鵜飼 猛(うかい たけし、1866年1月29日(慶応元年12… 鵜飼 猛(うかい たけし、1866年1月29日(慶応元年12月13日) - 1948年(昭和23年)5月6日)は、日本の牧師。法学者の鵜飼信成や、アメリカ共産党員でアメリカOSS(戦略情報局)にも所属した鵜飼宣道(ジョー・コイデ)、銀座教会名誉牧師の鵜飼勇の実父でもある。 1866年1月29日(慶応元年12月13日)に松江に生まれる。1879年(明治12年)同郷の鵜飼渚の養子となる。 1885年(明治18年)東京府立第一中学校を中退して、美山貫一を頼ってサンフランシスコに行く。 1886年(明治19年) サンフランシスコの中国人伝道館で洗礼を受ける。その後、アイオワ州のシンプソン大学で学ぶ。 1894年(明治27年) アメリカ・メソジスト教会で按手礼を受けて牧師になる。
上原 鹿造(うえはら しかぞう、慶応元年12月13日(186… 上原 鹿造(うえはら しかぞう、慶応元年12月13日(1866年1月29日) - 昭和10年(1935年)10月4日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)。弁護士。 府内藩士上原平馬の四男として大分に生まれる。1883年(明治16年)、大分師範学校に入学して4年間学び、小学校訓導・校長を務めた。1888年(明治21年)に上京し、国民英学会を経て、1892年(明治25年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)行政科を卒業した。同年、弁護士試験に合格し、鳩山和夫事務所に勤務した。日本弁護士協会の結成に加わり、機関雑誌の編集主任を務め、理事となった。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
上埜 安太郎(うえの やすたろう、1866年1月27日(慶応… 上埜 安太郎(うえの やすたろう、1866年1月27日(慶応元年12月11日) - 1939年(昭和14年)4月4日)は、日本の政治家・衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲政友会)。富山県高岡市長。富山市長。族籍は富山県平民。 越中国礪波郡上向田村(富山県西礪波郡西五位村、福岡町を経て現高岡市福岡町)出身。上埜次平の長男。家は農を業とし、蚕業を営んでいた。自由党に加入して、富山県内の党勢拡大に貢献した。養蚕業を営み、県下の大地主であり、1887年(明治20年)、初めて富山県会議員に当選、副議長、議長を歴任し、庄川改築工事や富直鉄道建設計画に尽力した。また北陸公論を創刊してその社長となり、さらに越中新報社、東洋漁業会社などの経営に当たった。
木内 重四郎(きうち じゅうしろう、慶応元年12月10日(1… 木内 重四郎(きうち じゅうしろう、慶応元年12月10日(1866年1月26日) - 大正14年(1925年)1月9日)は、戦前日本の官僚・政治家。
山内 晋卿(やまのうち しんきょう、旧名: 晋(すすむ)、1… 山内 晋卿(やまのうち しんきょう、旧名: 晋(すすむ)、1866年1月26日(慶応元年12月10日) - 1945年(昭和20年)9月9日)は、仏教学者、漢文学者、中国史学者。石見国(現島根県)生まれ。 浄土真宗本願寺派勧学、旧制第三高等学校(現京都大学)教授。定年後は、旧制福岡県立女子専門学校(現福岡女子大学)専任講師、旧制九州帝国大学専任講師等を歴任。 旧制三高の学校誌である『第三高等学校 神陵史』に名前が挙げられている。九州帝国大学の仏教青年会、浄土真宗本願寺派安居本講でも活躍した。島根県大田市にある浄土真宗本願寺派明恩寺第12世住職。 在日本,也有许多不同的议论。开头,山内晋卿认为是真的,他根据的是明清人的说法;总之,常盘大定认为是假的
高見 松太郎(たかみ まつたろう、1866年1月23日(慶応… 高見 松太郎(たかみ まつたろう、1866年1月23日(慶応元年12月7日) - 1930年(昭和5年)1月5日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 長崎県出身。1910年、法政大学卒。長崎県会議員、長崎市会議員、同議長代理、所得税調査委員、長崎港湾改良調査会幹事、私立長崎盲啞学校(現・長崎県立盲学校)理事、長崎慈善学会幹事、日本海員掖済会地方委員、長崎麦粉会社、九州生命保険(株)各取締役、長崎米穀株式取引所、長崎勧業信託(株)各監査役、長崎電気瓦斯、長崎ラジウム鉱泉(株)各取締役となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において長崎市選挙区から無所属で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1903年の第8回衆議院議員総選挙は不出馬。
