冷水 茂太(ひやみず しげた、1911年(明治44年)10月… 冷水 茂太(ひやみず しげた、1911年(明治44年)10月8日 - 1986年(昭和61年)10月3日)は、日本の歌人。土岐善麿の高弟として評伝などや研究書を執筆したほか、善麿と関わりの深かった石川啄木についての研究も残した。 東京生まれ。早稲田大学専門部法科在学中の1932年(昭和7年)に「短歌街」創刊に参加した。1934年(昭和9年)に卒業後は詠歌に専念し、多くの歌人と親交を持った。 1957年(昭和32年)に横田専一らと「橋」を創刊し、1972年(昭和47年)には土岐善麿を中心とする文芸誌「周辺」の編集者ともなる。1981年(昭和56年)には自身の歌が収録された「短歌周辺」を創刊した。 運輸省勤務を経てトヨタ自動車の役員を歴任した。
西村 数(にしむら かず、1911年8月24日 - 2006… 西村 数(にしむら かず、1911年8月24日 - 2006年7月1日)は、日本の俳人。「ホトトギス」同人。本名は西村 一意(かずおき)。教育者でもあり、鹿児島県の公立高等学校の教頭や校長等を歴任。 鹿児島県谷山村麓(現・鹿児島市谷山中央)にて、教育者の藤太郎とトミの嫡子として生まれ、少年期は清渓学舎で郷中教育を受ける。1929年(昭和4年)に鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業した後、神宮皇學館で学び卒業。 1929年(昭和4年)に17歳で句作を始め、1932年(昭和7年)に「ホトトギス」九月号で初入選。数年後、関西ホトトギス大会で虚子特選を得て、虚子を生涯師と仰ぐ。1935年(昭和10年)、佐賀県伊万里町で教員となり、当地で森永杉洞に師事。
吉田 武(よしだ たけし、1911年6月27日 - 1990… 吉田 武(よしだ たけし、1911年6月27日 - 1990年4月13日)は、昭和時代後期日本の歌人。福島県出身。 1911年(明治44年)、福島県田村郡小野新町(現在の小野町)に生まれる。福島県郡山商工学校(現在の福島県立郡山商業高等学校)を卒業し、日立製作所に入社。同社を退職して帰郷した後、町立小野中学校教員となる。 1954年(昭和29年)、朴の花短歌会を結成し会長に就任。1966年(昭和41年)に県が募集していた「福島県県民の歌」の作詞部門で応募作が入選し、翌1967年(昭和42年)2月11日に制定される。1972年(昭和47年)、角川書店『短歌』特選。1975年(昭和50年)、東北アララギ郡山に入会。
三谷 昭(みたに あきら、1911年6月5日 - 1978年… 三谷 昭(みたに あきら、1911年6月5日 - 1978年12月24日)は、東京府出身の俳人・編集者。 東京府巣鴨村(現豊島区)生まれ。東京府立第五中学校(現小石川高等学校)卒。1930年に素人社に入社。『俳句月刊』『俳句世界』編集に携わる。1936年赤坂区役所嘱託となり『赤坂区史』を編纂。「京大俳句」「天香」等に参加したが、1940年、新興俳句弾圧事件に連座し検挙された。1941年に実業の友社に入社、『新女苑』『オール生活』編集長を歴任。 戦後は「天狼」「俳句評論」「面」などに同人参加。1946年新俳句人連盟に入会するが翌年退会し現代俳句協会に加入、機関誌『俳句芸術』の編集に携わる。1961年より協会幹事長、のち初代会長を務める。
徳田 白楊 (とくだ はくよう、本名:森下文夫、1911年5… 徳田 白楊 (とくだ はくよう、本名:森下文夫、1911年5月28日 - 1933年1月19日)は、昭和初期のアララギ派の歌人である。アララギ派の天才と呼ばれ将来を有望されていたが、夭折した。 1911年(明治44年)5月28日、大分県大野郡上緒方村(現・豊後大野市緒方町)に森下虎三郎の二男として生まれる。 1927年(昭和2年)、旧制竹田中学(現・大分県立竹田高等学校)在学中に16歳で肋膜炎を患い、休学を余儀なくされる。1929年(昭和4年)、竹田市の教会でキリスト教の洗礼を受ける。大分新聞(現・大分合同新聞)に短歌を投稿したところ選者の土屋文明が「宝玉的天才歌人」と呼んで高く評価し、重い病気を持っていることを知って新聞に30首一挙掲載を行う。
冷泉 為臣(れいぜい ためおみ、1911年〈明治44年〉5月… 冷泉 為臣(れいぜい ためおみ、1911年〈明治44年〉5月7日 ‐ 1944年〈昭和19年〉8月31日)は、日本の華族、歌人。また、上冷泉家23代当主。父は冷泉為紀伯爵、母は水無瀬忠輔子爵の娘恭子。 祖父、父が宮中で御歌所参候を務めた影響からか、歌学を学ぶため國學院大學文学部に進学。卒業論文では藤原俊成をテーマとした。大学卒業後は陸軍に応召。1936年(昭和11年)4月21日、京都在住華族総代として昭和天皇に拝謁する。 太平洋戦争により中国湖南省邵陽県磨石舗にて戦死したため、妹の冷泉布美子の夫冷泉為任が婿養子として跡を継ぐ。
