岩崎 勲(いわさき いさお、1878年(明治11年)2月25… 岩崎 勲(いわさき いさお、1878年(明治11年)2月25日 – 1927年(昭和2年)1月18日)は、日本の弁護士、弁理士、政治家。衆議院議員(静岡県第五区選出、当選4回)。族籍は静岡県士族。 静岡県駿東郡八幡村(清水村八幡を経て現清水町)の人である。三嶋大社の禰宜岩崎元功の長男。家は代々八幡神社の社掌だったが、父の代に至って三嶋神社の禰宜を兼ねた。 静岡県尋常中学校、第一高等学校を経て東京帝国大学に入る。在学中には各大学の同志とともに青年革進協会を組織してその幹部となり、雑誌『革進』の編集主任を務めた。 1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業、同年文官高等試験に合格したが、官界には入らず弁護士・特許弁理士となった。
松根 東洋城(まつね とうようじょう、1878年〈明治11年… 松根 東洋城(まつね とうようじょう、1878年〈明治11年〉2月25日 - 1964年〈昭和39年〉10月28日)は、俳人。本名豊次郎。位階は従四位。夏目漱石の門下生。 松根権六(宇和島藩城代家老・松根図書の長男)の次男として東京の築地に生まれた。母は宇和島藩主伊達宗城の三女敏子。弟に「電力界のフィクサー」とも呼ばれた実業家の松根宗一(1897 - 1987)がいる。 愛媛県尋常中学校(現松山東高等学校)時代に同校に教員として赴任していた夏目金之助(漱石)に英語を学んだことから、卒業後も交流を持ち続け俳句の教えを受けて終生の師と仰いだ。旧制一高、東京帝国大学から転じて京都帝国大学仏法科卒業。1906年(明治39年)宮内省に入り式部官、書記官、会計審査官等を歴任、1919年(大正8年)退官。
田口 文太(たぐち ぶんた、1878年2月24日 - 197… 田口 文太(たぐち ぶんた、1878年2月24日 - 1972年9月3日)は、日本の薬剤師、陸軍軍人、教育者。階級は陸軍薬剤中将。 東京第一衛戍病院での勤務を経て、陸軍衛生材料廠廠長、陸軍薬剤総監、田辺製薬株式会社顧問、静岡女子薬学専門学校校長(初代)などを歴任した。 日本の陸軍で活躍した薬剤師である。陸軍衛生材料廠のトップを経て、陸軍薬剤総監に就任した。静岡女子薬学専門学校で校長を務めるなど、後進の育成にも尽力した。 1878年(明治11年)2月24日に生まれた。誠之小学校を経て、東京府尋常中学校で学んだ。第一高等学校を卒業し、さらに東京帝国大学に進学した。当時の東京帝国大学は分科大学制を採っており、東京帝国大学の下に設置された医科大学の薬学科にて学んだ。
清水 仁三郎(しみず にさぶろう、1878年(明治11年)2… 清水 仁三郎(しみず にさぶろう、1878年(明治11年)2月19日 - 1951年(昭和26年)11月12日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)。建築家。実業家。 京都府京都市出身。建築家清水仁兵衛の二男として生まれ、同志社で学んだ。建築工学を学び、京都武徳殿の建築に参加した。宮内省・農商務省の委嘱を受け、1900年(明治33年)のパリ万国博覧会では日本建築・庭園模型を出品した。1902年(明治35年)、岩崎男爵家の設計技師となり、邸宅の設計を担当した。1910年(明治43年)の日英博覧会の際には、再び宮内省・農商務省の委嘱を受け日本庭園の設計を担当した。1911年(明治44年)、岩崎家の建築事務閉鎖に伴って独立し、清水建築工務所を開いた。
青柳 郁次郎(あおやぎ いくじろう、1877年(明治10年)… 青柳 郁次郎(あおやぎ いくじろう、1877年(明治10年)3月20日 - 1930年(昭和5年)8月18日)は、日本の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 福岡県鞍手郡下新入村(のち鞍手郡新入村、現:直方市下新入)で生まれる。1906年、早稲田大学法律科を卒業。農業を営む。 新入村会議員、鞍手郡会議員、福岡県会議員、同参事会員、同副議長、帝国農会議員、鞍手郡農会顧問、鞍手育英会評議員などを歴任。農業視察のためアメリカ合衆国に渡航している。 1920年5月、第14回衆議院議員総選挙に福岡県第十区から立憲政友会所属で出馬して当選。第15回、第17回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算3期務めた。
磯村 春子(いそむら はるこ、1877年3月16日- 191… 磯村 春子(いそむら はるこ、1877年3月16日- 1918年1月31日)は、明治・大正期の新聞記者。NHK朝の連続テレビ小説『はね駒』(1986年前期作品)の主人公のモデルともなった。長男は、国際東アジア研究センター名誉所長や東洋大学学長などを務めた磯村英一(1903- 1997)。 1877年(明治10年)、小泉伊助とカツの長女として、福島県相馬郡中村町(現・相馬市)に生まれる。 宮城女学校(現・学校法人宮城学院)に入学。母校は1886年(明治19年)に創立されたばかりのキリスト教系の学校で、日本のキリスト教者の押川方義牧師等がアメリカ合衆国の改革派教会宣教師ウィリアム・E・ホーイと開いた。
