鵜飼 退蔵(うかい たいぞう、1853年12月27日(嘉永6… 鵜飼 退蔵(うかい たいぞう、1853年12月27日(嘉永6年11月27日) - 1915年(大正4年)12月19日)は、明治時代の滋賀県の政治家。 1853年(嘉永6年)11月、近江国栗太郡東坂村(後の金勝村、現栗東市東坂)に住いする鵜飼藤右衛門の長男として誕生し、近隣の私塾に入塾した後に京都の岩垣月洲に就いて経書典籍を修め、1870年(明治3年)帰郷した。1872年(明治5年)地租改正令公布に伴い穴村(現草津市)の駒井深美とともに地租改正委員に選ばれ、1879年(明治12年)4月20日第一回滋賀県議会が大津南町顕證寺において開かれた際は栗太郡より県会議員に選出され、以後30年間その職にあった。
大山 綱昌(おおやま つなまさ、1853年12月24日(嘉永… 大山 綱昌(おおやま つなまさ、1853年12月24日(嘉永6年11月24日) - 1934年(昭和9年)10月18日)は、日本の官僚、政治家、警察官、陸軍軍人。貴族院議員、錦鶏間祗候。位階および勲等は正三位・勲二等。4県の知事を務めた。幼名・勘助。 陸軍元帥の大山巌の父大山綱昌とは同姓同名だが、直接的な血縁関係はない。 薩摩国鹿児島郡鹿児島近在西田村(現鹿児島県鹿児島市)で、鹿児島藩士、大山探賢の長男として生まれる。1875年(明治8年)、警視庁13等出仕となる。1877年(明治10年)、陸軍中尉に任官し西南戦争に出征。階級は陸軍憲兵大尉まで昇り、一等警視補に転じた。次いで、農商務省に移り、権少書記官、書記官、参事官、工務局次長、商工局次長、権大書記官を歴任。
手塚 猛昌(てづか たけまさ、1853年12月22日(嘉永6… 手塚 猛昌(てづか たけまさ、1853年12月22日(嘉永6年11月22日) - 1932年(昭和7年)3月1日)は、「時刻表の父」として知られる、明治期の実業家。日本最初の月刊時刻表とされる「汽車汽船旅行案内」の発行者。 現在の山口県萩市須佐出身。元の名は岡部緒三郎。 長州藩士の家柄だが家貧で四書五経を独学で修めた。長州藩永代家老の益田家が設けた郷校・育英館で学び、33歳の時に上京し慶應義塾(現・慶應義塾大学)に進んだ。 その後、庚寅新誌社を創立し政治経済雑誌を発行する一方『庚寅新誌』を発行し、政治活動を始める。1894年(明治27年)に恩師福沢諭吉の勧めで、英国の時刻表を手本に「汽車汽船旅行案内」を発行。
斎藤 卯八(齋藤、さいとう うはち、1853年1月17日(嘉… 斎藤 卯八(齋藤、さいとう うはち、1853年1月17日(嘉永5年12月8日)- 1912年(明治45年)2月9日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 甲斐国巨摩郡上今諏訪村(山梨県中巨摩郡今諏訪村、白根町を経て現南アルプス市上今諏訪)で、名主の家に生まれる。巨摩郡西野村の宮浦東谷から普通学を学び、徽典館で漢学を修め、さらに甲府育英舎で学んだ。農業を営む。 1873年(明治6年)10月、上今諏訪村副戸長に就任。以後、同戸長、巨摩郡第13区戸長、今諏訪村会議員、中巨摩郡豊村外三ケ村連合村会議員、同郡御影村外三十八ケ村組合村会議員、同郡在家塚村外二ケ村連合村会議員などを務めた。1890年(明治23年)末、立憲自由党に入党した。
牧口 義方(まきぐち よしかた、1853年1月13日(嘉永5… 牧口 義方(まきぐち よしかた、1853年1月13日(嘉永5年12月4日)- 1899年(明治32年)12月20日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・正太郎。 越後国刈羽郡荒浜村(新潟県刈羽郡荒浜村を経て現柏崎市荒浜)で、代々村の組頭役を務め、回船業を営む牧口家4代当主・庄三郎の息子として生まれた。同郡比角村の星野鏡里に師事し漢学を修め、さらに同郡南条村の藍沢朴斎につき、柏崎県立学校で学んだ。 海運業を営み、柏崎銀行頭取、直江津取引所理事長、新潟商業銀行取締役、新潟銀行監査役などを務めた。 1881年(明治14年)12月、新潟県第18中学区第18小学区学務委員に就任。以後、荒浜村戸長、所得税調査委員などを務めた。
東海 散士(とうかい さんし、本名:柴 四朗〈しば しろう〉… 東海 散士(とうかい さんし、本名:柴 四朗〈しば しろう〉、1853年1月11日〈嘉永5年12月2日〉 - 1922年〈大正11年)9月25日〉)は、旧会津藩臣(白虎隊士)で、明治から大正にかけての小説家・新聞記者・政治家。財務学士。陸軍大将柴五郎は実弟。代表作は政治小説『佳人之奇遇』。 会津藩士で御物頭格役黒紐(280石)であった柴佐多蔵繁吉(1812–1882)と妻フジの四男(第8子)として、上総国君津郡富津村の会津藩陣屋(弘化4年から嘉永7年まで会津藩が富津台場の警備を担当)に生まれる。幼名は茂四朗。幼少期より病弱であったが文才に恵まれていたという。 藩士子弟の通例に従い、数え10歳より藩校日新館にて小笠原午橋・南摩綱紀に就いて漢学を修め、大学部を経たのち上洛。
