林屋 永吉(はやしや えいきち、1919年10月4日 - 2… 林屋 永吉(はやしや えいきち、1919年10月4日 - 2016年5月18日)は、日本の外交官。スペイン大使。 京都府宇治市出身。歴史学者林屋辰三郎の実弟。 1941年3月、大阪外国語学校(現・大阪大学外国語学部)本科西語部を卒業後、同年4月24日付けで外務省留学生を命ぜられ、スペイン・サラマンカ大学で学んだ。後年に駐ボリビア大使、駐スペイン大使を務めた。 ユカタン半島・マヤ文明の「ポポル・ヴフ」(中央公論社)や「大航海時代叢書」(岩波書店)の訳者でもある。メキシコのノーベル文学賞作家オクタビオ・パスと交友があり、スペイン語版の松尾芭蕉「おくのほそ道」を共訳した。レアル・アカデミア・エスパニョーラの準会員(correspondientes)になった。
鈴木 文彦(すずき ふみひこ、1919年〈大正8年〉9月13… 鈴木 文彦(すずき ふみひこ、1919年〈大正8年〉9月13日 - 没年不詳)は、日本の外交官、国際公務員。外務省経済局次長、外務省国際連合局長等を経て、1979年から82年までジュネーヴ国際機関日本政府代表部特命全権大使を務めた。 東京出身。東京府立第八中学校(現東京都立小山台高等学校)を経て、1940年浦和高等学校文科甲類卒業。1942年東京帝国大学法学部政治学科卒業、外務省入省。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校。1943年1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。1944年5月に海軍主計大尉に進み終戦を迎えた。1946年に解員(復員)した。 外務省経済局国際機関課長等を経て、1962年在ジュネーヴ国際機関日本政府代表部一等書記官。
飯村 繁(いいむら しげる、1919年〈大正8年〉9月 - … 飯村 繁(いいむら しげる、1919年〈大正8年〉9月 - 1993年〈平成5年〉1月6日)は、日本の元軍人、外交官。陸士53期卒(山砲)。最終階級は陸軍少佐。戦後は在ポーランド・在フィンランド大使館附書記官、内閣調査室調査官、官房会計課予算経理官を歴任した。父は陸軍中将で総力戦研究所所長の飯村穣、岳父は同じく陸軍中将で参謀次長の沢田茂。子は元駐仏大使の飯村豊。 東京府出身。飯村穣・光子の長男。幼少期は大戦の軍需景気に伴うインフレで電気代やガス代も払えないほど生活は困窮しており、休日の食事は白米のみという有様で、姉妹三人は茨城県の父の実家に預けられていた。 麻布中学より東京陸軍幼年学校に転じ、陸軍士官学校を53期生として卒業。
中村 輝彦(なかむら てるひこ、1919年 <大正8年> 8… 中村 輝彦(なかむら てるひこ、1919年 <大正8年> 8月27日 - 2007年 <平成19年> 2月7日)は、日本の外交官。 栃木県出身。東京帝国大学法学部卒業後、外務省に入省。調査局に配属。1979年から駐サウジアラビア大使を務めた(〜1982年)。また、外務省中近東アフリカ局長などの要職を歴任。1986年より住友商事顧問。1989年秋の叙勲で勲二等旭日重光章を受章。 死後、死亡日に遡って従三位に叙せられた(2007年(平成19年)3月13日付官報にて告示)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
田中 秀穂(たなか ひでほ、1919年5月17日 - )は、… 田中 秀穂(たなか ひでほ、1919年5月17日 - )は、日本の外交官。外務省中近東アフリカ局長、在フィリピン特命全権大使等を務めた。1993年4月勲二等旭日重光章受章。 北海道札幌市出身。北海道庁立札幌第二中学校(現北海道札幌西高等学校)を経て、1943年旧制東京商科大学(一橋大学の前身)を卒業し、外務省入省。 1974年にパレスチナゲリラ及び日本赤軍の和光晴生と山田義昭の混成部隊が、シンガポール沖にあったシェル石油傘下のシンガポール・イースタン・ペトローリアム社ブクム島製油所を爆破し、警官隊と銃撃戦を展開、さらにその6日後、パレスチナ解放人民戦線が在クウェート日本大使館を占拠、石川良孝(大使)らを人質にして、和光らを送還し南イエメンへ脱出させることを日本政府に要求した事件(シンガポール・クウェート事件)に、中近東アフリカ局長として対応にあたり、人質解放後、日本政府が派遣した特別機に、犯人グループが南イエメンのアデンに脱出するまで人質の身代わりとして同乗した。
堀 新助(ほり しんすけ、1919年3月31日 - 2013… 堀 新助(ほり しんすけ、1919年3月31日 - 2013年9月28日)は、日本の外交官。イタリア大使などを務め、また、プロ野球のパシフィック・リーグ(パシフィック野球連盟。以下、パ・リーグ)会長も務めた。長男は経営コンサルタントで(株)ドリームインキュベータ会長の堀紘一。
