松沢 光雄(松澤 光雄、まつざわ みつお、1915年9月13… 松沢 光雄(松澤 光雄、まつざわ みつお、1915年9月13日 - 没年不詳)は、日本の地理学者・社会学者、教育者。 長野県生まれ。1953年立正大学文学部地理学科卒。中野区立第五中学校教諭、千代田区立今川中学校(現千代田区立神田一橋中学校)校長、跡見学園女子大学講師、教授。1990年「わが国繁華街の機能区域とその空間的配列について」で立正大学文学博士。 田中啓爾を慕って立正大学に進み、1973年サンケイ商業新聞に「繁華街一等地」を連載。1974-77年サンケイ新聞に「商い風土記」を連載、1979年マンガ害悪論を唱えた。
奥田 智重子(おくだ ちえこ、1915年(大正4年)6月23… 奥田 智重子(おくだ ちえこ、1915年(大正4年)6月23日 - 2006年(平成8年)3月6日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、音楽教育者。本名:久本 智重子(ひさもと ちえこ)。 千葉県千葉市出身。1937年(昭和12年)東京音楽学校本科卒業。1939年(昭和14年)同校研究科修了。世代柄『此の決意』(テイチク1943年2月新譜、東海林太郎・奥田智重子)等の軍歌の録音もある。 1949年(昭和24年)東京でリサイタル・デビュー。1953年(昭和28年)渡独、フライブルク音楽大学で学ぶ。1955年(昭和30年)同大学卒業。1955年(昭和30年) - 1958年(昭和33年)同大学マイスターコース修了。
八田 亭二(はった こうじ、1915年3月17日 - 199… 八田 亭二(はった こうじ、1915年3月17日 - 1994年)は、日本の教育者。父は元旧制新潟高等学校初代校長の八田三喜。兄は演出家の八田元夫。 東京出身。東京帝国大学大学院理学部動物学科卒業。
鶴 襄(つる のぼる、1915年1月25日 - 2006年1… 鶴 襄(つる のぼる、1915年1月25日 - 2006年12月21日)は、日本の教育者。学校法人鶴学園創設者。鶴学園名誉総長。 広島県広島市にて鶴家の四男として出生。父は旧制広陵中学校(現・広陵高等学校)、広島電機高等学校(現・広島国際学院高等学校)の設立に尽力した鶴虎太郎。その後、福岡県に移り、1932年福岡中学校(現福岡県立福岡高等学校)卒業。同期に麻生典太がいた。広島県に戻り、芸備日日新聞(後に中国新聞社に吸収)に勤務。南満州鉄道にも勤めた。退職後は広島電機高等学校勤務を経て、広島高等電波学校(現・広島工業大学高等学校)、次いで学校法人鶴学園を創設した。1963年に広島工業大学、旧広島高等学校及び附属中学校(現広島なぎさ中学校・高等学校)デネブ高等学校、広島工業大学専門学校、なぎさ公園小学校等、数多くの学校教育機関の設立に携わった。
芳賀 秀次郎(はが ひでじろう、1915年(大正4年)1月1… 芳賀 秀次郎(はが ひでじろう、1915年(大正4年)1月1日 - 1993年(平成5年)5月9日)は、日本の教育者、詩人、歌人。 山形県白鷹町横田尻に生まれる。 1935年山形師範学校(現:山形大学地域教育文化学部)卒業後、山大教育学部附属小学校、山形南高、上山高での勤務を経て、長井高校長を務める。退職後、日大山形高校に移り教鞭を執った。旧制山形二中・山南には23年にわたり在籍し、児童文学作家である鈴木実は文芸部で指導を受けた。 アララギ派の歌人として出発し、1943年に情報局・朝日新聞主催の懸賞作詞「大日本の歌」が一位入賞。戦後は、戦中の反省から短歌を捨て詩作におもむく。1952年に洋酒壽屋(現:サントリー)主催で公募された新国民歌では応募した「われら愛す」が一位で入選する。
福冨 芳美(ふくとみ よしみ、1914年11月23日 - 1… 福冨 芳美(ふくとみ よしみ、1914年11月23日 - 1992年4月22日)は、昭和~平成初期のファッションデザイナー、教育者。旧姓は小田。 岡山県生まれ。兵庫県立第一神戸高等女学校を卒業後、婦人服の仕立て職人に弟子入り。その後上京して杉野学園ドレスメーカー女学院で学び、1937年に神戸ドレスメーカー女学院(現・神戸ファッション専門学校)開校。戦後は大丸神戸店の顧問デザイナーに招聘され、パリやニューヨークへ出かける機会を得る。また、神戸在住のまま飛行機で日本大学芸術学部美術学科に通い、1961年に卒業した。 1967年に明石女子短期大学を創立し、学長兼教授となる。日本家政学会、人間工学会、日本デザイナークラブ、ザ・ファッション・グループ(本部ニューヨーク)等の会員。
丸木 清美(まるき せいみ、1914年(大正3年)11月12… 丸木 清美(まるき せいみ、1914年(大正3年)11月12日 - 1994年(平成6年)8月27日)は、日本の医師、精神科医、政治家、教育者。 埼玉医科大学創立者。日本医科大学卒業、医学博士(東京大学)。 埼玉県入間郡毛呂村(現毛呂山町)生まれ。旧制埼玉県立川越中学校から、1939年(昭和14年)3月に日本医科大学を卒業後、東京帝国大学(現東京大学)精神科教室に入局。教授は内村祐之。医学博士(東京大学)、同年10月海軍軍医(中尉)。1944年(昭和19年)少佐。1947年(昭和22年)に祖父の丸木清太郎が創設した毛呂病院の院長となった。1949年(昭和24年)精神薄弱児施設(現障害児入所施設)育心寮を、1950年(昭和25年)救護施設育心寮を開設。
