藤浪 鑑(ふじなみ あきら、1871年1月19日(明治3年1… 藤浪 鑑(ふじなみ あきら、1871年1月19日(明治3年11月29日) - 1934年(昭和9年)11月18日)は、日本の医師、病理学者。藤浪肉腫の発見者として知られる。 1870年(明治3年)旧尾張藩の侍医、藤浪萬得の長男 として愛知県名古屋市に生まれる。生家は代々の尾張藩医という名門であった。 1895年(明治28年)に東京帝国大学医科大学を首席卒業。病理学教室に入り、当時ドイツのウィルヒョウに学んで帰国したばかりの山極勝三郎教授に師事する。翌年ドイツに留学。ベルリン大学ではウィルヒョウに、ストラスブール大学ではレックリングハウゼン病で有名なフリードリッヒ・フォン・レックリングハウゼンに、フライブルク大学病理学教室ではエルンスト・ツィーグラーにそれぞれ学び、4年間を過ごす。
弘世 助太郎(ひろせ すけたろう、明治4年12月9日 (旧暦… 弘世 助太郎(ひろせ すけたろう、明治4年12月9日 (旧暦)(1871年1月18日) - 1936年(昭和11年)3月9日)は実業家。日本生命三代目社長で「中興の祖」とされる。弘世現は娘婿。
田江 泰造(たごう たいぞう、1871年1月17日(明治3年… 田江 泰造(たごう たいぞう、1871年1月17日(明治3年11月27日)- 1939年(昭和14年)6月5日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、日本画家。衆議院議員、鳥取県会議長、鳥取県東伯郡下北条村長。号・素堂、素道、素翁。 伯耆国久米郡弓原村(鳥取県久米郡下北条村、東伯郡下北条村弓原、北条町を経て現北栄町弓原)で、大庄屋田江弥三郎の長男として生まれる。父が設けた自邸内の家塾・択善学舎で学んだ。 農業を営み、牧畜、蚕業の改良に尽力した。また製糸工場を経営した。下北条村会議員に就任。1896年(明治29年)東伯郡会議員となる。同年、鳥取県会議員に選出され7期30年間在任。1927年(昭和2年)県会議長に就任した。
堺 利彦(さかい としひこ、1871年1月15日(旧暦明治3… 堺 利彦(さかい としひこ、1871年1月15日(旧暦明治3年11月25日) - 1933年〈昭和8年〉1月23日)は、日本の社会主義者・思想家・歴史家・共産主義者・著述家・小説家。号は枯川、別名は、貝塚 渋六。 堺は没落士族の三男として、豊前国仲津郡長井手永大坂村松坂(現:福岡県京都郡みやこ町犀川大坂字松坂)に生まれる。旧制豊津中学校を首席で卒業して上京後、進学予備校であった共立学校にて受験英語を学んだのちに第一高等中学校に入学するが、学費を滞納して除籍処分される。除籍後は大阪や福岡で新聞記者や教員として勤めながら文学の世界で身を立てるべく、小説の執筆を始める。その後、同郷の末松謙澄の招待で東京に設けられた毛利家編輯所で「防長回天史」の編纂に従事し、同僚の山路愛山らと親交を深める。
浅井 敬吾(あさい けいご、1871年1月15日(明治3年1… 浅井 敬吾(あさい けいご、1871年1月15日(明治3年11月25日) - 1950年(昭和25年))は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、医師。長野県上田市長。旧姓は山本。 信濃国小県郡上田城下(現・上田市)の山本家に生まれ、旧上田藩士・浅井器水の養嗣子となる。東京済生学会を卒業し、東京順天堂医院(現・順天堂大学医学部附属順天堂医院)や横浜十全堂病院(現・横浜市立大学附属病院)を経て、東京帝国大学に入学し、小児選科を修了する。1893年(明治26年)旧制東京医学専門学校卒業。1899年(明治32年)故郷の上田に開業。このころ内村鑑三が訪れ、その影響で上田独立苦楽部を設立し、同会長となる。
井口 阿くり(いのくち あくり、1871年1月12日(明治3… 井口 阿くり(いのくち あくり、1871年1月12日(明治3年11月22日) - 1931年(昭和6年)3月26日)(通名:井口 あくり、本名:藤田 阿久利)は、日本の体育学者。女子体育の母・日本体育の母。 現在の秋田県秋田市南通亀の町出身。アメリカ留学後女子高等師範学校や日本体育会体操学校の教授を勤め、学校体育にスウェーデン体操を導入した。女子体育の先駆者で「日本女子体育の母」と呼ばれる。1911年(明治44年)藤田積造と結婚し藤田姓となる。 1871年1月12日(明治3年11月22日)、秋田久保田城下亀ノ町廓に住む父井口糺(タダス)、母ミヱの間に9人兄弟の四女として出生。糺は戊辰戦争において久保田藩を勤王に導いた傑士で、大正天皇即位のおり従五位を追贈されている。
由比 質(ゆひ ただす、明治3年11月20日(1871年1月… 由比 質(ゆひ ただす、明治3年11月20日(1871年1月10日) - 昭和5年(1930年)4月7日)は、日本の教育者。称号は従三位勲二等。 高知県土佐郡神田村(現・高知市)出身。第三高等学校を経て、1896年(明治29年)、東京帝国大学文科大学史学科を卒業。山口高等学校教授・舎監、千葉県千葉中学校校長、第五高等学校教授・生徒監、第三高等学校教授、松山高等学校校長、第七高等学校造士館校長を歴任した。 1930年(昭和5年)、鹿児島市で講演中に脳溢血で倒れて急逝。墓所は染井霊園1-イ-4-19。同所には兄である陸軍大将由比光衛の墓もあり、右側の墓石が質のものである。