扇畑 忠雄(おうぎはた ただお、1911年2月15日 - 2… 扇畑 忠雄(おうぎはた ただお、1911年2月15日 - 2005年7月16日)は、日本の歌人・国文学者。東北大学名誉教授。旧満州の旅順出身。京都帝国大学文学部国文学科卒。 父・孫一は旅順民政部で農林技師をしていた。父の急逝により8歳で広島県の祖父母の元に移住、12歳で広島市に移った。旧制広島一中を経て旧制広島高校に進学、北島葭江教授が指導する広高短歌会に所属した。広高在学中の19歳の時「アララギ」に入会。アララギ派の歌人となり、斎藤茂吉、土屋文明、中村憲吉に師事。京都帝大卒業後、旧制呉二中や旧制京都一女の教員を経て1942年に旧制第二高等学校教授となり、1946年東北アララギ会『群山』を創刊。
金原 まさ子(きんばら まさこ、1911年2月4日 - 20… 金原 まさ子(きんばら まさこ、1911年2月4日 - 2017年6月27日)は、俳人。東京生まれ。本名:金原 マサ。 父は三和信託に勤めるサラリーマンで家庭は裕福であった。少女時代は友達を作らず『新青年』『苦楽』『譚海』といった文芸雑誌を購読し、夢野久作や初期の江戸川乱歩、龍膽寺雄、川端康成の「片腕」などの作品を好んで読んでいた。三輪田高等女学校を卒業後、飯田橋の料理学校に入り、ここで知り合った友人を介してダンスの世界に触れる。その後結婚し、以降はほぼ専業主婦として生活。戦時下では育児日記を書き綴りNHK『新・ドキュメント太平洋戦争』シリーズで取り上げられた。戦後は49歳で俳句をはじめる。1970年、桂信子主催の『草苑』創刊同人、1973年、草苑しろがね賞を受賞、1979年、草苑賞を受賞。
河合 恒治(かわい つねはる、1911年1月31日 - 20… 河合 恒治(かわい つねはる、1911年1月31日 - 2005年9月17日)は、日本の歌人。 愛知県豊橋市出身。海軍兵学校卒。1943年、徳島県那賀郡羽ノ浦町(現・阿南市羽ノ浦)に移り住む。海軍軍人としての戦争体験から、海を重要な題材として詠み続けた。第一歌集『艦砲射撃』の序文は平出英夫と井上司朗が寄せている。1964年に歌誌「四国水甕」を創刊。1994年に徳島ペンクラブ5代目会長に就任。2000年に第26回徳島県文化賞受賞。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
能村 登四郎(のむら としろう、1911年1月5日 - 20… 能村 登四郎(のむら としろう、1911年1月5日 - 2001年5月24日)は、日本の俳人。水原秋桜子に師事、「沖」を創刊・主宰。東京都出身。 東京都台東区谷中に、7人兄弟の四男として生まれる。1918年、東京都北区田端に引っ越し、錦城中学に入学する。中学時代、伯父から手ほどきを受けて俳句をはじめる。1931年、國學院大學高等師範部に入学、国文学を学ぶ。在学中、短歌同人誌『装填』に参加し、林翔と出会う。1938年、俳誌『馬酔木』に入会、水原秋桜子に師事。同年、私立市川学園の教諭となる。同校は林翔も教員として勤めた。 1945年、応召。除隊後、教員に復職し、1946年に復刊した『馬酔木』に投句を再開。
梅沢 伊勢三(うめざわ いせぞう、1910年11月27日 -… 梅沢 伊勢三(うめざわ いせぞう、1910年11月27日 - 1989年10月6日)は、国文学者、俳人。 埼玉県生まれ。本籍宮城県。1943年東北帝国大学法文学部日本思想学科卒。1962年「古事記及び日本書紀の研究 記紀両書の成立過程に関する文献学的並びに思想史的分析」で東北大学文学博士。1945年東北帝大助手、1952年教員となり宮城県立仙台図南高校(現仙台市立仙台大志高等学校)教諭、1963年宮城工業高等専門学校教授、76年定年退官、名誉教授、1978年東北福祉大学教授。83年退職。俳人として号を一栖。1933年「馬酔木」所属、59年「河」同人。1967年「澪」を創刊し、主宰。
志田 周子(しだ ちかこ、1910年(明治43年)10月28… 志田 周子(しだ ちかこ、1910年(明治43年)10月28日 - 1962年(昭和37年)7月18日)は山形県出身の女医、歌人。「仙境のナイチンゲール」と称された。 1910年(明治43年)小学校教員で後に大井沢村村長となる父・荘次郎、母・せいの長女として、西村山郡左沢町(現大江町)に生まれる。西村山郡大井沢村(現西川町)の大井沢尋常小学校を経て、山形県立山形第一高等女学校(現山形県立山形西高等学校)に進学。村で初めての女学校生と話題になる。1928年(昭和3年)東京女子医学専門学校(現東京女子医科大学)に進学。1933年同卒業。1935年(昭和10年)「3年でいいから」という父・荘次郎の懇請で、当時無医村だった大井沢村に戻り、唯一の村医となる。
