北 竜二(きた りゅうじ、1905年1月1日 - 1972年… 北 竜二(きた りゅうじ、1905年1月1日 - 1972年4月16日)は、日本の俳優、脚本家。本名:山田 東吾 。東京府東京市京橋区出身。 東京市京橋区生まれ。三光尋常小學校卒業。1922年、早稲田大学文学部に入学するも2年で中退。日活封切館・新宿帝都座の次席弁士として無声映画末期の説明界で存在感を示した。弁士時代の名前は山田無声。その後、松竹大船撮影所脚本部に所属したのち、1937年に日活多摩川撮影所に俳優として入社。 1937年の映画『限りなき前進』でデビューするや、注目され始め、助演俳優として活躍 。1942年に統合で大映東京に移籍。1948年にフリーとなって、1950年に松竹大船に所属、重厚な雰囲気から、主に校長や重役、父親役で数多くの映画に出演。
四代目 尾上 菊次郎(よだいめ おのえきくじろう、1904年… 四代目 尾上 菊次郎(よだいめ おのえきくじろう、1904年(明治37年)9月29日 - 1981年(昭和56年)7月24日)は、主に関西歌舞伎で活躍した歌舞伎役者。屋号は音羽屋、定紋は向い菊、替紋は裏菊菱。俳名に幸菊がある。本名は渡辺 良雄(わたなべ よしお)。 二代目坂東彦十郎の次男。東京・築地出身。1910年(明治43年)4月帝国劇場『心中天網島』「紙治」の勘太郎で坂東子鶴を名のって初舞台。1919年(大正8年)6月帝劇『一谷嫩軍記』の熊谷の遠見で四代目坂東竹三郎を襲名する。その後も帝国劇場で活躍するも大正12年から市村座に入り六代目尾上菊五郎に弟子入りして活躍するうち才能を認められ、1924年(大正13年)5月、市村座での『義経千本桜』の小金吾と『娘道成寺』所化で名題昇進。
十六代目 市村羽左衛門(じゅうろくだいめ いちむら うざえも… 十六代目 市村羽左衛門(じゅうろくだいめ いちむら うざえもん、1904年(明治37年)1月15日 - 1952年(昭和27年)10月4日)とは、大正から昭和時代前期にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は橘屋。定紋は根上り橘、替紋は渦巻。俳名に可江(かこう)がある。本名市村 勇(いちむら いさむ)。 京橋区築地に生まれ、のち十五代目市村羽左衛門の養子となる。二代目市村吉五郎は養父を共にする弟にあたる。1910年(明治43年)4月、東京歌舞伎座『鞍馬山祈誓掛額』の牛若丸で四代目市村竹松を襲名し初舞台。以後成駒屋五代目中村福助、片岡千代之助らとともに若手の旗手として将来を嘱望された。1925年(大正14年)1月には七代目(自称・十五代目)市村家橘を襲名。
十三代目 片岡 仁左衛門(かたおか にざえもん、1903年(… 十三代目 片岡 仁左衛門(かたおか にざえもん、1903年(明治36年)12月15日 - 1994年(平成6年)3月26日)は、日本の歌舞伎役者。屋号は松嶋屋、定紋は七ツ割丸に二引。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。本名は片岡 千代之助(かたおか ちよのすけ)。 昭和後期の歌舞伎界を支えた立役の名優。最晩年は完全に盲目だったにもかかわらず、立役として舞台活動を続けた。 子に五代目片岡我當、日本舞踊家花柳寿々、二代目片岡秀太郎、十五代目片岡仁左衛門、新劇女優片岡静香らがいる。 温厚篤実な性格で屈折したところがなく、高貴な役どころがぴたりとはまった。由良助役者としても知られたが、七段目では、豪遊ぶりがいかにも自然で、卑屈な部分を見せることがなかった。
梅村 蓉子(うめむら ようこ、1903年10月21日 - 1… 梅村 蓉子(うめむら ようこ、1903年10月21日 - 1944年3月8日)は、日本の女優である。本名は鈴木 花子(すずき はなこ)。 1903年(明治36年)10月21日、東京府東京市日本橋区日本橋蛎殻町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町)の瀬戸物問屋に「鈴木花子」として生まれる。 旧制小学校に上がる1910年(明治43年)には、東京市本郷区(現在の文京区本郷)の本郷座で新派の初舞台を踏む。有楽座のお伽芝居の舞台にも立つ。 1922年(大正11年)、松竹蒲田撮影所に入社し、翌1923年(大正12年)公開、島津保次郎監督の『散りにし花』で映画界にデビューする。同年9月1日の関東大震災によって同撮影所は稼動を停止し、京都の松竹下加茂撮影所に異動になる。
四代目 河原崎 長十郎(かわらさき ちょうじゅうろう、190… 四代目 河原崎 長十郎(かわらさき ちょうじゅうろう、1902年12月13日 - 1981年9月22日)は、東京の歌舞伎役者。本名、河原崎虎之助(かわらさき とらのすけ)。屋号は山崎屋。定紋は角違いに二つ巴、家紋は河原崎座櫓紋。 劇団前進座(1931年創設)の創設メンバーの一人で、後に幹事長(座頭)となる。“長十郎”とは元来、河原崎座の座元(劇場経営者)の跡継ぎである若太夫の名跡で、九代目市川團十郎(“劇聖”と称された明治の名優)も名乗ったことがある。 「演劇のデパート」の異名をとる前進座にあって、さまざまなジャンルの演劇作品に出演した。歌舞伎では『勧進帳』の弁慶、『鳴神』の鳴神上人、『元禄忠臣蔵・御浜御殿』の徳川綱豊卿、『め組の喧嘩』の四つ車大八などが当たり役であった。
