日匹 信亮(ひびき のぶすけ、安政4年12月1日(1858年… 日匹 信亮(ひびき のぶすけ、安政4年12月1日(1858年1月15日) - 昭和15年(1940年)11月22日)は旧日本陸軍の主計監(のちの主計少将)で、富士見町教会教会員。 妻は川本鶴吉の姉カヨ、日疋養鶏養豚場経営日疋道夫は子、日疋食品代表日疋文爾は孫、ひびき(旧社、後のHM管財)代表取締役日疋好春は曾孫。 安政4年(1857年)12月1日、日疋文七の三男として紀伊国(現和歌山県)に生まれる。幼名常吉である。1880年1月に陸軍士官学校(旧5期)に入校し、1882年12月25日に卒業し、陸軍歩兵少尉に任命される。歩兵中尉の時に主計科に転ずる。1904年8月14日、満洲軍倉庫長になり、日露戦争を迎える。
佐藤 三吉(さとう さんきち、1857年12月30日(安政4… 佐藤 三吉(さとう さんきち、1857年12月30日(安政4年11月15日) - 1943年(昭和18年)6月17日)は明治〜昭和期の外科医、医学博士、貴族院議員。美濃国大垣藩(現岐阜県大垣市)出身。 東京帝国大学教授、東京帝国大学医科大付属医院長、東京帝国大学医科大学長として、同じ岐阜県出身の青山胤通とともに、日本近代医学の創生期に活躍した。 佐藤三吉は1857年(安政4年)に大垣藩士佐藤只五郎の三男として生まれた。1870年(明治3年)父が死去し、義兄安藤就高の援助を受け上京し勉学の場を与えられた。 妻の滋子(1871年生)は小崎利準の長女。 実弟に東京興信所所長の佐藤正美、興業主の米山米吉がいる。
岩崎 行親(いわさき ゆきちか、安政4年11月13日(185… 岩崎 行親(いわさき ゆきちか、安政4年11月13日(1857年12月28日) - 昭和3年(1928年)4月24日)は、日本の教育者。号は岳東。 讃岐国(現在の香川県)丸亀出身。1881年(明治14年)、札幌農学校を第2期生として、新渡戸稲造、宮部金吾、内村鑑三、広井勇、南鷹次郎らとともに卒業した。農学士の称号を得て、開拓使御用掛、札幌県属、大阪府属を歴任。1894年(明治27年)より鹿児島県で教職につき、1901年(明治34年)に鹿児島県立鹿児島中学校校長から第七高等学校造士館校長に転じた。1912年(大正元年)に退官。 1918年(大正7年)から1924年(大正13年)まで福山中学校校長を務めた。
奥宮 健之(おくのみや けんし、1857年(安政4年)12月… 奥宮 健之(おくのみや けんし、1857年(安政4年)12月27日(旧暦11月12日) - 1911年(明治44年)1月24日)は、日本の社会運動家。 自由民権運動で活躍し、幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人だった。 1857年(安政4年)12月27日(旧暦11月12日)に土佐国土佐郡布師田村(現:高知県高知市布師田)で生まれる。父親の奥宮慥斎(1811 - 1877)は土佐藩のなかでも一流の陽明学者で、山内容堂の侍講だった。健之は11~12歳で東京へ向かい、三菱へ入社したが自由党が結党されると間もなく退職して入党した。党内では馬場辰猪と共に「土佐の二俊秀」と称された。 1882年(明治15年)に嚶鳴会と対決するものとして、馬場・大石正巳・西村玄道らと「国友会」を結成した。
内田 周平(うちだ しゅうへい、1857年12月26日〈安政… 内田 周平(うちだ しゅうへい、1857年12月26日〈安政4年11月7日〉 - 1944年〈昭和19年〉12月23日)は、日本の漢学者・哲学者。朱子学崎門派の末裔、中国哲学研究の開拓者、西洋哲学の紹介者、国体論者。哲学館・慶應義塾・大東文化学院など東京の大学や、熊本の第五高等学校で講義した。 字は仲準。号は遠湖(内田遠湖)・遠湖釣者・帆影子。堂号は谷門精舍。 1857年(安政4年)、遠江国浜松にて、漢学者兼蘭法医の父のもとに生まれる。生年を1854年(安政元年)とする文献もあるが誤りとされる。 1875年(明治8年)、上京し本郷壬申義塾でドイツ語を学ぶ。1876年外国語学校入学。1877年東京大学医学部予科入学、1881年本科進学。
珍田 捨巳(ちんだ すてみ、1857年1月19日〈安政3年1… 珍田 捨巳(ちんだ すてみ、1857年1月19日〈安政3年12月24日〉- 1929年〈昭和4年〉1月16日)は、日本の外交官。侍従長・枢密顧問官・外務次官。位階・勲等・爵位は従一位勲一等伯爵。キリスト教牧師(メソジスト派)。 弘前藩の下級藩士・珍田有孚の長男として、現在の青森県弘前市で生まれる。藩校の稽古館を経て、東奥義塾に学び、本多庸一の薫陶を受けて学び卒業。本多庸一校長の下で1874年(明治7年)東奥義塾の職員になる。1877年(明治10年)勇躍渡米しインディアナ・アスベリー大学で4年間学び、25歳のときに帰国した。当時、アメリカ事情と語学への通暁者は貴重な存在だった。1886年(明治19年)メソジストの弘前教会(現在の日本基督教団弘前教会教会堂)の副牧師になった。