濱田 彪(はまだ ひょう、1871年1月9日(明治3年11月… 濱田 彪(はまだ ひょう、1871年1月9日(明治3年11月19日) - 1938年(昭和13年)11月7日)は、日本の技術者、実業家。第3代三菱造船(現三菱重工業)会長を務めた。 長崎県東彼杵郡福重村野田郷(現大村市野田町)で、初代村長一瀬信造の次男として生まれた。大村中学校(現長崎県立大村高等学校)卒業後、1891年東京工業学校(現東京工業大学)機械科卒業、三菱合資入社。長崎造船所で「常陸丸」の受注にあたるなどし、同所機械工場支配人を経て、1898年三菱造船所電気主任技師。三菱造船所副長を経て、1917年三菱造船長崎造船所所長。1920年三菱造船常務取締役。1925年三菱造船会長。1931年蔵前工業会理事長。
柴田 駒三郎(しばた こまさぶろう、明治3年11月18日(1… 柴田 駒三郎(しばた こまさぶろう、明治3年11月18日(1871年1月8日) - 1945年(昭和20年)4月11日)は、日本の内務官僚、文部官僚。錦鶏間祗候。 奈良県出身。1896年(明治29年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、内務属となった。同年、高等文官試験に合格し、群馬県参事官、枢密院書記官、行政裁判所評定官、土木局書記官・内務省参事官、文部省宗教局長を歴任した。その後、維新史料編纂事務局長、維新史料編纂会委員を務め、1942年(昭和17年)に退官した。 1932年(昭和7年)9月27日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた。
政尾 藤吉(まさお とうきち、明治3年11月17日(1871… 政尾 藤吉(まさお とうきち、明治3年11月17日(1871年1月7日) – 大正10年(1921年)8月11日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、駐シャム(タイ)公使。法学博士。
三根 正亮(みね せいりょう、明治4年1月6日〈新暦:187… 三根 正亮(みね せいりょう、明治4年1月6日〈新暦:1871年2月24日〉 - 1939年〈昭和14年〉7月13日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。逓信省や鉄道院の技官を経て民間に入り大同電力常務取締役などを務めた。福岡県出身。 三根正亮は、明治4年1月6日(新暦:1871年2月24日)、福岡県三根幾次の長男として生まれた。1890年(明治23年)福岡県立尋常中学修猷館、1892年(明治25年)7月熊本の第五高等中学校工科を経て、1895年(明治28年)7月帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。大学在学中に京都電気鉄道の設計に関与している。 卒業後はすぐに逓信省へ入省。
釈 宗活(しゃく そうかつ、明治3年11月15日(1871年… 釈 宗活(しゃく そうかつ、明治3年11月15日(1871年1月5日) - 昭和29年(1954年)7月6日)は、明治・大正・昭和期の臨済宗の僧。東京市麹町の生まれ。出家前は入澤譲四郎。号は両忘庵、輟翁、石佛。
岡田 重久(おかだ しげひさ、1871年1月5日(明治3年1… 岡田 重久(おかだ しげひさ、1871年1月5日(明治3年11月15日) - 1936年(昭和11年)8月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は中将。 土佐国香美郡立田村(現・高知県南国市)に生まれた。1893年(明治26年)7月、陸軍士官学校(4期)を卒業。1894年(明治27年)3月、歩兵少尉に任官。1895年(明治28年)5月、歩兵中尉に進級。1899年(明治32年)3月、歩兵大尉に進級。1901年(明治34年)11月、陸軍大学校(15期)を卒業。1904年(明治37年)8月、歩兵少佐に進級。日露戦争に満州軍情報参謀として出征した[要出典]。1908年(明治41年)12月、歩兵中佐に進級。 1912年(大正元年)12月、静岡連隊区司令官となり、1913年(大正2年)2月、歩兵大佐に昇進。
森 広三郎(旧字体: 森 廣三郞、もり ひろさぶろう、187… 森 広三郎(旧字体: 森 廣三郞、もり ひろさぶろう、1871年1月4日(明治3年11月14日)- 1939年(昭和14年)7月13日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・広輔。 越前国今立郡稲寄村(福井県今立郡稲寄村、国高村稲寄、武生市を経て現越前市)で、豪農、先代・森広三郎の長男として生まれた。1901年(明治34年)8月、家督を相続し広三郎を襲名した。父の反対を受けながらも上京して英吉利法律学校(現中央大学)で学んだが、ついに父の意思に従い中退して帰郷した。 今立郡会議員に就任。1903年(明治36年)9月、福井県会議員に選出され、1905年(明治38年)5月まで在任し、同参事会員も務めた。
