおた はんろく、1874年(明治7年)9月26日 - 1960年(昭和35年)10月24日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。東京瓦斯社長、貴族院勅選議員。 千葉県夷隅郡大多喜城下(現大多喜町)で、太田資長(太田道灌)の後裔、旧大多喜藩士・太田満直の二男として生まれる。1894年(明治27年)東京専門学校政治科を卒業して、大蔵省に入省し大蔵属として主税局に配属された。 1899年(明治32年)に退官し、1900年(明治33年)北海道炭礦鉄道に入社し、東京本社販売主任、室蘭出張所長などを歴任。1912年(大正元年)に退職し海運業を営む。1917年(大正6年)経営難の北海道瓦斯からの要請で入社して業績を回復させた。
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中西 清一(なかにし せいいち、1874年(明治7年)9月2… 中西 清一(なかにし せいいち、1874年(明治7年)9月25日 - 1927年(昭和2年)9月23日)は、明治期〜大正期の官僚。逓信次官。南満州鉄道副社長。
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木下 淑夫(きのした よしお、1874年9月23日 - 19… 木下 淑夫(きのした よしお、1874年9月23日 - 1923年9月6日)は、日本の鉄道官僚。鉄道事業を旅客サービス業としてとらえ、鉄道サービスの向上を旨として尽力したが、改主建従の考えで時の政権と対立して左遷された。 日本を観光による経済振興および観光による鉄道旅客収入増加の必要性を説き、ジャパン・ツーリスト・ビューロー(現在の日本交通公社)の生みの親となった。また東京ステーションホテル開設に尽力し、日本を欧米に紹介するために発行された旅行ガイドブックである『An Official Guide to Eastern Asia』(東アジア旅行案内)の発案者でもある。 1874年9月23日、京都府熊野郡神野村(現在の京丹後市久美浜町神野)の酒蔵の長男として生まれる(旧名梅蔵)。
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堀 正一(ほり しょういち、1873年(明治6年)10月22… 堀 正一(ほり しょういち、1873年(明治6年)10月22日 - 1920年(大正9年)4月3日)は、明治から大正期の地主、教育者、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 山口県都濃郡、のちの末武北村(花岡村を経て現下松市)で、豪農・堀済三の長男として生まれる。山口高等中学校を経て、1899年(明治32年)7月、東京帝国大学文科大学史学科を卒業し、さらに同研究科を修了した。 1900年(明治33年)以降、滋賀県立第二中学校(現滋賀県立膳所高等学校)教諭、日本大学講師、学習院講師、宮内省図書寮勤務などを務めた。1905年(明治38年)3月、家督を相続した。 1907年(明治40年)に帰郷し農業経営を行う。
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三枝 彦太郎(さいぐさ ひこたろう、1873年(明治6年)1… 三枝 彦太郎(さいぐさ ひこたろう、1873年(明治6年)10月22日 - 1929年(昭和4年)4月17日)は、明治後期から昭和初期の実業家・政治家。衆議院議員。 山梨県都留郡鹿留村(南都留郡桂村、東桂村鹿留を経て現都留市鹿留)で、三枝彦兵衛の長男として生まれる。東京錦城学校(現錦城学園高等学校)で学んだ。1898年(明治31年)家督を相続。 1902年(明治35年)合名会社電灯広告社を創立し代表社員に就任。その他、日本化工取締役、日本乳酸取締役、桂電燈取締役などを務めた。 1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙で山梨県第5区から立憲政友会公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
