熊谷 太雅(くまがい たいが、2006年10月17日 - )… 熊谷 太雅(くまがい たいが、2006年10月17日 - )は、宮城県登米市出身のプロ野球選手(投手・育成選手)。左投左打。福岡ソフトバンクホークス所属。 登米市立石越中学校を経て、東陵高校へ進学。 東陵高校では入学早々、左肘の怪我に見舞われた。2年春も2年夏も熊谷はベンチ外であり、いずれもチームは県大会準決勝で仙台育英にコールド負け。2年秋の地区予選初戦で公式戦初登板を果たすと、県大会準々決勝では仙台育英を相手に1失点完投勝利を挙げた。続く準決勝と3位決定戦にも先発したが、いずれもリードを許して降板し、チームも敗戦。3年夏の宮城大会では聖和学園との準々決勝で敗退した。甲子園出場経験はなし。 2024年10月24日に開催されたドラフト会議にて、福岡ソフトバンクホークスから育成12位指名を受けた。
千葉 虎士(ちば とらじ、2005年12月27日 - )は、… 千葉 虎士(ちば とらじ、2005年12月27日 - )は、宮城県登米市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・福島ユナイテッドFC所属。ポジションはディフェンダー。 モンテディオ山形ユース在籍していた2023年6月にモンテディオ山形の2種登録選手としてトップチームに選手登録された。 2023年7月に2024年からのモンテディオ山形のユースチームからトップチームに昇格を発表した。 3月13日、Jリーグカップ・カターレ富山戦に途中出場でデビューした。 2025年12月23日、福島ユナイテッドFCへの育成型期限付き移籍を発表。 この項目は、サッカー選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:サッカー/PJサッカー選手/PJ女子サッカー)。
小畑 裕馬(おばた ゆうま、2001年11月7日 - )は、… 小畑 裕馬(おばた ゆうま、2001年11月7日 - )は、宮城県登米市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・アビスパ福岡所属。ポジションはゴールキーパー(GK)。 ベガルタ仙台のアカデミー出身。2017年から2019年はトップチームに2種登録された。2019年からU-18日本代表に選出され、AFC U-19選手権2020 (予選)(英語版)に出場するメンバーに入った。 2020年よりトップチームへ昇格。同年7月4日、J1第2節の湘南戦でデビューを果たし、無失点で勝利に貢献した。一時はレギュラーとして試合に出場したがヤクブ・スウォビィクの壁を完全に崩すことは出来ず、再び控えに回った。 2021シーズンから背番号を1に変更。
橋本 峻輝 (はしもと しゅんき、1998年11月1日 - … 橋本 峻輝 (はしもと しゅんき、1998年11月1日 - ) は、宮城県登米市出身のサッカー選手。 ポジションは、フォワード、ディフェンダー。中国サッカーリーグ・ベルガロッソいわみ所属。 ベガルタ仙台の育成組織でプレーしていた。東北高等学校に進学。高校卒業後、国士舘大学に進学した。 2021年1月27日、JFLに所属しているMIOびわこ滋賀(現・レイラック滋賀)に加入。 2022年11月21日、チームを退団することが発表された。 2022年12月16日にJFL・高知ユナイテッドSCに加入した。 2024年12月12日、チームを退団することを発表された。 2025年1月20日に、中国サッカーリーグ・ベルガロッソいわみに加入した。
柳川 笑加(やながわ えみか、1993年5月7日 - )は、… 柳川 笑加(やながわ えみか、1993年5月7日 - )は、日本の女性ファッションモデル。血液型はO型。東京都在住。リヴァイフロント所属。 BLEA女子高等部在学中、自分の可能性を試すために自らpopteenの読者モデルに応募。以降は各ギャル雑誌等でモデルとして活躍中。 この項目は、ファッション関係の人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル ファッション)。
小松 大祐(こまつ だいすけ、1984年9月27日 - )は… 小松 大祐(こまつ だいすけ、1984年9月27日 - )は、日本のラグビー選手。 ラグビーは高校から始めた。 2003年、佐沼高校卒業後、立正大学に入る。 2007年、立正大学卒業後、リコーブラックラムズに加入。同年10月27日に行われたジャパンラグビートップリーグ第1節の日本IBMビッグブルー戦に先発出場で公式戦初出場を果たす。 2012年、リコーブラックラムズの主将に就任。3シーズン務めた。 2020年、リコーブラックラムズを退団した。
菅原 新(すがわら しん、1983年1月2日 - )は、日本… 菅原 新(すがわら しん、1983年1月2日 - )は、日本の元陸上競技選手。専門種目は100m。宮城県登米市出身。南方町立南方中学校、仙台育英学園高等学校、仙台大学卒。クレーマートラッククラブに所属していた。現在は仙台育英学園高等学校の教員。
