北畑 利雄(きたはたとしお、1933年2月24日 - 201… 北畑 利雄(きたはたとしお、1933年2月24日 - 2016年11月12日)は、兵庫県明石市出身のプロ野球選手(投手)。 明石南高校から1952年に国鉄スワローズへ入団。1953年から一軍で起用され、7月には初先発を果たす。1954年には先発陣の一角として6勝を記録。1956年も主に中継ぎとして6勝をあげた。1958年限りで引退。 その後は社会人野球の天王寺鉄道管理局に転じ、都市対抗野球大会等で活躍した。 低めにコントロールされたシュートと沈む球(ストライク・ゾーン)でグッと落ちる球が武器。
岡本 健一郎(おかもと けんいちろう、1933年2月16日 … 岡本 健一郎(おかもと けんいちろう、1933年2月16日 - )は、熊本県熊本市出身の元プロ野球選手(内野手)・解説者。 済々黌高では1950年、エース岡本和弘(明大-日立製作所)を擁し、夏の甲子園に一塁手として出場。準決勝に進むが大久保英男のいた鳴門高に敗退。高校同期に大学、プロ野球でもチームメートとなる遊撃手の片山嘉視がいた。卒業後は専修大に進学。東都大学野球リーグでは在学中に4回優勝。1954年の全日本大学野球選手権大会では準決勝に進出するが、秋山登らのいた明大に敗れる。1953年秋季リーグから2季連続でリーグ打撃成績2位を記録し、東都のスラッガーとして注目された。片山以外の大学同期に渡辺清がいる。
岡本 健治(おかもと けんじ、1933年〈昭和8年〉2月15… 岡本 健治(おかもと けんじ、1933年〈昭和8年〉2月15日 - )は、福岡県福岡市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 西南学院高校から日鉄二瀬を経て、1952年に西鉄ライオンズへ入団。 しかしプロ初登板の試合で二者連続四球を出して降板。結果的にこれがプロ唯一の登板となった。 1954年に引退。その後はノンプロに参加した後、起業。「岡本食品機器販売」の社長を務めている。
岸本 千明(きしもと ちあき、1933年1月24日 - )は… 岸本 千明(きしもと ちあき、1933年1月24日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手。 京阪商業から1952年に南海ホークスへ入団。1953年に退団。 孫はサンケイスポーツの社員として活動している。
紀藤 広光(きとう ひろみつ、1933年1月16日 - )は… 紀藤 広光(きとう ひろみつ、1933年1月16日 - )は、愛知県出身の元プロ野球選手。 犬山高校から立命館大学を経て1954年に中日ドラゴンズへ入団。1956年に引退。
山田 利昭(やまだ としあき、1933年1月15日 - 20… 山田 利昭(やまだ としあき、1933年1月15日 - 2001年3月6日)は、千葉県出身の元プロ野球選手(外野手)。 市川工業高校を卒業後、立教大学に進むも3年で中退し、1953年に毎日オリオンズへ入団。1年目は6試合しか試合に出場できず、1954年に高橋ユニオンズへ1年で移籍となった。 移籍したユニオンズでは131試合に出場し打率は.251と振るわなかったが主力として活躍した。翌年も136試合に出場し打率も.296と翌年よりも成績は上昇した。この年はオールスターゲームにも初選出された。1957年に東映フライヤーズに移籍し、1958年に現役引退した。 2001年3月6日68歳にて白血病により病没。
米山 光男(よねやま みつお、1933年1月5日 - )は、… 米山 光男(よねやま みつお、1933年1月5日 - )は、兵庫県神戸市出身の元プロ野球選手(遊撃手)・コーチ・監督。1955年から1956年の登録名は米山 祐昭。
市原 弘道(いちはら ひろみち、1933年-1988年10月… 市原 弘道(いちはら ひろみち、1933年-1988年10月)は高校野球指導者。 1967年、習志野高校野球部が千葉県勢として初めて全国制覇した時の監督。