4代 木村 半兵衛(半兵衞、きむら はんべえ、1857年1月… 4代 木村 半兵衛(半兵衞、きむら はんべえ、1857年1月18日(安政3年12月23日)- 1934年(昭和9年)9月12日)は、明治期の実業家・政治家。衆議院議員、栃木県会議長。幼名は勇三。 下野国足利郡小俣村(栃木県足利郡小俣町、坂西町を経て現足利市坂西地区)で、豪商・3代木村半兵衛の長男として生まれる。小俣学校の川上広樹から漢籍、政経学を、詩人・高林五峯から漢詩を学んだ。1886年(明治19年)父の死去に伴い家督を相続し4代半兵衛を襲名し、織物買継商を営む。 1875年(明治8年)頃、物産の改良、人心の啓蒙のため弘業談話会を設立し田口卯吉などによる講演会を開催し、1882年(明治15年)8月の足利工商会の設立を実現した。
大津 淳一郎(おおつ じゅんいちろう、1857年1月18日(… 大津 淳一郎(おおつ じゅんいちろう、1857年1月18日(安政3年12月23日) - 1932年(昭和7年)1月29日)は、日本の衆議院議員(立憲改進党→進歩党→憲政党→憲政本党→立憲同志会→憲政会→立憲民政党)、貴族院勅選議員。大東文化学院総長(第6代)などを歴任した。族籍は茨城県平民。 常陸国多賀郡折笠村(のちの茨城県多賀郡豊浦町、現在の日立市)出身。茨城県士族・大津正則の二男。1874年(明治7年)、分かれて一家を創立する。 水戸で漢学を修めた後、江戸に遊学した。1877年(明治10年)、小学校の教員となるが、まもなく退職した。その後、板垣退助の民権論にふれ、1879年(明治12年)から水戸で政談演説会を開いて、自由民権運動を推し進めた。
伊東 平蔵(いとう へいぞう、安政3年12月21日(1857… 伊東 平蔵(いとう へいぞう、安政3年12月21日(1857年1月16日) - 1929年(昭和4年)5月2日)は戦前日本の図書館専門家、イタリア学者。旧徳島藩士。 文部省で東京図書館等に勤務した後、イタリアに留学し、東京外国語学校等でイタリア語を教えた。大日本教育会書籍館で日本初の図書館講習会を創立し、私立大橋図書館、東京市立日比谷図書館、私立佐賀図書館、横浜市図書館の創立に関わった。 安政3年12月21日(1857年1月16日)徳島藩士山内俊一の三男として生まれ、伊東八郎左衛門の養子となった。本籍地は淡路国。1874年(明治7年)名東県の官費で東京外国語学校仏語科に入学した。 1880年(明治13年)9月3日文部省報告局に勤務し、『教育雑誌』でフランスの教育論等を抄訳した。
初代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、安政3年12月20日〈… 初代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、安政3年12月20日〈1857年1月15日〉 - 1917年〈大正6年〉2月26日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・源四郎、名・応家。 本間千五郎応次、たに子の二男として上野国佐位郡市場村(赤堀村、赤堀町を経て現伊勢崎市)に生まれる。佐渡国の戦国武将、本間高統の後胤。幼少期に文学に目覚め、足立春英(竹陰)に漢学などを学ぶ。 慶応元年7月(1865年)亡兄十四松の跡を継いだ。1880年(明治13年)市場村外五箇村戸長に就任。ついで連合村会議員を経て、1885年(明治18年)3月、最多票数を獲得し佐位郡選出の群馬県会議員となる。1887年(明治20年)12月、満期退職後、佐波郡会議員、同参事会員などを歴任した。
横田 虎彦(よこた とらひこ、1857年1月13日(安政3年… 横田 虎彦(よこた とらひこ、1857年1月13日(安政3年12月18日)- 没年不詳)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員。 肥前国高来郡深江村(現:南島原市)で、豪農・横田政八の第五子として生まれる。漢籍を修め、その後、長崎に出てドイツ語を学ぶ。1875年、東京に移り小学校教員、陸軍教導団入団、新聞社創設、政党設立などの活動を行う。1882年、鹿児島に移り法律学を研究して、1885年8月、代言人試験に合格し、鹿児島に事務所を開いた。 1888年、大阪に事務所を移転。大阪市会議員、大阪府会議員、同参事会員、大阪組合弁護士会長などを歴任。また、関西日報、大阪自由新聞を発刊した。 1902年8月、第7回衆議院議員総選挙で大阪市選挙区から出馬し当選。
信谷 定爾(のぶたに さだじ、1857年1月12日(安政3年… 信谷 定爾(のぶたに さだじ、1857年1月12日(安政3年12月17日) - 1893年(明治26年)11月9日)は、教育者。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。下総国生実藩士。
鶴原 定吉(つるはら さだきち、1857年1月10日(安政3… 鶴原 定吉(つるはら さだきち、1857年1月10日(安政3年12月15日) - 1914年(大正3年)12月2日)は、日本の官僚、実業家、政治家。第2代大阪市長。韓国統監府初代総務長官。衆議院議員。
篠田 時化雄(しのだ しげお、1857年1月9日〈安政3年1… 篠田 時化雄(しのだ しげお、1857年1月9日〈安政3年12月14日〉 - 1936年〈昭和11年〉4月27日)は、江戸時代後期から昭和初期にかけての国学者、神職、歌人であり、精華学園(後の京都精華学園中学校・高等学校)の設立者である。号は小笠乃屋・龍孫。