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橘 糸重(たちばな いとえ、1873年(明治6年)10月18… 橘 糸重(たちばな いとえ、1873年(明治6年)10月18日 - 1939年(昭和14年)8月31日)は、日本の音楽家、敎育者、歌人。 1873年、三重県鈴鹿郡亀山町(現・亀山市)生まれ。生後まもなく父を亡くし、1874年に母、姉とともに上京。東京音楽学校(現・東京芸術大学)でピアノなどを学び、1892年に卒業。卒業後は研究科に進む。1896年より同校助教授となった。1901年に教授昇進。1928年に教授を辞した後は1939年に亡くなるまで嘱託講師(時間講師)として勤務した。1937年より帝国芸術院会員。ラファエル・フォン・ケーベルを音楽上のみならず宗教上の師とした。また、1931年(昭和6年)に来日したレオニード・クロイツァーの講習会を受講した記録もある。
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南部 利克(なんぶ としなり、1873年〈明治6年〉10月1… 南部 利克(なんぶ としなり、1873年〈明治6年〉10月17日 – 1950年〈昭和25年〉5月6日)は旧八戸藩南部家の12代当主であり子爵。 陸奥盛岡藩主・南部利剛の十一男として1873年(明治6年)生まれる。1878年(明治11年)に姉の麻子の養子となり、同年5月17日に4歳で八戸南部家の家督を相続。1880年(明治13年)従五位に叙せられ、1884年(明治17年)に子爵となった。慶應義塾幼稚舎を経て大学部まで進む。1893年(明治26年)、水野忠敬の長女銓子と結婚。宮内省に出仕して式部官を務めた。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
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安村 竹松(やすむら たけまつ、1873年(明治6年)10月… 安村 竹松(やすむら たけまつ、1873年(明治6年)10月16日 - 1946年(昭和21年)12月2日)は、日本の政治家、弁護士。 1873年(明治6年)10月、和歌山県日高郡南部町(現在のみなべ町)にて出生。 1901年(明治34年)、明治法律学校卒業。第9回文官高等試験に合格し、司法省に入省。司法官試補に任ぜられる。 1903年(明治36年)、司法省を退職し、東京で弁護士を開業。大逆事件の弁護人などを務めた。 1910年(明治43年)、横浜市に移り、1912年(明治45年)5月に神奈川県郡部から第11回衆議院議員総選挙に当選。立憲政友会所属の衆議院議員として活動した。 横浜弁護士会常議員議長、同会長を歴任した。
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橘川 司亮(きっかわ しりょう/もりあき、1873年(明治6… 橘川 司亮(きっかわ しりょう/もりあき、1873年(明治6年)10月15日 - 1937年(昭和12年)1月2日)は、日本の明治 - 昭和初期の官吏、勅任官。 度量衡(どりょうこう/計量単位)の専門家。「我國メートル法の創始者」「日本のメートル法の創始者」と称される。パリ国際度量衡総会(第4回)日本政府代表。位階勲等は従三位・勲三等。 氏名の欧文表記はSHIRIO KIKKAWA。 明治6年(1873年)現在の宮城県仙台市に宮城縣士族として生まれる。父は第一回仙台市議会議員橘川鋿。明治34年(1901年) 東京帝国大学理科大学(現東京大学理学部物理学科)で度量衡を田中館愛橘に学び卒業。引き続き大学院にて度量衡の研究を続ける。
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塩田 広重(しおた ひろしげ、旧字: 鹽田 廣重。1873年… 塩田 広重(しおた ひろしげ、旧字: 鹽田 廣重。1873年10月14日 - 1965年5月11日)は、日本の外科医。貴族院勅選議員、日本医科大学学長。 1872年、京都府宮津市で誕生。1888年、大阪の第三高等学校予科の試験に合格するも、東京の一高を目指すために退学。上京し、駿河台にあった予備校の成立学舎にて学び、坪内逍遥らに学ぶ。1890年、第一高等学校予科に入学。1895年、東京帝国大学医学部に入学。1899年、東京帝国大学医学部卒業。病理学教室で三浦守治、山極勝三郎の両教授の下で学んだ後、佐藤三吉教授の外科に移った。そこでユリウス・スクリバや近藤次繁の指導を受けた。 東京帝国大学医科大学助手、済生学舎講師を経て、1902年東京帝国大学医科大学助教授。