安田 辰昭(やすだ たつあき、1933年 - 2008年2月… 安田 辰昭(やすだ たつあき、1933年 - 2008年2月21日)は、日本の高校野球指導者、教員。小千谷高野球部監督、新発田農高野球部監督、新潟県高校野球連盟理事長などを歴任した。
田口 周(たぐち いたる、 1932年12月18日 - 20… 田口 周(たぐち いたる、 1932年12月18日 - 2006年7月19日)は、日本のスポーツライター、高校野球指導者、プロ野球監督・球団経営者。東京都出身。 日本大学第三高等学校、日本大学卒業。共に野球部に所属し、一塁手、投手として活躍。右投右打。 1956年、日刊スポーツ野球記者となる。 1960年、母校の日本大学第三高等学校野球部監督に就任。1962年の選抜高等学校野球大会では準優勝に導く。 その後、日刊スポーツ野球記者に復帰後、1968年2月、高校野球での実績を買われ、プロ経験はないもののサンケイアトムズ(現・東京ヤクルトスワローズ)二軍監督に就任。1971年・1972年と2年連続でイースタン・リーグ優勝を果たした。
宮崎 一夫(みやざき かずお、1932年12月10日 - 2… 宮崎 一夫(みやざき かずお、1932年12月10日 - 2016年3月24日)は、神奈川県逗子市出身のプロ野球選手(投手)・監督。 逗子開成高卒業後はコロムビアを経て、1952年に毎日オリオンズへ入団。 毎日ではオーバースローから投げるカーブ・シュートを武器とし、4年間で21勝をマーク。先発・リリーフ両面で活躍した一方で別当薫監督とは反りが合わず、エースの荒巻淳を優遇する投手起用方針に対して意見するなど言い争うことがあったため、1955年も4勝1敗・防御率2.19と好成績を挙げながら、シーズンオフに解雇通告を受ける。 毎日球団からは大洋への移籍を勧められるが、宮崎はパ・リーグに残って毎日を倒したい気持ちから断り、解雇通知を受けた有楽町の毎日球団事務所からその足で銀座の高橋ユニオンズ球団事務所に行き、すぐに入団交渉を行い、そのまま仮契約を結んだ 1956年3月25日の毎日戦に志願先発するが、3回3失点と打ち込まれて敗戦投手になる。
川本 浩司(かわもと こうじ、1932年12月1日 - )は… 川本 浩司(かわもと こうじ、1932年12月1日 - )は、京都府京都市出身の元プロ野球選手。 山城高校から関西学院大学を経て1955年に大映スターズへ入団。1957年に退団。
渡辺 清(わたなべ きよし、1932年11月30日 - )は… 渡辺 清(わたなべ きよし、1932年11月30日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(外野手)。 福岡県立戸畑高等学校への在学中は投手で、エースとして活躍するが、甲子園球場での全国大会と縁がなかった。 高校からの卒業後に専修大学へ進学すると、3年生から外野手に転向。在学中には、東都大学野球リーグで4回の優勝を経験した。4年時の1954年、第3回大学選手権の準決勝で明大の「五人衆」(秋山登と土井淳のバッテリー、岩岡保宏、黒木弘重、沖山光利)を擁する明治大学に敗れた。硬式野球部の同期生に岡本健一郎と片山嘉視がいて、1955年に3人揃って阪急ブレーブスへ入団した。 入団1年目の1955年から、レギュラー外野手としてパシフィック・リーグ公式戦132試合に出場するとともに、リーグの最終規定打席へ到達。
服部 武夫(はっとり たけお、1932年11月28日 - )… 服部 武夫(はっとり たけお、1932年11月28日 - )は、三重県四日市市出身の元プロ野球選手(投手)。 四日市高卒業に当たって、南海球団社長・松浦竹松の友人の紹介でテストを受けて合格し、1950年に南海ホークスへ入団。 2年目の1951年に31試合登板し、10勝7敗、防御率2.03を記録して南海の優勝に貢献した。防御率2.03はリーグ1位の成績だったが、この年だけ導入された資格投球回数算定法によって南海ホークスの標準回数が164回と決まっており、投球回数が155回だった服部は規定未満として最優秀防御率のタイトルを逃し、2.08で2位だった同僚の柚木進がタイトル獲得となった。読売ジャイアンツとの日本シリーズにも出場し、第1戦と第2戦はリリーフで登板。