京山 小円(きょうやま こえん、1877年(明治10年)3月… 京山 小円(きょうやま こえん、1877年(明治10年)3月15日 - 1928年(昭和3年)10月30日)は、浪曲師。広島県尾道生まれ。本名・吉田松吉。京山小圓とも表記する。 幼いころから義太夫語りになるため修行を積む。浪曲師で京山派の始祖・2代目京山恭安斎の弟子となる。余技に義太夫を得意とし、息の長い重厚な小円節を創り上げた。1908年上京、京橋新富座で独演会を開くと“関西にこの人あり”と評判を呼んだ。桃中軒雲右衛門の武士道鼓吹に対して、人道鼓吹とも称し、巧みな会話と俗に三段流しといわれる息の長さと低音の関西節に聴衆は酔いしれたという。明治末期から大正期にかけて雲右衛門、二代目吉田奈良丸と共に、三巨頭とも称され第1期の浪曲黄金時代を創り上げた元老の一人である。
金光 庸夫(かねみつ つねお、1877年〈明治10年〉3月1… 金光 庸夫(かねみつ つねお、1877年〈明治10年〉3月13日 - 1955年〈昭和30年〉3月5日)は、日本の政治家、実業家。拓務大臣(第16代)、厚生大臣(第7代)。衆議院議員(9期)。名前の「庸夫」は「やすお」とも読まれる。 経済企画庁長官を務めた佐藤一郎及び通産事務次官を務めた熊谷典文は女婿、佐藤の長男で衆議院議員を務めた佐藤謙一郎は孫にあたる。 大分県宇佐郡高家村(現:宇佐市)生まれ。高等小学校を卒業後税務官吏となり、長崎税関、福岡税務署長、熊本税務監督局勤務を経て、1908年(明治41年)鈴木商店に入社する。1910年(明治43年)に太陽生命保険に転じて支配人となり、1913年(大正2年)に独立して大正生命保険(現:プルデンシャル ジブラルタ ファイナンシャル生命保険)の社長となる。
河合武雄(かわい たけお、1877年(明治10年)3月13日… 河合武雄(かわい たけお、1877年(明治10年)3月13日 - 1942年(昭和17年)3月21日)は、明治中期から昭和初期にかけて活躍した、新派の女形俳優。大正期には、伊井蓉峰・喜多村緑郎とともに、三頭目と言われた。 本名は河合武次郎。歌舞伎役者三代目大谷馬十の次男として、東京府京橋(現・東京都中央区京橋)に生まれた。 下積み役者の苦労を知る馬十は武次郎が俳優になりたがるのを嫌い奉公に出したが、子は1893年(明治26年)、父に隠れて山口定雄一座の横浜蔦座で初舞台を踏み、四代目沢村源之助のもとで歌舞伎も修めた。容貌と声柄に恵まれ、1897年には山口の相手役に進んだ。 山口座長も元は歌舞伎の女形で、従って河合は、自由民権の壮士芝居とは違う、歌舞伎風の演技をした。
島薗 順次郎(しまぞの じゅんじろう、1877年(明治10年… 島薗 順次郎(しまぞの じゅんじろう、1877年(明治10年)3月12日 - 1937年(昭和12年)4月27日)は、日本の医師、内科学者、医学博士。和歌山県、現在の和歌山市出身。脚気がビタミン欠乏症であることを発見した。 1877年3月12日、和歌山県、現在の和歌山市(当時は市制施行以前)に須藤暢の次男として生まれた。父を幼少期に亡くし、母と13歳上の兄の丑彦に育てられた。和歌山中学校在学中に才覚を見込まれ、医師の島薗家の娘婿として養子となる。卒業後、第一高等学校を経て、1899年に東京帝国大学医科大学に進学。大学在学中は、三浦謹之助教授、高橋順太郎教授の指導を受けた。1904年に卒業し、ドイツに留学。
板谷 順助(いたや じゅんすけ、1877年(明治10年)3月… 板谷 順助(いたや じゅんすけ、1877年(明治10年)3月12日 - 1949年(昭和24年)12月20日)は、貴族院勅選議員、衆議院議員、参議院議員。研究会所属。旧姓・山田。 新潟県出身。山田六右衛門の息子として生まれ、初代・板谷宮吉の養子となる。慶應義塾大学卒業後、明治45年(1912年)板谷商船副社長、小樽商業会議所顧問、北海道農友会会頭、札幌電気軌道、渡島海岸鉄道、沙流鉄道、洞爺湖電気鉄道、帝国自動車工業各社長。樺太銀行、平和生命、十合百貨店、日本電気冶金、羽田精機各取締役。 昭和2年(1927年)に栗林五朔急死に伴う北海道5区の補欠選挙において政友会は室蘭から適当な候補者を絞れず小樽の板谷が推薦されることになり、民政党の候補者と争い衆議院議員に当選した。
堀 祐平(ほり ゆうへい、1877年(明治10年)3月11日… 堀 祐平(ほり ゆうへい、1877年(明治10年)3月11日 - 1955年(昭和30年)1月5日)は、日本の実業家・政治家。 堀祐織物創業者。桐生体育協会初代会長。桐生市議会議員(4期)を務めた。 長野県上高井郡井上村(現在の須坂市)出身。20歳の頃、群馬県山田郡桐生町(現在の桐生市)に移住し機業を営む。緯糸に人造絹糸、経糸に絹糸を使用したリボン織を考案し、人絹織物の商品化に成功した。 1925年(大正14年)5月10日、桐生市会議員に当選。1928年(昭和3年)4月1日、群馬県体育協会理事に就任。同年11月3日に桐生市体育協会長に就任。新川運動場(後の桐生新川球場、現在の新川公園)の建設を推進し、市内の体育施設の整備に尽力した。