佐藤 貴博(さとう たかひろ、1983年 - )は、宮城県登… 佐藤 貴博(さとう たかひろ、1983年 - )は、宮城県登米市出身の日本の野球指導者。岡山学芸館高等学校社会科教諭。 登米市立中田中学校卒業後は、仙台育英学園高校に進学。高校時代の同級生には後に仙台育英高校野球部の監督を務める須江航がいた。在学時には、1年夏、2年夏、3年春夏の4度甲子園大会に出場。特に3年春の選抜大会では準優勝の成績を収めている。 高校卒業後は、首都大学野球連盟所属の城西大学に進学。2年秋の明治神宮野球大会に出場。 大学卒業後の2006年から2011年迄は岡山県の岡山県作陽高校に勤務。野球部のコーチや部長を務めた。 2013年からは、岡山学芸館高校に赴任。部長を務め、2018年夏の大会終了後からは監督に就任。
後藤 伸也(ごとう しんや、1982年9月6日 - )は、宮… 後藤 伸也(ごとう しんや、1982年9月6日 - )は、宮城県登米市出身の元プロ野球選手(投手)。 小学4年の時に野球を始め、中学1年から投手となる。東北高校では2年次に選抜高校野球に外野手として出場。秋からはエースとなり、渡辺雅弘とのバッテリーで県大会優勝、東北大会では準々決勝で光星学院に延長11回サヨナラ負け。2000年の春季県大会の仙台育英高戦で17奪三振を記録し、春の東北大会も制した。夏は決勝で仙台育英高に敗退。同年のドラフト会議にて3位で横浜ベイスターズに指名された。ダイエーに指名された加藤暁彦は高校時代のチームメイト。 2001年10月11日の中日ドラゴンズ戦で初登板を果たす。翌2002年8月4日の中日戦でプロ初勝利を挙げる。
佐竹 友樹(さたけ ゆうき、1982年7月27日 - )は、… 佐竹 友樹(さたけ ゆうき、1982年7月27日 - )は、宮城県登米市出身の競艇選手。登録番号4201。身長158cm。血液型B型。91期。埼玉支部所属。同期に山口剛、長嶋万記、三浦永理らがいる。
眞山 龍(まやま りゅう、1981年6月5日 - )は、宮城… 眞山 龍(まやま りゅう、1981年6月5日 - )は、宮城県豊里町(現:登米市)出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 仙台育英高校時代には2年夏県大会準決勝で2番手として登板したが仙台高の丹野祐樹に完投されて敗退。秋は県大会決勝を延長10回完投勝利して優勝すると東北大会はベスト4。3年夏は県大会準決勝で仙台高を6回コールド完封で雪辱すると優勝、1999年夏の甲子園にエースとして出場。1回戦の佐賀東高校戦では完封勝利を挙げた。2回戦では正田樹、一場靖弘を要する桐生第一高校戦では四球から崩れ、8回7失点でマウンドを降りた。後続投手も打ち込まれ、結局11-2と大敗を喫した。1999年のドラフト会議にて西武ライオンズから2位指名を受け入団。
熊谷 康信(くまがい やすのぶ、1977年〈昭和52年〉9月… 熊谷 康信(くまがい やすのぶ、1977年〈昭和52年〉9月28日 - )は、日本の政治家。宮城県登米市長(1期)、登米市議会議員(1期)。 宮城県登米市出身。専修大学商学部卒業。国会議員大石正光秘書を経て、2021年(令和3年)登米市議会議員に当選。1期務める。 2025年(令和7年)3月12日付で市議を辞職した。 同年4月20日投票の登米市長選挙に無所属で立候補し、現職の熊谷盛廣ら3人を破り、初当選を果たした。なお、投票率は過去最低となった。 ※当日有権者数:61,500人 最終投票率:58.94%(前回比:-pts) 4月29日に就任した。 前市長の熊谷盛廣が掲げていた地域交流センターの建設計画を白紙撤回し、市民病院の改革を目指している。
佐々木 忍(ささき しのぶ、1975年10月28日 - )は… 佐々木 忍(ささき しのぶ、1975年10月28日 - )は盛岡競馬場の桜田勝男厩舎所属の元騎手である。 勝負服の柄は胴白星ちらし、袖白縦じま。宮城県登米郡出身。血液型はA型。 水沢・阿部三郎厩舎所属の騎手としてデビュー(その後、盛岡・佐藤敏彦厩舎に所属変更している)、1995年10月14日初騎乗(ゼンペイプリンス・6着)、初勝利は同年10月21日(ヨシゼンボーイ)。初年度は66回の騎乗で8勝を挙げる。2年目は7勝に終わったが、3年目にシルバーステッキ賞で特別初勝利を挙げるなど27勝と勝ちを伸ばした。その後、成績が伸び悩んでいたが、2001年に桜田勝男厩舎に所属変更すると次第に成績を上げていき、2002年には52勝を挙げる。
北浦 るみ(きたうら るみ、1969年 - )は、日本の防具… 北浦 るみ(きたうら るみ、1969年 - )は、日本の防具付き空手選手。 宮城県迫町出身。全日本空手道連盟錬武会、宮城県防具付空手道連盟迫町支部所属。二段。 強打で精度の高い打撃を持ち味とし、20代では第28回、第33回、第36回大会での優勝等、強豪である宮城県の有力選手の一人として実績を残す。30代に入ると組手に円熟味を増し、第38回~第43回では6連覇を達成するなど一時代を築く。この間、カナダ代表で身長190cmを超す長身のトレーシー・マカレッカとも対戦しているが、30cmの身長差がありながらパワーで負けず、王座を譲らなかった。 第44回大会では宮城県空手道連盟における後輩である高橋成美に決勝で敗れ、それを機に一度選手を引退。