白 南檍(ペク・ナモク、朝鮮語: 백남억、1914年11月1… 白 南檍(ペク・ナモク、朝鮮語: 백남억、1914年11月11日 - 2001年1月15日)は、日本統治時代の朝鮮の鉄道官僚、大韓民国の教育者、政治家。初代大邱大学(現・嶺南大学校)大学院長、参議員・第6・7・8・9代韓国国会議員を歴任した。 本貫は水原白氏。漢字表記は白南憶とも。国民大学校経商大学学長の白種玹は息子、元国会議長の朴浚圭は妻の兄弟。実業家の李秉喆の妻の朴杜乙(朝鮮語版)は妻の従おば(岳父の従姉妹)。 日本統治時代の慶尚北道金泉郡(現・金泉市)出身。九州帝国大学(現・九州大学)法文学部、ミシガン大学大学院修了。解放前は鉄道系統で官吏を務めたが、解放後は教育界に転身し、大邱大学(現・嶺南大学校)教授、同校初代大学院長(1958年3月 - 1960年11月)、東国大学校・建国大学校大学院講師を務めた。
松本 民之助(まつもと たみのすけ、1914年7月11日 -… 松本 民之助(まつもと たみのすけ、1914年7月11日 - 2004年3月15日)は、日本の作曲家、教育者。東京藝術大学名誉教授。 1936年(昭和11年)東京音楽学校甲種師範科卒業。下総皖一に作曲、伊藤武雄に声楽、福井直俊にピアノを師事する。1936年 (昭和12年) ベルリンオリンピックの芸術競技で佳作入選。1938年(昭和14年)交響曲『文覚』がワインガルトナー賞優等賞受賞。作曲家の松本日之春、松本清は息子。弟子に坂本龍一や嵐野英彦、赤石敏夫らがいる。東京芸術大学音楽学部附属高等学校で松本に師事した奥慶一によれば「非常に熱心かつ厳格」という人物評がある。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。
公文 公(くもん とおる、1914年〈大正3年〉3月26日 … 公文 公(くもん とおる、1914年〈大正3年〉3月26日 - 1995年〈平成7年〉7月25日)は、日本の数学教育者。「公文式」学習指導法の考案と普及に尽力した。 高知県長岡郡大津村(現:高知市大津)の農家に生まれる。下知尋常小学校(現:高知市立昭和小学校)から土佐中学校を経て1933年に高知高等学校を卒業。1936年、大阪帝国大学理学部数学科を第1期生として卒業。高知県立海南中学校(現:高知県立高知小津高等学校)の数学教師となるが、翌年の1937年、召集令状により退職をして同県の朝倉連隊に二等兵として入隊し、満洲国に出兵。3年後の1940年に召集解除となって帰国。海軍兵学校海軍文官海軍教授の試験に合格し、茨城県の土浦海軍航空隊で教鞭を執るが、後に奈良県の天理海軍航空隊に勤務し、1944年に高知県の浦戸航空隊に転属をして、終戦を迎える。
木呂子 敏彦(きろこ としひこ、男性、1914年(大正3年)… 木呂子 敏彦(きろこ としひこ、男性、1914年(大正3年)3月11日 - 2005年(平成17年)4月)は、農業家・教育者・アイヌ史研究家・編集者。館林藩の自由民権運動家・木呂子退蔵の孫。
竹田 淳照(たけだ じゅんしょう、1914年1月24日 - … 竹田 淳照(たけだ じゅんしょう、1914年1月24日 - 1998年4月20日)は、日本の中国文学者・教育者・学校経営者。専門は中国文学。北海道夕張市出身。 1939年大谷大学文学部専門部卒業。1944年北京大学研究院修了。北京大学研究員。1945年日本に引揚げ。 大阪商科大学高等商業部教諭。1951年大阪市立大学法文学部専任講師。1960年大谷大学文学部専任講師。1962年大谷大学学監・学校法人真宗大谷学園事務局長。1965年京都産業大学学監・学校法人京都産業大学事務局長。1968年京都産業大学常務理事・同副学長・同外国語学部教授。1973年学校法人札幌大谷学園理事長。1974年札幌大谷短期大学学長。
村崎 凡人(むらさき ただひと、1914年(大正3年)1月1… 村崎 凡人(むらさき ただひと、1914年(大正3年)1月12日 - 1989年(平成1年)5月10日)は、日本の国文学者・歌人・教育者。徳島文理大学等を経営する村崎学園の理事長。徳島県徳島市出身。息子は村崎学園理事長村崎正人、孫は村崎文彦。 徳島県徳島市出身。旧制徳島中学校、早稲田大学文学部卒業。窪田空穂に師事し、歌誌「槻の木」同人となる。大学卒業後は早稲田図書出版社で勤めた。 村崎学園の創業者であり祖母である村崎サイの「自立協同」の遺志を継ぎ、1949年に同学園の理事長に就任する。1961年に徳島女子短期大学(現・徳島文理大学短期大学部)、1966年に徳島女子大学(現・徳島文理大学)を創設するなど、村崎学園を幼稚園から大学院までを一貫する総合学園に成長させるなどの実績をあげた。