小山 満雄(おやま みつお、1877年(明治10年)3月9日… 小山 満雄(おやま みつお、1877年(明治10年)3月9日 - 1936年(昭和11年)12月25日)は、日本の陸軍軍人。日露戦争では第三軍の一員として戦い、のち歩兵第十六連隊長を務めた陸軍少将である。 旧会津藩藩士小山満峻の長男として宇都宮に生まれる。満峻は戊辰戦争後に栃木県に勤務した。小山は陸軍士官学校9期で、稚松会創立会員の一人。陸士同期では武川寿輔などが同様であった。小山の原隊は歩兵第十五連隊(高崎)、兵科は歩兵であり、1898年(明治31年)6月に歩兵少尉へ任官している。中尉時代に日露戦争に出征し、旅順で二〇三高地の攻略戦に加わった。1904年(明治)37年8月大尉に進級し、奉天会戦では田義屯の戦いに功績があった。
村上 隆吉(むらかみ りゅうきち、1877年(明治10年)3… 村上 隆吉(むらかみ りゅうきち、1877年(明治10年)3月7日 - 1934年(昭和9年)12月15日)は、日本の農商務官僚。帝国水産会会長。男爵。
森 俊六郎(もり しゅんろくろう、1877年(明治10年)3… 森 俊六郎(もり しゅんろくろう、1877年(明治10年)3月6日 - 1957年(昭和32年)3月19日)は、日本の大蔵官僚・銀行家。理財局長を最後に退官し、台湾銀行副頭取、南満州鉄道理事を歴任した。妻は烏山藩主・大久保忠順の娘・朝子。子爵・貴族院議員の大久保忠春は義弟。 福島県出身。会津中学を経て、二高第一部法科を首席で、1902年(明治35年)7月に東京帝大法学部政治学科を卒業。松平恒雄が大学時代の同級生である。大蔵省に入省し、同年11月文官高等試験に合格した。席次は41名中8番で首席は帝大同期の西野元であった。翌年主計局司計課長となり、参事官を兼任。1906年(明治39年)には大蔵大臣・阪谷芳郎の秘書官を務めた。
永井 松三(ながい まつぞう、1877年(明治10年)3月5… 永井 松三(ながい まつぞう、1877年(明治10年)3月5日 - 1957年(昭和32年)4月19日)は、日本の外交官。外務次官、駐ドイツ大使。IOC委員、貴族院勅選議員。 現在の愛知県名古屋市に永井松右衛門の長男として生まれる。 1895年(明治28年)に高等師範学校尋常中学科(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業後、私立東京英語学校を経て、第一高等学校、東京帝国大学を卒業。 1902年(明治35年)に外務省入省。天津、ニューヨーク、ワシントンDCに在勤する。1912年(明治45年)2月に駐サンフランシスコ総領事、その後、駐ベルギー大使、1930年12月から1932年5月まで外務次官、駐ドイツ大使などを歴任する。
内藤 浜治(ないとう はまじ、1877年〈明治10年〉3月5… 内藤 浜治(ないとう はまじ、1877年〈明治10年〉3月5日 - 1937年〈昭和12年〉9月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 兵庫県加西郡、のちの多加野村(現加西市)で生まれた。1897年(明治30年)東京帝国大学農学科卒。日露戦争に参加、陸軍騎兵中尉に進む。兵庫県立農学校、同赤穂農学校教諭兼校長を歴任し、兵庫県会議員、同参事会員、村長を務める。また、加西郡農会副会長、同畳表同業組合長、同畜産組合長、播州紡績、北播水力電気、日本製棉製紙、播磨縄莚各(株)取締役、播州石粉、播州算盤各(株)社長、中播電気、播州水力電気、北条銀行、関西土木電気興業各(株)監査役となる。 1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙において兵庫9区から憲政会公認で立候補して当選する。
岡 麓(おか ふもと、1877年〈明治10年〉3月3日 - … 岡 麓(おか ふもと、1877年〈明治10年〉3月3日 - 1951年〈昭和26年〉9月7日)は、歌人、書家。東京府本郷区湯島生まれ。本名・三郎。書号・三谷(さんこく)、俳号・傘谷(さんこく)。 徳川幕府奥医師の家系に生まれる。岡櫟仙院は祖父。東京府立一中(現東京都立日比谷高等学校)中退後、木村正辞が校長、落合直文などが教授を務めていた私塾大八洲学校に通う。ついで宝田通文に和歌と古典を、多田親愛に書を学んだ。かなりの箱入り息子であったらしく、17歳のとき香取秀真に一緒に国学を勉強にしに行こうと誘われたところ、「交際するのはこれまで自宅を訪問した人だけだった。こうして自分から訪うのは初めてだ」と答えたという。
本間 利雄(ほんま としお、1877年(明治10年)3月3日… 本間 利雄(ほんま としお、1877年(明治10年)3月3日 - 1970年(昭和45年)2月2日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選県知事。 山形県出身。酒田本間家の一族、本間東三郎の長男として生まれる。東京外国語学校を経て第一高等学校を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業し大学院に進んだ。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し富山県属となる。 以後、富山県事務官、同理事官、島根県警察部長、愛媛県警察部長、広島県警察部長、警視庁官房主事、同高等警察課長、兵庫県内務部長などを歴任。 1922年10月、長野県知事に就任。ブラジル移民の推進、郡制廃止への対応、中等学校の整備、道路網の改良などを推進。