大河原 良雄(おおかわら よしお、1919年〈大正8年〉2月… 大河原 良雄(おおかわら よしお、1919年〈大正8年〉2月5日 - 2018年〈平成30年〉3月29日)は、日本の外交官、外務省官僚。駐米大使、駐豪大使、世界平和研究所理事長などの重職を歴任した。位階は正三位。勲一等瑞宝章、紺綬褒章受章者。 群馬県安中市中宿に生まれる。埼玉県立浦和中学校(現・埼玉県立浦和高等学校)、台中州立台中第二中学校[要出典]、第一高等学校を経て、1942年(昭和17年)東京帝国大学法学部卒業。 1942年(昭和17年)に外務省入省。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。第8根拠地隊司令部付兼ラバウル民政部庶務主任となる。
卞 鍾捧(ピョン・ジョンボン、朝鮮語: 변종봉、1919年1… 卞 鍾捧(ピョン・ジョンボン、朝鮮語: 변종봉、1919年1月22日 - 2000年6月19日)は、日本統治時代の朝鮮の銀行員、大韓民国の外交官、政治家。第6代韓国国会議員。本貫は草渓卞氏。 日本統治時代の慶尚南道陜川郡出身。釜山第2産業学校(現・開成高等学校(朝鮮語版))、横浜専門学校(現・神奈川大学)経済科卒。朝鮮殖産銀行調査部責任者を13年間務めたほか、外務部交易課長、駐日代表部大阪出張所長、忠州肥料工場次長、民主共和党慶南第9地区党委員長、国際連合総会韓国代表などを歴任した。1963年の第6代総選挙に山清・陜川選挙区から民主共和党所属で出馬して当選し、国会においては外務委員長を務めた。1966年には学校法人槿花学院を設立して理事長を務めた。
西堀 正弘(にしぼり まさひろ、1918年11月14日 - … 西堀 正弘(にしぼり まさひろ、1918年11月14日 - 2006年7月1日)は、日本の外交官。外務省国際連合局長や、EC大使、国連大使を務めた。1991年勲一等瑞宝章受章、2006年叙正三位。 北海道函館市出身。旧制横浜高等商業学校(横浜国立大学経済学部の前身)を経て、旧制東京商科大学(一橋大学の前身)入学。大学では井藤半彌ゼミナールに所属。 大学在学中の1940年に外交官及領事官試験に合格。しかし成績が悪いのでは出世ができないと考え、翌年の再受験を考えていたところ、門脇季光人事課長(のちに駐ソ連大使)から、外務省では試験の成績は関係ないので、一刻も早く入省すべきだとの助言を受け、1941年外務省入省。
松村 喜雄(まつむら よしお、1918年9月16日 - 19… 松村 喜雄(まつむら よしお、1918年9月16日 - 1992年1月10日)は、日本の外交官、推理小説評論家、推理作家、翻訳家。三谷 幸夫、花屋 治の筆名もあり。東京府出身。 東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)新小川町生まれ。実母は江戸川乱歩・平井蒼太兄弟の従妹。親戚として幼時から乱歩と交際して育つ。 小学校卒業後、花崎清太郎および石川一郎の両人と知り合い、彼らの影響で読書の世界に熱中。早稲田実業学校を経て東京株式取引所に勤務。このときの同僚に劇作家の小野田勇がいた。勤務の傍ら、フランス語を独習。のち編入試験を受けて東京外国語学校(現在の東京外国語大学)仏語科に入学。卒業後は外務省に勤務。
吉野 文六(よしの ぶんろく、1918年8月8日 - 201… 吉野 文六(よしの ぶんろく、1918年8月8日 - 2015年3月29日)は、日本の外交官。
人見 鐵三郎 (ひとみ てつさぶろう、1918年(大正7年)… 人見 鐵三郎 (ひとみ てつさぶろう、1918年(大正7年)7月10日 - 2008年(平成20年))は、日本の外交官、翻訳家。 昭和16年(1941年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年外務省に入省。 1953年ユネスコ臨時総会政府代表団、1955年ハンブルク領事、1958年在スイス大使館一等書記官、1960年法務省入国管理局資格審査課長、1962年外務省移住局振興課長、1965年在ケニア大使館参事官、在アイルランド大使館参事官などを経て、1968年ボンベイ総領事。 その後、駐コスタリカ・グアテマラ・フィンランド特命全権大使などを歴任。日本翻訳家協会・日本翻訳文化賞記念会会長。仏教徒。
千 炳圭(チョン・ビョンギュ、朝鮮語: 천병규、1918年7… 千 炳圭(チョン・ビョンギュ、朝鮮語: 천병규、1918年7月1日 - 1993年7月19日)は、大韓民国の金融官僚、外交官、政治家、実業家。韓国銀行副総裁、第14代財務部(現・企画財政部)長官、第10代韓国国会議員。本貫は潁陽千氏。号は東栢(トンベク、동백)。日本名は千田 圭一。 元検察総長、法務部長官の呉鐸根は妻の兄弟。 慶尚北道安東に生まれた。1931年に大邱公立普通学校を卒業し、1936年大邱高等普通学校(現・慶北高等学校)を修了した。1939年に大阪商科大学(のちの大阪公立大学)予科を卒業し、1941年に大阪商科大学を卒業した。1942年に朝鮮銀行に入行し、1950年に韓国銀行初代東京支店長を務め、その後は大阪、香港の支店長および外務部長、調査部長を務めた。