石川 秀道(いしかわ しゅうどう、1902年〈明治35年〉2… 石川 秀道(いしかわ しゅうどう、1902年〈明治35年〉2月17日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。芸名の読みは「いしかわ ひでみち」と表記されることもある。本名は石川 秀道(いしかわ ひでみち)。新派の井上正夫門下を経て映画界に転向、島津保次郎の撮影助手および助監督を経て俳優となり、東亜キネマ甲陽・等持院撮影所の現代劇で主役を張り、トーキー以降は時代劇に転じた。 1902年(明治35年)2月17日、東京市日本橋区久松町(現在の東京都中央区日本橋久松町)の米穀商「三州屋」の三男として生まれる。1909年(明治42年)に家業が思わしくなく養子に出されるが、その後養子先を逃亡、1918年(大正7年)、16歳のときに映画界の道を志して井上正夫門下に入る。
大石 郁雄(おおいし いくお、1901年 - 1944年12… 大石 郁雄(おおいし いくお、1901年 - 1944年12月4日)は、日本の映画監督、アニメーション作家、脚本家である。初期には大石 郁(おおいし いく)とも。 1901年(明治34年)、東京府東京市日本橋区(現・東京都中央区)に生まれる。東京開成中学校 から黒田清輝画塾に通い、同門の横尾泥海男、鈴木重吉と知り合って漫画映画製作に興味を持ち、鈴木の所有していたドイツ製のウエルテルカメラを使って動画の習作をいくつか制作する。 1918年(大正7年)8月、森永製菓が「森永ミルクチヨコレート」発売に際し、宣伝用漫画映画『兎と亀』を製作、習作動画の腕を買われ、16歳の「大石郁」がこの動画を制作。日本初の広告用アニメーションであるが、本作は現存しない。
辻 直四郎(つじ なおしろう、1899年11月18日 - 1… 辻 直四郎(つじ なおしろう、1899年11月18日 - 1979年9月24日)は、日本の古代インド学者・言語学者で、日本におけるインド古典学研究を開拓し、業績は海外の学会でも高く評価された。 ヤジュル・ヴェーダ サーマ・ヴェーダ アタルヴァ・ヴェーダ (アーラニヤカ) (ウパニシャッド)
三代目 市川 左團次(さんだいめ いちかわ さだんじ、189… 三代目 市川 左團次(さんだいめ いちかわ さだんじ、1898年(明治31年)8月26日 - 1969年(昭和44年)10月3日)は、大正から昭和中期の歌舞伎役者。屋号は高島屋、定紋は三升に左、替紋は松皮菱に鬼蔦だが、通常は替紋の方を使用した。俳号に新車。本名は荒川 清(あらかわ きよし)。東京府出身。 初代市川左團次から二代目市川左團次と相伝された男性的な力強い芸風とは大きく異なり、江戸っ子で門弟から芸一筋で出世し門閥の養子として大名跡を襲名した三代目は、様々な役割を器用にこなしながらあくまでも脇に徹する手堅さを持ち、苦労に裏打ちされた存在感のある独特の風があった。戦後歌舞伎を盛りたてた名優の一人である。
東家 楽浦(あずまや らくうら、1898年(明治31年)2月… 東家 楽浦(あずまや らくうら、1898年(明治31年)2月22日 - 1978年(昭和53年)4月4日)は、東京都生まれの浪曲師。本名は野口 金蔵。10年以上途絶えていた浪曲の寄席定席を木馬亭で復活させた貢献者。 東京市日本橋区生まれ。1919年(大正8年)、二代目東家楽遊門下の東家小楽遊に入門。1923年(大正12年)に真打。 情感たっぷりの節回しと、タンカのうまさで(劇場を満杯にするような大看板ではないが)「寄席打ちの名人」の名をほしいままにする。正岡容によれば「東家一門においては東家楽鴈以来の」芸達者で「諧謔」味や「憂愁」味の節回しを自在にこなし、長谷川伸が『芸がうま過ぎるのが処世では却って不利みたいな』と評したという。
川端 茅舎(かわばた ぼうしゃ、1897年〈明治30年〉8月… 川端 茅舎(かわばた ぼうしゃ、1897年〈明治30年〉8月17日 - 1941年〈昭和16年〉7月17日)は、東京都出身の日本の俳人。本名は信一(のぶかず)。別号に遊牧の民・俵屋春光。日本画家の川端龍子は異母兄。 当初は画家を志し岸田劉生に師事したが、病のために断念し俳句に転向、高浜虚子に師事して「ホトトギス」に拠る。画家の眼を生かし写生に徹しつつも格調の高い句を物し、松本たかし、中村草田男などと共に「四S」以降の「ホトトギス」の代表的俳人として活躍した。 東京市日本橋蛎殻町で生まれ、腹違いの兄である龍子とともに育てられる。父信吉は紀州藩の下級武士、母は信吉の弟が経営する病院の看護婦。父は弟の病院で手伝いとして働いていたが、その後煙草の小売商を始める。
風間 直得(かざま なおえ、1897年(明治30年)7月7日… 風間 直得(かざま なおえ、1897年(明治30年)7月7日 - 没年不明)は、日本の俳人。本名は山本 直得。別号に南鳳江。河東碧梧桐門下でルビ俳句の提唱者として知られる。東京都出身。 1897年に東京都日本橋区浜町(現在の中央区日本橋)で生まれる。若くして俳句の道を志し、新傾向俳句を提唱していた河東碧梧桐の元へ投句、1917年(大正6年)に碧梧桐の正式な門人となる。以降は一貫して新傾向俳句と、そこから発展した自由律俳句を詠む。碧梧桐主宰の海紅を経て、海紅の東京同人を中心に1924年(大正13年)東京俳三昧を立ち上げ、直得が代表となる。この前年の1923年(大正12年)、師の碧梧桐も海紅を中塚一碧楼に譲り、新たに『碧』を主宰、1925年(大正14年)に東京俳三昧と碧が合流する形で『三昧』を創刊した。