丸瀬 寅雄(まるせ とらお、1877年(明治10年)3月3日… 丸瀬 寅雄(まるせ とらお、1877年(明治10年)3月3日 - 1932年(昭和7年)3月9日)は、日本の大蔵官僚、実業家。 東洋葉煙草社長。協立煙草、東洋錫紙(現・UACJ製箔)各取締役。 族籍は青森県士族。従四位勲四等。 長男は京都製作所元会長の丸瀬雄一郎。孫は丸紅会長・朝田照男の妻にあたる。 青森県士族・元郡長の丸瀬正果の長男として生まれ、1925年(大正14年)家督を相続する。 1904年(明治37年)東京帝国大学法科大学政治科を卒業。同年、文官高等試験(第11回)に合格し、大蔵省専売局に配属され、煙草専売局属、同事務官、同三次、同監査課長等を歴任。その後、同総務課長かつ臨時議院建築局理事を最後に、1924年(大正13年)10月、退官。
杉崎 瑢(すぎさき よう、1877年(明治10年)3月3日 … 杉崎 瑢(すぎさき よう、1877年(明治10年)3月3日 - 1943年(昭和18年)7月6日)は、日本の教育家である。 神奈川県に生まれ、東京高等師範学校(後の東京教育大学、現在の筑波大学)に入学する。卒業後は留学のため渡米し、カリフォルニア大学にて教育学および心理学を学んだ。帰国後は静岡師範学校(後の静岡第一師範学校、現在の静岡大学教育学部)で教鞭を執り、1916年(大正5年)には長野師範学校(現在の信州大学教育学部)に転勤する。 翌1917年(大正6年)には同学校附属の小学校の研究学級の教師にあたり、実験心理学を元に新教育の促進に携わった。これによって1925年(大正15年)には新教育の研究会から「研究学級の経営」として杉崎が研究した成果の発表にあたった。
森本 厚吉(もりもと こうきち、1877年3月2日(明治10… 森本 厚吉(もりもと こうきち、1877年3月2日(明治10年3月2日) - 1950年(昭和25年)1月31日)は、日本の経済学者・教育者・文化生活研究家。
目黒 孝平(めぐろ こうへい、1877年(明治10年)3月2… 目黒 孝平(めぐろ こうへい、1877年(明治10年)3月2日 - 1919年(大正8年)10月10日)は、明治から大正期の地主、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県北魚沼郡須原村長。号・皆水。 新潟県魚沼郡、のちの北魚沼郡須原村(守門村須原を経て現魚沼市須原)で、大地主・目黒徳松の長男として生まれる。1899年(明治32年)12月、家督を相続した。慶應義塾を経て、同志社に進み政治経済を学んだ。 帰郷して須原村長に2回選出された。公共事業などに私財を投じて信望があった。日本赤十字社特別社員、東洋調帯取締役、戦友共済生命保険(のち東邦生命保険)取締役なども務めた。 1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙に新潟県郡部で立憲国民党から出馬して初当選。
行友 李風(ゆきとも りふう、明治10年(1877年)3月2… 行友 李風(ゆきとも りふう、明治10年(1877年)3月2日 - 昭和34年(1959年)12月13日)は、大正、昭和期の劇作家、小説家。広島県尾道市土堂町出身。本名は直次郎。 家は岩子屋という藍商で、その総領息子だった。学歴は小学校卒業とされる。明治39年(1906年)大阪新報社入社。社会部記者となり演芸欄を担当。大正5年(1916年)退社、大阪松竹合名会社(松竹)文芸部を経て、大正初期、田村木国(俳人)らと洗堰吟社をおこす。 大正6年(1917年)、芸術座を退団した沢田正二郎が、より一般大衆に親しまれる"新しい国劇"を目的とし新国劇を結成。松竹の白井松次郎の考えから新国劇に派遣され、大正8年(1919年)正月の大阪弁天座公演から、行友は座付き作者として迎えられた。
遠山 郁三(とおやま いくぞう、1877年3月1日 - 19… 遠山 郁三(とおやま いくぞう、1877年3月1日 - 1951年1月2日)は、日本の皮膚科学者。東北大学教授(1918年4月-)、東京大学皮膚科教授(1926年9月-1937年3月)。立教大学学長(1937年4月-1943年2月)。 「連圏状粃糠疹」(れんけんじょうひこうしん)を新疾患として命名した。漆皮膚炎、ハンセン病、第四性病、放射線療法を研究し、また、皮膚科領域に生化学的研究を取り入れた。 岐阜県出身。ハンセン病治療の先駆者として知られる遠山道栄の二男。1902年、東京帝国大学卒業。1903年2月、皮膚病学梅毒学教室入局(土肥慶蔵教授)。1907年8月講師、10月仙台医専(現:東北大学)教授。
中田 薫(なかだ かおる、1877年3月1日 - 1967年… 中田 薫(なかだ かおる、1877年3月1日 - 1967年11月21日)は、日本の法制史家。山梨県甲府市出身。専門は日本法制史。東京大学名誉教授。法学博士。貴族院議員。 第二高等学校をへて、1900年に東京帝国大学法科大学政治学科卒業。その後、同大学院に入学し、1902年から東京帝国大学法科大学助教授。1908年から1911年まで文部省外国留学生として、ヨーロッパに留学。1911年に教授となり、1937年に退官。 1910年、法学博士の学位を授与される。1925年、帝国学士院会員。1946年に文化勲章、1951年に文化功労者。 1946年3月22日、貴族院勅選議員に任じられ、無所属倶楽部に属し1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。
