近藤 正雄(こんどう まさお、1922年10月25日 - 1… 近藤 正雄(こんどう まさお、1922年10月25日 - 1997年7月16日[1])は、和歌山県[1]出身の元プロ野球選手(外野手)。
職業が野球:7,475人
近藤 正雄(こんどう まさお、1922年10月25日 - 1… 近藤 正雄(こんどう まさお、1922年10月25日 - 1997年7月16日[1])は、和歌山県[1]出身の元プロ野球選手(外野手)。
安居 玉一(やすい たまいち、1922年10月10日 - 2… 安居 玉一(やすい たまいち、1922年10月10日 - 2002年8月22日)は、昭和時代前期に活躍したプロ野球選手。改姓前は、玉置 玉一(たまき-)。
武末 悉昌(たけすえ よしまさ、1922年10月4日 - 1… 武末 悉昌(たけすえ よしまさ、1922年10月4日 - 1998年6月2日)は、福岡県出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 名前は、悉昌を音読みして「しっしょう」とも称した。 福岡県筑紫郡の農家の家系に生まれる。父が農業を継がせようとする両親(武末にとっては祖父母にあたる)に反発して家を出奔して銀行員となったため、1人残った武末は祖父母からの迫害を受けることになった。旧制筑紫中学(現:福岡県立筑紫丘高等学校)を卒業後、親類から逃れて野球を続けるために旧満州に渡り、大連高等商業学校を経て、満協中央銀行に入る。その後、1944年に召集令状を受け取り、関東軍に経理将校として召集される。
大島 渡(おおしま わたる、1922年10月3日 - )は、… 大島 渡(おおしま わたる、1922年10月3日 - )は、愛知県出身の元プロ野球選手。
別所 毅彦(べっしょ たけひこ、1922年10月1日 - 1… 別所 毅彦(べっしょ たけひこ、1922年10月1日 - 1999年6月24日)は、兵庫県神戸市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。
砂押 邦信(すなおし くにのぶ、1922年9月25日 - 2… 砂押 邦信(すなおし くにのぶ、1922年9月25日 - 2010年7月18日)は、茨城県出身の元野球選手(投手)、コーチ・プロ野球監督。 立教大学監督時代にMLB流の指導法で長嶋茂雄を育てた人物として知られている。 水戸商業高校卒業後、1942年に立教大学へ入学。水戸商業の後輩に早稲田大学で選手・監督として活躍した石井藤吉郎、立大の2年先輩には西本幸雄がいた。戦時中は学徒兵として兵役に就き、戦後の1947年に卒業。 小口工作所の選手兼任監督(1948年 - 1949年)を経て、1950年に母校・立大監督に就任。「鬼の砂押」と恐れられたほどのスパルタ式猛練習で、1953年春季には20年ぶりに東京六大学リーグ優勝を果たしたほか、第2回日本選手権にも優勝。
森 雅功(もり まさのり、1922年9月9日 - 没年不明)… 森 雅功(もり まさのり、1922年9月9日 - 没年不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手。
山川 武範(やまかわ たけのり、1922年8月25日 - 1… 山川 武範(やまかわ たけのり、1922年8月25日 - 1981年11月9日)は、長崎県出身のプロ野球選手(内野手)。1951年途中までは山川 喜作 。 石本秀一の秘蔵っ子で、金鯱・大洋軍などでプレー後、1942年に応召される。 戦後の1946年に東京巨人軍に入団しプロ野球に復帰する。堅実な守備とシュアな打撃を買われて二番・三塁手のレギュラーを掴み、チームトップの70得点を記録した。同年8月21日の対中部日本戦では、1,3,4,5,6回と5打席連続四球(1試合最多四球の一リーグ記録)を選ぶと、6回の打者一巡後の打席で二ゴロ失策で出塁し、9回には二塁打を打って、1試合7打席7出塁の珍しい記録を作り、5得点を記録している。