香川 進(かがわ すすむ、1910年7月15日 - 1998… 香川 進(かがわ すすむ、1910年7月15日 - 1998年10月13日)は、昭和期・平成期の日本の歌人。 香川県多度津町出身。多度津中学校(現香川県立多度津高等学校)を経て、1934年神戸商業大学(現神戸大学)卒。在学中の1932年に白日社に入社し、前田夕暮に師事。口語自由律短歌を作る。 三菱商事に入社後、1935年に出張先で現地召集される。1945年友人と東亜交易創立。敗戦後の財閥解体の処理に関わる。1953年木下商店に入り、名古屋支店長や内外炉工業社長を歴任。 戦後は文語定型短歌へと回帰。1953年「地中海」を創刊、主宰。義兄にあたる米田登も参加。門下に小野茂樹、雨宮雅子がいる。1958年『湾』で第4回日本歌人クラブ推薦歌集(現日本歌人クラブ賞)受賞、1973年『甲虫村落』で第7回迢空賞受賞、1992年『香川進全歌集』で第15回現代短歌大賞受賞。
岸 風三楼(きし ふうさんろう、1910年7月9日 - 19… 岸 風三楼(きし ふうさんろう、1910年7月9日 - 1982年7月2日)は、岡山県出身の俳人。御津郡馬屋下村松尾(現岡山市北区松尾)生まれ。本名・二三男。 旧制関西中学校を経て関西大学法学部を卒業、1929年大阪逓信省に入省。俳句は中学4年時より始め『山陽新報』(現・山陽新聞)に投句。1929年より「ホトトギス」に投句。皆吉爽雨、山口誓子の指導を受ける。1933年、職場句会を通じて「若葉」を知り入会、富安風生に師事する。1934年、「京大俳句」に入会。京大俳句事件にて追及を受けた。この際、逓信省の高級官吏であった風生の擁護で難を免れたとも言われる。1944年、「若葉」編集長。風生の「若葉」運営に献身。
仁智 栄坊(にち えいぼう、1910年7月8日 - 1993… 仁智 栄坊(にち えいぼう、1910年7月8日 - 1993年3月31日)は、俳人。高知県高知市生まれ。本名は北尾一水(きたお かずみ)。新興俳句弾圧事件の犠牲者として知られる。 1931年大阪外国語学校(現・大阪外国語大学)卒業後、大阪逓信局無線課に勤め、ロシア語の知識を生かして、ソビエト連邦からの無線の傍受にあたった。岸風三楼に誘われ「京大俳句」に参加。1940年の俳句弾圧事件、いわゆる京大俳句事件に連座。1941年7月、妻とともに満洲に渡り、新京の満洲電信電話放送部に就職。同僚に高屋窓秋がいた。また森繁久弥は芸能番組を担当していた。 敗戦後、ソ連軍に反ソ活動の容疑で逮捕され、シベリアの収容所送りとなった。
影山 正治(かげやま まさはる、1910年〈明治43年〉6月… 影山 正治(かげやま まさはる、1910年〈明治43年〉6月12日 - 1979年〈昭和54年〉5月25日)は、日本の右翼活動家、思想家、歌人。 愛知県豊橋市生まれ。家は神官。父は影山庄平。豊橋中(現在の愛知県立時習館高等学校)卒、國學院大學哲学科中退、在学時代から右翼運動に入り、1931年(昭和6年)全国大日本主義同盟、日本学生連合に参加、32年生産党常任中央委員、33年神兵隊事件で検挙。36年に維新寮を結成、39年これを大東塾と改め塾長となった。40年7月皇民有志決起事件で検挙、42年禁錮5年の判決を受けたが、43年には特赦となった。44年11月応召。1946年5月帰国。54年4月3日大東塾再建。
原 知一(はら ともかず、1910年5月 - 2004年3月… 原 知一(はら ともかず、1910年5月 - 2004年3月31日)は、日本の歌人、作詞家。山形市出身。 1910年(明治43年)、山形市に生まれる。旧制山形中学校在学中にアララギへ入会し、結城哀草果に師事した。大谷大学予科へ進学し、1936年(昭和11年)に同大学文学部国文学科を卒業。帰郷後は国語教諭となり、宮内高等女学校(山形県立南陽高等学校の前身の一校)に在職中の1944年(昭和19年)、宮内町(現在の南陽市)出身で12月7日にフィリピンのオルモック湾で玉砕した粕川健一を顕彰する「軍神粕川少尉」の歌を作詞した。1946年、黒江太郎と共に「宮内アララギ短歌会」を結成。 1947年(昭和22年)、憲法普及会山形県支部が日本国憲法公布を記念して実施した戦前の「最上川」に代わる2代目の県民歌募集に際して生まれたばかりの長男の名義で応募した「朝ぐもの」が入選し、5月3日の憲法施行記念祝典で演奏されるがこの2代目県民歌は不評のため短期間で演奏されなくなり「最上川」が再び県民歌として返り咲いている。
国崎 望久太郎(くにさき もくたろう、1910年(明治43年… 国崎 望久太郎(くにさき もくたろう、1910年(明治43年)4月21日 - 1989年(平成元年)11月1日)は、日本文学研究者・歌人。立命館大学名誉教授。 福岡県山門郡大和町(現柳川市)生まれ。1931年第七高等学校中退。1936年東洋大学文学部国文科卒、同年7月九州帝国大学法文学部中退、立命館大学専門学部講師、1940年教授、1945年立命館大学予科教授、1947年4月立命館大学法文学部教授、5月退職、6月杉森女子学園講師、1950年福岡県立伝習館高等学校講師、1951年教諭、1953年立命館大学図書館副館長、1955年立命館大学専任講師、1957年教授、1961年 東洋大学文学博士。1966年から1968年まで立命館大学図書館長、1976年定年退任、名誉教授、園田学園女子大学教授。