野溝 伝一郎(のみぞ でんいちろう、1877年(明治10年)… 野溝 伝一郎(のみぞ でんいちろう、1877年(明治10年)3月1日 - 1947年(昭和22年)8月5日)は、日本の衆議院議員(革新倶楽部)。 長野県上伊那郡東春近村(現在の伊那市)出身。1899年(明治32年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業。上伊那農業学校助教諭・舎監を務めた後、東春近村長に選ばれた。さらに東春近村会議員、上伊那郡会議員、同議長、長野県会議員に選出された。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、南信毎日新聞社社長、財団法人尚志社理事、上伊那信用販売組合理事を務めた。
増田 金作(ますだ きんさく、1877年〈明治10年〉2月2… 増田 金作(ますだ きんさく、1877年〈明治10年〉2月26日 - 1947年〈昭和22年〉4月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、群馬県会議員(3期)、群馬県利根郡沼田町長、白沢村長。 群馬県利根郡白沢村上古語父に、増田仁兵衛の次男として生まれる。兄・武市は群馬県会議員や白沢村長を務めた。沼田町の育修館(群馬県立沼田高等学校の前身)を卒業。 1907年(明治42年)4月に白沢村収入役となり、1908年(明治44年)10月利根郡会議員に当選。1912年(明治45年)、1920年(大正9年)、1923年(大正12年)の3度にわたり白沢村長に選出された。1917年(大正6年)には白沢村会議員となっている。
飛田 周山(ひだ しゅうざん / とびた しゅうざん、明治1… 飛田 周山(ひだ しゅうざん / とびた しゅうざん、明治10年(1877年)2月26日 - 昭和20年(1945年)11月22日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。本名は飛田 正雄(とびた まさお)。別号に対月居。 文展・帝展審査員を務めたほか、岡倉天心を五浦に招いたことや、『小學国語読本』巻1の「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」の挿絵画家として知られる。 茨城県多賀郡大塚村(現在の北茨城市磯原町大塚)に、飛田正・きよ夫妻の長男として生まれる。父は農業を営み、村会議員や野口量平(野口雨情の父)が北中郷村の村長を勤めた4年間は、その助役に就いていた。明治26年(1893年)に上京し、叔父の海野美盛の書生となる。
井上 雅二(いのうえ まさじ、1877年(明治9年)2月23… 井上 雅二(いのうえ まさじ、1877年(明治9年)2月23日(6月23日とする資料もある) - 1947年(昭和22年)6月23日)は、日本のアジア主義者・南進論者・実業家・衆議院議員(中正倶楽部所属)。 兵庫県氷上郡神楽村(現在の丹波市)に足立多兵衛の二男として生まれ、井上藤兵衛の養子となった。海軍兵学校に入るが、大陸に志を抱いて退学した。その後、東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学。在学中からアジア主義団体の東亜会に関係し、1898年(明治31年)に東亜会と同文会が合同し、東亜同文会が成立すると、幹事に就任した。1899年(明治32年)に東京専門学校英語政治科を卒業。1900年、清国(中国)で義和団の乱が勃発すると、立憲派(勤王派 / 康有為派)の唐才常による「自立軍」蜂起計画を援助し、東亜同文会による「連邦保全」策に関与した。
斎藤 宗次郎(さいとう そうじろう、1877年〈明治10年〉… 斎藤 宗次郎(さいとう そうじろう、1877年〈明治10年〉2月20日 - 1968年〈昭和43年〉1月2日)は、岩手県東和賀郡笹間村(現・花巻市)出身のキリスト教徒。 無教会主義キリスト教徒である内村鑑三の最も忠実な弟子の一人で、その死に至るまで身の回りの世話をした。また、『雨ニモマケズ』のモデルとも言われている。 東光寺(禅宗)の住職の子として生まれる。岩手師範学校を卒業すると、師範在学中は排耶書(反キリスト教的な書物)に親しんだが、教職についてすぐに入院して聖書に接して、内村鑑三の『基督信徒の慰め』や『求安録』を愛読する。 日露戦争の際、内村に影響され本気で非戦論を唱え、「納税拒否、徴兵忌避も辞せず」との決意をする。
木下 十四三(きのした としさぶ、1876年(明治9年)3月… 木下 十四三(きのした としさぶ、1876年(明治9年)3月20日 - 1942年(昭和17年)1月31日)は、明治末から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員、佐賀県三養基郡北茂安村長。 佐賀県養父郡東尾村(養父郡北茂安村、三養基郡北茂安村大字東尾、北茂安町を経て現みやき町東尾)で、農業・木下七三、ナミの二男として生まれる。1897年(明治30年)東京法学院(英吉利法律学校後身、現中央大学)を卒業した。農業を営む。 北茂安村長、所得税調査委員、三養基郡農会長、佐賀県農会副会長、佐賀県会議員などを務めた。 1920年(大正9年)5月の第14回衆議院議員総選挙に佐賀県第3区から立憲政友会公認で出馬して当選し、政友本党に所属し衆議院議員に1期在任した。