内田 宏(うちだ ひろし、1918年(大正7年)2月23日 … 内田 宏(うちだ ひろし、1918年(大正7年)2月23日 - 2014年(平成26年)8月25日)は日本の外交官。駐フランス大使などを歴任。山梨県出身。 同期に西堀正弘(国連大使)、魚本藤吉郎(駐ソ連大使)、吉野文六(駐独大使)、奈良靖彦(駐加大使)、人見鉄三郎(駐コスタリカ大使)など。
須之部 量三(すのべ りょうぞう、1918年2月15日 - … 須之部 量三(すのべ りょうぞう、1918年2月15日 - 2006年2月14日)は、日本の外交官・外務事務次官・杏林大学名誉教授。東京府出身。 旧制浦和中学(浦和高校)、旧制静岡高校文科甲類(静岡大学)を経て、東京帝国大学法学部卒業。 1941年12月、外務省に入省。1950年ガリオア基金にて米国留学。経済局第四課長(イギリス連邦担当)、1955年在連合王国大使館一等書記官、1958年大臣官房人事課長、1961年条約局外務参事官、1964年在ソ連大使館参事官、1966年駐米公使、1968年外務省アジア局長。駐オランダ大使、駐インドネシア大使、駐韓国大使を経て、1981年に外務事務次官に就任した。
須磨 未千秋(すま みちあき、1918年1月25日 - 20… 須磨 未千秋(すま みちあき、1918年1月25日 - 2008年8月21日)は、日本の外交官。外務省経済局次長、駐タンザニア特命全権大使、香港総領事、駐マレーシア特命全権大使、駐カナダ特命全権大使を歴任した。 秋田県出身。1939年第一高等学校文科甲類卒業、東京帝国大学法学部政治学科入学。1941年に高等試験外交科本試験に合格。同年大学を卒業し、外務省に入省した。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。1943年11月、海軍主計大尉に昇進し終戦を迎えた。 終戦連絡中央事務局連絡官、在ビルマ日本国大使館一等書記官等を経て、1957年外務省アジア局第三課長。
椋本 伊三郎(むくもと いさぶろう、1918年 - 2002… 椋本 伊三郎(むくもと いさぶろう、1918年 - 2002年11月28日)は、日本の外交官。駐エチオピア特命全権大使や、駐ウルグアイ特命全権大使を務めた。金大中第15代大韓民国大統領の恩師。 福岡県築上郡椎田町(現築上町)生まれ。中津商業学校(現岐阜県立中津商業高等学校)を経て、1939年長崎高等商業学校(現長崎大学)本科卒業。 朝鮮総督府木浦公立商業学校教諭などを経て、1944年東京商科大学(現一橋大学)卒業。1948年九州連絡調整地方事務局小倉連調事務所長代理。 在シドニー日本国総領事館領事、在アメリカ合衆国日本国大使館一等書記官等を経て、1964年外務省欧亜局中近東アフリカ部中近東課長。
魚本 藤吉郎(うおもと とうきちろう、1917年 <大正6年… 魚本 藤吉郎(うおもと とうきちろう、1917年 <大正6年> 11月29日 - 1988年 <昭和63年> 3月31日)は、日本の外交官。在ソビエト連邦特命全権大使、財団法人交流協会理事長を務めた。位階は正三位。 愛媛県出身。山口高等商業学校を経て、1941年に東京商科大学(のちの一橋大学)を卒業し、外務書記生就任。大学では中山伊知郎ゼミナールに所属。卒業論文は「景気変動に関する二つの研究」。 外務省中近東アフリカ局長を経て、在ソビエト連邦特命全権大使、財団法人交流協会理事長などを歴任。 西堀正弘(国連大使)、内田宏(駐仏大使)、吉野文六(駐独大使)、奈良靖彦(駐加大使)、人見鉄三郎(駐コスタリカ大使)など。
赤谷 源一(あかたに げんいち、1917年9月29日 - 1… 赤谷 源一(あかたに げんいち、1917年9月29日 - 1987年9月1日)は、日本の外交官。日本人初の国際連合事務次長。チリ駐箚特命全権大使。 千葉県旭市鎌数出身。父親は天津や上海の次席税関長を務めた赤谷由助(あかたに よしすけ)。1939年、英・オックスフォード大学政治学科卒業。1942年、上智大学商学部経済学科(現・経済学部)を卒業後、外務省に入省。戦後日本の税制改革を連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) に対して勧告するために、カール・シャウプが1949年に日本に税制使節団長として訪れた際、外務省事務官として通訳を担当している。「シャウプ使節団日本税制報告書」(「シャウプ勧告」)の序文に謝辞が記載されている。