柏木 幸助(かしわぎ こうすけ、1857年1月9日(安政3年… 柏木 幸助(かしわぎ こうすけ、1857年1月9日(安政3年12月14日) - 1923年(大正12年)2月7日)は、山口県防府市三田尻出身の発明家。日本で初めて安全マッチを発明し、国産唯一の体温計やジアスターゼの製造にも成功した。 1856年(安政3年)、薬舗柏木治助の次男として生まれる。1872年(明治5年)、16歳の時、防府市牟礼の桂権吾に化学を学び始める(1874年(明治7年)まで)。1875年(明治8年)、発火薬に赤燐を用いたマッチの製造に成功。1877年には安全マッチの製造に成功し、生産を始める。1878年(明治11年)6月、華浦医学校で理化学を学ぶ。このあと、三田尻港の水深が浅く、大型汽船が寄港できないことから、その浚渫を計画するも、浚渫船を入手できず、周陽丸を建造して広島、下関に運行させたり、大阪道修町の薬種商白井治兵衛に体温計製造を相談、宇部のガラス職人惣兵衛とガラス瓶の製造を試みたりする。
西村 忠義(にしむら ただよし、1857年1月8日〈安政3年… 西村 忠義(にしむら ただよし、1857年1月8日〈安政3年12月13日〉 - 1925年〈大正14年〉4月22日)は、日本の政治家。鳥取県西伯郡境町長(2代)。境町会議員。 伯耆国会見郡境村(現・鳥取県境港市)出身。1889年(明治22年)に境町会議員に当選した。1890年(明治23年)1月に同町助役となった。1892年(明治25年)、同町会議員に再選した。1893年(明治26年)12月に同町助役を退任した。同月12日から1898年(明治31年)12月12日まで、同町長をつとめる。町長を辞めたあとは台湾に渡り、木村久太郎の下で金山監督をつとめる。同年、同町会議員に返り咲いた。1900年(明治33年)、同町会議員にまた返り咲いた。
高木 正年(たかぎ まさとし / せいねん、1857年1月4… 高木 正年(たかぎ まさとし / せいねん、1857年1月4日(安政3年12月9日)- 1934年(昭和9年)12月31日)は、日本の政治家。日本初の視覚障害をもつ衆議院議員であった。 安政3年12月、武蔵国荏原郡南品川(現在の東京都品川区)で質屋を営んでいた細井半兵衛以年の三男として生まれる。幼くして英才の誉れあり、親戚の高木一兵衛以考の養子になる。この養父は幕臣で本草学者であったという。12~16歳時に、隣家に隠棲していた木村芥舟に学ぶ。その後、猿渡容盛、井上頼圀、江木高遠に学ぶ。 1883年(明治16年)の第2期東京府会議員に当選する。1890年、第1回総選挙に立候補して当選し、衆議院議員になる。
宮村 三多(みやむら さんた、1857年1月1日(安政3年1… 宮村 三多(みやむら さんた、1857年1月1日(安政3年12月6日)- 1908年(明治41年)2月2日)は、明治期の教育者、実業家、政治家。衆議院議員。 豊前国下毛郡、のちの大分県下毛郡中津町(現中津市)で生まれる。藩儒・橋本塩巌に師事し漢籍を修めた。さらに中津市学校で英学、数学、法学、経済学を学んだ。千葉県中学校(現千葉県立千葉中学校・高等学校)助教諭を経て、同県成田英漢義塾(現成田高等学校・付属中学校)長に就任した。 帰郷して1877年(明治10年)亦一社を設立して自由民権運動に加わり、1879年(明治12年)国会開設請願運動を展開し、翌年元老院に提出した。亦一社の解散後、大分県下毛郡視学に就任。
小田 貫一(おだ かんいち、1856年12月29日(安政3年… 小田 貫一(おだ かんいち、1856年12月29日(安政3年12月3日) - 1909年(明治42年)7月22日)は、日本の政治家、広島市長(第六代)。族籍は広島県平民。玄孫に、内閣総理大臣の岸田文雄がいる。 安芸国佐伯郡宮内村(広島県佐伯郡宮内村、廿日市町を経て現廿日市市)に生まれる。小田常吉の長男。家は代々農業を営む。上京して慶應義塾を卒業したのち、広島県会議員を経て宮内村長となる。 第2回衆議院議員総選挙に立憲政友会からの推薦を受けて当選(以後6回当選)。のちに政友会を離党して社交俱楽部を組織した。1908年(明治41年)3月2日の第24回帝国議会「神職養成部国庫補助二関スル建議案委員会」で委員長として「国家神道」という言葉を初めて公に使用した。
7代 羽室 嘉右衛門(嘉右衞門、はむろ かうえもん / かえ… 7代 羽室 嘉右衛門(嘉右衞門、はむろ かうえもん / かえもん、1856年12月26日(安政3年11月29日)- 1924年(大正13年)8月25日)は、明治から大正期の地主・農業経営者・酒造家・実業家・政治家。京都府多額納税者、第一期及び第二期貴族院多額納税者議員互選人。衆議院議員、京都府何鹿郡中筋村長。幼名・逸郎、松逸郎。 郡是製絲株式会社(現・グンゼ株式会社)初代社長、明瞭銀行頭取。郡是製絲株式会社の第2代社長波多野鶴吉は次弟。比叡山鉄道株式会社初代社長、愛宕山鉄道株式会社取締役で京都法政学校(現・立命館大学)設立評議員・理事の羽室亀太郎は末弟。羽室亀太郎の妻ゆうは衆議院議員河原林義雄の妹。