伊波 普猷(いは ふゆう、1876年(明治9年)3月15日 … 伊波 普猷(いは ふゆう、1876年(明治9年)3月15日 - 1947年(昭和22年)8月13日)は、日本の民俗学者・言語学者。沖縄学の父と言われている。沖縄県那覇市出身。 琉球藩那覇西村(現在の那覇市西)に父普済・母マツルの長男として生まれる。1903年(明治36年)、第三高等学校を卒業した後、東京帝国大学で言語学を専攻する。帝大では、橋本進吉、小倉進平、金田一京助らの学友とともに、新村出の講義を聴講した。また、東京帝国大学では上田萬年の講義を聴講していた鳥居龍蔵(同大学助手)と出会い親交を深めた。1904年(明治37年)、沖縄に帰省する伊波は鳥居を沖縄での人類学調査に誘い、鳥居は伊波の実家に数日滞在して調査を行った。
2代平出 喜三郎(ひらで きさぶろう、旧姓・久保、幼名・彦十… 2代平出 喜三郎(ひらで きさぶろう、旧姓・久保、幼名・彦十郎、1876年(明治9年)3月15日 - 1931年(昭和6年)10月13日)は、日本の政治家(衆議院議員)、漁業家、資産家、実業家。東京屑物市場社長。従六位勲四等。族籍は石川県平民。 石川県江沼郡橋立村(現加賀市)で生まれる。石川士族・久保彦助の四男。久保彦助の弟。父の友人・先代平出喜三郎の養子となる。1898年、慶應義塾高等科を卒業し、函館に戻った。1908年、先代の死去により家督を相続し2代喜三郎を襲名。海運業、物産商、代弁業、問屋業、鉱山業を営んだ。北洋漁業の母船式沖取り漁業を推進した。 また、函館区会議員、同市会議員、函館図書館長、函館新聞社主、函館競馬倶楽部会長、函館塩販売所社長、函館銀行取締役、函館商業会議所会頭、東京屑物市場社長、函館林産取締役などを歴任した。
松田 道一(まつだ みちかず、1876年〈明治9年〉3月14… 松田 道一(まつだ みちかず、1876年〈明治9年〉3月14日 - 1946年〈昭和21年〉1月20日)は、日本の外交官。駐イタリア大使、駐オランダ公使。学位は、法学博士。 判事・弁護士の松田道夫の長男として東京府に生まれる。1900年(明治33年)に東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格し、また判事検事登用試験にも合格して検事となった。1902年(明治35年)、外務省参事官に転じ、翻訳官を経て、ベルギー公使館三等書記官を務めた。1913年(大正2年)、外務省政務局第二課長となり、通商局長事務取扱、条約局長、国際連盟帝国事務局長・フランス大使館参事官を歴任した。1925年(大正14年)、駐オランダ公使となり、翌年に駐イタリア大使に転じた。
大森 兵蔵(おおもり ひょうぞう、1876年(明治9年)3月… 大森 兵蔵(おおもり ひょうぞう、1876年(明治9年)3月14日 - 1913年(大正2年)1月15日)は、YMCA体育教授。岡山県出身。バスケットボールとバレーボールを日本に初めて紹介した人物である。日本初のオリンピックチーム監督。 岡山県上道郡高島村(現在の岡山市中区)の素封家大森家に生まれる。 東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業後、明治34(1901)年に渡米し、スタンフォード大学経済学部を経て、1905年からマサチューセッツ州スプリングフィールドにある国際YMCAトレーニングスクール(キリスト教布教のための指導者養成学校。現スプリングフィールド大学(英語版))で学んだ。当時米国は植民支配の新手法としてスポーツの利用を考えており、異教徒大量改宗を欲する英米仏のキリスト教会の熱心な活動を背景に、YMCAは英米スポーツをアジアに導入する主機関となり、1889年にはその第一号として日本YMCAが設立されていた。
藤堂 大蔵(とうどう たいぞう、1876年3月13日 - 没… 藤堂 大蔵(とうどう たいぞう、1876年3月13日 - 没年不詳)は、長い間浅野財閥の本社で支配人を務めた専門経営者である。 終戦時に日之出汽船(浅野財閥)の社長を兼務していたが、1948年(昭和23年)に息子の藤堂太郎に日之出汽船社長の座を譲った。財閥解体によって藤堂家は同社のオーナーになった。 藤堂大蔵は旧久居藩家老(三重県士族)藤堂八座の長男として、1876年(明治9年)3月13日に生まれる。新撰組隊士の藤堂平助は兄ともされる。 1899年(明治32年)に東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業して、台湾銀行(あるいは横浜正金銀行)に就職し香港や上海の支店長を務めたが、転職して1914年(大正3年)8月に第五銀行(日本昼夜銀行の前身)の支配人に就任した。
右近 和作(うこん わさく、旧姓・八十島、1876年〈明治9… 右近 和作(うこん わさく、旧姓・八十島、1876年〈明治9年〉3月11日 - 没年不明)は、日本の実業家、資産家。日本海上火災保険相談役。日本海上ビルデイング社長。日海興業、右近商事各取締役。日本生命保険監査役。早稲田大学評議員。族籍は福井県平民。 福井県平民・八十島五郎右衛門の三男。八十島五郎右衛門の弟。生家は代々酒造家であった。1898年、右近権左衛門の養子となり、1916年、養弟の権左衛門方より分家して一家を創立した。 1901年、東京専門学校(現・早稲田大学)英語政治科卒業。米国に遊学した。養父の統督する日本海上保険に入り、常務取締役として手腕を発揮した。戦後、公職追放となった。 趣味は読書、書道。
