山浅 龍之介(やまあさ りゅうのすけ、2004年4月21日 … 山浅 龍之介(やまあさ りゅうのすけ、2004年4月21日 - )は、秋田県本荘市(現:由利本荘市)出身のプロ野球選手(捕手・育成選手)。右投左打。中日ドラゴンズ所属。 由利本荘市立小友小学校2年時に「小友ジグザグ野球スポーツ少年団」で軟式野球を始めたことがきっかけで、将来のプロ(NPB)入りを志していた。 「小友ジグザグ」はかつて「学童野球の東北大会における常連」と呼ばれるほどの強豪チームであったが、由利本荘市の界隈で少子化が進んでいる影響で、山浅が入団した時点では6年生が対象の大会に3年生を出さざるを得ないほどにまで団員が減っていた。山浅の同期生がチームに1人しかいなかったこともあって、本人は3年時から、東北楽天ゴールデンイーグルス(楽天野球団)が秋田市内で運営している「楽天イーグルスアカデミー ベースボールスクール」の秋田校にも通学。
髙橋 こうた(たかはし こうた、1986年〈昭和61年〉3月… 髙橋 こうた(たかはし こうた、1986年〈昭和61年〉3月28日 - )は日本の写真家。秋田県由利本荘市出身。秋田大学工学資源学部機械工学科卒業。 社会や人と接する中で抱いた疑問をテーマに、個人の記憶や歴史背景のリサーチを通して作品を制作する。手製の写真集を主な表現媒体とし、自ら撮影した写真だけでなく、歴史に埋もれたアーカイブ素材も織り交ぜたビジュアルストーリーを構築している。 2004年4月に秋田大学工学資源学部機械工学科に入学。 2008年4月に大手製造メーカーに就職。会社で働くうちに「社会人とは何か」を考えるようになり、自分自身が「社会の人ではなく会社の人」となっていることに違和感を覚えていく。
五十嵐 俊幸(いがらし としゆき、1984年1月17日 - … 五十嵐 俊幸(いがらし としゆき、1984年1月17日 - )は、日本の元プロボクサー。秋田県由利本荘市出身。帝拳ボクシングジム所属。元WBC世界フライ級王者。 秋田県立西目高等学校でボクシングを始める。2000年2年時とやま国体少年ライトフライ級3位になり、由利本荘市栄光賞を授与され、2001年3年時にインターハイライトフライ級・新世紀・みやぎ国体少年ライトフライ級の2冠を達成。これにより由利本荘市体育協会特別栄光賞を授与される。 高校時代は西目高監督の佐々木学の指導を受けた。また、大場政夫が新人だった頃に帝拳ジムでトレーナーを務めた由利本荘市出身の尾形荘二と知り合い、支援を受けた。 高校卒業後、東京農業大学造園科学科に進学し、2003・2004年全日本選手権ライトフライ級を連覇。
加藤 光教(かとう みつのり、1982年4月15日 - )は… 加藤 光教(かとう みつのり、1982年4月15日 - )は、秋田県出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。プロでは育成選手であった。 秋田経済法科大学附属高等学校(現・ノースアジア大学明桜高等学校)の3年時の2000年にはセンバツに出場(当時のエースは攝津正)。法政大学へ進学し、一年次の秋には一場靖弘に投げ勝つなど活躍。しかし三年次に右肩を痛め、その影響でドラフトにはかからなかった。 しかしプロへの夢をあきらめきれず、中日に打撃投手として入団し、2005年に改めて育成選手として契約を結んだ。 支配下選手登録されることがないまま、2007年10月31日に球団から戦力外通告を受け、引退。 その後、打撃投手や中日のスコアラーを務めた。
今野 隼史(こんの たかし、1981年5月5日 - )は、日… 今野 隼史(こんの たかし、1981年5月5日 - )は、日本のイラストレーター・漫画家。秋田県由利本荘市出身。別ペンネームの辺境紳士(へんきょうしんし)でも活動している。 第二回電撃コミックグランプリにて優秀賞を受賞。富士見書房発行の『七人の武器屋』のイラストや、ゲーム制作サークルアルファナッツのイラストレーター兼グラフィックチーフとして活動している。 この項目は、漫画家・漫画原作者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:漫画/PJ漫画家)。
来生 ひかり(きすぎ ひかり、1980年11月25日 - )… 来生 ひかり(きすぎ ひかり、1980年11月25日 - )は、日本の元AV女優。 2001年に『眩しい笑顔』でセクシア(トライハートコーポレーション)専属女優としてAVデビュー。 2003年に一度引退したが、2004年に『Natural!』(MOODYZ)に出演後、『デジタルモザイクVol.037』で復活した。同年行われたアウトビジョンの大忘年会で、MOODYZ大賞に選ばれた。 ※以下は、18禁サイト この項目は、性風俗関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:性/PJ:性)。
