吹田 幸隆(ふきた ゆきたか、1972年8月28日 - )は… 吹田 幸隆(ふきた ゆきたか、1972年8月28日 - )は、北海道出身の元スキージャンプ選手。 札幌市宮の丘小学校―宮の丘中学校 - 札幌日大高 - 日本大学 - 北海道拓殖銀行 - 雪印乳業 10歳のときジャンプ競技を始める。同い年に葛西紀明がおり、影に隠れた形であったが着実に実力を蓄え、大学時代には全日本学生のタイトルやユニバーシアードで2大会連続の優勝を経験。1995年たくぎんに入社するが翌1996年同部の廃部に伴い雪印乳業に移籍。1998年の長野オリンピックにはテストジャンパーとして参加した。2000年3月9日の蔵王国際ジャンプNHK杯では当時のパッケンレコードを記録するなど長距離ジャンパーとして活躍。
葛西 紀明(かさい のりあき、1972年〈昭和47年〉6月6… 葛西 紀明(かさい のりあき、1972年〈昭和47年〉6月6日 - )は、北海道上川郡下川町出身のスキージャンプ選手。東海大学付属第四高等学校(現:東海大学付属札幌高等学校)から地崎工業(現:岩田地崎建設)、マイカル(現:イオンリテール)を経て、2018年2月現在は土屋ホームに選手兼任監督として所属。血液型はAB型。 16歳時の1988年より日本代表として国際大会に出場し、1992年アルベールビルオリンピックに19歳で初出場。以来、リレハンメル、長野、ソルトレイクシティ、トリノ、バンクーバー、ソチ、平昌と史上最多計8回の冬季オリンピックに出場。2001年下川町町民栄誉賞受賞。2016年ホルメンコーレン・メダル受賞。
野呂田 義一(のろた よしかず、1972年3月9日 - )は… 野呂田 義一(のろた よしかず、1972年3月9日 - )は、北海道小樽市出身の元スキージャンプ選手。 小樽ジャンプ少年団から小樽桜陽高校を経て1990年デサント入社。 1994年から登録名を野呂田 喜克援としていた。 1998年1月11日のワールドカップラムソー大会で日の丸飛行隊が上位6人中5人を占めたときに5位タイとなった。(ワールドカップでの自己最高位) 2003年3月現役を引退し八木弘和が設立したクラブチームWSCシュピッツのコーチに就任。 2015年に株式会社ecoaハウス(通称:神出設計エコアハウス)入社。戸建て住宅の営業マンとして勤務している。
東 輝(ひがし あきら、1972年1月7日 - )は、日本空… 東 輝(ひがし あきら、1972年1月7日 - )は、日本空調サービス所属の元スキージャンプ選手(監督兼任)。2003年世界選手権ジャンプ団体銀メダリスト。北海道後志支庁仁木町出身。駒澤大学附属岩見沢高等学校卒業。 1989年、高校生ながら世界選手権代表に選出され、注目を集める。 元々笠谷幸生と同じニッカウヰスキー所属だったが、1999年にスキー部が廃部となったため、後述の兄二人が所属した日本空調サービスに移籍した。 20年近くにわたって日本のトップ選手として活躍していたにもかかわらず、オリンピックに出場できないまま引退した悲運の選手として知られる。世界選手権出場4回、1997年ワールドカップ最終戦(フライング)優勝などの実績を誇りながら、なぜか五輪シーズンになると調子を崩し、出場の可能性が十分あった6回の五輪(アルベールビルオリンピック、リレハンメルオリンピック、長野オリンピック、ソルトレークシティオリンピック、トリノオリンピック、バンクーバーオリンピック)をすべて逃している。
千葉 勝利(ちば かつとし、1971年9月14日 - )は、… 千葉 勝利(ちば かつとし、1971年9月14日 - )は、日本、北海道出身の元スキージャンプ選手で、現在スキージャンプコーチ。 同学年に東輝、野呂田義一、鶴巻信也、森敏らがいる。血液型はA型。愛称は「バッチ」。 札幌市立宮の森中学校-東海大四高-日本大学経済学部 大学卒業後の1994年、翌年に国体を控えた福島県スキー連盟のスキージャンプ強化選手として採用され福島県体育協会勤務。1995年全日本スキー選手権大会(白馬ジャンプ競技場)ではラージヒルを制する。期待された国体では4位だった。 1995年、東洋実業グループ入社。入社1年目のUHB杯サマージャンプ大会では2本目に14人抜きで逆転優勝を果たす。