日野 強(ひの つとむ、1866年1月23日(慶応元年12月… 日野 強(ひの つとむ、1866年1月23日(慶応元年12月7日)- 1920年(大正9年)12月23日)は、日本の探検家、大日本帝国陸軍の軍人である。幼名は熊吉。「強」の読み方は戸籍上は「つとむ」であるが、中国で活動していた時期には一般に「きょう」と読まれ、東京地学協会や出口王仁三郎は「つよし」と呼んでいた。日野本人は「きょう」という読み方を使い、「つとむ」の読み方を使っていたのは改まった場面だけだったという。 伊予小松町(現西条市)の常吉、ツヤ夫妻の家に生まれ、一家には強のほかに兄一人、弟二人、妹二人がいた。小学校卒業後に愛媛県師範学校に進み、教職に就くが、転勤先の堀江の小学校の環境に失望する。
川島 浪速(かわしま なにわ、慶応元年12月7日(1866年… 川島 浪速(かわしま なにわ、慶応元年12月7日(1866年1月23日) - 昭和24年(1949年)6月14日)は、日本の大陸浪人。満蒙独立運動の先駆者として知られる。 信濃国松本城下(現長野県松本市)に松本藩士川島良顕と、その妻・栄子の長男として生まれる。出生時には父親が長州征討のため大坂に出陣中であったため、「浪速」と命名された。明治8年(1875年)に一家で東京に移住。その後、東京外国語学校に入学し中国語を学ぶ。明治19年(1886年)に同校を退学、同年に上海に渡航し、中国各地を見聞する。明治22年(1889年)、病を得て帰国。 明治27年(1894年)、日清戦争が勃発すると、陸軍通訳官として従軍、中国大陸から台湾に転戦する。
岸本 能武太(きしもと のぶた、慶応元年12月16日(186… 岸本 能武太(きしもと のぶた、慶応元年12月16日(1866年1月22日) - 昭和3年(1928年)11月16日)は、日本の宗教学者。宗教学者の岸本英夫は次男である。 慶応元年12月16日(1866年1月22日)、岡山県岡山市花畑に岡山藩士である滝義夫の次男として生まれる。 1880年7月、岡山中学校を卒業し、同年9月、京都同志社英学校普通科に入学する。1882年2月5日、新島襄から洗礼を受ける。1884年6月、京都同志社英学校普通科を卒業する。 1885年4月、同志社英学校神学科に入学し、1887年6月、卒業する。 仙台の東華学校で教師を務めた後、1890年9月、ハーバード大学神学科に留学し、宗教哲学、比較宗教学、サンスクリット語、パーリ語を研究する。
畠山 勇子(はたけやま ゆうこ、慶応元年12月6日(1866… 畠山 勇子(はたけやま ゆうこ、慶応元年12月6日(1866年1月22日) - 明治24年(1891年)5月20日)は、1891年の大津事件で日露関係が緊張した際、被害者のロシア皇太子ニコライに謝罪の遺書を残して自殺した女性である。 1865年、安房国長狭郡横渚(よこすか)村(のち鴨川町の一部。現・千葉県鴨川市横渚)に畠山治兵衛の長女として生まれる。畠山家は横渚の農家で、かつては資産家であったが、明治維新のおりに私財を投じたため、生活は貧困であったという。5歳で父を失い、17歳で朝夷郡安馬谷村(のち千歳村。現・南房総市)の商家の若松吉蔵というものに嫁いだが、勇子は勝気で商業には不向きな性格であり、また『南総里見八犬伝』や『釈迦八相倭文庫』、政治小説や新聞『日本』などを読むことを好んでいたため、周囲との折り合いが悪かったようで、不縁になり1887年(明治20年)23歳で離婚した。
佐藤 寅太郎(さとう とらたろう、慶応元年12月5日(186… 佐藤 寅太郎(さとう とらたろう、慶応元年12月5日(1866年1月21日) - 昭和18年(1943年)9月21日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。教育者。 信濃国佐久郡長土呂村(現在の長野県佐久市)出身。長野県師範学校を卒業。同級生に河野齢蔵や矢澤米三郎がいた。師範卒業後、北佐久郡で教職につき、他府県出身者の勢力を駆逐し、小諸小学校長時代には、学校を 一村教化の中心にすえることを主唱し、全校生徒の浅間山登山や職員による浅間山研究を行った。さらに郡長が会長の官製教育会のあり方を改め、みずから北佐久郡教育会長に当選するなど、後半の教育官僚・政治家としての地歩を築いた。 明治43年(1910年)に長野県視学に就任し、同理事官、同視学官、大正6年(1917年)同学務課長を歴任したが、「天下の公選によって学務の府に立った」と折にふれ称したという。
田中 一寧(たなか いちねい、元治2年1月19日(1865年… 田中 一寧(たなか いちねい、元治2年1月19日(1865年2月14日) - 昭和20年(1945年)8月6日)は、日本の教育者。
内田 定槌(うちだ さだつち、1865年2月12日〈元治2年… 内田 定槌(うちだ さだつち、1865年2月12日〈元治2年1月17日〉- 1942年〈昭和17年〉6月2日)は、日本の外交官。駐ブラジル公使、駐スウェーデン公使、駐トルコ大使。 豊前国小倉(現在の福岡県北九州市)出身。1889年(明治22年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、外務省試補となった。翌年、上海副領事となり、漢城領事、ニューヨーク領事、同総領事を歴任した。1906年(明治39年)にブラジル弁理公使となり、翌年に特命全権公使となった。その後、スウェーデン公使に就任し、デンマーク公使、ノルウェー公使も兼ねた。1920年(大正9年)、トルコに派遣され、のち大使に昇格した。 退官後は日土協会会長、日土貿易協会顧問を務めた。