石川 コウ(いしかわ こう、1980年6月7日 - )は、秋… 石川 コウ(いしかわ こう、1980年6月7日 - )は、秋田県本荘市(現:由利本荘市)出身のシンガーソングライター。血液型はB型。敬和学園高等学校時代に曲作りを始め、仙台の専門学校時代に音楽活動を始める。2002年、ビクターエンタテインメント主催で行われたオーディション「東北セレクション2002」に参加。最優秀アーティストに選ばれる。その後、Aja RECORDSより、マキシシングル『家族写真』でインディーズデビュー。 この項目は、歌手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ芸能人)。
クリスタルな 洋介(クリスタルな ようすけ、1980年3月3… クリスタルな 洋介(クリスタルな ようすけ、1980年3月31日 - )は、日本の漫画家兼小説家。「クリスタルな」が名字で「洋介」が名前。本名は佐藤 洋介。血液型はO型。秋田県由利本荘市由利地域(旧由利郡由利町)出身。 この項目は、漫画家・漫画原作者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:漫画/PJ漫画家)。
仁部 智(にべ さとし、1980年1月10日 - )は、秋田… 仁部 智(にべ さとし、1980年1月10日 - )は、秋田県由利本荘市出身の元プロ野球選手(投手)。 小学校より野球を始めるが中学時代までは控え投手兼外野手。当時同市郡内に全県優勝したチームがあり小学校時代には全県大会出場が阻まれたり、チームとしても個人としても殆ど無名の存在。秋田県立本荘高等学校で1年次には外野手でベンチ入りし、2年時よりエース投手として定着。後にプロ入りした石川雅規や藤田太陽、高卒時にニューヨーク・メッツと契約した後松重栄(大曲工業高等学校)とともに県内では注目される存在になった。関西遠征で大阪桐蔭と練習試合をした際に、好きな選手を3人やるから転校させるようにスカウトされた(当時の同校のエースは左腕の谷口悦司)。
佐々木 瞳(ささき・ひとみ、1978年4月27日 - )は、… 佐々木 瞳(ささき・ひとみ、1978年4月27日 - )は、元テレビユー山形 (TUY) のアナウンサー。
岡田 友弘(おかだ ともひろ、1974年 - )は、日本の指… 岡田 友弘(おかだ ともひろ、1974年 - )は、日本の指揮者。 秋田県本荘市(現由利本荘市)出身。秋田県立本荘高等学校卒業後、中央大学文学部文学科ドイツ文学専攻に入学し、在学中は吹奏楽部に在籍。学生時代はコントラバス奏者兼学生指揮者としてを担当。その後、桐朋学園においてバトンテクニックを学び渡欧、イタリアのシエナ・キジアーナ音楽院、ウィーン国立音楽院、バークシャー音楽センターなどヨーロッパ、アメリカ各地の音楽院、音楽祭の教育プログラムを受講。ブザンソン国際指揮者コンクール本選出場。 日本リヒャルト・シュトラウス協会会員。英国レイフ・ヴォーン=ウィリアムズ・ソサエティ会員。 これまでにセントラル愛知交響楽団などをはじめ、各地の主要オーケストラと共演する。
山内 美加(やまうち みか、現姓:藤本(ふじもと)、1969… 山内 美加(やまうち みか、現姓:藤本(ふじもと)、1969年10月7日 - )は、日本の元女子バレーボール選手。 秋田県由利郡大内町(現由利本荘市)出身。秋田県立由利高等学校卒業後、1988年ダイエーバレーボール部に入部。徐々にレギュラーに定着し、1990年代に入ってチームの上昇と共に注目を集め、1995年第1回Vリーグでは、ダイエー悲願の初優勝に大きく貢献した。 1990年代、世界で主流になってきたバックアタックを、日本人で打ちこなせる選手がほとんどいない中、当時の監督アリー・セリンジャーがパワフルなスパイクを打つ彼女の素質と適性を見抜き、計画的なトレーニングを行った結果、最高到達点317cmという当時の日本人女子選手最高の高さを身につけるとともに、バックアタッカーとして開花し日本のエースへ成長した。
西村 春彦(にしむら はるひこ、1969年5月13日 - )… 西村 春彦(にしむら はるひこ、1969年5月13日 - )は、日本の写真家。秋田県由利本荘市出身。日本写真芸術専門学校卒業。 秋田県本荘市(現在の由利本荘市)生まれ。本荘市立鶴舞小学校、本荘市立南中学校卒業後、秋田県立仁賀保高等学校普通科を卒業。1988年(昭和63年)日本大学芸術学部写真学科に受験するが不合格。高校卒業と同時に秋田から東京へと上京。1年間東京にて予備校に通いながら浪人生活を送る。後、日本写真芸術専門学校に入学。写真専門学校時代にカメラ雑誌『CAPA』編集部でアルバイト経験もある。 1991年(平成3年)日本写真芸術専門学校の最優秀賞を受賞し卒業。朝日新聞社出版局(現在の朝日新聞出版)の写真部の委託フリーカメラマンとして3年在籍する。