及川 浩治(おいかわ こうじ、1967年2月15日 - )は… 及川 浩治(おいかわ こうじ、1967年2月15日 - )は、日本のピアニスト。 宮城県登米郡迫町(現・登米市)出身。4歳よりピアノを始める。 1984年、ヴィオッティ・ヴァルセージア国際コンクール第1位受賞。1985年、国立音楽大学に入学。1986年、ブルガリア国立ソフィア音楽院に留学。留学中の1987年、アレクシス・ワイセンベルクの公開セミナーに参加し、ワイセンベルクの意向により設けられた最優秀特別賞を受賞。練習用のグランドピアノを授与される。 1990年、マルサラ国際コンクール第1位受賞。ショパン国際ピアノコンクールDistinctions選出。1991年、国立音楽大学に復学。1992年、日本国際音楽コンクールにおいて第2位受賞。
白鳥 浩徳(しらとり ひろのり、1966年5月4日 - )は… 白鳥 浩徳(しらとり ひろのり、1966年5月4日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手(投手)。 東北高時代は、1年秋の県大会決勝で先発したが途中降板して敗退。以後は登板なく東北大会は優勝して1983年春の甲子園に出場。また1984年夏の甲子園にも出場するが、いずれも登板機会はなかった。このときはエースナンバーを付けていたが、1年下の佐々木主浩が実質エースのため、控え投手扱いであった。 高校卒業後は、社会人野球の住友金属鹿島に入団。1990年と1993年に日立製作所の補強選手として都市対抗野球大会に出場。1990年は準々決勝で先発して3回を投げたがチームは延長の末に敗退。1993年はエースの斎藤充弘の救援として初戦から登板したが2回戦で熊谷組に敗れた。
佐々木なつえ(ささきなつえ、本名:佐々木奈津江、 (1964… 佐々木なつえ(ささきなつえ、本名:佐々木奈津江、 (1964-05-18) 1964年5月18日(61歳))は日本の政治家。 立憲民主党(県議会会派:みやぎ県民の声)所属の宮城県議会議員(2期)。 宮城県登米市出身。迫町立佐沼小学校、迫町立佐沼中学校、宮城県佐沼高等学校卒業。 宮城県佐沼高等学校時代に陸上競技にて国体に出場経験がある。 母子家庭で育ち、本人が子どもの頃に母を訪ねて、ちいさな子どもを抱えた女性や知らない女性が家によく出入りしていたのを見て、子ども心に女性にとって生きにくい社会であると感じていた。また、秘書時代に子育て政策や女性の働き方、女性に関する政策などの会議に出席した際に意思決定の場に女性がいないことに違和感を持ち政治家を目指すようになる。
さとう しゅう(本名:佐藤修一、1964年5月10日 - )… さとう しゅう(本名:佐藤修一、1964年5月10日 - )は、日本のテレビ演出家。宮城県 石越町(現・登米市)生まれ。現在は制作プロダクション「いまじん」の執行役員 第1制作部 部長。過去担当した番組WINに登場したアヒルの人形WINちゃんの生みの親であり、ナレーションを担当した 垂木勉と深く交流を持つ。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
布施 孝尚(ふせ たかひさ、1961年〈昭和36年〉7月27… 布施 孝尚(ふせ たかひさ、1961年〈昭和36年〉7月27日 - )は、日本の政治家、歯科医師。元宮城県登米市長(3期)。 宮城県登米市出身。宮城県佐沼高等学校、日本大学歯学部卒業。 2005年(平成17年)4月1日、登米郡8町(迫町、登米町、南方町、東和町、中田町、豊里町、米山町、石越町)と本吉郡津山町が合併し、登米市が誕生する。それに伴って同年4月29日に執行された登米市長選挙に無所属で出馬し、初当選。 2009年(平成21年)4月、無投票により2期目の当選を果たす。 2013年(平成25年)4月21日執行の市長選に無所属(自民党、民主党、公明党推薦)で出馬。元市議会議員の遠藤音を破り、3期目の当選。
鎌田 洋次(かまた ようじ、1957年7月3日 - )は、日… 鎌田 洋次(かまた ようじ、1957年7月3日 - )は、日本の漫画家。男性、宮城県登米市中田町浅水出身。 1979年、週刊少年マガジンSPECIAL増刊掲載の『俺たちの三遊間』 でデビュー1981年、『こんちきちん』で週刊ヤングマガジンに初の連載。 主に青年漫画雑誌を舞台としていて、スポーツ漫画を数多く描いている。漫画でも野球、サッカーだけでなく、体操や自転車などのジャンルのスポーツ漫画も手がけている。 また、登山・山岳漫画の数少ない描き手[要検証 – ノート]でもある。 2010年現在、つりコミックにて『Match the Hatch』を連載中。 この項目は、漫画家・漫画原作者に関連した書きかけの項目です。