山本 昇雲(やまもと しょううん、明治3年11月9日〈187… 山本 昇雲(やまもと しょううん、明治3年11月9日〈1870年12月30日〉 - 昭和40年〈1965年〉5月10日)は、明治時代から大正時代にかけて制作した浮世絵師で日本画家、石版画家で報道画家。名は茂三郎といい、昇雲のほか小斎、松谷と号す。 出身は高知県長岡郡後免町(現・南国市)、生家の古物商は江戸時代、旧土佐藩の郷士であった。二男として生まれた山本茂三郎が6歳頃から師事した柳本圭吾(号「洞素」)は駿河台狩野家・狩野洞白の門人で、元は山内家の御抱絵師も勤めた絵師である。9歳になる明治12年(1879年)に、柳本の斡旋で狩野永岳門人である河田小龍にも絵を学び、入門3年目に小龍から「小斎」の画号を受けた。
堤 雄長(つつみ たけなが、1870年12月29日〈明治3年… 堤 雄長(つつみ たけなが、1870年12月29日〈明治3年11月8日〉- 1955年〈昭和30年〉4月11日)は、明治から昭和期の宮内官。政治家。華族。貴族院子爵議員。旧名・雄麿。 山城国京都で華族・堤功長の次男として生まれる。父の死去に伴い、1913年(大正2年)12月10日に子爵を襲爵した。 1894年(明治27年)東京美術学校日本画科を卒業。工手学校、京華中学校などで教師を務めた。1912年、祭官となる。以後、大喪使祭官、名誉掌典、青山御所祗候などを務めた。 1916年(大正5年)6月17日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1925年(大正14年)7月9日まで2期在任した。
坂口 惣五郎(さかぐち そうごろう、1870年12月25日〈… 坂口 惣五郎(さかぐち そうごろう、1870年12月25日〈明治3年11月4日〉 - 1939年〈昭和14年〉3月17日)は、日本の政治家、実業家、地主。米子市会議員。カギさ醤油醸造元坂口商店取締役社長。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡米子町大字尾高町(現・米子市尾高町)出身で、生家は木綿問屋。木綿商・坂口平吉郎の四男。1902年、兄・平兵衛方より分家をする。 会社の重役であり、坂口商店代表取締役、大谷オフセット社長、米子家畜市場、日本製絲、山陰水産、米子電車軌道、米子製鋼所各取締役、米子電車軌道、博愛病院各監査役、有限責任米子信用組合第二代組合長などをつとめる。 1907年から1911年まで米子町収入役をつとめる。
玉村 勇助(たまむら ゆうすけ、1870年12月24日(明治… 玉村 勇助(たまむら ゆうすけ、1870年12月24日(明治3年11月3日) - 1946年(昭和21年)12月26日)は、日本の技術者、発明家。 福井県出身。1895年(明治28年)に東京帝国大学工科土木科を卒業した。1898年(明治31年)から足尾銅山に勤務し、銅山で使用されていたイギリス製の空中ケーブルの改良に従事した。1902年(明治35年)に自在運搬器を発明し、1907年(明治40年)に玉村工務所を開設した。同年1907年に有翼抱索子を発明して新型ケーブルを開発した。 1919年と1933年に全国発明表彰の有功賞が授与されている。
小柳 司気太(おやなぎ しげた、1870年12月24日(明治… 小柳 司気太(おやなぎ しげた、1870年12月24日(明治3年11月3日)- 1940年(昭和15年)7月18日)は、日本の中国文学者、道教の研究者。新潟県出身[信頼性要検証]。東京帝国大学選科修了。旧姓は熊倉[信頼性要検証]。 越後国中蒲原郡小吉村(現・新潟県新潟市西蒲区)で、熊倉玄周の子として生まれる。父の死後、母方の叔父・小柳卯三郎の養子となる。1885年、粟生津村の私塾長善館に入門。1888年に上京。東京英語学校に入学するが、病気により一時退学、帰郷。1894年、東京帝国大学漢学科選科修了。藤田精一らと東亜学院を設立し、月刊誌『東亜説林』を刊行する。その後、広島尋常中学校教諭、真言京都中学校教諭を務める。
殖田 謙吉(うえだ けんきち、1870年12月24日(明治3… 殖田 謙吉(うえだ けんきち、1870年12月24日(明治3年11月3日) - 1904年(明治37年)9月4日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少佐。庄屋殖田覚十郎の二男として生まれる。母方姓是恒。大分県宇佐郡駅館村出身。第2次吉田内閣の法務総裁殖田俊吉は甥である。 旧海軍機関学校(横須賀)から海軍兵学校(18期)に編入。海軍大学校、鎮守府参謀を経て日露戦争開戦時は軍令部参謀。後に連合艦隊参謀に転出。黄海海戦において「三笠」最上艦橋で戦傷を受け、佐世保海軍病院にて死去。伊藤正徳は殖田について「有為の参謀であった」と評している。 1904年(明治37年)8月10日、最上艦橋で指揮をとっていた殖田は午後6時30頃に、前部艦橋左舷のセマホア信号機に敵弾が命中炸裂、その弾片、破片により負傷した。