八木 毅(やぎ つよし、1910年4月16日生まれ)は、英文… 八木 毅(やぎ つよし、1910年4月16日生まれ)は、英文学者、俳人。 愛媛県生まれ。松山中学校、松山高等学校卒、1934年東京帝国大学文学部英文科卒。外務省嘱託、世界経済調査会主事、1946年明治大学文学部教授、1981年定年。俳句は1933年臼田亜浪に師事し「石楠」に拠る。1981年から『河原』に参加、俳号は八木絵馬。
篠原 梵(しのはら ぼん、1910年4月15日 - 1975… 篠原 梵(しのはら ぼん、1910年4月15日 - 1975年10月17日)は、愛媛県出身の俳人、編集者・出版者。伊予郡南伊予村(現・伊予市)生。本名・敏之(としゆき)。俳号「梵」は郷里の松山で男の子のことを「ボン」と呼んだことによるという。 旧制松山高等学校を経て、1934年、東京大学文学部国文学科を卒業。1938年、中央公論社に入社。戦中の1944年、退職して郷里の愛媛青年師範学校で教師をしていたが、1948年に中央公論社に復職、「中央公論」編集長、同社出版部長、取締役を経て中央公論事業出版専務に就任。その後同社の社長に就任し、丸の内出版社の社長も兼任した。出版人として毎日出版文化賞、広告電通賞などを受賞している。
大藤 ゆき(おおとう ゆき、1910年〈明治43年〉3月11… 大藤 ゆき(おおとう ゆき、1910年〈明治43年〉3月11日 - 2001年〈平成13年〉11月1日)は、日本の民俗学者、歌人。女性民俗学者の第一人者、または草分けの1人といわれる。夫は同じく民俗学者の大藤時彦。父は元福岡市長の小西春雄。福岡県出身(出生地は朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道咸興市)、旧姓は小西。 父が朝鮮銀行に務めていたため、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道咸興市で誕生した。父の転勤に伴い、中国の大連を経て福岡県に転居した。 大陸育ちのために、地方の狭さを感じて上京し、1931年(昭和6年)に東京女子大学高等学部を卒業した。就職口が無く、英文タイプや速記などの資格を得、日本国外から日本を訪れた人々に日本語を教えたりしていた。
高屋 窓秋(たかや そうしゅう、1910年2月14日 - 1… 高屋 窓秋(たかや そうしゅう、1910年2月14日 - 1999年1月1日)は、俳人。本名・正国(まさくに)。従来の写生主義、花鳥諷詠の俳句から離れた句作を行い、昭和初期の新興俳句運動に大きな影響を与えた。代表句に「頭の中で白い夏野となつている」「ちるさくら海あをければ海へちる」「山鳩よみればまはりに雪がふる」など。 名古屋市東区に生まれる。父は陸軍士官で、名古屋は両親の故郷であったが、物心ついてからは東京に住んだ。1923年、関東大震災に被災ののち、父の転任に伴い熊本に移る。1926年、学友に連れられて「ホトトギス」派の俳人草野駝王、有働木母寺が指導する句会に出席、必要ということで学友に「寅秋子」の俳号を付けられる。
鈴木鵬于(すずき ほうう、1910年(明治43年)1月9日 … 鈴木鵬于(すずき ほうう、1910年(明治43年)1月9日 - 1944年(昭和19年)3月22日)は日本の俳人。作家。本名は鈴木邦(ほう)。 愛知県渥美郡泉村(現田原市)に生まれる。幼い頃より頑健ではなく病弱だったため、遠方通学の無理がたたり体調を崩し、成章中学(現愛知県立成章高等学校)を中退。中退後は、静養のかたわら文学書を読み耽っていた。そんな折、前隣りの旅籠旅館盛義海水亭の主人であった川合茂助(俳号華光)から俳句を勧められ、俳句誌『石楠』に投稿するようになる。 などの句で、石楠同人に名を知られるようになった。 石楠俳人の主と好人物の女将の経営する盛義海水亭は、石楠同信の来訪には絶好の場所となり、臼田亞浪をはじめまさに多士済々であった。
坂口 利雄(さかぐち としお、1910年 - 1979年5月… 坂口 利雄(さかぐち としお、1910年 - 1979年5月9日)は、日本の昭和時代に活動した作詞家、歌人。 鹿児島県出身。名前の表記を「利夫」とする資料もある。 1910年(明治43年)、鹿児島県川辺郡西加世田村(現在の南さつま市笠沙町)片浦に生まれる。鹿児島県第一師範学校を卒業後、川辺実科高等女学校他で教鞭を執る。この時期より『多磨』への投稿を通じて北原白秋に師事し、1938年(昭和13年)刊の『多磨第一歌集』に短歌4首が採録されている。第二次世界大戦下では中国大陸へ渡り、大同の国民学校で教頭となった。 終戦を経て日本に引き揚げ、万世町立益山中学校の教務主任在職時に鹿児島県が南日本新聞社と合同で開催した県民歌の懸賞募集で応募作が入選する。