岡部 孝信(おかべ たかのぶ、1970年10月26日 - )… 岡部 孝信(おかべ たかのぶ、1970年10月26日 - )は、日本の元スキージャンプ選手で、現在は指導者である。駒大岩見沢高校から北海道拓殖銀行を経て、雪印メグミルクスキー部に所属する。 北海道上川郡下川町出身、下川町町民栄誉賞受賞者。 1995年サンダーベイ世界選手権個人ノーマルヒル、1998年長野オリンピック団体の両金メダリスト。 高校時代は後輩の東輝や葛西紀明の陰に隠れる存在で、北海道拓殖銀行入社後の1993年に日本代表入り。 翌年のリレハンメルオリンピックではラージヒル団体で銀メダルを獲得。団体ではドイツのイェンス・バイスフロクに次いで全選手で二番目の合計得点を記録した。 翌1995年には世界選手権サンダーベイ大会でノーマルヒルチャンピオンとなる。
斉藤 浩哉(さいとう ひろや、1970年9月1日 - )は、… 斉藤 浩哉(さいとう ひろや、1970年9月1日 - )は、雪印乳業所属のスキージャンプ選手で、2003年に引退し現在は指導者。北海道余市郡余市町の出身。同学年に岡部孝信がいる。 スキージャンプの盛んな余市町にあって10歳のときにジャンプを始めた。余市町立沢町小学校、余市町立西中学校、余市高校を経て1989年4月に雪印乳業に入社。 現役時代は「教科書」とも評された基本に忠実な、安定したジャンプスタイルで、1997年-1998年シーズンには3度あった日本のW杯表彰台独占において唯一3度全てで表彰台に上がり(1月1日・ガルミッシュ=パルテンキルヒェン:1位船木、2位原田、3位斉藤。1月11日・ラムソー:1位原田、2位船木、3位斉藤。
西方 仁也(にしかた じんや、1968年12月4日 - )は… 西方 仁也(にしかた じんや、1968年12月4日 - )は、長野県下高井郡野沢温泉村出身のスキージャンプ選手。兄の西方俊也もスキージャンプ選手として活躍した。同学年に原田雅彦らがいる。2001年引退。 野沢温泉中学校-下高井農林高校-明治大学経営学部-雪印乳業 7歳からジャンプを始め、中学3年時全国中学スキー選手権大会を制するなど早くから頭角を現した。高校一年までは複合の選手だったがその後ジャンプに専念。1994年リレハンメルオリンピックに長野県出身としては二人目のジャンプ代表として出場した。団体では合計得点254.4で、日本チームでは岡部孝信に次ぐ二番目、全選手では四番目の高さだった。 身長180cmと日本人ジャンパーとしては大柄な選手であったが、146%ルールで板が大幅に長くなったことを味方にすることが出来ず、腰痛で日本代表から外れた1997年以降は代表に返り咲くことはなかった。
東 昭広(ひがし あきひろ、1968年7月2日 - )は、日… 東 昭広(ひがし あきひろ、1968年7月2日 - )は、日本のスキージャンプ選手。 双子の兄東和広、弟の東輝とともに「東三兄弟」と呼ばれた。小柄ながら豪快なジャンパーとして活躍し、選手生命は長かった。北海道余市郡仁木町出身。北海道余市高等学校卒業。日本空調サービスで監督として後進を指導し、名伯楽として活躍するが2003年監督を辞任した。 双子の兄和広、弟輝は小学生の頃から全日本クラスの大会で優勝し活躍していたが、昭広は目立った実績を挙げていない。しかし、社会人になってからは著しい進歩を遂げ、一発屋として活躍し、飛距離は抜群であった。素質的には優れたものがあり、期待されていたが怪我が多いため外国では目立った戦績は残していない。
原田 雅彦(はらだ まさひこ、1968年5月9日 - )は、… 原田 雅彦(はらだ まさひこ、1968年5月9日 - )は、北海道上川郡上川町出身の雪印乳業所属の元スキージャンプ選手、指導者、解説者。血液型A型。1998年長野オリンピックスキージャンプ団体金メダリスト。1993年及び1997年ノルディックスキー世界選手権スキージャンプ個人金メダリスト。 小学校3年生時からスキージャンプを始め、上川中学校時代に全国中学選手権で2度優勝。東海大学付属第四高等学校(現東海大学付属札幌高等学校)でインターハイ優勝。卒業後、1987年に雪印乳業入社。 日本代表入りし、1990年代以降、日本を代表するスキージャンプ選手となる。1991年に世界選手権に初出場。日本人の中でも早くからV字ジャンプに取り組み、そこから頭角を現した。
桜井 仁(さくらい ひとし、1967年〈昭和42年〉11月1… 桜井 仁(さくらい ひとし、1967年〈昭和42年〉11月17日 - )は、北海道余市町出身の元スキージャンプ選手。 余市町立余市西中学校→北海道余市高等学校→北海道拓殖銀行(1986年入部)→東洋実業グループ 1994年リレハンメルオリンピックスキージャンプ日本代表(出場は無し)。1999年に現役引退した。 北海道拓殖銀行スキー部廃部後は全日本のコーチも務め、その後余市町教育委員会の職員となり、余市ジャンプ少年団のコーチも務める。 スキージャンプ・ワールドカップ1992年12月20日札幌・大倉山での15位が最高位である。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