朴 瓚鉉(パク・チャニョン、朝鮮語: 박찬현、1917年9月… 朴 瓚鉉(パク・チャニョン、朝鮮語: 박찬현、1917年9月23日 - 1991年9月24日)は、大韓民国の法学者、警察官僚、政治家、実業家、外交官。保健社会部次官、第12代交通部長官、第23代文教部長官、制憲・第4・5・9代韓国国会議員を歴任した。 本貫は密陽朴氏。号は霞庭。 釜山出身。釜山第二公立商業学校を経て、1941年明治大学法学部卒。同大法律特別研究室での国際司法研究を経て、1955年ミズーリ州立大学大学院政治科修了。満洲国奉天省での農場経営を経て、光復後は釜山水上警察署長、大学講師、第7管区警察庁・慶尚南道警察局公安課長、釜山東亜大学政治科副教授・教授(1951年、国際司法を担当)、国際新報社長、釜山日報社長(1951年)、釜山女子大学長、第4代国会財経委員、保健社会部政務次官、第12代交通部長官(1961年5月3日~1961年5月18日)、国民の党幹事長(1963年)、京郷新聞社長(1966年)、駐トルコ大使(サウジアラビア・ヨルダン兼任)、駐インド大使(アフガニスタン・バングラデシュ兼任)、韓インド協会長、第23代文教部長官(1977年12月20日~1979年12月13日)、韓国外国語大学校大学院教授(1981年)、世宗大学校財団理事長(1990年)を歴任した。
西野 順治郎(にしの じゅんじろう、1917年(大正6年)8… 西野 順治郎(にしの じゅんじろう、1917年(大正6年)8月9日 - 2001年(平成13年)3月5日)は、日本の外交官、実業家、教育者。初代在泰日協会学校理事長、タイ・トーメン社長・会長。 大阪府泉南市で生まれる。 6歳の頃に姉を亡くしたが、1937年(昭和12年)、横浜専門学校(現・神奈川大学)に進学。刑法担当の林頼三郎をはじめ、国際法の横田喜三郎、経済学の中山伊知郎、 会計学の太田哲三、商工経営の美濃部亮吉、産業能率の上野陽一、商業数学の久武雅夫、英語のジョン・オーエン・ガントレット、 学監米田吉盛、倫理学の朝比奈宗源、英語の江本茂夫らの指導を受ける。 在学中に外務省留学生試験に合格し、タマサート大学法学部に国費で留学した。
山下 重明(やました しげあき、1917年7月21日 - 1… 山下 重明(やました しげあき、1917年7月21日 - 1992年3月21日)は、日本の外交官。 山下はブルガリア人民共和国特命全権大使時代に当地で1970年バレーボール世界選手権が開催された際、その大会で銅メダルを獲得したバレーボール日本男子代表を応援のために夫人と共に試合を観戦した。その試合で日本チームの選手たちがサインプレーの暗号として「おにぎり」という言葉を使っていたのを耳にし、後日、「試合中に『おにぎり』を盛んに言っていたから、おにぎりが食べたいのだろう」と思って日本男子代表チームにおにぎりを差し入れたという。
大口 信夫(おおぐち のぶお、1917年〈大正6年〉7月10… 大口 信夫(おおぐち のぶお、1917年〈大正6年〉7月10日 - 1994年〈平成6年〉1月28日)は、日本の外交官。 ブラジル、サウジアラビア、ポルトガル駐箚特命全権大使を務めた。 サンパウロ総領事在任中の1970年3月11日に、都市ゲリラによる誘拐事件で日本人外交官初めての人質となった。4日後の3月15日に無事解放された。 1917年(大正6年)愛知県豊橋市で政治家・大口喜六の4男として生まれる。1942年(昭和17年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、外務省入省。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校。1943年1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。1944年5月、主計大尉に進み終戦を迎えた。
奈良 靖彦(なら やすひこ、1917年4月28日 - 201… 奈良 靖彦(なら やすひこ、1917年4月28日 - 2013年9月6日)は、日本の外交官。駐シンガポール特命全権大使や駐カナダ特命全権大使を務めた。位階は従三位。 大分県出身。旧制京北中学校を経て、1941年に旧制東京商科大学(一橋大学の前身)を卒業し、外務省入省。同期に西堀正弘(国連大使)、魚本藤吉郎(駐ソ連大使)、内田宏(駐仏大使)、吉野文六(駐独大使)、人見鉄三郎(駐コスタリカ大使)など。 1943年、外務省弘報部で勤務し、戦時体制下で、ジャパンタイムズの監督を行った。 1965年5月シカゴ総領事に就任。着任時に、総領事公邸が外交に使うにはあまりに貧弱なものだったため、筋向いの邸宅を購入しようと考え、東京銀行のシカゴ支店長と交渉し購入資金の融資を受け、また当時大蔵事務次官を務めていた石野信一も案内した末購入し、新しい公邸とした。
竹内 春海 (たけうち はるみ、1917年3月28日 - 2… 竹内 春海 (たけうち はるみ、1917年3月28日 - 2005年8月20日)は、日本の外交官。外務省アメリカ局長や、儀典長、駐イタリア特命全権大使などを歴任した。 東京商科大学(現一橋大学)在学中、高等試験に合格し、1938年外務省に入省。米国留学、1940年アムハースト大学卒、1941年ハーバード大学大学院修了。 大日本帝国陸軍少尉、1947年内閣総理大臣秘書官、1949年調査局第二課長、米国在勤、1953年アジア第二課長、1954年欧米第一課長、1958年カルカッタ総領事、1959年在ドイツ連邦日本国大使館参事官、1961年アメリカ局外務参事官を経て、1963年アメリカ局長。1965年駐フィリピン特命全権大使。