畠山 啓(はたけやま けい、1967年8月13日 - )は、… 畠山 啓(はたけやま けい、1967年8月13日 - )は、秋田県由利郡由利町(現・由利本荘市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはディフェンダー。 由利町立由利中学校(現・由利本荘市立由利中学校)3年の時にナショナル・トレーニングセンター(トレセン)選抜合宿に招集。中央では無名な存在であったが当時の日本ジュニアユース代表監督、藤田一郎に才能を見出される。運動量の豊富なMFとしてその後も各年代の代表として多くの試合に出場した。 また秋田県立本荘高等学校在学中は日本ユース代表主将として井原正巳、中山雅史、真田雅則らと共にAFCユース選手権1次予選に出場した。 1986年に筑波大学へ進学。
大川 きょう子(おおかわ きょうこ、旧名:中川 恭子、旧姓:… 大川 きょう子(おおかわ きょうこ、旧名:中川 恭子、旧姓:木村、1965年(昭和40年)8月22日 - )は、日本の元宗教家、元政治活動家。元幸福実現党党首(第2代)。東京大学文学部卒業。秋田県出身。 秋田県出身。矢島町立矢島小学校、秋田大学教育学部附属中学校、東京学芸大学附属高等学校卒業。東京大学文学部卒業。大学在学中に幸福の科学へ入信し、卒業前の1987年(昭和62年)より天上界からの啓示を受けたとされ、大川隆法の勉強会に参加し後に隆法と結婚。 大川隆法との間には3男2女を儲け、1989年(平成元年)に長男の大川宏洋を出産。また幸福の科学内では主宰補佐・総裁補佐・アフロディーテ会会長・副総裁・立宗名誉補佐・名誉相談役を歴任するとともに、アフロディーテ・文殊菩薩・ナイチンゲールの生まれ変わりとされていた。
大友 孝徳(おおとも たかのり、1962年7月17日 - )… 大友 孝徳(おおとも たかのり、1962年7月17日 - )は日本の政治家、経営者。由利本荘市議会議員(1期目)。 本名は大友 孝徳(読み同じ、政治家としては本名名義)。秋田県本荘市(現:由利本荘市)出身。18歳で上京し、32歳でアパレル系の企画会社を経営。廃業後の2017年、37年ぶりに帰郷。その後、2018年5月に自己破産し、大友商店の屋号で再スタートを切る。大友商店では、「鳥海山麓ごっつぉ蕎麦」や秋田県の物産を扱うECサイトを開設。 大友商店に加え、「ゆりぷらざ」や「自由食堂」を次々と開業させ、子供たちのために子ども食堂も開業している。 また本荘駅前市場で「昼市」「夜市」「さいかい市」などを開催し、地域の賑わいに努めている。
小松 晃(こまつ あきら、1962年4月3日 - )は、秋田… 小松 晃(こまつ あきら、1962年4月3日 - )は、秋田県由利町(現:由利本荘市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。S級コーチングライセンス保持者。 TDKサッカー部(現:ブラウブリッツ秋田)元監督の小松勉は弟に当たる。 1981年1月、秋田県立西目農業高校(現:秋田県立西目高校)3年時の第59回全国高等学校サッカー選手権大会で、キックオフ直後にセンターサークル付近から相手ゴール目掛けてロングシュートを蹴り込み、50メートル弾を決めた。同月に現役高校生ながら当時の日本代表監督の川渕三郎に招集され、1月30日のポーランド選抜戦でデビュー。国際Bマッチ1試合に出場。JFAによるナショナルトレセン制度を経験した初の代表選手となった。
バリトン伊藤( - いとう、本名:伊藤 浩秋(いとう ひろあ… バリトン伊藤( - いとう、本名:伊藤 浩秋(いとう ひろあき)、1961年8月1日 - )は、秋田県・本荘市(現・由利本荘市)出身のローカルタレント、ラジオパーソナリティ。本名でも活動している。 主に秋田県のテレビ、ラジオ番組への出演やイベントの司会を行い、秋田弁での喋りで人気を得る(本人によると、本職は洋裁業とのこと)。秋田弁を買われて映画「釣りバカ日誌15 ハマちゃんに明日はない!?」にもゲスト出演した。
工藤 幹夫(くどう みきお、1960年9月30日 - 201… 工藤 幹夫(くどう みきお、1960年9月30日 - 2016年5月13日)は、秋田県本荘市(現:由利本荘市)出身のプロ野球選手(投手、内野手)。 本荘市立小友小学校卒。本荘市立本荘南中学校時代には軟式野球で東北大会で優勝。当時のチームメイトには村岡敏英がいる。 秋田県立本荘高等学校では、エースとして1977年秋季東北大会に進むが、1回戦で黒沢尻工業高に敗退。翌1978年夏の甲子園県予選で決勝に進出し能代高と対戦するが、2-3で惜敗し甲子園出場を逸する。甲子園出場経験はなかったものの逸材として注目され、読売ジャイアンツ(巨人)も獲得意欲を示していた。 1978年のプロ野球ドラフト会議で日本ハムファイターズから2位指名を受け入団。