土屋 弘光(つちや ひろみつ、1932年11月25日 - )… 土屋 弘光(つちや ひろみつ、1932年11月25日 - )は、広島県福山市出身の元プロ野球選手(内野手)、野球解説者。引退後は、所属していた中日ドラゴンズの球団マネジャー・スカウト・コーチなどを務めた。
鵜飼 勝美(うかい かつみ、1932年11月11日 - )は… 鵜飼 勝美(うかい かつみ、1932年11月11日 - )は、愛知県一宮市出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手、外野手。1953年は鵜飼 勝助(うかい かつすけ)の登録名でプレー。
岩村 吉博(いわむら よしひろ、1932年11月3日 - )… 岩村 吉博(いわむら よしひろ、1932年11月3日 - )は大阪府大阪市東淀川区出身の元プロ野球選手。
伊藤 四郎(いとう しろう、1932年11月1日 - 201… 伊藤 四郎(いとう しろう、1932年11月1日 - 2011年5月30日)は、三重県四日市市出身で、1950年代に活躍したプロ野球選手(投手)。 四日市商業高校を卒業後、1951年に名古屋ドラゴンズに入団。名古屋(中日)ではわずか2勝と目立った活躍はできなかった。 1955年1月末の春のキャンプ直前に、中西由行とともにトンボユニオンズに移籍。慶應大学の先輩後輩の縁で、トンボ監督・浜崎真二が中日代表・中村三五郎に対して、未完成でもよいのでとにかく身体が大きく球が速い選手を要望し、移籍の運びとなった。移籍通告後すぐさま、伊藤と中西は中日球団から特別二等車の切符を与えられて、列車で岡山キャンプに向かっていたトンボの選手と合流するように指示される。
大神 武俊(おおがみ たけとし、1932年11月1日 - 2… 大神 武俊(おおがみ たけとし、1932年11月1日 - 2003年1月16日)は、福岡県福岡市出身のプロ野球選手(投手、右投右打)・解説者、野球指導者。 博多工業高から社会人野球の東洋高圧大牟田を経て、1951年に南海ホークスの2軍的なチームであった社会人野球の南海土建に入団。 1952年に南海ホークスに昇格する。1年目の当初は、ぱっと見で身体が細くて、使い物になるか危ぶまれるような選手であったという。しかし、キャンプで注目を集めると、シーズンでは8勝を挙げる。巨人との日本シリーズでは新人にもかかわらず、第1戦の先発に抜擢される(大神以後、日本シリーズ第1戦に先発登板した新人投手は、楽天の則本昂大が2013年に先発登板するまで61年間にわたって現れなかった。
小倉 薫(おぐら かおる、1932年10月30日 - )は、… 小倉 薫(おぐら かおる、1932年10月30日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手。 広島観音高校から1952年に大洋ホエールズへ入団。 観音高のワンマン投手、シュートが武器、26年国体で優勝した。 1954年に外野手へ転向。1955年に引退。
北川 芳男(きたがわ よしお、1932年10月18日 - )… 北川 芳男(きたがわ よしお、1932年10月18日 - )は、千葉県佐原市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 佐原一高卒業後、日本ビールに入社。エースとして都市対抗の常連となる。1956年の産業対抗では決勝に進出、熊谷組を無失点に抑え好投するが、9回裏サヨナラ負けを喫する。同大会では敢闘賞を獲得した。同年の第2回世界野球大会に社会人野球日本代表として出場。1958年の都市対抗では3勝を挙げて準決勝に進出するが、日本石油に惜敗。 1959年に国鉄スワローズへ入団すると、1年目から主力投手として活躍。長年エースとして君臨していた金田正一を凌ぐ、37先発322回2/3を投げ、18勝20敗・防御率2.51(リーグ6位)の好成績をマーク。