尹 宅重(ユン・テクチュン、朝鮮語: 윤택중、1913年11… 尹 宅重(ユン・テクチュン、朝鮮語: 윤택중、1913年11月12日または12月16日 - 2002年1月26日)は、大韓民国の教育者、政治家。第2・4・5代韓国国会議員、全州明倫大学学長、檀国大学学長、文教部長官を歴任した。 本貫は坡平尹氏。号は嗚川または鳴川。 全羅北道益山郡出身。1936年中央高等普通学校卒、1939年普成専門学校法科卒、1943年中央大学法学部卒。中央中学校・普成専門学校・京城帝国大学勤務を経て、光復後は中央高等学校教師を務め、1945年9月に高麗青年党委員、1946年4月に西北学生援護会監査役を務めた。その後は金性洙の推薦で全羅北道文社局長・学務局長・教育局長などを務め、1948年の初代総選挙では全羅北道選挙委員会委員を務めた。
木羽 敏泰(きば としやす、1913年11月1日 - 201… 木羽 敏泰(きば としやす、1913年11月1日 - 2017年2月20日)は、日本の化学者、教育者。 1913年(大正2年)大阪市に生まれる。大阪府立浪速高等学校を経て東北帝国大学に進学。1937年(昭和12年)同大理学部化学科卒業。1939年(昭和14年)金沢高等工業学校に勤務。1941年(昭和16年)名古屋帝国大学工学部助教授、1949年(昭和24年)金沢大学教授。金沢大学では理学部分析化学講座を担当した。1969年(昭和44年)同大学理学部長,1979年(昭和54年)同大を定年退職、金沢工業大学教授に就任。1984年(昭和59年)金沢工業大学学長。1988年(平成元年)任期満了により同学長を退職。
谷口 澄夫(たにぐち すみお、 1913年9月30日- 20… 谷口 澄夫(たにぐち すみお、 1913年9月30日- 2001年1月15日)は、日本の歴史学者・教育者。 岡山県牛窓町(現・瀬戸内市)に生まれる。1940年に広島文理科大学を卒業。1949年岡山大学教育学部助教授、1953年同教授となる。岡山藩の研究で大きな成果を残した。 1969年には前学長の退任を受け学長代行(学長事務取扱)に選ばれ、同年岡山大学の第7代学長となる。学園紛争期の難局を乗り切った。退任し名誉教授。後の1978年には、新たに開学した兵庫教育大学の初代学長に迎えられる。1986年まで同大学学長を務めた後、倉敷芸術科学大学学長、就実女子大学学長を歴任。その他、数々の教育・文化関連団体の要職に就いた。
李 雨茁(イ・ウジュルまたはイ・ウチュル、朝鮮語: 이우줄ま… 李 雨茁(イ・ウジュルまたはイ・ウチュル、朝鮮語: 이우줄または이우출、1913年9月27日または1914年または1915年9月27日 - 1976年1月4日)は、大韓民国の教育者、政治家。大邱市議会議員、第3・4代韓国国会議員を歴任した。 祖父の李圭晙は韓方医である。 大邱府(現・大邱広域市)出身。日本大学法学部卒。慶尚北道民族自決闘争本部総司令、嶺南保安隊副隊長、徳化公民学院設立者、大邱市議会文教分科委員長、罹災民同胞自治会委員長、徳化中学校(現・青丘高等学校(朝鮮語版))校長(1954年時点)、大韓傷痍軍人会慶北支部顧問、自立更生院顧問を務めた。自由党所属で第4代国会議員に就任した直後、1958年7月の再検票により林文碩の方が2800票差で勝ったとわかったため、当選無効判決により議員資格を失った。
石橋 湛一(いしばし たんいち、1913年(大正2年)8月1… 石橋 湛一(いしばし たんいち、1913年(大正2年)8月15日 - 2003年(平成15年)9月7日)は、日本の教育者。内閣総理大臣を務めた石橋湛山の長男。三菱銀行に勤務していた。
黒田 孝郎(くろだ たかお、1913年8月8日 - 1991… 黒田 孝郎(くろだ たかお、1913年8月8日 - 1991年12月7日)は、日本の数学者・数学教育者。 愛知県名古屋市出身。1937年大阪帝国大学理学部卒。東京物理学校教授として上京後、電波科学専門学校(後の東海科学専門学校)の設立に尽力した。1951年に遠山啓らと数学教育協議会を立ち上げた。1953年から北海道大学教育学部助教授、教授を歴任した。1970年に専修大学経営学部教授となった.1984年定年。第7代日本科学史学会会長であった。
洪 淳熙(ホン・スニ、朝鮮語: 홍순희、1913年8月5日 … 洪 淳熙(ホン・スニ、朝鮮語: 홍순희、1913年8月5日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の産業組合幹部、教育者、政治家。第4代韓国国会議員。 本貫は南陽洪氏。実業家・社会運動家で親日派の洪鍾轍(朝鮮語版)は父、元国会議員の洪永杓(朝鮮語版)は甥(弟の息子)。 日本統治時代の全羅北道(現・全北特別自治道)高敞郡出身。明治大学法科卒。高敞産業組合常務理事、高敞面協議会議員、高敞郡学校評議会員、高敞東中学校理事、高敞女子中学校理事、高敞産業組合長、全北人事処長署理、民主党高敞乙区党委員長・政策委員・中央委員を務めた。1958年の第4代総選挙で民主党の候補として国会議員に当選し、対自由党闘争の闘士として活動したが、在任中に自由党に移籍したため非難を受けた。
