岡谷 康治(おかや やすはる、1915年9月9日 - 199… 岡谷 康治(おかや やすはる、1915年9月9日 - 1996年3月21日)は、日本の実業家。岡谷鋼機創業家十二代目当主で、同社代表取締役社長や、中部経済同友会代表幹事、名古屋商工会議所副会頭等を務めた。 愛知県名古屋市出身。愛知県第一中学校(現愛知県立旭丘高等学校)を経て、1937年名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業。1941年に東京商科大学(現一橋大学)卒業後、鉄鋼統制会に入る。 1945年鉄鋼統制会を退職し、岡谷鋼機取締役に就任。1948年常務。1958年社長。1982年からはキタン会会長も務め、1990年から岡谷鋼機会長となった。 中部経済同友会代表幹事、名古屋商工会議所副会頭、愛知県日韓協会副会長などを歴任し、大隈鐵工所取締役、中部日本放送取締役、旭精機工業監査役、愛知時計電機監査役、名古屋鉄道監査役、東邦瓦斯監査役を兼務した。
豊田 英二(とよだ えいじ、1913年(大正2年)9月12日… 豊田 英二(とよだ えいじ、1913年(大正2年)9月12日 - 2013年(平成25年)9月17日)は、日本の実業家。位階は正三位。勲等は勲一等。豊田佐吉の甥。 トヨタ自動車工業株式会社社長(第5代)、トヨタ自動車株式会社会長(初代)、同社名誉会長(初代)、同社最高顧問(初代)、社団法人日本自動車工業会会長(第2代)、財団法人トヨタ財団理事長(初代)、学校法人トヨタ学園理事長(初代)、学校法人トヨタ東京整備学園理事長(初代)、助成財団資料センター(現公益財団法人助成財団センター)理事長(初代)などを歴任した。石田退三と共に「トヨタ中興の祖」と呼ばれている。 愛知県西春日井郡金城村(現・名古屋市西区堀端町)に豊田平吉の二男として生まれた。
家永 三郎(いえなが さぶろう、1913年9月3日 - 20… 家永 三郎(いえなが さぶろう、1913年9月3日 - 2002年11月29日)は、日本の歴史学者。専門は思想史(日本思想)。学位は文学博士(東京大学)。東京教育大学名誉教授。甥に歴史学者の家永遵嗣がいる。 国民精神文化研究所の機関誌『国民精神文化』第九巻第二号によると、1月11日から3月20日までの課程修了者29人の1人。クラスの科目は、「皇国の道」(紀平正美)、「皇国哲理」(佐藤通次)、「国体と政治」(大串兎代夫)、「大東亜教育論」(伏見猛弥)など。なお、文部省発令事項の東京教育大学が作成した正規の年譜からは削除している。国民精神文化研究所の歴史部門責任者の東京高師の長老松本彦次郎に知られ、東京高師へ栄転。
黒田 孝郎(くろだ たかお、1913年8月8日 - 1991… 黒田 孝郎(くろだ たかお、1913年8月8日 - 1991年12月7日)は、日本の数学者・数学教育者。 愛知県名古屋市出身。1937年大阪帝国大学理学部卒。東京物理学校教授として上京後、電波科学専門学校(後の東海科学専門学校)の設立に尽力した。1951年に遠山啓らと数学教育協議会を立ち上げた。1953年から北海道大学教育学部助教授、教授を歴任した。1970年に専修大学経営学部教授となった.1984年定年。第7代日本科学史学会会長であった。
渡辺 淳(わたなべ じゅん、1913年7月13日 - 199… 渡辺 淳(わたなべ じゅん、1913年7月13日 - 1995年4月2日)は、日本の経営者、銀行家。日本債券信用銀行頭取を務めた。愛知県名古屋市出身。 1936年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本興業銀行に入行した。中央信託銀行常務、日本興業銀行常務、日本冶金工業会会長などを経て、1974年に日本債券信用銀行頭取に就任。1979年に顧問に就任。 1978年に藍綬褒章を受章。 1995年4月2日脳梗塞のために死去。81歳没。
水谷 豊(みずたに ゆたか、1913年(大正2年)6月8日 … 水谷 豊(みずたに ゆたか、1913年(大正2年)6月8日 - 1991年(平成3年)11月25日)は、日本の眼科医。日本で初めてコンタクトレンズを作り、臨床応用を実施。後にコンタクトレンズメーカー「日本コンタクトレンズ(ニチコン)」を創業。コンタクトレンズの発展に貢献し、「日本のコンタクトレンズの父」と呼ばれる。1975年日本医師会最高優功賞受賞、1987年勲五等双光旭日章受章。日本コンタクトレンズ学会名誉会員(1986年~1991年)。愛知県名古屋市出身。孫は水谷 武史(みずたに たけし)で、名古屋市天白区で「みずたに眼科」を開業中。 水谷は、1913年名古屋市熱田区で眼科医院を営む加藤家に生まれたが、三男の末っ子で、後に水谷家の養子となり、水谷姓となった。
