得永 祥男(とくなが よしお、 1943年頃- 2003年2… 得永 祥男(とくなが よしお、 1943年頃- 2003年2月1日)は、日本の高校野球指導者。佐世保工業高校・波佐見高校野球部を率いて春夏合わせて6回の甲子園出場を果たした。 長崎県西彼杵郡大瀬戸町(現:西海市)松島出身。長崎市立桜馬場中学校、長崎県立長崎東高等学校から日本体育大学に進み、1965年に同大学を卒業後、保健体育教諭として長崎県立佐世保工業高等学校に赴任した。併せて同校野球部監督に就任したが、当時は海星高校をはじめとした長崎市内の高校が県代表を独占していた。そこで得永は「打倒海星」をスローガンに掲げ、合理的な練習を取り入れたほか多数の県外試合を組んで強化に努めた。1966年西九州大会決勝、1968年長崎大会決勝と甲子園出場をかけた試合でいずれも海星に敗れたが、1974年の西九州大会決勝で海星を破り優勝、県北勢として初めて甲子園出場を決めた。
鈴木 宣之(すずき のぶゆき、1942年12月8日 - )は… 鈴木 宣之(すずき のぶゆき、1942年12月8日 - )は、日本の実業家、作家、アマチュア野球指導者。愛知県名古屋市熱田区出身。東海中学校・高等学校、芝浦工業大学工学部二部卒業。 高校在学中は外野手として野球部で活動。3年生のとき、夏の愛知県大会ベスト4進出。大学卒業後は、東京都品川区西中延の伯父の会社に勤務。1970年、愛知県西春日井郡にて実兄の世話で、機械部品製造の自営を始める。 イチローの実父で、イチローの個人事務所「オフィス・イチロー」の代表も務める。イチローの父親であることから、「チチロー」と呼ばれることもある。また、元ファッションモデルの鈴木来海は孫に当たる。 イチローが小学校の3年生の時から中学に入るまで、学校から帰宅して日が沈むまで毎日、野球の練習に付き添い、また練習後は毎晩イチロー選手の足の裏をマッサージをしていた。
徳久 利明(とくひさ としあき、1942年12月8日 - 1… 徳久 利明(とくひさ としあき、1942年12月8日 - 1998年3月13日)は、高知県土佐清水市出身のプロ野球選手(投手)。
阿部 雄厚(あべ ゆうこう、1942年12月4日 - )は、… 阿部 雄厚(あべ ゆうこう、1942年12月4日 - )は、岩手県出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。弟は元プロ野球選手の阿部成宏。 花巻商業高校から1961年に近鉄バファローへ入団。高校一年から投手をつとめ、春の県大会では宮古高を剛速球とドロップのノーヒット・ノーラン・ゲームを演じ、注目を浴びた。今夏の県大会でも一試合平均10三振を奪取するなど、その剛速球には大洋、大毎も目をつけていた。1964年に引退。
越智 靖朗(おち やすお、1942年12月3日 - )は、愛… 越智 靖朗(おち やすお、1942年12月3日 - )は、愛媛県新居浜市出身の元プロ野球選手。 新居浜工業高校から1961年に近鉄バファローズへ入団。 1961年・1964年に1軍出場を果たす。
高梨 英夫(たかなし ひでお、1942年11月30日 - 2… 高梨 英夫(たかなし ひでお、1942年11月30日 - 2018年12月28日)は、日本のアマチュア野球選手(内野手、主に一塁手)・指導者である。 長く都市対抗野球の大会通算本塁打記録を保持し、「ミスター社会人」と呼ばれた。 長男は元読売ジャイアンツ選手の高梨芳昌、次男は元ヤクルトスワローズ選手の高梨利洋。 千葉県長生郡一宮町出身。千葉県立大多喜高等学校卒業後、大昭和製紙富士に入社。4年目の1964年に大昭和製紙北海道に移籍し、間もなくレギュラーポジションを獲得。 1966年の第37回都市対抗野球大会に、拓銀の補強選手として初出場。初戦の八幡製鉄戦で、大会初本塁打を放つ。富士鉄室蘭の補強選手として出場した翌1967年の第38回都市対抗野球大会では、準々決勝で優勝した日本石油に敗れるが、予選から21イニング連続無失点記録を続けていた平松政次(のち大洋)から本塁打を放って一矢を報いた。