高山 泰夫(たかやま やすお、1922年(大正11年)8月2… 高山 泰夫(たかやま やすお、1922年(大正11年)8月23日 - )は岐阜県出身の元プロ野球選手。
小池 繁雄(こいけ しげお、1922年8月15日 - 没年不… 小池 繁雄(こいけ しげお、1922年8月15日 - 没年不詳)は、長野県出身のプロ野球選手(内野手)。 長野商業では、1939年の夏の甲子園に出場し、ベスト4まで進むが準決勝で下関商業に敗れた。 1941年に東京巨人軍に入団するが、同年はわずか4試合の出場に留まった。1942年に主将の水原茂が9月初旬に応召を受け離脱したため、正三塁手がいない状況となる。1ヶ月ほど強肩を買われて青田昇が三塁手を務めるが暴投を乱発して外野手に戻ったことから、小池が後釜の三塁手を務める。この年は50試合に出場するが、5月半ばから10月半ばの5ヶ月に亘って43打席連続無安打に抑えられるなど、シーズンでわずか7安打しか打てず.077の低打率に終わった。
仁科 栄三(にしな えいぞう、1922年8月3日 - )は兵… 仁科 栄三(にしな えいぞう、1922年8月3日 - )は兵庫県出身の元プロ野球選手。
藤井 道夫(ふじい みちお、1922年7月24日 - 200… 藤井 道夫(ふじい みちお、1922年7月24日 - 2007年12月23日)は、香川県出身のプロ野球選手(外野手)。
石丸 進一(いしまる しんいち、1922年7月24日 - 1… 石丸 進一(いしまる しんいち、1922年7月24日 - 1945年5月11日)は、プロ野球選手(投手・内野手)、大日本帝国海軍軍人。
白坂 長栄(しらさか ちょうえい、1922年7月23日 - … 白坂 長栄(しらさか ちょうえい、1922年7月23日 - 2015年7月8日)は、岩手県二戸郡一戸町野田坂出身のプロ野球選手(内野手)・二軍監督・スコアラー。 一戸町で広大なリンゴ園を営む農家の三男として生まれる。兄が通っていた福岡中学に進み、野球部に入部。在学中は甲子園出場はならなかった。卒業後、仙台鉄道局へ就職するが、1年勤務したのち、先輩の誘いで華中鉄道に移籍。その後応召され、近衛歩兵第1連隊に配属となり、北支戦線で5年ほど軍隊生活を送った。復員後はかつて在籍していた仙台鉄道局盛岡に復帰し、投手として活躍。のち沢藤光郎(後に近鉄パールスに入団)が入団すると、遊撃手に転向した。 1948年のシーズン中に大阪タイガースに入団。
香川 正(かがわ ただし、1922年7月23日 - 没年不明… 香川 正(かがわ ただし、1922年7月23日 - 没年不明)は、大阪府大阪市出身のプロ野球選手、高校野球指導者。ポジションは外野手。 坂出商業学校時代の1938年に夏の甲子園に出場。1940年早稲田大学に進学。応召を経て社会人野球の全大阪、全鐘紡、中央ペイント、日本生命でプレーし1954年に近鉄パールスに入団(当時32歳)。 2年間在籍した後、母校坂出商業高校の監督に就任。1957年夏は安藤元博を擁しベスト8。秋の静岡国体では優勝を飾った。 長男の香川正人も近鉄に在籍したプロ野球選手。
金山 次郎(かなやま じろう、1922年7月19日 - 19… 金山 次郎(かなやま じろう、1922年7月19日 - 1984年3月30日)は、福岡県(朝鮮・慶尚南道晋陽郡生まれ)出身のプロ野球選手(内野手)。 豊国商業(現豊国学園高)から1943年に名古屋軍へ入団。 1944年に3本で本塁打王を獲得。 1948年に球団代表の赤嶺昌志が辞任に追い込まれると、後を追って、小鶴誠、加藤正二、古川清蔵、三村勲、野口正明、岩本章、井上嘉弘、藤原鉄之助らと共に退団し、永田雅一が結成した大映球団に所属し大映球団が東急フライヤーズに合流する形で急映フライヤーズに移籍した。 1949年に金星スターズが永田雅一によって買収され大映スターズとなり、そのチームに小鶴誠らと共に移籍。