川崎清司(かわさき せいじ、1966年4月23日 - )は、… 川崎清司(かわさき せいじ、1966年4月23日 - )は、北海道小樽市出身の元スキージャンプ選手。身長 180cmと、日本人としては大柄なジャンパーだった。 小樽市立住吉中学校、小樽北照高等学校から近畿大学を経て1989年東洋実業グループ入社した。同期で入社したジャンプ選手に竹内卓哉、二階堂学がいる。社会人になってから成績が振るわなかった為、1990年から当時注目され始めたV字スタイルに転向、日本人初のV字ジャンパーとなった。1994年に現役引退した。
上原子 次郎(かみはらこ じろう、1966年3月19日 - … 上原子 次郎(かみはらこ じろう、1966年3月19日 - )は、北海道出身の元スキージャンプ選手。 札幌第一高等学校-専修大学-国土計画 スキージャンプ・ワールドカップでの自己最高位は1991年札幌大会での16位。 1992年のアルベールビルオリンピックでノーマルヒル28位、ラージヒル25位、団体4位の成績を残した。 大学1年生で全日本学生選手権(インカレ)を制したが、その後はあまり成績を残せなかった。 クラシカル時代、スキーを平行に揃えることが出来ず、両足を開いてかつ段違いにしていた空中フォームが特徴だった。V字スタイルへの転向にいち早く成功したことによりオリンピック代表に選ばれた。 1994年3月現役引退後はリゾート事業を手掛ける国土計画の社業に専念。
須田 健仁(すだ けんじ、1966年2月26日 - )は、北… 須田 健仁(すだ けんじ、1966年2月26日 - )は、北海道小樽市出身の日本の元スキージャンプ選手。 小樽市立松ヶ枝中学校、北海道余市高等学校卒業。1984年東京美装興業入社。中学、高校時代は目立った実績は無かったが、社会人になって頭角を現す。1984年-1985年シーズンは誕生日の関係で各大会少年組にエントリーしたが、ここで優勝を重ねた。 ワールドカップに1990年から1998年まで参戦、通算12回ベスト10に入った。最高位は1994年3月のスウェーデンのエルンシェルツビクで行われた大会のノーマルヒル2位。 1992年のアルベールビルオリンピックに出場し、上原子次郎、原田雅彦、葛西紀明と共に団体4位になった。
坂口 昇平(さかぐち しょうへい、1964年10月20日 -… 坂口 昇平(さかぐち しょうへい、1964年10月20日 - )は北海道出身の元スキージャンプ選手。 札幌陵北中学校→北海高等学校→雪印乳業。1994年現役引退。
佐藤 晃(さとう あきら、1964年7月19日 - )は、北… 佐藤 晃(さとう あきら、1964年7月19日 - )は、北海道京極町出身の元スキージャンプ選手。 駒澤大学附属岩見沢高等学校卒業後、東京美装興業に所属した。 1988年のカルガリーオリンピックの日本代表に選ばれて田尾克史、田中信一、長岡勝と共に団体出場したが11ヶ国中11位に終わった。個人では70m級で11位、90m級では38位となり日本勢4人の中で最も上位だった。また、1985年ノルディックスキー世界選手権の団体では渡瀬弥太郎, 西方千春, 秋元正博と共に6位となった。スキージャンプ・ワールドカップで10位以内に入ったことはわずか1回であるがその1回は1987年1月24日札幌大会での優勝である。
田尾 克史(たお かつし、1963年5月1日 - )は、北海… 田尾 克史(たお かつし、1963年5月1日 - )は、北海道出身の元スキージャンプ選手、指導者。血液型はB型。愛称は「じぃじ」 札幌市立山の手小学校3年生の時にジャンプを始め、札幌琴似中学校-北海高校を経て1982年雪印乳業に入社。 1988年のカルガリーオリンピック日本代表。 1990年3月現役引退し一時期社業に専念していたが1992年からコーチに復帰、1998年には同チーム監督に就任。 一方で全日本ジャンプチームのコーチも務め、2003年9月にはチーフコーチに就任。2004年-2005年はヘッドコーチを務める。 これに関連して2004年から雪印チーム監督を富井啓介に交代、自らはアドバイザーに就任。
長岡 勝(ながおか まさる、1962年8月6日 - )は、北… 長岡 勝(ながおか まさる、1962年8月6日 - )は、北海道出身の元スキージャンプ選手。 札幌市立幌東中学校、東海大四高、日本大学を経て北海道拓殖銀行。1984年サラエボオリンピック、1988年カルガリーオリンピック代表。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