鶴見 清彦(つるみ きよひこ 1917年3月11日 - 19… 鶴見 清彦(つるみ きよひこ 1917年3月11日 - 1976年11月17日)は、日本の官僚、外交官。 1940年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、外務省へ入省。外務省在外研究員としてアメリカ合衆国に渡るも、1941年に日米関係が悪化。同年11月に引き揚げ船として派遣された氷川丸に乗船して帰国した。1942年からタイ国に勤務し終戦を迎える。戦後は終戦連絡中央事務局に勤務し、1951年に在ワシントン在外事務所勤務。1953年に外務省アジア局五課長、1955年にジャカルタ領事となる。1951年、バンドン会議に出席。 その後は駐米公使、外務省経済局次長、外務省経済局長、経済協力開発機構日本代表部大使、外務審議官などを務めた。
黄 聖秀(ファン・ソンス、朝鮮語: 황성수/黃聖秀、1917… 黄 聖秀(ファン・ソンス、朝鮮語: 황성수/黃聖秀、1917年2月22日 - 1997年3月4日または3月5日)は、アメリカ合衆国のジャーナリスト、大韓民国の外交官、弁護士、学者、政治家。第3代韓国国会民議院副議長、第2・3・4・5代国会議員(第5代は参議員)、全羅南道知事を歴任した。 本貫は昌原黄氏。父は牧師の黄保翼で、制憲国会議員の黄斗淵は父方の叔父、呉錫柱は母方の叔父である。篤実なキリスト教徒である。 日本統治時代の全羅南道宝城郡宝城邑宝城里出身、本籍は平安北道である。平壌崇実中学校、崇実専門学校、明治学園を経て、1940年、東北帝国大学(現・東北大学)法文学部を卒業。東京帝国大学(現・東京大学)文学部で研究を行った後、渡米しウェストミンスター神学校を卒業した。
岩瀬 幸(いわせ ただし、1917年 - )は、日本の外交官… 岩瀬 幸(いわせ ただし、1917年 - )は、日本の外交官、外務省に奉職し、在ニカラグア日本大使(1978年 - 1980年)を務めた。 1937年(昭和12年)、横浜専門学校(現・神奈川大学)に進学。同級生には、戦時中、在タイ日本国大使館で副領事官を務めた西野順治郎がいる。当時、横浜専門学校では 学監米田吉盛の学校設立当初からの希望で貿易学科が設置され、貿易、国際法、語学の専門的な授業が行われていた。 1937年4月に在学中に外務省留学生試験を受験、筆記、二次の外国語会話を含む口頭試験を経て合格し、ポルトガルのリスボンへ留学する。1978年(昭和53年)、在ニカラグア日本国大使館に大使として赴任。
力石 健次郎(ちからいし けんじろう、1916年〈大正5年〉… 力石 健次郎(ちからいし けんじろう、1916年〈大正5年〉8月6日 - 1995年〈平成7年〉2月9日)は、日本の外交官。 愛媛県喜多郡大洲町(現:大洲市)出身。旧大洲藩士・力石八十綱の三男・力石敏三郎(海軍中佐)の次男として母マツ(海軍主計中将池辺安雄の妹)との間に横須賀市汐入で生を受ける。 敏三郎は力石雄一郎の弟にあたる。幼少期は海軍士官だった父の赴任先である朝鮮鎮海にも帯同している(妹 スミ子の出生地)。 父が本土に戻った後、一時期母マツの実家でもある熊本で暮らし熊本市立春日尋常小学校卒業~中学校入学となるが、その後横浜(神奈川区台町とも)に移り住み神奈川県立第一中学校に転校。 その後旧制第一高等学校を経て1940年(昭和15年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。
李 東煥(イ・ドンファン、1916年5月19日 - 1991… 李 東煥(イ・ドンファン、1916年5月19日 - 1991年11月11日)は、大韓民国の官僚、外交官。内務省次官や、駐日本首席代表、駐オーストラリア大使などを務めた。日本名は森山 辰雄。 日本統治時代の朝鮮の咸鏡南道端川郡出身。元山公立商業学校を経て、1940年京城高等商業学校卒業。高等文官試験行政科に受かり、1942年に東京商科大学(現一橋大学)卒業後は、朝鮮総督府に入庁した。金東祚は高等商業学校時代の同期。朝鮮総督府江原道属、朝鮮総督府逓信事務官を経て、日本の降伏を迎えた。 大韓民国逓信部郵務局長等を経て、1960年内務省次官。1961年には大平正芳内閣官房長官や、小坂善太郎外務大臣の同窓であることなどから、大使館設置前の駐日韓国代表部首席代表・公使を務め、大学の先輩にあたる足立正日本商工会議所会頭などと接触し、日韓国交正常化に向け尽力した。