吉江 英四郎(よしえ えいしろう、1922年7月9日 - 1… 吉江 英四郎(よしえ えいしろう、1922年7月9日 - 1986年1月21日)は、カナダ生まれ、宮城県出身のプロ野球選手(投手)。 仙台一中では第26回全国中等学校優勝野球大会に出場した。翌年に早稲田大学へ進学し卒業後地元のアマチュア野球チームの仙台広瀬倶楽部に入った。1948年に急映フライヤーズに入団。1年目に48試合に登板し16勝19敗と新人ながら2桁勝利を記録した。翌年は9勝を挙げ、1950年に読売ジャイアンツへ移籍し同年に退団。退団した次の年に社会人野球の大昭和製紙でプレーし第24回都市対抗野球大会で優勝を経験した。
白川 一(しらかわ はじめ、1922年5月25日 - 198… 白川 一(しらかわ はじめ、1922年5月25日 - 1982年3月15日)は、鹿児島県出身のプロ野球選手(外野手)。 鹿児島商業学校から社会人野球の星野組を経て、1950年に創設された毎日オリオンズへ入団。 1953年に現役を引退。1955年から1957年までコーチを務めた。
伊藤 利夫(いとう としお、1922年5月10日 - 201… 伊藤 利夫(いとう としお、1922年5月10日 - 2011年7月20日) は岐阜県岐阜市生まれのプロ野球選手(外野手)、高校野球監督。
江藤 晴康(えとう はるやす、1922年5月9日 - 201… 江藤 晴康(えとう はるやす、1922年5月9日 - 2016年2月21日)は、福岡県北九州市出身のプロ野球選手である。現役時代のポジションは、投手。1949年から1954年は、「江藤 正(えとう ただし)」の名前でプレーした。 八幡中(現:八幡高)・法政大学でエース投手として活躍。在学中に学徒出陣で召集され、台湾で終戦を迎える。大学卒業後は社会人野球の門司鉄道局・大洋漁業でプレー。1949年に南海ホークスに入団した。 プロ入りに際し、大阪タイガースと南海ホークスとの二重契約が発覚。これには、以下のような事情がある。以前に武末悉昌の獲得を巡って両球団が争い、武末が南海に入ったことを「奪われた」と考えた大阪の若林忠志監督が南海の山本一人監督に抗議したところ、山本が「武末は南海、江藤は大阪ということにしよう」と口にした。
野本 喜一郎(のもと きいちろう、1922年5月8日 - 1… 野本 喜一郎(のもと きいちろう、1922年5月8日 - 1986年8月8日)は、埼玉県加須市出身のプロ野球選手、学生野球指導者。 旧制の不動岡中学校(現在の埼玉県立不動岡高等学校)卒業。第二次世界大戦が勃発すると日本軍に徴兵され、中国戦線へ送られた。 不動岡中時代から野球部の投手を務めており、戦後、社会人野球のコロムビアを経て、1950年に西日本パイレーツへ入団した。1951年、西日本パイレーツと西鉄クリッパースが合併し、西鉄ライオンズと改称したが3シーズンに渡って同チームに在籍し、1953年に近鉄パールスへ移籍し、アンダースローの投手としてプロ通算18勝をあげた。同年限りで現役を引退し、その後は郷里の埼玉県に戻り上尾町(後の上尾市)で銭湯を営んでいた。
緒方 俊明(おがた としあき、1922年4月23日 - )は… 緒方 俊明(おがた としあき、1922年4月23日 - )は、熊本県出身の元プロ野球選手(投手)。
林 安夫(はやし やすお、1922年4月3日 - 1944年… 林 安夫(はやし やすお、1922年4月3日 - 1944年?)は、愛知県出身のプロ野球選手(投手)。弟は元プロ野球選手の林直明。