大辻 司郎(おおつじ しろう、本名:大辻 四郎、1896年(… 大辻 司郎(おおつじ しろう、本名:大辻 四郎、1896年(明治29年)8月5日 - 1952年(昭和27年)4月9日)は、日本の活動弁士、漫談家。 漫談という言葉をつくり、自らを漫談宗家、漫談家元と名乗った文字通り漫談家の草分け。もく星号墜落事故犠牲者のひとりとしても知られる。 東京市日本橋出身。甲洋学舎卒業、父がやっていた「尾張屋」という株屋を経て活動弁士染井三郎や柳思外に師事。浅草帝国館で初舞台。活動写真の弁士を目指し、独学で1916年(大正5年)に外国映画の弁士としてスタート。きっかけはその年の徴兵検査で甲種合格したため、兵役から逃れる為だったという。喜劇専門の弁士として活躍。独特の奇声で喋る『勝手知ったる他人の家』、『胸に一物、手に荷物』、『ハラハラと落つる涙を小脇に抱え』といったフレーズで一躍、人気弁士に躍り出る。
岩岡 とも枝(いわおか ともえ、1896年(明治29年)6月… 岩岡 とも枝(いわおか ともえ、1896年(明治29年)6月15日 - 1933年(昭和8年)11月7日)は、大正末から昭和の初めにかけて活動した挿絵画家、日本画家。雅号に岩岡花僊、岩岡周和。 戸籍上の名前はともゑ。弁護士の父・岩岡伊代治(長野県南安曇郡倭村出身)と母・ふくの間に東京市日本橋区浜町に生まれ育った。日本画を学び、池田輝方の曙会に所属する。弁護士の傍ら衆議院議員を1期務めた父・伊代治が1921年(大正10年)11月に亡くなった後、児童雑誌などに挿絵を描き始めた。『コドモノクニ』、『コドモアサヒ』、『金の星』などの雑誌のほか、楠山正雄、小川未明などの児童書に挿絵を描いた。1933年11月7日、「長らく心臓を悩んでおりましたが遂に病気昂進の為め」現在の東京都済生会中央病院で死去した。
三代目 市川 莚升(いちかわ えんしょう、1894年(明治2… 三代目 市川 莚升(いちかわ えんしょう、1894年(明治27年)9月29日 - 1947年(昭和22年)5月10日)は、明治・大正・昭和時代の歌舞伎役者。屋号は高島屋。本名は高橋 道之助(たかはし みちのすけ)。 東京新富町生まれ。初代市川左團次の次男。長男の二代目市川左團次の異母弟。1898年(明治31年)二代目市川ぼたんとして初舞台をふみ、1915年(大正4年)に三代目市川莚升を襲名した。実兄二代目市川左團次につき、脇役を務め、女形の義兄二代目市川松蔦と共に、二代目左團次の演劇革新運動を援けた。当たり役は「太功記」十段目の十次郎、「吃又」の修理之助など。 近年、書籍、インターネットなどで、二代目市川左團次を初代市川左團次の一人息子とし、三代目市川莚升を初代左團次の養子とする記録が多々散見されるが、高橋家の戸籍原簿に拠れば、これは全くの誤謬である。
岸田 辰彌(きしだ たつや、1892年9月30日 - 194… 岸田 辰彌(きしだ たつや、1892年9月30日 - 1944年10月16日)は、宝塚歌劇団の演出家、オペラ歌手。東京市銀座生まれ。 宝塚歌劇団で日本初のレビュー『モン・パリ』を作った。父親はジャーナリストの岸田吟香、兄は洋画家の岸田劉生。妻は宝塚歌劇のスターだった浦野まつほ。 1892年(明治25年)、明治の先覚者、岸田吟香の五男として東京市銀座に生まれる。すぐ上の兄が「麗子像」で有名な洋画家の岸田劉生。7男5女の兄弟の中で、2人は特に仲が良かったため、交流が深く、劉生作の肖像画が残っている(岸田辰弥之像:1929年(昭和4年)作、劉生が日本で描いた最後の肖像画)。 岸田は、1919年(大正8年)小林一三が国民劇創設のため作った「男子養成会」の創設メンバー・男子専科生第2期生として宝塚入り(同期には後輩演出家の白井鐵造もいた)。
9代目 桂 文治(かつら ぶんじ、1892年9月7日 - 1… 9代目 桂 文治(かつら ぶんじ、1892年9月7日 - 1978年3月8日)は、落語家。本名∶高安 留吉。生前は落語協会所属。定紋∶結三柏。出囃子∶『野崎』。通称「留さん(文治)」。 東京日本橋小伝馬町の生まれ、実家は魚屋。十思小学校を卒業。1904年、錦城中学校入学も1年ほどで退学し、蕎麦屋などの奉公に出るもそこも転々、父の魚屋を手伝いながら天狗連に出るようになる。 1915年に橘家圓三(「品川の馬鹿銀」)の紹介で一門の総帥の4代目橘家圓蔵に入門し、橘家咲蔵を名乗る。1918年12月、7代目翁家さん馬門下に移って翁家さん好と改名する。後に初代立花家橘之助の一座に加わり巡業に出るが、御難にあい東京に帰れなくなり、1921年大阪に流れつき2代目桂三木助門人となり桂三木弥となる。
榎本 芝水(えのもと しすい、1892年〈明治25年〉5月5… 榎本 芝水(えのもと しすい、1892年〈明治25年〉5月5日 - 1978年〈昭和53年〉8月19日)は日本の琵琶奏者。本名榎本 弁之助。 1892年(明治25年)東京市日本橋区檜物町に生まれる。1909年(明治42年)1月に永田錦心の一水会に入り同氏に師事。1936年(昭和11年)5月に独立して芝水流宗家を創立する。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