十文字 信介(じゅうもんじ しんすけ、1853年1月8日(嘉… 十文字 信介(じゅうもんじ しんすけ、1853年1月8日(嘉永5年11月29日) - 1908年(明治41年)8月12日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。号に海山猟夫、尊農子。 涌谷伊達家家臣・十文字秀雄の長男として陸奥仙台藩領遠田郡涌谷(現涌谷町)に生まれる。家は代々亘理氏に仕え砲術を能くした。8歳にして小姓となり、のち砲術を習った。その後、1871年(明治4年)上京し箕作麟祥の塾に入り英学を修め、ついで海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)に学んだ。津田仙の学農社編集長、広島県、宮城県各勧業課長、宮城郡長を歴任したのち、雑誌『農事新報』を発刊した。ほか仙台区長を務め、鉄砲販売業を営んだ。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では宮城県第3区から大成会所属で出馬し当選。
曽禰 達蔵(そね たつぞう、1853年1月3日(嘉永5年11… 曽禰 達蔵(そね たつぞう、1853年1月3日(嘉永5年11月24日) - 1937年(昭和12年)12月6日)は日本の建築家。
日下 義雄(くさか よしお、嘉永4年12月25日(1852年… 日下 義雄(くさか よしお、嘉永4年12月25日(1852年1月16日) - 大正12年(1923年)3月18日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。位階および勲等は正四位・勲二等。 現在の会津若松市で会津藩の侍医・石田龍玄(常雄)の長男として生まれる。父は農家の出身だが、幼年より医学を学び公家の側醫格となり士分に登用され七人扶持を賜った。龍玄は特に内科の名医として名声があり、貧しきものには無銭にて薬を処方した。母は中村為七郎の娘のちえ子。幼名は五郎。初名は石田伍助。弟に白虎隊二番士中組の1人で飯盛山で自刃した石田和助がいる。妻は水野忠精の娘。 藩校・日新館で学び、鳥羽・伏見の戦いに従軍。会津戦争では、大鳥圭介らと行動をし、落城前に会津を脱出し、箱館戦争に加わった。
高木 英次郎(たかぎ えいじろう、1852年1月8日(嘉永4… 高木 英次郎(たかぎ えいじろう、1852年1月8日(嘉永4年12月28日) - 1904年(明治37年)6月2日)は、幕末の佐賀藩士、明治期の海軍軍人。佐賀市水ヶ江出身。最終階級は海軍少将(死後昇進)。栄典は従四位勲三等功四級。 1852年、佐賀藩士高木彌左衛門の第2子として生まれる。藩校弘道館に学んだのち、1865年(慶応元年)佐賀藩の海軍兵学校「船手稽古所」(三重津海軍所の当時における呼称)に入校。戊辰戦争には佐賀藩艦甲子丸の乗員として出征した。1871年(明治4年)燈台寮技術見習を拝命。1874年(明治7年)海軍少尉に任官した。さらに1876年(明治9年)には鳳翔乗員として西南戦争に出征。
中川 元(なかがわ はじめ、1852年1月7日(嘉永4年12… 中川 元(なかがわ はじめ、1852年1月7日(嘉永4年12月16日) - 1913年9月28日)は明治時代の日本の教育者、文部官僚。第四高等中学校(金沢大学の前身の一つ)、第五高等学校(熊本大学の前身の一つ)、第二高等学校(東北大学の前身の一つ)、仙台高等工業学校(東北大学工学部の前身の一つ)の校長を歴任した。旧名・孫一郎、号は槐陰。 信濃国飯田城下に信濃飯田藩士中川逸山の長男として生まれる。1871年藩の貢進生に選ばれ大学南校に進み、フランス語を学ぶ。文部省より出向の同校職員九鬼隆一と知遇を得る。1874年文部省に出仕し、外国語学校教授に任じらた。1878年1月にフランスに留学を命じられる。
佐藤 志津(さとう しづ、1852年1月7日(嘉永4年12月… 佐藤 志津(さとう しづ、1852年1月7日(嘉永4年12月16日) - 1919年(大正8年)3月17日)は、私立女子美術学校(現女子美術大学)第2代校長。 志津は1851年(嘉永4年)、常陸国行方郡麻生(現茨城県行方市)の医師山口舜海の長女として誕生した。1853年(嘉永6年)父舜海が佐倉藩御典医で病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」堂主佐藤泰然の養子となり佐藤尚中と名を改めると、志津を含め一家全員も佐藤家に入った。志津は義叔父(養祖父泰然の子)董(ただす、後に林家の養子になる)と1歳違いであったことから、董と共に漢籍を佐倉藩儒者岡本道庵に、国学を浜野末束に学んだ。 1859年(安政6年)、母方の叔母の嫁ぎ先である水戸の商家(酒造)藤枝富右衛門の家に預けられ、水戸藩武術指南役より穴沢流薙刀を習い、点茶・琴・手芸・礼儀作法を修めた。
青木 保(あおき たもつ、1852年1月3日(嘉永4年12月… 青木 保(あおき たもつ、1852年1月3日(嘉永4年12月12日)- 1908年(明治41年)3月27日)は明治時代の日本の文部官僚、教育者。旧足守藩士。 嘉永4年12月12日(1852年1月3日)、青木元永の長子として備中国足守に生まれる。幼名は英之進。藩校・追琢舎を経て犬飼松窓、山田方谷らに漢学を学んだのち、明治3年(1870年)12月に足守藩選出の貢進生として大学南校に入学。貢進生制度が廃止され、校名が南校、第一大学区第一番中学と移り変わる中、英語専攻の学級に在籍して学業を続け、明治6年(1873年)4月に同校が専門学校である開成学校(ほどなく東京開成学校と改称)に改組されると法学科の予科に編入されている。