舟橋 正夫(ふなばし まさお、1913年 <大正2年> 5月… 舟橋 正夫(ふなばし まさお、1913年 <大正2年> 5月5日 - 1996年 <平成8年> 8月16日)は、日本の経営者。古河電気工業社長を務めた。位階は正四位。 愛知県名古屋市出身。1932年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に古河電気工業に入社。1964年11月に取締役に就任し、1968年7月に常務、1971年12月に専務を経て、1973年6月に副社長に就任し、1974年11月には社長に昇格。1983年6月に会長を経て、1989年6月から取締役相談役を務めた。 1980年4月に藍綬褒章を受章し、1985年11月に勲二等旭日重光章を受章した。 1996年8月16日食道がんのために死去。
木村 定三(きむら ていぞう、1913年〈大正2年〉3月1日… 木村 定三(きむら ていぞう、1913年〈大正2年〉3月1日 - 2003年〈平成14年〉1月21日)は、愛知県名古屋市出身の実業家・美術品収集家。 特に熊谷守一の収集家として知られていた。晩年や没後にはコレクションが愛知県美術館に寄贈されており、愛知県美術館は3309点の木村定三コレクションを有している。 1913年(大正2年)3月1日、木村定治郎ととくの三男として、愛知県名古屋市に生まれた。定治郎は名古屋市中区で肥料米穀仲買を商い、名古屋市内に多数の土地や家屋を所有する大地主でもあった。定治郎は大正初期に米穀肥料商を廃業し、土地や家屋の管理に専念していた。 1929年(昭和4年)に旧制愛知県熱田中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)を卒業し、第八高等学校(現・名古屋大学)文科甲類に入学した。
内田 義彦(うちだ よしひこ、1913年2月25日 - 19… 内田 義彦(うちだ よしひこ、1913年2月25日 - 1989年3月18日)は、日本の経済学者である。 愛知県名古屋市生まれ。専攻は経済学史、社会思想史。アダム・スミス、カール・マルクスと、近代日本思想史の研究で知られる。著書『社会認識の歩み』で、歴史認識と現代認識の関係、理念とハウ・トゥの関係、本の読み方について、を論じて、日本における社会科学の進展も交え考察している。 1954年8月16日に学位論文『経済学の生誕』で、専修大学から経済学博士の学位を受ける。
早瀬 鎮雄(はやせ しずお、1912年12月28日 - 19… 早瀬 鎮雄(はやせ しずお、1912年12月28日 - 1975年2月26日)は、日本の経営者。日興証券社長を務めた。愛知県名古屋市出身。 1933年に長崎高等商業学校を卒業し、同年に日興証券に入社した。 1958年11月に取締役に就任し、1961年11月に常務、1964年10月に専務、1968年8月に副社長を経て、1973年12月に社長に就任。 1975年2月26日脳出血のために在任中に死去。62歳没。
蟹江 松雄(かにえ まつお、1912年5月12日 - 200… 蟹江 松雄(かにえ まつお、1912年5月12日 - 2001年2月14日)は、日本の農学者、農芸化学者。鹿児島大学第5代学長・名誉教授。農学博士。専門は発酵学(醸造学)、農産製造学。特に鹿児島の焼酎について長年研究した。 愛知県名古屋市出身。1930年、旧制愛知県立熱田中学校(愛知県立瑞陵高等学校の前身)卒業。1933年、旧制第八高等学校(名古屋大学教養部の前身)理科乙類卒業。1940年に京都帝国大学農学部(現京都大学農学部)農林化学科を卒業し、同年4月から京都帝国大学副手。1941年4月、黒田製薬株式会社に入社。 1946年6月、旧制鹿児島農林専門学校教授に就任。鹿児島赴任以来、焼酎に関心を抱き、研究の一つの柱とする。
都留 重人(つる しげと、1912年〈明治45年〉3月6日 … 都留 重人(つる しげと、1912年〈明治45年〉3月6日 - 2006年〈平成18年〉2月5日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。公害の政治経済学を提唱し、雑誌『公害研究』(現『環境と公害』)創刊。 初代一橋大学経済研究所長、第6代一橋大学学長、ハーバード大学客員教授、イェール大学客員教授、国際経済学連合会長(日本人初)を歴任、日本学士院会員に選出された。日本人として2人目のハーバード大学名誉学位保持者。国民経済計算における三面等価の原則の考案・命名などをおこなった。 大分県生まれ、名古屋市育ち。小学校第5学年修了、旧制愛知県熱田中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)第4学年修了を経て第八高等学校(現・名古屋大学)に入学したが、日本の中国侵入に反対して欠席届を出さずにストライキを起こしたため(反帝同盟事件)、宮崎辰雄(元神戸市長)、田中文雄(元王子製紙社長)、河本敏夫(元通産大臣)らとともに除籍される。