清水 重道(しみず しげみち、1909年〈明治42年〉12月… 清水 重道(しみず しげみち、1909年〈明治42年〉12月14日 - 1958年〈昭和33年〉4月23日)は、日本の国文学者・詩人・作家・歌人。 東京生まれ。東京高等学校を経て、1932年(昭和7年)東京帝國大學文學部國文學科卒業。“非常に秀才だった”という。 1935年(昭和10年)『沙羅』を作詞。1936年(昭和11年)信時潔が独唱曲として歌曲集『沙羅』を発表。(発表時、清水27歳、信時49歳) 大學卒業後、岡崎師範学校、東京高等学校教授をへて、1943年(昭和18年) 東京音楽學校教授・文部省嘱託 となる。(昭和20年まで) 1945年(昭和20年)北海道第三師範学校(学芸大学)・旭川分校着任。
加藤 知世子(かとう ちよこ、1909年11月20日 - 1… 加藤 知世子(かとう ちよこ、1909年11月20日 - 1986年1月3日)は、新潟県出身の俳人。本名チヨセ。旧姓・矢野。東頸城郡安塚(現上越市)生。1929年、加藤楸邨と結婚。1931年、句作をはじめ「若竹」「馬酔木」に投句。1940年、楸邨の「寒雷」創刊とともに参加。1954年、池上不二子、柴田白葉女らと「女性俳句」を創刊、編集に携わる。句集に『冬萌』『朱鷺』『太麻由良』『夢たがへ』『飛燕草』『頬杖』がある。 1986年1月3日没、墓所は東京都世田谷区の九品仏浄真寺。
鈴鹿 俊子(すずか としこ、1909年9月18日 - 200… 鈴鹿 俊子(すずか としこ、1909年9月18日 - 2008年2月20日)は、日本の歌人・随筆家。川田順の後妻。本名・川田俊子。 京都生まれ。同志社女子専門学校(のち同志社女子大学)中退。17歳のとき、家に下宿していた京都帝国大学経済学部教授の中川与之助と結婚、3子をもうける。中川は苦学から身を起こして帝大教授となった人物であったが、結婚生活は幸せなものではなかった。 1942年、吉沢義則主宰の歌誌「ハハキギ」に入会。1944年、島文次郎の妻で教師の楳乃が自宅で開いていた古典講義会で歌人の川田順に出会い、師事して頻繁に出入りするようになるうちにやがて恋へと発展した。一方、夫の中川は敗戦後の公職追放で帝大を辞職させられていた。
太田青丘(おおた せいきゅう、1909年8月28日 - 19… 太田青丘(おおた せいきゅう、1909年8月28日 - 1996年11月15日)は、昭和・平成期の歌人、漢文学者、法政大学名誉教授。専門は中国詩学。文学博士。歌誌『潮音』主宰。妻(後妻)は歌人の太田絢子。青丘の娘は京都大学国語国文科卒の木村雅子(生母は満喜子)で『潮音』現主宰。 長野県東筑摩郡広丘村(現・塩尻市)生まれ。本名・兵三郎(ひょうざぶろう)。太田水穂の兄・嘉曾次の三男で、父の没後に水穂・四賀光子夫妻の養子となる。当初は漢詩の創作から始まり、1928年(昭和3年)水穂の歌誌『潮音』に入会。旧制武蔵高等学校を経て、1934年(昭和9年)東京帝国大学文学部中国文学科卒。東大大学院をへて文部省国民精神文化研究所所員。
加倉井 秋を(かくらい あきを、1909年8月26日 - 1… 加倉井 秋を(かくらい あきを、1909年8月26日 - 1988年6月2日)は、茨城県出身の俳人、建築家。本名は昭夫。日本画家の加倉井和夫は弟。 茨城県出身。東京美術学校(現・東京芸術大学)建築科卒業。建築会社勤務を経て、1970年より武蔵大学教授(美術工芸史)。 俳句は1936年より、「あきを」の号で「馬酔木」に投句。1938年より「秋を」に改めて「若葉」に投句、富安風生に師事する。1941年より「若葉」編集長。1946年、安住敦らと俳句作家懇話会を結成。のちに同人誌「諷詠派」創刊に参加。1948年、「若葉」第一期同人。1955年、愛媛療養所の機関誌であった「冬草」の雑詠選者。1959年より「冬草」を東京に移管し主宰となる。
片桐 顕智(かたぎり あきのり、1909年8月23日 - 1… 片桐 顕智(かたぎり あきのり、1909年8月23日 - 1970年1月29日)は、日本の歌人、日本文学研究者、文筆家。 長野県野沢温泉村豊郷生まれ。新潟県社会教育課勤務の片桐佐太郎の三男。 旧制新潟高等学校卒、1935年東京帝国大学文学部国文科卒。日本放送協会に勤務、編成局社会部長、ラジオ局文芸部長、芸能局次長、1960年総合放送文化研究所所長。1952年に『NHK短歌』を創刊。 1965年退職、1966年跡見学園女子大学教授。 学生時代に歌誌『真人』に参加。落合直文、斎藤茂吉を研究。日本エッセイストクラブ賞選考委員を務めた。