網蔵 平輔(あみくら へいすけ、1870年12月23日(明治… 網蔵 平輔(あみくら へいすけ、1870年12月23日(明治3年11月2日)- 1947年(昭和22年)2月18日)は、明治時代後期から昭和時代の日本の大地主、政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名・静。妹の夫は貴族院議員 秋山源兵衛。 網蔵輝祖の孫、輝明の長男として生まれ、1889年(明治22年)2月に家督を相続する。本籍は山梨県北巨摩郡塩崎村(後の同郡双葉町、現在の甲斐市)で農業を生業にした。明治法律学校を修了した。 山梨証券監査役として山梨県多額納税者に列し、1915年(大正4年)貴族院議員に互選され、同年4月29日から1918年(大正7年)9月28日まで在任した。 ほか、北巨摩郡会議員、同郡塩崎村長を務めた。
白井 博之(しらい ひろゆき、1870年1月19日(明治2年… 白井 博之(しらい ひろゆき、1870年1月19日(明治2年12月18日)- 1934年(昭和9年)2月7日)は、明治後期から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。旧名・貞蔵。1913年(大正2年)5月、博之に改名。 白河県磐城郡上小川村(福島県石城郡上小川村大字上小川、小川町を経て現いわき市小川町上小川)で、実業家白井遠平の長男として生まれる。郷里の小学校を卒業し、同郡平窪村、室直養の培根塾に入り漢学、数学を学んだ。1885年(明治18年)11月に上京し、東京英語学校(現日本学園中学校・高等学校)で英語、数学を学び1887年(明治20年)7月に修業。東京農林学校に進んだが病のため1888年(明治21年)3月に中退し帰郷した。
瀬戸 虎記(せと とらき、1870年1月17日(明治2年12… 瀬戸 虎記(せと とらき、1870年1月17日(明治2年12月16日)- 1920年(大正9年)2月9日)は、日本の教育者。第一高等学校長。 土佐国土佐郡高知街鷹匠町(現:高知市鷹匠町)にて、土佐藩士瀬戸直道の長男として生まれる。第一高等中学校英予科、同校本科二部(理科)で学び、1896年帝国大学理科大学物理学科を卒業。 岩手県立盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)教諭、東京高等師範学校(現:筑波大学)教授、第六高等学校(現:岡山大学)教授、長崎高等商業学校(現:長崎大学)教授、文部省視学兼第一高等学校教授、文部省視学官、臨時教育会議委員などを歴任。1913年4月、前任者新渡戸稲造の退任に伴い、日本最難関と言われた第一高等学校の校長に就任する。
小織 桂一郎(さおり けいいちろう、1870年1月11日(明… 小織 桂一郎(さおり けいいちろう、1870年1月11日(明治2年12月10日) - 1943年(昭和18年)7月26日)は、日本の新派俳優である。本名は西巻行蔵。 新潟県柏崎市に生まれる。後に上京し1891年(明治24年)に川上音二郎一座に加入し、立役が認められた後に同座が経営する劇場において初舞台を踏んだ。1896年(明治29年)には同じ新派俳優だった高田実や初代喜多村緑郎らと共に、成美団の結成に携わり大阪にあった角座および朝日座等で舞台を踏む。 1907年(明治40年)には高田および伊井蓉峰が所属した一座に加入し、再度東京で舞台を踏みその座長も務めた。1913年(大正2年)には河合武雄らが結成した公衆劇団にも加入し、新劇運動に尽力する。
井坂 孝(いさか たかし、1870年1月9日(明治2年12月… 井坂 孝(いさか たかし、1870年1月9日(明治2年12月8日)- 1949年(昭和24年)6月19日)は、日本の実業家、政治家。貴族院勅選議員、枢密顧問官。 常陸国茨城郡水戸(現在の茨城県水戸市)で水戸藩士・井坂幹の三男として生まれる。茨城県尋常中学校、第一高等学校を経て、1896年(明治29年)7月、東京帝国大学法科大学を卒業し、東洋汽船会社に入社。 以後、東洋汽船会社取締役兼営業部長、横浜海上火災保険 (株) 専務取締役、同社長を務めた。経営破綻した七十四銀行の整理を行い、受け皿となる横浜興信銀行を設立し、副頭取、頭取を務めた。1921年(大正10年)4月、横浜商業会議所会頭に就任し関東大震災の復興に尽力した。
西久保 豊一郎(にしくぼ とよいちろう、明治2年12月6日〈… 西久保 豊一郎(にしくぼ とよいちろう、明治2年12月6日〈1870年1月7日〉 - 明治38年〈1905年〉7月12日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍歩兵少佐。栄典は正六位勲四等功四級。 歩兵第50連隊第1大隊長、後備歩兵第29連隊大隊長等を務め日露戦争で勇戦、樺太の戦いに於いて戦死を遂げた。 三重県警部長従七位の西久保紀林の子として肥前国佐賀郡鍋島村八戸(現佐賀市)に生まれる。兄は西久保弘道。明治7年、父に従い東京へ移住。明治8年8月から東京芝区巴町の第一番小学鞆絵学校(後の港区立鞆絵小学校。平成3年3月閉校し現在は港区立御成門小学校)に入校する。明治10年10月に佐賀の日新小学校に転校。明治12年4月には再び父の転勤の為三重県津市養正小学校に転校する。