丸尾 光春(まるお こうしゅん、元治2年1月16日(1865… 丸尾 光春(まるお こうしゅん、元治2年1月16日(1865年2月11日) - 大正12年(1923年)4月2日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)。医師。 播磨国朝来郡生野町(現在の兵庫県朝来市)に福井又次郎の二男として生まれ、丸尾八右衛門の養子となった。1887年(明治20年)、兵庫県立神戸医学校を卒業。生野町会議員、朝来郡会議員、同議長、兵庫県会議員、同副議長に選ばれた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
山田 珠一(やまだ しゅいち、元治2年1月15日(1865年… 山田 珠一(やまだ しゅいち、元治2年1月15日(1865年2月10日) - 昭和9年(1934年)4月17日)は、日本の衆議院議員(帝国党→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会→憲政会)。熊本市長。 豊後国国東郡草地村(現在の大分県豊後高田市)出身。少年時代から漢学を修め、秀才の評判が高かった。済々黌に入学、教師や生徒の間から「今度大分から来た山田は非常に秀才だ。」と喧伝されていた。済々黌で生涯の畏友となる安達謙蔵と出会い、ドイツ語を学び、その学才を佐々友房から高く評価された。卒業後は在学中から手伝っていた九州日日新聞社に入り、主筆を経て、1899年(明治32年)に社長に就任した。また熊本市会議員、市会議長も務め、1902年(明治35年)の第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
金子 銓太郎(かねこ せんたろう、元治2年1月15日(186… 金子 銓太郎(かねこ せんたろう、元治2年1月15日(1865年2月10日) - 昭和12年(1937年)11月18日)は、日本の文部官僚、教育者。 東京府出身。1889年(明治22年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。一年志願兵として、1891年(明治24年)に陸軍歩兵少尉となり、1895年(明治28年)に陸軍歩兵中尉に昇進し、さらに日露戦争に出征して陸軍歩兵大尉に昇進した。その間、大分県尋常中学校校長、大阪府第一尋常中学校校長を経て、1899年(明治32年)に陸軍教授となり、さらに文部省図書審査官、大阪府視学官、学習院教授を務めた。 その後、高知県立第一中学校校長、愛知県立第一中学校校長などを経て、1910年(明治43年)に第六高等学校校長に就任した。
岩佐 新(いわさ あらた、1865年2月10日(慶応元年1月… 岩佐 新(いわさ あらた、1865年2月10日(慶応元年1月15日)– 1938年(昭和13年)10月24日)は、日本の華族、医師。貴族院男爵議員。 明治天皇の侍医を務めた男爵岩佐純の長男として福井に生まれる。大学予備門で学んだ後、1884年(明治17年)に大山巌欧州使節団、郷誠之助、松平康荘らとともに渡欧し、ウィーンを経て、1885年冬学期にミュンヘン大学に学籍登録し、1892年(明治25年)にフライブルク大学より医学博士の称号を得た。翌年からはミュンヘン大学で内科助手を務めた。ミュンヘン時代に画家の原田直次郎、陸軍軍医の森林太郎(森鷗外)と3人で映った写真が『新潮日本文学アルバム 森鴎外』(1985年刊)に収録されている。
飯塚 春太郎(いいづか はるたろう、1865年2月6日(慶応… 飯塚 春太郎(いいづか はるたろう、1865年2月6日(慶応元年1月11日)- 1938年(昭和13年)1月8日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 上野国山田郡、のちの群馬県山田郡広沢村(現桐生市広沢町)で、賀茂神社祠官・飯塚二葉の長男として生まれる。群馬県中学校(現群馬県立前橋高等学校)を卒業し、1882年(明治15年)家督を相続。1890年(明治23年)東京法学院(現中央大学)英語法科を卒業した。 広巾輸出絹織物製造業を営む。桐生織物同業組合長、渡良瀬水電取締役、日本絹撚取締役、両毛整織社長などを務め、桐生の織物業の近代化に貢献した。 政界では、1893年(明治26年)群馬県会議員に選出され2期在任した。
小田 堅立(おだ けんりゅう、1865年2月5日(元治2年1… 小田 堅立(おだ けんりゅう、1865年2月5日(元治2年1月10日) - 1944年(昭和19年)5月26日)は、日本の教育者。 1865年(元治2年)、備中国下道郡岡田村(現・岡山県倉敷市)出身。幼名は三宅武助。小田家を再興するに際し堅立と改名。 同志社英学校を卒業後、渡米してオハイオ州のオーバリン大学を卒業。1887年に帰国し、岡山県尋常中学校、1896年福岡県立尋常中学修猷館の教諭・教頭を経て、1898年岡山県商業学校の初代校長に就任する。「商業に国境なし」の信念のもとに、修身にかえて倫理を原書で教え、実用英語の講座を開くなど、世界に通用する商人の教育に努めた。1902年に岡山市立岡山商業学校が創立すると、1909年までその校長を兼任した。