中野 ツヤ(なかの つや、大正2年(1913年)6月7日 -… 中野 ツヤ(なかの つや、大正2年(1913年)6月7日 - 平成23年(2011年)9月16日)は、日本の教育者。元学校法人鷗友学園特別顧問。石川志づ初代理事長のあとをつぎ、学校法人鷗友学園の第二代理事長を22年間つとめた。 父は東京府会議長をつとめた中野勇治郎。兄は大阪高裁長官をつとめた中野次雄。経済人類学者の栗本慎一郎は妹トシ子の長男。 1913年、東京生まれ。東京府立第一高等女学校(現都立白鷗中学高等学校)、津田英学塾(現津田塾大学)を卒業。1945年東京都教育局へ。都庁初の女性管理職として活躍し、1959年に民生局婦人部長。 1971年より鷗友学園理事、1981年~2003年理事長。 財団法人都民劇場理事、内閣売春対策審議会委員、墨田区教育委員、墨田女性センター館長、その他多くの社会福祉法人の理事等をつとめた。
中村 正二郎(なかむら しょうじろう、1913年5月9日 -… 中村 正二郎(なかむら しょうじろう、1913年5月9日 - 1977年12月4日)は、日本の教育者。医学者。山口大学第5代目学長。専門は基礎医学・生化学。 京都帝国大学医学部卒業。1944年、山口県立医学専門学校(現・山口大学医学部)講師、同校助教授、同校教授を経て、1973年山口大学第5代目学長に就任(1977年まで)。日本電気泳動学会総会第12回総会長を務めた。 就任当時は実験機器が不足していた為、必要な物は手作りで補い、実験に取り組んでいた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
崔 貞基(チェ・ジョンギ、朝鮮語: 최정기、1913年4月2… 崔 貞基(チェ・ジョンギ、朝鮮語: 최정기、1913年4月20日 - 2000年2月1日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、実業家、大韓民国の教育者、政治家。第2代朝鮮大学校総長、第6代韓国国会議員。本貫は耽津崔氏(朝鮮語版)。 日本統治時代の全羅南道光州郡(現・光州広域市)出身。京都中学校、光州農業学校(現・光州自然科学高等学校(朝鮮語版))卒。1929年に農高読書会の幹部として光州学生運動に参加したため、治安維持法違反などにより検挙され、1930年に懲役3年を、1931年に懲役1年を処されたことがある。その後は東京工業大学化学工学科、朝鮮大学校大学院を卒業した。日本光科学工業株式会社専務取締役、高麗美油株式会社社長、第2代朝鮮大学校総長(1960年6月11日〜1961年8月27日)、光州学生独立運動同志会長を歴任した。
由田 浩(よしだ ひろし、1913年2月23日 - 1977… 由田 浩(よしだ ひろし、1913年2月23日 - 1977年10月3日)は日本の教育者。由田学園理事長、横浜事件の関係者。 富山県礪波郡長源寺に生まれる。法政大学法文学部法律学科を卒業し、古河電気工業に入社する。そのかたわら1940年4月に昭和塾に入り、1941年3月に卒業する(同期に浅石晴世、板井庄作、黒木利克、武田満作、武田豊、学生組には永末英一ら総勢59名)。同年11月に昭和塾が解散したのを機に、12月に高木健次郎、浅石晴世、板井庄作らの昭和塾関係者とともに研究会の再編成を考え、細川嘉六にその研究会プログラムを相談する。 1941年10月、昭和塾友以外の知人らとともに「政治経済研究会」グループを発足させ、そのメンバーとして研究活動に携わる。
小池 岩太郎(こいけ いわたろう、1913年(大正2年)2月… 小池 岩太郎(こいけ いわたろう、1913年(大正2年)2月22日 - 1992年(平成4年)7月21日)は、日本の美術教育者、インダストリアルデザイナーである。東京府(現・東京都)出身。 東京美術大学(現在の東京芸術大学)卒業後、地方公務員として福岡県庁に勤務する。その後東京に戻り商工省(現在の経済産業省)に入省し、工芸指導所にて技手として活動した。1947年(昭和22年)には古巣の東京芸術大学にて助教授として復帰し、1965年(昭和40年)に教授に昇格する。1980年(昭和55年)に退職後は、同大学の名誉教授に選出され、同時期に池を中心に複数のデザイナーと共にGKデザイングループを結成し、日本酒「大関」のボトルデザインやオートバイ、レコード、家庭用品等幅広いデザイン設計に携わった。
孫 文璟(ソン・ムンギョン、朝鮮語: 손문경、1913年2月… 孫 文璟(ソン・ムンギョン、朝鮮語: 손문경、1913年2月8日 - 1962年12月または1972年1月1日)は、大韓民国の教育者、社会運動家、政治家。第3・4代韓国国会議員。 日本統治時代の全羅南道高興郡道徳面出身。漢学勉強を経て裡里公立農林学校(現・全北大学校特性化キャンパス)、横浜専門学校法科、明治大学法学部卒。1950年の第2代総選挙では高興甲選挙区から出馬したが、8,355票を獲得しても朴八峰に19票差で敗れて落選した。その後の朝鮮戦争中は釜山で避難しながら地方出身の学生の支援を行う社会事業を展開した。1954年の第3代総選挙では候補者の公選を経て、自由党の候補として、高興甲選挙区から国会議員に初当選した。