飯田 忠雄(いいだ ただお、1912年1月28日 - 201… 飯田 忠雄(いいだ ただお、1912年1月28日 - 2012年1月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期、公明党)、参議院議員(1期)、神戸学院大学教授。俳人。 愛知県名古屋市出身。1939年京都帝国大学法学部卒。同年満洲に渡り、総務庁協和会に勤める。1946年帰国し、翌年運輸省に入る。内閣調査室に出向、海上保安庁に戻ってからは、海上保安大学校の首席教授を最後に1969年に退職し神戸学院大学教授に就任した。 1974年の兵庫県知事選に公明党推薦で立候補するが落選、1976年の総選挙において兵庫3区から公明党公認で立候補して当選し2期務める。この間1977年4月18日の衆院法務委でロッキード事件の灰色高官を擁護する質問をした。
酒井 得元(さかい とくげん、1912年1月14日 - 19… 酒井 得元(さかい とくげん、1912年1月14日 - 1996年11月22日)は、日本の仏教学者。駒澤大学名誉教授。学位は、文学博士。 愛知県名古屋市生まれ。1935年、駒澤大学仏教学科卒業。1936年、京都紫竹林学堂に入り京都大学文学部哲学科専科に3年間在学。1939年春、大本山總持寺に安居。後堂であった沢木興道老師に遭う。同年秋、大本山永平寺に安居。1941年、沢木老師の天暁禅苑(栃木県・大中寺。1944年10月解散)に入り、以後沢木老師に師事。1949年より駒澤大学に奉職。1957年、金沢市・大乗寺に宗立僧堂が開かれ、沢木老師と共に雲水を指導(1962年閉単)。 1969年『禅の実相』で文学博士(昭和44年2月26日)。
手塚 豊(てづか ゆたか、1911年〈明治44年〉11月8日… 手塚 豊(てづか ゆたか、1911年〈明治44年〉11月8日 - 1990年〈平成2年〉4月14日)は、日本の法制史学者。慶應義塾大学名誉教授。 愛知県名古屋市出身。1935年慶應義塾大学法学部卒業。1958年「明治初期刑法史の研究」で、法学博士(慶應義塾大学)の学位を取得。慶應義塾大学法学部助教授、教授、1977年定年退任、名誉教授。
小山 千鶴子(こやま ちづこ、1911年5月 - 2010年… 小山 千鶴子(こやま ちづこ、1911年5月 - 2010年3月29日)は日本の著作家、編集者。元名古屋市教育委員会委員長。 元衆議院議長で、中日新聞の前身の1紙に当たる名古屋新聞を経営した小山松寿の長女。夫は元中日新聞社社主の小山龍三。 1911年(明治44年)、名古屋市で出生。父の松寿は長野県佐久郡小諸町(現在の小諸市)出身で、実業家の山田才吉から譲り受けた中京新報を『名古屋新聞』に改題して発行元の名古屋新聞社を経営する傍ら、名古屋市会議員として政界に進出していた。1915年(大正4年)、父が第12回衆議院議員総選挙で初当選する。 東京府立第三高等女学校(都立駒場高校の前身の1校)を卒業後、父と同郷で名古屋新聞に入社した平井出龍三と結婚し、龍三は松寿の養嗣子となった。
山﨑 一雄(やまさき かずお、1911年3月15日 - 20… 山﨑 一雄(やまさき かずお、1911年3月15日 - 2010年4月10日)は、日本の化学者。専攻は無機化学。日本学士院会員。 名古屋市出身。東京帝国大学理学部卒業。大学卒業後は東京帝国大学の恩師である柴田雄次の研究室助手として無機化学の研究を行う。 柴田研究室在籍時代に法隆寺(奈良県)の昭和の大改修に伴う壁画保存調査会の調査員に入ったことをきっかけとして、古文化財の科学的調査研究の分野に進むようになる。 1941年に名古屋帝国大学教官となる。それとほぼ同時に柴田雄次が名古屋帝国大学理学部長として赴任して来たため、柴田と共に名古屋帝国大学(のち名古屋大学)理学部の礎を築く。 化学者としての山崎は、無機化学、錯体化学の分野から古文化財についての調査研究を進め、紫外線や赤外線、或いはX線を用いた解析法、ベータ線後方散乱法など化学的手法で正倉院宝物、醍醐寺の五重塔壁画、高松塚古墳壁画といった古来の遺跡、文化財についての研究に参画している。