井野 碩哉(いの ひろや、1891年(明治24年)12月12… 井野 碩哉(いの ひろや、1891年(明治24年)12月12日 - 1980年(昭和55年)5月19日)は、日本の政治家、官僚。農林大臣(第20代)、拓務大臣、弾劾裁判所裁判長(第30代)、衆議院議員(1期)。戦後の公職追放解除後、参議院議員(3期)、法務大臣などを務めた。兄は満州国最高法院長の井野英一。
小川 隆(おがわ たかし、1891年10月21日 - 没年不… 小川 隆(おがわ たかし、1891年10月21日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名小川 義照(おがわ よしてる)、戦後の一時期、老川 健(おいかわ けん)とも名乗った。 1891年(明治24年)10月21日、東京府東京市日本橋区馬喰町(現在の東京都中央区日本橋馬喰町)に生まれる。 獣医学校に進学、同学を卒業したが、琵琶の教師になる。島村抱月による芸術演劇学校に入学、抱月らが1913年(大正2年)に設立した「第一次芸術座」に入団して創立メンバーとなり、同年、帝国劇場で上演された『サロメ』で初舞台を踏んだ。1917年(大正6年)に同劇団を脱退した澤田正二郎らが結成した「新国劇」、中田正造の「新声劇」を経て、自らの名を冠した「小川隆一座」を結成した。
小倉 康臣(おぐら やすおみ、1889年11月29日 - 1… 小倉 康臣(おぐら やすおみ、1889年11月29日 - 1979年1月15日)は、ヤマト運輸創業者。東京都東京市京橋区数寄屋町二丁目(現・中央区銀座、数寄屋橋交差点付近)出身。 銀座の原料紙問屋「川善」の分家を経営していた両親(父・善兵衛、母・もと)の元で生まれ、8人目の三男であったことから八三郎と名付けられた(1930年2月に改名)。1902年3月の泰明小学校高等科2年卒業後は大手町の商工中学校に進学するも、川善の廃業により退学。長姉の嫁ぎ先で薪炭商を営む上田家の「山登屋」に預けられた。 東京外語学校の夜学で英語を学び、工場などで働いたのち、1914年5月25日(当時24歳)に手車による移動販売の「挽き八百屋」として独立し、京橋の大根河岸で野菜を仕入れ、銀座、新橋、芝、赤羽橋で売り歩いた。
三代目 尾上 多賀之丞(さんだいめ おのえ たがのじょう、1… 三代目 尾上 多賀之丞(さんだいめ おのえ たがのじょう、1889年(明治22年)9月21日 - 1978年(昭和53年)6月20日)は、歌舞伎役者。位階は正五位。 戦前戦後にかけて活躍した。本名は樋口 鬼三郎。俳名は梅華。屋号は音羽屋。 東京市日本橋区(現・東京都中央区)出身。叔父は歌舞伎役者四代目淺尾工左衛門。役者としての初舞台は明治25年(1892年)8月、市川鬼三郎の名前で東京赤坂福禄座『恋初緑鈴木主水』。明治32年(1899年)頃、一時、木挽町にいた鏑木清方に入門、日本画を習得している。明治44年(1911年)9月、明治座での『四千両小判梅葉』の子分助六他で五代目市川鬼丸(いちかわ きがん)を襲名し名題昇進を果たす。
奥村 土牛(おくむら とぎゅう、1889年〈明治22年〉2月… 奥村 土牛(おくむら とぎゅう、1889年〈明治22年〉2月18日 - 1990年〈平成2年〉9月25日)は現代日本の代表的な日本画家の一人。本名:奥村 義三(おくむら よしぞう)。号である「土牛」は、出版社を営んでいた父が寒山詩の一節「土牛石田を耕す」から引用してつけられた。院展理事長。芸術院会員。文化勲章受章。梶田半古、小林古径に師事。 刷毛で胡粉などを100回とも200回ともいわれる塗り重ねをし、非常に微妙な色加減に成功した作品が特徴とされる。<富士山図>(または「富士」)が著名で、皇居にも飾られている。 没後に、作品に課せられた巨額の相続税(没時がバブル期だったので高額になった)に悩んだ子息・奥村勝之(四男で写真家)が、比較的価値の低かったスケッチを焼却処分したことを、著書で告白し話題になった。
梅島 昇(うめじま のぼる、1887年5月5日 - 1943… 梅島 昇(うめじま のぼる、1887年5月5日 - 1943年9月24日)は明治から昭和初期に活躍した、新派劇の二枚目俳優。本名、福島 卯三郎(ふくしま うさぶろう)。代表的な当たり役として「婦系図」早瀬主税、「金色夜叉」間貫一、「不如帰」川島武男、「滝の白糸」村越欣弥がある。 1887年、東京市日本橋区本船町に生まれる。慶応義塾普通部3年を経て東京薬学専門学校に入学するも中退。1910年、菊池武成門下で新派俳優となる。翌1911年、川上音二郎に師事し御伽芝居「浮かれ胡弓」で初舞台。同年、川上が死去し、最後の弟子となる。1912年に高田実の門下となる。さらに水野好美一座に移り、梅島昇を名のり二枚目として認められる。
谷崎 潤一郎(たにざき じゅんいちろう、1886年(明治19… 谷崎 潤一郎(たにざき じゅんいちろう、1886年(明治19年)7月24日 - 1965年(昭和40年)7月30日)は、日本の小説家。明治末期から第二次世界大戦後の昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き終生旺盛な執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得た。現在においても近代日本文学を代表する小説家の一人として、評価は非常に高い。