山崎 弘美(やまざき ひろみ、1932年10月9日 - 20… 山崎 弘美(やまざき ひろみ、1932年10月9日 - 2013年5月20日)は、長野県出身のプロ野球選手。 辰野高校から1952年に読売ジャイアンツへ入団。1958年の二軍の国鉄・大洋との北海道遠征では、青函連絡船で函館に着くと朝市で毛ガニを両手で抱えきれないくらい買ってくるなど、めぼしい駅に着く度に地元の名物を買い込んできたほか、買い出し・列車の手配など、マネージャー兼任で活躍した。また、巨人軍合宿所の小山寮長の信頼が厚く、そのうち副寮長格になって寮長の隣の部屋に住んでいたという。しかし、広田順・藤尾茂・森昌彦ら強力な捕手陣の壁を崩せず、一軍試合出場は1959年の2試合のみで、1960年に引退。
佐藤 公男(さとう きみお、1932年10月2日 - )は、… 佐藤 公男(さとう きみお、1932年10月2日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手。 白石高校から仙台鉄道局を経て1953年に大洋松竹ロビンスへ入団。同年に退団した。
長谷川 繁雄(はせがわ しげお、1932年10月2日 -19… 長谷川 繁雄(はせがわ しげお、1932年10月2日 -1966年6月24日)は、1950年代半ばから1960年代前半にかけて活躍したプロ野球選手(一塁手、外野手)である。広島県竹原市出身。 竹原高校を卒業後、法政大学に進学。東京六大学野球リーグでは中心打者として活躍したが、優勝には届かず、1954年秋季リーグの2位が最高成績であった。大学同期に中野健一、1年下に斎田忠利・古川啓三がいる。 1956年に南海ホークスへ入団。同年は開幕直後から一塁手、五番打者に抜擢され、寺田陽介とレギュラーを争う。四番打者としても11試合に出場した。1957年のシーズン後半から中堅手に回る。1958年には122試合に出場し規定打席にも到達、打率.276(リーグ9位)、16本塁打の好成績を残した。
井上 佳明(いのうえ よしあき、1932年9月25日 - 1… 井上 佳明(いのうえ よしあき、1932年9月25日 - 1980年6月25日)は、大阪府出身で、1950年代に活躍したプロ野球選手(投手)。 大阪府立天王寺高等学校を卒業後、1951年に国鉄スワローズに入団。同年9月1日、後楽園球場での対大洋ホエールズ戦にてプロ初勝利を挙げた。 翌1952年には、7勝を記録。1953年には自己シーズン最多の9勝を挙げたものの、セ・パ両リーグ最多の26敗を喫した。同年5月9日から8月6日にかけて、同一シーズン13連敗というセ・リーグ記録を残している。以降は成績が低迷し、1957年オフに引退。 1980年6月25日、病のために47歳という若さで急逝した。
坂本 登(さかもと のぼる、1932年9月20日 - 198… 坂本 登(さかもと のぼる、1932年9月20日 - 1989年1月27日)は、群馬県出身のプロ野球選手。 桐生工業高校から日本大学を経て1955年に阪急ブレーブスへ入団。
大久保 英男(おおくぼ ひでお、1932年9月13日 - )… 大久保 英男(おおくぼ ひでお、1932年9月13日 - )は、徳島県鳴門市出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
岡田 豊(おかだ ゆたか、旧名:哲男〈てつお〉、1932年9… 岡田 豊(おかだ ゆたか、旧名:哲男〈てつお〉、1932年9月12日 - )は、元プロ野球選手・プロ野球審判員。兵庫県出身。 県立尼崎工業から近畿大学に進む。近畿学生野球リーグでは在学中7回優勝。1955年春秋季リーグ連続で首位打者となる。 1956年に阪急ブレーブスに捕手として入団。1年目から一軍に上がり、1960年には山下健と併用されて32試合に先発マスクを被る。しかし1961年には岡村浩二が新入団、出場機会が減少し同年限りで引退。 その後パ・リーグ審判部に入局し、パ・リーグ初の3000試合出場を達成し、1993年までつとめた。審判員袖番号は3(1977年初採用から1993年引退まで、3は2003年以降橋本信治がつけている。