松橋 暁(まつはし さとる、1961年12月6日 - )は、… 松橋 暁(まつはし さとる、1961年12月6日 - )は、秋田県鹿角市出身の元スキージャンプ選手。 秋田尾去沢中学校 - 花輪高校 - 北海道拓殖銀行 1982年、1985年のノルディックスキー世界選手権と1984年サラエボオリンピックに日本代表として出場した。 松橋の出身地の鹿角市ではその功績を讃えて名前を冠した「松橋杯少年ジャンプ大会」(中学生対象)が開かれている。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
会沢 仁康(あいざわ ひろやす、1961年3月1日 - )は… 会沢 仁康(あいざわ ひろやす、1961年3月1日 - )は、北海道出身の元スキージャンプ選手。レークプラシッドオリンピックの代表選手であった。駒大岩見沢高校 - 専修大学出身。 スキージャンプ・ワールドカップでの最高位は1979年12月の13位。また同年のジュニア世界選手権銅メダルを獲得している。1980年に行われたレークプラシッドオリンピックに八木弘和、秋元正博、川端隆普美と共に出場した。
田中 信一(たなか しんいち、1959年5月15日 - )は… 田中 信一(たなか しんいち、1959年5月15日 - )は、日本の元スキージャンプ選手。北海道出身。 駒大岩見沢高校 - 日本大学 - 北海道拓殖銀行。 駒大岩見沢高校では会沢仁康、渡瀬弥太郎の一年先輩だが彼らほどの成績は上げられなかった。20台後半に入って成績が伸び始めて日本代表に選ばれるようになった。 1987年ノルディックスキー世界選手権では70m級57位、90m級55位、団体戦16位であった。1988年のカルガリーオリンピックに28歳で出場し、70m級52位、90m級47位、団体戦11位の成績を残した。 現役引退後はたくぎんスキー部の監督や日本代表スキージャンプのコーチを務めた。
川端 隆普美(かわばた たかふみ、1954年6月26日 - … 川端 隆普美(かわばた たかふみ、1954年6月26日 - )は日本の元スキージャンプ選手。名前は隆普実という表記も見られる。北海道出身。 北照高等学校→明治大学→北海道拓殖銀行 北照高校在学時、1972年札幌オリンピックにテストジャンパーとして参加した。 高校時代から多くのタイトルを獲得、明治大に進学して全日本学生スキー選手権で3年連続優勝を記録した。これは菊地定夫に次いで2人目の記録である。 1978年のノルディックスキー世界選手権(フィンランド・ラハティ)では70m級40位、90m級41位であった。また、1980年のレークプラシッドオリンピックで70m級29位、90m級32位の成績を残した。
相内 富久(あいうち とみひさ、1953年5月17日 - )… 相内 富久(あいうち とみひさ、1953年5月17日 - )は北海道余市町出身の元スキージャンプ選手。 札幌柏中学校 - 小樽北照高校 - 明治大学を経て雪印乳業に所属していた。 現役引退後は、コーチとしてジャンプ選手の育成強化に努める。
伊藤 高男(いとう たかお、1952年11月5日 - 202… 伊藤 高男(いとう たかお、1952年11月5日 - 2021年7月29日)は、日本の元スキージャンプ選手。 北海高校-専修大学-国土計画-水戸スキークラブ 1976年のインスブルックオリンピックに出場し70m級24位、90m級22位の成績を残した。 ノルディックスキー世界選手権には2回出場。1974年のファルン大会では90m級で51位に終わる。1978年のラハティ大会では70m級37位、90m級42位だった。 1973年のスキーフライング世界選手権では転倒して非公認ながら当時の世界記録に相当する176mを飛んだ経験もある。同大会で転倒し、鎖骨を骨折した。 1978年には大倉山で4連勝(ただし間に70m級の試合を挟んでいる)を記録した。
角田 幸司(かくた こうじ、1951年10月11日 - )は… 角田 幸司(かくた こうじ、1951年10月11日 - )は、日本の元スキージャンプ選手。 札幌商業高校(現在の北海学園札幌高等学校)→1970年雪印乳業入社 1976年インスブルックオリンピックに出場し70m級24位の成績を残した。1981年に現役引退した後はコーチとして後進を指導した。