足立 正(あだち せい、元治2年1月10日(1865年2月5… 足立 正(あだち せい、元治2年1月10日(1865年2月5日) - 昭和22年(1947年)10月29日)は、日本の教育者、郷土史家、政治家。きよしこの夜の訳詞者由木康の実父。実業家足立荘の実兄。 坪井正五郎、喜田貞吉、沼田頼輔など一流の学者と親交を持ち、西伯耆を中心とする考古学、歴史学の研究と資料収集にその生涯を捧げた。元境町長。 島根県松江師範学校卒業後は上道小学校で教員となり、1888年(明治21年)からは上道の弓浜高等小学校に12年間務めた。 1900年(明治33年)からは西伯郡淀江町今津の養良高等小学校の校長に就任した。20年以上の在職中には1903年(明治36年)設立の養良農業補習学校での業績を評価され、表彰もされている。
麻生 観八(あそう かんぱち、1865年2月5日(元治2年1… 麻生 観八(あそう かんぱち、1865年2月5日(元治2年1月10日) - 1928年(昭和3年)8月2日)は、大分県出身の実業家である。 1865年2月5日(元治2年1月10日)、日田豆田町で酒造業を営む草野家に五男として誕生するが、12歳の時に家が破産。1880年(明治13年)に玖珠郡で「舟来屋」の屋号で酒造業を営んでいた麻生家に養子に入る。当時、麻生家の初代麻生東江、2代麻生豊助は家業の傍ら、私財を投げうって井路の整備に力を注いていたが、完成には至らず、麻生家は家財や山野を失い、酒造の権利も手放すことになる。 しかし、1885年(明治18年)、観八は酒造免許を取得し舟来屋・麻生酒造場(現在の八鹿酒造)を再興。
郷 誠之助(ごう せいのすけ、1865年2月3日(元治2年1… 郷 誠之助(ごう せいのすけ、1865年2月3日(元治2年1月8日) - 1942年(昭和17年)1月19日)は、日本の実業家。日本商工会議所会頭・日本経済聯盟会会長・東京電燈会長・東京株式取引所理事長などを歴任。貴族院男爵議員。 元治2年(1865年)1月8日、大蔵官僚郷純造の次男として美濃国黒野村(現:岐阜県岐阜市)で出生。義兄に郷温がいる。 平河小学校(現・千代田区立麹町小学校)卒業後、官立東京英語学校(のち一高)、さらに尺振八が塾長であった浜町河岸の共立学舎に通い、明治10年(1877年)から12年(79年)まで県立仙台中学(1886年廃止)にて学ぶ。帰京した明治13年(1880年)には中島行孝の塾通いと共に家庭教師が就き英語・漢学を学ぶ。
入沢 達吉(いりさわ たつきち、1865年1月31日(元治2… 入沢 達吉(いりさわ たつきち、1865年1月31日(元治2年1月5日) - 1938年(昭和13年)11月8日)は、明治から昭和期にかけての内科医。学位は、医学博士。東京帝国大学教授、東京帝国大学附属医院長・同大学医学部長・宮内省侍医頭等を歴任、日本の内科学確立に貢献する。 入沢達吉は1865年1月31日(元治2年1月5日)に越後国新発田藩藩医入沢恭平の長男として、南蒲原郡今町(現新潟県見附市)に生まれた。1870年(明治3年)1月寺子屋にて手習いを覚え、1876年(明治9年)10月、叔父池田謙斎の勧めで上京し私塾に通う。1877年(明治10年)11月東京大学医学部予科に入学する。1883年(明治16年)東京大学医学部本科に進級、1889年(明治22年)1月31日東京帝国大学医科大学(学制変更により改名)を卒業し、ベルツ(Erwin von Bälz)に師事し内科無給助手となる。
河野 徹志(こうの てつし、元治2年1月4日(1865年1月… 河野 徹志(こうの てつし、元治2年1月4日(1865年1月30日) - 昭和15年(1940年)10月23日)は、日本の衆議院議員(正交倶楽部)。産婦人科医、小児科医。 薩摩国薩摩郡高江村(現在の鹿児島県薩摩川内市)出身。1885年(明治18年)、大阪医学校(現在の大阪大学医学部)を卒業し、東京慈恵医院において高木兼寛・実吉安純のもと実地経験を積んだ。1891年(明治24年)、渡米してペンシルベニア大学に入学し、卒業の後医学博士の学位を得た。その後、ジョンズ・ホプキンス大学で学び、さらにオーストリアのウィーン大学でも学んだ。帰国後は大阪医学校助教諭や吉田病院副院長を務めた。1899年(明治32年)に河野病院を開業し、1912年(大正元年)には大阪市医師会議長に就任した。
西沢 喜太郎(にしざわ きたろう、旧字体: 西澤 喜太郞、慶… 西沢 喜太郎(にしざわ きたろう、旧字体: 西澤 喜太郞、慶応元年12月13日〈1865年1月29日〉 - 1941年〈昭和16年〉2月25日)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の銀行経営者である。長野県長野市の人物で、家業である書籍商を営みつつ長野市を拠点とする長野商業銀行・長野農工銀行・長野貯蓄銀行で頭取を務めた。「喜太郎」を襲名する前の名は喜三郎。 慶応元年12月13日(新暦:1865年1月29日)、堀内鍋作(士族)の次男として生まれる。出身地は信濃国埴科郡屋代町(現・長野県千曲市)。1882年(明治15年)勉学のため上京し、1885年(明治18年)陸軍教導団へ入隊。翌年一等軍曹に任ぜられたが、1888年(明治21年)病を得て除隊した。