河 泰煥(ハ・テファン、朝鮮語: 하태환、1913年1月17… 河 泰煥(ハ・テファン、朝鮮語: 하태환、1913年1月17日または1914年4月24日 - 1991年8月13日)は、大韓民国の教育者、実業家、政治家。第3・4代韓国国会議員。 第8代国会議員の金柄潤(朝鮮語版)は妻の弟である。 日本統治時代の慶尚北道迎日郡(現・浦項市)出身。立命館大学法文学部卒。大学在学中に東亜連盟事件により3年間服役した。その後は浦項女子中学校教員、同志商業中・高等学校設立校長、同志財団理事長、浦項水産大学学長、東海時報社創立社長、慶尚南道教育委員会副議長、浦項市教育委員・教育会会長、自由党浦項市党委員長・中央委員、第3代国会国防部原綿事件調査報告者、第4代国会国防委員長・台風災害対策特別委員会委員長、浦項実業専門学校校長を務めた。
小野 正文(おの まさふみ、1913年(大正2年)1月4日 … 小野 正文(おの まさふみ、1913年(大正2年)1月4日 - 2007年(平成19年)9月21日)は、日本の教育者、太宰治研究家。筆名は斧稜(おのりょう)。日本近代文学研究者の小野隆祥は兄。 青森県北津軽郡生まれ。青森中学在学中に、先輩の太宰治と知り合う。1938年東京帝国大学法学部卒業。青森県で教職につく。青森県立図書館長、1963 - 69年青森県立弘前南高等学校初代校長、青森中央短期大学教授、1982年同学長。青森中央学院大学客員教授。長年にわたる太宰治研究を評価され、2005年弘前大学から名誉博士号が授与された。多くの学校の校歌を作詞した。
坪内 八郎(つぼうち はちろう、1912年〈大正元年〉12月… 坪内 八郎(つぼうち はちろう、1912年〈大正元年〉12月7日 - 1996年〈平成8年〉12月25日)は、昭和期の教育者、政治家。衆議院議員、剣道七段・達士。 長崎県出身。1940年(昭和15年)日本大学高等師範部修身公民科を卒業した。 帝京商業学校(現帝京大学中学校・高等学校)教諭、長崎逓信講習所教官、長崎市立商業学校(現長崎市立長崎商業高等学校)教諭、同第二商業学校(長崎市立長崎高等学校となり2000年閉校)教諭などを務めた。 政界では、長崎県議会議員、長崎市議会議員に選出された。1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で長崎県全県区に無所属で出馬して落選。今村等の公職追放、本田英作の死去により1948年(昭和23年)11月に実施された第23回総選挙の長崎県第1区補欠選挙に民主自由党公認で出馬して初当選。
曺 在千(チョ・ジェチョン、朝鮮語: 조재천、1912年11… 曺 在千(チョ・ジェチョン、朝鮮語: 조재천、1912年11月9日または11月19日 - 1970年7月5日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、裁判官、検察官、警察官、政治家。慶尚北道知事、法務部長官、内務部長官、第3~6代韓国国会議員を歴任した。 本貫は昌寧曺氏(朝鮮語版)、号は逸雲(イルン、일운)。カトリック教徒。政治家の曺国鉉は親戚。 全羅南道光陽郡津月面またはソウルまたは慶尚北道達城郡出身。1933年大邱師範学校講習科卒。全羅北道青蝦公立普通学校教師、全羅北道南原公立普通学校訓導、全羅北道産業部農務科嘱託を経て、1940年中央大学法学科卒業または中退。在学中の1940年8月朝鮮弁護士試験合格、同年10月日本高等文官試験司法科合格。
大西 正道(おおにし せいどう、1912年(大正元年)11月… 大西 正道(おおにし せいどう、1912年(大正元年)11月7日 - 1960年(昭和35年)7月15日)は、大正から昭和期の教育者、労働運動家、政治家。衆議院議員(3期)。 兵庫県飾磨郡花田村(現姫路市花田町)で生まれる。姫路師範学校をへて、1939年(昭和14年)日本大学高等師範部を卒業した。 1939年から兵庫県、東京都、青森県の小学校訓導を務め、青森県立弘前高等女学校(現青森県立弘前中央高等学校)教諭に就任。戦後、労働組合運動に加わり、日本教職員組合が結成されると同中央執行委員、その後、同副委員長に就任した。その他、中央教育復興会議幹事長、ユネスコ全国連盟常任委員、世界連邦建設同盟常任理事、文部省教科書検定委員、全日本仏教会参与などを務めた。
吉田 善彦(よしだ よしひこ、1912年(大正元年)10月2… 吉田 善彦(よしだ よしひこ、1912年(大正元年)10月21日 - 2001年(平成13年)11月29日)は、東京都出身の日本の日本画家、教育者。本名誠二郎。