三代目 市川 壽海(いちかわ じゅかい、新字体:寿海、188… 三代目 市川 壽海(いちかわ じゅかい、新字体:寿海、1886年(明治19年)7月12日 - 1971年(昭和46年)4月3日)は、大正から昭和にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は成田屋。定紋は壽海老、替紋は蝙蝠。位階は従四位。勲三等旭日中綬章。本名は太田 照造(おおた しょうぞう)。 「三代目」とはいいながら、この「市川壽海」の名跡を襲名したのはこの太田照造ただ一人なので、かれのことを単に市川壽海(いちかわ じゅかい)と呼ぶことが多かった。 主に関西歌舞伎を中心に舞台を務め、初代中村鴈治郎・中村魁車・三代目中村梅玉らの死後は、三代目阪東壽三郎と並んで「双壽時代」と呼ばれる一時代を築く。 東京府東京市日本橋区日本橋蛎殻町の仕立職・中村力蔵の子として生まれる。
武田 祐吉(たけだ ゆうきち、1886年5月5日 - 195… 武田 祐吉(たけだ ゆうきち、1886年5月5日 - 1958年3月29日)は、大正・昭和期の日本の国文学者(上代文学)。万葉集や古事記の研究で業績がある。元國學院大學教授。日本学士院賞受賞。 1886年(明治19年)、東京市日本橋区(現・東京都中央区)で生まれた。幼少期は大阪で育ち、大阪府第五尋常小学校(現 天王寺中学)に入学。同級生に折口信夫・岩橋小弥太・西田直二郎がいた。1908年(明治41年)國學院大學に入学し、三矢重松に師事した。 1913年(大正2年)に國學院大学を卒業。翌年、小田原中学校教諭となった。1916年(大正5年)に退職し、東京帝国大学において、佐佐木信綱の『校本万葉集』編纂に従事する。
2代目神田 松鯉(かんだ しょうり、1885年(明治18年)… 2代目神田 松鯉(かんだ しょうり、1885年(明治18年)9月8日 - 1967年(昭和42年)4月22日)は、明治時代から昭和時代にかけて活躍した講談師。本名、玉川悦太郎。初代神田松鯉の子。 東京港区芝源助町に生まれた後、京橋五郎兵衛町に転居。1895年、父の門下として高座に上がり、神田悦山を名乗る。1905年から神田小伯山を名乗り、1921年、2代目神田松鯉を襲名。1965年、勲五等双光旭日章受章。 道楽者として有名であり、講談の途中に駄洒落を入れるのが特徴だった。阿部主計は「単調でダラダラと粘った口調のリズムや、抑揚も立体感もない退屈な演技」と評した。6代目三遊亭圓生は「なぜ落語家にならなかったのか」と惜しんだ。
六代目 尾上 菊五郎(おのえ きくごろう、1885年〈明治1… 六代目 尾上 菊五郎(おのえ きくごろう、1885年〈明治18年〉8月26日 - 1949年〈昭和24年〉7月10日)は大正・昭和時代に活躍した歌舞伎役者。屋号は音羽屋。定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四つ輪。俳名に三朝がある。本名は寺島 幸三(てらしま こうぞう)。 初代中村吉右衛門とともに、いわゆる「菊吉時代」の全盛期を築いた。歌舞伎界で単に六代目(ろくだいめ)と言うと、通常はこの六代目尾上菊五郎のことを指す。 五代目尾上菊五郎の長男。母は元柳橋の芸者で権妻の秋田ぎん。実弟に六代目坂東彦三郎、義兄に六代目尾上梅幸がいる。 辞世の句は「まだ足らぬ 踊りおどりて あの世まで」。 立役も女形もこなしたが、殊に九代目市川團十郎に仕込まれたこともあり、『藤娘』の藤の精や『京鹿子娘道成寺』の白拍子花子などの娘役の舞踊を得意としていた。
池田 輝方(いけだ てるかた、1883年(明治16年)1月4… 池田 輝方(いけだ てるかた、1883年(明治16年)1月4日 - 1921年(大正10年)5月6日)は明治、大正期の浮世絵師、日本画家。本名池田正四郎。女性日本画家・池田蕉園の夫。 1883年(明治16年)1月4日、東京府京橋区(現在の東京都中央区)木挽町で建具職人池田吉五郎の次男として誕生。1895年(明治28年)に水野年方に内弟子として入門。1899年(明治32年)から一年余りを岡山で過ごした後帰京、再び年方のもとで学ぶ。1902年(明治35年)に日本絵画協会と日本美術院の共催による第12回絵画共進会で「山王祭」が、同13回展では「婚礼」がともに1等褒状を得、翌1903年(明治36年)の第14回展では「江戸時代の猿若町」が銅賞3席となった。
石井 秀吉(いしい ひでよし、1883年 - 1941年11… 石井 秀吉(いしい ひでよし、1883年 - 1941年11月2日)は、将棋棋士。七段。東京の京橋生まれで深川育ち。川井房郷七段門下。 日本将棋連盟の創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人。 戦前死没者のため、日本将棋連盟ウェブサイト内「物故棋士一覧」に名前の掲載はないが、「棋士データベース」における加藤恵三八段、佐瀬勇次名誉九段の「師匠」欄、および「棋士系統図」においてその名を確認することができる。 明治43年(1910年)28歳の時に入段、大正4年(1915年)までに将棋同盟会(後の将棋同盟社、日本将棋連盟の前身の一つ)に付け出し二段で加入し、同年中に三段、大正7年(1918年)四段、大正11年(1922年)五段、大正14年(1925年)に六段に昇段した。