三松 武夫(みまつ たけお、1876年(明治9年)3月9日 … 三松 武夫(みまつ たけお、1876年(明治9年)3月9日 - 1934年(昭和9年)5月26日)は、日本の農商務官僚。憲政会・民政党系県知事。 大分県日田町で三松則之の二男として生まれる。第一高等学校を経て、1899年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務省に入り農商務属となる。 以後、農商務省山林局事務官、同省農務局事務官、同省書記官などを歴任。 1914年7月、鳥取県知事に就任。1917年1月、同知事を退任。横浜市助役を経て、1924年6月、山口県知事となる。1925年10月、新潟県知事に就任。1927年4月、同県知事を退任。1929年7月、新潟県知事に再任され、1930年8月まで務め退官した。
大井 義昌(おおい ぎしょう、1876年(明治9年)3月6日… 大井 義昌(おおい ぎしょう、1876年(明治9年)3月6日 - 1952年(昭和27年)9月9日)は、日本の政治家。富山県氷見市長(1期)。 富山県砺波郡西部金屋村(のち砺波郡北般若村→東砺波郡北般若村→西砺波郡戸出町、現在の高岡市)生まれ。1900年(明治33年)富山県師範学校卒。東砺波郡内の小学校の校長を務める。その後、氷見郡と婦負郡の視学となり、1920年(大正9年)11月6日氷見町長に就任する。在任中は氷見漁港改修や富山県立氷見中学校(現在の富山県立氷見高等学校)の設立などに力を入れた。町長は1930年(昭和5年)8月18日まで務めた。 戦後は日本社会党に入り、県連副会長、氷見郡支部長、日本農民組合富山県連会長などを歴任した。
矢島 専平(やじま せんぺい、1876年〈明治9年〉3月4日… 矢島 専平(やじま せんぺい、1876年〈明治9年〉3月4日 - 1955年〈昭和30年〉6月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・小倉。 山口県熊毛郡島田村(周南町、光町を経て現光市)出身。小倉甚吉の三男として生まれ、矢島作郎の養子となる。1898年(明治31年)陸軍士官学校(10期)卒。陸軍歩兵大尉となり、日露戦争に参加する。その後、長周銀行頭取、下松銀行、北満州金鉱(株)各取締役となる。 1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙において山口7区から無所属で立候補して当選する。のち、庚申倶楽部に入り、衆議院議員を1期務め、1924年(大正13年)第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
矢部 吉禎(やべ よしただ、1876年3月3日 - 1931… 矢部 吉禎(やべ よしただ、1876年3月3日 - 1931年8月23日)は、日本の植物学者。理学博士。位階および勲等は正四位・勲三等。東京生まれ。 植物学者。中国大陸の高等植物の研究にあたる。理學博士。 地球科学者・矢部長克の兄。妻敬子は貴族院議員・男爵中御門経隆の三女。 矢部の没後に、追悼記事として記されたものは , , , , がある。また、後年 の中に 小林義雄 (菌類学者) が を記した。この は、加筆修正されて に収録された。さらにそれが(一部修正されて) に収められた。この際に、誤った「よみがな」が振られた為に、それが世間に広まった。詳細は、別項に記す。 の矢部吉禎の項の記述は、この をベースに記述されている。
山川 丙三郎(やまかわ へいざぶろう、1876年3月3日 -… 山川 丙三郎(やまかわ へいざぶろう、1876年3月3日 - 1947年8月17日)は、イタリア文学者、翻訳家。日本で最初にダンテの『神曲』「地獄篇」を完訳した。 新潟県北蒲原郡(現・新潟県新発田市上館)生まれ。新潟市の北越学館に入学し受洗。1892年東北学院労働会に入って勤労学生として苦学し、20歳の同学院文科2年生のときに島崎藤村が教師として赴任し、交流する。バイオリニストを志して渡米し、カリフォルニア大学に学び、語学の才を発揮し、とくに中世英語ではアメリカ人を抜いてトップの成績を修めたという。 1914年から1922年にかけてダンテ・アリギエーリ『神曲』を邦訳。ダンテ研究家の大賀寿吉に絶賛される。
畑井 新喜司(はたい しんきし、1876年3月2日 - 19… 畑井 新喜司(はたい しんきし、1876年3月2日 - 1963年4月19日)は、日本の動物学者。東北帝国大学教授。ミミズやシロネズミの研究で知られる。次男は畑井小虎。 青森県東津軽郡小湊村(現 平内町)に生まれる。1890年、東奥義塾に入学し、1892年に東北学院本科3年に転入して受洗し、1895年同学院理科専修部入学、東北学院在学中は東北学院労働会に入って働きながら学ぶ。1898年3月同校卒業後、同年4月に五島清太郎に師事し、生物学教室助手として貧毛類の研究を行う。 1899年シカゴ大学留学のために渡米。1903年シカゴ大学で動物学および神経学の学位を取得、同大学助手として比較神経学の講座を担当する。