駒林 広運(こまばやし ひろゆき/こううん、1856年12月… 駒林 広運(こまばやし ひろゆき/こううん、1856年12月23日(安政3年11月26日) - 1935年(昭和10年)11月23日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家。衆議院議員(5期)。 庄内藩士駒林広明の長子として出羽国田川郡鶴岡大海町(西田川郡鶴岡町を経て現鶴岡市)に生まれ、1875年(明治8年)8月、戸主となる。和漢学を修めたのち1879年(明治12年)3月、三等准訓導となったのち山形県会書記に転じた。1883年(明治16年)には同県会議員に当選し、1886年(明治19年)条約改正に反対を掲げ上京する。1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙まで通算5回当選した。
長尾 四郎右衛門(ながお しろうえもん、1856年1月19日… 長尾 四郎右衛門(ながお しろうえもん、1856年1月19日(安政2年12月12日)- 1916年(大正5年)1月31日)は、明治時代の政治家、実業家、銀行家。衆議院議員(2期)。貴族院多額納税者議員。 のちの岐阜県武儀郡菅田村(現下呂市)出身。漢学を修める。長尾信七郎の長男として生まれ、1876年(明治9年)5月に家督を相続する。家業の製糸業を発展させ濃武会社を設立し同社長を務めた。菅田町会議員、武儀郡会議員、岐阜県会議員、同常置委員、相続税審査委員、所得税調査委員、地方森林会議員などを歴任したほか、濃飛農工銀行発起人に名を連ね同頭取を務めた。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では岐阜県第5区から出馬し当選。
鄭 永昌(てい えいしょう、 1856年1月18日(安政2年… 鄭 永昌(てい えいしょう、 1856年1月18日(安政2年12月11日) - 1931年(昭和6年)12月3日)は、日本の外交官。義和団事件時に天津領事を務めるなどした。先祖は明末に日本へ帰化した華僑で、代々唐通事を務めた鄭氏の出身。 1856年(安政2年)1月18日(旧暦12月11日)、肥前国長崎に生まれる。父は唐通事呉家から鄭家の養子となった外交官の鄭永寧(呉右十郎)。弟に同じく外交官の鄭永邦がいる。 1870年(明治3年)、外務省官費生となり外務省漢語学校に入学した。1872年(明治5年)、父の清国出張に伴って天津で北京語を学んだのち、上海で南京官話を学んだ。帰国後再び官費生を命じられた。
武富 時敏(たけとみ ときとし、1856年1月16日〈安政2… 武富 時敏(たけとみ ときとし、1856年1月16日〈安政2年12月9日〉- 1938年〈昭和13年〉12月22日)は、明治から昭和にかけての政治家。第1次大隈内閣書記官長、第2次大隈内閣逓信大臣および大蔵大臣。佐賀藩出身。幼名は元吉郎。唇堂と号した。 佐賀藩士・武富良橘の長男として佐賀に生まれる。明治維新後、一旦上京して英学を学ぶが、後に帰郷して独学の後に塾を開く。佐賀の乱に参加するものの、首謀者ではなかったために無罪放免となった。1878年(明治11年)に家永恭種らが開校した私立中学校「戊虎義学」で教師を務める。 その後、再び上京して大学南校で学んだ。副島種臣と出会い、1882年(明治15年)の九州改進党の結成に参加し、「肥前日報」を創刊。
小林 七朗(こばやし しちろう、1856年1月9日(安政2年… 小林 七朗(こばやし しちろう、1856年1月9日(安政2年12月2日)- 1909年(明治42年)10月31日)は、明治期の地主、醸造家、実業家、政治家。衆議院議員。 甲斐国巨摩郡河原部村(山梨県北巨摩郡韮崎町を経て現韮崎市)で、大地主で屋号「布屋」として知られた豪商の家に生まれた。醤油醸造業、酢味噌製造業を営んだ。 1884年(明治17年)山梨県会議員に選出された。峡北政界で反自由党の中心となり、県内の地主派の指導者として活躍した。1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙で山梨県第1区から無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。 実業界では、韮崎銀行取締役、第十銀行監査役などを務めた。
湯本 武比古(ゆもと たけひこ、1856年1月8日(安政2年… 湯本 武比古(ゆもと たけひこ、1856年1月8日(安政2年12月1日) - 1925年(大正14年)9月27日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者。
久原 躬弦(くはら みつる、1856年1月5日〈安政2年11… 久原 躬弦(くはら みつる、1856年1月5日〈安政2年11月28日〉 - 1919年〈大正8年〉11月21日)は明治時代から大正時代にかけての日本の化学者。理学博士。 東京大学理学部・医学部教授、第一高等学校校長、東京化学会(後の日本化学会)会長、京都帝国大学理工科大学長、京都帝国大学総長。帝国学士院会員。専門は有機化学。業績にベックマン転位の研究など。 1855年(安政2年)、代々津山藩の藩医を勤める久原家の9代・宗甫の息子として現在の津山市に生まれた。なお躬弦は化学者になったが、弟が医師となって父の後を継いでいる。津山藩の藩校で漢文や数学を、1868年(明治元年)からは箕作麟祥の塾で英語を学んだ後、1870年(明治3年)に全国から集められた貢進生の一人として大学南校(後の東京大学)に入学した。