佐藤 進(さとう すすむ、1942年11月26日 - )は、… 佐藤 進(さとう すすむ、1942年11月26日 - )は、北海道札幌郡豊平町豊羽鉱山(現札幌市南区)出身の元プロ野球選手(投手)。 中学時代は卓球の選手。北海高校ではエース、四番打者として1960年に春夏連続で甲子園に出場。春の選抜では準決勝まで勝ち上がるが、高松商の左腕エース松下利夫(明大-四国電力)に抑えられ0-2で完封負け。高松商には山口富士雄がおり、この大会で優勝している。夏の選手権は準々決勝で静岡高に惜敗。しかし秋の熊本国体では、決勝で米子東高の宮本洋二郎に3-0で投げ勝ち初優勝を飾る。高校の1年上には荻野一雄、茅野智行がいた。 高校卒業後は、社会人野球の富士製鐵室蘭に入団。1963年の都市対抗に出場。
岡田 幸喜(おかだ ゆきよし、1942年11月5日 - )は… 岡田 幸喜(おかだ ゆきよし、1942年11月5日 - )は、長崎県出身の元プロ野球選手。
近藤 重雄(こんどう しげお、1942年10月15日 - )… 近藤 重雄(こんどう しげお、1942年10月15日 - )は、福島県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 学校法人石川高等学校では、1960年夏の甲子園県予選で準決勝(東北大会代表決定戦)に進むが、双葉高に延長11回敗退。この予選では7試合64回を投げ、夏の地方大会記録となる110三振を奪った。 卒業後は日本コロムビアへ入社。1964年の第35回都市対抗野球大会では決勝まで進出し、日本通運の田中章と投げ合うが惜敗。準優勝に終わったが、大会での活躍ぶりが認められ久慈賞を受賞した。同年10月には東京五輪デモンストレーションゲームとして開催された、社会人野球選抜と米国大学選抜との試合にも登板している。
成田 光弘(なりた みつひろ、1942年10月7日 - 20… 成田 光弘(なりた みつひろ、1942年10月7日 - 2023年10月19日)は、秋田県北秋田郡鷹巣町(現・北秋田市)出身のプロ野球選手(捕手、外野手)。 小学生の時、父親が出張のお土産にキャッチャーミットを購入し、野球を始めるきっかけになった。 しかし、当時は野球をするには充分な環境がなかったため、本格的に取り組むのは中学校へ進学してからになる。 高校進学は当初家が農家だったこともあり、秋田県立鷹巣農林高等学校を希望していたが、秋田市立秋田商業高等学校野球部の勧誘があり、秋田商業高等学校への進学を決めた。甲子園出場は計3回経験している。 秋田商業高等学校を卒業後、大毎に入団する。大毎入団の経緯としては他に大洋、西鉄、中日の計4球団から誘いがあったが、秋田商業高等学校OBの三平晴樹がいたことが決め手となった。
安東 功(あんどう いさお、1942年10月1日 - )は、… 安東 功(あんどう いさお、1942年10月1日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手。 高田高校から東洋高圧大牟田を経て、1963年に広島カープへ入団。真っ向から投げる剛球と鋭いシュートに定評があった。1965年には10試合出場したが、全て偵察要員としての出場だった。同年引退。
佐々木 幸男(ささき ゆきお、1942年9月30日 - )は… 佐々木 幸男(ささき ゆきお、1942年9月30日 - )は、秋田県出身の元プロ野球選手。 金足農業高校から電電東北を経て1962年に阪急ブレーブスへ入団。1968年に引退した。