神崎 安隆(かんざき やすたか、1932年8月24日 - 1… 神崎 安隆(かんざき やすたか、1932年8月24日 - 1985年)は、広島県出身のプロ野球選手(捕手)。
岩井 活水(いわい かつみ、1932年8月17日 - 没年不… 岩井 活水(いわい かつみ、1932年8月17日 - 没年不明)は、静岡県出身のプロ野球選手。
吉成 武雄(よしなり たけお、1932年7月20日 - 19… 吉成 武雄(よしなり たけお、1932年7月20日 - 1960年6月10日)は、栃木県宇都宮市出身 のプロ野球選手(捕手)。右投左打。 宇都宮工業高校では、同期の神田昌男とバッテリーを組み、捕手、三番打者として甲子園に2回出場。1950年夏の選手権は2回戦(初戦)でエース大沢昭を擁する神奈川商工を降し、準々決勝では若狭高に大勝。準決勝に進むが、松山東高の池田勉(津田鋼材)に抑えられ完封負け。翌1951年春の選抜は1回戦で平安高の清水宏員を打ち崩し完封勝ち、しかし準々決勝で明治高のエース松尾豊(明大)に完封負けを喫する。明治高には沖山光利がいた。 1952年に大洋ホエールズへ神田と共に入団。同年は荒川昇治の控え捕手であったが、シーズン終盤には13試合に先発マスクを被る。
松山 昇(まつやま のぼる、1932年7月20日 - )は、… 松山 昇(まつやま のぼる、1932年7月20日 - )は、大阪府藤井寺市出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
赤松 瞭(あかまつ りょう、1932年7月5日 - )は、兵… 赤松 瞭(あかまつ りょう、1932年7月5日 - )は、兵庫県淡路島出身の元プロ野球選手(投手)。 洲本実業高校から1951年に大阪タイガースに入団。1956年に大映スターズに移籍するが、プロで勝ち星を挙げることなく同年に引退した。
石井 連藏(いしい れんぞう、1932年6月26日 - 20… 石井 連藏(いしい れんぞう、1932年6月26日 - 2015年9月27日)は、日本のアマチュア野球選手、監督。早稲田大学野球部第9代・第14代監督。 水戸第一高等学校では、エースとして1949年秋季関東大会県予選決勝に進むが、水戸商に惜敗。翌1950年夏の甲子園予選でも北関東大会決勝に進むが、宇都宮工の神田昌男、吉成武雄(いずれものち大洋ホエールズ)のバッテリーに完封を喫し甲子園出場を逸する。 1951年に早稲田大学野球部に進み、東京六大学野球リーグでは在学中3度の優勝を経験。2年生からエースとして剛速球のストレートと大きなカーブを武器に活躍、なかでも早慶戦では6勝を挙げ大活躍した。2年次の1952年は慶應の河合貞雄と春秋にわたって全試合に投げ合いを演じ、春季2位、秋季優勝の記録を残した。
石井 連藏(いしい れんぞう、1932年6月26日 - 20… 石井 連藏(いしい れんぞう、1932年6月26日 - 2015年9月27日)は、日本のアマチュア野球選手、監督。早稲田大学野球部第9代・第14代監督。
拝藤 聖雄(はいどう まさお、1932年6月22日 - 20… 拝藤 聖雄(はいどう まさお、1932年6月22日 - 2011年7月21日)は、鳥取県境港市出身で、近鉄パールスに在籍した元プロ野球選手(投手)である。 実弟の拝藤宣雄(‐のりお)も、元プロ野球選手(広島カープに在籍した)。 境高では、1949年秋季中国大会準決勝に進むが米子東高に敗退。翌1950年夏の甲子園予選東中国大会でも準決勝に進出するが、またも米子東高に敗退し甲子園出場を逸する。米子鉄道管理局を経て、1952年に近鉄パールスへ入団。 1956年3月24日の東映フライヤーズ戦でプロ初勝利を記録した。同年は主に中継ぎとして18試合に登板。しかし公式戦ではその1勝のみで、同年オフに24歳にして現役を引退。