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若王子 文健(にゃくおうじ / にゃこうじ あやたけ、187… 若王子 文健(にゃくおうじ / にゃこうじ あやたけ、1873年(明治6年)10月14日 - 1942年(昭和17年)8月1日)は、明治から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 京都(現:上京区岡松町)で華族・若王子遠文の長男として生まれた。父の死去に伴い、1898年(明治31年)3月2日、男爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、1900年(明治33年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年、東京府属となる。その後、有隣生命保険重役、箱根土地監査役、日本大博覧会評議員、奉仕会副会長などを務めた。 1904年(明治37年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し、1925年(大正14年)7月9日まで3期在任した。
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林 愛作(はやし あいさく、1873年〈明治6年〉10月12… 林 愛作(はやし あいさく、1873年〈明治6年〉10月12日 - 1951年〈昭和26年〉2月10日)は、明治末から昭和前期のホテル支配人。帝国ホテルと甲子園ホテルで支配人を務めた。 群馬県山田郡下小林村(現在の太田市)の出身。父親が事業に失敗し破産したため11歳で上京し、神奈川県の横浜で親戚が営んでいたタバコ卸の下働きを通じて米国人キリスト教宣教師を知り、19歳で単身渡米して様々な仕事に就く。サンフランシスコの日本雑貨店「シバタ」で働きながら学び、店で知り合った米国女性の推薦と支援でマウントハーモンスクールに入学し、聖書と英語、ビジネスを学んだ。同校卒業後の1900年、ニューヨーク山中商会に入社し、東洋美術を扱う美術商としてニューヨークの社交界にも繋がりを持ち、フランク・ロイド・ライトやフェノロサとも知り合った。
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萱野 長知(かやの ながとも、1873年(明治6年)10月1… 萱野 長知(かやの ながとも、1873年(明治6年)10月12日 - 1947年(昭和22年)4月14日 )は、日本の政治運動家・民間外交家で大陸浪人・アジア主義者の代表的人物のひとり。高知県出身。玄洋社社員。別名・鳳梨、無膓庵、微笑。 高知県土佐郡高知北門筋(現高知市永国寺町)で、萱野新作、糸の長男として生まれた。海南学校(現高知県立高知小津高等学校)、高知共立学校で学んだがいずれも中退。自由民権運動に傾倒する。1889年(明治22年)母方の従兄・深尾重亮が経営する大阪時事通信社の社員となる。1892年(明治25年)東京日日新聞に転じ上海通信員となり、佐世保時事新聞の経営も担った。中国語を学び、広東・香港でも新聞通信員を務めた。
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新保 徳寿(しんぽ とくじゅ、1873年(明治6年)10月1… 新保 徳寿(しんぽ とくじゅ、1873年(明治6年)10月11日 - 1938年(昭和13年)8月16日)は、日本の教育者。旧名は伊八。 宮城県出身。1902年(明治35年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、さらに大学院で学んだ。1908年(明治41年)、仙台高等工業学校教授となり、生徒監を兼ねた。1912年(明治45年)からは東北帝国大学工学専門部生徒監となり、1915年(大正4年)に同主事となった。その後、東北帝国大学事務官を経て、仙台高等工業学校校長を務めた。
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堀内 秀太郎(ほりうち ひでたろう / しゅうたろう、187… 堀内 秀太郎(ほりうち ひでたろう / しゅうたろう、1873年(明治6年)10月11日 - 1941年(昭和16年)6月1日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事。 石川県金沢市出身。旧加賀藩士・堀内茂成の長男として生まれる。第四高等学校を首席で卒業。1898年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。内務省に入省し社寺局属となる。1899年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、内務属臨時検疫局事務官、警察監獄学校教授、内務省参事官、神奈川県参事官、同事務官、徳島県事務官・第一部長兼第三部長、同内務部長、大阪府事務官・内務部長、北海道庁内務部長などを歴任。 1915年8月、宮崎県知事に就任。