新関 欽哉(にいぜき きんや、1916年 <大正5年> 1月… 新関 欽哉(にいぜき きんや、1916年 <大正5年> 1月4日 - 2003年 <平成15年> 8月11日)は、日本の外交官。印章の研究者でもあった。位階は正三位。 東京都出身。武蔵高等学校を卒業後、1938年東京大学法学部政治学科卒業。 外務省に入省し、1938年外務省在外研究員、1951年欧米局第5課長(ソ連課長)、1956年在ソ大使館参事官(代理大使)、1958年欧亜局参事官、1963年大臣官房国際資料部長(初代)、在香港総領事、1966年情報文化局長、1968年在オーストリア特命全権大使、1971年在ソ連特命全権大使、1972年在モンゴル大使兼任、1973年在インド特命全権大使。その後、日本国際問題研究所理事長、ソ連研究センター所長、原子力委員会委員を務める。
加藤 匡夫(かとう ただお、1916年 - 1996年)は、… 加藤 匡夫(かとう ただお、1916年 - 1996年)は、日本の外交官。外務省経済局長、OECD代表部特命全権大使、駐イギリス特命全権大使、日英協会理事長などを歴任した。正三位勲一等瑞宝章。 東京出身。東京高等学校文科甲類を経て、1937年東京帝国大学法学部政治学科卒業。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、1943年9月、海軍経理学校に入学し、1944年(昭和19年)3月に卒業して海軍主計中尉に任官。1945年(昭和20年)3月、主計大尉に昇進して終戦を迎えた。 1948年連絡調整中央事務局連絡調整官。1950年通商産業省通商局市場第二課長。1955年外務省経済局第四課長。1956年外務省経済局第一課長。
藤山 楢一(ふじやま ならいち 1915年9月17日 - 1… 藤山 楢一(ふじやま ならいち 1915年9月17日 - 1994年5月5日)は、日本の外交官。駐英国大使。
東郷 文彦(とうごう ふみひこ、旧姓:本城、 1915年(大… 東郷 文彦(とうごう ふみひこ、旧姓:本城、 1915年(大正4年)8月18日 - 1985年(昭和60年)4月9日)は、日本の昭和時代の外交官、官僚。旧姓は本城。外務省事務次官、駐アメリカ大使を務めるなど日本の戦後外交におけるアメリカスクール外交官の重鎮の一人であった。
都倉 栄二(榮二、とくら えいじ、1915年(大正4年)1月… 都倉 栄二(榮二、とくら えいじ、1915年(大正4年)1月27日 - 2000年(平成12年)7月4日)は、日本の外交官。イスラエル、ハンガリー、スウェーデン、アイスランドの大使を務めた。イスラエル大使時代にテルアビブ空港乱射事件に遭遇。位階は正三位。息子に作曲家の都倉俊一。孫に女優の都倉伶奈とJリーガーの都倉賢。 神奈川県出身。旧制東京府立第八中学校(現東京都立小山台高等学校)を経て、ロシア文学に惹かれて東京外国語学校(現東京外国語大学)露語科に進む。 1934年、外務省入省。外務書記生となる。 ハイデルベルク大学留学、在ドイツ日本大使館勤務を経て、1936年、在ウラジオストク日本領事館に勤務。
重光 晶(しげみつ あきら、1915年1月15日 - 200… 重光 晶(しげみつ あきら、1915年1月15日 - 2000年8月27日)は、日本の外交官、外交評論家。位階は正三位。 外務省国際連合局長を経て、駐ナイジェリア特命全権大使や、駐ソビエト連邦特命全権大使を務めた。重光葵元外務大臣の甥。 石川県金沢市生まれ。東京出身。1935年静岡高等学校文科丙類卒業。1936年東京帝国大学法学部政治学科に入学。1938年に外交官試験に合格し、大学を中退した。1939年に外務省に入省し、ポーランド、ラトビア、ブルガリアでロシア語研修を受ける。 1951年から外務省条約局第三課長を務め、1952年からは外交官領事館採用試験専門試験委員(憲法)や、外務書記採用試験専門試験委員も担当した。
藤崎 萬里(ふじさき まさと、1914年(大正3年)12月1… 藤崎 萬里(ふじさき まさと、1914年(大正3年)12月16日 - 2006年(平成18年)10月6日)は、日本の最高裁判所裁判官、外交官(外務省条約局長、オランダ駐箚大使、タイ王国駐箚大使等)。 鹿児島県出身。川辺郡知覧町(南九州市)生まれ、揖宿郡山川町(指宿市へ合併)出身。馬場家に生まれ、伯父の藤崎家の養子となる。鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1933年(昭和8年)第七高等学校造士館 (旧制)卒業。1936年(昭和11年)、東京帝国大学文学部英文学科卒業。旧制高校の教師になろうと考えていたが就職口がなく、東京帝国大学法学部政治学科に再入学して学び1937年(昭和12年)外務省へ入省。