熊谷 金治(くまがい かねじ、1955年 - )は、宮城県登… 熊谷 金治(くまがい かねじ、1955年 - )は、宮城県登米郡中田町(現:登米市)出身、蔵王町在住のシンガーソングライター。宮城県佐沼高等学校卒業。パーソナリティ、イベントプロデューサー、脚本家、コピーライターとしても活動している。愛称は「金(きん)ちゃん」。 大和銀行日本橋支店勤務を経て、1979年より音楽活動に専念。1980年、国鉄キャンペーンソング『なぜ旅に出るの』でデビュー。当初は「くまがい金次」の名前で活動していた。自然や旅をテーマとした叙情的な歌詞が特徴で「蔵王に住む歌詩人」と形容される。自身も自然保護や農業に造詣が深く、これらの講師や野外活動のインストラクターなども務める。CMソングやサウンドロゴも手がけるほか民謡歌手の庄司恵子にも楽曲を提供している。
佐々木 信行(ささき のぶゆき、1953年5月2日 - )は… 佐々木 信行(ささき のぶゆき、1953年5月2日 - )は、宮城県本吉郡津山町(現:登米市)出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、解説者。 佐沼高校から一般企業への就職が内定していたが、一転して1971年のドラフト10位でロッテオリオンズに入団。弘田澄男・成重春生・倉持明と同期で、1979年にはシーズン序盤の6試合に先発マスクを被るが、当時の主力捕手である高橋博士・土肥健二の壁は破れなかった。1980年以降は一軍出場もなくなり、1982年限りで現役を引退。 引退後もオリオンズ(川崎)→マリーンズ(千葉)とロッテ一筋で、現役時代から並行して行ってきたブルペン捕手や二軍コーチ補佐(1987年 - 1990年)、二軍コーチ(1991年)、一軍ブルペンコーチ(1992年, 1999年 - 2000年)、二軍バッテリー兼育成コーチ(1993年、二軍バッテリー育成担当コーチ(1994年)、一軍バッテリーコーチ補佐(1996年)、二軍総合コーチ(2001年)、一軍バッテリーコーチ(1998年途中, 2002年)、二軍監督(2003年)を歴任。
シュガー佐藤(シュガーさとう、1953年4月28日 - )は… シュガー佐藤(シュガーさとう、1953年4月28日 - )は、日本の漫画家。宮城県登米郡中田町(現:登米市)出身。別名義:佐藤 利夫(さとう としお)、グロテスク佐藤。 子供の頃より漫画を愛好しており、特に同郷の石森章太郎に憧れを抱いていた。 1971年、アシスタントを志望して石森の実家を訪れ、応対した石森の父の取次により石森からの内諾を得て上京し、石森プロに入社した。当初はアシスタントの数が足りていたため、石森の義弟が営むレストランで出前持ちのアルバイトを務めた後、同年末に『原始少年リュウ』からアシスタントに加わった。 1973年、『イナズマン』のコミカライズ(『小学二年生』連載、佐藤利夫名義)でデビュー。
阿部 俊則(あべ としのり、1951年10月27日 - )は… 阿部 俊則(あべ としのり、1951年10月27日 - )は、日本の実業家。積水ハウス代表取締役社長、代表取締役会長を経て、同社特別顧問。 宮城県登米郡東和町(現登米市)出身。宮城県佐沼高等学校、東北学院大学文学部史学科卒業後、1975年積水ハウス入社。2004年執行役員東北営業本部長。2005年常務執行役員東京営業本部長。2006年取締役常務執行役員首都圏本部長兼東京営業本部長。2007年取締役専務執行役員経営企画部長。 2008年積水ハウス代表取締役社長兼COOに昇格。2018年地面師による詐欺で巨額の損失を被った責任として、取締役会で解任しようと動議を出した和田勇代表取締役会長に対し、逆に解任動議により辞任に追い込み、後任の代表取締役会長に就任。
熊谷 盛廣(くまがい もりひろ、1951年〈昭和26年〉3月… 熊谷 盛廣(くまがい もりひろ、1951年〈昭和26年〉3月3日 - )は、日本の政治家。元宮城県登米市長(2期)、元宮城県議会議員(1期)、元津山町長(1期)。名前の表記に関しては熊谷 盛広と書かれることも多い。 宮城県登米市出身。宮城県佐沼高等学校、慶應義塾大学法学部(通信課程)卒業。 2002年(平成14年)、津山町長に就任。2005年(平成17年)4月1日に津山町が他の登米郡8町と合併し消滅するまで町長を務めた。 2007年(平成19年)4月に行われた宮城県議選・登米選挙区(定数3)に無所属で立候補し3位で初当選。当選後に自民党入り。 東日本大震災のため2011年(平成23年)11月13日に延期された県議選、2015年(平成27年)10月25日に行われた県議選は、いずれも自民党公認で立候補するも次点(3位)で落選した。