6代 米谷 半平(こめたに はんべい、1852年1月3日(嘉… 6代 米谷 半平(こめたに はんべい、1852年1月3日(嘉永4年12月12日) - 1927年(昭和2年)5月27日)は、明治から大正時代の政治家。実業家。銀行家。貴族院多額納税者議員。 加賀国、のちの石川県能美郡安宅町(現小松市)出身。先代米谷半平の三男として生まれ、亡兄半平の跡を継ぎ襲名した。 米谷銀行を経営したほか、石川県農工銀行、北陸興業各取締役などを歴任した。また、公共事業に尽くし第五回関西府県連合共進会特別委員や日本赤十字社特別委員に挙げられ有功章を送られたほか、帝国義勇艦隊建設費を寄附し、愛国婦人会に尽力し賞状を授かった。このほか、日露戦争の功により勲四等旭日小綬章を受章した。 1899年(明治32年)石川県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年7月11日から1904年(明治37年)9月28日まで務めた。
山辺 丈夫(やまのべ たけお、1851年12月30日〈嘉永4… 山辺 丈夫(やまのべ たけお、1851年12月30日〈嘉永4年12月8日〉 - 1920年〈大正9年〉5月14日)は、日本の武士(津和野藩士)、明治期の紡績技師・実業家。従五位。 東洋紡(東証プライム)の創業者である。 嘉永4年(1851年)、石見国津和野城下の森町堀内にて津和野藩重臣・清水格亮(大目付、側用人を歴任し、明治維新後は権大参事を務めた)の二男として生まれる。幼名は虎槌または善蔵で、後に丈夫と改めた。4歳の時に同藩士の山辺正義の養子となる。 津和野潘の藩校であった養老館に学んだ後、1870年(明治3年)に藩の奨学制度によって文学修行の命を受け上京。当初は同藩出身の福羽美静の培達塾で学んでいたが、元来洋学を志していたため、西周の育英舎や中村敬宇の英学同人舎に移り英語や洋学を学んだ。
9代 吉野 周太郎(よしの しゅうたろう、1851年12月2… 9代 吉野 周太郎(よしの しゅうたろう、1851年12月24日(嘉永4年12月2日)- 1911年(明治44年)8月2日)は、明治期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・九八郎。 陸奥国信夫郡八島田村(福島県信夫郡野田村、吾妻町を経て現:福島市八島田。当時は越後新発田藩の領地。)に於いて名主吉野安兵衛の四男として生まれる。兄・周太郎の死後に9代周太郎を襲名し、1898年(明治31年)4月に家督を相続した。 1897年(明治30年)以降、第百七国立銀行取締役、同頭取などを務めた。1904年(明治37年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられ、 1911年8月、在任中に死去した。
安楽 兼道(あんらく かねみち、1851年1月13日〈嘉永3… 安楽 兼道(あんらく かねみち、1851年1月13日〈嘉永3年12月12日〉- 1932年〈昭和7年〉4月12日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、貴族院議員、警視総監、実業家、錦鶏間祗候。 薩摩藩士・新納一角の二男として薩摩国給黎郡喜入郷中名村麓(現在の鹿児島市喜入中名町)に生まれ、安楽兼通の養子となる。1871年(明治4年)4月、御親兵徴士として上京。1873年(明治6年)10月に除隊し帰郷したが、1874年(明治7年)11月に再上京した。 1875年(明治8年)3月、警視庁警部補に任官。以後、石川県三等警部兼金沢警察署長、石川県警察本署長、警視庁品川警察署長、高知県警察部長、熊本県警察部長、熊本県書記官などを歴任。
高橋 九郎(たかはし くろう、1851年1月4日(嘉永3年1… 高橋 九郎(たかはし くろう、1851年1月4日(嘉永3年12月17日) - 1922年(大正11年)9月21日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 越後国三島郡宮川外新田(のち新潟県三島郡浦村→来迎寺村→越路町→長岡市)出身。漢籍を学ぶ。新潟県第十六区副長、学務委員、道半村(のち浦村)、宮川外新田戸長、のち宮川外新田外十二ヶ村戸長、三島郡所得税調査委員となる。また、第六十九国立銀行取締役、両毛鉄道(株)監査役、同取締役、関原銀行、沼垂銀行、北越倉庫各(株)取締役、与板銀行監査役を務めた。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において新潟5区から自由党公認で立候補して当選する。同年9月の第4回衆議院議員総選挙は不出馬。