上田 常光(うえだ つねあき、1914年11月25日 - 1… 上田 常光(うえだ つねあき、1914年11月25日 - 1995年3月1日)は、日本の外交官。位階は正三位。初代駐シンガポール特命全権大使や、外務省経済協力局長、駐ドイツ連邦共和国特命全権大使、日独協会会長などを歴任した。 東京生まれ。1934年東京高等学校文科甲類卒業。1937年東京帝国大学法学部政治学科卒業。1938年高等試験外交科合格、外務書記生、ドイツ在勤。1939年外交官補。 1951年外務省管理局在外邦人課長。同年外務省欧米局渡航課長。1952年外務省アジア局第五課長。1957年在ドイツ日本国大使館参事官。1959年外務省情報文化局報道課長。 1961年外務省欧亜局外務参事官。1964年在シンガポール日本国総領事館総領事。
大来 佐武郎(おおきた さぶろう、1914年〈大正3年〉11… 大来 佐武郎(おおきた さぶろう、1914年〈大正3年〉11月3日 - 1993年〈平成5年〉2月9日)は、日本の逓信・経済企画官僚、外交官、政治家、経済学者。位階は正三位。 第二次世界大戦後の日本を代表する国際派のエコノミストであり、外務大臣(第108代)や総合研究開発機構研究評議会議長を務めた。 東京帝国大学工学部電気工学科卒業後、逓信省に入省した。工務局、興亜院出向を経て大東亜省に移籍した。第二次世界大戦終戦後に外務省調査局に勤務した。その後、芦田内閣の下に設置された経済安定本部で、池田勇人首相の肝煎りである所得倍増計画の策定に中心的に関わった。 大来は終戦直後から日本国内のみならず国外にも豊富な人脈を築き、また分け隔てなく留学を希望する者の紹介状を書いていた。
曽野 明(その あきら、1914年10月19日 - 1995… 曽野 明(その あきら、1914年10月19日 - 1995年9月22日)は、日本の外交官、外交評論家。位階は正三位。 兵庫県芦屋市出身。1937年東京帝国大学法学部政治学科中退。同年外務省に入り、調査局第二課長、情報文化局第一課長、ソ連課長、在ドイツ大使館参事官、在シカゴ、在ベルリン総領事を歴任し、1961年情報文化局長、1966年駐ユーゴスラビア大使、1969年駐パキスタン大使を経て、1972年駐西ドイツ大使に就任。1975年退官し、評論家となる。1995年叙正三位。
保科 光正(ほしな みつまさ、1914年(大正3年)10月7… 保科 光正(ほしな みつまさ、1914年(大正3年)10月7日 - 1945年(昭和20年)4月1日)は、昭和期戦前の外交官、華族。幼名・正虎。 子爵・保科正昭の長男として生まれる。幼名は正虎であったが、1934年(昭和9年)12月6日に光正に改名した。 東京高等学校を経て、1937年(昭和12年)東京帝国大学法学部を卒業。同年10月、高等試験外交科試験に合格し、外務省に入省して英国書記生に発令されて渡英した。 以後、外交官補、外交事務官を歴任。1942年(昭和17年)11月、大東亜省が設置され同事務官に転じた。支那事務局総務課在勤となり在支渉外事務を担当。大臣秘書官事務取扱、兼大臣秘書官も務めた。
後宮 虎郎(うしろく とらお、1914年4月22日 - 19… 後宮 虎郎(うしろく とらお、1914年4月22日 - 1992年6月12日)は、日本の外交官。駐オランダ大使、駐タイ大使、駐韓大使や国立京都国際会館の館長を務めた。 1914年京都府生まれ。父は後宮淳、義父は吉見信一。旧制第三高等学校文科甲類を経て、東京帝国大学進学。 1936年に外交科試験に合格し、1937年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業して外務省に入省した。 1938年に徴兵され、京都市伏見区にある陸軍の輜重隊に所属し、二等兵から始まり終戦前には中尉まで昇進している。 外務省に戻り、1949年管理局在外邦人課長、1951年アジア局第二課長(後の中国課長)、1952年在アメリカ合衆国日本国大使館一等書記官、1954年大臣官房総務課長、1956年大臣官房参事官、1957年経済局外務参事官、1960年在タイ日本国大使館公使、1962年アジア局長などを歴任。
田村 幸久(たむら ゆきひさ、1914年4月2日 - 199… 田村 幸久(たむら ゆきひさ、1914年4月2日 - 1990年8月9日)は、日本の外交官。外務省に入省後、フランス書記生としてキャリアをスタートさせ、駐カンボジア日本国特命全権大使、在カサブランカ日本国領事などを歴任した。最後の在外公館長は駐アルジェリア大使であった。 父は外交官、国際法学者の田村幸策。 1939年(昭和14年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。前年に高等試験(外交科)に合格し、外務省に入省した。最初はフランス書記生として勤務した。 その後、在カサブランカ日本国領事館領事、在カンボジア日本国特命全権大使などを務め、カンボジアとの経済・技術協力や貿易取極に関する業務に携わった。