石谷 訓啓(いしたに くにひろ、1942年9月28日 - )… 石谷 訓啓(いしたに くにひろ、1942年9月28日 - )は、島根県大田市出身の元プロ野球選手。 大田高校では1959年、2年生の時にエース中島広喜(阪神)を擁し、右翼手として夏の甲子園に出場。1回戦で倉敷工の杉本喜久雄に抑えられ大敗。 1961年に大毎オリオンズへ入団。1963年には一軍に定着し、7月には中堅手、一番打者に抜擢される。シーズン後半は失速するが、33試合に先発出場を果たした。同年はイースタン・リーグで打率.381を記録して首位打者を獲得している。しかしその後は故障もあって出場機会に恵まれず、1967年限りで引退。 引退後はデパートに什器をレンタルする株式会社山元に就職し、常務まで勤めた。
福浦 健次(ふくうら けんじ、1942年9月13日 - )は… 福浦 健次(ふくうら けんじ、1942年9月13日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(投手)。 中央商業高等学校(現:中央学院大学中央高等学校)では大型左腕投手として知られ、1961年に阪神タイガースに入団。1年目から一軍に上がり、中継ぎとして5試合に登板する。1963年10月13日に国鉄スワローズを相手に初先発。金田正一と投げ合い、5回を2安打3失点に抑えるが敗戦投手となった。その後は出場機会に恵まれず、1965年に自由契約になり西鉄ライオンズに移籍。ここでも中継ぎとして起用され、1967年と1968年にそれぞれ12試合に登板した。1970年限りで引退した。
寺岡 孝(てらおか たかし、1942年9月13日 - 201… 寺岡 孝(てらおか たかし、1942年9月13日 - 2011年2月4日)は、宮崎県出身のプロ野球選手(外野手、一塁手)、野球指導者。
井石 礼司(いいし れいじ、1942年9月5日 - )は、現… 井石 礼司(いいし れいじ、1942年9月5日 - )は、現在の大阪府東大阪市出身の元プロ野球選手(外野手、一塁手)。左投左打。 中学時代は野球部と陸上部を兼任していた。天王寺高校を経て慶應義塾大学に進学する。慶應大学では2年秋にベンチ入りし、3年秋からレギュラーとなる。東京六大学野球リーグでは在学中に3度の優勝を経験、同期のエース・渡辺泰輔を擁し、1963年の全日本大学野球選手権大会でも優勝している。1964年10月には東京五輪デモンストレーションゲームとして開催された日米大学野球選抜試合に日本代表として選出されるが、出場機会はなかった。リーグ通算28試合出場、89打数31安打、打率.348、0本塁打、8打点。
宮原 秀明(みやはら ひであき、1942年9月3日 - 19… 宮原 秀明(みやはら ひであき、1942年9月3日 - 1994年3月21日)は、千葉県出身の元プロ野球選手、スカウト。ポジションは外野手。1961年から1968年の登録名は宮原 務本(みやはら つもと)。 長生一高では、1960年の第11回春季関東地区高等学校野球大会に千葉県代表として出場し、チームを初優勝に導く活躍を見せる。同年夏の甲子園県予選では準決勝に進出するが、関根知雄のいた銚子商に敗退。 1961年に東映フライヤーズへ入団。当時の東映の外野手には張本勲、毒島章一、白仁天といった実力者が揃っており、長打力に欠ける宮原には厳しい環境だった。その中でも四番手の外野手や代打の切り札として起用され、1964年から5年間、準レギュラーとして好成績を残す。
井上 勝巳(いのうえ かつみ、1942年8月25日 - )は… 井上 勝巳(いのうえ かつみ、1942年8月25日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手。