柴山 幸雄(しばやま ゆきお、1911年1月1日 - 198… 柴山 幸雄(しばやま ゆきお、1911年1月1日 - 1988年4月11日)は、日本の経営者。住友商事社長、会長を務めた。愛知県名古屋市出身。 1934年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に住友合資会社に入社した。1946年に住友商事に転じ、1951年に総務部長に就任し、常務、専務などを歴任し、1969年に副社長に就任し、1973年には社長に昇格した。1977年に会長に就任し、1983年から会長を務めた。 1971年に藍綬褒章を受章し、1981年に勲二等旭日重光章を受章した。 1988年4月11日腎不全のために死去。77歳没。
水谷 則一(みずたに のりかず、1910年9月1日 - 19… 水谷 則一(みずたに のりかず、1910年9月1日 - 1984年8月29日)は、愛知県名古屋市出身のプロ野球選手(外野手)、野球指導者(プロ野球監督)。
浅野 清(あさの きよし、1910年6月1日 - 1989年… 浅野 清(あさの きよし、1910年6月1日 - 1989年3月24日)は、日本の古生物学者。愛知県名古屋市出身。 名古屋市内において、11人兄弟の末っ子として生を受ける。第八高等学校(名古屋大学教養部の前身)を卒業後、東北帝国大学理学部、東北帝国大学大学院に進んだ。大学院において、小型有孔虫に関する研究に精力的に取り組む。 1938年(昭和13年)、南洋庁熱帯研究所嘱託となり、当時日本の委任統治下にあったパラオに赴いた。翌年技師となりサンゴ礁の研究を開始したものの、その年の秋には太平洋石油株式会社に移ることとなった。同社ではメキシコの石油資源調査に携わる。1941年(昭和16年)夏には仙台に戻り、東北帝大において副手の職を得た。
古川 久(ふるかわ ひさし、1909年(明治42年)2月2日… 古川 久(ふるかわ ひさし、1909年(明治42年)2月2日 - 1994年(平成6年)8月15日)は、日本の国文学者。東京女子大学名誉教授。 愛知県名古屋市生まれ。東北帝国大学国文科卒、松本高等学校教授、宇都宮大学助教授、東京女子大学教授、68年定年退任、名誉教授、東京農業大学教授、武蔵野女子大学教授。52-81年法政大学能楽研究所兼任所員。能楽・狂言を主として研究。ほか、師の小宮豊隆を助けて戦後の岩波書店『漱石全集』の編纂に携わり、漱石研究も行った。墓所は多磨霊園
長谷川 鉱平(長谷川鑛平、はせがわ こうへい、1908年12… 長谷川 鉱平(長谷川鑛平、はせがわ こうへい、1908年12月20日 - 1995年7月16日)は、日本の編集者、文筆家。 岐阜県出身、名古屋市生まれ。1924年、私立目白中学校3年編入学、埴谷雄高が同期。1926年、目白中学校4年修了で第一高等学校 (旧制)に入ったが1928年に病気のため退学。1929年、法政大学予科第二部入学。法政大学文学部哲学科卒。岩波書店、1946年中央公論社勤務、『思想の科学』などの編集に当たる。63年中央公論社を定年退職。本州大学教授、改称で長野大学教授、1984年退職。文学、哲学などについて執筆した。
小崎 甲子(こさき かつこ、1908年9月6日 - 1997… 小崎 甲子(こさき かつこ、1908年9月6日 - 1997年2月17日)は、愛知県名古屋市出身の日本の柔道家。講道館五段。1932年(昭和7年)に大日本武徳会から、1933年(昭和8年)に講道館からそれぞれ初段を認められ、明治以降の近代柔道において女性として初めて黒帯を許された人物である。 小崎甲子は1908年(明治41年)、名古屋市中心部に位置する伊勢町(現在の中区丸の内)にて、美術商「清源堂」店主小崎天大(たかお)の次女として誕生した。幼少期から活発なお転婆娘として鳴らし、金城女学校在学中はテニス・ソフトボール・陸上競技と様々なスポーツに打ち込んだ。1925年(大正14年)に女学校を卒業後は実家の美術商にて家事手伝いの身となったが、家事や稽古事を習いつつ縁談を待つ、当時の子女の当たり前の人生を自分には合わないものと考えていた。
鬼頭 英一(きとう えいいち、1908年6月26日 - 19… 鬼頭 英一(きとう えいいち、1908年6月26日 - 1969年9月9日)は、日本の哲学者。 愛知県名古屋市出身。1930年東京帝国大学文学部哲学科卒。立教大学教授、武蔵高等学校教授、1951年金沢大学教授を経て、1965年九州大学文学部教授となる。昭和初期から実存主義哲学に着目し、ハイデッガー、ヤスパースらを紹介した。70年安保にむけての学園闘争のさなかの1969年9月9日、福岡市の博多東急ホテル浴室で、シャワー取り付け口にかけた布で首吊り自殺した。のち著作集全8巻が刊行された。