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森 肇(もり はじめ、1873年(明治6年)10月11日 -… 森 肇(もり はじめ、1873年(明治6年)10月11日 - 1959年(昭和34年)10月28日)は、日本の衆議院議員(政友本党→立憲民政党→立憲政友会→昭和会)、農林参与官。ジャーナリスト。 長崎県北松浦郡御厨村(現在の松浦市)出身。小学校教員を経て、1901年(明治34年)に東京専門学校政治経済科を卒業。長崎新報記者、長崎日日新聞記者、同編集長、長崎新聞主筆、同専務取締役を歴任した。また長崎県会議員、同参事会員に選ばれた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第21回衆議院議員総選挙に至るまで6回当選を果たし、その間岡田内閣で農林参与官を務めた。1935年(昭和10年)には昭和会の結党に参加している。
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田澤 昌孝(たざわ まさたか、1873年10月7日 - 19… 田澤 昌孝(たざわ まさたか、1873年10月7日 - 1942年6月30日)は、日本の発明家。 1891年(明治24年)に慶應義塾大学を卒業した後、海軍省技監の若山鑛吉につき造船および造機学を修得した。その後、芝浦製作所に入所し各種の機械製作に従事した。1909年(明治42年)に下記特許を取得し、翌年に電業社水車製造所を創立し、大型水車の製造を行った。 1919年(大正8年)に帝国発明協会の全国発明表彰により、有功賞が授与されている。 海軍軍人の向山均の弟である坦を養子に迎えている。
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小森 七郎(こもり しちろう、1873年〈明治6年〉10月6… 小森 七郎(こもり しちろう、1873年〈明治6年〉10月6日 - 1962年〈昭和37年〉9月26日)は、日本の逓信官僚。栃木県出身。 東京帝国大学卒業。逓信省に入り、逓信局長などを歴任。1936年第2代NHK会長に就任。戦後、NHK会長のため公職追放となる(1951年追放解除)。 1956年文化功労者。墓所は多磨霊園(12-1-2)。息子の元妻は映画評論家の小森和子。
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宮崎 虎喜(みやざき とらき、1873年(明治6年)10月6… 宮崎 虎喜(みやざき とらき、1873年(明治6年)10月6日 - 1946年(昭和21年)2月13日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級は従四位勲三等功四級。 高知県香美郡夜須村西山(現・香南市夜須町西山)に生まれる。周馬・政の長男。高知県尋常中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)から東京成城中学校に転校し、1897年(明治30年)陸軍士官学校第9期卒業。第3軍に属し、日露戦争に出征。 1913年(大正2年)台湾総督府陸軍副官、1920年(大正9年)8月に津連隊区司令官、1921年(大正10年)7月に陸軍歩兵大佐を経て、1922年(大正11年)8月に歩兵第45連隊長に任ぜられた。
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津田 左右吉(つだ そうきち、1873年〈明治6年〉10月3… 津田 左右吉(つだ そうきち、1873年〈明治6年〉10月3日 - 1961年〈昭和36年〉12月4日)は、日本の歴史学者・思想史家。早稲田大学文学部教授。記紀を史料批判の観点から古代史研究したことで知られ、日本における実証史学の第一人者。1947年帝国学士院会員選出。1949年(昭和24年)に文化勲章受章。従三位勲一等。 1913年(大正2年)の『神代史の新しい研究』、1919年(大正8年)の『古事記及び日本書紀の新研究』を刊行(のちに、それぞれ1924年(大正13年)に『神代史の研究』、『古事記及び日本書紀の研究』として補訂再刊)が代表的な初期の研究成果である。それらの研究では、記紀神話の記述について神話と歴史とを峻別し、古典に対する徹底した史料批判を通して歴史的事実を考察した。