野口 昇(のぐち のぼる、1922年(大正11年)3月18日… 野口 昇(のぐち のぼる、1922年(大正11年)3月18日 - 1945年(昭和20年))は、昭和前期に活躍した中等学校野球の選手、プロ野球選手。
広瀬 習一(ひろせ しゅういち、1922年〈大正11年〉3月… 広瀬 習一(ひろせ しゅういち、1922年〈大正11年〉3月15日 - 1944年〈昭和19年〉9月13日)は、滋賀県出身のプロ野球選手(投手)。戦前期に巨人軍で活躍した。 1934年、12歳のとき、地元の琵琶湖を横断する遠泳大会で14㎞を泳ぎ切って大評判となる。 1935年に大津商業に入学。1938年の夏の甲子園の県予選では外野手として出場するが、準決勝で膳所中学に敗退する。1939年正月の京滋中等対抗野球大会では、初めて対戦した神田武夫を擁する京都商業に完敗するが、前年の夏の甲子園を制した平安中学を破りって2勝1敗となり、大津商業として初の春の甲子園大会に選ばれる。甲子園では1回戦で小倉工業と対戦、広瀬は一番・遊撃手を務めるが、緊張のせいか無安打2失策と奮わず、チームも1-3で敗れた。
松葉 昇(まつば のぼる、1922年3月9日 - 1995年… 松葉 昇(まつば のぼる、1922年3月9日 - 1995年10月26日)は、和歌山県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。1947年から1948年の登録名は旧姓の朝井昇。
古川 清蔵(ふるかわ せいぞう、1922年3月4日 - 20… 古川 清蔵(ふるかわ せいぞう、1922年3月4日 - 2018年10月17日)は、鹿児島市下荒田町出身のプロ野球選手(外野手、1942年のみ捕手)・競馬評論家。 鹿児島二中から、鹿児島商業学校に進学、八幡製鉄を経て、赤嶺昌志の勧誘で1941年に名古屋に外野手として入団。 捕手を務めていた三浦敏一、服部受弘が2人とも応召されてしまったため、1942年は開幕から捕手として起用される。5月12日の対南海軍戦で川崎徳次からサヨナラ本塁打を放つと、5月24日の大洋戦では、2点ビハインドの9回に野口二郎から同点本塁打を放っている。この試合はそのまま延長戦に入り、当時世界最長の延長28回の末、4対4で引き分けている。
鈴木 忠(すずき ただし、1922年2月25日 - 没年不明… 鈴木 忠(すずき ただし、1922年2月25日 - 没年不明)は、東京府出身のプロ野球選手。 旧制日大二中、日大高工、川崎トキコ、国民野球連盟の大塚アスレチックスを経て1950年に新設された西日本パイレーツへ入団。同年退団。
渡辺 誠太郎(わたなべ せいたろう、1922年(大正11年)… 渡辺 誠太郎(わたなべ せいたろう、1922年(大正11年)2月8日 - 2013年(平成25年)6月22日)は、秋田県秋田市出身の元プロ野球選手。 秋田市立土崎商業学校(現:秋田市立秋田商業高等学校)卒業後、1941年に阪神軍に入団。その後、1944年(昭和19年)に応召。 1946年から大阪タイガースに復帰。同年は開幕投手を勤め、10勝を挙げる(12敗)。同年7月26日の対パシフィック戦(阪急西宮球場、1-0で勝利)では、13時15分の開始から14時10分の終了まで試合時間が僅か55分という、日本プロ野球史上最短試合時間記録を達成した。この試合ではパシフィック先発の湯浅芳彰と投げ合い、被安打5・88球で完封勝ちした。
松田 耕平(まつだ こうへい、1922年1月28日 - 20… 松田 耕平(まつだ こうへい、1922年1月28日 - 2002年7月10日)は、マツダ(東洋工業)の創業者一族であり、同社元社長、プロ野球・広島東洋カープ元オーナー。広島県広島市上幟町(現・中区)出身。京北中学校 - 旧制修道中学校 - 慶應義塾大学卒業。