稲垣 人司(いながき ひとし、1932年6月15日 - 20… 稲垣 人司(いながき ひとし、1932年6月15日 - 2000年10月15日)は、広島県三次市出身の高校野球指導者、監督。 三次中学校(現在の三次高校)卒業後、大蔵省中国財務局に入局するが2年で退職し、石本秀一の書生となって2年間野球を学ぶ。1968年春から1970年春にかけて2年間、大東文化大学硬式野球部の2代目監督に就任。これは、初代監督の岡田悦哉が広島東洋カープ二軍バッテリーコーチに就任したためだった。広島工業高校コーチを経て1976年、創部まもない東京の創価高校監督に就任。小野和義を擁して1983年夏の甲子園に同校を初出場に導いた。その後、神奈川の桐光学園監督を経て1989年、創立8年目の埼玉の花咲徳栄高校に招かれ監督就任。
川島 孝(かわしま たかし、1932年6月8日 - )は、愛… 川島 孝(かわしま たかし、1932年6月8日 - )は、愛知県出身の元プロ野球選手。 旭丘高校から1951年に国鉄スワローズへ入団。1952年に退団。
小野 拓(おの ひろし、1932年5月14日 - )は、福島… 小野 拓(おの ひろし、1932年5月14日 - )は、福島県出身の元プロ野球選手。
池西 増夫(いけにし ますお、1932年5月12日 - )は… 池西 増夫(いけにし ますお、1932年5月12日 - )は、愛媛県西条市出身の元アマチュア野球選手・指導者である。ポジションは捕手。 西条高校では、3番捕手として活躍し、藤田元司とバッテリーを組むが、甲子園への出場を果たすことはできなかった。卒業後には関西大学に入学する。 大学卒業後は社会人野球の電電近畿チームに入団する。1959年から監督を務め、1965年の都市対抗野球では決勝で住友金属を破り、チームを優勝に導いた。同年の中南米遠征の全日本メンバーの監督も務めた。 佐伯達夫の勧めにより、1967年から1988年まで日本放送協会で高校野球解説者を務めた。 現在は実家の和菓子屋の店主を務めている。
大崎 三男(おおさき みつお、1932年5月9日 - 没年不… 大崎 三男(おおさき みつお、1932年5月9日 - 没年不明)は、東京都出身のプロ野球選手(投手)。 明治高校では、エースとして1950年の春夏の甲子園に連続出場。春の選抜は1回戦で彦根高の中川和俊(のち毎日)と投げ合いを完封勝利、続く準々決勝で北野高に乱打戦の末に敗退。夏の選手権は2回戦(初戦)で北海高に敗れる。この時の監督は、後に大学野球監督として著名となる島岡吉郎である。1年下のチームメートに右翼手の沖山光利がいた。 明治大学に進学し、同学硬式野球部に所属。高校の野球部監督だった島岡も同時期に明治大学硬式野球部へと移っている。しかし1953年に退部し、大学も中退。この退部の原因は、1年後輩の秋山登がエースとして起用されるようになったことに対する不満とも、監督である島岡吉郎との確執とも言われている。
青山 浩(あおやま ひろし、1932年5月4日 - )は、兵… 青山 浩(あおやま ひろし、1932年5月4日 - )は、兵庫県神戸市出身の元プロ野球選手(外野手)。
山内 一弘(やまうち かずひろ、1932年〈昭和7年〉5月1… 山内 一弘(やまうち かずひろ、1932年〈昭和7年〉5月1日 - 2009年〈平成21年〉2月2日)は、愛知県一宮市奥町出身のプロ野球選手(外野手、右投右打)・コーチ・監督、野球解説者・評論家。旧名は山内 和弘(読みは同じ)。 1952年にパシフィック・リーグ(パ・リーグ)の毎日オリオンズに入団し、毎日および毎日大映オリオンズ(大毎オリオンズ)で「ミサイル打線」の主軸打者として活躍、後にセントラル・リーグ(セ・リーグ)の阪神タイガースや広島東洋カープでもプレーし、通算19年間の現役生活で打点王4回・首位打者1回・本塁打王2回を獲得、通算2271安打、396本塁打、1286打点を記録した。引退後は毎日・大毎の後身であるロッテオリオンズや中日ドラゴンズで監督を務め、2002年に野球殿堂入りした。