美濃部 俊吉(みのべ しゅんきち、明治2年12月6日(187… 美濃部 俊吉(みのべ しゅんきち、明治2年12月6日(1870年1月7日) - 1945年(昭和20年)9月26日)は、日本の農商務及び大蔵官僚、銀行家、実業家。北海道拓殖銀行頭取、朝鮮銀行総裁。 兵庫県加古郡高砂町内材木町(現高砂市材木町)で美濃部秀芳の長男として生まれる。美濃部家は代々医業の家系で、父は姫路藩の御典医でもあった漢方医だが、町内の子供たちに習字や漢字を教えて主にその月謝で生活していたため、あまり豊かでなく、母はとても知識と教養をもっており、夫の代わりに診察したり書や漢書を教えていた。美濃部はいずれ上京して勉学に励みたいと考えていたが家計の事情を抱えていたとき、彼の俊才が見込まれて援助をしてくれる素封家が4人現れたことにより、小学校、小野田中学校を経て、1885年(明治18年)上京、第一高等中学校予科に入り、医学を志してドイツ語を学ぶが第一部本科に転じて1年の英語研究をした後、帝国大学法科大学政治科入学、1893年(明治26年)7月卒業(法学士)、第百銀行へ入行しようと池田謙三に会うも曖昧な反応で、返事を待っているうちに結局、同年8月農商務省に入り商工局配属、後に同工務課長となる。
竹下 勇(たけした いさむ、1870年1月5日(明治2年12… 竹下 勇(たけした いさむ、1870年1月5日(明治2年12月4日) - 1946年(昭和21年)7月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。鹿児島県出身。
鈴木 錠蔵(すずき ていぞう、1870年1月5日(明治2年1… 鈴木 錠蔵(すずき ていぞう、1870年1月5日(明治2年12月4日) - 1947年(昭和22年)6月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 茨城県出身。東京高等商業学校を矢野二郎排斥事件により中退。日本海員掖済会理事兼横浜支部長、共同火災保険(株)名古屋支店長、横浜生命保険(株)支配人、硫酸販売、関東機械ナット、東京リベット製造各(株)取締役、保土ヶ谷化学電気(株)常任監査役、東京硫酸(株)常務監査役となる。また、朝鮮政府に招かれ、法規編纂に従事する。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において茨城県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選する。1920年の第14回衆議院議員総選挙では茨城7区から立候補して再選する。
甲 吾郎(かぶと ごろう、1870年1月5日(明治2年12月… 甲 吾郎(かぶと ごろう、1870年1月5日(明治2年12月4日) - 1923年1月9日)は、山梨県巨摩郡(現・南アルプス市)出身で立川部屋、中村部屋、再度立川部屋に所属した力士。本名は五味 安吉。6代立川。168cm、90kg。最高位は東前頭4枚目。 1893年1月初土俵、1897年5月十両昇進。1903年1月新入幕、1909年から二枚鑑札、1913年1月に力士を引退。1911年から引退までは最年長幕内力士だった。 甲→甲斐ノ山→甲→兜→甲→立川
伊藤 広幾(いとう ひろちか / ひろき、1870年1月4日… 伊藤 広幾(いとう ひろちか / ひろき、1870年1月4日(明治2年12月3日) - 1923年(大正12年)4月4日)は、日本の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員。 陸中国稗貫郡、のちの岩手県稗貫郡根子村(花巻川口町、花巻町を経て現花巻市)で、伊藤弓太の長男として生まれる。1893年、札幌農学校農学科を卒業した。その後、北海道空知郡奈江村(現奈井江町)の土地50万坪を借りて開墾に従事。1895年、夕張郡角田村(現栗山町)に移り、水田の開墾に尽力し、同村を北海道水田の模範地となした。角田村会議員、同村農会長、夕張郡農会長、北海道農会副会長を歴任。 1919年11月、資本金百万円で北海道殖産銀行を設立し頭取に就任。
町田 咲吉(まちだ さききち、明治2年12月2日(1870年… 町田 咲吉(まちだ さききち、明治2年12月2日(1870年1月3日) - 昭和6年(1931年)7月13日)は、日本の農学者・水産学者。東京帝国大学名誉教授(元農学部長)。農学博士。専門は、農芸化学、水産物利用学・水産製造学・水産化学。 鹿児島県出身。鹿児島市皷川町生まれ。1892年(明治25年)、帝国大学農科大学を卒業し、助手を務めた。1893年(明治26年)より農事試験場技師を務め、1906年(明治39年)に統監府勧業模範場技師に転じた。また、農事試験場では、農芸化学部主任も務めた。 1908年(明治41年)より水産製造学研究のためアメリカ合衆国・ドイツに留学した。1910年(明治43年)7月、東京帝国大学農科大学(のち農学部)教授に任じられ、水産学第三講座を担当する。