八代目 市川 團蔵(いちかわ だんぞう、1882年(明治15… 八代目 市川 團蔵(いちかわ だんぞう、1882年(明治15年)5月15日 - 1966年(昭和41年)6月4日)は歌舞伎役者。本名、市川銀蔵。屋号は三河屋。俳名に寿猿、三猿、市紅。東京生まれ。七代目市川團蔵の次男。 実母のはつが早くに家を出て他家に嫁いだため母親を知らずに育つ。父親の七代團蔵は芸の修業に厳しく、息子がうまくできないと冬でも庭の木に縛り付けて頭から水をかけることもあったという。1885年(明治18年)、本名の市川銀蔵の名で初舞台。芸修業のため小学校3年生までで退学する。1896年(明治29年)市川茂々太郎を襲名。主として子供芝居に活躍。1908年(明治41年)歌舞伎座『御存鈴ヶ森』の白井権八で、四代目市川九蔵を襲名。
尾上 幸三郎(おのえ こうさぶろう、1882年1月11日 -… 尾上 幸三郎(おのえ こうさぶろう、1882年1月11日 - 1947年1月4日)は、歌舞伎役者。本名:鈴木 僖重(すずき きじゅう) 1882年(明治15年)1月11日鈴木喜右エ門(江戸時代から有名な日本橋・料亭小倉亭~[江戸時代:本所小梅小倉庵]どちらも震災大火のため焼落)の長男として東京市京橋区中橋和泉町1番地に生まれる(現在の中央区築地2丁目)。六代目尾上菊五郎を師匠とし、尾上家の舞台では番頭もしていた。舞台では玉乗りを得意としていた。 幼い頃から歌舞伎座が身近にあったことから歌舞伎の世界に憧れる。当時銀座にあった料亭三浦(現在「新三浦」とし築地に移転)にて菊五郎と話し合い、菊五郎の元で歌舞伎を演じたい僖重と、番頭を欲しがっていた菊五郎の希望が合致し、菊五郎の初めての付き人になった。
小沢 碧童(おざわ へきどう、1881年(明治14年)11月… 小沢 碧童(おざわ へきどう、1881年(明治14年)11月14日 - 1941年(昭和16年)11月17日)は、日本の俳人。本名は清太郎、のちに西徳。忠兵衛とも。東京都出身。 1881年(明治14年)に日本橋区(現在の中央区)本船町で生まれる。生家は魚問屋を営んでいたが、8歳で祖父の元に養子に出された。祖父は「西徳めぐすり」という目薬を作って生計を立てていた。当初は正岡子規門下の松下紫人から定形俳句を学んでいたが、やがて河東碧梧桐の新傾向俳句に傾倒し、前述の目薬を碧梧桐が買いに来た縁で、碧梧桐の主宰する『海紅』に参加、自由律俳句を詠むようになる。明治37年、上根岸町(現在の台東区根岸)の自宅を骨立舎と命名して俳道場も開いた。
二代目 河原崎 権十郎(かわらざき ごんじゅうろう、1880… 二代目 河原崎 権十郎(かわらざき ごんじゅうろう、1880年(明治13年)8月6日 - 1955年(昭和30年)1月11日)は、歌舞伎役者。本名は長谷 幸太郎。屋号は山崎屋。俳名に紫扇。 東京・日本橋の芝居茶屋の子として生まれる。九代目市川團十郎門人となり、明治18年(1885年)市川薫の名で新富座の『菅原伝授手習鑑・寺子屋』の菅秀才で初舞台。その後十一代目片岡仁左衛門門人となり下阪。明治38年(1905年)大阪弁天座で二代目市川権三郎を襲名する。 大阪での修業ののち帰京、大正8年(1919年)4月歌舞伎座で師匠の九代目團十郎の前名をおそって二代目河原崎権十郎を襲名。浅草の宮戸座、常盤座などの小芝居で活躍、『源平布引滝・実盛物語』の実盛や『神明恵和合取組』(め組の喧嘩)の辰五郎など、十五代目市村羽左衛門の当たり役を好んで演じ、しかも容貌や芸風までもが似ていたので「浅草の羽左衛門」と呼ばれ人気があった。
磯田 長秋(いそだ ちょうしゅう、1880年(明治13年)5… 磯田 長秋(いそだ ちょうしゅう、1880年(明治13年)5月5日 - 1947年(昭和22年)10月25日、本名は磯田 孫三郎)は日本画家。歴史画に長じ、後半生は現在の船橋市に住んで多くの作品を残した。 東京市日本橋区新和泉町(現在の東京都中央区日本橋人形町に生まれ、当時の姓は「内田」。1889年(明治22年)に磯田家へ養子に入った。 若くして日本画(大和絵)を学び、当初は狩野派の芝永章につき、のちに土佐派の流れを汲む小堀鞆音に師事。1898年(明治31年)、鞆音同門の安田靫彦や小山栄達らと紫紅会を結成し、1900年(明治33年)に同会へ松本楓湖門下の今村紫紅が加わったことで紅児会に改称した後も同会に所属し、主に歴史画について研鑽を積んだ。
片山 春帆(かたやま しゅんぱん、1880年(明治13年) … 片山 春帆(かたやま しゅんぱん、1880年(明治13年) - 没年不詳)は、明治時代から大正時代の挿絵画家。 1880年、東京の築地に生まれる。俗称は片山春雄。武内桂舟、大出東皐、河合玉堂に師事した。明治期に『中外商業新報』において挿絵を描いていたといわれ、1897年(明治30年)には春陽堂から出版された村井弦斎の『日出島 曙の巻(上)』の口絵も描いている。また、博文館の社中にその名が見られ、『中学世界』、『文芸倶楽部』、『女学世界』などで専属の挿絵画家として活動した。1910年(明治43年)頃には東京市牛込区新小川町に在住しており、1926年(大正15年)発行の『大正震災画集』第5輯(日本版画社刊)には、春帆の関東大震災のスケッチを基とした木版画2作品も収められている。