村岡 兼幸(むらおか かねゆき、1957年6月21日 - )… 村岡 兼幸(むらおか かねゆき、1957年6月21日 - )は、日本の実業家。村岡建設工業代表取締役社長。日本青年会議所(JC)の第46代会頭を務めた。父は内閣官房長官を務めた元衆議院議員の村岡兼造、弟は衆議院議員の村岡敏英。 秋田県本荘市(現由利本荘市)生まれ。本荘市立南中学校、秋田県立本荘高等学校、青山学院大学経営学部卒業。 大学卒業後、地域における「まちづくり運動」の青年会議所に15年間かかわり、1990年(平成2年)、社団法人由利本荘青年会議所理事長に就任した。その後、社団法人日本青年会議所の常任理事、専務理事、副会頭を歴任、1997年(平成9年)には日本青年会議所第46代会頭に就任した。
鷲谷 亘(わしや わたる、1956年9月7日 - )は元プロ… 鷲谷 亘(わしや わたる、1956年9月7日 - )は元プロ野球審判員。秋田県由利本荘市出身。審判員袖番号は29(1988年初採用から1996年引退まで、現在は2年目の水落朋大)。
成田 道彦(なりた みちひこ、1956年2月6日 - )は、… 成田 道彦(なりた みちひこ、1956年2月6日 - )は、秋田県北秋田市出身の元陸上競技選手。法政大学陸上競技部監督を経て、2013年4月より同校陸上競技部副部長を務める。 秋田県立西目農業高等学校(現・秋田県立西目高等学校)卒業後、法政大学に入学。当時低迷期にあったチームでエースとして活躍し、箱根駅伝では2年時から3年連続で2区を走った。4年時にあたる1978年の第54回大会では、早稲田大学の瀬古利彦、日本体育大学の中村孝生ら強豪を抑えて区間賞を獲得。母校を17年振りに先頭に立たせ、9年振りのシード権獲得(8位)の原動力となった。特に学生最強ランナーと言われた瀬古を破った男として現在でも名前を見つけることができる。
太田 良治(おおた よしはる、1956年1月18日 - )は… 太田 良治(おおた よしはる、1956年1月18日 - )は、日本の電気技術者、実業家。ユアテック相談役。2021年6月から2025年4月までは同社社長を歴任した。 秋田県由利本荘市出身。1978年明治大学工学部電気工学科卒業、東北電気工事(現ユアテック)入社。入社後は、設備部門や営業部門を長く歩む。2011年執行役員、2014年取締役、2015年常務取締役、2017年代表取締役専務、2018年同副社長を歴任する。2021年6月24日、代表取締役社長に就任。これまでユアテック前身の東北電気工事を含め、親会社の東北電力出身者が社長を務めてきたが、生え抜きが社長に就任するのは初めてである。受注競争が激化する中、社員の士気を高める狙いがあるとみられる。
伊藤 秀志(いとう ひでし、1954年〈昭和29年〉9月11… 伊藤 秀志(いとう ひでし、1954年〈昭和29年〉9月11日 - )は歌手、東海地方を中心に活動しているローカルタレント。 秋田県由利郡大内町(現・由利本荘市)出身。秋田県立本荘高等学校卒業。中京大学中退。 1974年、中京大学文学部心理学科(現 心理学部心理学科)を中退後に、名古屋女子大小路で流しをしている所をCBCラジオのディレクターにスカウトされ、ラジオ番組『土曜天国』の外中継リポーターを務める。当時の芸名は「秋田の蓄音機」。 以後は名古屋を中心に歌手、タレント活動を行う。 2004年4月から2005年4月1日まで、平日夕方帯のテレビ番組『ぱっぱ屋』(メ〜テレ)のMCを務めた。 同じく名古屋を拠点に活動する、つボイノリオを長年に亘って慕っており、兄弟弟子の関係にある。
豊島 近(とよしま ちかし、1954年7月17日 - )は、… 豊島 近(とよしま ちかし、1954年7月17日 - )は、日本の生物学者(構造生物学)。東京大学定量生命科学研究所教授。秋田県由利本荘市出身。 秋田県立秋田高等学校を経て、1978年東京大学理学部物理学科卒業、1983年同大大学院理学系研究科物理学専攻博士課程修了(理学博士)。1984年同助手となり、1986年にスタンフォード大学博士研究員、1988年にMRC分子生物学研究所研究員となる。1990年に帰国し、東京工業大学助教授に就任。 クライオ電子顕微鏡およびX線回折の手法による、筋小胞体カルシウムポンプなどのP型ATPアーゼのイオン能動輸送機構の解明で知られる。
あべ 十全(あべ じゅうぜん、1950年6月15日 - )は… あべ 十全(あべ じゅうぜん、1950年6月15日 - )は、日本のローカルタレント、歌手、政治家。秋田県由利本荘市議会議員(2期)。ボランティアサークル「ビーンズ会」会長。 本名は阿部 十全(読み同じ、政治家としては本名名義)。秋田県本荘市(現:由利本荘市)出身(生まれは旧由利郡東由利町)。1973年、フォークグループ『田吾作』としてデビュー。『田吾作音頭』がヒットした。1987年10月15日から2017年9月18日まで、秋田放送の人気ラジオ番組『歌謡曲ふれあいリクエスト』に出演、親近感のある秋田弁トークが人気を博す。 2017年10月22日に由利本荘市議会議員選挙に当選。2021年10月17日の市議選にも再選。