一柳 忠尚(いちやなぎ ただなお、1932年4月29日 - … 一柳 忠尚(いちやなぎ ただなお、1932年4月29日 - )は、愛知県出身の元プロ野球選手。 愛知県立瑞陵高等学校から1951年に名古屋ドラゴンズへ入団。 1955年に大洋ホエールズへ移籍し、1軍試合にも初出場する。1956年に引退。
杉本 定介(すぎもと ていすけ、1932年4月25日 - 没… 杉本 定介(すぎもと ていすけ、1932年4月25日 - 没年不明)は、新潟県出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 新潟中学(現・新潟県立新潟高等学校)卒業後、1952年に読売ジャイアンツ(以下、巨人)に入団。新潟県出身者として初めての巨人軍在籍選手となった。1954年まで在籍したが、一度も一軍出場を果たせないまま巨人を退団した。僅か3年間の現役生活だが、背番号を4個、4回にわたって変えている。その後は、社会人野球の常磐炭礦野球部でプレーした。 2014年現在、既に故人である。
東泉 東二(とうせん とうじ、1932年4月22日)は、静岡… 東泉 東二(とうせん とうじ、1932年4月22日)は、静岡県出身のプロ野球選手(投手)。 静岡県立韮山高等学校在学中には、1950年の第22回選抜高等学校野球大会に出場。速球、ドロップを武器に、エースとして全4試合に投げ抜き、同校の初出場初優勝に大きく貢献した。この大会での活躍が目に留まり、翌1951年に東急フライヤーズに入団。しかしプロの壁は厚く、8試合登板・未勝利に終わり、1953年に退団。プロ退団後は日本石油でプレーした。 非常に練習熱心な選手で、シャドーピッチングで自宅の部屋をボロボロにしたというエピソードが残っている。
片山 嘉視(かたやま よしみ、1932年4月22日 - )は… 片山 嘉視(かたやま よしみ、1932年4月22日 - )は、熊本県出身の元プロ野球選手。 済々黌高校から専修大学を経て1955年に阪急ブレーブスへ入団。1956年に引退。
大畑 庄作(おおはた しょうさく、1932年4月9日 - )… 大畑 庄作(おおはた しょうさく、1932年4月9日 - )は、静岡県出身の元プロ野球選手。
手沢 庄司(てざわ しょうじ、1932年4月2日 - 202… 手沢 庄司(てざわ しょうじ、1932年4月2日 - 2025年12月8日[要出典])は、山梨県甲府市出身のプロ野球選手、元プロ野球審判員。 1950年に甲府第一高校卒業後、内野手として1952年に松竹ロビンスに入団。1953年チームが大洋ホエールズと合併して大洋松竹ロビンスとなっても移籍せず所属していたが1954年に親会社の松竹が共同経営から撤退し大洋ホエールズに戻ると同時に引退。選手としては3試合に出場し、1打数0安打。 引退後は松竹演舞場に勤務していたが御世話になった先輩に導かれ1962年、セントラル・リーグ審判部に入局した。セ・リーグ袖番号は21(1988年初採用から1989年引退まで)。
浮田 逸郎(うきた いつろう、1932年3月27日 - 20… 浮田 逸郎(うきた いつろう、1932年3月27日 - 2017年4月29日)は、長崎県佐世保市出身のプロ野球選手。 佐世保北高校から1950年に西日本パイレーツへ練習生として入団。 同年の6月頃に、独立二軍チームだった山陽クラウンズへ他3選手と一緒に派遣されたとみられる。 1951年に西日本が西鉄と合併すると、西日本からの派遣組4人は全員解雇される。浮田は地元・佐世保の市役所に勤務するが、野球への思いは断ちがたく、1選手として山陽クラウンズに復帰した。 1952年にチームが解散し、1953年に高橋真輝とともに大洋松竹ロビンスへ入団。プロ入り初登板を果たすが、肩を痛め同年引退。カーブが武器だった。