若狭 実(わかさ みのる、1951年7月8日 - )は、北海… 若狭 実(わかさ みのる、1951年7月8日 - )は、北海道出身の元スキージャンプ選手。 滝川商業高校-日本大学-北海道拓殖銀行 スキーをハの字(先端を寄せて後端を開く「ボーゲン」の形)に開く独特のフォームで飛距離を稼いだ。しかし飛型点は1審判当り1.5点前後減点されたため、優勝を逃すことが多かった。 2007年2月6日にNHKで放送された「アインシュタインの眼 #5 スキージャンプ 〜もっと高く もっと遠くへ」の中で模型による風洞実験を行ったところ、このフォームがV字フォームに比してより揚力を得られるというデータが示された。 高校時代は1970年のインターハイで7位などあまり目立った成績は無かったが、日大進学後1973年のインカレを制して頭角を現す。
小野 学(おの まなぶ、1950年9月14日 - 2010年… 小野 学(おの まなぶ、1950年9月14日 - 2010年7月3日)は、長野県下高井郡山ノ内町湯田中温泉出身のスキージャンプ選手。スキージャンプ指導者。 湯田中温泉よろづや旅館の次男として誕生。実家は現在も同地で旅館を経営している。1969年3月、長野県長野高等学校を卒業し1970年4月に慶應義塾大学商学部入学。1973年1月に第46回全日本学生2部純ジャンプ優勝。1974年1月に第47回全日本学生2部純ジャンプ優勝。1975年3月に大学を卒業し1975年4月に日本楽器に入社、1976年2月には全日本選手権70メートル級を制した。1977年11月に地元の北野建設へ移籍し、1980年1月に第21回雪印杯ジャンプ大会準優勝。
沢田 久喜(さわだ ひさよし、1947年12月2日 - )は… 沢田 久喜(さわだ ひさよし、1947年12月2日 - )は北海道羽幌町出身の日本の元スキージャンプ選手。 北海道羽幌高等学校→明治大学→雪印乳業 羽幌高校時代、羽幌炭鉱の笠谷昌生に指導を受けて才能が開花、笠谷幸生らの次代を担う人材として期待された。現役当時、高校、大学時代は国内では無敵で、史上最強とも言われ、オリンピックの日本人初優勝も期待されたが、大学4年から不振に陥り、オリンピック出場を逃した。 1977年現役引退し雪印乳業コーチに就任、1980年4月から1984年3月まで同監督を務めた。また、1985年からは全日本のコーチを務めた。
杉本 政徳(すぎもと まさのり、1946年2月6日 - )は… 杉本 政徳(すぎもと まさのり、1946年2月6日 - )は、北海道小樽市出身の元スキージャンプ選手。 北海道小樽潮陵高等学校→早稲田大学→国鉄北海道 1968年グルノーブルオリンピックの代表に選ばれたものの、競技では補欠に回り出場しなかった。
浅利 正勝(あさり まさかつ、古い戸籍では「淺利」。1945… 浅利 正勝(あさり まさかつ、古い戸籍では「淺利」。1945年7月31日 - 2004年6月8日)は、日本のスキージャンプ選手、監督。北海道出身。 1968年グルノーブルオリンピックのスキージャンプ代表。数々の国内外の大会で優勝し、第一期日本スキー界の黄金期に活躍した選手の一人。明治大学を経て雪印乳業(現・雪印メグミルク)株式会社に所属。 後に同社のスキー部監督に就任し、原田雅彦選手などを育て、第二期日本スキー界の黄金期を支え、育てた。同社スキー部監督退任後は、スキージャンプの国際飛型審判員として、日本スキー連盟に貢献。 2004年6月8日東京都内の病院にて死去。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。
板垣 宏志(いたがき ひろし、1945年4月27日 - )は… 板垣 宏志(いたがき ひろし、1945年4月27日 - )は、北海道出身の元ノルディック複合・スキージャンプ選手。北海道小樽潮陵高等学校、明治大学商学部卒業後、国土計画入社。 1968年グルノーブルオリンピックから3大会連続出場。グルノーブルオリンピックは複合で出場し、得意のジャンプで2位につけたがクロスカントリーでは30位のタイムでトータル10位。 1972年札幌オリンピックでは笠谷幸生、金野昭次、青地清二、藤沢隆らと共に“7人の侍”と呼ばれたジャンプメンバーの1人で、70m級ジャンプは前日にメンバーが7人から4人に絞られ出場できなかったが、90m級ジャンプでは70m級銅メダルの青地に代わって出場。