佐々木 ひでお(ささき ひでお、1949年8月27日 - 、… 佐々木 ひでお(ささき ひでお、1949年8月27日 - 、本名: 佐々木秀雄)は、秋田県由利本荘市出身の詩画家。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
宮塚 利雄(みやつか としお、1947年7月19日 - )は… 宮塚 利雄(みやつか としお、1947年7月19日 - )は、日本の研究者。宮塚コリア研究所代表。元山梨学院大学経営情報学部教授。専攻は朝鮮近・現代経済史。 秋田県由利本荘市出身。北海道立下川商業高等学校を経て、1970年高崎経済大学経済学部経済学科卒業、1976年韓国・慶熙大学校大学院経済学科碩士課程(日本の修士課程に相当)修了、1980年檀国大学校大学院経済学科博士課程単位取得。1992年山梨学院大学、2015年3月同大学定年退職。在職中の2013年7月20日宮塚コリア研究所(神奈川県川崎市)開所。2015年7月19日付設資料室(山梨県甲府市)開室。 北朝鮮問題をめぐって、さまざまな日用品や生活資料を通じての実情を探る論評を行い、特に中朝国境貿易に詳しい。
2代目浅野 梅若(あさの うめわか、1947年(昭和22年)… 2代目浅野 梅若(あさの うめわか、1947年(昭和22年)1月22日 - 、旧芸名および本名・浅野 和子(あさの かずこ))は、日本の民謡歌手。梅若流梅若会の2代目宗家。 秋田県由利郡下郷村(後に、由利郡東由利村、同郡東由利町を経て、現在は由利本荘市東由利下郷)生まれ。 1962年に初代梅若の内弟子入りし、浅野和子を名乗る。1973年より初代梅若の養女となり、芸名が本名となった。2008年に2代目梅若を襲名し、現在は、梅若流梅若会の現宗家。 昭和38年、初代浅野梅若に入門。昭和42年には、第18回民謡民踊全国大会で優勝。 昭和48年、初代梅若の養女となる。 昭和54年には、「浅野和子 秋田を唄う」をリリース。
小島 剛一(こじま ごういち、1946年〈昭和21年〉 - … 小島 剛一(こじま ごういち、1946年〈昭和21年〉 - )は、日本出身の言語学者である。フランス・アルザス地方のストラスブールに在住する。インターネット上では「F爺」とも名乗る。意味は「F国(フランス)に住む日本人の爺さん」。 1970年代から1980年代にかけてトルコ共和国での言語調査を行い、同国が多民族国家・多言語国家であると発表した。その影響でトルコ政府による言論統制を緩和させ、同国の少数民族や少数言語話者の人権状況を改善させたことなどで知られる。 1946年に秋田県本荘町(現在の由利本荘市)で生まれ、小学校入学から高校卒業までは秋田市で育った。大学生時代には東京都に三年半ほど住んだ。
金子 利喜男(かねこ りきお、1942年- )は、日本の法学… 金子 利喜男(かねこ りきお、1942年- )は、日本の法学者。国際法学者。秋田県由利本荘市出身。 早稲田大学政治経済学部卒業。早稲田大学大学院法学研究科博士課程満期取得退学(指導教授:入江啓四郎、宮崎繁樹)。その後、高崎経済大学経済学部非常勤講師を経て、1982年、札幌大学外国語学部ロシア語学科助教授(国際関係論など担当)。1995年、札幌大学外国語学部ロシア語学科教授。2000年、世界市民法廷会長。2007年、NPO法人北海道ロシア文化協会副会長。2009年世界平和連邦府会長。2013年、札幌大学定年退職。札幌大学名誉教授。北東アジア共同体平和機構会長。2015年、第18回統一地方選挙の北海道議会選挙に札幌市豊平区選挙区から無所属で出馬したものの、最下位の3702票で落選した。
加藤 良三(かとう りょうぞう、1941年9月13日 - )… 加藤 良三(かとう りょうぞう、1941年9月13日 - )は、日本の外交官、12代プロ野球コミッショナー、三菱商事特別顧問で2009年6月より社外取締役。埼玉県生まれ、秋田県由利郡由利町(のちの由利本荘市)出身。 成蹊高等学校を経て東京大学法学部第2類(公法コース)を卒業。東大法学部在学中に外務公務員試験に合格し、1965年(昭和40年)に外務省入省。イェール大学で英語研修。 アメリカンスクール(英語研修組)のエースとして早くから嘱望されていた。1995年(平成7年)、北朝鮮外交に対応するため、加藤がアジア局長に、同期でアメリカンスクールの折田正樹が北米局長に任命された。総合外交政策局長、外務審議官(政務担当)などを歴任し、2001年(平成13年)10月に駐米大使に任命される。
土田 正顕(つちだ まさあき、1936年8月18日 - 20… 土田 正顕(つちだ まさあき、1936年8月18日 - 2004年1月30日)は、日本の官僚。元国税庁長官(第25代)。東京証券取引所社長(初代)。秋田県由利郡矢島町(現・由利本荘市矢島町)出身。 学習院初等科、学習院中等科、都立小石川高校を経て、1959年4月、東京大学法学部第1類(私法コース)卒業、大蔵省にトップで入省。大臣官房文書課配属。大蔵省の入省同期には斎藤次郎(大蔵事務次官、日本郵政社長)、公文宏(国土事務次官、内閣内政審議室長)、大須敏生(理財局長)、瀧島義光(関税局長、生命保険協会副会長)、日吉章(防衛事務次官)、米倉明(東大法学部名誉教授)、永谷敬三(ブリティッシュコロンビア大学名誉教授)ら。