井上 久吉(いのうえ ひさきち、1876年(明治9年)3月1… 井上 久吉(いのうえ ひさきち、1876年(明治9年)3月1日 - 1953年(昭和28年)3月16日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。愛媛県松山市長。 愛媛県松山市湊町2丁目に生まれる。1887年(明治20年)家督を相続する。松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)を経て、東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業。松山紡績会社監査役、井上合名会社代表者を務める傍ら、松山市会議員となり、1922年(大正11年)から1926年(大正15年)まで市会議長を務めた。 1933年(昭和8年)11月17日に松山市長に推挙され就任。さらに1937年(昭和12年)再選したが、任期途中の1938年(昭和13年)7月に病気を理由に退任した。
切田 太郎(きりた たろう、1876年3月1日 - 1937… 切田 太郎(きりた たろう、1876年3月1日 - 1937年7月4日)は、日本の商学者。第6代台北高等商業学校校長。 岩手県盛岡市生まれ。1900年高等商業学校(現一橋大学)卒業。1902年同専攻部卒業。大倉高等商業学校講師、国民英学会講師、日本大学講師、明治大学講師、善隣高等商業学校講師、同教授、大倉高等商業学校教授を経て、1910年から東京高等商業学校教授を務める傍ら、中華民国政府の招きで京師大学堂講師を務め、同大学に商学部を設立した。1918年中村組ニューヨーク支店長。1919年台湾総督府台北高等商業学校教授。1929年同校長事務取扱。1930年同校長。1937年退官、叙正四位。同年鉄道事故にて負傷し死去し、学友の上田貞次郎らが弔問に訪れた。
木下 盛三郎(きのした せいざぶろう、1876年〈明治9年〉… 木下 盛三郎(きのした せいざぶろう、1876年〈明治9年〉3月1日 - 没年不明)は、日本の実業家、資産家、鳥取県多額納税者、地主。木下合資会社代表社員。族籍は鳥取県平民。 鳥取県日野郡阿毘縁村(現日南町)出身。木下彦四郎の長男。鉱業、農業、金融業を営む。社会公益事業等にも尽瘁する。 赤十字社特別社員である。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は鳥取県日野郡阿毘縁村大字阿毘縁。 木下家は当地方の豪家として知られ、多数の山林と耕地とを有し、県下の大地主である。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
中山 佐之助(なかやま さのすけ、1876年(明治9年)2月… 中山 佐之助(なかやま さのすけ、1876年(明治9年)2月29日 - 1940年(昭和15年)12月10日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 香川県出身。中山小平次の二男として生まれる。第四高等学校を卒業。1903年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1904年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。台湾総督府に入り同府警部となる。 以後、台湾総督府警視兼同参事官を経て内務省に転じ、茨城県警察部長、熊本県内務部長などを歴任。 1921年5月、熊本県知事に昇格。1922年10月、関東庁警務局長に転任。1927年5月、茨城県知事に就任。同年7月、石川県知事に転任。1929年7月、休職となる。
広瀬 為久(廣瀨 爲久、ひろせ ためひさ、1876年(明治9… 広瀬 為久(廣瀨 爲久、ひろせ ためひさ、1876年(明治9年)2月29日 - 1941年(昭和16年)3月1日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 山梨県山梨郡七里村(東山梨郡七里村、塩山町、塩山市を経て現甲州市)で、広瀬久光の六男として生まれる。1911年(明治44年)に分家した。 実兄雨宮亘の養父雨宮敬次郎が経営する岩手県の鉱山業に参画した。仙人製鉄所の専務取締役となり、のち同社長に就任。桂川電力取締役、東京電燈取締役、渡良瀬水力電気取締役、関東水力電気取締役、東信電気取締役、中央電力取締役、京浜電力常務取締役、東京発電監査役、笛吹水力電気監査役、吾妻川電力監査役、和賀軽便軌道社長、仙人山郵便局長、岩手地方森林会議員、鉄道会議議員などを務めた。
島村 孝三郎(しまむら こうざぶろう、1875年(明治8年)… 島村 孝三郎(しまむら こうざぶろう、1875年(明治8年)3月20日 - 1966年(昭和41年)10月24日)は日本の考古学者。南満州鉄道で大連図書館の初代館長などを務めたのちに憲政会に所属し、その後は東亜考古学会の幹事として戦後にいたるまで活動した。 1875年(明治8年)に生まれる。高校時代は仙台の第二高等学校で過ごし、この頃からすでに『東京人類学会雑誌』などに遺跡紹介の論文を掲載している。1895年(明治28年)には創設者の一人として奥羽史学会を結成。大学は東京帝国大学法科大学に進み、1897年(明治30年)ごろには国際法学会の発起人の一人となっている。東大法科時代の同級生には中田薫、杉栄三郎、柳田國男、松岡均平、遠藤源六らがいる。