塚本 亮一(つかもと りょういち、1908年3月15日 - … 塚本 亮一(つかもと りょういち、1908年3月15日 - 2000年7月11日)は、日本の経営者。愛知県名古屋市出身。 1931年に東北帝国大学法文学部経済学科を卒業し、同年に第一生命保険に入社。1948年に総務部長に就任し、取締役、常務、専務を経て、1967年に副社長に就任し、1970年5月には社長に昇格した。1977年4月から1987年4月までに会長を務めた。 日本経営者団体連合会常任理事、経済団体連合会常任理事も務めた。 1972年10月に藍綬褒章を受章し、1979年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 2000年7月8日肺炎のために死去。92歳没。
瀬木 三雄(せぎ みつお、1908年3月3日 - 1982年… 瀬木 三雄(せぎ みつお、1908年3月3日 - 1982年5月8日)は、日本の医学博士。 愛知県名古屋市生まれ。旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)第14回生。東京帝国大学医学部卒業。旧厚生省の初代母子衛生課長として母子健康手帳を創設し、東北大学医学部にて公衆衛生学教室を主宰。癌統計学の第一人者として知られ、いわゆる「瀬木の帽子」(胎児の基底顆粒細胞集団)の発見者でもある。1971年に退官。瀬木学園(現 愛知みずほ大学等)理事長、学長、高校長を歴任。
乾 豊彦(いぬい とよひこ、1907年(明治40年)1月28… 乾 豊彦(いぬい とよひこ、1907年(明治40年)1月28日 - 1993年(平成5年)9月20日)は、日本の実業家。乾家5代目当主、乾汽船社長、広野ゴルフ倶楽部理事長、関西ゴルフ連盟理事長、日本ゴルフ協会(JGA)名誉会長などを務めた。旧姓は高橋。 名古屋の旧家高橋家、高橋彦治郎(後に彦次郎に改名)の七男として生まれる。父彦治郎は、中京財界の大立者といわれた人物で、茶人、美術収集家でもあった。 幼少の頃から父の勧めで書道、能楽、茶道などを習う。愛知一中、名古屋高等商業学校を卒業。 三井物産時代、四代目乾新兵衛こと日本鉄線鋼索の経営者乾新治の一人娘の道子と結婚。乾家に入るが、義父の急死で、33歳で乾汽船の社長に就任し、乾倉庫などの事業を引き継ぎ「関西のうるさ型」と言われ活躍した。
徳川 良子(とくがわ よしこ、1906年(明治39年)8月1… 徳川 良子(とくがわ よしこ、1906年(明治39年)8月1日 - 没年不明)は、日本の女優。日活向島・帝国キネマ・新興キネマにそれぞれ所属した。 愛知県名古屋市出身。椙山高等女学校卒業後、1923年(大正12年)に日活向島からデビュー。1930年(昭和5年)に帝国キネマに移籍、新興キネマをへて1935年(昭和10年)まで活躍した。 その後は満洲に渡ったとされるが、詳細は不明。
杉本健吉(すぎもと けんきち、1905年9月20日 - 20… 杉本健吉(すぎもと けんきち、1905年9月20日 - 2004年2月10日)は、日本の洋画家、イラストレーター、グラフィックデザイナー。
岡本 不二(おかもと ふじ、1905年7月4日 - 1984… 岡本 不二(おかもと ふじ、1905年7月4日 - 1984年1月4日)は、愛知県名古屋市出身のボクサー。日本ボクシング草創期の強豪。のち不二拳を設立、ピストン堀口の師としても知られる。 東洋商業学校卒業後、渡辺勇次郎の日本拳闘倶楽部に入門、1924年には同倶楽部主催のフライ級タイトル決定戦に勝ち、フライ級チャンピオンとなる。1926年には靖国神社相撲場での第1回全日本アマチュアボクシング選手権大会フライ級制覇、1928年、アムステルダム五輪にはバンタム級として2回戦から出場したが、初戦で敗退した。 その後は日本拳闘倶楽部の師範としてピストン堀口らを育てたが、のちピストンと共に独立、不二拳(現不二ボクシングジム)を設立した。
門田 芦子(かどた あしこ、本名:内山仲子、1905年5月1… 門田 芦子(かどた あしこ、本名:内山仲子、1905年5月15日 - 1974年12月20日)とは元宝塚少女歌劇団(元月組主演男役クラス・元月組・星組組長)の人物である。愛知県名古屋市出身[4]。宝塚歌劇団時代の愛称はチャマさん。
小沢 久之丞(おざわ きゅうのじょう、正字体:小澤久之亟、1… 小沢 久之丞(おざわ きゅうのじょう、正字体:小澤久之亟、1905年4月22日 - 1988年12月14日)は、日本の工学者、航空機技術者である。斬新な真空チューブ列車を考案した。 愛知県名古屋市出身。東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業。三菱重工業名古屋航空機製作所に就職し、第二次世界大戦中は四式重爆撃機「飛龍」を開発した。 1949年より名城大学理工学部教授に就任し、1971年から1972年まで学長を務めた。 1949年に『音速滑走体の構想』を発表した。1959年から愛知県の鍋田干拓地(現・弥富市)や農学部のあった鷹来キャンパス(春日井市)で実験をおこなった。真空パイプの中を走らせることで空気抵抗を減らす超音速滑走体の研究を進めた。