佐藤 史生(さとう しお、1950年12月6日 - 2010… 佐藤 史生(さとう しお、1950年12月6日 - 2010年4月4日)は、日本の漫画家。女性。本名は佐藤ちよ子。24年組あるいはポスト24年組 のひとり。理知的な作風が特徴で、寡作でありながら根強い人気を誇る。代表作に『夢みる惑星』『ワン・ゼロ』など。 魔術や神話を先端科学と巧みにミックスする独自の作品世界を持つ。長編『夢みる惑星』は、はるかな昔に火星から移住してきた人々が築いた超古代文明の終焉の物語である。もうひとつの長編作品『ワン・ゼロ』では、意志を持ちネットワークに侵入する電子頭脳と魔神たち(大乗仏教の神々とインド古代神および古神道の神々との戦い)を描く。「ネペンティス」「心臓のない巨人」など、巨大な交易船で宇宙を旅しながら何世代も生き続ける隔離された人々が登場する「複合船」のシリーズは、文化人類学あるいは民俗学的なコード(ハレとケ、ケガレ、マレビトなど)を埋め込んだサイエンス・フィクション (SF) といえる。
長野 哲(ながの さとし、1949年7月5日 - )は、宮城… 長野 哲(ながの さとし、1949年7月5日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 佐沼高校では1966年、2年生の時に夏の甲子園県予選3回戦で、宮城水産高を相手に2四球、1失策のノーヒットノーランを達成し勝利。県予選を勝ち抜き東北大会準決勝に進むが、福島商に0-1で敗退し、甲子園出場を逸する。翌年夏は県予選で敗れた。 1967年ドラフト会議でサンケイアトムズから8位指名を受けるが拒否し、熊谷組へ入社。藤津靖雄、大櫃照彦など好投手が多く、なかなか大舞台は踏めなかったが、1968年の明治維新百年記念明治神宮野球大会では、全東京選抜の抑えとして登板、全神奈川選抜に快勝した。 1968年ドラフト会議で大洋ホエールズから5位指名を受け入団。
千葉 剛(ちば つよし、1948年4月25日- )は、宮城県… 千葉 剛(ちば つよし、1948年4月25日- )は、宮城県出身の元プロ野球選手(投手)。 東北高では末永幸士投手(国士舘大学)と同期だったが、甲子園には出場できなかった。 1966年のプロ野球第1次ドラフト会議で東映フライヤーズから5位指名を受けたが、入団を拒否し社会人野球の日本鉱業日立へ入団する。 1968年の都市対抗野球に出場し、1回戦でリリーフとして登板するが日本新薬に敗れる。翌1969年の都市対抗野球にはエースとして出場するが、同じく1回戦で三菱重工名古屋に敗退した。 1969年のプロ野球ドラフト会議で広島東洋カープから1位指名を受け入団。 シュート、カーブが武器の本格派で、スライダーをプロ入り後に習得する。
伊藤 卓美(いとうたくみ、1946年1月15日 - )は、… 伊藤 卓美(いとうたくみ、1946年1月15日 - )は、日本の版画家。 母の実家である宮城県登米郡登米町(現・登米市)で、洋画家である伊藤悌三の三男として生まれる。高校2年の時、版画家の馬淵聖が版画で作成した父宛の年賀状と出会い、自身も本格的に版画制作を始める。秋田の版画家勝平得之の影響を受けた民俗芸能をテーマにした作品で、1967年に初の個展を開く。 1979年に日版会版画展に『群鹿』を出品、新人賞を獲得して会友に推挙される。以後日版会賞や文部大臣賞を受賞した。2004年に日版会会長となるが、自作の版画制作を優先すべく2014年に退会した。 2024年に、岩手県花巻市の第34回イーハトーブ賞を受賞した。
サトル・サトウ(佐藤 達〈さとう さとる〉、1945年11月… サトル・サトウ(佐藤 達〈さとう さとる〉、1945年11月14日 - )は、フランスを拠点に活動する画家、造形作家。宮城県登米市出身。宮城県佐沼高等学校卒。フランス・パリ在住。 1969年、パリでデビュー。1979年、「鉛直主義」を世界に向けて宣言し国際的抽象画家となったサトルは、幾何学構成的絵画から立体作品、環境造形作家として、パリを拠点に多くの制作、発表を各国で行っている。 これまで、個展70回、グループ展380回、環境造型作品制作設置は40点を数え、30か国で発表している。
門脇 陸男(かどわき りくお、1945年(昭和20年)3月1… 門脇 陸男(かどわき りくお、1945年(昭和20年)3月10日‐)は日本の演歌・民謡歌手。 宮城県登米郡南方町(現・登米市)出身。 高校卒業後、就職したバス会社(のちの宮城交通)入社後から民謡を始め、1980年、東北の民謡コンクールで優勝。 レコードデビュー直前は宮城交通のバス運転手と農業の兼業だった。 1982年、東北放送の人気ラジオ番組「民謡でごきげん」放送三百回記念として、クラウンレコードとタイアップして作られた「祝い船」でデビュー。レコード会社の宣伝文には「やったぜ!リック」とミスマッチなコピーが記されていた。当初、レコード会社はまったく宣伝しなかったが、地元の有線放送で支持され、当時流行していたカラオケで歌われるようになり、仙台から東北、さらには東京へと広まり、2年半越しで全国に浸透。