金野 昭次(こんの あきつぐ、1944年9月1日 - 201… 金野 昭次(こんの あきつぐ、1944年9月1日 - 2019年9月5日)は、北海道札幌市西区出身の元スキージャンプ選手。母方の血縁に大倉山ジャンプ競技場初代バッケンレコード保持者の浜謙二がいる。 小学3年生の時にスキージャンプを始める。北海高校から日本大学に進学し、同大スキー部監督の八木祐四郎の指導を受ける。卒業後は北海道拓殖銀行に入行。 1968年グルノーブルオリンピックで五輪初出場。しかし、70m級で24位、90m級で20位に終わる(4年後に札幌オリンピックの開催が決まっていた日本は、この大会に過去最高の62選手を送り込んだが、メダルはおろか6位入賞すら果たせなかった)。 1972年の札幌オリンピックで2度目の五輪出場を果たし、70m級で銀メダルを獲得。
笠谷 幸生(かさや ゆきお、1943年8月17日 - 202… 笠谷 幸生(かさや ゆきお、1943年8月17日 - 2024年4月23日)は、日本のスキージャンプ選手。 北海道後志支庁余市郡大江村(現・仁木町)出身。余市高校、明治大学を卒業。ニッカウヰスキーに所属していた。2003年紫綬褒章。2018年文化功労者。兄は同じくスキージャンプ選手の笠谷昌生。 4歳の頃から遊びとしてジャンプを始める。仁木中学校3年生の頃には兄に連れられて羽幌炭鉱、明治大学合同の合宿に参加、ここで大人顔負けのジャンプを見せ、「仁木から(兄に続いて)再び神童が現れた」と言われた。 1959年に北海道余市高等学校に入学するがスキー部の方針で高校選手権に出場できず、その怒りを闘争心に変えてこのシーズンのあらゆる大会の少年組を勝ち続けて翌1960年の新潟県高田市(現・上越市)での全日本選手権に出場、この大会で3位に入ったほかこの年から海外遠征をこなすようになり、1963年2月22日の第2回STV杯ジャンプ大会では日本人2人目の100mジャンパーとなる(同大会で直前に菊地定夫が初の100mジャンパーとなっている)など一気に日本を代表するジャンパーへと成長を遂げた。
藤沢 隆(ふじさわ たかし、1943年2月7日 - )は、1… 藤沢 隆(ふじさわ たかし、1943年2月7日 - )は、1960年代に活躍した北海道余市郡余市町出身の元ノルディック複合及びスキージャンプ選手。余市高校、早稲田大学を経て国土計画に所属。 1964年のインスブルックオリンピックにノルディック複合の選手として出場し、個人20位の成績を残した。 1966年にノルウェーのオスロで行われたノルディックスキー世界選手権個人90m級(現在のラージヒル)でビョルン・ヴィルコラに次ぐ銀メダルを獲得、世界選手権で日本人初のメダリストとなった。同選手権の70m級(現在のノーマルヒル)では16位。 1968年のグルノーブルオリンピックにスキージャンプの選手として出場。
益子 峰行(ましこ みねゆき、1942年8月6日 - )は、… 益子 峰行(ましこ みねゆき、1942年8月6日 - )は、北海道出身の元スキージャンプ選手。 札幌商業高等学校-駒澤大学-北海道拓殖銀行 札幌オリンピックでは代表に選ばれ、開会式で旗手を務めたものの競技では出番はなく、チームマネージャー的な役割を果たした。1974年ノルディックスキー世界選手権代表となり70m級31位だった。 札幌オリンピックで補欠に決まった後、笠谷幸生のサポートに徹して、殺到するカメラマンとの距離を作り金メダルの陰の立役者となった。笠谷とは青森での大会で日本酒とメザシを肴に打ち解け、以来「あの笠谷さんが唯一いうことを聞いた人」と呼ばれた。
青地 清二(あおち せいじ、1942年6月21日 - 200… 青地 清二(あおち せいじ、1942年6月21日 - 2008年8月14日)は、北海道小樽市出身の元スキージャンプ選手。
松井 孝(まつい たかし、1940年2月27日 - )は、日… 松井 孝(まつい たかし、1940年2月27日 - )は、日本の元スキージャンプ選手。 北海道小樽市出身。小樽潮陵高校-早稲田大学-羽幌炭鉱。 1960年のスコーバレーオリンピックに出場し30位。1962年のノルディックスキー世界選手権ザコパネ大会では65m級21位、90m級25位。同年のユニバーシアード冬季大会では5位入賞を果たした。
安達 晟(あだち あきら、1939年5月3日 - 2020年… 安達 晟(あだち あきら、1939年5月3日 - 2020年7月25日[要出典])は、北海道余市町出身の元ノルディックスキー(スキージャンプ)選手、スキー指導者、スキージャンプ審判員。 北海道余市町大川町出身。北海道余市高等学校ではスキー部に所属。在学中、ジャンプ競技では、2年生時に全道スキー大会純ジャンプ2位、全国高等学校スキー大会2位、3年生時に全国高等学校スキー大会2位の成績を残す。 1958年(昭和33年)、札幌鉄道管理局(国鉄北海道支社、現在の北海道旅客鉄道鉄道事業本部に相当)に入社。札幌鉄道管理局スキー部に入部した。当時の札鉄スキー部は、純ジャンプに秋葉信夫、大内誠一、 距離競技では工藤誠二、谷口明見(ノルディック複合、オリンピック3回出場)らの有力選手を擁していた。