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登張 竹風(とばり ちくふう、1873年(明治6年)10月2… 登張 竹風(とばり ちくふう、1873年(明治6年)10月2日 - 1955年(昭和30年)1月6日)は、日本のドイツ文学者、評論家。本名、信一郎(しんいちろう)。 広島県佐伯郡津久茂村(現・江田島市江田島町津久茂)生まれ。広島中学(現広島国泰寺高校)、山口高等中学校を経て東京帝国大学卒業(1897年)。母校旧制山口高校教授として赴任、当時の同僚に西田幾多郎、教え子にやがて法科に転じた河上肇やドイツ文学者として知られた片山孤村がいる。1901年、高山樗牛が「美的生活論」を発表すると、「美的生活論とニイチエ」を発表して樗牛に賛同し「美的生活論争」を惹き起こした。1902年『ニイチェと二詩人』『気焔録』でニーチェ主義を標榜する。
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島谷 敏郎(しまたに としろう、1873年(明治6年)10月… 島谷 敏郎(しまたに としろう、1873年(明治6年)10月2日 - 1940年(昭和15年)8月18日)は、日本の教育者。 広島県佐伯郡廿日市町(現在の廿日市市)出身。1897年(明治30年)、商船学校(のち東京高等商船学校)機関科を卒業。翌1898年(明治31年)、商船学校教諭となり、1903年(明治36年)から1905年(明治38年)まで機関学研究のためイギリスに留学した。帰国とともに教授となり、1923年(大正12年)に教頭に、1925年(大正15年)には校長に就任した。1936年(昭和11年)に退官し、東京高等商船学校名誉教授の称号を得た。 逓信省技師・地方海員審判所審判官・高等海員審判所審判官を兼ねたほか、帝国水難救済会評議員・造船協会評議員・日本海員掖済会理事などを務めた。
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勝田 銀次郎(かつた ぎんじろう、1873年(明治6年)10… 勝田 銀次郎(かつた ぎんじろう、1873年(明治6年)10月1日 - 1952年(昭和27年)4月24日)は、日本の政治家、実業家。勝田商会創業者。山下亀三郎、内田信也と並ぶ「三大船成金」の一人。神戸市会議員、衆議院議員、貴族院議員、第8代神戸市長(在任:1933年12月21日 - 1941年12月20日)。準戦時体制下の神戸市政を担い「鉄腕市長」と呼ばれた。愛媛県出身。 1873年(明治6年)10月、愛媛県松山で米穀商の長男として生まれる。中学校(松山中学校)卒業前に父親を亡くした勝田は19歳の時に北海道へ移住し一旗揚げようとするが、その道中で出会った東京英和学校(青山学院の前身)校長の本多庸一に学問とりわけ外国語を身に着けることの大切さを説かれ、同校予備学部に入学した。
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高瀬 梅吉(たかせ うめきち、1873年9月28日 - 19… 高瀬 梅吉(たかせ うめきち、1873年9月28日 - 1932年11月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 茨城県出身。1899年、東京帝国大学政治科卒。帝国商業銀行員、上海東亜同文書院教授となり、朝鮮銀行大阪、東京の各支店長、京城本店営業局長、東洋拓殖(株)理事、佐賀炭礦(株)社長、中島鉱業(株)取締役となる。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において茨城2区から立憲民政党公認で立候補して当選し、衆議院議員を1期務めた。1932年の第18回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。同年11月に死去した。
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青柳 有美(あおやぎ ゆうび、1873年(明治6年)9月27… 青柳 有美(あおやぎ ゆうび、1873年(明治6年)9月27日 - 1945年(昭和20年)7月10日)は、ジャーナリスト、随筆家、牧師。