山田 忠男(やまだ ただお、1942年8月20日 - 199… 山田 忠男(やまだ ただお、1942年8月20日 - 1999年5月31日)は、宮崎県日南市油津出身の元プロ野球選手。ポジションは捕手。 日南高校では1960年夏の甲子園県予選準決勝に進出するが、都城都島高に敗れ南九州大会へは進めなかった。1961年に大洋ホエールズへ入団。 大洋の捕手陣には土井淳、伊藤勲らがおり、活躍の場は少なかったが、1968年には伊藤に次ぐ二番手捕手として17試合に先発マスクを被る。1971年限りで引退した。 1999年5月31日に死去。享年56。
長幡 忠夫(ながはた ただお、1942年8月18日 - )は… 長幡 忠夫(ながはた ただお、1942年8月18日 - )は兵庫県西宮市出身の元プロ野球選手(外野手)。
久代 義明(くしろ よしあき、1942年8月14日 - )は… 久代 義明(くしろ よしあき、1942年8月14日 - )は、兵庫県三田市出身の元プロ野球選手。ポジションは捕手、一塁手、外野手。
山本 公士(やまもと こうし、1942年8月6日 - )は、… 山本 公士(やまもと こうし、1942年8月6日 - )は、熊本県出身の元プロ野球選手(外野手)。
岩本 泰英(いわもと やすひで、1942年8月4日 - )は… 岩本 泰英(いわもと やすひで、1942年8月4日 - )は、長崎県出身の元プロ野球選手。 長崎県西彼杵郡の香焼中三年のとき投手をやりはじめる。でかい体の投手がいるという話から当時の長崎南山高監督が目をつけ、同校野球部に入れた。入学後暫くは投手としては後に西鉄でプレーした杉町攻の陰に隠れて目立たず、二年次に準決勝まで進んだ第31回選抜高等学校野球大会でも八番・一塁手として出場。しかし秋の新人戦から同校のエースとして公式戦43試合のうち23試合に登板、二年秋の九州大会は準々決勝で鹿児島商に0-6、三年夏の西九州大会は準決勝で鹿島高に0-2で何れも敗れ再度の甲子園出場は逃すも通算19勝4敗の成績をあげた。
横山 小次郎(よこやま こじろう、1942年7月23日- )… 横山 小次郎(よこやま こじろう、1942年7月23日- )は、高知県土佐市出身の元プロ野球選手(投手)。
山口 富士雄(やまぐち ふじお、1942年7月16日 - )… 山口 富士雄(やまぐち ふじお、1942年7月16日 - )は、香川県高松市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。
渡辺 泰輔 (わたなべ たいすけ、1942年7月13日 - … 渡辺 泰輔 (わたなべ たいすけ、1942年7月13日 - 2023年12月20日)は、福岡県直方市出身のプロ野球選手(投手)。パームボールが武器。 福岡県出身ながら神奈川県の慶應義塾高校に進学したのは、当時八幡製鐵の監督だった加藤喜作が母校・慶應義塾大学に入れるため説得したもの。2年生の時、1959年の夏の甲子園県予選決勝に進むが、法政二高に敗れる。秋季関東地区大会で優勝し、翌1960年の春の選抜に出場。準々決勝まで進出し、今川敬三投手(早大)を擁する秋田商と対戦するが、延長11回1-2で敗退。同年夏は県予選準決勝で横浜商を相手にノーヒットノーランを達成。しかし決勝では法政二高の柴田勲と投げ合い、延長11回の激闘の末敗れる。
小野坂 清(おのさか きよし、1942年7月13日 - 20… 小野坂 清(おのさか きよし、1942年7月13日 - 2012年4月17日)は、大阪府出身のプロ野球選手(投手)。
木原 義隆(きはら よしたか、1942年7月12日 - )は… 木原 義隆(きはら よしたか、1942年7月12日 - )は、和歌山県海南市出身の元プロ野球選手。選手時代のポジションは投手で、投法はアンダースロー。