浅野 清(あさの きよし、1905年2月15日 - 1991… 浅野 清(あさの きよし、1905年2月15日 - 1991年8月19日)は、愛知県名古屋市出身の建築学者・建築史家。工学博士(京都大学)。元奈良学芸大学・大阪市立大学・大阪工業大学・愛知工業大学教授。 古建築の復原研究の第一人者であり、建築遺跡発掘調査を伴う「建物復原調査法」の開発、「古代建築技法」の解明など、日本建築史学における偉大な業績を残した。また、社寺の建築や民家研究でも貢献した。 1926年名古屋高等工業学校(現:名古屋工業大学)建築科を卒業。1934年法隆寺国宝保存工事事務所技手、後に所長となり、法隆寺建築物の復元、修理に尽力する。1952年工学博士(京都大学)。同年、奈良学芸大学助教授および奈良国立文化財研究所研究員を併任。
水野 久男(みずの ひさお、1904年11月25日-1985… 水野 久男(みずの ひさお、1904年11月25日-1985年2月12日)は東京電力の第5代社長(1971年 - 1976年 )。
牧野 吉晴(まきの よしはる、1904年9月25日 - 19… 牧野 吉晴(まきの よしはる、1904年9月25日 - 1957年12月21日)は、日本の美術評論家・小説家。 愛知県名古屋市生まれ。本名・勝彦。父は軍人。東海中学校(現∶東海中学校・高等学校)卒。冨澤有爲男が中学の先輩にいた。さらに東京植民貿易語学校、川端画学校に学ぶ。 金子光晴、赤松月船に師事して詩作、ついで小茂田清樹に師事して日本画を描く。1930年「猿猴図」が聖徳太子奉賛展で入選。また、正岡容と浪曲の巡業をし、吉井勇に師事してともに関西北陸を放浪。 1936年に放浪生活をやめ、中西悟堂の推薦で美術雑誌『東陽』を編集、美術評論を書く。同誌の創作欄に掲載された冨澤有爲男「地中海」が同1936年、芥川賞を受賞。
熊沢 正夫(くまざわ まさお、1904年 (明治37年) 5… 熊沢 正夫(くまざわ まさお、1904年 (明治37年) 5月 - 1982年5月7日)は、日本の植物学者。愛知県出身。 息子は地球科学者の熊澤峰夫。妹は熊沢光子。 1904年 (明治37年) 5月に、愛知県名古屋市で生まれた。父親は地方裁判所判事を歴任後弁護士を開業した。東海中学校、旧制第八高等学校(現:名古屋大学)を卒業後、東京帝国大学(現:東京大学)理学物植物学科に進学。1929年に同大卒。 1933年から旧制第四高等学校(現:金沢大学)に植物学の講師として勤務。翌1934年には同大教授となり、1942年まで勤務した。 その後旧制第八高等学校に勤務。集団遺伝学者の木村資生は、1942年に同校で熊沢の指導を受けた。
遠山 清(とおやま きよし、1903年〈明治36年〉11月1… 遠山 清(とおやま きよし、1903年〈明治36年〉11月15日 - 1963年〈昭和38年〉6月10日)は、日本の教育者、画家。 サンサシオン同人、広井尋常小学校教員、名古屋市立第一高等女学校教員、光風会会員、愛知県立愛知工業高等学校教員、社団法人光風美術会会員、社団法人日展会員、社団法人日展審査員などを歴任した。 愛知県名古屋市出身の洋画家である。広井尋常小学校、名古屋市立第一高等女学校、愛知県立愛知工業高等学校に教員として勤務する傍ら、光風会展、帝展、日展に出品を続け、光風賞や岡田賞を受賞している。光風会や日展の会員となり、のちに日展の審査員も務めた。 1903年(明治36年)11月15日、大日本帝国の愛知県名古屋市にて生まれた。
篠原 卯吉(しのはら うきち、1903年4月9日 - 199… 篠原 卯吉(しのはら うきち、1903年4月9日 - 1993年3月3日)は、日本の電気工学者。第5代名古屋大学総長。第58代電気学会会長。 名古屋市生まれ。愛知県第一中学校(現愛知県立旭丘高等学校)、第八高等学校を経て、1926年九州帝国大学工学部電気工学科卒業、九州帝国大学講師。1927年北海道帝国大学講師。同年北海道帝国大学助教授。1930年照明学会評議員。1935年九州帝国大学工学博士。1940年名古屋帝国大学理工学部教授。1953年名古屋大学工学部長。1958年郵政省電波技術審議会委員。1960年電気通信学会東海支部長。1961年電気学会浅野賞受賞。1963年名古屋大学教養学部長。同年名古屋大学総長、電気学会副会長、第6期日本学術会議会員、文部省大学設置審議会委員。