小番 宜一(こつがい よしかず、1933年8月10日 - 2… 小番 宜一(こつがい よしかず、1933年8月10日 - 2021年1月24日)は、日本の政治家。秋田県本荘市長(2期)、秋田県議会議員(1期)、本荘市議会議員(3期)、由利本荘市議会議員(1期)。 秋田県由利郡子吉村(のち本荘市、現・由利本荘市)出身。1949年、子吉村立子吉中学校卒。1971年、本荘市議に当選、3期務める。市議会副議長も務めた。 1983年、本荘市長選挙に立候補して、無投票の8選を目指した現職の佐藤憲一をわずか9票差で破って初当選を果たした。 ※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts) 1987年に再選を果たした。1991年には3期目を目指したが、元秋田県職員の柳田弘に敗れた。
村岡 兼造(むらおか かねぞう、1931年〈昭和6年〉8月2… 村岡 兼造(むらおか かねぞう、1931年〈昭和6年〉8月27日 - 2019年〈令和元年〉12月25日)は、日本の政治家。位階は正三位。勲一等旭日大綬章。秋田県本荘市(現・由利本荘市)出身。血液型はB型。 衆議院議員(9期)、郵政大臣(第50代)、運輸大臣(第64代)、内閣官房長官(第62代)、自由民主党国会対策委員長(第34代、第42代)、自由民主党総務会長(第42代)、平成研究会会長代理を歴任した。 秋田県議会議員を経て、1972年の第33回衆議院議員総選挙に立候補し初当選。1976年の総選挙で落選したが3年後の1979年の衆院選で政界復帰を果たす。 宇野内閣で郵政大臣で初入閣、第2次海部改造内閣で運輸大臣を務めた。
植村 伴次郎(うえむら ばんじろう、1929年〈昭和4年〉3… 植村 伴次郎(うえむら ばんじろう、1929年〈昭和4年〉3月30日 - 2019年〈令和元年〉10月15日)は、日本の実業家、東北新社創業者である。 1929年3月に秋田県由利郡東滝沢村(現:由利本荘市)前郷で生まれ、第二次世界大戦の終戦直前まで同地で育つ。戦時中は、群馬県邑楽郡小泉町(現:大泉町)にあった中島飛行機の工場で学徒動員を経験した。1945年3月に旧制本荘中学校を卒業する。 1950年代からは新橋にて「COMO」というバーを経営。黒柳徹子など当時の若手俳優が集ったという。 1961年4月1日、海外番組の日本語吹き替えを制作する東北新社を創業し、以後代表取締役社長として長く経営した。
高橋宏幸(たかはし ひろゆき、1923年-2010年)は、児… 高橋宏幸(たかはし ひろゆき、1923年-2010年)は、児童文学者、挿絵画家。 秋田県由利本荘市東由利老方に生まれる。旧下郷村立老方小学校、旧制秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)卒業。在校中、全国中等柔道大会で準優勝。柔道は講道館五段。旧秋田鉱山学校(現秋田大学工学資源学部)卒業後、入隊。1943年から45年にかけ満州・千島に転戦。1946年小峰書店取締役初代編集長。退任後、日本初の出版プロダクションを設立。1972年「チロヌップのきつね」を機に作家となる。1990年の「オオカミ王ぎん星」で日本児童文芸家協会賞受賞。日本児童文芸家協会理事長、日本児童文芸家協会顧問、産経児童出版文化賞選考委員を務め、実作指導も行った。
國光 鉄太郎(くにひかり てつたろう、1910年1月10日 … 國光 鉄太郎(くにひかり てつたろう、1910年1月10日 - 1985年8月22日)は、楯山部屋、伊勢ヶ濱部屋に所属した元大相撲力士。13代濱風、8代谷川、6代君ヶ濱。本名は奥山 鐵太郎。現在の秋田県由利本荘市出身。171cm、84kg。最高位は東十両2枚目。 現在の由利本荘市の玉ノ池「光風園」で相撲を取っていたが、同郷の清瀬川敬之助(のち5代伊勢ヶ濱)にスカウトされ、その内弟子として、楯山部屋に入門し、1929年3月初土俵を踏んだ。四股名は師匠の8代楯山の元の四股名の国ノ音の国と、光風園の光から。故郷の有力者、須藤善一郎が命名した。1935年1月十両昇進、十両を通算で10場所務め、1941年1月引退し、13代濱風を襲名、主に師匠伊勢ヶ濱の秘書役を務めた。