笠谷 昌生(かさや あきお、 1935年1月14日 - 2… 笠谷 昌生(かさや あきお、 1935年1月14日 - 2009年2月18日 )は、北海道後志支庁岩内郡岩内町出身のスキージャンプ選手。北海道余市高等学校卒業後明治大学に進学、4回生のときスキー部主将を務める。実弟に札幌オリンピック金メダリストの笠谷幸生がいる。 ジャンプを始めたのが高校入学直前と非常に遅かったが、それからわずか2年で大人達を打ち負かす活躍を見せ「神童」と呼ばれた。当時は余市高校スキー部黄金時代でインターハイでは同僚久蔵が優勝し早稲田大学へ、笠谷は明治へ、青山選手は日本大学へとそれぞれ進学し、各大学のスキー部主将に就き、ライバルの関係は大学入学後も続いた。主将時には自衛隊員から大学生へ進路変更した距離の年配の小西がいたが、部内では統率力を発揮し、ノルデックの部は完全優勝を果たし、インカレ総合優勝に導いた。
江遠 要甫(えとお ようすけ、1934年5月10日 - )は… 江遠 要甫(えとお ようすけ、1934年5月10日 - )は、長野県飯山市出身の元ノルディック複合、スキージャンプ選手。 明治大学卒業後、長野営林署に勤務。 ジャンプでは長野県出身者として初のオリンピック代表となった。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
佐藤 耕一(さとう こういち、1931年9月21日 - )は… 佐藤 耕一(さとう こういち、1931年9月21日 - )は、1950年代に活躍した日本の元ノルディック複合、スキージャンプ選手。北海道小樽市出身。 旧制小樽中学(現:北海道小樽潮陵高等学校)-明治大学卒業後、クロバー乳業入社。1958年会社合併により雪印乳業に移籍。 1956年コルチナ・ダンペッツオオリンピックでは2種目に出場、ノルディック複合で33位、ジャンプで39位の成績を残した。 1960年スコーバレーオリンピックではジャンプで22位。 1955年第33回全日本スキー選手権複合優勝。1959年第37回全日本スキー選手権ジャンプ競技優勝。
吉沢 広司(よしざわ ひろじ、1931年5月5日 - 201… 吉沢 広司(よしざわ ひろじ、1931年5月5日 - 2013年4月7日)は、北海道小樽市出身の元スキージャンプ選手。 ジャンプの名門北海道小樽潮陵高等学校で本格的にジャンプを始め、早稲田大学教育学部卒業後、同和鉱業で競技を続ける。冬季オリンピックに2回連続で出場した。 初出場の1952年オスロオリンピックでは36位タイ。旗手を務めた1956年コルチナ・ダンペッツオオリンピックでは1本目9位に付けたものの2本目18位で結局13位に終わった。 全日本スキー選手権を1953年第31回、1955年第33回、1958年第36回、1960年第38回と合計4回制している。
藤沢良一(ふじさわ りょういち、1927年5月25日 - )… 藤沢良一(ふじさわ りょういち、1927年5月25日 - )は、北海道小樽市出身で1950年代に活躍した日本の元クロスカントリースキー、ノルディック複合、スキージャンプ選手。小樽水産高校から明治大学を経て松尾鉱山。1998年の長野オリンピックでは、聖火リレーの走者を務めた。
川島 弘三(かわしま こうぞう、1926年9月26日 - )… 川島 弘三(かわしま こうぞう、1926年9月26日 - )は、北海道小樽市出身の元スキージャンプ選手。 スキーの名門旧制小樽中学(現:北海道小樽潮陵高等学校)入学時は野球の選手で1年からセカンドのレギュラーとなったが、3年の冬にスキー部へ移り本格的にジャンプを始める。戦後明治大学に進学し、1948年の全日本学生スキー選手権大会(インカレ)で優勝、1952年のオスロオリンピック代表(42位)。
中村 圭彦(なかむら きよひこ、1926年 7月26日- 2… 中村 圭彦(なかむら きよひこ、1926年 7月26日- 2008年 3月25日)は、日本の元スキージャンプ選手、指導者、スキージャンプ台設計の世界的権威。札幌生まれ。 母方の叔父にガルミッシュ=パルテンキルヒェンオリンピックスキージャンプ代表の龍田峻次、札幌オリンピックでジャンプ競技委員長を務めた龍田鳳三の兄弟。叔父の影響で札幌一中(現在の札幌南高校)の時本格的にジャンプ競技を始め、1949年の全日本選手権で5位入賞。 現役を退いた後1957年から小樽市内の小中学生を対象にジャンプ学校を開いた。その教え子に板垣宏志や青地清二らがいる。1959年に小樽スキー連盟理事となり、1972年の札幌オリンピックではジャンプ競技副委員長を務めた。