小泉 恒美(こいずみ つねみ、1942年7月5日 - 199… 小泉 恒美(こいずみ つねみ、1942年7月5日 - 1990年6月2日)は、長野県出身のプロ野球選手。ポジションは本来は一塁手だが、外野手もこなした。 長野県岡谷工業高等学校3年時の1960年に春季北信越大会で準決勝に進出。この試合ではリリーフとして登板したが、金沢市立工業高等学校の前に敗れた。夏の甲子園県予選でも敗退したため、甲子園とは縁がなかった。 卒業後の1961年に南海ホークスへ入団。王貞治に似た一本足打法が持ち味で、入団5年目の1965年には、一塁手や右翼手として69試合に出場した。10月13日の対東京オリオンズ戦(東京スタジアム)では、野村克也に代わる4番打者として先圧起用され、4打数1安打1打点という成績を残した。
小橋 優(こばし まさる、1942年7月1日 - )は岡山県… 小橋 優(こばし まさる、1942年7月1日 - )は岡山県出身の元プロ野球選手。
土井 正三(どい しょうぞう、1942年6月28日 - 20… 土井 正三(どい しょうぞう、1942年6月28日 - 2009年9月25日)は、プロ野球選手(内野手)・監督、野球解説者。兵庫県出身。
辻 恭彦(つじ やすひこ、1942年6月18日 - )は、愛… 辻 恭彦(つじ やすひこ、1942年6月18日 - )は、愛知県名古屋市西区出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ、解説者。
辻野 欽也(つじの きんや、1942年6月7日 - )は、兵… 辻野 欽也(つじの きんや、1942年6月7日 - )は、兵庫県洲本市出身の元プロ野球選手(投手)。 1961年、洲本実業高校から大毎オリオンズに入団。1963年にはイースタンリーグで最多勝を獲得する。長身から、速球とフォークボールを交える。
合田 栄蔵(ごうだ えいぞう、1942年6月3日 - )は兵… 合田 栄蔵(ごうだ えいぞう、1942年6月3日 - )は兵庫県尼崎市出身の元プロ野球選手。
伊藤 勲(いとう いさお、1942年5月14日 - 2007… 伊藤 勲(いとう いさお、1942年5月14日 - 2007年5月26日)は、宮城県仙台市出身(岩手県生まれ)のプロ野球選手(捕手)・コーチ、解説者。愛称は「キートン」。 父親の転勤で幼少期を各地で過ごし、中学時代に仙台市に移る。東北高校では3年次の1960年に夏の甲子園に出場したが、1回戦で青森高に敗退。強肩強打の捕手として大洋や巨人なども注目したが、1959年に同校の先輩である波山次郎が大洋に入団していたこともあって、1961年に大洋ホエールズへ入団。契約金は170万円で、年俸は36万円であった。 1年目の同年から一軍でマスクを被り、7月30日の中日戦(川崎)の9回裏に蓜島久美に代わって初出場を果たす。
船田 和英(ふなだ かずひで、1942年5月5日 - 199… 船田 和英(ふなだ かずひで、1942年5月5日 - 1992年5月28日)は、プロ野球選手。ポジションは内野手。ニックネームは「ライフルマン」(同名のアメリカのテレビドラマにちなむ。主人公ルーカス・マッケイン役のチャック・コナーズに顔が似ていた)。静岡県出身。
永渕 洋三(ながふち ようぞう、1942年5月4日 - )は… 永渕 洋三(ながふち ようぞう、1942年5月4日 - )は、佐賀県佐賀市出身の元プロ野球選手(外野手、投手)。
金本 秀夫(かねもと ひでお、1942年5月1日 - )は、… 金本 秀夫(かねもと ひでお、1942年5月1日 - )は、鳥取県出身の元プロ野球選手。 米子工業高等学校を卒業し、1961年オフに阪急ブレーブスに入団。1964年に一軍初登板、同年のジュニアオールスターにも出場した。1965年5月23日には東映を相手に初先発、しかし佐野嘉幸に本塁打を喫するなど早々に打込まれ2回に降板。長身からの速球を活かし、1966年に自己最多の20試合に登板する。7月12日には東京を相手に先発、5回を2失点と好投するが味方の援護がなく勝ち星はつかなかった。1968年5月19日に二軍でノーヒットノーランを記録。同年オフに無償トレードで阪神タイガースに移籍。1969年オフに引退。