千葉 仁(ちば まさし、1944年(昭和19年)4月20日 … 千葉 仁(ちば まさし、1944年(昭和19年)4月20日 - 2016年(平成28年)9月28日)は、日本の剣道家。段位は範士八段。元警視庁警察官。 上段の名手で、全日本剣道選手権大会で3回優勝した。この記録は史上2位タイである。得意技は上段から振り下ろす片手小手。 宮城県小牛田農林高等学校剣道部で乳井義博、高橋要に師事。上段の構えを始めたのは、高校3年生の6月頃である。小牛田農林では生徒に上段を許していなかったが、先生がいないときに上段の真似事をしていたところを高橋に見つかり、乳井が上段の跡継ぎをほしがっていたことや、千葉が左利きであったことから、上段を許され指南を受けた。 国士舘大学教授大野操一郎からスカウトされ、乳井も賛成して国士舘大学への進学が決まりかけたが、3年生のインターハイ終了後に乳井が「大学は金がかかるし親も大変だから警視庁を受けろ」と言い、急遽警視庁に就職した。
石井 稔(いしい みのる、1941年〈昭和16年〉 - )は… 石井 稔(いしい みのる、1941年〈昭和16年〉 - )は、日本の無農薬栽培農家、名稲会会員第1号。
山内 ジョージ(やまうち ジョージ、1940年11月24日 … 山内 ジョージ(やまうち ジョージ、1940年11月24日 - 2025年2月27日)は、日本の漫画家、文字絵作家。日本児童出版美術家連盟会員、東アジア文化支援プロジェクト事務局長。山内 譲二名義による作品もある。本名は山内 紀之(やまうち のりゆき)。 日本の租借地であった関東州(現在の中華人民共和国遼寧省)大連市で、関東局勤務の警察官の家庭に生まれる。1945年、日本の第二次世界大戦敗戦に伴い収容所生活を送った後、1947年に日本へ引き揚げ、父の郷里の宮城県登米市で育つ。小学校5年生の時、手塚治虫と文通。中学校2年生の時、小野寺章太郎(石ノ森章太郎)と知り合う。宮城県佐沼高等学校卒業。 上京後、1960年9月から1962年3月までトキワ荘に住み、石森章太郎や赤塚不二夫のアシスタントを経て独立。
石ノ森 章太郎(いしのもり しょうたろう、英: Shotar… 石ノ森 章太郎(いしのもり しょうたろう、英: Shotaro Ishinomori、1938年〈昭和13年〉1月25日 - 1998年〈平成10年〉1月28日)は、日本の漫画家。本名は小野寺 章太郎(おのでら しょうたろう)。1984年までは「石森 章太郎」の表記を使用していたが、この時期には「いしもり しょうたろう」と呼ばれるのが通例だった。 SF漫画、ギャグ漫画から学習漫画まで幅広いジャンルの作品を量産し、“漫画の神様”手塚治虫との対比で「漫画の王様」、「漫画の帝王」 と評された。 代表作は『サイボーグ009』『佐武と市捕物控』『009ノ1』『さるとびエッちゃん』『人造人間キカイダー』『マンガ日本経済入門』『HOTEL』など。
丸森 仲吾(まるもり ちゅうご、1932年〈昭和7年〉12月… 丸森 仲吾(まるもり ちゅうご、1932年〈昭和7年〉12月23日 - 2021年(令和3年)10月25日)は、日本の銀行家。七十七銀行頭取、仙台商工会議所会頭などを歴任した。 出生地は現在の登米市だが、実家は、姓の由来でもある宮城県丸森町の山林地主にあたる。 宮城県佐沼高等学校、東北大学時代は野球部で捕手として活躍。同大野球部でバッテリーを組んだ先輩が七十七銀行に入行しており、その紹介もあって就職を決める。 労働組合書記長や委員長を歴任したほか、人事部長に就任するまで14年間にわたり人事部に在籍。それ以降は、ほとんど営業一筋にキャリアを積んだ。 2001年(平成13年)頭取に昇格し、不良債権処理を進め、強固な経営基盤の確立や人材育成に力を入れた。
佐々木 徳夫(ささき とくお、1929年(昭和4年)3月19… 佐々木 徳夫(ささき とくお、1929年(昭和4年)3月19日 - 2010年(平成22年)1月25日)は、日本の民俗学者、昔話採集家。 宮城県中田町(現登米市)出身。旧制宮城県佐沼高等学校、東洋大学文学部哲学科卒業。 社会科担当の高校教師を務めていた1957年より昔話をカセットテープに録音し収集する活動を開始した。集めた昔話は東北地方を中心に1万話を超え、著書は高校教師時代の1966年(昭和41年)11月の自費出版による『酒の三太郎』が最初で、50冊を超える。1992年、昔話の保護に取り組んだ業績が認められ、吉川英治文化賞を受賞した。 2010年1月25日、肺炎により宮城県塩竈市の病院で亡くなった。
天野 良英(あまの よしふさ、1910年〈明治43年〉2月1… 天野 良英(あまの よしふさ、1910年〈明治43年〉2月12日 - 2001年〈平成13年〉3月3日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。最終階級は陸軍中佐、陸上幕僚長たる陸将。 陸士43期、陸大52期。第6代陸上幕僚長、第3代統合幕僚会議議長。息子は第26代西部方面総監の天野良晴。 宮城県登米郡宝江村大字田沼新井田(現・登米市中田町宝江新井田)出身。旧制宮城県立佐沼中学校から1927年(昭和2年)4月に陸軍予科士官学校に入校。1931年(昭和6年)7月、陸軍士官学校卒業(第43期)。同期には次の陸幕長の吉江誠一をはじめ広瀬栄一、藤原岩市など。1931年(昭和6年)11月、歩兵第17連隊で満州事変に従軍。