和達 清夫(わだち きよお、1902年(明治35年)9月8日… 和達 清夫(わだち きよお、1902年(明治35年)9月8日 - 1995年(平成7年1月5日))は、日本の地球物理学者・歌人。専門は、気象学・地震学。理学博士(東京帝國大学・1932年)。初代気象庁長官。深発地震の存在を証明し、分布を指摘してプレートテクトニクスに先鞭をつけた。 愛知県名古屋市生まれ。息子に物理学者・和達三樹がいる。 西須諸次(さいす もろじ)の名でエッセーを執筆した。 天王寺中学、東京開成中学、一高を経て、1925年(大正14年)3月に東京帝國大学理学部物理学科を卒業。中央気象台に入り、1932年、東京帝國大学から理学博士の学位を取得する。 1947年(昭和22年)第6代中央気象台台長につき、1956年(昭和31年)に組織改変により初代気象庁長官に就任。
牧野 茂(まきの しげる、1902年(明治35年)8月9日 … 牧野 茂(まきの しげる、1902年(明治35年)8月9日 - 1996年(平成8年)8月30日)は、日本の海軍軍人、造船技師。東京帝国大学卒業。最終階級は海軍技術大佐。愛知県名古屋市出身。 1902年(明治35年)8月9日生まれ。愛知県名古屋市出身。東京府立第一中学校、第八高等学校を経て、1922年(大正11年)、東京帝国大学工学部船舶工学科に入学。大正11年7月、海軍造船学生。1925年(大正14年)3月、東京帝国大学を卒業(工学士)。 大正14年5月、海軍造船中尉に任官、横須賀鎮守府付。1927年(昭和2年)12月に海軍造船大尉に進級し、1931年(昭和6年)12月から1934年(昭和9年)12月までフランスに駐在し(フランス国立造船大学〈シェルブール〉)、その間の1932年(昭和7年)12月に海軍造船少佐に進級。
青木 清(あおき きよし、1902年1月9日 - 1978年… 青木 清(あおき きよし、1902年1月9日 - 1978年5月6日)は、日本の経営者。東邦ガス社長。愛知県名古屋市出身。 1927年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に東京ガスに入社。1930年4月に東邦ガスに転じ、同年10月に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1964年8月に社長に就任。 1964年11月に藍綬褒章を受章し、1972年11月に勲二等旭日重光章を受章。。 1978年5月6日急性心筋梗塞のために死去。76歳没。
金原 節三(きんばら せつぞう、1901年11月3日 - 1… 金原 節三(きんばら せつぞう、1901年11月3日 - 1976年10月29日)は、日本陸軍軍医(耳鼻咽喉科)、陸上自衛隊医官。第三代陸上幕僚監部衛生監。陸将。医学博士。 愛知県名古屋市出身。1919年(大正8年)3月、静岡県立静岡中学校卒業。第八高等学校を経て、陸軍に入り、1926年(大正15年)東京帝国大学医学部(陸軍依託学生)卒業。同年6月、陸軍二等軍医。同年8月、陸軍軍医学校(~昭和2年6月)。1928年(昭和3年)5月、済南事変のため出征(~昭和4年4月)、1929年(昭和4年)4月、東京帝大大学院耳鼻咽喉科・増田胤次教授に師事(~昭和6年3月)。1929年(昭和4年)8月(一等軍医)。
杉戸 清(すぎと きよし、1901年(明治34年)10月10… 杉戸 清(すぎと きよし、1901年(明治34年)10月10日 - 2002年(平成14年)4月24日)は、日本の政治家。元名古屋市長(3期)。 愛知郡則武村字香箱(現・名古屋市中村区)出身。名古屋中学校、第八高等学校を経て、東京帝国大学工学部土木工学科を卒業。1926年(大正15年)4月に名古屋市役所に入り、水道局長、名古屋市助役などを歴任する。 1961年(昭和36年)3月16日、名古屋市長の小林橘川が任期中に死去。職務代理者を務める。同年4月28日に行われた市長選に自民党の推薦を受けて立候補。元参議院議員の栗山良夫(社会党推薦)、元市議の横井亀吉(民社党推薦)らを破り初当選した。 名古屋市長として地下鉄の整備等に尽力した。
磯部 巌(いそべ いわお、1901年(明治34年)7月21日… 磯部 巌(いそべ いわお、1901年(明治34年)7月21日 - 1998年(平成10年)9月8日)は、日本の内務官僚。日本中央競馬会保健組合顧問。(株)山一土建相談役。弁護士磯部醇の長男。 愛知県名古屋市出身。1924年(大正13年)高等試験行政科試験合格。1925年(大正14年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業。内務省に入り警保局図書課勤務を経て1927年(昭和2年)島根県警防課長となり、山梨・滋賀・長崎各県事務官、行政裁判所評定官、大分県学務部長、厚生省社会保険局庶務課長、茨城・兵庫・福井・福島各県内政部長、秋田県知事を歴任。 1949年(昭和24年)、参議院労働委員会専門員に任ぜられる。