巽 孝之丞(たつみ こうのじょう、元治元年12月29日(18… 巽 孝之丞(たつみ こうのじょう、元治元年12月29日(1865年1月26日) - 昭和6年(1931年)6月11日)は、戦前日本の財政家。横浜正金銀行ロンドン支店支配人、日仏銀行創立委員・取締役。中村啓次郎の実兄。小泉信三の祖父小泉文庫はいとこにあたる。息子に英文学者の巽豊彦、孫に米文学者でSF評論家の巽孝之がいる。 紀州藩士・吉川流砲術師範役であった吉川定之進の長男。幼名は豊吉。紀伊国那賀郡山崎村中野黒木十八番地に生まれる。 巽家を相続し、藩費留学生となり上京し慶應義塾に入学。同門に親戚の小泉信吉など。卒業後に小泉信吉の口利きで横浜正金銀行に入行する。以来、取締役、常務となるまで30年間、英国ロンドンで在任した。
神戸 寅次郎(かんべ とらじろう、元治元年12月27日(18… 神戸 寅次郎(かんべ とらじろう、元治元年12月27日(1865年1月24日) - 昭和14年(1939年)5月17日)は、日本の法学者。専門は民法。慶應義塾大学法学部の育ての親。 静岡県庵原郡松野村出身。静岡県松野小学校、県立静岡中学校、静岡英学校を経て1887年慶應義塾正科に入学。1890年に新設された慶應義塾大学部法律科に入学し、ハーバード大学から派遣されたジョン・ヘンリー・ウィグモア教授のもとで学ぶ。同科を卒業した翌年の1892年に同教員となる。 慶應義塾第一回留学生に選ばれ、1899年8月から1902年12月にかけベルリン大学およびハレ大学で学ぶ。学位論文「日本の合名会社」にてハレ大学からドクトル・ユーリスの学位を授与される。
上島 長久(うわじま ながひさ、1865年1月23日〈元治元… 上島 長久(うわじま ながひさ、1865年1月23日〈元治元年12月26日〉- 1918年〈大正7年〉5月18日)は、日本の衆議院議員(憲政会)。ジャーナリスト。号は笠山。義兄に検事総長の春木義彰。 大和国平群郡法隆寺村(現在の奈良県生駒郡斑鳩町)に中宮寺門跡家司で勤王家の上島掃部の子として生まれる。 1885年(明治18年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業。裁判所書記、釧路十勝共同汽船会社社員、函館商業学校嘱託教員を経て、『函館新聞』記者となった。1895年(明治28年)、報知新聞社に入り、主筆を務めた。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
中山 秀三郎(なかやま ひでさぶろう、1865年1月21日(… 中山 秀三郎(なかやま ひでさぶろう、1865年1月21日(元治元年12月24日) - 1936年(昭和11年)11月19日)は、明治から昭和時代の土木工学者、内務技師、逓信技師、東京帝国大学名誉教授。工学博士。 中山善之進の三男として、三河国額田郡奥殿村(現・愛知県岡崎市奥殿町)にて生まれる。1912年(大正元年)7月、兄の眞琴の跡を継ぐ。1888年(明治21年)帝国大学工科大学土木科を卒業し、関西鉄道会社技師として2年の実務経験を経て、1890年(明治23年)同大助教授。 1896年(明治29年)河海工学研究のため欧米へ留学し、帰国後、1898年(明治31年)同大教授。この間、帝国経済会議、学術研究会議、土木会議等会員を歴任。
堀 信次(ほり しんじ、文久4年1月11日(1864年2月1… 堀 信次(ほり しんじ、文久4年1月11日(1864年2月18日) - 昭和21年(1946年)6月22日)は、日本の内務官僚、甲府市長。 富山県出身。1893年(明治26年)、東京帝国大学法科大学を卒業。北海道庁属、拓殖務省参事官、内務省事務官・参事官、島根県書記官、同事務官、東京府事務官、神奈川県事務官を歴任し、1914年(大正3年)に樺太庁内務部長に就任した。退官後、中央生命保険相互会社取締役となった。 1919年(大正8年)から1922年(大正11年)まで甲府市長を務めた。
望月 長夫(もちづき おさお、文久4年1月10日(1864年… 望月 長夫(もちづき おさお、文久4年1月10日(1864年2月17日) - 1920年(大正9年)2月10日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党)、弁護士。 近江国甲賀郡水口村(現在の滋賀県甲賀市)出身。1878年(明治11年)に大津師範学校に入学したが、家の事情で中途退学を余儀なくされた。1887年(明治20年)、東京に出て明治法律学校(現在の明治大学)に入学した。1889年(明治22年)に卒業した後、1892年(明治25年)に弁護士の資格を得た。1894年(明治27年)、大津弁護士会副会長に選出され、翌年には会長に就任した。 また1894年には、滋賀県会議員に選出された。1898年(明治31年)、第6回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
牛島 謹爾(うしじま きんじ、1864年2月13日(文久4年… 牛島 謹爾(うしじま きんじ、1864年2月13日(文久4年1月6日) - 1926年(大正15年)3月27日)は、実業家。アメリカに移民し、「馬鈴薯王」と呼ばれた。勲四等、雅号に別天。現地ではジョージ・シマの名で親しまれた。妻は同志社総長, 下村孝太郎の妹である.