三船 留吉(みふね とめきち、1909年(明治42年)2月1… 三船 留吉(みふね とめきち、1909年(明治42年)2月10日 - 1983年(昭和58年)1月7日)は、日本の社会運動家、実業家。日本共産党員でありつつ、特別高等警察(特高)のスパイとして活動した。「小林多喜二を売った男」として知られている。 秋田県由利郡川内村(現由利本荘市)生まれ。1928年頃に上京し、旋盤工として働きながら、1930年10月、全国労働組合同盟(全労)亀戸分会に加入、東京・下町の労働運動に参加した。やがて非合法の組合運動に接近する中で、検挙・拘留を繰り返し、1930年頃警視庁特高課毛利基直属のスパイとなった。 1931年6月15日、コミンテルン上海出張所(極東部)組織部長イレール・ヌーランとその妻が上海租界警察に逮捕されるという「上海ヌーラン事件」を誘発した。
山田 順子(やまだ ゆきこ、1901年6月25日 - 196… 山田 順子(やまだ ゆきこ、1901年6月25日 - 1961年8月27日)は、日本の小説家。徳田秋聲、竹久夢二などの愛人として知られる。 本名ユキ。秋田県由利郡本荘町(現由利本荘市)に廻船問屋の長女として生まれる。山田家は明治維新以前は本荘藩に仕える士族だったが、明治期に炭の商いから成功して金貸しなども手がけ、父親の代に廻船業に転じた。気丈で美貌の祖母を慕っていたが、順子が7歳のころにその祖母が投身自殺し、精神的に多大な影響を受ける。 秋田県立秋田高等女学校(現秋田県立秋田北高等学校)を卒業し、1920年に19歳で東京帝国大学出の弁護士増川才吉と結婚して小樽に住む。長女出産後、病で片方の乳房を失う。
大井 直之助(おおい なおのすけ、1895年(明治28年)8… 大井 直之助(おおい なおのすけ、1895年(明治28年)8月3日 - 1973年(昭和48年)11月29日)は、大正から昭和前期の農業指導者、政治家。衆議院議員、秋田県由利郡矢島町(現・由利本荘市)長。 秋田県由利郡矢島町で生まれる。1914年(大正3年)秋田県立秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)を卒業した。 1921年(大正10年)矢島町会議員に選出され4期在任。1934年(昭和9年)から1943年(昭和18年)まで秋田県会議員、矢島町長に在任。その他、本荘税務署所得調査委員、矢島町産業組合長、秋田県農業会由利支部長・理事、同県森林組合連合会理事、帝国在郷軍人会由利郡連合会分会長などを務めた。
光風 貞太郎(てるかぜ さだたろう、1894年10月1日 -… 光風 貞太郎(てるかぜ さだたろう、1894年10月1日 - 1941年11月24日)は、秋田県由利郡子吉村(現在の由利本荘市)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は小番 貞藏。身長178cm、体重94kg。最高位は西小結(1926年1月場所)。得意技は突っ張り、押し、寄り。引退後は年寄待乳山として後進の指導につとめた。四股名の命名者は須藤善一郎。 横綱大砲の待乳山部屋に入門。1914年1月場所に初土俵をふんだ。その後、師匠の死のために出羽海部屋に移籍した。1919年1月に新十両、1922年1月場所に入幕した。突き押し得意であったが、幕内中堅力士として腰を据えていた。1925年が最盛期で、1月場所は8勝2敗、5月場所には大関太刀光を引き落としに破る殊勲の星も含めて7勝3敗1分と連続して勝ち越し、1926年1月場所に小結に昇進した。
丸山 修一郎(まるやま しゅういちろう、1890年(明治23… 丸山 修一郎(まるやま しゅういちろう、1890年(明治23年)3月9日 - 1965年(昭和40年)1月1日)は、明治末から昭和前期の教育者、政治家。衆議院議員、秋田県由利郡亀田町長。 秋田県由利郡亀田町字六呂田(岩城町亀田字六呂田を経て現由利本荘市)で生まれる。1911年(明治44年)秋田県師範学校本科を卒業した。 秋田県公立小学校訓導となる。築山小学校に勤務していた1919年(大正8年)5月、秋田県青年教育者同志会(小原國芳系)を結成し、飯坂兵治の白楊会(手塚岸衛系)と共に秋田県の大正自由教育運動を主導した。1920年(大正9年)4月、秋田県女子師範学校附属小学校長に転任。自由教育運動の実践のため1921年(大正10年)10月、金浦小学校長に左遷された。
猪股 謙二郎(いのまた けんじろう、1889年〈明治22年〉… 猪股 謙二郎(いのまた けんじろう、1889年〈明治22年〉12月9日 - 1975年〈昭和50年〉6月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。初代本荘市(現:由利本荘市)長。 秋田県由利郡石沢村(本荘市を経て現由利本荘市)出身。旧制秋田県立本荘中学校(現在の秋田県立本荘高等学校)を経て、明治大学予科で学ぶ。帰郷後、営農し、石沢村議、同助役、同村長、由利郡会議員などを歴任した。1922年11月、秋田県会議員補欠選挙に由利郡選挙区から立候補して当選した。その後、1923年、1927年にも当選した。1930年2月に県議を辞職した。同年の第17回衆議院議員総選挙において秋田2区(当時)から立憲民政党公認で立候補して初当選。