北脇 昇(きたわき のぼる、1901年6月4日 - 1951… 北脇 昇(きたわき のぼる、1901年6月4日 - 1951年12月18日)は、日本のシュルレアリスムの画家。 愛知県名古屋市出身。父が単身朝鮮半島に渡ったことから、1910年、母親と京都に住む叔父の広瀬満正(元貴族院議員、実業家)の元へ移る。爾来、北脇は死亡するまで京都をほとんど離れなかった。1915年、京都市立銅駝尋常小学校卒業。同年、同志社中学校に入学。1917年、同校を中途退学。 1919年2月、鹿子木孟郎の画塾に入る。1930年4月、津田青楓の画塾に入る。1932年、第19回二科展に初入選。同年9月、京都洋画協会の結成に参加。1933年10月、独立美術京都研究所が開設され、その委員となる。
鬼頭 仁三郎(きとう にさぶろう、1900年12月1日 - … 鬼頭 仁三郎(きとう にさぶろう、1900年12月1日 - 1947年9月29日)は、日本の経済学者。 愛知県名古屋市出身。1925年東京商科大学卒、1928年同研究科卒。高垣寅次郎に師事した。東京商大図書館に勤め、1935年東京商大附属商業専門部教授、1940年東京商大教授を兼任した。1945年東京商大附属商学専門部長、同商業教育養成所長となった。1947年叙官吏一級、正五位。墓所は多磨霊園。 ケインズの「貨幣論」を翻訳し1932-1934年に刊行。「貨幣と利子の動態」をはじめとする貨幣論の著作によって、ケインズ金融理論の発展に努めた。弟子に三上隆三、吉野昌甫らがいる。英文学者で作家の北條文緒は娘。
宮田 重雄(みやた しげお、1900年10月31日 - 19… 宮田 重雄(みやた しげお、1900年10月31日 - 1971年4月28日)は、日本の画家、医師。 愛知県名古屋市出身。重陽の節句(9月9日)に生まれたので 重雄と名付けられた。愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)に進学後、慶應義塾大学医学部入学。上京後は勉学と並行して学内に絵画部ジュヌ・パントル[仏語で若い画家の意]を創立、1923年には第1回春陽会に出品、見事入選を果たし、医師と画家、両立の道へと進んでいく。1925年同大学卒業。1928年 - 1930年パリ・パスツール研究所に留学し、医療に従事するかわたら洋画家梅原龍三郎に師事。春陽会、国画会に所属。1934年慶應義塾大学医学博士。
成田 米蔵(なりた よねぞう、1900年8月29日 - 19… 成田 米蔵(なりた よねぞう、1900年8月29日 - 1975年4月4日)は日本の実業家、教育者。 名古屋市出身。1923年東京商科大学(現一橋大学)卒業する。同年に愛知銀行へ入行する。1941年に東海銀行へ勤務する。1946年に東海銀行監査役となる。その後、1956年王子製鉄取締役会長、東京化工取締役、東海製線代表取締役、東京溶接棒取締役、大同不動産取締役、名古屋臨海鉄道取締役、大同製鋼取締役副社長などを歴任する。1969年-1971年には、大同工業大学(現大同大学)学長を務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
吉田 賢抗(よしだ けんこう、1900年〈明治33年〉5月1… 吉田 賢抗(よしだ けんこう、1900年〈明治33年〉5月10日 - 1995年〈平成7年〉4月28日)は、日本の漢文学者。学位は、文学博士(東洋大学・論文博士・1961年)(学位論文「北宋における心性論の研究 契嵩と王安石を中心として」)。東北大学名誉教授。 愛知県名古屋市生まれ。第八高等学校卒、東京帝国大学文学部支那哲学科卒。 松本高等学校教授、第二高等学校教授、戦後東北大学教養部教授、1961年「北宋における心性論の研究 契嵩と王安石を中心として」で東洋大学文学博士。 1964年東北大を定年退官、名誉教授、東北工業大学教授、名誉教授、桜美林大学教授。
堀田 庄三(ほった しょうぞう、1899年1月23日 - 1… 堀田 庄三(ほった しょうぞう、1899年1月23日 - 1990年12月18日)は日本の銀行家。住友銀行頭取を19年務め(1952年~1971年)、「住銀の法皇」と称された。住友家評議員会委員長、住友老壮会会長、日本航空元会長。勲一等旭日大綬章受章。元モルガン・スタンレー証券代表取締役会長の堀田健介は長男。大正製薬社長の上原明は二男。