豊福 泰造(とよふく たいぞう、1870年1月2日(明治2年… 豊福 泰造(とよふく たいぞう、1870年1月2日(明治2年12月1日) - 1945年(昭和20年)10月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。岡山県美作市出身。 岡山県英田郡栗広村(現:美作市)出身。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、東京専門学校及び哲学館で学ぶ。農業と林業を営む。粟広村(現・美作市)会議員、英田郡会議員、所得税調査委員となる。また、倉庫業を経営し、勝英銀行、勝英貯蓄銀行各頭取、播美軽便鉄道(株)社長を務めた。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において岡山県郡部から立憲国民党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1915年の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
小川 平吉(おがわ へいきち、1870年1月2日〈明治2年1… 小川 平吉(おがわ へいきち、1870年1月2日〈明治2年12月1日〉- 1942年〈昭和17年〉2月5日)は、日本の政治家、弁護士。号は射山。東京府平民。 衆議院議員、国勢院総裁、司法大臣、鉄道大臣等を歴任した。警視総監を務めた斎藤樹は娘婿、宮沢喜一は孫にあたる。 1892年(明治25年)、弁護士となり、1901年(明治34年)には近衛篤麿に従って上海の東亜同文書院創立に参画。 1903年(明治36年)、衆議院総選挙に出馬し当選、以来当選10回。 日露主戦論の急先鋒となった。日比谷焼打事件が起きた1905年(明治38年)9月5日の国民大会の主催者8名の1人であったことなどから芝警察署に検挙されたが無罪。
竹内 十次郎(たけのうち じゅうじろう、1869年12月30… 竹内 十次郎(たけのうち じゅうじろう、1869年12月30日〈明治2年11月28日〉 - 1937年〈昭和12年〉5月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍主計少監(主計少佐)。公金費消の嫌疑により免官となった人物である。大仏次郎の小説『帰郷』のモデル。 三重県出身。父は旧桑名藩士、兄は陸軍二等兵から中佐まで昇進した。三田英学校から海軍主計学校に進み、13名の同期生のうち首席・恩賜で卒業。日清戦争では旗艦「松島」の主計官として黄海海戦に参戦した。その後横須賀司計部計算官、「赤城」主計長などを勤め、造船造兵監督官としてイギリス駐在となり、現金前渡官吏を兼務。日本が発注する軍艦について代金支払の実務を担うこととなった。
大砲 万右エ門(おおづつ まんえもん、1869年12月30日… 大砲 万右エ門(おおづつ まんえもん、1869年12月30日(明治2年11月28日) - 1918年(大正7年)5月27日)は、岩代国刈田郡三沢村(現:宮城県白石市大鷹沢三沢)出身で尾車部屋に所属した大相撲力士。第18代横綱。本名は角張 萬次(かくばり まんじ)。 明治維新直後の1869年に農家の二男として生まれる。子供の時から身体が大きく怪力で、13歳で四斗俵を左右に軽々と提げて歩いた。この恵まれた体格を持つ少年の噂を聞いた伊勢ノ海部屋の元力士の夫人に見出され、1884年の春に上京して尾車部屋へ入門した。同年5月場所、故郷に因んだ「三沢滝(みさわたき)」の四股名で初土俵を踏んだ。入門当初は「コンニャク」と揶揄されるほど足腰が弱く、初土俵から4場所連続で前相撲から抜けられなかったが、1886年6月場所、師匠の初代尾車が勧進元になった際に、ようやくお情け(いわゆる"お蔭出世")で序ノ口昇進を認めてもらい、1887年1月場所に序ノ口に上がった。
伊沢 多喜男(いさわ たきお、旧字体: 伊澤 多喜男、186… 伊沢 多喜男(いさわ たきお、旧字体: 伊澤 多喜男、1869年12月26日〈明治2年11月24日〉 - 1949年〈昭和24年〉8月13日)は、日本の内務官僚、政治家。 信濃国高遠藩士伊澤勝三郎(文谷)(高遠藩士武井堀右衛門の子で、高遠藩主内藤頼寧に召しだされた伊澤清治の子)の子として生まれる。慶應義塾普通部、第三高等中学校を経て、1895年(明治28年)、東京帝国大学法科大学を卒業、一旦愛知県属となり1897年(明治30年)内務省に入省する。以後山梨県と岐阜県の各県参事官、岐阜県・福井県・滋賀県の各県書記官、滋賀県事務官などを歴任した。1907年(明治40年)に内務大臣であった原敬に引き立てにより警視庁警視、次いで和歌山県知事を務めた。
坂田 重次郎(さかた じゅうじろう、1869年12月24日(… 坂田 重次郎(さかた じゅうじろう、1869年12月24日(明治2年11月22日)- 1919年(大正8年)11月26日)は、日本の外交官。外務省通商局長や、在スペイン特命全権公使を務めた。 出雲国仁多郡三成村(現島根県奥出雲町)で旧家の金坂太八郎の次男として生まれる。兄の金坂儀一郎は村長を務めた。小学校卒業後大志を抱き上京したが、資金が尽きたため帰郷した。島根県師範学校に入学し3年間在学したが、休校となったため退学。1890年に坂田マスの養子となり坂田姓となる。1894年に高等商業学校(後の東京高等商業学校、一橋大学)本科卒業後、1896年第3回高等文官試験(外交科)に合格し、外務省入省。 高等商業学校在学中、1893年に学校から旅費を支給され、同校学生の福田徳三(のちに経済学者)とともに栃木県、群馬県、長野県、新潟県、富山県、石川県、福井県に視察に行った。