富田 仙助(冨田、とみた せんすけ、1855年12月31日(… 富田 仙助(冨田、とみた せんすけ、1855年12月31日(安政2年11月23日) - 1913年(大正2年)9月27日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 但馬国城崎郡豊岡内小井田町(のち兵庫県城崎郡豊岡町、現・豊岡市)に生まれる。漢学を学ぶ。酒造業と貿易業を営む。豊岡町戸長、豊岡町長を経て、城崎郡会議員となる。また、日本赤十字社終身社員に推薦された。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において兵庫9区から進歩党公認で立候補して初当選。同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政本党から出馬して再選を果たした。1902年の第7回衆議院議員総選挙では兵庫県郡部で憲政本党から立候補したが落選した。
稲田 邦植(いなだ くにたね、1855年12月26日(安政2… 稲田 邦植(いなだ くにたね、1855年12月26日(安政2年11月18日) - 1931年(昭和6年)5月28日)は稲田家16代当主。稲田家は代々徳島藩の筆頭家老であり、かつ淡路国洲本城主(現在の兵庫県洲本市)だった。維新後は男爵。 安政2年(1855年)11月18日、14代当主稲田植乗の長男として生まれた。母は禎寿院。幼名は小八郎。 父が早く亡くなり、15代当主稲田植誠の養子となった。1865年(慶応元年)12月、11歳で家督を継ぎ、九郎兵衛を名乗った。徳島藩は佐幕であったのに対して、尊皇攘夷派であったため早々に新政府軍に帰順した。1868年(慶応4年)、鳥羽・伏見の戦いでは日の御門を守衛し、摂津国西宮への出兵や高松藩の征討、有栖川宮熾仁親王の護衛などの任を務めた。
福留 清四郎(ふくとめ せいしろう、1855年12月26日(… 福留 清四郎(ふくとめ せいしろう、1855年12月26日(安政2年11月18日) - 1921年(大正10年)2月8日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。勲等は勲四等。 伯耆国生まれ(現・鳥取県西伯郡大山町)。農業を営む。1895年(明治28年)2月から同年5月まで、同年6月8日から1897年(明治30年)4月まで、1899年(明治32年)9月21日から1903年(明治36年)9月20日まで、同月21日から1904年(明治37年)3月3日までの4期に渡って帝国党所属鳥取県会議員を務めた。 同年の第9回衆議院議員総選挙において鳥取県郡部から帝国党公認で立候補して初当選。続く1908年(明治41年)の第10回衆議院議員総選挙では大同倶楽部公認で立候補して再選。
田中 穂積(たなか ほづみ、1855年12月22日(安政2年… 田中 穂積(たなか ほづみ、1855年12月22日(安政2年 旧暦11月14日) - 1904年(明治37年)12月31日)は、現在の山口県岩国市出身の作曲家、海軍軍人。 代表作である『美しき天然』(1902年(明治35年))は日本初のワルツとされている。大正、昭和期にはサーカスやチンドン屋などが客の呼び込みで演奏する曲として全国に広まった。同曲は長崎県立佐世保北高等学校と長崎県立佐世保南高等学校の前身の1つである私立佐世保女学校(佐世保市立成徳高等女学校)で田中が音楽指導する際に、教材として作曲したものと伝えられている。『美しき天然』の歌碑が佐世保市の烏帽子岳に、田中穂積の銅像が佐世保市の展海峰に建立されており、佐世保市民の愛唱歌として親しまれている。
大河内 輝剛(おおこうち てるたけ、1855年1月16日(安… 大河内 輝剛(おおこうち てるたけ、1855年1月16日(安政元年11月28日) - 1909年(明治42年)10月9日)は、日本の明治期の教育者、実業家、衆議院議員、歌舞伎座社長。勲六等。大河内子爵家の一族。 高崎藩主・松平輝聴の次男として生まれる。1871年(明治4年)頃、藩士宮部譲らと共に脱藩し鹿児島に行こうとしたが、江戸で藩兵に捕らえられ、高崎に護送されて城外の威徳寺に幽閉される。1872年(明治5年)3月〜11月東京の尺振八に就き英学修業。1873年(明治6年)1月〜翌年5月横浜在留米国人に就き英語学修業。1874年(明治7年)11月慶應義塾に入塾、1879年(明治12年)7月に学科卒業。
上條 謹一郎(かみじょう きんいちろう、安政元年11月28日… 上條 謹一郎(かみじょう きんいちろう、安政元年11月28日(1855年1月16日) - 明治43年(1910年)9月19日)は、日本の政治家。 信濃国筑摩郡南新村(現長野県松本市)に、代々松本藩主戸田氏の御殿医(眼科)を務めた庄屋の長男として生まれ、漢学を武居用拙に学んだ。1875年上京して小石川同人社や学農社で英語や農学を修め、1879年帰郷した。 1889年町村制施行により東筑摩郡新村の初代村長となる。その後は郡会議員、長野県会議員を経て、1898年第5回衆議院議員総選挙に初当選、衆議院議員(立憲政友会)を2期務めた。 1899年には信濃民報社創設に尽力し、新村銀行を創設。1907年長野農工銀行取締役に就任した。