藤井 幸槌(ふじい こうつち、1864年2月12日〈文久4年… 藤井 幸槌(ふじい こうつち、1864年2月12日〈文久4年1月5日〉- 1927年〈昭和2年〉4月17日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 山口県出身。藤井由助の二男として生れる。1886年(明治19年)6月、陸軍士官学校(旧8期)を卒業し、歩兵少尉に任官、歩兵第10連隊付となる。近衛歩兵第1連隊付などを経て、1892年(明治25年)12月、陸軍大学校(8期)を卒業した。 1894年(明治27年)4月、陸士教官心得となり、後備歩兵第3連隊中隊長心得、陸士教官、台湾総督府参謀、同陸軍部課員、参謀本部第3部員などを経て、1900年(明治33年)10月、陸軍少佐に進級し近衛歩兵第4連隊付となった。
鮎貝 房之進(あゆかい ふさのしん、文久4年1月4日(186… 鮎貝 房之進(あゆかい ふさのしん、文久4年1月4日(1864年2月11日) - 昭和21年(1946年)2月24日)は、日本の言語学者、歴史学者、歌人。号は槐園(かいえん)。 言語学的なアプローチからの古代朝鮮の地名・王号などの考証を行い、また民俗学的な研究にも努めた。その成果は雑攷9集としてまとめられ、今日でも優れた先行研究として扱われている。李朝時代の禁書『鄭鑑録』の収集研究を行った。 京都・秦氏の名前由来を「波旦」(ハダ)説を提起した。1986年に韓国慶尚北道で新羅古碑が発見され、それには古地名「波旦」が明らかにあり、京都大学名誉教授・上田正昭が当地を訪れ、鮎貝説を支持している。 原書は1931年5月から1938年5月にかけて京城にて出版されたものであり、国内13箇所の大学図書館において揃って所蔵される。
岡田 和一郎(おかだ わいちろう、文久4年1月3日〈1864… 岡田 和一郎(おかだ わいちろう、文久4年1月3日〈1864年2月10日〉 - 昭和13年〈1938年〉5月30日)は、明治から昭和の日本の医師・医学者。帝国大学耳鼻咽喉科学初代正教授。耳鼻咽喉学の祖と称えられる。 小学校卒業後、西條町立病院の用度課雇いをしながら苦学を続け、特待生になって帝大医学部へ進学。 明治35年(1902年)森鴎外と荒木茂子との結婚の媒酌人を務めた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
清川 来吉(きよかわ らいきち、1864年2月9日(元治元年… 清川 来吉(きよかわ らいきち、1864年2月9日(元治元年1月2日)- 1957年(昭和32年)10月26日)は、日本の医師、政治家。初代鎌倉市長。広島県出身。 1884年、広島県立医学校(現広島大学医学部)卒業。その後は帝国医科大学(現東京大学医学部)選科で学び、1888年に医師免状を授与される。同年、伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)に入所し細菌学の実施研究を行うが、まもなく帰郷して広島県下に診療所を開設。また広島県医師会長を兼ねた。 1889年、栃木県足尾病院副院長に就任し、その2年後(1891年)に鎌倉町雪ノ下に養生所を開設する。これが、来吉と鎌倉との繋がりの始まりである。その後は神奈川県師範学校や鎌倉町内の小学校の嘱託医を務め、1900年には神奈川県検疫官となる。
利光 鶴松(としみつ つるまつ、1864年2月6日(文久3年… 利光 鶴松(としみつ つるまつ、1864年2月6日(文久3年12月29日) - 1945年(昭和20年)7月4日)は、日本の政治家、弁護士、実業家。衆議院議員(当選2回、東京府第五区選出)。小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)創業者。星亨の側近。 豊後国(現大分県)生まれ。1879年、家督を相続。岡山に出て漢学塾に於いて陽明学を修め、上京し、明治法律学校に入学(1900年に推薦校友となる)。代言人試験に合格し、代言人(弁護士)となる。その後、東京市会議員、衆議院議員を務めたのち実業界に転身。小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)を創業した。 1864年2月6日(文久3年12月29日)、豊後国大分郡稙田村字粟野(現・大分県大分市大字稙田)にて利光市松、シン子夫妻のもとに生まれる。
木下 学而(きのした がくし、1864年2月6日(元治元年1… 木下 学而(きのした がくし、1864年2月6日(元治元年1月10日) - 1941年(昭和16年)7月10日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 福岡県上妻郡、のちの八女郡北川内村(北川内町、上陽町を経て現八女市)で生まれた。漢籍を学ぶ。林業を営み、木材商を経営し、北川内村会議員、町村連合会議員、福岡県会議員、地方森林会議員となる。また、南筑馬車鉄道会社重役を務めた。 1903年の第8回衆議院議員総選挙において福岡県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1904年の第9回衆議院議員総選挙は不出馬。1941年に死去した。