唐橋 東(からはし あずま、1912年(大正元年)9月1日 … 唐橋 東(からはし あずま、1912年(大正元年)9月1日 - 2012年(平成24年)4月26日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員(日本社会党、1期)、福島県喜多方市長(4期)。位階は従四位、勲等は勲三等。 孫に俳優・イラストレーターの唐橋充がいる。 福島県耶麻郡高郷村(現喜多方市)出身。1932年(昭和7年)福島師範学校専攻科(福島大学人間発達文化学類の前身)卒業。地元で小学校教員や中学校長などを務め、日本教職員組合の活動を行う。その後、福島県議を4期務める福島県議を4期務める。その後、1967年の総選挙において福島県第2区から日本社会党公認で出馬し初当選するも、再選を期した1969年の総選挙で落選。
盛田 嘉徳(もりた よしのり、1912年7月30日 - 19… 盛田 嘉徳(もりた よしのり、1912年7月30日 - 1981年7月2日)は、芸能研究者、同和教育者・運動家。 富山県出身。1937年早稲田大学文学部国文科卒。大阪学芸大学助教授、1959年大阪教育大学教授。1976年「中世賤民と雜芸能の研究」で早大文学博士。1978年大阪教育大を定年退官、名誉教授。中世芸能史が専門。部落解放同盟の前身、解放委員会に創立当初から参画し、大阪府をはじめ各地方自治体の同和対策審議会委員を務める。同和教育の研究と実践を進め、1953年全国同和教育研究協議会幹事。1968年部落解放研究所(現部落解放・人権研究所)副理事長。1980年松本治一郎賞受賞。
岸 武雄(きし たけお、1912年7月6日 - 2002年1… 岸 武雄(きし たけお、1912年7月6日 - 2002年1月21日)は、日本の児童文学作家、教育者。 岐阜県出身。1932年岐阜師範学校卒業。小・中学校教諭を経て岐阜教育大学教授、1986年定年。 58歳から創作を始め、中部地方の歴史的事件をもとに底辺に生きる人びとを描き、1971年「千本松原」で野間児童文芸推奨作品賞。1979年「花ぶさとうげ」で小学館文学賞受賞。「千本松原」は1992年に「せんぼんまつばら 川と生きる少年たち」としてアニメ映画化された。 80歳を過ぎても旺盛な執筆活動を行い、2002年1月21日に死去。享年89。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
木村 謙二(きむら けんじ、1912年7月5日 - 没年不明… 木村 謙二(きむら けんじ、1912年7月5日 - 没年不明)は、日本の心理学者・教育者。稚内北星学園、北星学園女子短期大学の学長を務めた。専門は特殊児童心理学で、日本における障害児教育の先駆者の一人。 北海道夕張市出身。1935年、北海道札幌師範学校を卒業して深川尋常高等小学校の教員となる。しかしキリスト教徒のため天皇礼拝を拒んだ事などが原因で1937年に辞職し、同年に上京して東京市内の尋常小学校の代用教員などを務めながら1943年に法政大学法文学部を卒業した。 法政大学商業学校教員などを経て、1951年に北海道大学教育学部の助教授となる。1954年からは、北星学園が開設した一年制の幼児教育専修学校で教育心理学の講義を担当している。
佐古 利正(さこ としまさ、明治45年〈1912年〉6月26… 佐古 利正(さこ としまさ、明治45年〈1912年〉6月26日 - 平成10年〈1998年〉9月22日)は、日本の神職、教育者。宇津神社宮司。 明治45年(1912年)6月26日、佐古吉浦・しづ夫妻の五男として、山口県都濃郡鹿野町(現周南市)に誕生した。 昭和5年(1930年)、旧制山口県立岩国中学校を卒業すると、姉幸嬰の強い影響を受けて、同年4月1日に神宮皇學館本科第二部に入学した。同期には呉市出身の白石舜逸がいた。在学中の昭和7年(1932年)5月、神宮皇學館大講堂に於いてジョセフ・ウォーレン・ティーツ・メーソンの「神道の創造性について」という講演会が開かれこれに出席すると強い衝撃を受け、メーソンの『神ながらの道』を日夜読み耽ったという。
朴 哲雄(パク・チョルン、朝鮮語: 박철웅、1912年6月1… 朴 哲雄(パク・チョルン、朝鮮語: 박철웅、1912年6月14日 - 1999年1月8日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の教育者、公務員、政治家、実業家。朝鮮大学校の共同設立者で第1・4・7代総長、第2・4・5代韓国国会議員(第5代は参議員)。 本貫は密陽朴氏、族譜名は玟洙。漢字表記は朴喆雄とも。父は朝鮮末期の農民戦争に参加した農民軍の朴学俊。実業家の朴誠燮、コラムニストの朴誠賢(朝鮮語版)ら4男3女がいる。 全南高興出身。全州新興学校在学中光州学生運動に参加して全州刑務所に29日間収監された。1941年明治大学政経学部政治科卒。1943年日本高等科法制経済教員免許取得。全羅南道運輸課長、光州夜間大学院設立者、朝鮮大学園設立者・総長、朝鮮大学附属中学院・中学校設立者・校長・理事長、初代・第4・7代朝鮮大学校総長(1948年5月26日~1960年5月26日、1963年11月6日~1980年8月6日、1986年12月2日~1987年12月25日)、光州新報社長、無所属および自由党所属の民議員、無所属の参議員、国際連合韓国協会全南支部長・韓国首席代表、誠実工高技術学校設立者、木浦工業技術校設立者、木浦護国工高校設立者、全羅南道8郡農工技術校設立者、高麗セメント会長を務めた。