岩崎 敏夫(いわさき としお、1909年8月21日 - 20… 岩崎 敏夫(いわさき としお、1909年8月21日 - 2004年10月28日)は、日本の民俗学者、歌人。 福島県相馬生まれ。國學院大學高等師範部卒。1962年「本邦小祠の研究」で國學院大學文学博士。相馬女子高等学校教頭。東北学院大学教授。1963年「本邦小祠の研究」で柳田賞受賞。歌人。
石川桂郎(いしかわ けいろう、1909年8月6日 - 197… 石川桂郎(いしかわ けいろう、1909年8月6日 - 1975年11月6日)は、日本の俳人・随筆家・小説家・編集者。東京出身。石田波郷に師事、「鶴」「壺」「馬酔木」同人、「風土」主宰。本名は石川一雄。 東京市芝区三田聖坂の理髪店の息子として生まれる。御田高等小学校卒業。家業の理髪店の仕事をしながら俳句を作りはじめ、1934年、杉田久女に入門。1937年、石田波郷の「鶴」創刊より投句し、1939年に同人となる。また、小説を横光利一に師事する。 父の死後に店主となった理髪店を文具店とするが、店員が次々に召集されて人手不足となり廃業。工場・工事関係など様々な職を転々とする。1942年、理髪店時代を描いた小説『剃刀日記』を発表。
稲田 定雄(いなだ さだお、1909年7月1日 - 1993… 稲田 定雄(いなだ さだお、1909年7月1日 - 1993年12月17日)は、日本のロシア文学者、歌人、作家。 福岡県八幡市(現北九州市)生まれ。1934年大阪外国語学校ロシア語科卒。日本ロシア文学会理事。国鉄門司鉄道局勤務、実業之世界社および日露通信社の記者、陸軍航空通信学校教官などの経歴を有する。 交通新聞に私小説的な作品である『或る女の横顔』を連載。姉妹編として短編集『妻の体温』がある。また「創作」(若山牧水が創始者)に参加した歌人でもあり、昭和万葉集に作品が収められている。
村山 古郷(むらやま こきょう、1909年6月19日 - 1… 村山 古郷(むらやま こきょう、1909年6月19日 - 1986年8月1日)は、昭和期の俳人。京都府京都市下京区仏具屋町出身。本名・正三。兄の村山葵郷、姉のたかも俳人。 1939年、國學院大學国文科卒。 保善商業教諭を経て、1941年、日本郵船に入社。内田百閒に師事。 俳句は少年時代、兄・葵郷の手ほどきを受ける。「草上」同人を経て、1932年「東炎」同人となる。戦後、1946年「べんがら」を、1952年「たちばな」を創刊したが、1955年石田波郷の知遇をえて「鶴」同人となる。1978年山路閑古のあとを継いで鴫立庵第二十世庵主。 俳誌『嵯峨野』を主宰、俳人協会理事を務めた。1978年、『明治俳壇史』で芸術選奨文部大臣賞受賞。
伊藤 源之助(いとう げんのすけ、1909年6月 - 198… 伊藤 源之助(いとう げんのすけ、1909年6月 - 1986年12月20日)は、歌人。
石橋 辰之助(いしばし たつのすけ、1909年(明治42年)… 石橋 辰之助(いしばし たつのすけ、1909年(明治42年)5月2日 - 1948年(昭和23年)8月21日)は、俳人。栗林一石路や橋本夢道とともにプロレタリア俳句運動に尽力した。別号に竹秋子。 東京府下谷区生まれ。安田工業学校電気科卒業。帝国劇場、帝都座の照明技師を経て日本映画社の制作課長となる。10代より「ホトトギス」に投句。1931年、「ホトトギス」を離れ水原秋桜子の「馬酔木」に参加、1933年同誌同人。当時は竹秋子の号を用い、特に山岳俳句において新局面を開く。 1937年、「馬酔木」を離れ新興俳句運動、プロレタリア俳句運動に参加、翌年「京大俳句」に参加。1939年には西東三鬼、三谷昭らと「天香」を創刊するが、1940年の「京大俳句」弾圧事件に連座、「天香」も終刊を余儀なくされる。
平田 佐貞(ひらた すけさだ、1909年(明治42年)5月 … 平田 佐貞(ひらた すけさだ、1909年(明治42年)5月 - 1938年(昭和13年)10月)は、日本の俳人・彫刻家・陸軍軍人。 平田紡績の創業家に生まれる。2代目平田佐次郎の第12子・七男であり、長兄に平田佐十郎、次兄に平田佐武、三兄に平田佐矩、四兄に平田佐雄、五兄に宗村佐信(宗村の養子)、六兄に平田佐義。長姉にあさお子、次姉にあさへ子、三姉にますへ子、四姉に富枝子。甥に宗村完治、宗村南男と宗村明夫がいる。三重郡富洲原町出身(現在の三重県四日市市富洲原地区富田一色町)出身。
藤井 清(ふじい きよし、1909年4月17日 - 1998… 藤井 清(ふじい きよし、1909年4月17日 - 1998年10月6日)は、日本の歌人・国文学者。 福井県鯖江市生まれ。1939年広島文理科大学史学科卒。仙台の宮城県立第一高等女学校(現在の宮城県宮城第一高等学校)をふりだしに、宇都宮、福井など各地の高校、大学で教え、1969年退職。 1932年『国民文学』に入会し、松村英一に師事する。のち編集委員・選者。1978年「高樹会」会員となり、合同歌集「高樹」に参加。千代國一編集の歌誌「国民文学」の選者を務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