川田 正澂(かわだ まさずみ、文久3年12月27日(1864… 川田 正澂(かわだ まさずみ、文久3年12月27日(1864年2月4日) - 1935年12月9日)は、日本の教育者。 土佐国(現・高知県)生まれの士族出身。高知中学校(現・高知追手前高校)から選抜されて、東京日本橋箱崎町の旧土佐藩侯邸内・海南学校(現・高知小津高校)に上京し進学。のち廃校となり、明治義塾(のち廃校、その跡地に英吉利法律学校、日本中学創立)に移り外国人から英語を学ぶ。1888年(明治21年)、文部省中学教育検定試験に首席合格。同年9月に、第三高等中学校(のちの旧制三高)教員となる。1898年(明治31年)に静岡県立静岡中学校(現・静岡高校)校長に着任。1904年(明治37年)8月~1909年(明治42年)4月にかけて宮城県立仙台第一中学校(現・仙台第一高校)校長を務め、1909年(明治42年)から東京府立第一中学校(現・都立日比谷高校)校長に任ぜられる。
国分 三亥(こくぶ さんがい、文久3年12月25日(1864… 国分 三亥(こくぶ さんがい、文久3年12月25日(1864年2月2日) - 昭和37年(1962年)5月1日)は、日本の検事、朝鮮総督府官僚。錦鶏間祗候、宮中顧問官。教育者。 備中松山藩士の国分胤之(魚水実録を編纂)の子として生まれる。1883年(明治16年)に司法省法学校に入学し、1885年(明治18年)に卒業した。検事補となり、1887年(明治20年)に判事検事登用試験に合格。岡山地方裁判所検事、横浜地方裁判所検事、甲府地方裁判所検事正、高知地方裁判所検事正、大阪控訴院検事、大阪地方裁判所検事正を歴任した。1908年(明治41年)に韓国に渡り、韓国検事総長、統監府裁判所高等法院検事長に就任した。
菅村 太事(すがむら ふとじ、1864年2月2日(文久3年1… 菅村 太事(すがむら ふとじ、1864年2月2日(文久3年12月25日)- 1934年(昭和9年)3月6日)は、明治から昭和初期の日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、福島県会議長、福島県田村郡美山村長。旧姓・佐久間。 陸奥国田村郡北鹿又村(福島県田村郡美山村大字北鹿又村、船引町を経て現田村市船引町北鹿又)で、鹿股神社神職、農業・菅村嗣江の8人兄妹の第3子として生まれる。父は国学者で佐久間姓を明治維新後に鹿股神社の祭神・船大明神にちなんで菅村に改姓した。 自由民権運動に加わり田村郡の青年壮士として活動した。1882年(明治15年)11月、会津地方の応援に10人ほどの青年と駆け付けたが、同月29日、耶麻郡新合村(現喜多方市熊倉町新合)の会津自由党本部で逮捕され、2ヶ月間若松監獄に収容され、1883年(明治16年)2月、国事犯、凶徒聚衆教唆者として東京に護送されたが、同年4月13日に免訴釈放となった。
重岡 薫五郎(しげおか くんごろう、元治元年1月3日(186… 重岡 薫五郎(しげおか くんごろう、元治元年1月3日(1864年2月1日) - 明治39年(1906年)6月21日)は、日本の衆議院議員(自由党→憲政党→立憲政友会)、弁護士。 伊予国喜多郡内ノ子村(現愛媛県内子町)にある呉服商兼雑貨屋の次男に生まれる。東京大学法学部を経て、司法省法学校速成科を卒業後、判事登用試験に合格するも、10日間で辞職。1887年(明治20年)からフランス・エクス大学(現エクス=マルセイユ大学)に留学し法学博士号を取得。帰国後、1892年(明治25年)に第2回衆議院議員総選挙に年齢を2歳ごまかして出馬するも、改進党系の有友正親に敗れる。第三高等中学校法学部教授や関西法律学校教授嘱託をつとめたほか、1893年(明治26年)に弁護士業を開業している。
小沢 愛次郎(おざわ あいじろう、1864年1月28日(文久… 小沢 愛次郎(おざわ あいじろう、1864年1月28日(文久3年12月20日) - 1950年(昭和25年)6月19日)は、日本の政治家、剣道家。 埼玉県会議員(4期)、衆議院議員(5期)を務め、剣道の中学校正科編入への請願運動に尽力した。流派は小野派一刀流。称号は大日本武徳会剣道範士。 武蔵国埼玉郡小針村(埼玉県北埼玉郡小針村、太田村を経て現行田市)で、小鹿原安次郎の弟、地主・田島竹之助の従兄弟として生まれ、桑崎村(岩瀬村を経て現羽生市)の素封家・小沢丈右衛門の養子となる。佐倉藩士・倉田幽谷から盈進義塾で漢学を学んだ。 1877年(明治10年)4月、14歳から忍町佐間(現行田市)の講武場道場で旧忍藩剣術指南役松田十五郎に小野派一刀流を学ぶ。