浜田 玄達(はまだ げんたつ、旧字体:濱田 玄達、嘉永7/安… 浜田 玄達(はまだ げんたつ、旧字体:濱田 玄達、嘉永7/安政元年11月26日〈1855年1月14日〉 - 1915年〈大正4年〉2月16日)は、日本の産婦人科医。医学博士。東京帝国大学医科大学教授、医科大学長を歴任。日本婦人科学会初代会長。日本における産科婦人科学及び助産師(産婆)養成の基礎づくりに貢献した。 肥後国宇土郡里浦村(現・熊本県宇城市三角町大岳)において、熊本藩の医師濱田玄齊(波多村の医家からの養子)の長男として生まれた(旧名は慶吉)。数え2歳で母を、11歳で父を亡くし、父方の伯父のもとで読書習字をならい、14歳で儒医福田元澤に入門、調剤の傍ら漢学及び蘭学を兼修した。1870年(明治3年)10月開設の西洋医学の藩立病院、通称・古城医学校(熊本大学医学部の源流)への入学を許され、翌年招聘されたオランダ人軍医マンスフェルトに師事した。
安藤 政次郎(あんどう まさじろう、1855年〈安政2年〉1… 安藤 政次郎(あんどう まさじろう、1855年〈安政2年〉1月10日 - 1930年〈昭和5年〉7月18日)は、明治時代の新聞販売業者・養豚業者。現在の豊橋総合動植物公園(のんほいパーク)の前身である「安藤動物園」の創設者である。 三河国渥美郡吉田紺屋町(現・豊橋市大手町)に、紺屋を営む安藤喜久治の長男として生まれる。 明治10年(1877年)に故郷を離れ、静岡で新聞販売業を始める。同13年(1880年)には横浜に移り、同地でも新聞販売を行う。 横浜時代の政次郎は刺子の半纏にわらじ履きといういで立ちで、日の丸の小旗2本を組んで飾った黒塗りの挟み箱に新聞を入れて肩に担ぎ、鈴を鳴らして新聞を売って回った。
猫又 三吉(ねこまた さんきち、1855年1月8日(嘉永7年… 猫又 三吉(ねこまた さんきち、1855年1月8日(嘉永7年11月20日) - 1909年(明治42年)10月9日)は越中国射水郡横田村(現・富山県高岡市横田)出身の大相撲力士。本名は江川三吉(のち八島姓)。大阪相撲で活躍し最高位は大関。珍名で知られる。 9代小野川に入門。初名を小猫 三吉と名乗り1873年(明治6年)7月中相撲四段目が初見。1876年(明治9年)の紛擾で脱走、高越山谷五郎一派に参加し猫又 三吉と改めた。 1878年(明治11年)9月の和解本場所には姿を見せず翌1879年(明治12年)9月いきなり前頭筆頭に出た。1883年(明治16年)8月小結、1884年(明治17年)9月関脇、1886年(明治19年)11月31歳で大関となった。
安川 寛三郎(やすかわ かんざぶろう、1855年1月8日(安… 安川 寛三郎(やすかわ かんざぶろう、1855年1月8日(安政元年11月20日)- 1926年(大正15年)7月22日)は、明治から大正期の農業経営者、醸造家、政治家。衆議院議員、千葉県長生郡茂原町長。旧姓・横堀、幼名・篤造、号・雲山。 上総国長柄郡茂原村(千葉県長柄郡茂原町茂原、長生郡茂原町茂原を経て現茂原市)で、横堀確三郎の三男として生まれる。漢学を修めた。その後、代々里正を務め、醤油・酢製造業の酢屋当主、茶園も経営していた先代安川寛三郎の養子となる。1879年(明治12年)養父の死去に伴い家督を相続し寛三郎を襲名した。 家業を受け継ぎ、紅茶をイギリスに輸出するなど茶業経営に励んだ。1884年(明治17年)茂原町用掛となり、千葉県勧業諮問会員、長柄上埴生茶業組合委員長などを務め、地域の茶業振興に尽力した。
平島 松尾(ひらしま まつお、安政元年11月17日(1855… 平島 松尾(ひらしま まつお、安政元年11月17日(1855年1月5日) - 昭和14年(1939年)8月13日)は、日本の衆議院議員(自由党→憲政党→憲政本党→憲政会)。 陸奥国安達郡二本松(現二本松市)で二本松藩士平島正就の長男として生まれ、藩校で漢学を学ぶ。戊辰戦争に従軍した後、英学を学び、1873年(明治6年)に福島小学校の教員となった。その後、大蔵省、ついで福島県に勤務するが、1881年(明治14年)に官を辞し、自由党に入党した。しかし翌年、福島事件により河野広中とともに逮捕された。1889年(明治22年)、特赦により出獄し、河野とともに大同団結運動に参加した。 福島県会議員を経て、1894年(明治27年)の第3回衆議院議員総選挙に当選。
石原 彦太郎(いしはら ひこたろう、嘉永7年11月16日(1… 石原 彦太郎(いしはら ひこたろう、嘉永7年11月16日(1855年1月4日) - 明治31年(1898年)8月30日)は、衆議院議員(自由党)、甲府市長。 甲斐国甲府柳町に父「彦太郎(光邦)」、母「たけ」の長男として生まれる。慶応4年3月5日、東山道総督参謀の板垣退助らが甲府城に入ると石原家(冨士彦)を宿舎とした。この際、彦太郎は大いに板垣に心酔し、後年に板垣が自由民権運動を起こすとこれに賛同し、自由党に入党した。1875年(明治8年)1月に山梨県第一区副戸長となり、1889年(明治22年)7月1日の甲府市制施行に伴う、同月19日及び20日の両日に渡った第一回市会議員選挙において、第一期議員30名の中の一人として甲府市会議員(1889年(明治22年)7月20日 - 1895年(明治28年)7月19日)に当選し1891年(明治24年)6月20日には議長に選出され、1893年(明治26年)1月20日まで務めている。