荒川 巌(あらかわ いわお、1942年〈昭和17年〉4月30… 荒川 巌(あらかわ いわお、1942年〈昭和17年〉4月30日 - )は、福島県会津若松市出身の元プロ野球選手(投手)。 福島県立会津工業高等学校では投手として活躍。1959年秋季東北大会県予選では、耶麻野沢高を相手に1試合26奪三振を記録した。またこの試合で15連続奪三振を記録している。大会では県予選準決勝に進出するが田村高に惜敗。その後は清峰伸銅へ進んだ。 1962年に国鉄スワローズに入団。1年目から一軍出場を果たすが定着はできなかった。1963年は30試合に登板、7月からは先発としても起用される。10月4日には大洋を相手に先発、6回を1失点に抑え初勝利を記録する。しかしその後は一軍試合出場が数試合に留まり、1966年に読売ジャイアンツに移籍する。
江藤 省三(えとう しょうぞう、1942年4月29日 - )… 江藤 省三(えとう しょうぞう、1942年4月29日 - )は、熊本県熊本市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者。 元プロ野球選手・監督の江藤慎一は実兄。 慶應義塾大学では、2009年から2013年まで監督、2014年6月まで助監督を務めた。 父・哲美は戦前、 八幡製鐵で投手として活躍し、その後も省三が進学した西部中学校で監督を務めるなど、野球一色の人生であった。無類の野球好きで、現役引退後も野球三昧の日々であった父を見て、省三は子供心にその印象が強かったのか、大きくなったら野球をすると自然に思っていた。男ばかりの4人兄弟で長兄の愼一が既に野球をやっていて、体も大きく、とても上手かったことも大きく影響したが、幼少期に父から直接、球の投げ方ひとつさえ、野球の指導を受けたことは一度もなかった。
井上 修(いのうえ おさむ、1942年4月24日 - )は、… 井上 修(いのうえ おさむ、1942年4月24日 - )は、京都府出身の元プロ野球選手。 峰山高校から1962年に南海ホークスへ入団。1966年に引退。
大崎 隆雄(おおさき たかお、1942年4月24日 - )は… 大崎 隆雄(おおさき たかお、1942年4月24日 - )は、京都府京都市出身の元プロ野球選手。
石田 二宣(いしだ つぐのぶ、1942年4月16日 - )は… 石田 二宣(いしだ つぐのぶ、1942年4月16日 - )は、栃木県宇都宮市出身の元プロ野球選手。 宇都宮学園高校では同期のエース高山勲とバッテリーを組み活躍。1959年秋季関東大会県予選準決勝に進出するが、石橋高に惜敗。翌1960年夏の甲子園予選北関東大会でも準決勝に進むが、桐生工に敗れた。卒業後は高山とともに東黎工業に入社。1962年には産業対抗に出場し、準決勝まで進む。同年の都市対抗にも熊谷組に補強され出場。 1963年に毎日大映オリオンズへ入団。醍醐猛夫らの壁を破れず、出場機会は少なかった。1970年には17試合に出場するが、うち13試合は偵察要員であり、同年限りで引退した。
斎藤 正弘(さいとう まさひろ、1942年4月16日 - )… 斎藤 正弘(さいとう まさひろ、1942年4月16日 - )は、宮崎県出身の元プロ野球選手。 日向学院高校から1961年に西鉄ライオンズへ入団。8月29日の近鉄バファロー戦で初出場も偵察要員としての出場だった。試合出場はこの1試合のみで1964年に引退した。