松岡 勝太郎(まつおか かつたろう、1869年12月22日(… 松岡 勝太郎(まつおか かつたろう、1869年12月22日(明治2年11月20日) - 1932年(昭和7年)9月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岐阜県、後の揖斐郡八幡村(現池田町)出身。1887年、同人社、1890年、東京専門学校行政科卒。農業を営む。岐阜県会議員、同議長、所得税調査委員、宅地価修正委員となり、会社重役を務めた。 1917年(大正6年)の第13回衆議院議員総選挙において岐阜県の郡部選挙区から憲政会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1920年の第14回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1932年に死去した。
津田 毅一(つだ きいち、明治元年12月6日(1869年1月… 津田 毅一(つだ きいち、明治元年12月6日(1869年1月18日) - 昭和12年(1937年)10月5日)は、衆議院議員(新政会)、弁護士。 上総国山辺郡片貝村(現在の千葉県山武郡九十九里町)出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)法律科を卒業し、1893年(明治26年)に判事検事登用試験に合格した。司法官試補を経て、1896年(明治29年)より、鹿児島区裁判所、姫路区裁判所、神戸区裁判所の判事を歴任した。 1899年(明治32年)、台湾総督府法院検察官に就任。1905年(明治38年)、台湾総督府で検察官制度廃止の議論が起きると、反対の議論を展開した。これが児玉源太郎台湾総督や後藤新平民政長官に認められ、桃園庁長に登用された。
田辺 又右衛門(たなべ またえもん、1869年1月15日 -… 田辺 又右衛門(たなべ またえもん、1869年1月15日 - 1946年1月20日)は日本の柔術家(不遷流4世・宗家)、柔道家(大日本武徳会範士)。社団法人兵庫県柔道整復師会初代会長。 1886年・翌87年の警視庁武術大会での大勝を機に日の出の勢いとなった新興の講道館柔道が各地に根付く柔術各派を圧倒し、在京の各派の多くが講道館の軍門に下る中、それでも一部の流派が講道館に挑み続けてその急先鋒と云われたのが不遷流出身の田辺であった。得意の寝技を以って講道館四天王の山下義韶や大豪・戸張滝三郎を破るなどし、富田常次郎、横山作次郎、西郷四郎など並居る講道館の重鎮たちが田辺との試合を避けてきた史実から、“講道館が最も恐れた男”として伝説的な存在となっている。
賀古 残夢(かこ ざんむ、1869年1月13日 - 1938… 賀古 残夢(かこ ざんむ、1869年1月13日 - 1938年3月21日)は、日本の映画監督、演出家、小説家。本名は賀古 保五郎(かこ やすごろう)。 日本映画界最古参の監督の一人。新派の座付作家を経て創設されたばかりの松竹蒲田撮影所に入社。新派調の悲劇映画を多く撮ったが、その一方で映画研究にも余念がなく、松竹映画の基礎固めに寄与した。門下生に牛原虚彦、池田義信らがいる。妻は女優の中川芳江、義妹に小松みどりがいる。 1869年1月13日(明治元年12月1日)、石川県金沢市に生まれる。ニコライ神学校卒。 若くして島崎藤村、馬場孤蝶らと雑誌『文学界』に参加し、新体詩や小説などを発表する。残夢はその時以来のペンネームである。
西原 吉治郎(にしはら きちじろう、1869年1月8日(明治… 西原 吉治郎(にしはら きちじろう、1869年1月8日(明治元年11月26日) - 1935年(昭和10年)12月27日)は、長門厚狭郡厚南村(現・山口県宇部市)出身の建築家。1897年(明治30年)から1917年(大正6年)までは福岡県営繕係や愛知県営繕係に奉職し、1918年(大正7年)に名古屋市初の個人建築事務所を開設して活動した。 父は西原英治郎、母はノエ。1869年1月8日(明治元年11月26日)、長門厚狭郡厚南村大字東須恵(現・山口県宇部市)に西原家の長男として生まれた。厚狭郡須恵小学校(現・宇部市立厚南小学校)を卒業し、吉敷郡山口町の山口黒城塾で学んだ後、大阪商業学校(現・大阪市立天王寺商業高等学校)に入学した。
寺野 精一(てらの せいいち、明治元年11月26日(1869… 寺野 精一(てらの せいいち、明治元年11月26日(1869年1月8日) - 大正12年(1923年)1月8日)は、日本の造船学者。 東京府出身。1890年(明治23年)、東京帝国大学工科大学を卒業。同大学院で商船構造学を研究。1892年(明治25年)より同助教授となり、1897年(明治30年)より造船学研究のためイギリスに留学した。1899年(明治32年)、帰国とともに教授に就任。1901年(明治34年)、工学博士の学位を得た。1918年から1920年まで工科大学長、次いで工学部長を、その後は航空研究所長を務めた。三菱造船所で建造した、主機に輸入タービンを搭載した義勇艦隊さくら丸、日本における貨客船のクラスにおいて初めて1万トンを超えた客船天洋丸・地洋丸の船体設計・建造に関与した.斯波忠三郎,大森房吉らと行った船体振動(機関回転数と振動数の関係に関わる)実験は世界的にも開拓的な業績と評価されている.1914年には日本鉄鋼協会の創立に発起人として参画し,1915年の創立後は理事/評議員として貢献した.造船共會(現在の日本船舶海洋工学会)理事を務め,1905年から新潟鉄工所の造船業務指導にあたった。