久保 登喜夫(くぼ ときお、1921年10月2日 - 194… 久保 登喜夫(くぼ ときお、1921年10月2日 - 1945年4月28日)は、北海道小樽市出身の元スキージャンプ、ノルディック複合選手。大日本帝国海軍軍人。神風特別攻撃隊隊員として戦死した悲劇のジャンプ選手として有名である。 1921年10月2日に北海道小樽市で生まれた。実家近く(小樽市奥沢・眞栄地区)にゲレンデが多かった影響もあり、少年時代よりスキーの才能を開花させた。1935年に旧制小樽中学(現・北海道小樽潮陵高等学校)入学後は、校内にジャンプ台・山小屋風ヒュッテ・夜間照明など恵まれた環境を活かし、メキメキ実力を上げていった。そして4年生だった1939年の第17回全日本スキー選手権大会ノルディックスキー・スペシャルジャンプ少年の部で65.5m,60mのジャンプを見せ、総合点222.5の成績で優勝を果たした。
龍田 峻次(たつた しゅんじ、1914年12月23日 - 1… 龍田 峻次(たつた しゅんじ、1914年12月23日 - 1991年1月1日)は、北海道小樽市出身の元スキージャンプ選手。「竜田」という表記もあり。 旧制小樽中学(現:北海道小樽潮陵高等学校)を経て、早稲田大学専門部商科卒業。 1936年のガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックに出場し、73.5m、77.0mを飛ぶがいずれも転倒、46位に終わる。2本目の77.0mはこの大会最長の飛距離だった。 引退後はスコーバレー・グルノーブル両オリンピックでスキーチームの監督をつとめ、その後も全日本スキー連盟の常任理事を務めるなど、スキー界に携わった。実弟の龍田鳳三も元ジャンパーでスキー連盟常任理事などを歴任。
宮嶋 巌(みやじま いわお、1914年5月2日 - 2005… 宮嶋 巌(みやじま いわお、1914年5月2日 - 2005年6月21日)は、北海道小樽市出身のスキージャンプ選手。宮島の表記もある。 旧制小樽中学(現:北海道小樽潮陵高等学校)4年時にジャンプを始めた。中学卒業後、小樽高等商業学校(現:小樽商科大学)に進む。 高等商業学校在学中の1936年にガルミッシュ・パルテンキルヒェンオリンピックに出場、31位だった。本人は「恥ずかしいばかりの成績」と不本意な結果だった。 当時主流だった両腕を前に伸ばして前傾するフォームではなく、現在において主流になっている両腕を身体に添えるフォームを用いていたという。
安達 五郎(あだち ごろう、1913年1月1日 - 1999… 安達 五郎(あだち ごろう、1913年1月1日 - 1999年9月13日)は、1930年代に活躍した日本の元スキージャンプ選手。 1913年、北海道余市郡赤井川村出身で牧場を営んでいた安達正平(のちに第17代赤井川村村長)の5男として生まれる。旧制小樽中学(現:北海道小樽潮陵高等学校)- 鉄道省札幌鉄道局(札鉄、現・JR北海道鉄道事業本部)、伊黒正次は旧制小樽中学の同期生である。 オリンピックに2大会連続で出場、19歳で出場した1932年のレークプラシッドでは8位に入賞するも、1936年ガルミッシュ=パルテンキルヒェンでは45位と振るわなかった。1936年のホルメンコーレン大会では3位に入賞している。
関口 勇(せきぐち いさむ、1910年10月28日 - 未詳… 関口 勇(せきぐち いさむ、1910年10月28日 - 未詳)は、北海道小樽市出身の元スキージャンプ、ノルディック複合、アルペンスキー選手。 旧制北海商業学校 → 札幌鉄道管理局 → 北海道帝国大学若労会 中学時代からジャンプの選手として知られ、卒業後はノルウェースキー連盟副会長のオラフ・ヘルセット中尉の指導を受けた。飛型の美しさには定評があり、日本で初めて本場北欧のジャンプを身につけた選手と言われる。1930年の第8回全日本スキー選手権大会ジャンプ競技で優勝。1932年レークプラシッドオリンピックの日本代表に選出されるが、大会直前に病気で途中帰国した。 その後ノルディック複合に転向し、1935年の全日本スキー選手権大会ノルディック複合で優勝、翌1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピックの代表に選出される。