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關 一(せき はじめ、新字体:関一、1873年〈明治6年〉9… 關 一(せき はじめ、新字体:関一、1873年〈明治6年〉9月26日 - 1935年〈昭和10年〉1月26日)は、日本の学者及び政治家。母校である東京高等商業学校(現一橋大学)の教授から大阪市役所幹部に転身し、20年にわたって大阪市助役・第7代大阪市長を務め、前任の市長が実現した「大大阪時代」をさらに発展させ「大阪の父」と呼ばれた。大阪市長在職中に死去。 第17代大阪市長の關淳一は孫。 静岡県伊豆で關近義の長男として生まれる。近義は、明治維新の結果としての徳川将軍家(徳川宗家)駿府移封に従って静岡県に移った旧幕臣・沼津兵学校第4期資業生(のちに小学校教員)。母よしは共立女子職業学校(現・共立女子大学)教員。
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加瀬 禧逸(かせ きいつ、1873年(明治6年)9月25日 … 加瀬 禧逸(かせ きいつ、1873年(明治6年)9月25日 - 1928年(昭和3年)5月4日)は、日本の衆議院議員(政交倶楽部→猶興会→又新会→亦楽会→中正会)、弁護士。 千葉県海上郡旭町(現在の旭市)出身。1894年(明治27年)、東京法学院(のち中央大学に改称)に入学したが、日清戦争で召集を受け、歩兵第2連隊に入った。翌年、威海衛守備のため再び召集された。1897年(明治30年)、東京法学院を卒業。1900年(明治33年)、弁護士試験に合格し、翌年に開業した。1918年(大正7年)には東京弁護士会副会長に就任し、また日本弁護士協会理事も2回務めた。 1904年(明治37年)、第9回衆議院議員総選挙に出馬し当選。
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清水 勇三郎(しみず ゆうざぶろう、1873年(明治6年)9… 清水 勇三郎(しみず ゆうざぶろう、1873年(明治6年)9月25日 - 1949年(昭和24年)11月26日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。愛媛県松山市長。 愛媛県久米郡山之内村(現・東温市)にて生まれる。同志社予備校を経て、早稲田専門学校を卒業する。北吉井村で酒造業および鉱山業に従事。松山市に移り住み、日本織物取締役、久万索道会社専務取締役、海南新聞(愛媛新聞の前身)専務取締役を歴任する。 1922年(大正11年)1月より松山市会議員に3選し、1933年(昭和8年)11月に松山市助役に就任し2期務めた。1938年(昭和13年)9月8日に松山市長に当選。同15日、助役を辞し、市長に就任した。
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西郷 孤月(さいごう こげつ、明治6年(1873年)9月23… 西郷 孤月(さいごう こげつ、明治6年(1873年)9月23日 - 大正元年(1912年)8月31日)は、明治期の日本画家、美術教育者である。本名は規(めぐる)。日本美術院の創設者のひとり。 筑摩県筑摩郡松本深志町(現・長野県松本市)に旧松本藩士・西郷績(いさお)の長男として生まれる。祖先は松平康長に仕えた三河西郷氏。幼少時に東京神田に引っ越し、明治12年(1879年)6月、東京高等師範学校附属小学校、明治17年(1884年)7月、本郷新花町の私立独逸語学校、明治19年(1886年)、神田錦町私立東京英語学校で学ぶ。語学を学ぼうとしたのは明治時代の風潮の1つで、語学を身に付けておけばなんとか生計が立つとの考えからであった。
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原口 聞一(はらぐち ぶんいち、1873年9月23日 - 1… 原口 聞一(はらぐち ぶんいち、1873年9月23日 - 1935年6月12日)は、おもに清末から満州国の時代の中国東北部で活動した、日本の実業家。初期の「満州浪人」(大陸浪人)の代表的人物とされた。 長崎県西彼杵郡瀬戸村に生まれる。 東京帝国大学に学ぶが、在学中から東亜同文会の設立などに関わり、1899年に大学を中退し、清末の中国へ渡った。 その後は、中国東北部における日系の様々な事業に関わり、1900年に日華合弁清和社長となったのをはじめ、数社の重役に名を連ねた。 1905年に大連で創刊された『満洲日日新聞』に立ち上げ段階から関わり、1909年に奉天支局長となった。 1911年の辛亥革命に際して、革命党を援助したとして退去を強いられ帰国したが、1913年に再び大陸へ渡り、1914年には奉天居留民会長となった。