牧野 昌広(まきの まさひろ、1883年‐1939年)は、明… 牧野 昌広(まきの まさひろ、1883年‐1939年)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 小林清親及び寺崎広業の門人。1883年に本荘県(現・秋田県)本荘市(現・由利本荘市)中横町に、お抱え絵師の牧野雪僊の孫として生まれる。本名は昌造。1897年頃、清親に入門したといわれ、1900年、昌広18歳の時に東京へ上京する。この頃、浮世絵は衰退期にあたり、後に郷里の先輩であった寺崎広業に師事した。昌広は身体が病弱であったため、実力を発揮することができなかった。1939年に東京で没す。
仁部 富之助(にべ とみのすけ、1882年(明治15年)12… 仁部 富之助(にべ とみのすけ、1882年(明治15年)12月15日 - 1947年(昭和22年)1月11日)は、日本の鳥類研究家、農業改良家。「鳥のファーブル」と称された。 秋田県岩城町(現在の由利本荘市の一部)出身。1901年に秋田県農学校を卒業し、大曲の農商務省農事試験場陸羽支場に農業技師として勤めた。ここで、寺尾博とともに新品種のイネ「陸羽132号」を生み出した。 イネの新品種の開発の傍ら鳥類の観察を始め、1915年に「敦公の蕃殖に関する研究」を発表した。1923年の行政整理に際し依願退官し、1925年には農商務省により委嘱を受け、野鳥の生態研究に専念した。1936年に著書「野の鳥の生態」を発表した。
男嶌 舟藏(おとこじま せんぞう、1878年2月18日 - … 男嶌 舟藏(おとこじま せんぞう、1878年2月18日 - 1943年12月1日)は、秋田県由利郡鳥海町(現在の由利本荘市)出身で出羽海部屋(入門時は秀ノ山部屋)に所属した大相撲力士。本名は三船 専造(みふね せんぞう)。得意手は左四つ、吊り、寄り。現役時代の体格は176cm、98kg。最高位は前頭12枚目(1908年1月場所・5月場所)。 元天津風雲右エ門の秀ノ山部屋に入門し、1900年5月場所初土俵。1905年5月場所新十両。十両昇進まで負け越しは1場所だけで「太刀山の再来」と評された。1908年1月場所新入幕。幕内は4場所だけと目立った活躍はなかった。その後は十両と幕下を前後しながら次第に陥落していった。
須藤 善一郎(すどう ぜんいちろう、1863年10月30日〈… 須藤 善一郎(すどう ぜんいちろう、1863年10月30日〈文久3年9月18日〉- 1937年〈昭和12年〉4月10日)は、明治から昭和初期の畜産家、実業家、政治家。衆議院議員、秋田県由利郡本荘町長。幼名・広太郎。雅号・寿堂、松園。生涯、馬産改良に尽力した。 出羽国由利郡本荘中町(秋田県由利郡本荘町、本荘市を経て現由利本荘市中町)で、大地主・須藤善太郎、ナオの長男として生まれた。長安寺の寺子屋、本荘藩藩校を経て、1877年(明治10年)小学校を卒業した。以後、自宅に招いた教師から歴史、漢学、英語を修めた。1879年(明治12年)9月、父が死去して家督を相続し善一郎に改名した。1880年(明治13年)ころに同志を募って夜学講習会を立上げ会長に就任した。
佐藤 敏郎(さとう としろう、1853年3月2日(嘉永6年1… 佐藤 敏郎(さとう としろう、1853年3月2日(嘉永6年1月23日)- 1912年(明治45年)6月19日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。 出羽国由利郡の矢島藩領内(秋田県由利郡矢島町を経て現由利本荘市矢島町)で平治衛門の二男として生まれる。矢島藩校・日新堂で学んだ。1874年(明治7年)上京し、慶應義塾に入る。のち秋田県会議員に当選し、常置委員となり、副議長、議事課長を歴任した。ほか、秋田県文書、地方、財務各課長を歴任した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では秋田県第3区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。在任中は弥生倶楽部に所属した。
中田 直慈(なかた なおしげ、1847年11月22日(弘化4… 中田 直慈(なかた なおしげ、1847年11月22日(弘化4年10月15日) - 1902年2月22日)は、日本の宮内官僚。大正天皇が皇太子時代の東宮主事や、内大臣秘書官、宮内書記官等を歴任した。位階および勲等は正五位・勲四等。 羽後亀田藩士中田曾平、母栗原佐登の長男として、亀田城下徒士町(秋田県由利郡亀田町→岩城町→現在は由利本荘市岩城亀田)に生まれた[要出典]。幼名は長吉。のちに久米蔵と改めた。幼より学を好み、史籍に通暁していた。学問に優れ、長じて藩校長善館の教授となり、後、学監として子弟の教育にあたった。戊辰戦争時は17歳で、藩の斥候として活躍し、槍の名手として名を馳せた。 1870年(明治3年)の数え年25歳時、鳥海弘毅、久野謙次郎らとともに貢士に抜擢され、[要出典]藩命で上京した。