豊増 昇(とよます のぼる、1912年〈明治45年〉5月23… 豊増 昇(とよます のぼる、1912年〈明治45年〉5月23日 - 1975年〈昭和50年〉10月9日)は、日本のピアニスト、音楽教育者。日本藝術院会員。佐賀県佐賀市出身。 1933年、東京音楽学校卒。高折宮次、レオ・シロタらに師事。1936年ドイツに留学、1943年東京音楽学校教授。その後、京都市立音楽短期大学教授を経て、1959年に武庫川女子大学音楽部長となった。 1940年にベートーヴェンのピアノソナタとピアノ協奏曲全作品の連続演奏会、1949年にバッハ死後200年記念ピアノ曲連続演奏会、さらに1950年にもバッハのピアノ曲全作品の連続演奏会をおこなった。1956年、日本人として初めてベルリンフィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会に出演した(指揮はヨーゼフ・カイルベルト)。
東井 義雄(とうい よしお/ぎゆう、1912年(明治45年)… 東井 義雄(とうい よしお/ぎゆう、1912年(明治45年)4月9日 - 1991年(平成3年)4月18日)は、「いのちの教育」の探求に尽くした日本の教育者、浄土真宗僧侶。 兵庫県出石郡合橋村佐々木(現・豊岡市)にある浄土真宗の東光寺に生まれる。1932年(昭和7年)に姫路師範学校を卒業した。卒業後、豊岡小学校赴任を皮切りに小学校教師として奉職、多くの著作を著す。1972年(昭和47年)に八鹿小学校校長を最後に定年退職。翌年4月より姫路学院女子短期大学、兵庫教育大学の講師を務め、1987年(昭和62年)辞任。55年間の教員生活に終止符を打つ。1991年(平成3年)急性硬膜下出血で逝去。東光寺住職。
遠見 豊子(とおみ とよこ、1912年3月6日 - 1979… 遠見 豊子(とおみ とよこ、1912年3月6日 - 1979年8月3日)は日本のピアニスト、音楽教育者。京都府出身。1929年に東京音楽学校予科に入学。1933年3月に同校本科器楽部ピアノ専攻を卒業。同年より同校の聴講科と研究科に進学し、1935年3月に聴講科ピアノ専攻を、1936年3月に研究科作曲部を修了。レオ・シロタ、クラウス・プリングスハイム、レオニード・クロイツァーに師事した。1939年10月(2日または20日)にデビュー。上野楽星会員。東京女子高等師範学校、武蔵野音楽学校、上野児童音楽学園講師。お茶の水女子大学教授。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
大瀬 久市(おおせ きゅういち、1912年(明治45年)2月… 大瀬 久市(おおせ きゅういち、1912年(明治45年)2月24日 - 1949年(昭和24年)4月10日)は、昭和前期の教育者、公吏(地方公務員)、政治家。衆議院議員。 長崎県北松浦郡出身。長崎県師範学校を卒業し、長崎県公立小学校訓導、東京市王子小学校訓導、赤羽小学校訓導を務めた。 その後苦学して1939年(昭和14年)東京文理科大学(のち東京教育大学)教育学科を卒業した。東京市役所に入り、同書記、東京都属、同主事を歴任した。 1947(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に長崎県第2区から民主党公認で出馬して次点で落選。1949(昭和24年)1月の第24回総選挙では無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
時任 正夫(ときとう まさお、1912年2月21日 - 19… 時任 正夫(ときとう まさお、1912年2月21日 - 1994年11月2日)は、日本の教育者。学校経営者。元学校法人北星学園理事長。 北海道札幌市生まれ。1935年北海道帝国大学農学部卒業。同年、札幌光星商業学校教諭。1946年北星高等女学校教諭。1948年北星学園高等部部長(学校長)。1951年北星学園理事。北星学園女子短期大学副学長。1956年北星学園幼稚園園長。北星学園女子短期大学学長。1969年北星学園第2代理事長に就く。1987年学校法人稚内北星学園初代理事長。1991年高齢のため同理事長退任。北星学園名誉理事長に就く。
市川 都志春(いちかわ としはる、1912年〈明治45年〉1… 市川 都志春(いちかわ としはる、1912年〈明治45年〉1月18日 - 1998年〈平成10年〉4月29日)は、日本の作曲家、音楽教育者。教育芸術社の創業者。静岡県浜松市出身。 音楽教育に力を入れ、多くの音楽教科書の著述、編集を務めたことで知られる。また、各地の学校で校歌の作曲を多く手がけている。 浜松市で生まれ、中学からは東京に移り住んだ。旧制市立ニ中(現・東京都立上野高等学校)では、福田恆存(英文学)、高橋義孝(独文学)と同期。作曲を志し、1935年に東京音楽学校の器楽部ヴァイオリン科に入り、安藤幸子、ウィリー・フライに師事した。また課外でクラウス・プリングスハイムに作曲を学び、1937年本科卒業後は研究科に進んで、信時潔に半年間作曲を学ぶ。