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保科 孝一(ほしな こういち、明治5年9月20日(1872年… 保科 孝一(ほしな こういち、明治5年9月20日(1872年10月22日) - 昭和30年(1955年)7月2日)は、日本の国語学者、文部官僚。 1872年、置賜県米沢(現・山形県米沢市)に米沢藩士の保科忠次郎の子として生まれた。第一高等学校を経て、1897年(明治30年)に帝国大学国文科を卒業。卒業後は、上田萬年の創設した国語研究室の助手となった。 1898年(明治31年)に文部省図書課嘱託となり、国語国字問題の研究調査に当たる。以来1947年(昭和22年)まで50年にわたって国語政策に関わった。1901年(明治34年)に国語調査委員会設置にあたり補助委員。1902年(明治35年)に東京帝国大学助教授。
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宮崎 三之助(みやざき さんのすけ、1872年10月22日〈… 宮崎 三之助(みやざき さんのすけ、1872年10月22日〈明治5年9月20日〉 – 1941年〈昭和16年〉9月1日)は、日本の裁判官、弁護士、政治家(立憲政友会)。 富山県富山市に出生。1892年(明治25年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。判事検事登用試験に合格し、判事として七尾、木更津の各地方裁判所と千葉区裁判所に勤務した。後に弁護士を開業し、本所区会議員を務めた。また第12代本所区会議長も務めた。1911年(明治44年)6月から本所区選出の東京市会議員を3期務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に立憲政友会から東京府第6区で立候補し、当選。1921年(大正10年)4月26日付で市議を辞職した。
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菅 舜英(すが しゅんえい、明治5年(1872年)10月19… 菅 舜英(すが しゅんえい、明治5年(1872年)10月19日- 昭和31年(1956年)5月27日)は、日本の僧侶、政治活動家。大正・昭和期の社会主義者、後に国家社会主義に転向。 井上円了の東京哲学館、東京神学院で学び、西本願寺北海道開教の僧侶として渡道。本山特命布教使として各地で布教講演を行う。日露戦争で従軍布教使として従軍し、乃木希典陸軍大将に講話を披露。以後、シベリア出兵などで中国、ロシアへ度々渡る。勇払郡安平村(現・安平町)安立寺住職に就いてからは、言論出版に精を出す。 個人雑誌「同志」「浄土」「他力」などを発行し、新聞雑誌への論文投稿も数多い。交友関係は広く、本願寺の改革運動で知り合った赤松克麿と親しく、赤松のすすめで社会民衆党公認で衆議院議員選挙に戦前だけで3度立候補している。
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泉川 白水(いずみかわ はくすい、1872年(明治5年)10… 泉川 白水(いずみかわ はくすい、1872年(明治5年)10月18日 - 1965年(昭和40年)2月4日)は秋田県出身の俳人で南画家。短歌や書道にも優れた。本名は良之助。 秋田県平鹿郡横手町(現:横手市)四日町下丁に生まれる。幼時に尾崎行雄邸に預けられた。早稲田大学政治科を中退。郡会議員、郡参事員、町会議員を歴任した。1925年(大正14年)に武者小路実篤らと日本画の「煙雲倶楽部」を結成した。翌1926年には新南画を提唱、東京髙島屋で個展をひらく。総理大臣賞受賞。県の国宝重要美術調査委員でもあった。一方で吉川五明の系統をひく俳人でもあり、湯沢市鷹の湯に、高さ10mの巨大な句碑が建っている。横手市文化功労賞、県の文化功労賞を受けた。
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木村 英俊(きむら ひでとし、1872年10月17日(明治5… 木村 英俊(きむら ひでとし、1872年10月17日(明治5年9月15日) - 1940年(昭和15年)10月1日)は、日本の検察官、宮内・台湾総督府官僚。高雄州知事、官選函館市長。 福島県出身。木村宗順の長男として生まれる。1899年7月10日、東京帝国大学法科大学を卒業。同年7月29日、司法官試補となり検事代理として神戸区裁判所詰を命ぜられた。 以後、神戸地方裁判所検事、大阪地方裁判所検事、徳島地方裁判所検事を歴任。1914年7月、宮内省に転じ同事務官に就任。以後、調度寮勤務、大礼準備委員、大礼使事務官、調度部勤務、大礼記録編纂委員会委員、久邇宮附、帝室林野管理局事務官などを務めた。 1923年6月、台湾総督府に転じ参事官に就任し、同年8月13日、同府税関長に任じられた。