大矢 透(おおや とおる、1851年1月4日(嘉永3年12月… 大矢 透(おおや とおる、1851年1月4日(嘉永3年12月3日) - 1928年(昭和3年)3月16日)は、日本の国語学者。仮名の歴史的変遷や上代日本語の音韻を解明したことで有名。また、『隋唐音図』において、反切に基づく漢字の音読み(漢音部分)を網羅的に比定した。 越後国蒲原郡根岸村(現新潟県新潟市)出身。幼名は又七郎。号は蔦廼舎(つたのや)水斎。戊辰戦争時には新発田藩の兵として従軍した。1875年、新潟師範学校卒業。山梨県師範学校、茨城県師範学校、茨城第二中学校で教職を務めた後、1886年より文部省勤務。1899年から1901年には台湾総督府民政部の職員となった。1909年文部省国語調査委員会委員。
本多 錦吉郎(ほんだ きんきちろう、嘉永3年12月2日(18… 本多 錦吉郎(ほんだ きんきちろう、嘉永3年12月2日(1851年1月3日) - 大正10年(1921年)5月26日)は、明治初期からの洋画家。画家としては寡作であったが、多くの著書を書き、画塾で後進を育てた。趣味で始めた造園もプロ級だった。号は契山。
奥山 義章(おくやま ぎしょう/よしあき、嘉永3年11月29… 奥山 義章(おくやま ぎしょう/よしあき、嘉永3年11月29日〈1851年1月1日〉 - 明治45年〈1912年〉7月5日)は、日本の軍人、歩兵大佐。大日本帝国の第4軍の歩兵大佐として活躍した後、郷里の教育にも力を尽くした。別称は義章(ぎしょう)。位階は正五位。 嘉永3年(1851年)に、愛媛県の吉田町に生まれる。 明治5年(1872年)に、東京に出て陸軍教導団に入る。その後の明治12年(1879年)に、選ばれて陸軍戸山学校に入学。明治25年(1892年)には、陸軍少佐に任ぜられる。明治27年(1894年)に、日清戦争に出征し、満洲国で戦う。その後、功績から、明治36年(1903年)大阪の司令官に補せられ、大佐に任命されたが、後に後備役に編入させられた。
大久保 鉄作(おおくぼ てっさく、嘉永3年11月28日(18… 大久保 鉄作(おおくぼ てっさく、嘉永3年11月28日(1850年12月31日) – 大正10年(1921年)7月5日)は、日本の新聞記者、政治家。 秋田市長(第5代)、衆議院議員(立憲政友会)、秋田県会議長、秋田県会議員などを務めた。 久保田藩士大久保盛実の長男として中谷地町(現秋田市)に生まれる。藩校明徳館で漢学を学んだ後、東京に出て1875年(明治8年)より朝野新聞の記者となった。帰郷後の1881年(明治14年)に秋田日報を創刊し、1883年(明治16年)に秋田改進党を結成した。同年、秋田県会議員に選ばれ、後に議長に就任した。後藤象二郎が大同団結運動を唱えると、これに呼応して東北九州連合の必要性を説いて、精力的に活動した。
木村 利武(きむら としたけ、嘉永3年11月28日(1850… 木村 利武(きむら としたけ、嘉永3年11月28日(1850年12月31日) - 1914年(大正3年)10月2日)は、明治時代の政治家、実業家。愛媛県松山市長。 松山城下柳井町で藩士・木村利長の長男として生まれる。1871年(明治4年)松山県庁掌、1874年(明治7年)愛媛県雇・戸長、1878年(明治11年)風早郡書記、1880年(明治13年)同郡長心得、1886年(明治19年)風早・和気・温泉・久米郡長心得を歴任。1890年(明治23年)1月に松山五十二銀行取締役に転じたが、同年2月6日、推挙され松山市長に就任した。 1896年(明治29年)2月まで市長を務めたのち、実業界に入り、松山商業銀行頭取、同行取締役、松山商業会議所会長などを歴任した。
田代 進四郎(たしろ しんしろう、嘉永3年11月23日(18… 田代 進四郎(たしろ しんしろう、嘉永3年11月23日(1850年12月26日) - 大正15年(1926年)3月13日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 肥前国小城郡小城町(現在の佐賀県小城市)出身。茨城県学務課勤務や出版事業経営を経て、宮城県仙台市に弁護士事務所を開業した。仙台弁護士会長、宮城県教育会副会長、仙台英語学校校長などを務めた。また仙台市会議員、同議長、宮城県会議員、同議長に選ばれた。 1912年(明治40年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、広瀬電力株式会社取締役を務めた。
町田 菊次郎(まちだ きくじろう、嘉永3年11月23日(18… 町田 菊次郎(まちだ きくじろう、嘉永3年11月23日(1850年12月26日) - 1917年(大正6年)4月2日)は、群馬県の養蚕家。高山長五郎の後を継いで高山社第2代社長となり、私立甲種高山社蚕業学校を設立した。 嘉永3年(1850年)11月23日上野国緑野郡本郷村の養蚕農家町田藤太郎の子として生まれた。幼名は藤太郎。明治5年(1872年)3月9日家督を継ぎ、1874年(明治7年)3月本郷村副戸長となった。 矢場村で堤防工事を監督した際、休憩時間に吉田半十郎宅で高山長五郎の清温育の講義を聞いて興味を持ち、1875年(明治8年)入門し、1876年(明治9年)蚕児飼育法授業員として地域を巡回した。
相馬 永胤(そうま ながたね、1850年12月25日(嘉永3… 相馬 永胤(そうま ながたね、1850年12月25日(嘉永3年11月22日) - 1924年(大正13年)1月26日)は日本の政治家、法学者、経済学者、代言人、横浜正金銀行頭取、専修学校創立者の一人・校長、専修大学創立者・初代学長。