河合武雄(かわい たけお、1877年(明治10年)3月13日… 河合武雄(かわい たけお、1877年(明治10年)3月13日 - 1942年(昭和17年)3月21日)は、明治中期から昭和初期にかけて活躍した、新派の女形俳優。大正期には、伊井蓉峰・喜多村緑郎とともに、三頭目と言われた。 本名は河合武次郎。歌舞伎役者三代目大谷馬十の次男として、東京府京橋(現・東京都中央区京橋)に生まれた。 下積み役者の苦労を知る馬十は武次郎が俳優になりたがるのを嫌い奉公に出したが、子は1893年(明治26年)、父に隠れて山口定雄一座の横浜蔦座で初舞台を踏み、四代目沢村源之助のもとで歌舞伎も修めた。容貌と声柄に恵まれ、1897年には山口の相手役に進んだ。 山口座長も元は歌舞伎の女形で、従って河合は、自由民権の壮士芝居とは違う、歌舞伎風の演技をした。
小澤 一蛙(おざわ いちあ、1876年 - 1960年)は、… 小澤 一蛙(おざわ いちあ、1876年 - 1960年)は、日本の収集家。 本名は小澤幸太郎。一蛙と号した。愛称は蛙の大将。1876年に東京市日本橋に生まれる。東京の吉祥寺に在住した。1908年11月4日に芝高輪の三田平凡寺宅において行われた平凡寺建立落成式及び開山式に参加する。内閣印刷局証券一室に勤務し、印刻を業としていた。1915年、自ら蛙に関する資料を板に刻んで『蛙寶』という雑誌を発刊している。1919年6月6日に開催された我楽他宗第一回宗会にも参加、第三十三番 天禄山蛙宝寺と称して主に蛙に関するものを収集しており、宗における重鎮として、また、末寺筆頭として常に平凡寺の片腕的な存在として活躍していたが、1926年5月末には脱宗している。
大倉 和親(おおくら かずちか、1875年(明治8年)12月… 大倉 和親(おおくら かずちか、1875年(明治8年)12月11日 - 1955年(昭和30年)7月1日)は、明治期の実業家。日本陶器(現・ノリタケ)初代社長。東洋陶器(現・TOTO)社長、日本碍子社長、伊奈製陶(後のINAX、現・LIXIL)社長、大倉陶園主のほか、森村組取締役などを務めた。 大倉孫兵衛の長男として東京日本橋に生まれ、1921年に家督を相続する。慶應義塾幼稚舎から進んで、1894年(明治27年)慶應義塾正則本科を卒業し、森村組入社。明治28年渡米しイーストマン商業学校で学んだ後、森村組ニューヨーク店森村ブラザースに入る。欧米滞在9年を経て帰国し、明治37年日本陶器合名会社設立し、代表社員に就任。
伊井 蓉峰(いい ようほう、本名・伊井 申三郎、明治4年8月… 伊井 蓉峰(いい ようほう、本名・伊井 申三郎、明治4年8月16日(1871年9月30日) - 昭和7年(1932年)8月15日)は、発足間もない新派劇で活躍した俳優。 東京日本橋呉服町(現・中央区)に写真家の北庭筑波の息子として生れる。実家は呉服町の油問屋で、父の北庭は浅草花屋敷で写真館を開いていた。祖父は浄瑠璃宮薗節の2代目宮薗千寿ともいわれる。医学予備校独逸協会などに学び、父の没後は神戸の三井銀行に勤務した。 当時、川上音二郎の「書生芝居」が人気を得ていることに興味を持ち、明治24年(1891年)、「川上一座」に俳優として参加した。間もなく、傲慢だった川上と袂を分かち、芸術的写実的な演劇を目指し、11月、依田学海の援助で浅草の吾妻座を本拠に男女合同改良演劇「済美館」を興した。
川上 貞奴(かわかみ さだやっこ、戸籍名 川上 貞(旧姓:小… 川上 貞奴(かわかみ さだやっこ、戸籍名 川上 貞(旧姓:小山)、明治4年7月18日(西暦1871年9月2日) - 昭和21年(1946年)12月7日)は、戦前の日本の女優。 東京・日本橋の両替商・越後屋の12番目の子供として誕生。生家の没落により、7歳の時に芳町の芸妓置屋「濱田屋」の女将、可免吉の養女となる。伝統ある「奴」名をもらい「貞奴」を襲名。芸妓としてお座敷にあがる。日舞の技芸に秀で、才色兼備の誉れが高かった貞奴は時の総理伊藤博文や西園寺公望など名立たる元勲から贔屓にされ、名実共に日本一の芸妓となった。 1894年、自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた川上音二郎と結婚した。しかし当初は苦労も多く、音二郎の2度もの衆議院選挙落選により資金難に陥る。
淡島 寒月(あわしま かんげつ、本名: 淡島 寶受郎()、安… 淡島 寒月(あわしま かんげつ、本名: 淡島 寶受郎()、安政6年10月23日(1859年11月17日) - 1926年(大正15年)2月23日)は、明治時代の日本の作家、画家、古物収集家。父親は画家の淡島椿岳。長女は教育者・政治家の木内キヤウ(公立小学校校長となり第1回参議院議員選挙で参議院議員ともなった)。幕末の大富豪の伊藤八兵衛は伯父、その娘で渋沢栄一の後妻になった兼子は従姉にあたる。 広範な知識を持った趣味人であり、元禄の作家井原西鶴を再評価し、幸田露伴や尾崎紅葉などとともに文壇に紹介したエピソードで有名である。 収集家としても有名であり、住居の梵雲庵には3000あまりの玩具と江戸文化の貴重な資料があったが、関東大震災の際に全て焼失した。