高橋 通敏(たかはし みちとし、1914年(大正3年)3月1… 高橋 通敏(たかはし みちとし、1914年(大正3年)3月18日 - 1989年(平成元年)4月6日)は、日本の外交官、国際政治学者、外交評論家。位階は正三位。 熊本県出身。熊本士族・高橋守雄の二男。1933年(昭和8年)旧制五高文科乙類を経て、東京帝国大学法学部、ミュンヘン大学を卒業し、その後外務省に入省する。 1957年(昭和32年)外務省条約局長。1960年(昭和35年)、参議院日米安全保障条約等特別委員会では政府委員として答弁に立ち、在日米軍に対して日米地位協定によって敢えて治外法権的立場を付与したと答弁した。1966年(昭和41年)スウェーデン駐箚特命全権大使。外務省研修所長を経て、1970年(昭和45年)エジプト駐箚特命全権大使などを歴任した。
中山 賀博(なかやま よしひろ、1914年(大正3年)1月3… 中山 賀博(なかやま よしひろ、1914年(大正3年)1月30日 - 2003年(平成15年)7月21日)は日本の外交官、元駐フランス特命全権大使。広島県出身。
片山 醇之助(かたやま じゅんのすけ、1914年1月23日 … 片山 醇之助(かたやま じゅんのすけ、1914年1月23日 - 2000年3月5日)は、日本の外交官。元駐リベリア共和国大使。 香川県三豊郡高室村(現 観音寺市室本町)出身。旧制香川県立三豊中学校、ハルピン学院卒業。 外務省留学生として1936年(昭和11年)から3年間滞欧。ラトビアでロシア語を勉強中に古本を集め始め1万冊にもなった。読んでいては間に合わないから近くに住む少女に音読してもらった。のちにその女性が米国へ亡命して数十年後に突然片山邸へ電話し、片山が亡くなる数年前に単身訪米して再会した。 留学から帰国後、1939年(昭和14年)外務省入省。1943年(昭和18年)高等試験行政科試験合格。
張香山(ちょう こうざん、1914年-2009年10月10日… 張香山(ちょう こうざん、1914年-2009年10月10日)は、中華人民共和国の外交官、政治家。中華人民共和国の建国後、対日工作を担った政治家で、日中国交正常化では中華人民共和国外交部顧問として日本側と交渉した。党対外連絡部副部長や中国国際交流協会副会長・顧問のほか、日中友好21世紀委員会の中国側座長、中日友好協会顧問などの要職を歴任している。 1914年、 浙江省寧波市に生まれる。1933年に日本へ留学、東京高等師範学校(現筑波大学)で学ぶ。 帰国後の1934年に延安において 八路軍に参加。1938年に中国共産党へ入党、1941年に八路軍129師団敵工作部副部長、1943年に大行軍区敵工作部長となる。
金 溶植(キム ヨンシク、1913年11月11日 - 199… 金 溶植(キム ヨンシク、1913年11月11日 - 1995年3月31日)は、大韓民国の政治家、外交官。本貫は金海金氏。 1913年、慶尚南道龍南郡にて誕生。1937年、日本の中央大学を卒業。1949年1月、外務部に入省。駐香港領事、駐ホノルル総領事、駐日本公使、駐フランス公使、駐ジュネーブ公使、駐フィリピン大使、駐国連大使、駐イギリス大使、駐アメリカ大使、外務部長官、国土統一院長官、無任所長官、大統領外交担当特別補佐官、大韓赤十字社総裁を歴任した。 1988年ソウルオリンピックの剰余金で創設された平和賞基金の委員長職を最後に公職を退いた。朝鮮戦争当時は釜山に避難し、慶尚南道知事官舎を利用した大統領官邸に寄宿した。
西山 昭(にしやま あきら、1913年〈大正2年〉11月1日… 西山 昭(にしやま あきら、1913年〈大正2年〉11月1日 - 1988年〈昭和63年〉1月23日)は、日本の外交官。駐インドネシア特命全権大使、駐スイス特命全権大使、駐大韓民国特命全権大使、交流協会台北事務所代表、交流協会理事長。 福岡県出身。1933年(昭和8年)福岡高等学校文科甲類卒業。1936年(昭和11年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年10月、高等試験外交科試験に合格して外務省入省。1949年(昭和24年)外務省連絡局地方課長。1950年(昭和25年)在カルカタ日本政府在外事務所所長。1953年(昭和28年)外務省経済局第三課長。1955年(昭和30年)外務省経済局次長。1956年(昭和31年)外務省経済局外務参事官。
広田 稹(廣田、ひろた しげる、1913年 <大正2年> 1… 広田 稹(廣田、ひろた しげる、1913年 <大正2年> 10月1日 - 1987年 <昭和62年> 1月5日)は、日本の外交官。位階は正三位。 新潟県出身。1937年外交官試験に合格後、38年3月東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、外務省入省。アジア局第4課長、同第2課長、バンクーバー領事、大臣官房人事課長、経済局外務参事官、アラブ連合共和国大使館参事官等を歴任。1961年9月ハンブルク総領事、65年5月より中南米移住局長、翌年11月経済協力局長、68年1月より大臣官房審議官を務めた。 その後、ベネズエラ、マレーシア、オランダ駐在大使を歴任した。1975年12月退官。翌年、熊谷組顧問に就任。 1982年退社後、83年11月勲二等旭日重光章を受ける。