大塚 貢(おおつか みつぐ、1850年1月18日(嘉永2年1… 大塚 貢(おおつか みつぐ、1850年1月18日(嘉永2年12月6日) - 没年不詳)は、明治期の大蔵・内務官僚。官選茨城県知事(未赴任)。旧姓・池上。 肥後国熊本で熊本藩士・池上貞雄の三男として生まれ、大塚郁太郎の養子となる。 明治5年(1872年)、白川県十五等出仕に任官。以後、福岡県第三課長、山口県収税長、東京府収税長などを歴任。1896年11月1日、司税官・東京税務管理局長(初代)に就任。その後、名古屋税務管理局長を経て、1898年11月28日、内務省に転じ北海道庁事務官・内務部長に就任。1905年4月19日、北海道庁官制の改正に伴い、内務部長が第一部長に改称された。 上司の園田安賢長官と関係を深め、園田と進退を共にして同時に辞表を提出。
押川 方義(おしかわ まさよし、1850年1月17日〈嘉永2… 押川 方義(おしかわ まさよし、1850年1月17日〈嘉永2年12月5日〉 - 1928年〈昭和3年〉1月10日)は、日本人のキリスト教宗教家、教育者。東北学院及び宮城学院の創立者。日韓同志組合代表者の一人。新島襄、本多庸一、植村正久、内村鑑三、新渡戸稲造と並び、明治期日本におけるキリスト教主義教育の先駆者とされる。長男は、冒険小説家の草分け押川春浪(本名、方存)。二男は、プロ野球の生みの親である押川清。 NHK朝の連続テレビ小説『はね駒』の登場人物・松浪毅のモデルである。 押川方義の生年に関しては諸説あったが、押川家の鎧櫃から「熊三郎 産髪包紙銘記 嘉永二年十二月五日出生 熊三郎産髪」 と記された和紙が発見され(実際に産髪が包装されていた)、嘉永2年生まれ(グレゴリオ暦への換算では1850年)であることがほぼ確実となった。
天野 董平(あまの とうへい、1850年1月17日(嘉永2年… 天野 董平(あまの とうへい、1850年1月17日(嘉永2年12月5日)- 1923年(大正5年)6月24日)は、明治から大正初期の醸造家・実業家・政治家。衆議院議員、山梨県北都留郡笹子村長。 甲斐国都留郡吉久保村(山梨県北都留郡笹子村を経て現大月市笹子町吉久保)で、酒造業・天野五郎左衛門の長男として生まれる。漢学を修めた。明治2年1月(1869年)家督を相続し家業を継承した。 1872年(明治5年)吉久保村戸長に就任。笹子村戸長を務め、1882年(明治15年)山梨県会議員に選出され、同常置委員、同参事会員、所得税調査委員、徴兵参事員、笹子村長、笹子村会議員、北都留郡会議員なども務めた。 衆議院議員には第9回、第10回総選挙で当選し、立憲国民党に所属し連続2期在任した。
石田 貫之助(いしだ かんのすけ、1850年1月13日(嘉永… 石田 貫之助(いしだ かんのすけ、1850年1月13日(嘉永2年12月1日)- 1934年(昭和9年)10月8日)は、明治から大正期の政治家。兵庫県会議員、衆議院議員、富山県知事。旧姓は太田垣。 但馬国朝来郡新井村の農業・酒造業の太田垣家に生まれ、石田小治郎の養子となる。 1879年に兵庫県会議員となり、1880年5月から1881年2月まで同副議長を、同月から1890年7月まで同議長を務めた。また、同郡部会議長、同常置委員など務めた。立憲改進党に加わり、さらに愛国公党の創立委員となり、次いで自由党に入党した。 1890年7月、第1回衆議院議員総選挙に兵庫県第四区から出馬して当選。その後、第4回総選挙まで連続4回当選し、さらに第6回、第9回総選挙でも当選し、通算6回の当選を果たした。
由布 惟義(ゆふ これよし、1850年1月9日(嘉永2年11… 由布 惟義(ゆふ これよし、1850年1月9日(嘉永2年11月26日)- 1925年(大正14年)7月22日)は、幕末の柳河藩士、明治から大正期の政治家。衆議院議員、福岡県会議長。 筑後国山門郡柳川城下奥州小路(福岡県山門郡城内村字奥州町、柳川町を経て現柳川市奥州町)で、柳河藩士の家に生まれた。1861年(文久元年9月)家督を相続した。藩校伝習館(現福岡県立伝習館高等学校)で学んだ。戊辰戦争に従軍し、二等小隊長に就任。東京市中取締に従事。1870年(明治3年10月)に帰藩した。以後、柳河藩二等隊長、三潴県凖等外戸長、福岡県9等属などを歴任した。 1878年(明治11年)12月、福岡県会議員に選出され、8期在任し、同常置委員、同議長も務めた。
五十村 良行(いがむら りょうこう、1850年1月8日(嘉永… 五十村 良行(いがむら りょうこう、1850年1月8日(嘉永2年11月25日)- 1905年(明治38年)7月8日)は、幕末の佐賀藩武雄領主・武雄鍋島家家臣、明治期の官僚・政治家。衆議院議員。旧姓・佐々木、名・達之助。 肥前国杵島郡武雄(現佐賀県武雄市)で武雄鍋島家家臣・佐々木家に生まれ、五十村平左エ門の養子となる。漢学を修めた。 明治5年1月(1872年2-3月)石鉄県十三等出仕となり、以後、司法省十二等出仕、司法少解部、判事・高知裁判所徳島支庁在勤、脇町区裁判所長、熊本県警部兼属、熊本警察署長兼監獄署長、山梨県収税長、愛媛県収税長、大分県参事官などを歴任。 1892年2月、第2回衆議院議員総選挙おいて佐賀県第三区から出馬して二位景暢と選挙戦を戦い当選し、衆議院議員を一期務めた。