稲沢 徳一郎(稻澤 德一郎、いなざわ とくいちろう、1855… 稲沢 徳一郎(稻澤 德一郎、いなざわ とくいちろう、1855年1月3日(安政元年11月15日)- 1912年(明治45年)6月4日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員、栃木県那須郡上江川村長。 下野国那須郡鹿子畑村(栃木県那須郡上江川村大字鹿子畑、喜連川町を経て現さくら市鹿子畑)で、豪農の家に生まれる。漢学、行政学、経済学、財政学を修めた。 戸長を務め、1888年(明治21年)立憲改進党に入党。那須郡会議員、同議長、栃木県会議員、所得税調査委員などを務め、1897年(明治30年)2代上江川村長に就任した。 1903年(明治36年)3月、第8回衆議院議員総選挙(栃木県郡部、憲政本党)に立候補して当選し、衆議院議員に1期在任。
室原 重福(むろはら じゅうふく、1855年1月3日(安政元… 室原 重福(むろはら じゅうふく、1855年1月3日(安政元年11月15日)- 1934年(昭和9年)2月7日)は、明治期の日本の教員、翻訳家、政治家。衆議院議員。 陸奥国宇多郡中村(福島県相馬郡中村町を経て現相馬市)で生まれる。尺振八の塾(共立学舎)に入り英書を学び、同塾教師となる。同人社に転じ英学教員に就任。27歳で外務省翻訳局御用掛に転じ、条約改正事務を担った。1887年(明治20年)長崎県尋常中学校長に転出した。 1890年(明治23年)9月、立憲自由党に入党し、1897年(明治30年)河野広中の福島県下自由党の分党活動に反対し、目黒重真県会議長らと県下自由党組織の維持に貢献した。1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(福島県郡部、立憲政友会)で初当選し、1903年(明治36年)3月の第8回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
釈迦ヶ嶽 清一郎(しゃかがたけ せいいちろう、1855年1月… 釈迦ヶ嶽 清一郎(しゃかがたけ せいいちろう、1855年1月1日(嘉永7年11月13日) - 1929年(昭和4年)9月19日)は大和国宇智郡二見村(現・奈良県五條市二見)出身の大相撲力士。本名は西出栄治郎(のち清一郎、一時柴田姓?)。大阪相撲で活躍し最高位は大関。 鏡山の弟子となり、のちに藤嶋部屋に移籍。1871年(明治4年)初土俵。初名を若柳と名乗るというが番付未確認。1875年(明治8年)6月中相撲二段目にある釈迦ヶ嶽 栄次郎が初見。1876年(明治9年)6月下の名を清一郎と改める。 1884年(明治17年)9月入幕。大柄ではないが怪力として知られた。好不調の波があり暫く停滞したが1889年(明治22年)9月関脇。
小池 正直(こいけ まさなお、1854年12月23日(嘉永7… 小池 正直(こいけ まさなお、1854年12月23日(嘉永7年11月4日) - 1914年1月1日)は、日本の陸軍軍人。貴族院議員。陸軍軍医総監・正四位・勲一等・功二級・医学博士・男爵。山形県鶴岡市出身。 鶴岡藩医・小池正敏の長男として生まれる。大学東校に入り、陸軍軍医生徒となり、1881年3月、東京大学医学部を卒業。同期は三浦守治、高橋順太郎、中濱東一郎、森林太郎、佐藤佐、賀古鶴所であった。 同年6月、陸軍軍医副に任官し、東京陸軍病院に配属。大阪陸軍病院、軍医本部付(釜山駐在)、近衛付、軍医学舎教官、兼陸軍省医務局副課員、医務局第1課長心得などをへて、1888年3月からドイツに官費留学し、ミュンヘン大学で学んだ。
広海 二三郎(廣海、ひろうみ にさぶろう、1854年12月2… 広海 二三郎(廣海、ひろうみ にさぶろう、1854年12月22日(安政元年11月3日)- 1929年(昭和4年)1月29日)は、明治時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。5代二三郎。北前船主。 広海常信(4代二三郎)の長男として、加賀国江沼郡瀬越村(石川県江沼郡大聖寺町瀬越を経て、加賀市大聖寺瀬越町)に生まれる。生家は加賀大聖寺藩の海運界の旧家。家訓により16歳から5年間手船に乗って船乗りと商売の基礎を学んだ。1887年(明治20年)1月、常信の死亡により家督を相続する。 1884年(明治17年)大阪に進出し、広海商店と屋号を掲げ、船舶業および海産物業を経営し、1889年(明治22年)には北海道小樽に「広海倉庫」を設立した。