石川 喜三郎(いしかわ きさぶろう、文久3年12月16日(1… 石川 喜三郎(いしかわ きさぶろう、文久3年12月16日(1864年1月24日) - 昭和7年(1932年)2月5日)は、正教会の神学者。陸奥国仙台(現宮城県仙台市)出身。聖名はペートル(ペトル)。 生涯で活発に著述活動を行った。 1892年、日本ハリストス正教会の機関誌『正教新報』の編集人となる。亜使徒聖ニコライ大主教からセルギイ・チホミーロフ主教(肩書当時、のち府主教)に日本正教会の長が代わった際に『正教新報』は『正教時報』となるが、その編集人・発行人であり主筆であった。 1917年のロシア革命により母教会からの日本正教会への財政的援助が途絶え教会財政が逼迫する中、1923年の関東大震災により編集場所もなくなり、『正教時報』も縮小を余儀なくされ主筆の石川以外の人員が全て解雇され、石川の仮住居がそのまま正教時報社となるといった多大な困難にあって、石川は編集、発送、会計など全ての事務を担い続け『正教時報』発行継続に全力を尽くした。
田附 政次郎(たづけ まさじろう、文久3年12月15日(18… 田附 政次郎(たづけ まさじろう、文久3年12月15日(1864年1月23日) - 昭和8年(1933年)4月26日)は、日本の近江商人、実業家。大阪紡績取締役。東洋紡・日清紡ホールディングス・江商(現・兼松)の設立に関与した。また、綿糸相場師として活躍し『田附将軍』と呼ばれた。「売りの田附」として有名。ニュース・キャスターの国谷裕子の曾祖父。 文久3年(1864年)に近江国佐生村(後の滋賀県神崎郡五峰村佐生、神崎郡能登川町佐生を経て現・東近江市佐生町)に産まれる。船場八社の一つの田附商店を開業し、綿花取引や、綿業界をリードする存在であった。また、社会貢献として、京都大学に財団法人田附興風会、郷里の神崎郡五峰村に公益財団法人五峰興風会、帝塚山学院、大阪市に北野病院などを開設している。
塩谷 眞康(しおのや しんこう、文久3年12月14日〈186… 塩谷 眞康(しおのや しんこう、文久3年12月14日〈1864年1月22日〉 - 大正7年〈1918年〉3月24日)は、日本の政治家、教育家。衆議院議員(1期)、群馬県会議員(2期)。前名は塩谷 五十足(しおのや いそく)。 上野国吾妻郡小泉村(太田村を経て現・群馬県吾妻郡東吾妻町)出身。父は塩谷真雄。群馬師範学校(現・群馬大学教育学部)卒業後、郷里で教員となる。その後上京し1887年(明治20年)に慶應義塾を卒業。自宅の近くに春山館という私塾を開いて多くの若者を育成し、図書を多く収蔵して図書館の先駆となった。 1890年(明治23年)、群馬県会議員に当選。1894年(明治27年)に再選され常置委員となる。
坂野 兼通(ばんの かねみち、文久3年12月12日〈1864… 坂野 兼通(ばんの かねみち、文久3年12月12日〈1864年1月20日〉 - 昭和6年〈1931年〉8月12日)は、日本の銀行家。元山口合資会社理事長。 尾張国名古屋出身。1888年高等商業学校(現一橋大学)卒業、三菱合資会社銀行部入行。三菱合資会社銀行部大阪支店長を経て、1910年に町田忠治の後任として山口銀行上席理事に就任。1914年日本生命保険監査役。1918年大阪貯蓄銀行取締役。山口銀行の近代化を進めた。1924年には山口銀行筆頭常務を退任し、以降山口合資会社理事に専念し、山口合資会社理事長も務めた。1929年共同火災海上保険取締役会長。 ファミリア創業者の坂野惇子は、七男通夫の妻。長女の芳子は、衆議院議員横井時雄四男柳瀨存の妻。
関根 萬司(せきね まんじ 、1863年2月17日(文久2年… 関根 萬司(せきね まんじ 、1863年2月17日(文久2年12月29日) - 1924年(大正13年)4月27日)は、日本の教育者。越後国刈羽郡北条村小島(現:新潟県柏崎市大字小島)出身。
飯田 壽作(いいだ じゅさく、1863年2月17日〈文久2年… 飯田 壽作(いいだ じゅさく、1863年2月17日〈文久2年12月29日〉 - 1930年〈昭和5年〉1月14日)は、日本の実業家。西宮銀行常務取締役。西宮酒造取締役・同監査役。西宮開運取締役。族籍は兵庫県平民。 兵庫県平民・飯田與作の長男。1874年、分かれて一家を創立する。住所は兵庫県武庫郡西宮町松原(現・西宮市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
鄭 永邦(てい えいほう、1863年2月16日〈文久2年12… 鄭 永邦(てい えいほう、1863年2月16日〈文久2年12月28日〉 - 1916年〈大正5年〉8月20日)は、明治時代の日本の外交官。 肥前国長崎生まれ。鄭家は鄭成功の末裔と称し、明朝滅亡後、その遺臣として日本に亡命し定着した。長崎では代々、唐人屋敷の清朝の役人の通訳を稼業とした(幕末の時期は勝海舟をはじめとした長崎海軍伝習所教習生とも交流)。父の鄭永寧、兄の鄭永昌も外交官である。義兄(父・永寧の養父・鄭幹輔の庶子で、永寧の長男として養子縁組した)鄭永慶は日本で初めて本格的なコーヒー店「可否茶館」を開いたことで知られる。 東京外国語学校(現在の東京外国語大学)卒業後、北京公使館員として北京に赴任。