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山路 魁太郎(やまじ かいたろう、明治5年10月17日 (旧… 山路 魁太郎(やまじ かいたろう、明治5年10月17日 (旧暦)(1872年) - 没年不詳)は、日本、台湾、関東州、満洲の土木技術者。 福岡県士族山路圓の長男として、福岡県糟屋郡箱崎町(現・福岡市東区箱崎)に生まれる。1891年福岡県立尋常中学修猷館、1894年7月第五高等学校工科を経て、1899年3月東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。 1899年7月兵庫県技師となる。1901年台湾台中県土木課長に転じ、同年11月台湾総督府技師を経て、日露戦争終結直後の1905年9月、関東州民政署技師となる。1906年9月、関東都督府が設置されると関東都督府民政部技師兼土木課長に就任。ここで修猷館、五高、東大の後輩でもある倉塚良夫を推薦して参加させ、以後、山路と倉塚が中心となって、関東州の道路、上下水道の築造が推し進められた。
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塚原 政次(つかはら せいじ、1872年10月16日(明治5… 塚原 政次(つかはら せいじ、1872年10月16日(明治5年9月14日) - 1946年(昭和21年)10月24日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の教育心理学者。文学博士。 兵庫県出身。1897年(明治30年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。1901年(明治34年)からドイツ・アメリカ合衆国に留学し心理学を研究した。帰国後、広島高等師範学校教授、文部省督学官、静岡高等学校長、東京高等学校校長を歴任した。1934年(昭和9年)より広島文理科大学学長・広島高等師範学校校長を務めた。
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児玉 亮太郎(こだま りょうたろう、1872年10月15日〈… 児玉 亮太郎(こだま りょうたろう、1872年10月15日〈明治5年9月13日〉 - 1921年〈大正10年〉10月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(立憲政友会)などを歴任。 和歌山県那賀郡粉河村(現在の紀の川市)に、後の衆議院議員児玉仲児の長男として生まれる。同志社卒業後、ミシガン大学に留学し、哲学博士の称号を受けた。帰国後、大阪毎日新聞記者、京都帝国大学法科大学経済学講師、同志社大学講師、北海道拓殖銀行営業部長、富士製紙主事などを歴任した。 原敬の知遇を得、1900年(明治33年)に原が逓信省大臣に就任すると、秘書官に任命された。1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し当選。
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田中 義能(たなか よしとう、1872年10月14日(明治5… 田中 義能(たなか よしとう、1872年10月14日(明治5年9月12日) - 1946年(昭和21年)3月4日)は、神道学者。 山口県出身。1903年東京帝国大学文科大学哲学科卒。東洋大学教授、第五高等学校教授、國學院大學教授を歴任。1920年東京帝国大学文学部助教授、神道学講座を担当。1933年定年退官、帝国女子専門学校校長。のちの相模女子大学の設立に努めるが急死。神道学会、神道青年連盟協会を設立。女婿は国文学者の次田真幸。
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藤井 健治郎(ふじい けんじろう、1872年10月12日(明… 藤井 健治郎(ふじい けんじろう、1872年10月12日(明治5年9月10日) - 1931年(昭和6年)1月15日)は、日本の倫理学者。 1872年、山形県東田川郡狩川村出身。旧姓は石川。号は館山。東京帝国大学を卒業。卒業後は早稲田大学教授を経て、1913年より京都帝国大学教授となった。丁酉倫理会会員。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
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