児玉 仲児(こだま ちゅうじ、嘉永2年11月14日(1849… 児玉 仲児(こだま ちゅうじ、嘉永2年11月14日(1849年12月28日) - 明治42年(1909年)1月24日)は、和歌山県の民権家、官吏、衆議院議員(3期)、大日本水産会名誉会員。 紀伊国那賀郡中山村(粉河村、粉河町を経て現紀の川市)生まれ。同窓に濱口梧陵、陸奥宗光など。 はじめ、森田節斎について漢学を学び、京阪の鴻儒について文学を修める。明治6年(1873年)に慶應義塾に入学し、卒業後に大蔵省記録局(13等)に出仕。のちに辞して自由民権運動に参加。明治9年(1876年)の地租改正について、和歌山県令・神山郡廉に提出した建白書を発端にして、「粉河騒動」の端緒となる。 明治10年(1877年)陸奥宗光の協力により、粉河に風猛学校を設立し、翌年に自由民権の結社・実学社、木国同友会を率いる。
矢板 武(やいた たけし、1849年12月28日(嘉永2年1… 矢板 武(やいた たけし、1849年12月28日(嘉永2年11月14日) - 1922年(大正11年)3月22日)は下野国・栃木県の実業家。那須疏水の開削で知られる。 下野国塩谷郡矢板村(現・栃木県矢板市)の坂巻家に長男として生まれる。出生名は坂巻七五郎(さかまき しちごろう)。後に武兵衛(ぶへえ)と名を改めた。 1866年(慶応2年) に矢板村組頭、明治維新を経て1869年(明治2年) に矢板村名主となる。翌年、黒崎七郎右衛の娘ハマと結婚。この頃、矢板武と改名する。 1872年(明治5年) 宇都宮県五大区六小区副戸長、1873年に栃木県第三大区四小区副戸長、1874年に郵便取扱役、1875年に第三大区三小区区長となる。
河目 正平(かわめ しょうへい、1849年12月26日(嘉永… 河目 正平(かわめ しょうへい、1849年12月26日(嘉永2年11月12日) - 1890年(明治23年)8月6日)は、三河国碧海郡熊村(現在の愛知県刈谷市)出身の教育者。 刈谷市熊野町の安養寺には石碑「河目正平先生之碑」がある。 1849年(嘉永2年)11月12日、河目正平は三河国碧海郡熊村(現在の愛知県刈谷市)に生まれた。幼名は幸太郎であり、後に源吾と称し、やがて正平に改めた。 刈谷藩の藩校である文礼館の教師を務めていた。明治維新期の1870年(明治3年)7月、刈谷藩の命で大垣藩に遊学し、帰郷すると刈谷学校(現・刈谷市立亀城小学校)、熊村学校、高浜学校(現・高浜市立高浜小学校)、野田学校(現・刈谷市立双葉小学校)で教員を務めた。
16代 木村 庄之助(じゅうろくだい きむら しょうのすけ、… 16代 木村 庄之助(じゅうろくだい きむら しょうのすけ、嘉永2年11月12日〈1849年12月26日〉 - 明治45年〈1912年〉1月6日)は、大相撲の立行司。本名は柘→大家→柘新助。出身地は、現在の愛知県豊橋市。 吉田船町(現・豊橋市船町)で煮売屋の長男として生まれる。田舎相撲の強豪だった父親の影響で相撲に興味を持つが、体格に恵まれなかったため行司として研鑽を積むようになる。 安政6年(1859年)秋、吉田で江戸相撲の興行があり、その折に3代目清見潟に預けられ入門。13代庄之助に師事し、元治元年(1864年)4月に木村新介の名で初めて番付に載った。明治4年(1871年)4月に、3代木村龍五郎を襲名。
乃木 希典(のぎ まれすけ、1849年12月25日〈嘉永2年… 乃木 希典(のぎ まれすけ、1849年12月25日〈嘉永2年11月11日〉- 1912年〈大正元年〉9月13日)は、日本の陸軍軍人。日露戦争において旅順攻囲戦を指揮したことで知られる。戦後は明治天皇より第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係も務めたが、明治天皇の大喪の礼の当日に妻共々自刃した。人々から「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれて深く敬愛され、「乃木神社」や「乃木坂」にも名前を残している。最終階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。 幼名は無人(なきと)で、その後、源三と改め、頼時とも称した。後、文蔵、次いで希典と名を改めた。また、出雲源氏佐々木氏の子孫と称したことから「源希典」との署名もよく用いた。
美澤 進(みさわ すすむ、1849年12月24日(嘉永2年1… 美澤 進(みさわ すすむ、1849年12月24日(嘉永2年11月10日) - 1923年(大正12年)9月16日)は日本の教育者。Y校の愛称で知られる横浜商法学校の初代校長であり、死没するその日まで同職を40年以上勤め続けた。字は業卿。 備中国三沢村(後の岡山県高梁市川上町三沢)の生まれ。遠祖は宇多源氏とされる。父・三村繁八郎、母・於美津の6人兄弟の長男で幼名を徳太郎という。実家は代々庄屋を務めて酒造りを行い、成羽藩藩外の豪士として名字帯刀を許された家柄であったが、家業の酒造りの失敗や父と叔父による鉱山投資の失敗で貧困に喘いでいた。美澤は学問での立身を志し、満12歳の1862年(文久2年)に興譲館へ入学。