中道 等(なかみち ひとし、1892年(明治25年) - 1… 中道 等(なかみち ひとし、1892年(明治25年) - 1968年(昭和43年)8月22日)は、大正時代から昭和時代にかけて活動した郷土史家、民俗学者である。 宮城県登米郡登米町に生まれる。旧姓は砂金(いさご)。後に青森県八戸市に移り青森県立八戸中学校に進学するも1年で中退する。二松學舍を経て、1918年(大正7年)に京都帝国大学教授の内藤湖南のもとで、東洋文献の考証学を学ぶ。同年に八戸の中道トシの養子となり姓を改める。その後、八戸に戻り『実業時論』という雑誌を手がける。推薦を受け、青森県史編纂委員や青森県史跡名勝天然記念物調査委員を務める。また、南部叢書の編纂にも従事した。1928年、小井川潤次郎が中心となって組織した八戸郷土研究会の顧問となる。
加藤 きん(かとう きん、1890年〈明治23年〉8月12日… 加藤 きん(かとう きん、1890年〈明治23年〉8月12日 - 1980年〈昭和55年〉1月12日)は、日本の看護師。 宮城県登米郡佐沼町(現・登米市)に生まれる。1911年(明治44年)に日本赤十字社宮城県支部救護看護婦養成所に入学。1914年(大正3年)に卒業して、日本赤十字社中央病院の看護師(当時は「看護婦」)となる。 第一次世界大戦中の1915年(大正4年)から1年間、遣仏救護班看護婦としてフランス赤十字社に派遣され、救護活動に従事し、その後はシベリア出兵の際にも傷病者の看護に当たった。 日中戦争中は、看護婦長として赤十字病院船に乗り込み、中国の上海・南京・九江などに合わせて10回派遣された。
安斎 桜磈子(あんざい おうかいし、1886年(明治19年)… 安斎 桜磈子(あんざい おうかいし、1886年(明治19年)2月7日 - 1953年(昭和28年)12月12日)は、宮城県登米市登米町出身の俳人。本名は千里(ちさと)である。 1886年(明治19年)2月7日に御機師の家柄に生まれ、高等小学校を卒業した後に家業を継いだ。 安斎と同じく宮城県登米町出身の俳人菅原師竹に師事し、17歳頃より俳句を作り始める。 1904年(明治37年)頃に従来の五七五調の形にとらわれない新しい新傾向俳句に惹かれる。その後、俳人、随筆家の河東碧梧桐が選者である新聞『日本』の俳句欄に投句し、新傾向派の俳人として注目された。 菅原と共に新傾向俳句を作り、一時期は新傾向俳句の重鎮として師竹・桜磈子時代と呼ばれ、東北の俳壇で称された。
星 廉平(ほし れんぺい、1886年(明治19年)1月1日 … 星 廉平(ほし れんぺい、1886年(明治19年)1月1日 - 1967年(昭和42年)6月23日)は、明治末から昭和前期の日本の実業家・政治家。衆議院議員。幼名・博。 宮城県登米郡、のちの佐沼町(迫町を経て現登米市迫町佐沼)で、呉服商・先代星廉平、まつゑ の長男として生まれた。1900年(明治33年)家督を相続し廉平を襲名し呉服商を営む。1905年(明治38年)宮城県立第二中学校(現宮城県仙台第二高等学校)を卒業し、陸軍省臨時嘱託となり満州、朝鮮の経済状況調査の視察を行う。この経験から政界への関心を持つようになった。 1911年(明治44年)9月、宮城県会議員に選出され、1912年(大正元年)10月まで在任。
村松 山寿(むらまつ さんじゅ、1867年3月10日(慶応3… 村松 山寿(むらまつ さんじゅ、1867年3月10日(慶応3年2月5日) - 1937年(昭和12年)10月18日)は、衆議院議員(立憲同志会→憲政会)、弁護士。村松亀一郎の従兄弟。 陸奥国登米郡西郡村(現在の宮城県登米市)出身。1888年(明治21年)よりアメリカ合衆国に留学し、ミシガン州立大学法学部を卒業した。帰国後、第二高等学校の講師となったが、辞して1894年(明治27年)から仙台市に弁護士事務所を開いた。1901年(明治34年)にはシャムとイギリスの弁護士資格を取得し、バンコクに事務所を開いた。帰国後は東京や仙台で弁護士の業務に従事した。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
菅原 師竹(すがわら しちく、1863年(文久3年)8月 -… 菅原 師竹(すがわら しちく、1863年(文久3年)8月 - 1919年(大正8年)3月24日)は日本の俳人。本名は賢五郎。旧姓:伊藤。 陸奥国登米郡登米(現・宮城県登米市)に生まれる。幼少期に元藩儒の中沢敬哉に経史を学ぶ。菅原家に養子になり、農業をする。旧派俳諧に属したが、1904年に安斎桜磈子と知り、共に日本派の俳句入る。1905年から河東碧梧桐の俳句の指導を受ける。新傾向時代初期に活躍し「師竹・桜磈子時代」を画す。「続春夏秋冬」「日本俳句鈔」などに多く句を収め、安斎桜磈子編「師竹句集」がある。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