新納 忠之介(にいろ ちゅうのすけ、明治元年11月25日〈1… 新納 忠之介(にいろ ちゅうのすけ、明治元年11月25日〈1869年1月7日〉 - 1954年〈昭和29年〉4月13日)は、日本の彫刻家。号を古拙。2,631体の仏像等の多くの文化財を修理した。修理前後の写真や書面など詳細な記録を残しており現在の文化財修理の基礎を築いた。 岡倉天心は新納が仏像修復のパイオニアとしての方向性を決定づけた張本人であると言える。生涯にわたって岡倉を師と仰いで恋慕し続けてきた事は、新納に近しい人々の談で知られる所である。そうした運命の鍵となったのが明治34年(1901)から漸次開始された奈良の仏像修理事業である。奈良の修理に先んじて明治30年(1897)、東京美術学校が委託された奥州平泉・中尊寺金色堂の修理事業に新納は参加する。
高野 房太郎(たかの ふさたろう、1869年1月6日(明治元… 高野 房太郎(たかの ふさたろう、1869年1月6日(明治元年11月24日)-1904年3月12日)は明治期日本の労働組合運動の先駆者。長崎県長崎市出身。日本の社会科学者の一人。社会統計学者の高野岩三郎は弟。 長崎銀屋町で生まれる。幼名は久太郎で、父は仕立業を営んでいた。1877年に家族とともに東京に移り、父は現在の千代田区東神田付近の自宅兼店舗で旅館兼廻漕業の「長崎屋」を新たに始める。1879年8月に若くして父が死去し、長男の高野は形式上戸主となった。さらに、1881年2月に火災で「長崎屋」は焼失した。「長崎屋」は近辺に移転する形で営業を再開したが、この年に公立江東小学校の高等小学校(現・墨田区立両国小学校)を卒業した高野は、横浜に住む伯父の汽船問屋兼旅館に住み込みで働き、夜は横浜商法学校(現・横浜市立横浜商業高等学校)に通学した。
川村 精之(かわむら せいし、1869年1月2日(明治元年1… 川村 精之(かわむら せいし、1869年1月2日(明治元年11月20日) - 1927年(昭和2年)5月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岩手県出身。1887年、岩手県尋常師範学校卒。小学校訓導、同校長、稗貫郡亀ヶ森村(のち大迫町→花巻市)長、稗貫郡会議員、岩手県会議員、稗貫郡産馬畜産組合長となる。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において岩手県郡部から憲政会公認で立候補して当選する。1920年の第14回衆議院議員総選挙では岩手5区から立候補したが落選した。1927年死去。
樺山 資英(かばやま すけひで、明治元年11月19日(186… 樺山 資英(かばやま すけひで、明治元年11月19日(1869年1月1日) - 昭和16年(1941年)3月19日)は、日本の官僚、政治家。貴族院議員。 明治元年(1868年)薩摩国、後の鹿児島市西田町生まれ。樺山資雄の次男として生まれる。明治15年(1882年)4月に旧制東京府中学校(府立一中、現東京都立日比谷高等学校)へ入学し、明治17年(1884年)4月に旧制栃木県第一中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)へ転校、明治19年(1886年)7月に栃木県中学校(栃木県第一中学校から改称)高等中学科卒業。
丘 浅次郎(おか あさじろう、明治元年11月18日(1868… 丘 浅次郎(おか あさじろう、明治元年11月18日(1868年12月31日) - 昭和19年(1944年)5月2日)は、日本の動物学者。高等師範学校教授を歴任。 1868年、遠江国掛塚(現・静岡県磐田市掛塚)生まれ。父親が大阪造幣局勤務であったため、少年期は大阪市内で暮らす。大坂英語学校に入学し抜群の成績を修め、その後に旧制第一高等学校の前身である東京大学予備門に入学するも、歴史科目のみ成績が極端に悪く、2年続けて落第したため退学処分となった。このため大学の正規課程への入学資格を持たず、1886年帝国大学理科大学動物学科選科に入学した。1891年から3年間ドイツに留学し、フライブルク大学でアウグスト・ヴァイスマンに、またライプツィヒ大学でカール・ロイカルトに師事。
桑田 熊蔵(くわだ くまぞう、1868年12月30日(明治元… 桑田 熊蔵(くわだ くまぞう、1868年12月30日(明治元年11月17日) - 1932年(昭和7年)12月10日)は、日本の法学者。学位は法学博士。貴族院多額納税者議員。工場法実現のために尽力した。 現在の鳥取県倉吉市に大地主・桑田藤十郎の長男として生まれる。1893年(明治26年)帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)卒業。さらに大学院に進み、労働問題を専攻する。1896年(明治29年)金井延らとともに社会政策学会を起こし、社会問題研究のためにヨーロッパに留学。帰国後は労働者の実態調査に従事し、1904年(明治37年)法学博士。 1920年(大正9年)中央大学教授。1930年(昭和5年)中央大学経済学部長等を歴任した。