佐佐木 治綱(ささき はるつな、1909年2月20日 - 1… 佐佐木 治綱(ささき はるつな、1909年2月20日 - 1959年10月8日)は、昭和期の歌人、国文学者。 佐佐木信綱の三男として東京に生まれる。東京高等師範学校附属中学校、旧制第八高等学校を経て、1935年に東京帝国大学文学部国文科を卒業。父と斎藤瀏に師事し、1940年「鶯」を創刊。1944年「心の花」と合併し、1952年から編集責任者。白百合短期大学教授。中世和歌、特に玉葉和歌集・風雅和歌集を専門とした。1959年、転落事故により急逝。父よりも早い死であった。 妻の佐佐木由幾(旧姓・鈴木、理化学研究所研究員鈴木庸生の次女)も歌人。長男は歌人の佐佐木幸綱。孫に佐佐木頼綱、佐佐木定綱。
斎藤 史(齋藤史、さいとう ふみ、1909年〈明治42年〉2… 斎藤 史(齋藤史、さいとう ふみ、1909年〈明治42年〉2月14日 - 2002年〈平成14年〉4月26日)は、日本の歌人。東京市四谷区生まれ。福岡県立小倉高等女学校(現・福岡県立小倉西高等学校)卒業。 歌人の父の影響で早くから作歌を始め、佐佐木信綱に師事。モダニズム短歌から出発し、内省を深めることで独自の歌風を構築した。歌集に『魚歌』(1940年)、『ひたくれなゐ』(1976年)などがある。 父齋藤瀏は陸軍少将で、佐佐木信綱主宰の歌誌「心の花」所属の歌人でもあった。父は「史子」と出生届を提出したが、戸籍係が間違えて「史」と登録してしまった。17歳の時、若山牧水に勧められて作歌をはじめ、18歳から「心の花」に作品を発表するようになる。
田淵 実夫(たぶち じつお、1909年1月25日 - 199… 田淵 実夫(たぶち じつお、1909年1月25日 - 1991年3月8日)は、日本の俳人、政治家、民俗学者。 俳号・十風子。広島県三次市生まれ。関西大学卒、京都大学大学院言語学専攻博士課程満期退学。中学、高校、大学教師ののち、1947年、第23回衆議院議員総選挙に旧広島3区から日本社会党公認で出馬し初当選。1949年、落選。広島市立図書館長。広島市文化センター管理者。比治山女子短期大学教授、広島女学院大学教授。広島方言、石垣などを研究した。
小谷 心太郎(こたに しんたろう、1909年(明治42年)1… 小谷 心太郎(こたに しんたろう、1909年(明治42年)1月18日 - 1985年(昭和60年)6月18日)は、昭和期の歌人。 岡山県出身(大阪市北区出身とも)。福岡中学(現・福岡県立福岡高等学校)卒業後、東京帝国大学へ進み、東大在学中の1932年(昭和7年)に「アララギ」に入会、斎藤茂吉に師事。1936年、サイパンに赴任。戦時中は海軍に従軍し戦場詠を詠んだ。 終戦の後は「新泉」、「アザミ」に入り活動する。1958年、「童牛」創刊。1977年に「宝珠」で第4回日本歌人クラブ賞を受賞。1985年死去、享年76。
横山 林二(よこやま りんじ、1908年(明治41年)12月… 横山 林二(よこやま りんじ、1908年(明治41年)12月20日-1973年(昭和48年)2月25日)は、日本の自由律俳句の俳人。層雲の荻原井泉水に師事、のちプロレタリア俳句運動に転じ、新興俳句弾圧事件により投獄された。戦後は新俳句人連盟常任委員、現代俳句協会会員。東京都生まれ、本名は吉太郎。 東京都港区に生まれ、芝新網町に育つ。父は露天商、母は日雇労働者、二人の姉は芸者と女工という貧しい家庭だった。新網の特殊小学校、専修商業学校を経て早稲田大学政経学部を卒業。14歳の時に関東大震災を経験。関東大震災朝鮮人虐殺事件や甘粕事件を契機に社会性俳句に目覚め、その年の1923年、荻原井泉水が選者をしていた朝日新聞の自由律俳句欄に投句、翌年にはその井泉水が主宰する層雲に入会、同じ層雲の栗林一石路や橋本夢道らとプロレタリア俳句運動を展開する。
常見 千香夫(つねみ ちかお、1908年(明治41年)10月… 常見 千香夫(つねみ ちかお、1908年(明治41年)10月31日 - 1988年(昭和63年)1月4日)は、埼玉県浦和町(現・さいたま市)出身の歌人。 旧制浦和中学校(現埼玉県立浦和高等学校)、東京薬学専門学校(現東京薬科大学)卒業。 浦和中学校在学中、加藤克巳らとともに、「菁藻」にて同校教諭であった高橋俊人に学ぶ。1927年(昭和2年)、村野次郎主宰の「香蘭」入社。1933年、「短歌至上主義」創刊に参加。 1940年、伝説的な合同歌集『新風十人』(八雲書林)に参加。参加者は、常見のほかに五島美代子、筏井嘉一、加藤将之、佐藤佐太郎、斎藤史、館山一子、坪野哲久、福田栄一、前川佐美雄であった。 戦後1946年、加藤克巳、大野誠夫と「鶏苑」を創刊するが、1953年廃刊、以後作歌生活を断った。