宇佐川 一正(うさがわ かずまさ、1849年12月24日〈嘉… 宇佐川 一正(うさがわ かずまさ、1849年12月24日〈嘉永2年11月10日〉- 1927年〈昭和2年〉11月10日)は、明治から昭和初期の日本陸軍の軍人、政治家、華族。最終階級は陸軍中将。貴族院男爵議員。 長州藩士・藤村太郎右衛門の四男として生まれ、宇佐川久平の養子となる。伏水教導隊に入り、下士官試補、権曹長、曹長と昇進し、1874年(明治7年)6月、陸軍戸山学校を卒業し、翌月、歩兵少尉に任官。以後、歩兵第14連隊付となり、1877年(明治10年)2月、西南戦争に出征した。歩兵第24連隊大隊副官、歩兵第1旅団参謀、同副官、近衛歩兵第1旅団副官、第1師団参謀、歩兵第17連隊付、監軍部副官、近衛師団参謀などを歴任し、日清戦争には第1軍参謀として出征し、田村怡与造の後任として同軍参謀副長となった。
福田 久松(ふくだ ひさまつ、1849年1月19日(嘉永元年… 福田 久松(ふくだ ひさまつ、1849年1月19日(嘉永元年12月25日)- 1922年(大正11年)12月1日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員。旧姓・仲、幼名・伊喜太。号・東洋外史、耕田散人、平民居士、自由主人。 武蔵国入間郡豊田新田(のち埼玉県入間郡大田村、現:川越市)で、農業・仲勇の長男として生まれ、母の実家である名主・福田仙太郎の孫養子となる。長沢徳元、利根川尚方、中島芳嶺らに和漢洋学を学び、大川周造から武技を学んだ。1878年、埼玉県師範学校小学師範科を卒業した。 郷里の豊田小学校の教員となり、同校長、入間高麗中学連合会議員、同議長も務め、1880年教師を辞任後は、埼玉県第三区学務委員、同県教育会委員を歴任した。
稲賀 龍二(いなが りゅうじ、嘉永元年12月21日(1849… 稲賀 龍二(いなが りゅうじ、嘉永元年12月21日(1849年1月15日) - 昭和6年(1931年)3月15日)は日本の政治家。上道村長(初代、第4代)。境町長(第11代)。元鳥取県会議員(議長、副議長)、郡会議員(議長)、村会議員。 孫娘のしげのは元郵政大臣手島栄の妻。同じく孫の稲賀幸は元稲賀外科医院長。鳥取県済生会境港総合病院院長稲賀潔は曾孫。 伯耆国会見郡上道村(現鳥取県境港市上道町)に生まれた。父貞次郎は最後の上道村庄屋。 明治21年(1888年)鳥取県会議員に当選、その後明治28年(1895年)から明治32年(1899年)にかけて当選3回、その間明治30年(1897年)には第15代の県会議長に就任した。
工藤 寛得(くどう かんとく、1849年1月11日〈嘉永元年… 工藤 寛得(くどう かんとく、1849年1月11日〈嘉永元年12月17日〉 - 1911年〈明治44年〉12月17日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。幼名は六太郎。 陸奥国岩手郡大更村(岩手県北岩手郡大更村、西根村、西根町を経て現八幡平市大更)で、工藤織人の長男として生まれる。生家は古くから林業や商業などで財を成した。藩校作人館を経て、江戸に出て安井息軒の門に学び、帰郷後の1879年(明治12年)北岩手郡会議員に当選する。自由民権運動に際しては多くの資金援助を行った。ほか、北岩手郡各村連合会議員、岩手県会議員、岩手県農工銀行発起人などを歴任した。 1890年(明治23年)岩手県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から翌年の6月12日まで在任。
11代西川 甚五郎(にしかわ じんごろう、諱は重威(しげたけ… 11代西川 甚五郎(にしかわ じんごろう、諱は重威(しげたけ)、1849年1月10日(嘉永元年12月16日) - 1905年(明治38年)4月6日)は、江戸時代末期から明治期の近江商人。西川甚五郎家山形屋11代、明治維新動乱期を越えて西川への発展の基礎を固めた。 1849年1月10日((旧暦)嘉永元年12月16日)に近江国蒲生郡八幡(現近江八幡市)において山形屋10代西川甚五郎の二男二女の第四子次男として誕生、長男夭折に伴い跡継ぎとして育てられ、幼名は伊三郎と称した。 1840年代(天保弘化年間)、越前国において近江より熟練工を招き蚊帳織りを開始したことから近江蚊帳の営業者は1878年(明治11年)当時5軒まで減っていた、加えて1866年(慶応2年)には徳川幕府の長州征伐のための御用金1千8百両の上納を求められ経営環境は極度に悪化していた。
本多 庸一(ほんだ よういつ、1849年1月7日(嘉永元年1… 本多 庸一(ほんだ よういつ、1849年1月7日(嘉永元年12月13日) - 1912年(明治45年)3月26日)は、日本のキリスト教伝道者・牧師・教育者・政治家。日本メソヂスト教会の初代監督。青森県弘前市生まれ。新島襄、植村正久、内村鑑三、新渡戸稲造と並び、明治期日本におけるキリスト教主義教育の先駆者とされる。 本多の先祖は、徳川家譜代の本多氏の流れを汲む。 弘前藩士、石高300石の本多八郎左衛門久元(1823年-1896年)と本多トモの長男として1848年(嘉永元年)に弘前城下在府町に生まれる。幼名を徳蔵と言った。祖父、東作久貞は藩の要職を歴任した人物であった。 1858年、10歳より弘前藩の藩校稽古館で漢書の素読、儒学を学んだ。