尾形 月耕(おがた げっこう、OGATA Gekko、安政6… 尾形 月耕(おがた げっこう、OGATA Gekko、安政6年9月15日〈1859年10月10日〉 - 大正9年〈1920年〉10月1日)は、日本の明治から大正期の浮世絵師、日本画家。 安政6年9月15日(1859年10月10日)、名鏡清次郎の子として江戸京橋弥左衛門町(現在の銀座4丁目3番地)に生まれる。本名・正之助。別号・桜斎、名鏡斎、華暁楼。名鏡家は葛飾の地主で、祖父長兵衛は大名家や江戸屋敷、豪商に人材を斡旋する口入屋と、塵芥蒐集の利権を握り、「江戸の三長兵衛」のひとりと謳われるほど羽振りが良かった。しかし、明治9年(1876年)数え17歳で父を病で失うと、利権も他家に移り家は没落、京橋弓町に移り住む。
菊池 大麓(きくち だいろく、1855年3月17日〈安政2年… 菊池 大麓(きくち だいろく、1855年3月17日〈安政2年1月29日〉- 1917年〈大正6年〉8月19日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の数学者、教育行政官。男爵、理学博士。 東京帝国大学(東京大学の前身)理科大学長・総長、文部次官・大臣、学習院長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、帝国学士院院長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。 蘭学者の箕作秋坪とつね夫妻の次男として江戸天神下(現:新宿区喜久井町)の津山藩の下屋敷に生まれ、父の実家・菊池家の養嗣子となった。秋坪は蘭学者箕作阮甫の弟子で、つねはその阮甫の三女である。 蕃書調所(東京大学の前身)で英語を学び、1867年(慶応3年)に幕府派遣で、1870年(明治3年)に新政府派遣で、2度に渡り英国に留学した。
小川 松民(おがわ しょうみん、1847年6月8日(弘化4年… 小川 松民(おがわ しょうみん、1847年6月8日(弘化4年4月25日)- 1891年(明治24年)5月29日)は、明治時代の漆芸家。本名は繁次郎。 江戸の日本橋に金具師であった小川忠蔵の子として生まれる。1862年(文久2年)に中山胡民の門人となり蒔絵を学んだ。後に池田孤村の門人となり、尾形光琳の画風を学ぶ。この経験を活かし、古作の蒔絵を模造した漆器の制作にあたった。 明治維新後の1870年(明治3年)に独立して、浅草馬道町に転じる。1876年(明治9年)に開催されたフィラデルフィア万博に出品し視察するために渡米した。帰国後は再度蒔絵を使用した漆器の制作にあたり、1877年(明治10年)に開催された第1回内国勧業博覧会には松民の作品が出品された。
桂川 甫策(かつらがわ ほさく、天保3年(1832年) - … 桂川 甫策(かつらがわ ほさく、天保3年(1832年) - 明治23年(1890年)10月19日)は、幕末から明治の洋学者・医師・化学者。 桂川甫賢の次男で、蘭学の家として知られる桂川家の8代目。幼名辰次郎(達次郎)後に甫策。本姓は中原、諱は国幹(くにもと)。字は和春。号は淳斎。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
仮名垣 魯文(かながき ろぶん、1829年2月9日(文政12… 仮名垣 魯文(かながき ろぶん、1829年2月9日(文政12年1月6日) - 1894年(明治27年)11月8日)は、江戸末期から明治初頭にかけての戯作者、新聞記者。江戸の京橋生まれ。本名は野崎文蔵、字は能連、幼名兼吉、また庫七、後に文蔵と改めた。別号に鈍亭、金屯道人、猫々道人、和堂開珍、英魯文、戯作書太郎、野狐庵。俳号は香雨亭応一、狂名は斜月窗諸兄。 京橋の鑓屋町に生まれる。魚屋を営む父野崎佐吉は、星窓梶葉という号を持ち俳句や狂歌を好み、文蔵も戯文や小説を好んで育った。大きな商家の丁稚となったが、人相見に小説家になれば出世すると言われ、18の年に花笠魯介文京の弟子となる。1849年(嘉永2年)19歳の時に名弘めの摺物「名聞面赤本(なをきいておもてあかほん)」を書き、それに先輩の文人や芝居作家に賛助の俳句や短歌を書いてもらったが、最後に当時82歳の滝沢馬琴に頼んで「味噌揚げて作り上手になりたくば世によく熟れし甘口ぞよし」という狂歌を贈られた。
河竹 黙阿弥(かわたけ もくあみ、旧字体:默阿彌、1816年… 河竹 黙阿弥(かわたけ もくあみ、旧字体:默阿彌、1816年3月1日(文化13年2月3日)- 1893年(明治26年)1月22日)は、江戸時代幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者。本名は吉村 芳三郎(よしむら よしさぶろう)。俳名に其水(きすい)。別名に古河 黙阿弥(ふるかわ-)。江戸日本橋生まれ。 江戸・日本橋の裕福な商家吉村勘兵衛の二男に生まれたが、若い頃から読本、芝居の台本、川柳や狂歌の創作にふけるようになり、14歳で道楽が過ぎて親から勘当された。貸本屋の手代となって生計をたてるようになるが、仕事はそっちのけで朝から晩まで読書三昧の日々を送る。これが将来の糧となる。 やがて「芳芳」の雅号で狂歌や俳句、舞踊などで頭角をあらわすようになると、天保6年(1835年)にはとうとう仕事を辞めて、芝宇田川町の踊りの師匠お紋(歌舞伎役者二代目澤村四郎五郎の娘)の紹介で、五代目鶴屋南北の門下となり、勝 諺蔵(かつ げんぞう)と名を改める。