石原 光男(いしはら みつお、1922年 - )は、神奈川県… 石原 光男(いしはら みつお、1922年 - )は、神奈川県出身のプロ野球選手。 浅野中学校から1946年にセネタースへ入団。同年退団。
桶川 隆(おけかわ たかし、1922年 - )は、大阪府出身… 桶川 隆(おけかわ たかし、1922年 - )は、大阪府出身のプロ野球選手。
山崎 諭(やまざき さとる、1922年 - 2000年4月1… 山崎 諭(やまざき さとる、1922年 - 2000年4月19日)は、日本のアマチュア野球選手、アマチュア野球指導者。
池端 忠夫(いけはた ただお、1922年 - )は愛知県知多… 池端 忠夫(いけはた ただお、1922年 - )は愛知県知多市出身の元プロ野球選手。
神田 武夫(かんだ たけお、1922年 - 1943年7月2… 神田 武夫(かんだ たけお、1922年 - 1943年7月27日)は、京都府出身のプロ野球選手(投手)。
道仏 訓(どうぶつ さとし、1921年12月2日 - 200… 道仏 訓(どうぶつ さとし、1921年12月2日 - 2005年7月25日)は、昭和期のプロ野球選手・パシフィック・リーグ審判。広島県呉市出身。
山本 静雄(やまもと しずお、1921年12月1日 - 19… 山本 静雄(やまもと しずお、1921年12月1日 - 1959年4月27日)は、兵庫県出身の元プロ野球選手。ポジションは二塁手。
武宮 敏明(たけみや としあき、1921年11月25日 - … 武宮 敏明(たけみや としあき、1921年11月25日 - 2010年1月15日)は、熊本県熊本市出身のプロ野球選手(捕手)・監督・コーチ。
三輪 裕章(みわ ひろあき、1921年11月21日 - 19… 三輪 裕章(みわ ひろあき、1921年11月21日 - 1990年4月12日)は、群馬県出身のプロ野球選手。 旧制桐生中学(現:群馬県立桐生高等学校)では、1939年から1941年の選抜中等学校野球大会に出場した。1942年に阪神軍に入団。1年目から58試合に出場した。 しかし、翌1943年に徴兵され退団。戦後は全桐生に所属していたが、プロ野球に復帰することはなかった。
渡辺 絢吾(わたなべ じゅんご、1921年11月15日 - … 渡辺 絢吾(わたなべ じゅんご、1921年11月15日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手。
三輪 八郎(みわ はちろう、1921年11月13日 - 19… 三輪 八郎(みわ はちろう、1921年11月13日 - 1944年8月17日)は、群馬県群馬郡片岡村(現・高崎市)出身のプロ野球選手。左投左打。1942年・1943年は、同じ阪神軍に在籍していた三輪裕章と区別するため三輪八と書かれることもある。 高崎市片岡尋常小学校(現:高崎市立片岡小学校)、群馬県立高崎中学校(現:群馬県立高崎高等学校)卒業。甲子園出場経験は無いが、1936年の高崎中3年次には北関東大会決勝まで一人で投げ抜き、群馬県立桐生中学校(現:群馬県立桐生高等学校)に敗れた。 桐生中の野球部監督・稲川東一郎の推薦により、稲川の義弟で大阪タイガースの球団職員だった早川二郎を仲介して同球団に入団。
大西 寛介(おおにし ひろすけ、1921年11月11日 - … 大西 寛介(おおにし ひろすけ、1921年11月11日 - 1987年1月29日)は、愛知県岡崎市出身のプロ野球選手。
手塚 明治(てづか あきはる、1921年10月10日 - )… 手塚 明治(てづか あきはる、1921年10月10日 - )は、長野県出身の元プロ野球選手。ポジションは三塁手。1956年の登録名は手塚 耀朗(てづか てるお)。
小前 博文(こまえ ひろふみ、1921年10月9日 - 20… 小前 博文(こまえ ひろふみ、1921年10月9日 - 2000年5月10日)は、兵庫県出身の元プロ野球選手(外野手)。