山田 義三郎(やまだ ぎさぶろう、1861年3月9日(文久元… 山田 義三郎(やまだ ぎさぶろう、1861年3月9日(文久元年1月28日) - 1924年(大正13年)3月21日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 陸奥仙台藩領登米郡、のちの登米町(現登米市)で、商家・山田東十郎の長男として生まれる。1893年(明治26年)11月、家督を相続した。1894年(明治27年)登米郡会議員に当選。1899年(明治32年)から宮城県会議員を4期務めた。ほか、登米町会議員、宮城県参事会員、登米汽船、登米製糸各社長、宮城貯蓄銀行取締役、宮城県繭糸同業組合長などを歴任した。仙北鉄道設立の発起人にも名を連ねた。 1909年(明治42年)宮城県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年10月9日から1911年(明治44年)9月28日まで在任した。
星 松三郎(ほし まつさぶろう、1855年6月11日(安政2… 星 松三郎(ほし まつさぶろう、1855年6月11日(安政2年4月27日)- 1906年(明治39年)4月18日)は、明治期の実業家・政治家。衆議院議員。 宮城県登米郡、のちの佐沼町(迫町を経て現登米市迫町佐沼)で、商人・星松治郎の第七子(二男)として生まれた。村の儒者・中村竹徑に師事し、さらに英学を修めた。1875年(明治8年)から水害救民救恤係、勧業世話役、衛生委員、学校世話役などを務めた。 その後上京して商業を営むが不景気となり、1884年(明治17年)から1886年(明治19年)にかけて全国の民情視察を2回実施して、その報告書を作成して頒布した。1886年10月には欧米の政治経済の視察旅行を行った。
村松 亀一郎(むらまつ かめいちろう、嘉永6年1月5日(18… 村松 亀一郎(むらまつ かめいちろう、嘉永6年1月5日(1853年2月12日) - 昭和3年(1928年)9月22日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→立憲同志会→憲政会→立憲民政党)、弁護士。従兄弟に村松山寿がいる。 陸奥国登米郡西郡村(現在の宮城県登米市)出身。漢学を学び、江戸に出ようとするも、明治維新の混乱で引き返し、仙台で藩医の大槻氏のもとで学んだ。その後、1872年(明治5年)に東京に出て、元田直の法律学舎で学んだ。1876年(明治9年)、代言人の試験に合格し、松本・上田で業務を行った。1878年(明治11年)、大井憲太郎が創設した明法学舎が第一分舎を仙台に置くことになると、その主幹に任命された。
首藤 陸三(すどう りくぞう、嘉永4年3月15日(1851年… 首藤 陸三(すどう りくぞう、嘉永4年3月15日(1851年4月16日) - 大正13年(1924年)5月31日)は、日本の衆議院議員(立憲改進党→進歩党→憲政党→憲政本党→立憲同志会)。 陸奥国登米郡登米町(現在の宮城県登米市)出身。1868年(明治元年)、東京に出て、尺振八の共立学舎で英学を学んだ。1872年(明治5年)、新潟県の英語教授となり、翌年から小倉県育徳学校教授に就任した。1875年(明治8年)、大蔵省翻訳課に出仕し、1877年(明治10年)には東京府書籍館に転じた。翌年より宮城県属になり、学務課長心得と仙台師範学校校長を兼ねた。1880年(明治13年)に官を辞した後は、宮城県会議員に当選し、副議長に選出された。
石川 桜所(いしかわ おうしょ、文政8年(1825年) - … 石川 桜所(いしかわ おうしょ、文政8年(1825年) - 明治15年(1882年)2月20日)は、幕末の蘭方医。幕府奥医師。通称玄貞。実名良信。桜所は号。初名は千葉山庵。 文政8年(1825年)、陸奥国登米郡桜場村(現・宮城県登米市)に生まれる。安政5年(1858年)、大槻俊斎・伊東玄朴らと図り、お玉が池種痘所設立。文久2年(1862年)8月23日、陸奥国仙台藩医より幕府医師に登用され、奥医師となる。同年12月16日、法眼に叙せらる。慶応2年(1866年)12月18日、法印に昇叙、香雲院と号す。蟄居する徳川慶喜に従い水戸に下り、仙台に帰った。明治以降は松本良順に招かれ兵部省軍医寮の次官、陸軍軍医監などを勤めた。
丸山 権太左衛門(まるやま ごんだざえもん(ごんたざえもん)… 丸山 権太左衛門(まるやま ごんだざえもん(ごんたざえもん)、1713年(正徳3年)- 1749年12月23日(寛延2年11月14日))は、仙台藩・陸奥国領出身で七ツ森部屋に所属した大相撲力士。第3代横綱。本名は芳賀 銀太夫(はが ぎんだゆう)。 陸奥国遠田郡中津山村(現・宮城県登米市米山町中津山)出身。元文年間頃に初土俵を踏む。家老衆の家来になって江戸見物に出たが、体が重く歩くのが下手だったため、二足用意した草鞋をすぐ踏み潰しては徹夜で編み直すこととなり、馬に乗せれば足が地に着いてしまうほどだった。やっとの思いで江戸に到着したが、これでは故郷に帰るのもおぼつかないために入門したと伝わる。1737年(元文2年)4月大坂堀江で行われた興行に西大関として出場。