森本 潔(もりもと きよし、1942年4月13日 - )は、… 森本 潔(もりもと きよし、1942年4月13日 - )は、愛媛県西条市大谷出身の元プロ野球選手(内野手)。
高山 勲(たかやま いさお、1942年4月8日 - 1978… 高山 勲(たかやま いさお、1942年4月8日 - 1978年3月21日)は、栃木県出身のプロ野球選手。ポジションは投手、二塁手、外野手。 宇都宮学園高等学校(現・文星芸術大学附属高等学校)在学中は、作新学院の加藤斌(のち中日。現役中に交通事故死)と共に栃木県を代表する投手と言われた。甲子園出場はなかったが、高校卒業後は社会人野球の東黎工業に入社し、1962年の日本産業対抗野球大会に出場した。宇都宮学園,東黎工業時代のチームメイトに石田二宣(のち毎日大映,東京,ロッテオリオンズ)がいる。 1963年に大洋ホエールズに入団。当時の大洋の投手層は厚く、なかなか一軍出場の機会に恵まれなかったが、1964年4月25日の中日戦(中日球場)で一軍デビューを果たした。
才所 俊郎(さいしょ としろう、1942年4月7日 - )は… 才所 俊郎(さいしょ としろう、1942年4月7日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(外野手、一塁手)。 八女高校では1年生の時、1958年夏の甲子園に控え外野手として出場。3回戦で板東英二投手のいた徳島商に敗退。2年、3年の夏はいずれも県大会準決勝で延長戦の末に敗退。卒業後は日鉄二瀬へ進み、都市対抗野球大会に出場すると河合楽器へ移籍。俊足好打の外野手として知られ、1964年から2年連続で都市対抗野球に出場。 1965年ドラフト会議で読売ジャイアンツより5位指名で入団。1年目の1966年から一軍に上がり、9月には右翼手として先発出場を果たす。1968年にはイースタン・リーグで盗塁王になる。しかし層の厚い外野陣の中であまり活躍の場はなく、代走等の起用が多かった。
千原 陽三郎(ちはら ようざぶろう、1942年3月30日 -… 千原 陽三郎(ちはら ようざぶろう、1942年3月30日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(投手、一塁手、外野手)。 日大三高では投手として1958年秋季東京大会決勝に進出。日大二高のエース井上善夫と投げ合い、0-1で完封負けを喫するが、1959年の春の選抜への出場を決める。選抜では2回戦(初戦)で松商学園に0-6で完封負け。同年夏は都予選準決勝で、またも日大二高の井上と投げ合うが4-5で惜敗、甲子園には届かなかった。 卒業後は日本大学へ進学。東都大学野球リーグでは在学中3度優勝。2年上に宮田征典がおり、一塁手と投手を兼ねて起用される。1961年の全日本大学野球選手権大会では、決勝で関大を降し優勝を飾る。
嵯峨野 昇(さがの のぼる、1942年3月29日 - 201… 嵯峨野 昇(さがの のぼる、1942年3月29日 - 2010年1月31日)は、神奈川県出身のプロ野球選手。ポジションは内野手。
児玉 弘義(こだま ひろよし、1942年3月13日 - 20… 児玉 弘義(こだま ひろよし、1942年3月13日 - 2009年2月5日)は、兵庫県津名郡津名町出身のプロ野球選手(捕手)・コーチ。 津名高校卒業後、1960年に近鉄バファローへ入団。 1961年10月14日の阪急戦(藤井寺)に8番・捕手で一軍初出場を果たし、初安打も記録。 1963年から試合出場数が増えたが、吉沢岳男の存在もあって2番手の起用が続いた。 1964年8月6日の東映戦(日生)では途中から吉沢に替わってマスクを被り、嵯峨健四郎から初本塁打を放つ。三原脩が監督に就任した1968年に初めて正捕手の地位を獲得した。 1969年には岩木康郎にその座を奪われて再び2番手となる。 1970年には辻佳紀の加入で3番手となる。