大島 信雄(おおしま のぶお、1921年10月2日 - 20… 大島 信雄(おおしま のぶお、1921年10月2日 - 2005年1月8日)は、愛知県一宮市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。
瀧 正男(たき まさお、1921年9月8日 - 2012年4… 瀧 正男(たき まさお、1921年9月8日 - 2012年4月2日)は、日本のアマチュア野球指導者、元アマチュア野球選手、体育学者。長男は野外活動、レクリエーション活動研究を専門とする中京大学スポーツ科学部スポーツ健康科学科教授の瀧克己。 愛知県一宮市出身。1936年に中京商業学校に入学し野球部に入り、5回甲子園大会に出場。1937年夏の第23回全国中等学校優勝野球大会及び1938年春の第15回選抜中等学校野球大会で捕手として優勝を経験している。バッテリーを組んだのは野口二郎であった。 中京商業を卒業後に名古屋高等商業学校(現在の名古屋大学経済学部)に進学した後、軍隊に入りマレーシアへ出征。終戦後のマレーシアでの捕虜生活を経て1947年に内地復員を果たす。
鈴木 美嶺(すずき みれい、1921年9月3日 - 1991… 鈴木 美嶺(すずき みれい、1921年9月3日 - 1991年10月11日)は、日本のアマチュア野球選手、東京六大学野球審判員、公式記録員。 兵庫県出身。旧制愛知県立熱田中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)から旧制第八高等学校へ進学した。その後、東京帝国大学文学部西洋史学科に進み、野球部に入部。内野手として東京六大学野球リーグ戦でプレーした。また、1946年から1949年まで東京六大学野球の審判員を務めたこともある。 1950年、東京帝国大学卒業後に毎日新聞社に入社し、運動部記者として健筆を揮う傍ら、1954年に東京六大学野球連盟規則委員となり、1961年まで務める。 1955年の暮れ、それまでプロ野球とアマチュア野球が別々に発行していた規則書(ルールブック)の一本化が図られることになり、日本野球規則委員会が設置される。
荒木 正(あらき ただし、1921年8月27日 -没年不明 … 荒木 正(あらき ただし、1921年8月27日 -没年不明 )は、佐賀県出身のプロ野球選手。 唐津商業学校から門司鉄道管理局を経て、1941年に南海軍へ入団。1944年に退団。
増田 卓(ますだ たかし、1921年8月16日 - 1986… 増田 卓(ますだ たかし、1921年8月16日 - 1986年3月25日)は、徳島県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。 徳島中学校を卒業し、京都薬学専門学校や社会人野球でプレー後、1950年に大映スターズへ入団。1年目から外野のレギュラーを獲得し、下位打者として93試合に出場した。1952年は控えとして、代打や守備交代などでの途中出場が多かったが、翌年からはレギュラーに戻った。1956年は再び控えの外野手になり、この年限りで引退した。 1955年5月24日の毎日×大映戦(後楽園球場)、大映は毎日の荒巻淳投手にノーヒットノーランに押さえられるも、毎日も点が入らず0-0のまま延長戦、そして延長11回1死に増田がヒットを打ってノーヒットは途絶え、その後抑えられてた大映打線が息を吹き返して4-0で勝利した(「延長でノーヒットが途絶えた」で「最終的に4点差」は最多得点差)。
池田 久之(いけだ ひさゆき、1921年8月9日 - 194… 池田 久之(いけだ ひさゆき、1921年8月9日 - 1944年)は、長崎県出身のプロ野球選手(捕手)。