勝山 正躬(かつやま まさみ、1912年 - 1989年)は… 勝山 正躬(かつやま まさみ、1912年 - 1989年)は、日本の教育者。灘中学校・高等学校第4代校長。 兵庫県出身。旧制兵庫県立姫路中学校、旧制姫路高等学校を経て、京都帝国大学文学部卒業。1936年、旧制灘中学校に着任。1971年から1987年まで校長を務めた。
金子 彪(かねこ ことら、大正元年(1912年) - 平成2… 金子 彪(かねこ ことら、大正元年(1912年) - 平成2年(1990年)9月23日)は、昭和期広島県の教育者である。忠海高等学校・府中高等学校・広島国泰寺高等学校・崇徳高等学校等の校長を歴任した。 1912年に長崎県で生まれる。実兄と同じ旧制第五高等学校で学ぶ。その後、東京帝国大学文学部国文科へ進学し、同校を昭和3年(1928年)3月に卒業する。同年4月より戦前の大手出版社で教科書出版の老舗で知られる冨山房編集部で勤務する。しかし、教職に携わっていた実父・金子豪から「金子豪は長男も教職にあり。直接に育英の道に入るべきぞ」と勧められ、また全国中学校長会長である先輩に相談したところ、「それは丁度いい。
二宮 武夫(にのみや たけお、1911年(明治44年)12月… 二宮 武夫(にのみや たけお、1911年(明治44年)12月18日 – 1983年(昭和58年)1月20日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。衆議院議員。旧姓・松田。位階は正五位。 大分県大分郡石城川村高崎(挾間村、挾間町を経て現由布市挾間町高崎)で、松田克馬の三男として生まれる。1932年(昭和7年)大分県師範学校専攻科を卒業。大分県下の小中学校教員を務めた。この間に二宮家の養子となる。 戦後、組合運動に加わり、1948年(昭和23年)大分県教職員組合書記長、1949年(昭和24年)同教組執行委員長に就任。その他、憲法擁護大分県会長、バレーボール大分県協会会長などを務め、1951年(昭和26年)大分県議会議員に当選して3期在任し、大分県地方労働委員にも就任した。
矢嶋 三義(やじま みよし、1911年(明治44年)11月1… 矢嶋 三義(やじま みよし、1911年(明治44年)11月16日 - 1996年(平成8年)4月19日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。旧姓は安部。 大分県直入郡、現在の竹田市で安部家に生まれる。1933年(昭和8年)九州帝国大学附設教員養成所数学科を卒業した。 下野中学校教諭、栃木県立宇都宮中学校教諭、福岡県立八女中学校教諭、長崎県立長崎中学校教諭、熊本県立熊本中学校教諭、熊本県立熊本高等学校教諭などを務めた。 労働運動に加わり、熊本県教職員組合委員長、日本教職員組合九州地協委員長、熊本県学生協同組合理事長、同県教育会長などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙で全国区に無所属で出馬して当選し、1956年(昭和31年)7月の第4回通常選挙で全国区に日本社会党公認で出馬して再選され、参議院議員に連続2期在任した。
薗部 儀三郎(そのべ ぎさぶろう、1911年〈明治44年〉1… 薗部 儀三郎(そのべ ぎさぶろう、1911年〈明治44年〉11月6日 - 2024年〈令和6年〉3月31日)は、日本の教育者、司書、スーパーセンテナリアン。2022年11月15日以降から死去するまで日本国内の男性最高齢者であった。千葉県の人物が日本最高齢になったのは、史上初と見られる。 南房総市立三芳中学校や千葉県立安房水産高等学校(現在の千葉県立館山総合高等学校)に長年国語科と社会科の教員として勤めていた。定年後は司書として図書館に再就職し、80歳で退職した。教員だった1960年には御湯殿上日記等の文学類の書籍を執筆していた。 100歳の誕生日には、かつての教え子たちが同窓会を開いて祝福した。
佐々 久(さっさ ひさし、1911年5月28日 - 1999… 佐々 久(さっさ ひさし、1911年5月28日 - 1999年7月8日)は、日本の西洋史学者、教育者。熊本学園大学名誉教授。朝鮮京城府大和町生まれ。京都帝国大学文学部史学科卒業後、京城の高等女学校で教員生活を始める。第二次世界大戦後は父の故郷である熊本県で熊本師範学校教授、熊本短期大学・熊本商科大学(いずれも現・熊本学園大学)教授、熊本商科大学付属高校の校長などを務めた。1983年、勲四等旭日小綬章受章。 1911年(明治44年)5月28日、朝鮮京城府大和町に佐々正之(まさし)・トキ夫妻の四男として生まれる。兄3人、弟1人、妹2人の7人きょうだいだった。父・正之は熊本藩士・佐々陸助(むつすけ)の四男として幕末の熊本に生まれたが、結婚後に京城に移ってジャーナリストなどを務めており、久を含む7人きょうだいは皆京城で生まれた。