相馬 遷子(そうま せんし、1908年10月15日 - 19… 相馬 遷子(そうま せんし、1908年10月15日 - 1976年1月19日)は、日本の俳人、医師。本名は相馬富雄。 長野県出身。東京帝国大学医学部卒。 水原秋櫻子に俳句の指導を受け、1940年より「馬酔木」同人。1945年より同人会長。同時に1938年から「鶴」同人、石田波郷に兄事する。同年斎藤玄の斡旋で句集『草枕』を出版。故郷の自然を詠み堀口星眠、大島民郎などとともに馬酔木高原派と呼ばれたが、山本健吉は遷子の句に他の「高原派」にはない、「鶴」との関わりからくる境涯性を指摘している。以後の句集に『山国』(1956年。一般にはこれが第一句集とされている)、『雪嶺』(1969年)、『山河』(1976年)、『相馬遷子全句集』(1982年)がある。
中島 斌雄(なかじま たけお 1908年10月4日 - 19… 中島 斌雄(なかじま たけお 1908年10月4日 - 1988年3月4日)は、東京府東京市出身の俳人・国文学者。本名は武雄。旧号月士。 芝区(現港区)生。東京帝国大学文学部国文科大学院修了。近世文学、俳諧史を専攻。日本女子大学名誉教授。 旧制芝中学校在学時、同級生の漫画家・小川たけしが刊行した『虎落笛』という雑誌に投句している。後に俳句を小野蕪子に師事し「鶏頭陣」に所属。東大俳句会で高浜虚子の指導を受け「ホトトギス」「馬酔木」に投句。 一時中断を経て1946年「麦」を創刊。同誌に俳諧史研究からの理念をもとに現代俳句に関する評論を連載。句作においては知的な構成と叙情とを特徴とし、時に難解な表現に傾きつつも独自の道を辿った。
窪田 章一郎(くぼた しょういちろう、1908年8月1日 -… 窪田 章一郎(くぼた しょういちろう、1908年8月1日 - 2001年4月15日)は、日本の歌人・国文学者。早稲田大学名誉教授。 窪田空穂の長男として、東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)南榎町に生まれる。旧制私立豊山中学校(現在の日本大学豊山高等学校)4年修了後、早稲田大学文学部国文科卒。1943年、武川忠一らが創設した早稲田大学短歌会に指導役として参加。そこから発展した歌誌『まひる野』を創刊主宰した。早稲田大学講師・教授を歴任、名誉教授の称号を受く。国文学者としては西行研究の第一人者であった。 1980年、「素心臘梅」で第14回迢空賞受賞。1988年、「窪田章一郎全歌集」で第11回現代短歌大賞受賞。
渡辺 直己(わたなべ なおき、1908年(明治41年)6月4… 渡辺 直己(わたなべ なおき、1908年(明治41年)6月4日 - 1939年(昭和14年)8月21日)は、広島県呉市出身の歌人。 呉一中(現:広島県立呉三津田高等学校)、広島高等師範学校(現:広島大学)卒業。芥川龍之介に影響を受けた文学青年で、マルクス主義にも関心を持った。異父兄・高橋彰三の影響で短歌を始める。1935年(昭和10年)、伊藤左千夫を中心にして1908年(明治41年)に作られた短歌誌『アララギ』に入会し、土屋文明に師事した。しかし当初の渡辺の作品は牧歌的で、島木赤彦や文明の模倣でしかなかった。 呉市立高等女学校(現:呉三津田高等学校)の国語教師として奉職中だった1937年(昭和12年)、日中戦争に応召し、中国に第五師団歩兵第十一連隊陸軍少尉として送られる。
赤城 さかえ(あかぎ さかえ、1908年〈明治41年〉6月3… 赤城 さかえ(あかぎ さかえ、1908年〈明治41年〉6月3日 - 1967年〈昭和42年〉5月16日)は、俳人、俳論家。本名・藤村 昌(ふじむら さかえ)。 国文学者・藤村作の次男として広島県広島市に生まれる。二歳の時に父、作の東京帝国大学赴任に伴い上京、千駄ヶ谷尋常高等小学校(のちの渋谷区立渋谷小学校)、東京府立第五中学校(現・東京都立小石川中等教育学校)、旧制山形高校を経て東京帝国大学文学部中退。東大在学中に日本共産党(非常時共産党)に入党、山本健吉や亀井勝一郎、原民喜らと地下活動に入るも熱海事件に巻き込まれて知多半島に逃亡。のち転向し、1937年召集。1938年には昭和鉱業に勤務するが、1940年結核を発病して逗子湘南サナトリウムに入院。
柳田 知常(やなぎだ ともつね、1908年5月26日 - 1… 柳田 知常(やなぎだ ともつね、1908年5月26日 - 1995年1月25日)は、日本の国文学者、俳人。 岐阜県大垣市出身。別名読み・ちじょう。1930年東京帝国大学文学部国文学科卒。各地の中学教諭を経て、1947年金城女子専門学校教授、72年から金城学院大学学長、79年定年退任、名誉教授となる。1925年キリスト教入信。倉田百三主宰の「生活者」に参加。また俳誌「橋」を主宰する。