上原 六四郎(うえはら ろくしろう、嘉永元年12月3日(18… 上原 六四郎(うえはら ろくしろう、嘉永元年12月3日(1848年12月28日) - 大正2年(1913年)4月1日)は、日本の音響学者・美術工芸教育者。 岩槻藩士として江戸に生まれる。1869年(明治2年)、開成学校に入ってフランス語を学び、翌年大学少得業生となる。文部省少助教となり、陸軍士官学校に出仕。軽気球製作御用取扱を命じられた。1882年(明治15年)より、文部省専門学務局音楽取調掛勤務、東京職工学校勤務、東京商業学校教諭などを歴任した。1889年(明治22年)、東京美術学校数学講師となり、翌年に東京工業学校教諭・東京美術学校教諭となった。1890年(明治23年)に東京工業学校教授・東京美術学校教授となり、翌年に東京工業学校附属職工徒弟学校主事となった。
西川 義延(にしかわ ぎえん、1848年12月28日(嘉永元… 西川 義延(にしかわ ぎえん、1848年12月28日(嘉永元年12月3日)- 1908年(明治41年)10月26日)は、明治期の地主・農業経営者・政治家。衆議院議員、京都府会議長。旧姓・山中、幼名・栄次郎、旧名・庄蔵。 河内国交野郡長尾村(大阪府交野郡菅原村、北河内郡菅原村、津田町を経て現枚方市)で豪農・山中与治兵衛の二男として生まれる。1866年(慶応元年2月)山城国綴喜郡田辺村(京都府綴喜郡田辺村大字田辺小字北里、田辺町を経て現京田辺市)の南山郷士、地主・西川長十郎長女ユキの婿養子となり、庄蔵と改名、のちに義延に改めた。 綴喜郡第八区長、第三区副区長、同郡地券取調掛、京都府会議員、同副議長、同議長、同郡部会副議長、同常置委員、綴喜郡兼相楽郡長などを務めた。
福西志計子(ふくにし しげこ、弘化4年12月13日(1848… 福西志計子(ふくにし しげこ、弘化4年12月13日(1848年1月18日) - 明治31年(1898年)8月21日)は、日本の教育者、キリスト教信徒。幼名(本名)は福西繁(ふくにし しげ)であり、信仰者・教育者として職に携わるにあたっては名を読み替えて志計(しげ)ないしは志計子(しげこ)と名乗る。岡山県高梁市において岡山県初の女学校である順正女学校を設立した事により、同地において女子中等教育の実践を通し高等教育普及の礎を築いた人物。 幼少時、隣家の儒学者・山田方谷に漢学をはじめとした種々の教養を学び、17歳にて婿養子を迎えて結婚。のち29歳にて岡山裁縫伝習所において裁縫の伝習術を修め、高梁小学校附属裁縫所の教師となる。
長尾 義連(ながお よしつら、1848年1月18日(弘化4年… 長尾 義連(ながお よしつら、1848年1月18日(弘化4年12月13日) - 1928年(昭和3年)6月17日)は、幕末の弘前藩士。明治から大正時代の政治家。青森県弘前市長。 弘前藩士長尾定八の長男として生まれ、1873年(明治6年)9月に家督を相続する。明治に入り、戸長や北津軽郡長を歴任し、1888年(明治21年)青森県会議員に当選する。翌年の1889年(明治22年)弘前市助役の時に菊池九郎市長の辞任に伴い第2代市長に当選するが、後任の助役選出による派閥争いで市会は紛糾し、翌年辞任した。 1896年(明治29年)赤石行三市長の病死に伴い、菊池九郎の推薦により市長に返り咲き、1902年(明治35年)再選し、1905年(明治38年)まで務めた。
鳥尾 小弥太(とりお こやた、弘化4年12月5日〈1848年… 鳥尾 小弥太(とりお こやた、弘化4年12月5日〈1848年1月10日〉- 明治38年〈1905年〉4月13日)は、日本の陸軍軍人、政治家。陸軍中将正二位勲一等子爵。諱は照光、のち敬高(孝)。幼名は一之助。通称は百太郎、鳳輔など。号は得庵居士、不識道人など。 弘化4年12月5日(1848年1月10日)、萩城下川島村に長州藩士(御蔵元付中間)・中村宇右衛門敬義の長男として生まれる。安政5年(1858年)に父とともに江戸へ移り、江川英龍に砲術を学ぶ。万延元年(1860年)に帰藩して家督を相続。文久3年(1863年)に奇兵隊に入隊。乱暴者なので、親から勘当され、自ら鳥尾と名を定めた。長州征伐や薩摩藩との折衝などの倒幕活動に従事した。
布施 孫一郎(ふせ まごいちろう、1848年1月6日(弘化4… 布施 孫一郎(ふせ まごいちろう、1848年1月6日(弘化4年12月1日) - 1911年(明治44年)3月10日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 滋賀県出身。庄屋役、唐川村(のち七郷村、高月町を経て、現・長浜市)日吉社祠掌、同教導職試補、伊香郡教導職取締役、唐川村戸長、所得税調査委員、滋賀県勧業諮問会員、滋賀県会議員、伊香郡徴兵参事員、七郷村長、県蚕糸業取締所頭取、同蚕種検査所監督となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において滋賀県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1903年の第8回衆議院議員総選挙は不出馬。1911年に死去した。