高峰 譲吉(たかみね じょうきち、嘉永7年11月3日(185… 高峰 譲吉(たかみね じょうきち、嘉永7年11月3日(1854年12月22日) - 大正11年(1922年)7月22日)は、日本の化学者、実業家。工学博士号と薬学博士号を受ける。タカジアスターゼ、アドレナリンを発見し、アメリカ合衆国で巨万の財を成した。日本人による開発型ベンチャー企業やスタートアップの先駆者とされる。理化学研究所の設立者の一人。1912年帝国学士院賞受賞、1913年帝国学士院会員。 現在の東京大学工学部の前身の一つである工部大学校卒、応用化学を専攻し、社会人となってから3年間、官費で留学。 1854年に越中国高岡(現:富山県高岡市)の山町筋と呼ばれる御馬出町(おんまだしまち)の漢方医高峰精一の長男として生まれる。
片山 東熊(かたやま とうくま、嘉永6年12月20日(185… 片山 東熊(かたやま とうくま、嘉永6年12月20日(1854年1月18日)- 1917年(大正6年)10月24日)は、明治期に活躍した建築家。工手学校(現工学院大学)造家学科教務主理。位階および勲等は正三位勲一等。号は晩晴。 山口県生まれ。工部大学校の建築学科第1期生。 宮内省で赤坂離宮など宮廷建築に多く関わる。職務として県庁や博物館、宮内省の諸施設など36件の設計に関わったほか、公務の合間に貴族の私邸を中心に14件の設計を行った。 日本人建築家の養成を行うべく来日した、ジョサイア・コンドルによる最初の学生の一人である。 代表作である旧東宮御所(現・迎賓館赤坂離宮)は、2009年に明治期以降の建築としては初めて国宝に指定された。
大達 羽左エ門(おおだて うざえもん、1854年1月13日(… 大達 羽左エ門(おおだて うざえもん、1854年1月13日(旧暦嘉永6年12月15日) - 1904年8月17日)は、出羽国田川郡(現:山形県鶴岡市)出身の元大相撲力士。5代千賀ノ浦。本名は諏訪 辯治(すわ べんじ)。最高位は西大関。 1854年1月13日(旧暦嘉永6年12月15日)に出羽国田川郡(現:山形県鶴岡市)で農家を営む家に二男として生まれる。幼少期から地元の土地相撲で活躍したことで村民から「鬼童」と呼ばれて評判だったが、大食漢・大の相撲好きが災いして家業を疎かにすることが多くなったために養子先から離縁され、本職の力士を目指して上京、立田川部屋へ入門した。1873年12月場所において序二段で初土俵を踏むが、素行が悪かったためにまもなく脱走して新潟県を放浪し、村上の酒造家で奉公しながら再び土地相撲で活躍した。
9代 佐藤 伝兵衛(傳兵衞、さとう でんべえ、1854年1月… 9代 佐藤 伝兵衛(傳兵衞、さとう でんべえ、1854年1月13日(嘉永6年12月15日)- 1938年(昭和13年)8月11日)は、明治から昭和前期の大地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・菅野。 陸奥国安達郡、後の福島県安達郡小浜村(小浜町、岩代町を経て現二本松市小浜)で菅野善右衛門の三男として生まれ、安積郡郡山村(郡山町を経て現郡山市)の商家、大地主・佐藤喜一郎の養子となる。 1884年(明治17年)7月、郡山村会議員に就任し、その後、郡山町会議員、所得税調査委員、安積郡会議員、郡山本町郵便局長、営業税調査委員などを務めた。 1918年(大正7年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられ、研究会に所属して活動し1925年(大正14年)9月28日まで在任した。
片岡 七郎(かたおか しちろう、1854年1月12日〈嘉永6… 片岡 七郎(かたおか しちろう、1854年1月12日〈嘉永6年12月14日〉 - 1920年〈大正9年〉1月2日)は、日本の海軍軍人。海軍大将正二位勲一等男爵。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下薬師馬場町(鹿児島県鹿児島市薬師町を経て現薬師)で、薩摩藩士・片岡喜藤太の次男として生まれた。少年期のうちに薩英戦争や戊辰戦争が終わっており、西南戦争も兵学寮の生徒だったために参加していない。まだ兵学寮も制度が固まっておらず、カリキュラムを修了した順に卒業させていた。日高壮之丞大将と同時に入寮したものの、日高はそのまま兵学寮で練成を終えて第2期卒業を果たし、一方で片岡は、伏見宮兄弟(愛賢王→伏見宮博恭元帥と菊麿王→山階宮菊麿大佐)のドイツ留学に随員として1年半派遣されたため、日高より1期遅い第3期卒業生扱いとなっている。
本角 寅造(もとずみ とらぞう、嘉永6年12月12日(185… 本角 寅造(もとずみ とらぞう、嘉永6年12月12日(1854年1月10日) - 大正2年(1913年)6月6日)は、日本の政治家。中浜村長(初代)、県会議員。 小篠津村(のち鳥取県境港市小篠津町)の本角家は代々"与平"、"所十郎"を襲名する豪農で、大庄屋をつとめた由緒ある家柄だった。 寅造は、先代所十郎の長男文蔵が幼少のため財ノ木の角家より入り、同家の家督を継いで明治18年(1885年)県会議員、続いて第7連合戸長を務めた。 明治22年(1889年)11月中浜村長に就任し、小篠津尋常小学校を中浜尋常小学校と改めて新しい村づくりの中核とし、校地も拡張した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。